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2010年11月 7日 (日)

『早稲田文学』推讃之辞 褒めるにあたってお金など必要なし。

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 日本における最初の文学賞は何か。……といった問題があります。「今度の直木賞、だれがとるかなあ」と関心を抱いている多くの人たちにとっては、どうでもいい問題です。

 正直、ワタクシにもよくわかりません。

 つまりアレです。世界最初の推理小説は何か、みたいなもので。ポーでしょ、いやディケンズだ、何をいう、ン千年前の聖書のなかで、すでに推理小説は書かれていたじゃないか、とかいう泥仕合の雨あられ。文学賞起源論争(?)も、まさにそんな感じです。

 直木賞と芥川賞は昭和10年/1935年にできました。むろん、それ以前にも日本には文学賞がいくつもあったわけです。ちょいと、両賞(とくに直木賞)の起源をたどる小旅行、とシャレ込みましょう。

 本日のお題はこちら。『早稲田文学』推讃之辞です。

【『早稲田文学』推讃之辞一覧】

 大変残念なことに、歴史的にみまして、直木賞の起源を真剣に考えてきた人はあまりいません。ただ、芥川賞のそれなら、ハナシは別です。代表的なもので言うと、小田切進さんの「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」(昭和58年/1983年7月・文藝春秋刊『芥川賞全集・別冊 芥川賞小事典』所収)があります。

 まず小田切さんは、文学賞を2つ(ないし3つ)に分類しています。

「よく知られているように、文学賞は大別すると、芥川・直木賞のように、無名または新進作家のなかですぐれた独創的な作品を発表した者を選び、これを世に出すために制定された新人賞とも言うべき文学賞と、もう一つはその年度の傑出した文学作品におくられる殊勲賞、功労賞とも言うべき文学賞がある。(引用者中略)もう少し厳密に言えば、その中間に、すでに一家を成しているかどうかは問わずに、注目すべき業績を挙げた者に与えられる文学賞もある。」(「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」より)

 仮に「1.新人賞」「2.功労賞」「3.業績賞」と名づけておきましょうか。

 ここで小田切さんは「1.新人賞」と「2.功労賞」について、その発生過程を説明しています。

 「1.新人賞」の祖先は、明治時代に始められた各新聞・各雑誌の懸賞小説なんだよね、っつうわけです。そうなると、自然と「懸賞より早く雑誌の投稿欄や投書雑誌のようなものがあったのを、文学賞の淵源と見るべきなのかもしれない」といったような説にたどりつくのも、うなずけます。

 問題は、「2.功労賞」に関する記述。

「もう一つの功労賞、殊勲賞の性格をもつ文学賞も、明治中期に遡ることができる。瀬沼茂樹はその先蹤として、明治四十一年以降に『早稲田文学』が毎年、前年度の「其の成就する所最も大なりきと認むる各部面の文芸の士」を選んで掲げた「推讃之辞」を挙げている(「文学賞をめぐる諸問題」)。(引用者中略)賞金や記念品、授賞式などはいっさいなくて、ただ「謙虚の情を捧げ、推讃の意」を表するだけだったが、当時は『早稲田文学』が文壇の代表的な雑誌だったところから、権威あるものと見られた。」(同「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」より)

 たしかに。慎太郎ブームさめやらぬ昭和35年/1960年に、瀬沼茂樹さんが『文学』誌上に「文学賞をめぐる諸問題」(昭和35年/1960年2月号、3月号、5月号)を載せ、そこで明治後期~末期の「推讃之辞」に言及しているのは、すばらしい視点だと思います。

 ただし、小田切さんも瀬沼さんも、この出だしの仮説がマユツバなんですよねえ。文学賞をまず「1.新人賞」と「2.功労賞」に二分割してしまい、その中間に「3.業績賞」がチョロチョロある、と見立てている。どうも不自然極まりないんすよ。

 だってねえ。『早稲田文学』の「推讃之辞」が、そもそも目指していたのは「2.功労賞」ですか? 違うでしょう。明らかに「3.業績賞」に近いかたちのものでしょう。

 「2.功労賞」の場合、その発想は、「生活保護」みたいなところから出てきたんだと思うんです。先輩作家のなかで何十年も書きつづけている人がいる。でも収入は少ない。生活が苦しそう。そういう恵まれない先輩に、お金でも包んで尊敬の意を表しましょう、と。

