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2009年12月20日 (日)

直木賞とは……候補になることは文学的な業績でも何でもない。芥川賞候補と違って。――坂上弘『近くて遠い旅』

091220 坂上弘『近くて遠い旅』(平成14年/2002年11月・中央公論新社刊)

 500人近くいる直木賞受賞作家・候補作家のうち、いまの時期――クリスマスの季節に、いちばん似合う作家ってだれでしょう。そんな設問があったとしたら、ワタクシは迷わず山川方夫さんを指名します。

 おっと、ワタクシだけじゃないんです。山川さんの親密なる後輩・坂上弘さんも、同意してくれていますよ。『近くて遠い旅』の登場人物に、こんなセリフをしゃべらせていたりして。

「「そう。クリスマスがあの人には似合っていましたね。私たちは八重洲から銀座にかけてよく歩きましたが、クリスマスはとてもロマンチックで、どこの国でもそうでしょうが、光があって、空疎で」」(『近くて遠い旅』「第三章 人生の半ば」より)

 訂正。「同意」つうのは、語弊がありました。坂上さんがまさか、山川さんを「直木賞候補作家」のくくりで語るわけないですもんね。がっくし。

 というのも、山川方夫さんの短い生涯を、より俗っぽく紹介しなくちゃいけないときに、正確さを求める人は、「芥川賞候補に4度、直木賞候補に1度挙がった」と言ったりします。しかし、正直さを求める文学者たちは、そんな不用意な言い方をしません。じっくり言葉を吟味します。

「卒業後は、桂芳久、田久保英夫らと戦後第三次『三田文学』の編集を担当したあと、自らも、唯一の長編となった「日々の死」(昭三十二)を同誌に連載した。翌年から商業雑誌に登場し、「演技の果て」「その一年」「海岸公園」などの短編、「お守り」ほか数多くのショート・ショートを書いて、しばしば芥川賞候補になった。

「愛のごとく」は、そのあと、昭和三十九年四月号の『新潮』に発表された久方ぶりの力作で、過去最高の傑作との呼び声高く、柴田翔の「されどわれらが日々――」と並んで四度芥川賞候補に挙げられたが、またしても受賞を逸した。」(平成1年/1989年8月・小学館刊『昭和文学全集 第32巻』「中短編小説集・人と作品」より 執筆担当:曽根博義)

 ほら。ね。

「未完成なままで終った山川方夫は、しかし着実に成長する作家であった。そういう型の若手作家を、私はほかに何人も知らない。その意味では、山川が四たび芥川賞候補にあげられて四たび受賞しなかったのは、もし彼が健在であったらかえって幸運だったかも知れない。少なくとも彼はジャーナリズムにつぶされずに自己の文学を育てることができたからである。」(平成1年11月・新潮社刊 江藤淳・著『全文芸時評 上巻』所収「昭和四十年三月」より ―初出『朝日新聞』昭和40年/1965年2月26日、27日)

 鮮やかだなあ。山川さんの人生には直木賞なんて何ひとつ関わっていなかった、と錯覚させる言いざま。江藤さんも曽根さんも、芥川賞の落選のことは紹介していますからね、それゆえに、直木賞のことに触れない姿勢が、逆に際立つわけです。

 そして坂上弘さんの『近くて遠い旅』もまた、例外ではないのでした。そこでは、あたかも山川方夫をほうふつとさせる「堂本啓介」っていう人物を描いているんですが、江藤淳さんや曽根博義さんがそうしたように、ひとつの「文学賞」については、きっちり書いています。「長宗太」なる、川上宗薫っぽい人物にからめて。

「宗太が貰えなかった文学賞は啓介の生涯にも無縁ではなかった。彼も何度も続けて候補になり、時間をおいて、また候補になった。いよいよ世間の中に入って行くということを心にきめていたので、賞を目標に書くように言われて、半年毎に書いていた。実力ある新人として、彼を推す雑誌社も、候補の選考がすすむ裏話まで彼に知らせて、落ちてもまた次の目標に向かって書かせていた。自己をよく知る啓介は、自分の作品が賞に向いていないときは、候補にしてもらうのをことわったこともある。」(『近くて遠い旅』「第三章 人生の半ば」より)

