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2009年9月20日 (日)

直木賞とは……文壇に出るためにどうしても欲しい賞。芥川賞候補を辞退してでも。――柴田錬三郎「わが青春無頼帖」

090920 柴田錬三郎「わが青春無頼帖」(昭和42年/1967年3月・新潮社刊『わが青春無頼帖』所収)

(←左書影は平成17年/2005年3月・中央公論新社/中公文庫

 一か月前に野口冨士男「真暗な朝」を取り上げたところで、柴田錬三郎さんのことに触れました。くどいですけど、もう一回、シバレンで行きます。

 文学に取りつかれた作家の卵たちが、狂おしいぐらいに芥川賞を欲しがる。……っていう、かなりステレオタイプな見立ては、それでも説得力があります。でも果たして、「直木賞」のほうを欲しがる文学青年なんて、これまでいったいどれほどいたのだろうか。それを考えると、なかなかセツないものがあります。

 浅田次郎さん、胡桃沢耕史さん、青島幸男さん、あたりが自他ともに認める「直木賞を欲しがった作家」たちでしょうか。みなさん、かなり年輪を重ねてきた海千山千のつわものどもですねえ。純文学に対する幻想的なあこがれ、なんて時代を、きっと乗り越えてきた人たちです。

 それより時代はさかのぼって、昭和26年/1951年ごろの柴田錬三郎。御年34歳。「青年作家」と言うには、やや年を食っちゃっていますが、同時代に芥川賞を受賞した辻亮一さん(第25回受賞、35歳)とか石川利光さん(第26回受賞、37歳)と比べても、まだまだ芥川賞にかぶれててもおかしかない世代です。

 でも、当時からすでに、錬三郎さんは私小説嫌い、虚構好きでした。

「僕は小説らしい小説を書くことを念願として来た。今もそうである。所謂面白い小説、どんな短いものでも起承転結のある小説、それぞれ色彩の異った素材の小説、そういう小説を書こうと心がけて来た僕は、ストーリイテイラーになりかねないと警告され、鬼面人を驚かすと非難され乍ら、どうしても私小説は書けないでいる。」(昭和23年/1958年2月・新紀元社刊『敗徳の夜』所収「『敗徳の夜』後書」 ―引用は平成2年/1990年8月・集英社刊『柴田錬三郎選集 第十八巻』より)

 そんな錬三郎さんが、流行作家になったのち、私小説のていをなした小説として放ったのが「わが青春無頼帖」です。あるいは、同題の短篇集に収めた「北の果から」や「先生と女と自分」です。

 そこでは、錬三郎さんが『三田文学』に「デスマスク」を発表することになる経緯やら、その後、「イエスの裔」で直木賞をとるところなどが描かれています。いかにも、私小説っぽく。

 作者・錬三郎が、登場人物・錬三郎(あるいは須藤三郎、R・S)に与えた役割は、こういうものです。――文壇に出たくて出たくてしょうがない、カストリ作家が、とある未亡人と関係を持ち、それが縁で、当の未亡人に好意を寄せる文壇の大家とのパイプができて、未亡人との関係を踏み台にして、文学賞受賞をねらった男。

          ○

 そんな虚構上の男を、最もわかりやすいかたちで書き込んだ作品が、「先生と女と自分」です。

「私が、佐藤(引用者注:佐藤春夫先生から、速達のハガキを受けとったのは、勤めていた書評新聞を退めて、ペン一本で、生活しようとして、文壇には認められず、子供の読物を書きなぐってその日ぐらしをしている頃であった。」

 佐藤邸を緊張して訪ねてみると、要件というのは、とある女性・末永松子のことでした。

 佐藤先生は、松子が200通ものラブレターを「私」に送っていることを知り、「私」を呼びつけたのです。

「「彼女は、私がこれまで出会った女性のうちで、いちばん面白い女狐だ、と思っている」

 私は、あわてた。

 末永松子を無神経な、執念ぶかい煩しい存在としか思わなくなっていた私は、自分の尊敬する文壇の長老から、思いもかけぬ言葉をきかされてたちまち彼女が自分にとって、重大な存在にすりかわるのを、おぼえた。

「実は私は、末永松子を好きなのだ」

 佐藤先生は、つつまずに、いった。(引用者中略)

「私は、末永松子に、R(引用者注:語り手の「私」のこと)にいいものを書かせて、機会を与えてやろう、と約束した」」(「先生と女と自分」より)

 この会見が、「私」を勇気づけます。文壇に登場する野心に、一気に火をつけたのでした。そして「私」は、当の末永松子にこんなことまで言っちゃいます。

「佐藤春夫の知遇を得る、ということは、おれの人生にとって、たった一度しかない、文壇登場のチャンスなんだ。先生の推挙があれば、おれの作品には 陽が当る。うまくいけば、芥川賞が、もらえるかも知れん。このチャンスをうまく掴んで、裏側から表側へ出るためには、愛人を売ることも、男としては、やむ を得ぬ、とおれは、考えたんだ。」(同「先生と女と自分」より)

 ……ってことで、思惑どおり、「デスマスク」が『三田文学』に載せられることになって、芥川賞の候補になり、佐藤春夫が選考会でこれを第一に推したりします。じっさいの選考会でも、舟橋聖一が語るところによれば、

