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2010年7月の5件の記事

2010年7月25日 (日)

泉鏡花文学賞 地方文学賞の一番星。“文壇”の流儀と、つかず離れずで光りかがやく。

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 文学賞は、受賞作だけ見ているより、候補作もいっしょに視野に入れると、何十倍も面白くなる。……っていうのが、ワタクシの持論です。

 その思いを再確認させてくれる賞。そのひとつが、泉鏡花文学賞です。

 かくいうワタクシも、この賞の候補作については、ほとんど知りませんでした。今度、まとめてみて、ざっと一覧にしてみると、うおう、何と魅力的なリストなんだ! と惹き込まれてしまったわけです。

 おそらく関係者や、金沢市の方以外は、あまり見たことがないと思われる、泉鏡花文学賞の受賞作&候補作一覧。こちらです。

【泉鏡花文学賞受賞作・候補作一覧】

 ね。これだけで、一週間ぐらいオカズ抜きでも、ごはんがいただけます。っていうぐらい、注目どころ満載でしょ。

 でもね、お嬢ちゃん。今週はこの一覧をつくるだけで、おじさん、疲れ果てちゃいましたよ。あとは、だらだら蛇足を連ねます。

 泉鏡花文学賞が、文学賞の世界のなかに占める重要性は、もうそりゃたくさんあります。

 たとえば、昭和48年/1973年という時期に、地方公共団体が主催する文学賞を打ちたてたこと。出版社主催のほかの文学賞とは違って、文壇内の力学だの階級だのとは無縁な賞であろうとした姿勢。純文学vs.大衆文学、みたいな、どっかの出版社が考え出したジャンル別文学賞、の真似をせずに、「鏡花文学」「ロマン性の高い」といった独自の切り口を持ってきて、それを醸成させていったこと。などなど。

 文芸評論家の奥野健男さんは第1回から選考委員を務めた方です。その奥野さんが最初の選考を終えたあと、こんなことを書いています。

「金沢市が日本ではじめて地方公共体が主宰する全国的規模の文学賞を企画した。これは文学史上画期的なことであり、おそらく金沢市のあとを追うものが輩出するのではなかろうか。

 しかしはじめての試みとして賞の性格、特徴をどこに置くか、ぼくら選考委員はこの春以来、慎重に検討した。そして全国的規模ではあるが、中央(東京)の出版社、新聞社をバックとする文学賞では授賞の機会が少い作品、目が行きとゞかない作品で、真にすぐれた文学的可能性を含む作品を選びたいという意見に一致した。

(引用者中略)

 この二人(引用者注:第1回受賞者の半村良森内俊雄の受賞により、泉鏡花文学賞は、純文学にも大衆文学にも偏よらず(鏡花の文学がそうであったごとく)しかも中央の文学賞が見おとしから、ないしは余りに異色なる故にためらいがちの文学作品に積極的に賞を与えようという、泉鏡花文学賞の性格が鮮明に決定されたのではないかと全委員ともども自画自讃したい満足の気持であった。」(『北国新聞』昭和48年/1973年10月31日 奥野健男「鮮明な賞の性格 ~第一回泉鏡花文学賞選考経過から~」より)

 ちなみに、創設当時の選考委員は、井上靖(委員長格)、奥野健男、尾崎秀樹、瀬戸内晴美三浦哲郎、森山啓、吉行淳之介五木寛之の8名。

 誰が考えてもわかるとおり、一つや二つの文学賞があったところで、かならず授賞しおとし、あげぞこない、ってものが発生します。直木賞や芥川賞が必要十分に、作家・作品を表彰できている、わきゃなくて、それは昔も今も同じです。

 その欠点というか、間隙というか、既成の文学賞ではすくい取れない部分はある。そこで、「誰が考えてもわかるよ」「でも、うちの市でそんなことやる必要ないじゃん」で終わるのではなく、果敢にチャレンジしていった道程が、鏡花賞のすごみを生んでいるのだと思います。

 鏡花賞も創設からはや30ン年。その間には、さまざまな変遷があったと見えるのですが、とりあえず今日は、最初のころのことに注目します。

 出だしの数年間です。鏡花賞はかたくなに、ある一つのルールを貫きました。いや、鏡花賞が貫いたというより、鏡花賞選考委員会(当時は「中央選考委員会」と呼ばれていたりした)の8人が貫いたと、言ったほうが正確かもしれません。

