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2010年11月28日 (日)

『文藝春秋』懸賞小説 佐佐木茂索のいない直木賞・芥川賞。つまり、冴えない普通の企画。

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 直木賞と芥川賞が始まったのは昭和10年/1935年です。何の前ぶれもなく突然始められた画期的な新企画! ととらえることもできますが、そのまえにいくつかの予兆があった、と見るのが、いまでは一般的かと思います。

 まあ、一般的かどうかは異論がありそうですけど。

 少なくとも、直木賞・芥川賞は最初、やや混乱したかたちでスタートしたのは確かでしょう。混乱といいますか、混合といいますか。「半分は同人誌の人のため、半分は懸賞で文壇に出たいと思う人のため」のものであった、ってことです。

 そうです、両賞には懸賞小説の側面もありました。となると、先立つこと約10年前に行われたこの懸賞を、直木賞・芥川賞の原型と見なすのは、自然な流れです。

 鳥居玲さんも、「文士から実業家へ――佐佐木茂索の生きた道」(『近代文学研究と資料』4号[平成22年/2010年3月])で、そんな指摘をされていましたもんね。直木賞・芥川賞は、『文藝春秋』が2回やってポシャった懸賞小説企画の、課題を解決した姿でもあった、と。

【『文藝春秋』懸賞小説当選作・候補作一覧】

 大正14年/1925年のことです。『文藝春秋』11月号に、懸賞小説募集の記事が載りました。

 なぜ文春がこの時期に懸賞募集をするのか。そんな説明が、いかにも文春っぽい、投げ出しぎみの文章で併記されていますので、全文引用しておきます。ちなみに、文春最初の懸賞小説募集、だったそうです。

懸賞小説募集

 文藝春秋社選

甲一篇 弐百円(正月号掲載)

乙一篇 五拾円(掲載期当方随意)

 締切 十一月末日 枚数 三十枚まで

 特典。当選者は、今後本誌寄稿家として雑文創作の発表に便宜を計るべし。

同人雑誌丈では、容易に新しい作家が紹介されない憾があります。それと対応する手段として、懸賞小説募集をやってみます。昔、「太陽」の懸賞募集にて、多くの新進作家が世に出たように、今度の企てゞ新しい作家が紹介されゝば無意義ではないと思います。都合で、今後もやるかも知れません。尚、問い合せには一切応じません。あんまり自信のない作品を以て、応募せられることは、お断りします。」(『文藝春秋』大正14年/1925年11月号より)

 原型な感じ、ありませんか? 「特典」のところとか。そうだそうだ、直木賞・芥川賞も、規定のなかでハッキリと、受賞者に作品発表の権利が与えられていたよなあ、と思い出させてくれます。

 それと、新しい作家を求めてやまん、ってところ。大正14年/1925年ごろも、昭和10年/1935年前後も、世には同人雑誌ってのがたーくさんあって、若い連中が熱い文学熱を沸かしていました。でも、それだけにとどまって、なかなか新人が出てきづらい状況があるんだよね。……といった“文壇観”を、文春は大正末期から持っていたんですね。

 さらに、もう一つ気がつくことがあります。

 文春の懸賞小説は、上記の募集と、その結果が出たあとの大正15年/1926年6月号でもう一回「第二次」募集(8月末日締切り)、計二度行われました。11月締切りと8月締切り。ええ。ぴったり一年ごと、じゃあないんです。思いついたから、すぐやっちゃう。キリがいい悪いなんて関係ないぜ、って感じの募集なんですよね。

 この時期、社のトップは菊池寛さん。『文藝春秋』編集長は、菅忠雄さんでした。

 「新人出でよ」の機運はわかりました。じゃあ肝心の結果はどうだったでしょう……。期待したほどじゃなかった、みたいです。次の文章を読むと、残念な感じがひしひし伝わってきます。

「懸賞小説は、漸く選を了った。(引用者中略)結果は、遺憾ながら失望した。或る程度までは達しているが、我々に感激を起させる程のものは無かった。所謂新進作家と拮抗し得るものも少かった。」(『文藝春秋』大正15年/1926年3月号 菊池寛「懸賞小説について」より)

「先に募集した懸賞小説のうちで当選した分は、皆何れも相当な好評を博した。が、夫等は唯相当な好評を博したというだけで、堂々その真価を以て文壇を信服せしめ圧服せしむる作品が出なかったことは残念である。我々は、隠れたる多くの作家のうちから、現在の文壇に新鮮なる空気を捲き起こし、新機運を醸生せしむるが如き若き天才作家の出現を待つものである。」(『文藝春秋』大正15年/1926年6月号 「第二次懸賞小説募集」より)

