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2010年10月 3日 (日)

日本SF大賞 「マスコミのえじきになる」から「マスコミを活用する」への価値転換。

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 祝30周年。冬だか夏だか知らないけど、艱難辛苦をのりこえて、ついに三十路の域に。いやあ、めでたいなあ。人生これからが楽しいのだよ。

 それで、日本SF大賞とくれば、直木賞とは水と油ですもん。こんなブログで書くより他に、いーっくらでも詳しい方はいます。……と言いますか、この賞を「文学賞」のくくりで語ろうだなんて、peleboよ、お前の頭も固いのう、と笑われちゃいそうです。

【日本SF大賞受賞作・候補作一覧】

 んだんだ。この賞を文学賞と呼んじゃいけないのだ。

 とかく文学賞は、地盤が固まるまでのあいだは、あっちこっちにアンテナを張り巡らせるもの。

 って仮説は、ちょっと無理がありますね。でも、少なくとも直木賞には、「大衆文芸」なるものを、そうとう自由に拡大解釈しようとしてきた歴史があります。純文学系からつまみ喰いしたと思ったら、戯曲にも色目を使い、同人誌グループ全体に授賞させようとしたこともあり、エッセイも、評伝も、ノンフィクションも、あわよくば大衆文芸の仲間だよね、と擦り寄る姿勢。

 日本推理作家協会賞だって、そうです。ある時期、小説だけでなく映像作品(テレビドラマ「七人の刑事」とか、映画「日本列島」とか)も候補にしていた時代がありました。

 ただし、両賞とも時を重ねるにつれて、そんな自由さはなくなってきています。

 そして日本SF大賞。ヤツも、両賞みたいに徐々に普通の文学賞の仲間になっちゃう可能性はじゅうぶんありました。大友克洋『童夢』に賞を贈っただけで終わっていたら。

 転換期は、第16回(平成7年/1995年度)、第17回(平成8年/1996年度)ごろに訪れます。映画『ガメラ』を候補に残し、翌年『ガメラ2』に賞を与えたときです。当時の選考委員、巽孝之さんが選評で指摘しました。

「日本SF大賞は一九八〇年の制定以来十六年間の歴史の大半を小説作品を中心に授賞してきたものの(唯一の例外が第四回授賞に輝いた大友克洋『童夢』である)、じつは構想当初よりその選定基準はマルチメディア的であった。(引用者中略)

 したがって、今回初めて映像作品を選出し、日本SF作家クラブはようやく当初の公約の一部を果たしたにすぎない。それは日本SF大賞自体がようやく「幼年期の終わり」を迎えたことを意味する。「状勢の推移」を反映した改革が行なわれる日も遠くあるまい。」(『問題小説』平成8年/1996年12月号 巽孝之「第十七回日本SF大賞選評」より)

 「「状勢の推移」を反映した改革」? 何なんだ、この意味深な言葉は。……っていうハナシは、後で触れさせてもらうとしまして。

 ちょうど、制定当初の話題が出てきました。日本SF大賞の制定の背景を、いまいちどおさらいしときましょう。

 これについては、SF大賞発足10周年のとき、『SFアドベンチャー』が組んだ「特集・日本SF大賞10年」という非常によくできた記事があります。そのなかで石川喬司さんが、きっちりまとめてくれています。

「日本SF大賞が生まれるまで、SF界にあった賞は、各SF専門誌の新人賞と、ファン連合の星雲賞だけだった(引用者中略)

 日本にもアメリカのヒューゴー賞(引用者注:ネビュラ賞?)のようなものが欲しい、という声は早くからあり、初代『SFマガジン』編集長だった故福島正実の呼び掛けで、1965年に、安部公房、奥野健男、星新一、それに石川、福島の五人が集まり、日本SF賞制定委員会を開き、第一回の候補作に、川端康成の『片腕』を選んだものの、資金集めの段階でつまずき、結局お流れになったことがあった。」(『SFアドベンチャー』平成2年/1990年2月号 石川喬司「日本SF大賞この十年」より)

 昭和40年/1965年、つうのは、直木賞史でいえば小松左京「地には平和を」「お茶漬の味」が候補になって、落ちた直後です。まだまだSFが、推理小説だと認識されていたときです。

