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2010年10月31日 (日)

柴田錬三郎賞 注。柴田錬三郎とはとくに関係がありません。

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 まさかとは思うんですが、この世に、「あまり世間の注目を浴びたくない」というコンセプトの文学賞が、あり得るんでしょうか。

 と疑いたくなります。ワタクシたちの目の前に、柴田錬三郎賞があるからです。

 創設は昭和63年/1988年。山周賞・三島賞と同じ時期でした。以来22年、公募新人賞の「すばる文学賞」「小説すばる新人賞」と並んで、集英社三賞の一角を担っています。

 どうですか。このひっそり感。凡百の文学賞の仲間にまじって、存在感を消している感じ。ほんとは柴錬賞ってもっと特異な賞のはずなのに。もう少し注視してあげてもいいのじゃないか、と余計なお節介ゴコロが膨らんできます。

【柴田錬三郎賞受賞作一覧】

 柴錬賞とは何か。……対象はエンタメ小説です。文学文学しているやつは視野に入れません。そりゃそうです。柴田錬三郎さんの名前を借りているんですもの。純文学に対しては恨みがあります。嫌悪感があります。

 新人賞じゃありません。プロ作家として活躍中の中堅どころに与えられます。創設当時、主催者が抱いていたイメージは、このように表現されています。

「傑作「眠狂四郎無頼控」はじめ、不羈の想像力を駆使した数々の作品で、ひろく読者大衆の心をうち、ロマンの新しい地平を切り拓いた故柴田錬三郎氏の名を冠した賞を設け、現代小説、時代小説を問わず、真に広汎な読者を魅了し得る作家と作品を顕彰して、このジャンルの発展を期する。」(『小説すばる』昭和63年/1988年夏季号[6月] 「「柴田錬三郎賞」創設のお知らせ」より)

 うむ。何だかよくわかりませんよね。

 『読売新聞』の記事のほうは、もうちょっとわかりやすく噛み砕いてくれています。

「作品のジャンルは、時代、歴史小説に限らず、広く求める。賞の性格としては、すでにある年功序列を考えた功労賞的なものでなく、新人賞でもなく、現在活躍している作家に与えられる。」(『読売新聞』夕刊 昭和63年/1988年3月31日「柴田錬三郎賞を集英社が創設」より)

 ははは。「すでにある年功序列を考えた功労賞的なもの」って、何を指しているんだ。吉川英治文学賞か。そうか、さすがシバレンの名を借りただけあって、いさぎよいぞな。年功序列なぞクソくらえだ。

 と言ってスタートしたはずの柴錬賞が、20年ぐらいたつと、メッタ斬り!の二人にはこう評されます。

豊崎(引用者注:豊崎由美) 柴錬賞は、橋本治(18回『蝶のゆくえ』)に授賞してますね。面白い賞だなあ。桐野夏生さんに『残虐記』(17回)で授賞したりと、一貫性がない。今回は小池真理子の恋愛小説『虹の彼方』(19回)だし。何でもありな感じの賞ですね。

大森(引用者注:大森望) すでに直木賞をとっている働き盛りのエンターテインメント作家のための賞。小説のジャンルはまったく問わない。」(平成19年/2007年5月・パルコ出版刊 大森望・豊崎由美・著『文学賞メッタ斬り!2007年版 受賞作はありません編』「ROUND5 最新版・文学賞マップ」より)

 現在活躍中のエンタメ作家全般が対象、ってことですからね。一貫性なぞあるわけがないんです。ほんとは。

 でも、大森さんがボソッとつぶやいているように、直木賞作家のために存在する賞、みたいな感じが、たしかに染み込みはじめています。この流れが続いていったとしたら……そんな未来を想像すると、やや身震いしてきませんか。「日本のエンタメ小説界は直木賞をとった人たちだけで出来上がっている」などと勘違いしたまま一生を終える不幸な文壇人をわっさわっさ生み出すんじゃないかと思われてきて、ちと可哀そうな気がするのです。

 柴錬賞って、一般読者層の意向など無視されたところで運営されているわけですし。出版社&編集者&作家たちのことしか念頭にない、ハイパー内向きな賞なわけですし。よほど運営者側が気張らないと、どんどん世間とズレていくでしょうから。

 ほら。選考委員みずからが、こういう思い込みを抱きはじめちゃっている。危ない危ない。

「夜は高輪のホテルの庭園のなかにある一軒家の料亭で、柴田錬三郎賞の選考会。

直木賞をとって10年目ぐらいの作家に与えられる大きな文学賞です。」(ブログ「林真理子 あれもこれも日記」平成21年/2009年10月02日10:40エントリー「柴田錬三郎賞」より)

