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2009年8月23日 (日)

直木賞とは……受賞したところで、それだけで自動的に作家が売れっ子になるものじゃない。――野口冨士男「真暗な朝」

090823 野口冨士男「真暗な朝」(昭和44年/1969年12月・講談社刊『暗い夜の私』所収)

 おいおい、野口冨士男のこういう作品を「小説」と呼んでいいのかい。と気にかかりながらも、いちおう、冨士男さん流の文壇史に取材したものは、「小説」と呼んでもいいらしいので、「直木賞を描いた小説」のひとつに選んでみました。

 冨士男さん自身、直木賞にはとても縁があります。

 戦前には芥川賞サイドからお声がかかるほどの純文学畑でスタート、それが時を経て昭和30年代中盤に、長篇の単行本『二つの虹』で、唐突に直木賞候補。こんなもの純文学作家にとっては迷惑以外のなにものでもなく、あやうく受賞させられなくて、冨士男さんよかったですね、っていうなりゆきは、木山捷平とか田宮虎彦八匠衆一とか野村尚吾などなど、お仲間がたくさんいて、昭和30年代の直木賞ではよくあることでした。

 と言いつつ、冨士男さんの『二つの虹』が「受賞」の危機からまぬがれたのは、まさに幸運の一言に尽きます。何となれば、第40回(昭和33年/1968年・下半期)の選考会は、そうとうの混戦で、選考会の流れが少し変わっていれば、冨士男さんの『二つの虹』、深田祐介さん「あざやかなひとびと」、津田信さん『日本工作人』あたりは、受賞作(城山三郎「総会屋錦城」と多岐川恭『落ちる』)のどちらかと、スルリと入れ替わっていたかもしれないからです。

 まあ、かりに『二つの虹』が直木賞をとっていたとしても、冨士男さんが動じたとは思えませんけど。文壇のウラもオモテも知り尽くしている人ですからねえ。たとえ、そんなもん授けられたって、ジャーナリズムの大量消費攻撃をまともに受けることなく、地道におのれの仕事を続けられたことでしょう。

 その地道な仕事のひとつに、文壇史を中核に据えた短篇群があります。短篇集『暗い夜の私』もそれに属する一冊で、こんな作品が収められています。

  • 「浮きつつ遠く」…昭和10年/1935年前後。河出書房の文芸誌『行動』のことなど。
  • 「その日私は」…昭和11年/1936年、二・二六事件のとき。また昭和16年/1941年、太平洋戦争開戦のとき。
  • 「ほとりの私」…昭和12年/1937年前後。岡田三郎、大森義太郎、島木健作のことなど。
  • 「暗い夜の私」…昭和12年/1937年~昭和18年/1943年前後。冨士男、最初の長篇小説を発表したころ。
  • 「深い海の底で」…昭和16年/1941年~昭和19年/1944年前後。青年芸術派、『現代文学』、『新文学』のことなど。
  • 「真暗な朝」…昭和20年/1945年~昭和24年/1949年前後。
  • 「彼と」…十返肇のこと。

 それで、今回取り上げるのは、戦後まもなくの雑誌界とか、日本文芸家協会とかのことが描かれている「真暗な朝」です。

 直木賞のことが出てくる、って言っても、純文学の王道(裏街道?)を歩く冨士男さんの筆ですから、こそっと触れる程度に書かれているだけです。残念。

 当時、よく行き来していた、あるいはよく逢った作家のことが、連続して描かれています。吉田精一、豊田三郎、徳田一穂、水上勉、田宮虎彦、十返肇、牧屋善三青山光二。と来て、次が柴田錬三郎です。

「宝文館(引用者注:「若草」を出していた出版社)では、柴田錬三郎君にも遭った。私もそうであったが、彼等も原稿を売り歩いては稿料を取りたてるためにそういう社へ姿を現わしていた。そして、外へ出ると、