 それは、「直木賞や芥川賞の受賞者の作品は、選考対象から除外する」、というルールでした。

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2010年7月18日 (日)

池谷信三郎賞 鳴り物入りで始まった「第三の文春賞」。ごくふつうの文学賞でした。

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 まず、しょっぱなから訂正をしなければなりません。

 今日のエントリーのタイトルに「第三の文春賞」と掲げました。これ、まちがいです。すみません。

 池谷信三郎賞は、直木賞・芥川賞から遅れること1年半、昭和11年/1936年11月に規定が発表され、昭和12年/1937年2月に第1回授賞が行われた文学賞です。

【池谷信三郎賞受賞作・候補作一覧】

 主催は、『文學界』編集同人。

 『文學界』というのは、まあ乱暴にくくっちゃえば、いまも刊行されているあの『文學界』誌のことです。発行は、ごぞんじ文藝春秋社。しかも池谷賞の賞金は、文春社主の菊池寛さんがぽーんと出していたらしい。となれば、これは芥川賞・直木賞の成功に味を占めた文春が、第三の新人賞をつくったわけだな。……ていう見方も、間違いじゃないのかもしれません。

 ただ、ですよ。よくよく見てみると、これを「第三の文春賞」と名づけるには、かなり無理があります。

 なんつったって、『文學界』って雑誌が、困惑するほど、とらえどころのない存在です。とらえどころのない、というか、キミどこまで「文春」なの? って問題が昭和10年/1935年代前半にはあります。

「日本近代文学館発行の『「文学界」復刻版 別冊』に掲載されている小田切進の『解説』をみると、次のようにある。

〈「文学界」が菊池寛の文芸春秋社発行に切りかえられたのは昭和十一年七月からである。(引用者中略)七月号(=文藝春秋社に移った最初の号)に、林(引用者注:文學界同人だった林房雄)は「一層の飛躍をしたく、そのためには、同人が後顧の憂ひなく活動できる確固とした支持者が欲しいと思つてゐた時に、たまたま菊池寛氏の理解ある後援が約束された」(「同人雑記」)と書いて、それまで犠牲を惜しまなかった野々上(=文圃堂主)の諒解を得て、経営いっさいを文芸春秋社にゆだねるにいたった経過を簡単に説明している。〉」(昭和61年/1986年7月・文藝春秋刊 野口冨士男・著『感触的昭和文壇史』「昭和十年代の様相」より)

 経営は文藝春秋社にゆだねました。だけど、編集は従前どおり、小林秀雄ら同人たちが受け持ちつづけました。その二面性が、池谷賞に特異な性質を与えることになります。

 特異な性質。……いや、文学賞としてかなりまっとうなかたちを保った、と言ったほうが当たっているかも。

 だって。池谷賞は創設当時、芥川賞を補完する、あるいは芥川賞に対抗する新人賞として、主催者の一部からすげえ期待されていたのに、戦争が激化したら、モヤモヤっと消えちゃったんですよ。しかも、戦後、文藝春秋社や『文學界』が復活したとき、芥川賞のほうは立派に蘇らせてもらった、というのに、池谷賞のことは完全に無視されちゃったんですよ。

 そしてもはや、好事家以外だあれも、池谷賞のことも、池谷信三郎のことも忘れてしまった、っていう展開。

 作家や文学賞は、栄枯盛衰が当たり前。忘れ去られるほうが、ふつうのことだ。……はい。ワタクシもそう思います。じゃあ、なぜ直木賞や芥川賞は、いまもって生きているんでしょう。

 菊池寛さんの先見性ゆえ? いやいや、そんなことはないですって。だって、菊池さんが昭和10年/1935年以前も含めて、生涯で、その創設に関わったと思われる文学賞は、10個ぐらいあるんじゃないでしょうか。そのほとんどが数年で終了し、歴史の波にさらわれて、どっか行っちゃったじゃないですか。

 ええ。菊池寛さんはスーパーマンじゃありません。いくらでも失敗します。人間だもの。そんな彼の限界を如実に示しているのが、この池谷賞だと思うわけです。

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2010年7月15日 (木)