「会の劈頭、佐藤春夫氏が、柴田錬三郎を推したが、これには、必しも公平を以てせず、私的感情を混入せざるを得ない事由を、陳弁せられた」(『文藝春秋』昭和26年/1951年10月号より)

 のだそうです。

 錬三郎さんの小説では一貫して、「文壇に出る―佐藤春夫―芥川賞」のラインでのみ物語をひっぱっていきます。

 ただ、じっさいには「デスマスク」は同時に直木賞の候補作にもなっているんですよね。佐藤春夫と犬猿の仲、でも『三田文学』の関係者、って立場にあった木々高太郎が強力に推してくれていたりして。

 はたから見ると、芥川賞候補に挙がった人が、ひきつづいて同じ雑誌に小説を書き、それが直木賞のほうをとっちまったところに、逡巡とか戸惑いはなかったのか、純文学への熱からどうやって解放されたのか、ってところに興味はわきます。

 現に錬三郎さんも、その辺のことをエッセイの類では、いろいろ書いてくれています。なのに、「私小説」ふうの小説では、そこら辺をいっさいカットしています。

 芥川賞と直木賞を、まるで一緒のものであるかのように描いちゃうのです。

「「デスマスク」を書き、「イエスの裔」を書いている頃から、受賞して、一年あまりの間は、私は、一種のノイローゼ気味になっており、いま思いかえしても、イヤになるのである。

 雑文書きにでもなると、自分は相当な才能ではないか、といささかのうぬぼれがあったが、一流の作家になるには、何かが欠けている、という意識があった。これは、どうにも、払いのけられなかった。

 にも拘らず、「デスマスク」が芥川賞候補になるや、この次は、是が非でも、芥川賞をもらわねばならない、という気持になってしまっていた。それにあたいする作品を書かなければならなかったのである。

 「イエスの裔」は、芥川賞と直木賞の両方の候補になったが、これは、あきらかに、狙った(原文傍点)作品であった。そのいやしさが、私自身には、判っていた。

 そのために、受賞してからも、しばらく、自己嫌悪が、消えなかった。」(「わが青春無頼帖」より)

 ははあ。賞を狙って書いた、そのことで自己嫌悪に陥った。ですか。……いいでしょう。おそらく虚構ふうな心理描写ではありますが、まさに真実なのかもしれません。

 しかもこの小説だけ読むと、語り手の「私」は、文壇に出るためなら芥川賞でも直木賞でも、どっちでもよかった、と受け取れます。まあ、小説の読者にとっちゃ、どっちの賞でも大して変わりありませんから、作者・錬三郎さんもあえて、そう書いたんでしょう。

 でも、果たしてほんとうにそうであったか、どうだったか。

 ここら辺の経緯については、ちょっと面白い指摘もあります。

          ○

090920_2  柴田錬三郎の評伝、澤辺成徳さんの『無頼の河は清冽なり』(平成4年/1992年11月・集英社刊)です。

 錬三郎さんにとって、芥川賞でも直木賞でも、くれるならどっちでもよかったのか。それについて、こんな記述があります。

「こうして「イエスの裔」は、昭和二十六年下半期の芥川賞と直木賞の両方の候補に挙げられた。しかし、錬三郎は文藝春秋の池島信平に申し入れ、この作品を芥川賞の候補作品からはずしてもらったという。」(『無頼の河は清冽なり』より)

 なぬ。目の前に、芥川賞と直木賞のチャンスカードを並べられて、錬三郎さんはあえて、直木賞のほうに手を伸ばしたですと。

 いったい過去、こんな人がいたでしょうか。

 「日本の文学賞といえば芥川賞しかないじゃん」と言い切りながら王道を進む人はいます。いや、はなっから大衆向けの小説でスタートして、行き着くところ直木賞しかない人も、たくさんいます。まだどっちに転ぶかわからない、芥川賞をとる可能性もあるが、直木賞のほうからもお誘いを受けているような人が、芥川賞の候補をあえて辞退するとは……。

 こういう人を、世間は「変わり者」「ひねくれ者」と呼ぶのかもしれません。いやいや、「信念の人」っていう表現のほうが適切かも。

 はてまた、錬三郎さんに言わせれば、芥川賞を見限って、直木賞をとりたいという行動に出たのは、彼の生き方「無頼」のひとつだったんじゃないでしょうか。

「「円月説法」(引用者注:『週刊プレイボーイ』の「人生相談・無頼控――円月説法・柴錬のダンディズム指南」)は柴田錬三郎という作家が若者のさまざまな悩みにこたえるものだった。最初の質問がふるっていた。

「無頼に生きるって、どういうことですか?」

 これにこたえて言う。

「自分の規律を守る。つまり知性のコントロールだな。世間が何といおうと、自分が正しいと信ずる規律に基づいて行動する。そういうプライドを持った行動が無頼なんだ」」(『無頼の河は清冽なり』より)

 うん、昭和20年代当時、文学の道で生きようとしている人間が、芥川賞を捨てて、直木賞のほうを欲しがる、っていうのは、まさしく。並の作家にゃ真似できません。無頼=プライドをおのれの心中に堅持する人にしか、なし得ませんよ。

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