 「推讃之辞」からは、そんな敬老精神はうかがえません。ええ、第二次『早稲田文学』のやることですからね、基本、新しモノ好きの連中です。

「過去二十年の小説を支配せし権威は、根柢より其の地を新来者に譲らんとするなり。是れ趣味界の大事変にあらずや。従来といえども、新人は断えず旧人に継いで興れり。唯其の齎すところの新趣今回の如く革命的ならずして修繕的なりしのみ。従って斯界の支配力は常に先進者の手にありき。」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻「推讃之辞」より)

 現代の文学賞ら辺から、さかのぼって物を見るのだとしたら、「推讃之辞」は「3.業績賞」と見るべきだと思います。そして、いま多くの出版社がやっている非公募の文学賞は、ほとんど「3.業績賞」の変形バージョンです。

 では逆に。「3.業績賞」の祖ともいうべき「推讃之辞」ですが、これ自体は、どんな流れのなかから生まれてきたのか。……純粋に考えれば、そりゃおそらく、文芸評論でしょう。文芸時評、と言い換えていいかもしれません。

 とくに文芸時評のなかでも、年間回顧モノ、っつうのがありました。今でもあります。年の暮れとか年明け頃に、一年間の文壇を振り返りつつ、その趨勢を見極めて評論する行為。

 たとえば、最初の「推讃之辞」は明治40年/1907年度を対象としていましたが、この当時も、各紙誌には年間回顧の時評が載っていました。『早稲田文学』がまとめた「明治四十年文藝界一覧」の一月の項には、こんな記述があります。

「●諸新聞雑誌に昨三十九年の文壇を評論して新気運の勃興を賛するもの多し」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻より)

 1年を振り返って、どんな作家・どんな作品がよかったか、って活動はすでに、いろんなところがやっていたわけです。

 ただ、そのままを継承するだけじゃ新しさがない。『早稲田文学』なりの新味を付け加えたものをやりたい。……それが「推讃之辞」のかたちになったんでしょう。「3.業績賞」の始まりです。

 誰の発想だったんでしょうか。やっぱ島村抱月ですかねえ。西洋かぶれですもんね。この「推讃之辞」も、どうやら西洋の行事になぞらえられているわけですし。

 ええ。つまり、日本の文学賞「3.業績賞」の先祖、「推讃之辞」は、西洋のアレをならったらしいです。古代オリンピック。

          ○

 「推讃之辞」が生まれたのは、明治41年/1908年です。その母体『早稲田文学』を率いるバリバリのリーダー島村抱月が、ヨーロッパ留学していたのは、少し前、明治35年/1902年~明治38年/1905年。世紀末から20世紀ほやほやの時期でして、「ベル・エポック=古きよき時代」とか言われたりするそうです。

 そこら辺の時代背景には、ワタクシ、とんとウトいんですけど、少なくとも文学賞に興味をもつ者にとって外せない二大イベントが、この時期にスタートしていることには、つい目が向いちゃいますわな。

 ノーベル賞。そして近代オリンピックです。

 おお。日本の文学賞の起源と、ノーベル賞と、オリンピック。この3つを掛け合わせながら何かを語ってみるのも面白そうです。ただ、現状のワタクシの知識ですと、シッチャカメッチャカになること請け合いです。控えます。

 控えますが、「推讃之辞」と古代オリンピックに関連があるのは事実です。というのも、初年度の「推讃之辞」にはエピグラフが付いてましてね、これがランプリエールによる古代オリンピックの説明だからです。

「"The preparations for these Olympian festivals were great. No person was permitted to enter the lists if he had not regularly exercised himself 10 months before the celebration at the public gymnasium of Elis. (引用者中略) So small and trifling a reward stimulated courage and virtue, and was more the source of great honours than the most unbounded treasures." -- Lemprier」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻より)

 要は、古代オリンピックは出場資格がモロ厳格だってのに、勝ったところで何がもらえるわけでもない。報奨は月桂冠だけ。でも、そのちっぽけな報奨が、どんな富やお宝よりも名誉あるものとされて、出場者はみんなそのために日々鍛錬していたんだってよ。……と言っています。

