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2010年6月13日 (日)

直木賞とは……なにしろ全部一人でやって、しかも新しい仕事もあって。辞退されたときのことなんか、すっかり忘れちゃいましたよ。――永井龍男「文藝春秋の頃」

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永井龍男「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号->昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書『酒徒交傳』所収)

 純粋に疑問に思うわけです。もしも、直木賞と芥川賞をやり始めたのが、文藝春秋社でなかったら。もしも中央公論社や改造社、春陽堂あたりだったら、どんな歴史になっていたんだろう。こんなにでっかく成長していたんだろうか、と。

 芥川賞(と、ついでに、ほんとについでに直木賞も)が社会に認知されるようになったのは、昭和31年/1956年1月に石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞してから。っていう歴史は、耳タコなほど聞かされました。

 ってことは、ですよ。

 それまでの20年間は、直木賞も芥川賞も、さして話題になることなく粛々と運営されていたと。昭和10年代~昭和20年代にかけて、似たような文学賞が、いくつもいくつも生まれ、そしてあえなく中止・廃止で消えていった、その波をかき分けて20年も継続したと。

 商業的な面ばかり重視していたら、果たして一企業が20年もひとつの文学賞を続ける意味があったかどうか。ねえ。やはり、そこには「文壇人が文壇のためにつくり、文壇のために存続させた賞」っていう姿が、力づよく浮かんでくるんですよね。

 ええ。菊池寛佐佐木茂索。がっつり文壇人です。

 ただ、この二人は文壇人……文人のくせして、直木賞と芥川賞について、ついにまとまった文章を書いてはくれませんでした。

 文学賞ならぬ文壇賞としての20年間。それが仮にこの二人だけの力によって成立していたのであれば、20年の流れのわかる資料もあまりなく、その後に両賞が飛躍するいしずえも、もろいものになっていたかもしれません。

 両賞のことをきちんと文章に残した文壇人。いたんですね。はい。ここで永井龍男さんの登場となります。

 戦後、新進の(?)売り出し中作家だった永井さんは、昭和20年代後半に、いくつも、直木賞&芥川賞のことを書きました。

 「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号)。

 「直木賞下ばたら記」(『別冊文藝春秋』同年10月)。

 「二つの賞の間―純文学と大衆文学の問題」(『別冊文藝春秋』昭和28年/1953年12月)。

 それと、これらの姉妹編として「小説「オール読物」」(『オール讀物』昭和27年/1952年4月号)。

 以上全部おさめた本が、『酒徒交傳』(昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書)です。

 まあ、全部エッセイであり、回想録ではあります。あるんですが、「文藝春秋の頃」の後記として、

「小説「文芸春秋」の出題で、準備もなく思い出を記した。」

 とあります。『文學界』編集部からの注文は、とりあえず「小説を」ってところだったんでしょう。

 さてさて。そこに出てくる両賞は、のちに書かれる『回想の芥川・直木賞』とかぶる部分がほとんどですが、一応、引用しておきます。

「芥川直木両賞もその時分に創設された筈で、事務一切が私の担当であった。おびただしい数の同人雑誌を整理し、眼を通し、それぞれ気難しい委員達の通読をもうながさなければならなかった。(引用者中略)昭和十七年頃、満洲文芸春秋社創立のために、新京へ渡るまで、一人で事務を処理したが、この仕事に関する限り私は心残りを持っていない。」(「文藝春秋の頃」より)

 まじですか。一人で事務を処理していたんですか。さすが、デキるビジネスマンは違うなあ。

 ちなみに永井さんが両賞の事務処理を担当していたのは、正確には昭和18年/1943年、第17回(昭和18年/1943年・上半期)まで、らしいです。

「軍部はジャーナリズムをかんじがらめにした上、用紙をきびしく統制した。統制されなくても、用紙は底を突いていたから、業者は軍部の鼻息をうかがい、二嗹(ルビ:レン)三嗹の端紙の入手にも狂奔した。文藝春秋社もその例外ではなく、満洲文藝春秋社の創立企画も、窮余の一策であった。十八年六月、私はその担当者として渡満、両賞の事務から離れた。一旦帰京の後、同年十一月本格的に新京へ赴任した。(引用者中略)十八年上半期第十七回両賞以降、終戦に至る間の銓衡には関係がなかった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊『回想の芥川・直木賞』「第三章」より ―引用は昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫

 すごく細かいことなんですけどね。この第17回に、永井さんはまだ事務処理していたのか、していなかったのかは、気になります。

 だって、それこそ同人誌の整理、推薦回答カードのまとめ、7月から8月にかけて2度にまたがった選考委員会の場所とり、連絡事務などなど、やることはたくさん。さすがに渡満の準備をしながら、これも一人でやったのかどうかは、ちょっとわかりません。

 『自伝抄1』(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊)に、永井さんの「運と不運と」が収められています。これによれば、昭和18年/1943年6月、新社準備のために満洲にわたり、滞在半か月。と言いますから、6月の多くはそちらに割かれてしまったことでしょう。

 ただ、どうやら第17回も、永井さんが直木賞にバッチリ関わっていたらしい、ってことは他の文章によって推測できます。

 なんつったって、アレですよ。第17回の直木賞といえば、他の140数回の直木賞とは、まったく違う強烈な回ですからね。ここに、永井龍男そのひとが関わっておいてくれなきゃ、どうにもカッコがつきませんぜ。

 山本周五郎の、直木賞辞退、の回なんですから。第17回は。

          ○

 山本周五郎の本格的にして、ぶあつい評伝、木村久邇典さんの『山本周五郎』(平成12年/2000年3月・アールズ出版刊 上下巻)では、周五郎の直木賞辞退のことが、一章分を占めています。

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 ここで、「先生、直木賞に決まったんですが受けますか?」とおうかがいを立てに来たのは、講談社の一人の編集者ってことになっています。

「山本(引用者注:山本周五郎)がわたくし(引用者注:木村久邇典)に伝えたところでは、

「講談社の『婦人倶楽部』の編集長だった茂木茂がうちへやってきて云うには、菊池寛から連絡があって、文春の内部では今度の直木賞は山本にということに決まった。しかしあの男はツムジ曲がりだから、素直に受けてくれるかどうか、内々に当たってみてくれ、というので気持ちを確かめに来たというんだ。もちろんおれは即座に断わった」」『山本周五郎 下巻』「馬込時代 十二章 「直木賞」を蹴る」より)

 このあとに、木村さんの筆によって、周五郎辞退の理由と思われるさまざまな説が紹介されていまして。ちょっとハナシがズレますが、面白いので一つだけ抜書きしてみますと、こういうことです。

「山本周五郎がわたくしに告げた、拒絶の理由は明快なものであった。

「おれが、吉川英治中野実浜本浩なんぞから直木賞をもらってたまりますか。浜本浩のごときはおれの作品に『文学として粗雑なものもある』などとエラそうなことを云っている。じゃあ浜本の『浅草の灯』や『海援隊』は、おれのより緻密な小説といえるのか。馬鹿も休み休み云え、というのはこのことだ。そんな手合いがおれに賞を与えるなどとは失敬千万だ」

(引用者中略)

 思うに山本には、当時から、文学は文学賞のために存在するのではない、という堅い信念があったのである。くれるものなら貰っておけ、賞金もついていることではあり、べつに名誉になりこそすれ、邪魔になるものでもないではないか、という“世故”に、絶対に同調できぬ、因果ともいうべき潔白の性格に、山本は生まれついていたのだった。」(同『山本周五郎 下巻』より)

 さあ、それじゃあ、この偏屈モノに主催者側はどう対応したのか。

 当時、まだたぶん文春で直木賞の事務処理をしていた永井龍男さんは、シレーッと書いています。

「井伏君(引用者注:井伏鱒二が直木賞を受けた時は、同君の態度にわだかまりなく、悪びれた処が微塵もなかったので、一層新鮮な印象を文壇に与えた。高木卓氏や山本周五郎氏の同賞辞退の話なぞも、思えば旧い語り草になったものである。」(「文藝春秋の頃」より)

 あるいは、こんなふうに。

「第十一回で堤千代河内仙介が賞をもらった時、芥川賞の方は高木卓が受賞を辞退して話題を残したが、直木賞の方でも第何回かに山本周五郎が辞退している。もっと新人に与えて、文学賞としての実を挙げられたい、というのが同氏の辞退理由だったと憶えている。山本という人は、その頃からなかなか気骨のある作家だったように思われる。が、文学振興会側としては、高木氏の場合と同様に、ひどく手持ち無沙汰な気のするものであった。」(『酒徒交傳』所収「直木賞下ばたら記」より)