 「堂本啓介」はそうかもしれません。ただし、山川方夫さんにとっては、芥川賞と無縁じゃなかったのと同じように、直木賞とも無縁じゃなかったんだけどな。

 それにしても、山川さん、『文芸朝日』誌に載った「クリスマスの贈物」が、直木賞候補に推されてるんですがどうですか、と打診されたときに、よくぞ断らずにいてくれましたよ。ねえ。万が一、まかり間違ってこの作品が直木賞なんかとっちゃった日にゃあ、親しい友人たちはみな、複雑な思いで悔しがったんじゃないでしょうか。なんで、山川は芥川賞じゃないんだ!って。

 そうなのか。真剣に文学に取り組む方たち、とくに『三田文学』や慶應周辺の方たちにとっては、山川さんが直木賞候補として名を残してしまったことすら、彼の人生の唯一の汚点、なのか。

 って、そりゃ言いすぎですか?

          ○

 「クリスマスの山川」の名を不動のものにした(?)小説「クリスマスの贈物」が誕生したのは、昭和38年/1963年。『文芸朝日』にこれが載ったのは、江藤淳さんが山川さんを同誌に紹介したのがきっかけだそうです。

 山川さんといえば、そのころは、寿屋(サントリー)のPR雑誌『洋酒天国』の編集をやっていて、そこの上司から悪意まじりにイジめ抜かれて、からだに不調を来たしていました。それでも『文芸朝日』からの注文は、江藤さんからの紹介ということもあり、まっとうする責任を感じて、どうにかこうにか小説を書き上げたんだとか。

 ……と言うのは、江藤淳さんが書いた有名なエッセイ「山川方夫と私」(昭和45年/1970年7月・冬樹社刊『山川方夫全集 第五巻』所収)によるものです。ははあ、江藤さん、ここでも「演技の果て」が芥川賞候補になったエピソードとかは差し挟んでいるのに、直木賞のことは無視ですね。

 まあ、江藤さんにとっちゃあ、「クリスマスの贈物」なんて作品は山川さんの仕事のなかで、とくに目立って取り上げるべきものじゃないのだ、ってことかもしれませんけど。

 ええと、さっき「山川方夫と私」は有名なエッセイだ、と書きました。ネット上でも、qfwfqさんの「qfwfqの水に流して Una pietra sopra」や、vzf12576さんの「本はねころんで」などで紹介されています。

 要は、江藤淳さんが、このなかで二人の著名作家をボロクソに攻撃しているために、よけいに有名になってしまったいわくつきのエッセイなわけです。

「彼(引用者注:山川方夫)は一度も私への手紙でYを非難しようとしなかった。だからこそ私は、山川の死後Yがモデル小説で山川を揶揄したときショックを受けたのである。

(引用者中略)

Yははじめから山川が好きではなかったし、理解しようとしてもいなかった。彼は単に安岡氏(引用者注:安岡章太郎に対する敬意の表現として「洋酒天国」を山川にやらせることにしただけで、山川が個性を発揮することを期待したわけではなく、おそらく従順な部下が一人ふえるのを望んでいたというにすぎなかった。安岡氏のいわゆる「もまれたほうがよい」を、Yは自分の概念における「サラリーマン」そっくりに山川を仕立て上げるという意味にとったにちがいない。そこに「三田文学」編集長として名声のあった山川に対する悪意が作用していなかったとはいえないのである。」(「山川方夫と私」より)

 怒っています。山川さんの死後、昭和40年/1965年『小説新潮』7月号に「シバザクラ」なる小説を発表した山口瞳のことを。

「やはり山川の葬式の日に、私が苦々しく思ったことがもう一つあった。それは推理小説雑誌の編集者として山川や私と知り合ったNという人物が、一種異様な躁狂状態ではしゃぎまわり、場所がらもわきまえずに不用意なことをしゃべり散らしていたということである。(引用者中略)ここまで書いて来て、私は一つの事実を思い出した。それは山川が事故に逢う十日ほど前に私のところに泊ったとき、

「Nには危険なところがあるから、注意したほうがいいよ」

 とポツリといったことがあるということである。」(同「山川方夫と私」より)