 少し長くなりますが、幻のSF賞のおハナシ、福島正実さんの回想録からも引いておきます。

「この頃(引用者注:昭和40年/1965年)、ぼくは、日本SF賞の制定のための組織づくりにも精出していた。そして六月某日、銓衡委員の第一回会合を、有楽町のレストランで開くところまでこぎつけた。

 出席者は、安部公房、石川喬司、奥野健男、星新一それにぼくの五人。

 決定事項は、つぎの通りだった。

 一、日本SF賞は原則として作品賞とする。

 ただしSFの興隆に功労のあった個人、団体におくる場合もある。

 二、賞の対象となるのは、毎年前年の六月一日から当年五月三十一日にいたる一年間に公刊されたものとし、その一年を通じて最優秀と認められた作品一作にたいしておくられる。ただし一作以上の場合もありうる。

 三、他に審査員賞を設け、(1)映画・演劇・テレビ部門(2)評論・科学評論部門(3)翻訳部門(4)美術部門(5)児童部門のそれぞれから一作を選んで賞をおくる。

 四、SF賞の正賞はブロンズ像とし、副賞として賞金をおくる。

 五、SF賞の選定は銓衡委員会が行なう。委員会は五人で構成し、三人を日本SF作家クラブから、二人をクラブ外の作家評論家から選ぶ。委員の任期は暫定的に二年とする。

 ぼくはこの賞を、アメリカにおけるネビュラ賞あるいは国際ファンタジー賞のようなものに育てたいと考えていた。よりポピュラーな賞にはもちろんヒューゴー賞があるが、これは出版社と作家・批評家のほか、アマチュアがかなりの投票権を持っているので、ぼくの構想とはちがっていた。この賞を、他の文学賞に遜色のない権威をもたせることによって、SFを毛嫌いし、最初から除外してかかる大きな文学賞――たとえば芥川賞、直木賞の類――にも、アタックする有利な地歩を獲得すること。もちろん、最終的には、それ自体の権威を高めて、むしろそれらの賞と対立した主張を行なう地盤とすること――それが、ぼくの当初の目的であった。」(昭和52年/1977年4月・早川書房刊 福島正実・著『未踏の時代』「'65」より ―引用原典は平成21年/2009年12月・早川書房/ハヤカワ文庫JA)

 出たー。福島さんのアマチュア嫌い。そして、既存文壇への闘争心。

 直木賞。それは、我々の存在を無視するデッカイ敵である。そんな見立てが、昭和40年/1965年ごろに根づいている風景は、うんうん、そうだよね、と納得して見ることができます。

 それから15年。いよいよ小松左京さんと筒井康隆さんの手によって、日本SF大賞がスタートすることになりました。

 果たして昭和40年/1965年のころと、昭和55年/1980年、直木賞との関係はどうなっていたでしょうか。デッカイ敵であるまま、それどころか悪化の一途をたどっていたんですから、もう喜劇です。悲劇です。直木賞は、筒井康隆にも、半村良のSF小説にも、広瀬正にも、山田正紀にも、頑として賞をあげませんでした。

 15年間。じつにこの、プロのSF作家が決める賞が日本で誕生するまでの15年は、ある種、文学賞にとっても重要な時間だったと見て取れます。

 と言いますのも。福島正実さんの頃にはなかった条項が、15年を経て、付け加えられたからです。「候補作は一切公表しない」という絶対の規約が。

          ○

 日本SF大賞が、具体的な創設に動き出したのは、徳間書店社長の徳間康快さんが、小松左京さんにハナシを持ちかけたのがきっかけだったらしいです。

「当時、僕が日本SF作家クラブの会長をやっていたんだ。新人発掘の賞は『奇想天外』や『SFマガジン』にもうあるし、星雲賞というのはファンの人気投票だし。半村(引用者注:半村良)さんが直木賞を貰ったけど、受賞作の「雨やどり」はSFではなかったからね。それでプロに与える賞を考えたんだ。」(『SFアドベンチャー』平成2年/1990年2月号 小松左京「日本SF大賞の10年をいま、語ろう。」)