第143回直木賞(平成22年/2010年上半期)決定の夜に

 しっかし文藝春秋は強いなあ。

 強い、なんて表現は間違っているんでしょうけど、要は『オール讀物』編集部と、『別冊文藝春秋』編集部の人たちが、日頃からがんばって、選考委員たちの嗜好をおのれの骨肉にしみこませている結果、なのかもしれません。

 で、今夜の第143回直木賞(平成22年/2010年・上半期)は、すんなりと初候補の作家がとってくれてめでたいな、めでたいな。ただ、その前に、ワタクシには言っておかなければならない言葉があります。今期も6つの候補作には、ぞんぶんに楽しませていただきました。

 直木賞は、受賞作だけの世界じゃない。いろいろなジャンルの、楽しさのギュッと詰まった候補作に数多く出逢えることこそが、魅力なんだもの。

 乾ルカさんが、数年前に力づよく小説家への道を歩み出し、そして歩みを止めていないことに、頭が下がります。オール讀物新人賞などとったって、なかなか続けて書いていくのは大変でしょうから。他の受賞者の方々をみている限り。ええ、乾さんには、同じ北海道出身の、先輩オール讀物新人賞作家、宇江佐真理さんみたいに、直木賞の候補にあがるぐらいの作品を、続々と、続々と書いていっていかれる未来が待っていて、楽しみだなあ。……いや、宇江佐さんみたく「万年候補」にならなくてもいいんですけど。

 ほんとうにこれでいいのか、道尾秀介さんの扱い。詮ないことですけど。道尾さんには1回目か2回目の候補で、ススーッととってほしかったなあ。「山本周五郎賞作家は、その受賞後、しばらくたってから直木賞をとる」とか、「人気ミステリー(出身)作家は5度6度、候補にならないととれない」とか、そういう「直木賞のオキテ」めいたものに、道尾さんがハマっちゃうのは似合わないよなあ。こうなれば、ぐうの音も出ないくらいのベッタベタな推理小説で、直木賞とってください。そうしたらカッコいいですもの。東野圭吾さんみたいに。

 万城目学さんは、もう直木賞の枠を超えている作家だ。と、ワタクシは思っていますので、たびたび候補に挙がって、楽しませてくれるだけで満足です。終わり。……と言うだけじゃツレないので、勝手な期待をひとつ。きっと万城目さんぐらいの才人、そしてキャラであれば、いずれ直木賞のことを舞台にした、トンデモな小説を書いてくれることでしょう。その日を楽しみに待っています。

 ワタクシがいちいち言うまでもなく、冲方丁さんの今後には、べつだん何の曇りもありません。直木賞なんちゅう暴風雨が過ぎ去ったあとは、何事もなかったかのように驀進されることでしょう。『天地明察』を読んだ何十万人かの人たちが、時代小説って面白いんだな、と思って他の時代小説にまで手を伸ばしてくれたら嬉しいよな、と思うのみです。……あ、それと。「吉川英治文学新人賞作家は、直木賞がとれない」のジンクスも、いつか破ってやってください。できれば、SFで。

 おお。無冠の女王。とれなかったらとれなかったで、姫野カオルコさんの株が、またさらに上がってしまう、という。何と不思議なお方なのだ。『リアル・シンデレラ』、面白かったなあ。倉島泉が、ある人たちにとっては美人に見えていた、と中盤あたりに明らかになったときには、手を叩きました。これだ、これが姫野さんだ。やるなあ、と。ワタクシの思う、直木賞の名候補作のひとつに、確実に入る小説でした。……直木賞? あんなでくの坊に、姫野さんの魅力はわかりませんのです、きっと。

          ○

 ところで、なんで今度の受賞は、こんなにサックリ感があるんだ。直木賞における初候補は「顔見世」じゃなかったのか。いや、こういうのもまた、直木賞の伝統的なあり方のひとつじゃないか。……などなど、知ったふうな口をききたくなる、中島京子さん受賞についての、あれこれ。

 文春のハナシはいいとして、講談社のご担当者は嬉しいだろうなあ。小説家・中島京子さんといえば、講談社の人だもんなあ。吉川英治文学新人賞、あげたかっただろうなあ。これで、吉川新人賞は永久に贈れなくなってしまった。嬉しい反面、ちょっぴりホロ苦さも感じられちゃったりして。