 と、ここまで煽って二次(第2回)の懸賞をやっておいて、その結果もまた以下のとおり。

「先に募集した懸賞小説は、その応募数一千二百余篇に達したが、成績から云えば、前回よりもその質に於いて劣る所がある。」(『文藝春秋』大正15年/1926年12月号 「懸賞小説予選に就いて」より)

 愚痴愚痴と、不出来ぶりを嘆いています。

 あれ、こんな文章どこかで読んだことあるなあ。と思ったら、第1回・第2回の直木賞・芥川賞のとき、原稿を募集しておきながら、その寄せられた作品が大したことがなくて嘆いていましたっけ、それとほとんど同じです。

 大正15年/1926年と昭和10年/1935年。どちらの時期も、おそらく文藝春秋社は、新人作家を待望していました。あるいは、世間の文学青年たちから発せられる、世に出たい世に出たいんだぜ、と言わんばかりの悶々とした空気を、しっかり感じ取っていました。

 大正末期のときは、それを懸賞小説を企画することで、応えようとしたわけです。さらに言えば、引き続いて、その流れで、

「新進作家無名作家に就いて、発表機関提供する意味で、近く創作専門の純文芸雑誌を発行する予定である詳細は追って発表する。」(『文藝春秋』大正15年/1926年9月号 「本社の新計画」より)

 ってなふうに、新雑誌創刊、の方向に進んでいきます。これがかたちになるのは、昭和3年/1928年3月でした。『創作月刊』を創刊します。二次懸賞小説に応募されたうちのいくつかを、この雑誌に載せていく、って発想がこの創刊の裏にはありました。

 ただ、残念無念。思いは強くても、この試みは失敗しちゃいます。わずか一年数ヶ月で、

「6千部刷って半分しか売れない為、先きの見込みなしとして廃刊した。」(『文藝春秋三十五年史稿』「年誌」内の「余録 「創作月刊」廃刊」の項より)

 バッサリ打ち切り。どうして失敗したんでしょうね。編集に就いたのが、「編集者としては無能」呼ばわりされた斎藤龍太郎さんだったからでしょうか。その下で働いた永井龍男さんが、うまく編集能力を発揮できなかったからでしょうか。わかりません。

 その後、昭和4年/1929年途中から、佐佐木茂索さんが入社して、文春大改革が行われます。なあなあ、や、いい加減が許されなくなりました。魅力ある企画はそれだけでは価値がないのだ、売れる企画にしなければ駄目なのだ、の路線が敷かれます。

 そして昭和9年/1934年。菊池寛親分が、生来のひらめきグセを発揮して、直木賞・芥川賞のアイデアを思いつきます。

 問題は、そのアイデアを受け取った下の人たちがどうしたか、です。大正のころの編集者なら、言われるまま、懸賞募集を行ったことでしょうね。最初、菊池親分は、直木賞・芥川賞を原稿募集の賞にしよう、としか考えていなかったのですから。

 ただ、茂索さんは違いました。どうしたか。ちょっと待ってよ親分。それだけじゃイマイチだ。ってえんで、新聞記者たちを集めて、意見を聞きました。そこから挙がったアイデアのひとつ、「すでに雑誌に発表された作品も、選考の対象にしたら?」っていう意見に、面白い!と反応。直木賞・芥川賞の基本的な性格として、それを盛り込みました。

 むむ。デキるな、茂索。

          ○

 文春の懸賞小説は、たった2回で終わりましたが、後世に「二大エピソード」ってやつを残しました。

 その二つとも、のちに直木賞・芥川賞と、微妙に交差していくエピソードなんです。こりゃ楽しいじゃありませんか。

 一つ目の主人公は、山本周五郎さんです。

 じっさい、周五郎さんの懸賞当選作「須磨寺附近」をめぐるハナシだけで、諸説が入り乱れていて、本人の語ること、周辺の証言、事実関係がいろいろ違っていたり、と話題に事欠きません。

 「山本周五郎」のペンネームは、ほんとうに文藝春秋の受付係がミスって発表してしまったことが発端なのか、とか。

 懸賞募集とは言っても、周五郎本人は応募したつもりなどなく、菊池寛に持ち込んだ原稿を、当選作として組み込まれてしまっただけだ、っつう説は正しいのか、とか。

 いまだに決定的物証が挙がらず、推論ばかり飛び交う事態になってしまいました。当時の『文藝春秋』編集担当にも、責任の一端はありそうです。

 編集担当のせいにするのは酷かもしれません。当時の文春特有の、いい加減さのせい、と言い換えておきましょう。

 周五郎さんとともに、第一次の懸賞で当選して、50円の賞金を受け取った人たち、少なくとも他に3人います。力石平三さん、阿川志津代さん、田島準子さんです。みな、当時の住所(おそらく投稿時に差出人として記載してあった住所なんでしょう)は判明しています。作品が掲載された号の編集後記に、律儀に、住所と氏名が紹介されているからです。