 ええと、ハナシを持ち出したのは、反対に小松左京さんからだった、とする文献もあります。どっちだったのか。いまのところ謎です。

 しかし、実際に細かい規約決めや、徳間との契約に当たって働いたのが、当時のSF作家クラブ事務局長、筒井康隆さんだったのは、たしかなようです。

 はい。筒井さん。彼が、創設当初の日本SF大賞のかたちを決めました。

「三島賞の候補者を前もってマスコミに発表することに関し、だからおれは選考委員顔合せの席上で強く反対した。ずぶの新人ならともかく、十冊以上本を出しているプロの作家を、あげつらい、落す。無礼なことである。一国一城の主である作家を競走馬扱いしたわけであり、殺されても文句は言えない。だいたい、いつからこんなことが始まったのかおれはよく知らないが、新人賞の形式がプロの方にまで徐徐に及んできたのであろう。(引用者中略)SFの方では日本SF大賞というものがあり、これはおれが事務局長をやっている時にひとりで走りまわってセッティングしたものだが、その時も、候補者、候補作を発表しないというのが断固ゆずれぬ条件であった。これは現在までずっと守られてきていて、だからこそ選考委員が大家に対して気兼ねしたというようなアンフェアな受賞は一度もなかったのである。」(平成6年/1994年5月・新潮社刊 筒井康隆・著『笑犬楼よりの眺望』所収「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」より ―初出『噂の真相』昭和63年/1988年6月号 引用原典は平成8年/1996年8月・新潮社/新潮文庫)

 直木賞の候補に三度なり、そのたび事前にマスコミに情報が流れ、選考日までああだこうだと弄ばれた挙句、落とされた日にゃあ、選評でボロクソに言われる。その筒井さん自身の経験が、日本SF大賞の規約として直結しました。

 ワタクシは、自分で候補になったこともなければ、落とされたこともありません。ですので、ウカツなことは言えません。でも、もともとウカツな性格なので、続けて書きます。

 プロの作家を勝手に候補にする。落とす。選評で取り上げる。果たしてこの現象を、「作家に対して失礼だ」と見なし始めたのは、いつなんでしょうか。いや、多くの人がその意見を正しいと考えるようになったのは、いつなんでしょうか。

 戦前から、候補作を公表する文学賞はありました。もちろん、その筆頭が直木賞、芥川賞です。まあ、当時の両賞は新人賞みたいなもんですからね、事情が違うのでしょうけど。

 問題は戦後です。各種の賞がそれぞれの理由でもって、候補作の公表・非公表を決めています。運営していく途中で方針を変えた賞もあります。

 公表されると何が困るのか。なぜ落とされた人が辱められたと感じるのか。最も大きいのは、マスコミが候補者にハナシを聞きに行ったりして、迷惑をかけたり、決まってもいないことを大っぴらに取り上げたりすることじゃないでしょうか。筒井康隆さんも怒りました。小林信彦さんもゲンナリしました。

 おっと。マスコミのせいにしちゃいけませんね。それを「お祭り」と称して、ギャーギャー騒ぎ立てる連中全員の行動が、候補者にとってある意味、苦痛なんでしょう。ええ。ワタクシみたいな人間のクズと言ってもいい外野どものせいです。

 しかし、勝手なことを言わせてもらえば、きっとそれも程度の問題です。よほど候補者の生活が乱されるほど騒がれるのは、直木賞、芥川賞、そしてノーベル文学賞ぐらいのものだ、と言えやしませんか。あ、ごめんなさい。ノーベル賞は候補者非公表でしたね。にもかかわらず、マスコミと世間の騒ぎようったら。憶測と希望的観測のみでもって、あれだけ盛り上がれるのですからね。もはや文字どおりの「馬鹿騒ぎ」です。

 その他の文学賞は、これらとは注目度に格段の差があります。そりゃあ、事前に候補がバレちゃうことによる弊害は、多少あるでしょう。でも、候補を隠すことによるデメリットも、存在します。

