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2010年8月 1日 (日)

新青年賞 読者の意見を参考に。でも全面的に読者にのっかるわけには、いかないよなあ。

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 文学賞。それは平和のあかし。

 っていう名言を吐いたのは誰でしたか。ちょっと思い出せませんが、直木賞のライバルたる賞は、戦前にも数々ありました。それらがたいてい短命に終わったのは、あのニックキ戦争のせいだ、軍部のせいだ、あーんぼくらの大好きな文学賞を返せ! というのは確かに、一つの見方です。

 いやいや坊や。戦争中のほうが文学賞は活発につくられたのじゃよ。文学賞が平和と結びつく、だなんてウソなんじゃ幻想なんじゃ。……はい、そっちのほうが正解かもしれません。

 で、昭和14年/1939年1月。日本軍が中国大陸に展開していた真っ只中のころに、ポロッと生まれた大衆文学向けの賞。新青年賞です。

【新青年賞受賞作・候補作一覧】

 あのさあ、これを文学賞の仲間に組み込むのは、ちょっとどうかと思うよ、とこっそり忠告してくれる方もいそうです。

 でもまあ、ここは直木賞が主役のブログですから。直木賞と新青年賞、この近距離を無視するわけにいかないじゃないですか。

 新青年賞は、次に掲げる設定宣言を見てもわかるとおり、『新青年』という雑誌の、雑誌による、雑誌のための狭ーい賞でした。みずから「文学賞」と呼ばれることを放棄すらしています。

新青年賞設定

賞金参百円贈呈(六ヶ月毎、年二回)

 創刊二十周年を迎えて「新青年」はこの新年号より一大飛躍を試みました。その手始めとして「新青年賞」を設定しました。これは諸種の文学賞とは異り厳密な意味では「賞」ではなくして、「新青年」としての作家に対する「薄謝」の意味にしか過ぎません。即ち半歳間の本誌上に於て最も読者の喝采を博し、読物界の要望にも応え、新青年編輯部としても、最も嬉しかった作品(小説、読物)に対して有名、無名、作品の長短を問わず、編輯部として裁断の上その作家に贈呈し謝意を表する次第です。」(『新青年』昭和14年/1939年1月号)

 要は、『新青年』によく書いてくれていて、読者に愛されている作家に、ふだんの原稿料プラス、ボーナス300円プレゼント、ってことです。直木賞の賞金が500円の時代です。

 この賞には、ちょっとした独自性を発揮しているところがあります。それは、この賞の基本は、毎月読者から寄せられる人気投票結果。でありながら、単純にいちばん票を集めた作品が受賞するわけでなく、編集部の「裁断」を経るという、なんだか半透明な感じがあるところです。

 半透明さ。これこそ、『新青年』誌が従来もっていた読者主義と、徐々に侵食してきた戦時下体制との、両面性が生み出したもの。……と言い出すのは早急すぎますよね。ただ、新青年賞ができた当時の『新青年』は、もはや、いまのミステリーファンがうっとりと潤んだ目を向けるあの『新青年』とは別モノになってしまっていたことは、疑えないようです。

(引用者注:昭和)十三年一月号で、水谷準は編集長の席を降りている。

 博文館社長は、逸早く戦争協力の線を打ち出した。大正、昭和を通じて衰退を重ねてきた出版社としては、紙の配給を確保し、検閲を少しでも緩めてもらい、何よりも刊行を続行しつづけることが至上命令であった。(引用者中略)社主は強力に戦争協力を打ち出しはしたが、編集部には面従背反の空気があったようだ。

 これが、戦時期の『新青年』に奇妙な陰影を生むことになった。」(昭和63年/1988年2月・作品社刊『『新青年』読本全一巻―昭和グラフィティ』所収 鈴木貞美「日中戦争の開始と「愛国的非戦論」」より)

 こういう雰囲気を、現場にいた編集者も語っています。これを聞くと、もう新青年賞とは、ほとんど「陸軍省情報部のもの」と言い換えてもいいんじゃないか、と受け取りたくなる口吻です。

「――昭和十六年、いよいよ戦争に入って、『新青年』もすっかり様変わりしましたね。

高森 往年の水谷準さんがやはり編集長ですが、あえて断言させていただきますと、昭和十三年に陸軍省新聞班が陸軍省情報部と改称して以後の『新青年』は、水谷準さんや乾信一郎さんの編集ではありませんよ。明らかに陸軍省情報部の編集ですよ。水谷さんは毎日、編集机の上に両足を靴のまま投げ出して、煙草ばかりふかしていらっしゃいました。」(平成5年/1993年6月・博文館新社刊 湯浅篤志・大山敏編『叢書『新青年』聞書抄』所収「高森栄次さんに聞く 博文館の時代」より)