 ははあ、南條範夫さんが若かりし頃、山口に住んでいたとき、仲のよかった近所のお姉さんというのは、田島準子さんなんだな。とか、そんなプチ・トリビアが、ここにはひそんでいたりします。

 なのに、山本周五郎さんの場合は、この住所・氏名の紹介がありません。なので、持ち込みなのか投稿なのか、住所に何と書いてあったのか、誌面に残っておらず、結果いろいろ言い出す人が出てきちゃうわけです。

「山本(引用者注:山本周五郎)の直話によれば、当時、自分の本拠はあくまで木挽町六丁目二番地の「きねや」質店だと考えていたので、住所を木挽町、山本周五郎方清水三十六と書いて投函したところ、文藝春秋の受付係が事務処理を誤ったのか、作者名を山本周五郎として発表してしまったので、以後そのままペンネームとした、と語ったものだが、終生の恩人である「きねや」質店主の名をペンネームとすることで、自戒の念をつねに自らに刻みつけようとしたのでもあったろう(秋山青磁も同様に解釈している)。

 また今井達夫は、あるいは作者自身の意識的な操作で、最初から清水三十六という本名は書き込まなかったのではないか、「大いにありそうなことだ」という。関西時代の清水青年がすでに“山本周五郎”を雅号としていたことは、木村じゅん、木村一正、寺田新らの語るところであり、文壇登場に当たって、ふたたび“山本周五郎”を名乗ったとも考えられる。」(平成12年/2000年3月・アールズ出版刊 木村久邇典・著『山本周五郎 上巻』「青年時代 十一章 処女作『須磨寺附近』発表のころ」より)

 ここには伝聞と推測しかありません。

 同書において木村久邇典さんは、他にもいろいろと推論を提示されています。

 その一つに「須磨寺附近」がどのようにして菊池寛の手もとに渡ったのか、の問題が出てきます。

 周五郎さんは後年、河盛好蔵さんとの対談で、こう語ります。「須磨寺附近」は、神戸に住んでいるときに、たまたま大阪にやってきた菊池寛に会いに行って、原稿を売り込んだものだ。が、菊池の野郎、自分ひとりの判断ではどうにもできないから『創作月刊』に回してあげよう、などと言いやがった。それをおれは断ってやったものだ。と。

 その証言に木村さんは疑問符を投げかけました。時期的にも合わないし、おそらく周五郎の記憶ちがいだろう、でも若いころ菊池寛に売り込みに行って、不首尾に終わったのは事実だろう、と推測します。

 そして、嬉しいことに、つづけて直木賞に関することにも、筆をのばしてくれちゃいます。

「山本はある意味で、粘着質の執念ぶかい一面を、かなり濃厚に持っていた。大正末期の時点で菊池寛という文壇の大ボスと、山本青年の存在とを比較するならば、月とすっぽん以上の開きがあり、菊池の眼中になぞない小童同然だったと考えられる。しかし、己れにツレなくあたった菊池の扱いを、山本は決して忘れるはずはなかった。昭和十八年、第十七回直木賞に推された山本周五郎が、ニベもなくこれを一蹴するのは、おそらく、大正末期の、菊池が山本に示した仕打ちが、一つの原因をなしていただろうと想像される。」(同書同章より)

 だははは。直木賞に先んじんて、思いつきみたいなかたちでチョロっと実施した懸賞募集が、めぐりめぐって、周五郎の直木賞辞退劇につながってしまっているんだとしたら。江戸の仇を長崎で討つ、と言いますか。……って、表現ちょっと間違っていますか。

          ○

 二大エピソードの二つ目。こちらの主人公は、小林多喜二さんです。

 多喜二といえば、芥川賞のしょっぱなで、菊池寛さんのもらしたこんな言葉が有名です。

「芥川賞、直木賞は割合、各方面の歓迎を受けたようで満足である。たゞ、芥川賞の委員が偏していると云う非難をした人がいるが、あれはあれでいゝと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少くとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である。その方が、所を得ているのである。プロレタリヤ文学の傑作のためには、小林多喜二賞と云ったようなものが、創設されてよいのである。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年2月号「話の屑籠」より)

 その10年前、芥川賞がまだ影もかたちもないころ……それどころか、まだ芥川龍之介が『文藝春秋』の巻頭でブイブイ言わせていたころ、多喜二さんは何をしていたでしょう。投稿青年だった多喜二の眼は、文春の懸賞小説を、はっきりとらえていました。