 「直木賞をとって10年目ぐらいの作家」とかいう基準。怪しげだよなあ。世の中には、直木賞をとっていない作家のほうが多いんですよ、ご存じでしたか。そういう中にも、シバレンの賞にふさわしい、真に広汎な読者に受け入れられる作品や作家はいるでしょうに。

 あ。真理子ねえさん自身の体験が、その思い込みを支えているのか。

「直木賞以来、十年ぶりに大きな賞をいただけることになった。本当に嬉しく、この喜びは日いちにちと大きくなっていくようである。

 私なりに一生懸命仕事をし、何とか大人の作家として認められようと、試行錯誤を繰り返してきた。そのことを見ていてくださった方々がいたと思うと、心から有難い。」(『小説すばる』平成7年/1995年12月号「第8回柴田錬三郎賞決定発表」 林真理子「受賞にあたって」より)

 直木賞・芥川賞みたいな賞から無視されて、それでも腐らずに一生懸命仕事をしている方にも、真理子ねえさん、目を向けてあげてくださいね。

          ○

 柴錬賞が注目を浴びづらい理由。そのひとつは、候補作完全非公開、の統制が敷かれていることです。

 ついこのあいだ、日本SF大賞を取り上げたエントリーでは、それがメインテーマでした。そのときに引用した『産経新聞』の「斜断機」、くどいようですが、もう一度だけ再掲します。

「自己満足の賞といえば、大手の賞、例えば柴田錬三郎賞についても言える。第六回の選考委員の選評(「小説すばる」十二月号)を見てもわかるが、委員たちの選評は受賞した半村良の『かかし長屋』への賛辞だけ。落とした作家や作品の名前がないのだ。この不透明性はおそらく候補作家がみな名を遂げた作家だからだろう。“名誉”のためにあげられないのだ。そんな名のある作家に賞を与える必要もないかと思うが、これは柴錬賞が意識した吉川英治文学賞が昔からしていること。文学新人賞は候補作も選考過程も明らかになるが、文学賞のほうは候補作も選考経過も不明。まるで談合で決めているみたいではないか。(引用者中略)

 自己満足の地方の文学賞と閉鎖的な文学的功労賞。前者は、賞味期限が半年もない新人であり、後者はそろそろ賞味期限の切れかかった大家が賞の恩恵にあずかっている。賞の主催者は文学界を少しでも明るくしようと考えているのかもしれないが、その照明たるや、前者は豆電球なみに弱く、後者はパチンコ店のレーザー照射なみに無意味だ。」(『産経新聞』平成5年/1993年12月8日「【斜断機】自己満足の地方文学賞」より 署名「(家)」)

 おお。文学賞マニアよ。文章のはしばしから、同志のにおいがぷんぷんしてくるぞ。

 ほんとほんと。名が秘されている候補作家たちにも、プライドはあるとは思いますよ。思いますけど、たとえ候補になって落とされて、選評でコテンパンにやられても、なぜそれが名誉を傷つけられたことになるのか、ようわかりません。

 酷評のことを悪口だと短絡的に考える連中がいるから、ですか? ですよねえ、差しさわりのない褒め言葉だけを連ねていれば、だれも傷つかないですものねえ。そんなやり方、シバレンさんは唾棄すると思いますけど。

 もう一発、同紙の「斜断機」から。同じく、候補作非公開を問題視しています。

「ここのところ大きな文学賞、すなわち谷崎潤一郎賞(受賞作は辻井喬『虹の岬』)、萩原朔太郎賞(清水哲男『夕日に赤い帆』)、柴田錬三郎賞(伊集院静『機関車先生』)が発表されたが、読者の知らぬところで候補作が選ばれ、選考が行われ、雑誌にのった選評を見たって、受賞作だけを褒めたたえた文章が並び、どういう経過で他の作品が落ちたのかわからないからである。親しい作家・詩人・評論家が自分と同格の同業者たちの作品を選ぶからだ。いくら公正に選びましたといっても、個人的感情がまったく入らないわけはないだろう。

(引用者中略)しょせん賞などは、同業者同士の権威付けごっこなのである。」(『産経新聞』平成6年/1994年10月12日「【斜断機】果てぬ権威付けごっこ」より 署名「(丸)」)

 ううむ。攻撃のホコ先をそっちに向けちゃいましたか。

 まあ、そうでしょう。柴錬賞なんか確実に、同業者同士の権威付けごっこ、その位置にとどまってしまっています。文学賞のなかでも、最もつまらないかたちです。外野(ヤジ馬を含む)に対して、かたくなに門を閉ざしているからです。ぼくたちはぼくたちの楽しいようにやっているんだ、読者だか何だか知らないが、何ひとつ口出ししないでくれ、っていう姿勢。

