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2009年9月13日 (日)

直木賞とは……日本の文学の世界とは、まったく関係はない。――上坂高生「清書」「選評」

090913 上坂高生「清書」「選評」(平成16年/2004年9月・武蔵野書房刊『賞の通知』所収)

 消えていくものや、忘れ去られていくものに、なぜか逆に愛着を感じてしまいます。じっさい、うちの親サイトの表テーマは、直木賞のことですけど、裏テーマがありまして、「まず今じゃ絶対に見向きもされない過去の作家たちのことを調べて、なるべく先ざきまで残しておきたい」ってことなんです。

 そんな人間にとって、上坂高生さんの短篇集『賞の通知』は、こりゃあ宝石ですよ。

 「あとがき」で上坂さんは言っています。

「それにしても、賞がどんどん消えていくのには当該受賞者にとっては、嬉しくない。侘しいかぎりである。空しさに囚われてしまう。せめて書いて残さねば浮かばれない。」(『賞の通知』「あとがき」より)

 それでこの短篇集は、上坂さんが同人誌『碑』に発表した「文学賞もの」を中心に成り立っています。とくにそのうち、最初の二作「清書」と「選評」は、直木賞を愛する者にとっても、外せない短篇と言っていいでしょう。

 「清書」(初出『碑』79号[平成14年/2002年10月]「消えた賞」)は、上坂さんが昭和29年/1954年、第1回小説新潮賞に「みち潮」を応募して、当選した前後のことを描いています。

 上坂さんは丹羽文雄の『文学者』の集まりに属し、小学校の先生をしながら、こつこつ小説を書いていました。『新潮』『文學界』『群像』は毎月買い求めるけど、『小説新潮』『オール讀物』なんかの書店の棚には、まず近寄ったことがない、……っていう感じが、おお、生粋の通俗小説嫌いのかまえです。

 その『文学者』の集まりに、当時よく顔を出していた新田次郎さんのことを書いた箇所があるのですが、これを読んでワタクシは、ますます新田さんが好きになりました。

「当時、懸賞募集をしていたのは、「サンデー毎日大衆小説コンクール」というもの一つだけだった。南条範夫が時代小説、新田次郎が山岳・気象小説を書き、毎回二人が当選していた。新田さんは「文学者」によく顔を出していたが、通俗小説作家とみられ、軽視される傾向にあった。」(「清書」より)

 さて、ここで萎れたり、はてまたネジれた文学志向をもったりしないのが、新田さんの素晴らしいところです。

「しかし気象庁の技官である新田さんは、そんなことには意を介さない。ひたすら前進する逞しい男達を描く。それに共鳴する人は世間に多く、「サンデー毎日」に当選した作品を集めて『強力伝』として、単行本にする小出版社があって、直木賞を得た。気骨の新田さんは、庄野潤三小島信夫の作品を、あんなもので芥川賞か、とさんざんこきおろしていた。それに反論する者はいない。あるじ(引用者注:丹羽文雄、当時の芥川賞選考委員)は苦笑するばかりである。」(同「清書」より)

 そうだそうだ、芥川賞だから何だっつうんだ、そんなものばかり崇め奉る同人誌の小作家連中なんぞ、ぶっつぶしてしまえ。と、新田さんを応援したくもなります。

 つづく短篇「選評」(初出『碑』80号[平成15年/2003年4月])にも、前半部分で、『文学者』に集う者どもの逸話が出てきます。

 こちらの作は、上坂さんが名古屋の同人誌『作家』が主催する作家賞の候補に、何度も何度も挙げられ落とされる経緯がスジのハナシです。だいたい「作家賞」ってご大層なことぬかして全国の同人誌作品を候補にするくせに、けっきょく受賞作は、『作家』に掲載されたものばっかしじゃないのか、みたいな噂バナシのあとに、『文学者』のことが出てきます。

「丹羽文雄主宰の「文学者」では、「文学者賞」というのが作られていた。いつ始まり、いつ終わったかは定かではないが、三、四年は続いた、と思う。全くの内輪の賞で、私などにはぜんぜん関係がないといえた。あるじ(引用者注:丹羽)に近い年齢の先輩たちがごろごろしていて、その人たちが複数で編集委員となっており、委員の作品は優先して掲載された。三百人ほどが、「十五日会」で年一回投票するが、記名投票なので、その先輩たちに評(原文ママ)が集まってしまう。

「これ、インチキだよな」

 若手の同輩たちは、呟く。若い者が、そっぽを向いてしまうのは、当然といえた。」(「選評」より)