 当時、『創作月刊』の編集者をしていた永井龍男さん、語ります。

「文芸春秋がその頃懸賞小説を募集し、当選作なしとして、棚に埃りまみれになっていた予選通過の数篇の短篇小説を、たまたま私は一読し、「郷 利基」といふ人の作品に感動して作者の許可を得、「創作月刊」に発表したことがあった。それが小林多喜二氏の一習作であったことは、数年してから知った。」(昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書 永井龍男・著『酒徒交伝』所収「文芸春秋の頃」 ―初出『文學界』昭和27年/1952年4月号)

 ほんとかよ。……と、周五郎さんの対談記事に突っ込んだ木村久邇典のごとく、思わずツッコみたくなる記述だよなあ。

 まず、「数年してから知った」はオーバーじゃないの? 郷利基・名義の「最後のもの」を掲載した2か月あとには、『創作月刊』に「瀧子其他」を寄稿してもらっているんだから。

 それと、この文章だと、あたかも永井さんが独断で、誰からの指示もなしに、予選通過作をあさって一人で発掘した、みたいなことになっているけど、これもちょっと怪しいなあ。

 『創作月刊』って雑誌は、構想は大正15年/1926年から挙がっていました。誌名を公募するだの、応募作のなかにいいのがなかったので自分たちで誌名決めましただの、創刊予定から大幅に遅れに遅れただの、世に出るまで1年半ぐらい社内でゴタゴタしていた時期があります。ただ、雑誌の性格としては、前に引用したように、無名・新進作家の作品をドシドシ紹介するものにしよう、っつうのは決まっていたんですよね。永井さんが文春に入社する前から。そのころにはすでに、『創作月刊』には懸賞小説のなかから何篇かを載せる、ってハナシもあったはずなんです。

「先に本誌で募集した「懸賞小説」は、その後審査したが、前回よりも遥かに成績が良くない。近々厳選の上当選者を本誌で公表するが、作品は「創作月刊」で発表する筈である。」(『文藝春秋』昭和2年/1927年2月号 「『創作月刊』に就て」より)

 永井さんって回想を書くにあたっても、自然とハナシを面白く書いちゃう能力に長けていたのね、ってことなんでしょう。きっと。

 で、小林多喜二さんです。

 第二次募集で予選を通過した「最後のもの」「酌婦」を持ち出すまでもありません。それより前、第一次募集のときも、文春に投稿していたんじゃないか、って思わされるんです。確証はありませんけど。

 第一次募集には、『クラルテ』仲間の武田暹さんも作品を送っていて、選外佳作の一人に選ばれている、っつうのも状況証拠のひとつなんですが。その選外佳作のなかに、「田口タキ子 「曖昧屋」」が入っているんですもの。これって多喜二作じゃないのかと思いますよね、ふつう。

 新日本出版社版の全集1巻の解題には、こうあります。

曖昧屋

 原稿帳にのこされているノート稿、青木文庫版全集第十巻に収録された。稿末に「一九二五・一一・一九夜、背水の陣」と記されている。この稿は、一九二六年八月作の「酌婦」(全集第七巻収録)、一九二八年三月作の「瀧子其他」の原型である。」(平成5年/1993年4月(新装版第五版)・新日本出版社刊『小林多喜二全集 第一巻』「解題」より)

 大正14年/1925年11月でしょ。文春懸賞小説の第一回目の締め切りが11月末日。ほら、時期はぴったり重なりますし。なによりペンネームが「田口タキ子」ですし。

 もし、佐佐木茂索さんが、もっと早くに『時事新報』を辞めて、創作にも見切りをつけて、文藝春秋社の運営に当たっていたとしたら……おそらく、文春の懸賞小説も違ったものになっていたかもしれません。ひょっとして、直木賞・芥川賞の代わりに今にまで続くような文学賞をつくってくれていて、その最初のころの受賞者に「山本周五郎」とか「小林多喜二」とかの名が、刻まれていたかもしれません。

 って言うのは、ちと妄想しすぎですか。いや、茂索さんの力を買いかぶりすぎですか。

 でも、つくづく思うんです。文春の文学賞は、茂索さんがいるといないとでは、全然ちがうんだな、って。菊池寛親分は、最初に言うだけ言って、それで満足しちゃう人だったんだろうな、って。

 懸賞小説せっかく始めたのにたったの二回。とくに二回目は尻すぼみで雲散霧消。ひきつづきつくった雑誌も二年もたずに廃刊。ああ。直木賞・芥川賞の原型ではありましょう。ありましょうが、完成型との違いをまざまざと感じる原型、なのでした。

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