 いずれにせよ、「直木賞なんて何十年も小説書いてなきゃとれないんでしょ?」みたいな空気が払拭されて、清らかな気分。それから、昭和初期とか戦争中のことを書いたら先輩がたにダメ出しをくらう、てな定型も崩れたようですから、よけいに晴れやかです。

 まあ、これまでの直木賞を覆すような、驚きのドンデン返しのあった授賞劇じゃないんでしょうけど。これで中島京子という作家の存在が、数多くの人に知れ渡った、ってことでしかないのだ、みんな騒ぎすぎだ、落ち着け落ち着け。……って、騒いでいるだけのワタクシには言われなくないですよね、そうですね失礼をば。

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2010年7月11日 (日)

本屋大賞 文学賞。みんなで選べば怖くない。

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 迷いました。今日、どんなエントリーを書くか。

 ちょうど今、うちのブログは、「直木賞以外の文学賞について、集中的に考えていこうね」の周期です。なので、今週木曜日15日に行われる第143回(平成22年/2010年・上半期)の直木賞にひっかけながら、何か文学賞のことを書こうと思っていました。

 どうやら巷でささやかれている評判によると、中島京子さんや姫野カオルコさんが優勢っぽい。ならば、吉川英治文学新人賞にしようか。団鬼六賞にしようか。いや、道尾秀介さんもあなどれないらしいぞ。じゃあ、大藪春彦賞にしようか。

 と、いろいろ悩んだ挙句、まあ、今度の直木賞の注目点のひとつは、「本屋大賞」との関わりだよね。っていう素直な内なる声に従うことにしました。

【本屋大賞投票結果一覧】

 まずは、本屋大賞の簡単なご紹介から。

 本屋大賞とは。……平成15年/2003年、本が売れない小説が売れない、職場で働いてても楽しくない、と負のオーラを背負った書店員の方々が、どうにか書店業界も元気だしていかなあかんぜ、と気炎を上げたのが出発点。本の雑誌社が力を貸し、毎年、前年(厳密には前々年12月~前年11月)に出た小説本のなかから、書店員たちが「売りたい」本を投票してランキングして発表する、ってもの。

 これで書店の方々が喜んで、生き甲斐をもって働けるようになった、わあ幸せ。というのですから、試みとしては大成功ですもの。外野のワタクシが何を意見する必要があるでしょう。

 ただ、直木賞オタクとして無視できないこともあります。この賞がはなから「打倒直木賞!」と、何度も何度も言っていることです。

浜本 (引用者前略)“打倒直木賞!”とか冗談ですから、基本的には。受賞作が話題になるとか、賞そのものがマスコミで取り上げられるなんて予想してなくて、あくまで各書店の中で、こういう賞をはじめましたというフェアができたらいいな、お店の横のつながりができたらいいな、というぐらいのニュアンスでスタートしたわけですから。(引用者中略)

――“打倒直木賞”というのはどこまで本気ですか。第一回目の授賞式で、浜本さんが言っていましたが。

浜本 なんで打倒直木賞だったんだろう。思いつきですよね。前もって考えていたわけじゃない。横山秀夫さんが『半落ち』で賞をとれなかったことに対する憤りが書店員の間にあった、という経緯もありますが。選考に対する不満はずっとありましたね。」(『小説TRIPPER』平成18年/2006年秋季号[9月] NPO法人本屋大賞実行委員会理事長・「本の雑誌」発行人:浜本茂、インタビュー・構成:永江朗「本屋大賞の真実」より)

 思いつきでも何でも、そこで「打倒芥川賞!」と発想しないところが面白いわけです。

 芥川賞ってさ。つまり、単に胸おどるストーリー展開とか、読後じゅんとくるとか、そんな程度の読解力じゃ太刀打ちできなそう。でも、直木賞なら、おれら本読みのほうに勝ち目がありそう。みたいな感じ、ですか。

 いや、何と言おうか。直木賞っていろんな人に親しまれていて、可愛がられていて、ついチョッカイを出したくなるヤンチャなところもあって、庶民的なんだな。ほほえましい限りです。……別の表現を使うとすると、まあ、ナメられているんだな、とも言えますが。