 たとえば。外から見ている人は言いました。

「自己満足の賞といえば、大手の賞、例えば柴田錬三郎賞についても言える。第六回の選考委員の選評(「小説すばる」十二月号)を見てもわかるが、委員たちの選評は受賞した半村良の『かかし長屋』への賛辞だけ。落とした作家や作品の名前がないのだ。この不透明性はおそらく候補作家がみな名を遂げた作家だからだろう。“名誉”のためにあげられないのだ。(引用者中略)文学新人賞は候補作も選考過程も明らかになるが、文学賞のほうは候補作も選考経過も不明。まるで談合で決めているみたいではないか。

 談合で決まるような功労賞の性格ではないが、日本SF大賞も閉鎖的だ。第十四回は柾悟郎の『ヴィーナス・シティ』に決定したが、巽孝之による選考経過(「問題小説」十二月号)を読んでも、候補作が何で、どういう選考経過なのか全然わからない。巽は柾の現代SFにおける位置を語り称賛するのみ。この賞には候補作を明かさないというルールがあるらしいが、「SFアドベンチャー」の廃刊に代表されるように、状況が厳しいおり、そんな閉鎖的な選考で果たしていいのか。」
(『産経新聞』平成5年/1993年12月8日「斜断機 自己満足の地方文学賞」より 署名:(家))

 いいっすねえ、この無責任発言。談合ですって。閉鎖的ですって。人間、ここまで意地わるく物事をとらえられるのか、ちゅうぐらいで。ワタクシに言われたくないでしょうけど。

 いや。外部の目ばかりじゃないんですよ。日本SF作家クラブ内部にも、「候補作非公開」について、どうだかなあ、と違和感を持っていた人たちはいました。

 鏡明さんとか。第10回(平成1年/1989年度)にいたって、選考経過報告の上で、はじめて候補者を明らかにする禁をおかした人です。

「今度、みんなで話し合って、選評で、ノミネートされた作家の人たちの名前をもう出しちゃったんだけど、それは新しい人たちとか、世の中に対してSFで新しい動きをしようとした人たちとか、短編とかいう部分を、何らかの形で救わなきゃならないだろうし、最初はすごくオープンに始めたものが、結果的に閉鎖的に見えてきちゃってるところが確かにあると思うんです。」(『SFアドベンチャー』平成2年/1990年2月号 「特別座談会 SF大賞と日本SFの10年」中、鏡明の発言より 出席者は他に山田正紀・夢枕獏)

 この雰囲気は確実に高まりを見せていました。反・第一世代、というか。反・筒井康隆主義、というか。

 3年後、田中光二さんが「銓衡経過報告」を書きました。そこには、

「惜しくも選に洩れた若手作家の名前は、これまでの慣例に従ってここに書けないが(この慣例は、来年からは変わるはずである)、」(『SFアドベンチャー』平成4年/1992年1月号より)

 との文があります。

 結局、さらに5年を経て、候補作は公表されるようになりました。そうそう、このエントリーの冒頭でご紹介した巽孝之さんの選評にありましたね。「「状勢の推移」を反映した改革」。おそらく、候補作を公表しないことのデメリット感が、いよいよSFクラブ員のあいだに浸透していたのではないかと、推測されます。

 ただSF大賞の問題点は、候補作を明らかにしなかった点なんだよ。事前の告知も何もなくて、選考会の当日にポッと受賞作が発表されるだけだから、本来の目的のパブリシティという意味では、実はあまり効果がなかった。

山田 どうしてそういうシステムにしたんだろう?

 それはやっぱり、何度も直木賞の候補になって落とされた経験のある人たちが(笑)。

森下 受賞式の挨拶でも何が候補だったかを言えないから、石川喬司さんがすごく困ってた覚えがある。

石井 作家の方からは、自分の作品が候補になったかどうかすら分らないのは淋しいという意見がありましたね。議論されて落ちたのならば納得がいくけれども、と。

 そりゃそうだよな。賞を出すというのは評価をしてるってことなんだから、どう評価されたのか知りたいという人が出てくるのは当たり前だ。

森下 それで何年か前に規約を改正して、候補作を発表するように変えたんですよ。」(平成19年/2007年6月・日本SF作家クラブ刊『日本SF作家クラブ40年史』所収「世代別座談会 スター・ウォーズの頃」より 参加者:井口健二、鏡明、森下一仁、司会:山田正紀、特別参加:石井紀男[元SFアドベンチャー編集部]、構成:日下三蔵)