 「うちの推讃之辞も、そういうものでありたいぜ」って意図だったんでしょう。

「吾人に、贈るべき月桂冠無く、宝器勲章無し。たゞ三氏の名と事業とを紀して、推讃の意を表すという。」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻「推讃之辞」より)

 名誉はカネじゃないんだ。賞品じゃないんだ。と主張したいんでしょうか。

 「推讃之辞」には、賞金も賞品もなかった。言い換えれば、「辞」であることにとどまった。ああ惜しい。あと一歩、あと一歩踏み出しておれば、日本で最初期の「文学業績賞」の地位に、堂々と立てたというのに。褒める、けなす。それであれば、文芸評論とあまり変わらないのですから。

 明治30年代当時の、文藝に対するお金の感覚については、和田利夫さんもじっくり紹介してくれています。そのなかの一節、引用文は永井荷風の「来訪者」からのものです。

「明治三十三四年の頃だと記憶してゐる。石橋思案が文芸倶楽部の主筆であつた時、富豪大倉喜八郎が同誌に好小説を掲げた作家に、賞金五百円を贈ることを謀つた。然るに当時の操觚者は文士を侮辱するものとして筆を揃へてこの事を罵つた。かくの如き文壇の気風は日露戦争後に至り漸次に変化し、大正の初には文士は憚るところなく原稿料の多少を口にするやうになり、震災の頃になつては、文学は現代社会の一職業と見られ、之によつて産を成すものさへあるやうになつた。(引用者注:以上、荷風「来訪者」より)

 「来訪者」の作中人物「わたくし」を作者と見てのことだが、荷風は若干の思い違いをしている。明治三十三、四年の頃というのは、大倉が学校を創立した時期だったし、文士を侮辱するものと罵られたのが大倉だったかの印象を与える書きかたをしているが、これは思案に対してだったからである。」(平成1年/1989年12月・筑摩書房刊 和田利夫・著『明治文芸院始末記』「二、富豪に文芸奨励金を懇請した石橋思案の思案」より)

 ですよね。こんな状況だったんですもの、『早稲田文学』が既成作家に、お金なんか贈呈するのは無理がありますか。しかたなし。

 文学賞とは、かつては文学賞金のことであり、賞とお金とはセットで印象づけられていた、ってハナシは、いつだったか書いたことがありますが、それは昭和初期のおハナシ。文学的な業績を讃するのに「賞=賞金」のかたちにいたるのは、明治ではまだ早かったのかもしれません。

          ○

 げげ。「直木賞のすべて」と名乗っておきながら、今日は全然、直木賞色なしでした。

 最後にひとつ、余計なことを付け加えるとするなら。

 『早稲田文学』の「推讃之辞」は、対象はもろに純文学です。ええと、当時はそんな用語なかったですか。まあ、芸術って観点での小説世界のおハナシです。

「抜き難き現実の真と相剋磨して、全自己の爛るゝが如き刹那を味わんとする現代の芸術慾は、すべての旧きもの、等閑なるものを棄てゝ新より新に移り行く。芸術は如何なる意味に於いても新たならんとすべし。若しくは、自己を如何なる意味に於いても新たならしめんとすべし。吾人は永久に「新」に謳歌す。」(『早稲田文学』大正2年/1913年2月号「推讃之辞」より)

 小難しいですね。芸術の世界は。

 その点、わかりやすさを売りにする直木賞には、まったく結びつきません。

 ただ、文学賞の形式って面ではどうでしょう。

 いまや芥川賞も、「新人賞」というより、そうとう「業績賞」に近づいています。ただ、これの背骨は「新人賞」です。昭和10年/1935年創設のときから。ということは、これの源流が新人賞=懸賞小説あたりにある、と見るのは正しいでしょう。

 問題は直木賞のほうです。現在、そのおもかげを探すのは難しい。創設のときはどうだったか。もちろん芥川賞とペアですから、名目上は「新人賞」です。ただ実態は、「芥川賞は瞬発力、直木賞は持続力を評価する」ってかたちをとらざるを得ませんでした。

 授賞にあたっては実績を加味する。これが直木賞のメインストリームです。新人賞のくせに実績賞? どういうこと、それ。

 ってことで、形式のうえで、直木賞のご先祖様をさがすならば、どうしたって『早稲田文学』「推讃之辞」を見逃すわけにはいかないのでした。

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