 そうだよなあ。この仕組みというか雰囲気を、黒岩重吾さんも唾棄しちゃったんだもんなあ。

 ええと、ちなみに威張りくさった先輩方を鞭打つつもりは毛頭ないんですけど、「インチキ」とまで言われた「文学者賞」の受賞者・受賞作品を、やっぱり知っておきたいですよね。中村八朗さん『文壇資料 十五日会と「文学者」』(昭和56年/1981年1月・講談社刊)からご紹介しますと、以下のとおり。

  • 第1回(昭和26年/1951年度) 武田繁太郎「風潮」、吉岡達夫「隠花植物」、浜野健三郎「非時香果」
  • 第2回(昭和27年/1952年度) 瓜生卓造「彷徨」、小田仁二郎「たん、たろう」、中村八朗「アチエの敗北者」
  • 第3回(昭和28年/1953年度) 十返肇「贋の季節」、近藤啓太郎「黒南風」、荒木太郎「湖のある風景」
  • 第4回(昭和29年/1954年度) 森啓祐「Xと物質」、見島正憲「低い土地」、村松定孝「日本文学の系譜」

「「文学者賞」は第四回までで終った。というのは、昭和三十年十二月号(通算六十四号)で「文学者」は休刊になるような情勢にあったので、その年の「文学者賞」は見送りになってしまった。第二次「文学者」が復刊になっても、「文学者賞」は復活しなかった。」(『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第六章 リッツからモナミ時代へ」より)

 だそうです。

 そうそう、上坂さんの「選評」に戻りますと、引用した箇所の直後に、一人の先輩会員が登場します。その場面が、ワタクシがこの作品のなかでいちばん好きな部分です。声を上げて笑っちゃいました。

「先輩のひとりが、「十五日会」のある日、私のところに、まっすぐ寄ってきた。日頃、会話を交わしたこともない人なので、私はひどく緊張した。

「君は第一回の小説新潮賞で、ずいぶん騒がれたね」

「は?」と私は目を見張る。ずいぶん昔の話ではないか。先輩は、つけ加えた。

「君はもう芥川賞候補にも直木賞候補にもなることはないよ」

 冷たい目でそう言うと、上席の方にさっさと大股で行った。私は呆然とする。なんでそんなことをこの先輩から宣告されねばならないのか。」(「選評」より)

 この先輩(某大学の文学部教授)の、ただ単純に後輩をイジめるためだけの、究極にくっだらない一撃。ぐわははは。もう笑いゴトです。

          ○

 上坂高生さんといえば、昭和20年代から現在までの、同人誌まわりで起こった自らの体験をいろいろなかたちで書き残しておいてくれる貴重な存在です。

090913_2  『有馬頼義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と「文学者」』(平成7年/1995年6月・武蔵野書房刊)なんちゅう著書もあります(書名の「頼」の字は、ほんとは旧字の「賴」です)。

 本書前半部の「有馬頼義と「石の会」の士たち」(初出『文芸広場』平成2年/1990年10月号~平成3年/1991年12月号「不屈の統率者―有馬頼義と「石の会」―」)は、これまた、あんまり笑っちゃいけないけど、ついニヤリとさせられる作家たちの行動・発言が満載です。

 たとえば、「直木賞がずっと求めてきた質の高い作品」がはじめて受賞した、とまで言われた第31回(昭和29年/1954年・上半期)受賞の有馬頼義さん。その後、さんざん大衆寄りの小説を書きまくりましたが……。

「有馬さんは『三十六人の乗客』や『四万人の目撃者』などで、松本清張とともに推理小説の隆盛を築いた人だが、それからは足を洗っていた。かなり以前からである。

「芥川賞がほしいね、芥川賞が……」

 例会に行くたびに有馬さんは、そんなことを口にした。初めは冗談をいっていると思ったが、やがて私は、それは有馬さんの本音だとわかってきていた。直木賞作家、つまり通俗作家とみなされて終わりたくはなかったのだ。」(「有馬頼義と「石の会」の士たち」「二、一九六九年(昭和四十四年)」より)

 いいじゃないですか、通俗作家でも。そんなにイヤですか?