 まったく残念です。せっかく柴田錬三郎さんの偉大なる構えを利用できるっていうのに、使っているのが名前だけ。シバレンのもつ強烈な「無頼」のイメージは、完全に封印してしまって、内輪でコチョコチョ、くすぐり合って終わっちゃっているんですもん。

 もったいないですなあ。でも集英社がそれでいいと言うなら、しかたないでしょうなあ。

 山周賞や吉川新人賞よりもずっと、直木賞へのカウンターパンチであり得る性質を持っているのに。がんばれば直木賞に取って代わることのできる器を持っているのに。

          ○

 いや、そもそも。柴田錬三郎の賞を、直木賞受賞作家の行き着く先、って見立てることそのものが、ジョークやギャグの類いとしか思えないわけです。

 柴錬賞の初期の選考委員たちは、少なからずシバレンさんとの関わりのあった方たちでした。そのおひとり、吉行淳之介さんは言います。

「柴田錬三郎氏が実作者として伝奇ロマンのジャンルで見事な実績をあげたことはいまさら言うまでもないが、直木賞の選考委員としてもこのジャンルの作品を待望していた。」(『小説すばる』平成1年/1989年冬季号[12月]「第2回柴田錬三郎賞決定発表」選評 吉行淳之介「強く推す」より)

 そうそう。シバレンが12年にわたる直木賞選考委員(第55回~第78回)の立場で、いったいどんな小説を推そうとしていたか、そのことでどれほど苦渋を舐めていたか。

 委員としての前半は、たしかに直木賞の本流と思しき、私小説ふうで、じみでコツコツ積み上げたストーリー、みたいなのを推す傾向にありました。木野工さんの「襤褸」(第66回)とか。加藤善也さんの「おきさ」(第67回)とか。

 それが大きく転換するのが、第70回(昭和48年/1973年・下半期)あたりからです。

 象徴する一文がこれ。

「純文学の題材のくだらなさは、目を掩わしむるものがあるが、一般大衆を対象としているはずの「直木賞候補作品」もまた、ほとんど退屈きわまるストーリイを、陳腐に展開している。」(『オール讀物』昭和50年/1975年10月号選評「才能の片鱗」より)

 この辺りからシバレンさん、いわゆる「花も実もある絵そらごと」「自由奔放な嘘っぱちストーリー」へ肩入れしはじめることになります。

 とくに推理小説やSF小説に対しては、熱い擁護者となりました。

 第74回田中光二『大いなる逃亡』評。

「リアリティがない、という批判があったが、この作品は、はじめから、嘘っぱちなのである。嘘の面白さを、私は、受賞作よりも、高く買った。」

 そのときの受賞作、佐木隆三『復讐するは我にあり』に対しては、もちろんボロクソです。

「ノンフィクション・ノベル、という奇妙なジャンルがあるらしいが、私には、そんなジャンルをみとめることのばかばかしさが、先立つ。(引用者中略)丹念に、犯行のありさまと逃亡経過を、辿ったところで、それは、小説のリアリティとはならない。」

 第76回三浦浩『さらば静かなる時』評。

「リアリティがない、という批判もあったが、はじめから作りものに、リアリティがあるはずがない。」

 非常に残念なことに、今も昔も、こういう意見は直木賞選考の場では異端です。空想が勝ちすぎると、とたんに直木賞がとりづらくなります。まあ直木賞は、全知万能じゃありませんから。穴だらけです。

 あえて柴田錬三郎の名を冠した賞と来たら、ふつうは期待しちゃいますよ。穴だらけの直木賞を乗り越してくれるんじゃないかって。

 じっさい、そんな路線の賞になりかけた部分もあります。隆慶一郎さんとか。北方謙三さんとか。夢枕獏さんとか。そういう作家を選んだんですもの。……直木賞? あいかわらず狭苦しい地味な小説ばっか顕彰してるの? ふうん。勝手にやってれば。こっちはもっと広いエンタメ小説全般から、中堅作家にガシガシ光を当ててあげますよ。ってな感じで。

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 これまでの柴錬賞受賞者27人。うち直木賞受賞者は18人。3分の2です。候補作のラインナップがまったくわからないので、何とも言えませんが、柴錬賞はもっともっと自由に選んでも賞だと思うんですけども。

 よけいなお世話でしたね。エンタメ小説が大好きな一読者の意見でした。

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