 時代は変わった、というべきか。SF界が変わったのか。日本SF大賞の対象作家が(大家クラスから、新人・中堅クラスに)変わったのか。あるいは、文学賞ってものに対する世間の見方が変わったのか。

 そのすべてかもしれません。日本SF大賞が候補作を公表しはじめたのは、第18回、平成9年/1997年度からでした。

          ○

 第18回というのは、いろいろ面白い現象が起きた記念碑的な回だった、と言えます。

 選考委員が、永井豪さんを除いてまるごと一新されたのも、それを象徴する出来事かもしれません。

 「日本SF大賞をとると、直木賞はとれない」なんつう、旧世代からの遺物みたいなジンクスも、この回の受賞者をもって、ようやく打ち破ることになりました。宮部みゆきさん。SF大賞の『蒲生邸事件』は、直木賞のほうではダメダメ攻撃をくらったんですけども。そして彼女以降、また、その遺物は化石となり、両賞のあいだに横たわり続けているんですけども。

 あ。エントリーを締める前に。今日は日本SF大賞のことですから、ぜひとも、この方のハナシも聞いておかなきゃ、ですね。SFのことと、文学賞のこと、両方に精通する大森望さんです。

「伝統的に見ると、日本SF作家クラブの会員以外に授賞する場合は、おおむね公正というか、信頼できる(笑)。どこもそうだけど、作家団体が所属会員に賞を与える時は、人間関係とか政治力学が微妙に作用するじゃないですか。そろそろあの人にあげておかないと、みたいな。(引用者中略)でも、ジャンル外作家の作品を選ぶ時は、情実がないから、純粋に作品だけの評価になる。(引用者中略)

もっとも奥泉光の『鳥類学者のファンタジア』が候補になった時(22回)は、選考委員の中島梓が「芥川賞作家の手すさびにSF大賞をやることはない」みたいなことを言って落とされちゃったけど、そういう縄張り意識をもってる人はもう少数派だと思います。」(平成16年/2004年3月・パルコ出版刊 大森望・豊崎由美・著『文学賞メッタ斬り!』「ROUND 11 ようやく夜が明けてきた?SFの賞事情」より)

 ジャンルによる縄張り、みたいな不毛きわまりない感覚が、もはやなくなっていることを、心から祈るばかりです。

 にしても中島梓さんってば。つい純文学だのSFだの、とその境界を意識しちゃってからに。やはり彼女自身のたどってきた経験のせいで、そんな感覚が濃密に身に沁みついちゃっていたんだろうな。……っていうことを、今年の第30回日本SF大賞特別賞受賞に寄せられた、夫・今岡清さんの「受賞の言葉」を読んで、しみじみ感じさせられました。

「日本SF大賞が特別な意味を持っているという理由は、彼女がかつて熱烈なSFファンであったからというだけでありません。さまざまないきさつから、彼女がSFに対して複雑な気持ちを持っていたということがあるからです。(引用者中略)

 SF作家としてSFを書き始めた栗本薫は、すでに『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞し、ミステリ作家として華々しくデビューしていました。残念なことにSF界の一部からは、そのようにして登場した彼女に対して、SF界の外からやってきた侵入者であるかのような反発がありました。」(『SF Japan』2010 SPRING[平成22年/2010年3月] 今岡清「特別賞、受賞の言葉」より)

 乱歩賞受賞者がSFを書いたことへの、SF界からの反発。あるいは、純文学誌の評論賞をとった小娘がエンタメ推理小説を書いたことへの、好奇の目。

 ええ。そんなもの、昔のことです。きっと今や、日本SF大賞は、日本SF作家クラブは、SFを愛する人たちは、ジャンルの内だの外だの、せせこましい概念を超越しちゃっていることでしょう。自由であってください。とらわれないでいてください。ヤンチャしてください。一風変わった性格をもちつづける文学賞、ワタクシは好きです。

 直木賞もさあ。日本SF大賞の自由さ、自由でいようとする努力、見習えばいいのにな。

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