 いちばんナメているのは、こんなブログを毎週書いているお前じゃないか。とのツッコみは、さらっと受け流すことにしまして。

 で、直木賞と本屋大賞との関係のハナシです。

 基本、両賞の対象とする期間の関係上、本屋大賞のほうが、直木賞の受賞作・候補作を、得点にして評価し直す、っていう構図がもともとあります。

 たとえば、佐藤多佳子『一瞬の風になれ』(第136回 平成18年/2006年・下半期 候補)みたいに、何で直木賞はこんなイイ小説を落としちゃうのさ、バッカじゃないの。と、本屋大賞(平成19年/2007年度)で1位になるとか。

 たとえば、伊坂幸太郎クンの小説、どうして直木賞の人たちは認めてくれないの、あたしたちいつまでも伊坂クンの味方だからねっ! と、落選作『重力ピエロ』(第129回 平成15年/2003年・上半期)が、受賞作『4TEEN』や『星々の舟』より上位にきたり、落選作『死神の精度』(第134回 平成17年/2005年・下半期)が、受賞作『容疑者Xの献身』より上位にきたり、などなど。

 そうそう。直木賞は、受賞作だけ見ているより、候補作と合わせて見ると、ショーとして数倍面白い。というのと同様、本屋大賞も、1位の作品だけじゃなく、2位以下に挙がった膨大な作品群について、順位とか得点とかを見ると、また何十倍も面白い、と思います。

 ってことで。以下に掲げますは、過去の直木賞受賞者が、それ以前に本屋大賞でどのくらいの支持を集めていたのか、を表す図です。付録として、第143回候補の6人の、「本屋大賞度」も右に加えてみました。さあ。目をこらして、とくとご覧あれ。

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2010年7月 4日 (日)

文藝懇話会賞 元祖「直木三十五の賞」。貧乏な作家たちに、お金あげます。

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 出ましたね、第143回(平成22年/2010年・上半期)の直木賞候補作が。でも、今週のエントリーは、それとはほとんど関係がありません。

 注目するのは、古ーい古ーいおハナシ。文藝懇話会賞のことです。

【文藝懇話会賞受賞作・候補作一覧】

 直木賞とは、昭和10年/1935年に菊池寛が亡き友・直木三十五の名を記念して設けた文学賞。……なぞという、半分正解・半分でたらめな、定義があります。直木賞の創設には他にももっと事情があったはずだ!と踏んで、そのころのことをいろいろ調べていくと、どうしても、一つの文学賞のことに行き当たります。

 それが、これ。文藝懇話会賞です。

 懇話会賞が正式にできたのは、昭和10年/1935年の7月です。ただ、その構想は、前年の昭和9年/1934年1月、文藝懇話会なる組織が産声をあげたときに、すでに企画されていました。

「予定通り一月二十九日に会合が開かれ、そのときの様子が翌日の「読売新聞」に伝えられている。(引用者中略)会合は、まず検閲問題について話し合われ、取締当局と文士との間で遠慮の無い意見交換が行われたという。ついで以下のように伝えている。

 (前略)当夜の主題たる国家を主体とする文学奨励運動に関しては出席者一同異議なく賛意を表し将来、美術界における帝展のやうに「帝国文芸院」ともいふべき機関を設け、例へば文芸賞とも称する賞を優秀作品に授与し(中略)国家的立場から文運の伸展及びその功績称揚を図ることに意見の一致をみた、(引用文中の旧漢字は、新漢字に直した。(引用者後略)(『花園大学国文学論究』30号[平成14年/2002年12月] 川畑和成「島木健作「癩」と内務省―第一回文芸懇話会賞の意味―」より)

 この会合に出席していたメンツがメンツなわけでして。そのため、今になってみれば、文学賞史上、きわめて重要な会合であったと言えちゃうのです。

 主な出席者。官僚側からは、かの悪名たかき(?)内務省警保局長・松本学。作家側からは、菊池寛、直木三十五、山本有三吉川英治白井喬二三上於菟吉

 文藝懇話会については、ワタクシみたいな直木賞オタクが口を挟むのをはばかれるほど、まあ、まじめな紹介・言及・検証文がたくさんありますので、多くは語りますまい。

 要は、文士の一部が急進的にファッショ化して、軍部や政府に接近したと。官僚側も、文士どもを抱き込めば文教施策が打ちやすくなると見て、「文藝院」みたいなものをつくろうと思ったと。でも、いきなり、そこまで公式なものをおっ立てることには、文士たちもマスコミも、反対していたと。それで、とりあえずは、政府色を前面に押し出さないで、官僚と文士との意見交換の場、みたいなものを「文藝懇話会」ってかたちで組織したと。