 怒っています。厳粛であるべき葬式のときに親友づらしてギャーギャー騒いだっていう中原弓彦(小林信彦)のことを。

 どうなんでしょう。江藤淳さんのことは、ワタクシはほとんど知らないんですけど、直木賞オタク(大衆小説びいき)にしてみれば、やはりこんな疑問が頭に浮かんでくるのです。

 仮に、ですよ。サラリーマンになりきれなかった山川さんの姿をモデルに小説を書いたのが、純文学畑で地道に生きている作家だったとしたら。

 発表誌が、『小説新潮』なんてヤクザな売文用雑誌じゃなくて、もっとおカタい雑誌だったとしたら。

 江藤さんに対してエラソーに「あんたのこと、山川さんはものすごく怒っていたよ」とかほざいた野郎が、文春や講談社や、その辺に勤める純文学系統の編集者だったとしたら。

 ……江藤さん、こんなに怒ったのかな。

          ○

 江藤淳さんばっかりに登場願うのは場ちがいも甚だしいですよね。そろそろ坂上さんの『近くて遠い旅』にハナシを戻しましょう。

 この小説に「直木賞」はたしかに出てきません。ただ、山川さんらしき「堂本啓介」が徐々に世間に作家として認められていく過程の場面で、好んでか好まずにか、文学の正統路線じゃない方面から仕事の誘いを受けたことが出てきます。

「長宗太と堂本啓介は、もちろん作品の傾向も、作家としての資質も、同じではなく、正反対だった。しかし雑誌社から見ると、二人とも、誌面を刷新して行くときにぜひほしい筆力の持主だった。賞の見込みがなくなった宗太を風俗小説の流行作家に仕立て上げた編集者が、同じように啓介のところにやってきて、中間小説を書くようにすすめた。」(『近くて遠い旅』「第三章 人生の半ば」より)

 さらには、「堂本啓介」の後輩である主人公の「山崎修吾」も、彼らと同じように「読者の多い雑誌」に書くように勧誘された、でもその道は選ばなかった、っていうふうに筋が進みます。

 むむむ。雑誌社=中間小説=読者の多い雑誌=職業作家の世界から、おいでおいでされる感じを、坂上さんは紳士ですから、こう表現しているんですけども。

「「堂本さんには、都会的な掌篇を頼んでいる。彼は力があるからできるんです。あなたには、サラリーマン小説の書き手になってもらいたい。やってみませんか」

 編集者は有名なサラリーマン作家の名を挙げた。

「あの人以降誰も出てきていないんです。実は、あの人も本当に書き残したいのは、私小説なんです。やけに暗いのがあるが、読みたければ探してきてあげましょう」

 啓介の薫陶を受けていた修吾はそれくらいは知っていた。

 編集者の誘いは、どこか人事の登用めいた内容に聞こえた。」(同「第三章 人生の半ば」より)

 人事の登用、っていうか、あけすけに言っちゃえば、閻魔の手先かサタンの分身かが、かよわき若者を口八丁手八丁で悪の世界にひきずり込もうとしている図じゃないですか、これは。

 で、そのサタン側の人間……いや、失礼、講談社の編集者にして、山川さんの担当だった大村彦次郎さんが、山川作品をどう見ていたかを、最後に引用させてもらいます。

「山川の作品は繊細な感覚と洗練された都会風のスマートさが特色といわれた。北原武夫南川潤らの系譜を継ぐ、いかにも三田派の作家らしい印象を与えた。」(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より)

 北原武夫? 南川潤? ううっ。後世に作品が残っているとはとうてい言いがたい系譜に、位置づけられているところが、無性にかなしい。

 いやいや。山川作品はいまもなお、愛され、新しい読者を獲得し、読まれつづけている模様なので、ひと安心です(って、何サマだ、お前は)。まじめな文学の世界じゃどうかは知りませんけど、少なくともワタクシの胸のなかでは、大切な直木賞候補作家・山川方夫、として生き続けています。これも山川さんが義理がたく中間小説(だか何だか、とにかく正統じゃないエリア)のお仕事にまで手を伸ばしてくれていたおかげです。

 ですので、「山川さんの直木賞候補をなかったことにしたい」グループの方々も、どうか、この一件については大目に見てください。

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受信: 2009年12月20日 (日) 22時46分

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