 どうもサラリとしすぎ、ですよね。

 もう少し、突っ込んだ回想に及んでくれているのが、エッセイ「おもかげ」です。

「山本周五郎さんが直木賞を辞退した当時、私は文藝春秋社に籍を置き、芥川・直木両賞の事務一切を担当していた。

 山本さんの辞退は、昭和十二年の第五回か、それでなければ昭和十四年の第九回の時と思うが、一覧表には該当者「なし」とあるだけで詳細はわからない。こころみに菊池寛の「話の屑籠」を調べてみたが、それに関する感想は見当たらなかった。

 もう三十年近い昔のことだし、年二回の授賞事務に追われて、私の方にはこれという記憶も残っていない訳だが、当の山本さんとしてはいろいろ思い出もあったに違いない。

 十年ほど前に、どこかで顔を合わせた折り、初対面のつもりで挨拶すると、山本さんの口から当時使者に立った私の口上などが細かく語られて、私の方が戸惑いを感じたことがあった。」(平成2年/1990年6月・講談社/講談社文芸文庫 永井龍男・著『へっぽこ先生その他』所収「おもかげ」より)

 この「おもかげ」は、初出が『中央公論』昭和42年/1967年4月号。へえ、昭和40年台には、まだまだ直木賞・芥川賞の一覧といっても、受賞作・受賞者のみが並んでいて、候補一覧ってものは世間に流布していなかったのだな、とわかって貴重な一篇です。

 いや。そんなことはどうでもよいのです。

 周五郎さんのイタズラでないとすれば、ですよ。昭和18年/1943年の7月か8月、たしかに永井さんは日本文学振興会を代表して、周五郎さんに会いに行っていたのですね。

 でも、惜しいなあ。その場で候補者から受賞を拒絶されることなど、明らかに印象ぶかいことのはずなのに。すっぽり記憶からぬけ落ちているとは。やはり満洲文春社のことで、テンテコ舞っていたのかな、永井さん。

          ○

 ほんとは永井龍男さんと直木賞のことでいえば、こんなエントリーでは紹介できないほどの、たあくさんのエピソードがあるんでしょう。

 そのなかから、ほんの一例だけ。授賞事務をこなしていた永井さんが、思わず抱いた「文学賞作家へのあこがれ」のおハナシです。

 ちょっと長い引用ですが、感動モノのエピソードです。

「実は私は、両賞委員に時計の贈られた時、ひそかに虫の好いことを考えていた。もしかすると、佐佐木氏は私にも一個用意して呉れるかも知れないという思惑であったが、それは見事に外れた。

 いよいよ、後二三個でおしまいという処で、私は我慢が出来なくなり、佐佐木氏に無心を申し出ると、それは菊池氏の処へ行けということだった。おそるおそる社長室でその旨を述べると、案外簡単に菊池氏は「ウン」と返事をされた。この時はうれしかった。芥川直木賞の時計の裏側には、

  第何回 直木賞

  贈 何野何吉君

  昭和――年九月

  財団法人 日本文学振興会

 と、彫らせるのだが、私は早速服部時計店へ出かけて、ニッケル側エルジンの裏へ、第一行の処だけを除いて、後は受賞者の形式同様、贈永井龍男君と彫らせる注文をした。これは現在も持っている。私は時計だけが欲しかったのではなかった。永い間、委員と授賞者の間にいて、なんの仕事もしなかったくせに、ひそかに文学賞にあこがれていたものに違いない。幸い第二回の横光賞を授賞されて、名前入りの時計をもらった時は、それ故亡くなった菊池さんだけには、見てもらいたくてならない思いをした。」(前掲「直木賞下ばたら記」より)

 いじらしいと言いますか。一人で文学賞の事務一切をやっていた人間が後年、名のある作家になった、というその運命に身震いしてしまう、と言いますか。

 いずれにせよ、この貴重な時計、今も現存しているんでしょうか。見てみたいなあ。

 で、ここまでが永井龍男と直木賞のこと。あとのハナシは蛇足です。直木賞から遠く離れるかもしれない事柄です。

 直木賞にもっとも縁のふかい雑誌、といえば、それは『文藝春秋』ではなく、『オール讀物』です。その『オール讀物』、永井龍男さんが編集長となる昭和7年/1932年6月より前に、二人、前任の編集長がいました。