 文士側の先導役が、われらが直木三十五さんだったんですね。

 でまあ、直木といえば、文壇のなかでも傍流も傍流、大衆文芸畑で威勢のいいことばっか言ってる血の気の多いヤカラ。そんなやつが文士の代表ヅラして、「文藝院」設立とか何とかいって、官僚と結びつこうとしたもんですから、まあ、反発もすさまじいものがあったらしいです。

「八日(引用者注:昭和9年/1934年2月)午後二時、笹本寅は、木挽町の文藝春秋社倶楽部に直木を訪ねた。(引用者中略)笹本の顔を見ると待ちかねたように、テーブルの隅から小さな新聞広告の切り抜きを取り出し、「これ、見たかい」と笹本のほうに差し出した。東京日日新聞に掲載された、中里介山居士責任編集「隣人之友」の広告であった。そこには、「金茶金十郎等の文壇の与太者が、厚顔無恥にも『文藝院』を担ぎ出そうとしているが、徹底的に紛糾する」という主旨のことが書かれていた。「金茶金十郎等の文壇の与太者」とは、あきらかに直木や白井喬二らを指していた。」(平成17年/2005年6月・文藝春秋刊 植村鞆音・著『直木三十五伝』「第四部 晩年」より)

 その後、まもなく三十五さんは亡くなってしまい、文藝院構想ついえたか。と思われたのですが、何のことはない、3年後の昭和12年/1937年には帝国芸術院が設立されちゃいまして、ほぼ、「国家による文芸家保護」の基盤ができてしまうわけで。

 三十五さんの夢、かなえられたり、ってところでしょうか。あるいは、その後の、いま我々が知っている歴史の推移を重ね合わせて、戦争に加担した文士どもの愚かな一歩、と見る向きもあります(あります、っていうか、そっちのほうが大半なのかな)。

 それはともかくも。

 文藝懇話会が組織され、そのさいに文藝賞のアイデアが話し合われていたことに、注目したいところです。翌月、直木三十五逝去。そのことを契機として、懇話会の出席者のひとりでもあった菊池寛が、ああ、直木三十五を記念した賞をつくりてえなあ、と『文藝春秋』誌上で言い始める。……っていう流れ。

 ええ。あるいは、菊池寛さんの頭のなかに、文藝懇話会で話し合った賞設立についての記憶が、あったのかもわかりません。

 しかもですよ。文藝懇話会といえば、最初は三十五さんや、その盟友・三上於菟吉さんが張り切って設立までこぎつけたものの、ヤクザな大衆文壇の連中にまかせておけるかと、純文壇の連中がぞくぞくと入り込んできて実権を握り、しだいに懇話会は、純文芸派のねじろとなっていってしまいます。

 いま思えば、そこが文学賞史においては、大きな大きな分かれ目でした。

 「そこ」っていうのは、「直木三十五」の名前を、文藝懇話会に残さずに、菊池寛が文藝春秋のほうに引き取ったところです。

 そして、「直木三十五」って名前にしみついていたはずの、ファッショ作家、右傾、あやしげ、胡散くさげ、といったイメージを振り落として、大衆文芸に対する尽力者であったととらえました。直木三十五賞を「大衆文芸の賞」と規定するとは、なんとまあ画期的なことか。

 そう。言ってみれば、昭和9年・10年当時、直木三十五の賞といえば、文藝懇話会の賞、とイコールで結んでもとくに違和感はなかったはずなんです。いや、そっちのほうが、三十五さんには似合っていたかもしれないんです。

 直木三十五、という作家を、文学全体からとらえたときに、その名を冠した賞が70年も80年も続いていることのほうが、異常です。2~3年で終わって、ああ時代のアダ花だったね、そうだよね、と歴史の裏に埋没していったほうが、なんぼか「直木三十五らしい」ことでしょう。

 まさに、わずか3年で終わった文藝懇話会賞のように。

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