 やーね、陸軍省って、けがらわしい。

 ただ、ですよ。『新青年』っていう媒体のなかで見るならば、「水谷イズム縮小」なる、同誌史の一大事のときに、なぜか企画されたこの新青年賞。わずか2年ももたずに、消えてなくなっちゃったこの賞を、転換期を象徴するものとして大いに注目したいところではあるわけです。

          ○

 と言っても、『新青年』っつったら、調査力も考察力も格段にすぐれた方々が、日々研究されている対象ですもんね。ワタクシが口を挟むのは、はばかれます。

 なので、あくまで直木賞を軸とした、新青年賞のハナシをちょっとだけ。

 先にリンクした「新青年賞受賞作・候補作一覧」をご覧ください。そこに、候補作も掲げておきました。これは正確には「候補作」ではありません。毎月、その号で一番面白かった読物を、「懸賞読物人気投票」として募集していたんですが、各号でその第一位になった作品です。ちなみに新青年賞は、3度とも、そこで第一位を獲得した作品のなかから選ばれています。

 で、この各号第一位の作品をながめてみると、ふむふむ、なかなかに興味ぶかいわけです。

 なにせ、この中には直木賞候補になった作品も、いくつかあることですし。鳴山草平「極楽剣法」、摂津茂和「ローマ日本晴」、木村荘十「南海の青雲」……。

 それより以前――昭和13年/1938年の転換期より以前に、『新青年』誌の作品が、直木賞から目を向けられた例は、じっさい、ほとんどありませんでした。

 しいて挙げれば、獅子文六木々高太郎、それと小栗虫太郎。……ってことになるんですが、いずれも『新青年』出身ではあるものの、すでに他誌に進出し出していた作家です。直木賞が目をつけたのは、どちらかというと、“『新青年』色から抜け出た彼ら”でした。

 ええ。木々高太郎さんの直木賞受賞作は、いちおう『人生の阿呆』(『新青年』連載)だ、ってことになっています。なっていますけども。これとて、もし、木々さんが『中央公論』みたいな檜舞台に作品を発表するような状況でなかったとしたら? 果たして直木賞が認めたかどうか。危ういところです。

 そうなんですよ。『新青年』ってさ、まっとうな「大衆文芸」陣営なの? と聞かれると、抵抗があるわけですよ。獅子文六の『遊覧列車』とか、徳川夢声のもろもろの作品とか(『新青年』以外にも雑多に発表されてましたが)、あの辺りを、ほんとうに直木賞の対象にしていいのか?……っていうのは、初期の直木賞が抱えたひとつの問題だったと思われるわけです。

 「何を言う。小説だけが大衆文芸じゃないぜ」と、カッコよく言い放ったのは大佛次郎さんぐらいのものでして。そういう柔軟な考え方っていうのは、なかなか大人数には広まらんものなんでしょうなあ。

 しかし、直木賞のほうが変わるより先に、『新青年』のほうが変わっていってしまいました。昭和13年/1938年ごろを境に。

 どう変わったのか。……大衆文芸誌に変わったのだ、ということです。大衆文芸誌って何ぞや。……探偵小説やらナンセンスやらモダニズムやら、そういう先鋭的なところばかり突っ走らないで、もうちょっと程度を落としたもの(おっと、失礼)も掲載する媒体、ってことです。

 時代小説とかね。恋愛小説とか。大陸や南洋に取材した小説とか。

 大池唯雄さんだの、木村荘十さんだの、果ては岡田誠三さんだのが、『新青年』誌から直木賞を受賞できたのは、そりゃあ同誌が、『オール讀物』みたいになっちゃったから、と見るほかありません。それまで『新青年』をこよなく愛してきた読者たちは、きっとつまらない変貌だと感じたことでしょう。

 そして、入れ替わるように、新たな読者層が『新青年』を喜んで読むようになったことでしょう。たとえば、こういう方とか。

「直木賞は今度は無収穫でしたね。鳴山草平摂津茂和等新青年の新進作家にひそかに期待していたのですが、残念でした。芥川賞も二人出たのだから、直木賞もこの次は二人位出てもよいでしょう。新人を尊重する新青年からも是非一人は出したい。新進作家よ奮え。(大阪真島生)」(『新青年』昭和14年/1939年10月号「愛読者欄」より)