 初代編集長は、菅忠雄さん。

「今日高名な「銭形平次」は、野村故堂と菅忠雄の話合いで、すでにその頃(引用者注:昭和7年/1932年ごろ)から毎月連載されていた。菅忠雄は名編輯者と謂われ、その後永く文芸春秋の編輯に当った。橘外男の異色ある作風を世に送って、紙価を高めたのも彼であった。」(『酒徒交傳』所収「小説「オール読物」」より)

 二代目は、斎藤龍太郎さん。

「臨時増刊は馬海松、月刊になってからは、菅忠雄あたりが編輯に当ったが、この二人は現在でも余り見当らぬような、スマートな人品と趣味を持った人で、年中羽織袴の斎藤竜太郎とは好対照をなしていた。」(同「小説「オール読物」」より)

 問題はこの龍太郎さんです。

 一時、佐佐木茂索に代わって文藝春秋社の実権をにぎったことがある人なんですね。それはまさしく永井さんが満洲に去る前後のこと。昭和18年/1943年から2年ほどです。つまり、直木賞・芥川賞はその時期、佐佐木―永井ラインとは別の人間たちによって運営されていた、ってことになります。

 とくれば、龍太郎さんのことも、どんな人だったのか知りたくなってきませんか。

「斎藤龍太郎は文芸春秋創刊以来の古参で温厚潔白な人柄であったが、経営の才もジャーナリストとしての眼も備えず、ながく日陰にいた人であった。(引用者中略)

 創刊以来(一九二三)菊池寛の側近と自認していたこの人は、二十年の歳月を経て、絶えず下風に立つばかりだった佐佐木茂索を退かしめた。

 五尺に足りぬ短躯に、四季を通じて結城紬の上下に袴を着け、端然たる姿勢を崩さぬ人であったが、日本編集者協会の会長として、文芸春秋社専務取締役として、時流の尖端に立った得意は想像以上のものがあったに相違ない。」(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊『自伝抄1』所収「運と不運と」より)

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 じつは、斎藤龍太郎さん、名指しこそされていないのですが、『回想の芥川・直木賞』にも、いわばカタキ役として登場します。「運と不運と」では実名なのに、『回想の芥川・直木賞』では匿名、その分、永井さんによる表現もかなーりシンラツです。

「戦後菊池寛が文芸春秋社を解散すると、いち早く池島信平、沢村三木男、鷲尾洋三その他の旧社員が結束して佐佐木茂索を擁立し、文芸春秋新社を創立したが、この時も斎藤龍太郎は、別に数名の旧社員を誘って、文芸春秋社の再建を計り、各方面の援助を乞うている。新社がすでに文芸春秋を発行して運営が軌道に乗ってからも、自分の手で純正文芸春秋をという執念は捨てず、粕とり酒をあおって悲憤慷慨する日々が続いたと聞いている。」(前掲「運と不運と」より)

「旧文藝春秋社の最古参社員で、いわば正統文藝春秋を発刊しようとする一派もあるなど、裏面にはさまざまな動きが絶えなかった。(引用者中略)新社が文藝春秋を月々発行してからも、なお望みを捨てず(ここまでくれば、妄執であり亡者である)、渋谷辺りのカストリ屋に数人の「同士」を集めて資金の調達をもくろみ、万策尽きてからは新社とその社長である佐佐木茂索への呪詛を重ねたという。昭和四十一年佐佐木茂索の死後間もなく、この人物はある都市の図書館長を勤めていたが、無給でさしつかえないから文藝春秋新社顧問の肩書を与えよと、次代の社長池島信平宛に電話で申入れてきた。池島信平は、この人物にとっては孫のような後輩であったが、そういう前例がないという理由で、申し出を断った。後々も文藝春秋社での歳月より他に、何一つ知ることなく一生を終った人であった。」(前掲『回想の芥川・直木賞』「第三章」より)

 ったくもう。何してるんだよ、龍太郎さんてば。

 でもまあ、もしも、斎藤龍太郎さんの体制が昭和18年/1943年以降も続いていたなら、また、戦後の文春が龍太郎さんの手で再建されていたなら。……今の直木賞・芥川賞のかたちは、確実に違っていたでしょう。あるいは、他の類似の賞と同様、どこかで止まって消えていたかもしれないんですよね。

 そっちのほうが、健全な文学賞が維持できた可能性もなくはないんですけど、まあ、それはそれとして。

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