 あるいは、ちょいと意外なメンツ同士の、冷たい戦争もありました。早乙女貢 VS. 後藤明生です。

 昭和46年/1971年、有馬氏を囲む「石の会」の例会で、有馬さんが同人誌を出す気はないかと参加者に提案します。かなり真剣な様子だったそうで、ああ、有馬さん、商業主義の小説ばかり書くことに倦んでいたんだな、とわかるんですが、ここで反対の声をあげた人がいます。後藤明生さんです。

「入り口近くにすわっていた後藤さんが、これまた日頃にない真面目な顔でいった。もちろん酒はだいぶはいっている。

「チャンバラを書く人といっしょの同人誌は出せません」

 それはいかにも後藤さんらしい毅然とした態度だった。

「馬鹿にしないでください。ぼくだって、書くとなれば、ちゃんとしたものを書きますよ」

 有馬さんの近くにいた早乙女(引用者注:早乙女貢)さんは立ちあがりコップにウイスキーを注いでいたが、きっとなって振り返り、これまたいつになく怒りに満ちた表情と言葉でいった。

 後藤さんは、もはや何事もいわず、コップを傾けている。早乙女さんも、それ以上はいわない。

 有馬さんはソファの肘かけに肘をつき、その手で右側の頭を支えるようにして、うつむく。」(同「有馬頼義と「石の会」の士たち」「四、一九七一年(昭和四十六年)」より)

 ううむ。これは、あんまり笑えんなあ。チャンバラのなかにだって、後藤さんの文学観に添うような種類のチャンバラがあったって、おかしかないんだけど。

          ○

 上坂さんの短篇「選評」に戻ります。

 この作品では、上坂さんが属していた『文学者』が昭和49年/1974年で消滅してしまい、その後、八幡政男さんのツテで同人誌『碑』に参加するところが描かれています。

 『碑』。いしぶみ。じつはワタクシも、この同人誌には前々から興味があったのです。

 なんつったって、長崎謙二郎さんが興したアノ雑誌でしょ。彼を追悼した号(18号[昭和43年/1968年9月])に、その妻・田村さえさんが謙二郎さんのことを綴った文章が載っているっていうんですからねえ、そりゃ直木賞オタクのみならず、芥川賞オタクだって、目をつけなきゃいけない雑誌です。

 はじめて『碑』の会合にやってきた上坂さん。そこに、謙二郎亡き後、同誌の責任者を継いでいた人が待っていました。稲葉真吾さんです。

「「やあ、どうぞ」と奥に坐っていた人が手招きをした。「責任者の稲葉真吾です」

 戦前、芥川賞候補の筆頭にあげられ、賞の予告があったのに、最後になって、戦時色が弱い、ということで降ろされた人である。菊池寛は平あやまりの手紙を書き、代わりに、「文芸春秋」に作品を載せた。『炎と倶に』という。」(「選評」より)

 へえ、稲葉さんも、受賞一歩手前作家のおひとりでしたか。

 で、またその稲葉さんも、通俗小説大嫌いだったんだそうで。

「「碑」という誌名は、おのれの生き方を、こつこつと刻むことになる、と稲葉さんは説明をしてくれる。

「通俗小説を書くような奴は入れないよ。藤井重夫というのがいたがね、彼は二年ほどでやめた。そのあと直木賞をとったが、そんな奴とわしとはまるきり違った。あいつが死んだとき、ざまあみろ、と思ったね」」(同「選評」より)

 こいつあ、大工の棟梁、口が悪いね。かたや藤井重夫さんも、思ったことをズケズケ口にする、そうとう純粋な人だったらしいので、たしかにこの二人がやり合ったら、穏やかなままでは済まなそうです。

 けっきょくのところ、直木賞ってのは、文学に真剣にとりくむ人にとっては、「穢らわしい商業主義の、金もうけのためだけの通俗小説」の方角にあるものなんでしょうか。

 「選評」の一節にも、こんな記述があります。

 上坂さんが何回めかの作家賞の候補になり、落選したとき、時の選考委員、豊田穣さんが「氏の名前は十年以上も前から知っている。力のある作家である。今更作家賞の候補に、という感もある」と選評に書いたのだそうです。

「これを読むとまたしても、二十年も前に「文学者」の先輩が、君はもう芥川賞の候補にも直木賞の候補にもなれないよ、と言った言葉が思い出される。

 この国の文学の世界は、結局は、芥川賞以外にはないことになる。芥川賞を得た人の大半が、それきりになってしまう。」(同「選評」より)

 そうなんですよね。なまじ、直木賞は「芥川賞っぽいなり」のままやってきちゃったから、「純文学と大衆文学の、二つの賞」っぽく見られますけど、実態は、そうじゃないんですよね。

 文学の賞は、芥川賞だけなんだと。そう、ながらく商業主義から離れて文学に打ち込んでこられた上坂さんの見立ては、おそらく正しいようです。

 じゃあ直木賞は? ……そういう世界とはまったく無縁の、文学でもなく、もしかしたら小説でもない、ヘンテコリンなものどもを対象とする自由な賞だったのかもしれません。いや、そういうものであり続けてほしいと、ワタクシが願っているだけかもしれませんけど。

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