 ははは。まったく今のわれらの低俗な発言と、なんも変わらないなあ。

 で、こういう何気ない読者の声を読むと、ああ、孤高の先進的雑誌『新青年』の姿は、なんかもう消え失せちゃったんだなあ、と感じさせられたりして。

          ○

 読物人気投票の第一位に、直木賞候補に挙がるような、つまりそのまま『オール讀物』に載ってもおかしくないような時代小説やユーモア小説が、何本か挙がってくるようになったと。昭和14年/1939年~昭和15年/1940年のこの時期なればこそ、なんでしょう。

 ただ、ここで新青年賞の最後の抵抗、と言いますか、「らしさ」を保とうとしているな、と微笑みを浮かべたくなるところもあります。3人の受賞者の顔ぶれを見ますと。

 久生十蘭。小栗虫太郎。摂津茂和。……どの方も、新青年賞受賞と前後して、たしかに直木賞の候補者として名を連ねる方ばかり。ってことは、そのまま直木賞受賞者になって、大衆に親しまれる通俗作家への道を歩んでもおかしくはありませんでした。でも、そうはならなかった。幸か不幸か。

 いまでこそ、久生人気爆発、小栗ファン多数、のように思えなくはありません(摂津さんだけは、ごめんなさい、この方の小説を今も愛している読者は少数でしょうが)。でも、歴史的にはどう見ても、久生十蘭より村上元三のほうが圧倒的に人口に膾炙したし、小栗虫太郎より野村胡堂のほうが、より多くの人に読まれてきたでしょう。

 やっぱり、久生さんも小栗さんも、そして摂津さんも、ファンと呼ばれる少数の人が、ひそかに愛する類いの小説家でした。

 そしてひるがえって、彼らとともに、読者投票で人気を得たメンツに目を向けてみますと、これがまあ豪華。大衆文芸臭ぷんぷん。大佛次郎、野村胡堂、村上元三などなど。

 さあて、ここで「編集部」のご登場です。新青年賞をだれに授けるかの決定権をもった「編集部」です。

 「編集部」の実態が、水谷準ひきいる面従背反の方々だったのか、それとも、陸軍省情報部の意向を受けた方々だったのかは、ちょっとわかりません。わかりませんが、ワタクシはやはり水谷さん側だったと思いたい。

「楽屋噺になるが――毎号やっている作品の人気投票は編輯部にとっては興味津々たるものがあり、又大いに勉強にもなる。意外な作品が意外な投票を獲得したり、最高点間違いなしと思われたものが案外振わなかったり、そこにはいろいろと興味ある問題が横たわっているが、とも角編輯子も大勉強で愛読者の要望に応えんとして大童になっている。(J・M)」(『新青年』昭和15年/1940年5月号「編輯さろん」より)

 かつてとは、読者層が変わり、読者の好むものも変わってきているんだな、ということを、こういうかたちで水谷さん自身、吐露しています。ただ、そうは言っても、『新青年』には『新青年』の維持がある、他の大衆文芸誌とちがうんだ、それは昔から関わっている編集部がいちばんよく知っているんだ。……と、そんな思いが、この3度の新青年賞の授賞に表れているのだとしたら、嬉しく思います。

 結局、新青年賞は3回で中止されました。昭和15年/1940年10月号、第4回対象期の途中までは、懸賞読物人気投票が行われていたのですが、11月号になって、突然、懸賞というかたちで読者から何かを募集する試みをバッサリやめてしまったのです。

 その後の『新青年』誌は、着実に大衆文芸誌路線でありつづけ、着実に直木賞候補作をいくつか送り込みつづけ、そして衰弱していってしまいました。おお。涙。

 ええ。大衆文芸誌の本丸だった、直木賞だって『オール讀物』だって、戦局悪化の波をもろに浴びたことには変わりなく、いっさいがっさいが消滅してしまいました。……かと思いきや、数年たったら見事に復活しちゃって、以来いまのいままで生き延びている、ちゅうたくましさ。さすがあ。ここら辺は、「他人の生き血を吸ってわが身を肥やす」でおなじみの、直木賞の本領発揮だぜ。にくいなあ、コノウ。

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