「今や何を書くかよりも、如何に原稿料を取り立てるかが至難の時代だな」

と笑いあった。」

 これに続く冨士男さんの回想によれば、当時のシバレンは、夫人が入院中で、少年向きに海外名作のリライトを書きまくっていたのだとか。

 純文学作家が日銭をかせぐために、とりあえず少年少女向けの原稿で生活をしのぐ、の図です。

          ○

 のちの大・大衆通俗作家であり、純文学をハナから嫌悪した男、柴田錬三郎。彼が、直木賞をとった直後あたりのことが、「真暗な朝」に出てきます。

「二十六年下半期の作品『イエスの裔』で彼が直木賞を受けた直後に、私は彼が新宿駅前から歌舞伎町へ通じる道路の左側にあった新宿道場というパチンコ屋から出て来たところで行き遭ったので、

「受賞して、忙しいんじゃないの」

 と、たずねると、

「門前雀羅ですわ」

 と口をへの字にまげながら、彼は薄笑いを浮かべた。

 その時の、ニヒリスティックな表情もわすれがたい。」

 おなじみ、シバレンのニヒリスティックな微笑が、ここにも出てきました。

 それで、シバレンや同時代の直木賞・芥川賞受賞者の、受賞したっていうのに原稿の注文なんてまるでナシ状態、っていうのは、よく知られたハナシです。要は「石原慎太郎以前と、以後」の歴史をかたるときに、だいたい語られるエピソードだからです。

 今や大衆文学史の定番、大村彦次郎さんの『文壇栄華物語』(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊)でも、もちろん、そういう流れに語られています。

松本清張五味康祐より一年早く直木賞を受賞した柴田錬三郎も、受賞によって文壇へ登録されたというのは名のみで、どの雑誌からも音沙汰がなかった。その当時、一流の娯楽小説雑誌といえば、「オール讀物」と「小説新潮」で、他に季刊の「別冊文藝春秋」があったが、各誌とも新人に対してはかなりきびしい態度を示した。このことは松本、五味より一年遅れて、二十九年の上半期に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義の場合も同じだった。受賞して当座陽が当るかと思ったものの、一向に原稿の注文がなかった。」(『文壇栄華物語』「第十二章」より)

 それで有馬さんにしろ、シバレンにしろ、いったい自分はどういう方向に進めばいいかのか、と数年間、悩み苦しみ、暗中模索してそれぞれ、道を切り開いていくわけです。とくにシバレンの場合は、時代小説、剣豪小説に活路を見出し、眠狂四郎をうみだす、っていうサクセス(あるいは堕落)ストーリーが待ち受けています。

 シバレン以下、当時の受賞者の努力は、そりゃあ尊い。素晴らしい。拍手喝采。……とそれを再認識したうえで、じゃあ、時代が経過して直木賞の性質がまた変わってくれば、「直木賞受賞、一夜あければ人気作家の、ジャパニーズ・ドリーム」なのかどうか、といえば、うーん、それも何だか幻想のような気もするんだよなあ。

 そもそも、たしかにシバレン時代と違って、受賞すればかならず新聞に載って、テレビニュースになって、ブログにコピペされて、一躍名が知られるようになったかもしれません。でも、よほどの小説好きでないかぎり、そんな一作家の名前は、数時間たつと忘れます。

 受賞までにある程度、出版社とのパイプができていた人はともかく。たとえば、当時のシバレンクラスの作家が、いま直木賞を受賞して、わんさか小説原稿の注文が殺到するものなのかどうなのか。1年、2年で流行作家の地位にのぼりつめれるものなのか。もし、「直木賞」ってやつは、そんな力を持っているのだと主張する人がいたら、あなた、笹倉明さんあたりが泣いて抗議しますよ、たぶん。

 直木賞の持つ、作家を押し上げるパワーなんて、ひょっとしてシバレンの頃と今とで、そんなに違わないんじゃないかなあ。雑誌界、出版界、マスメディア界が変わっただけで。

          ○

 シバレンの苦悩の数年については、そうだ、「真暗な朝」の野口冨士男さんが別に、座談会で発言してましたっけ。

090823_2  『座談会 昭和文壇史』(昭和51年/1976年3月・講談社刊)って本があります。編者は野口冨士男さんご自身です。

 ここで荒正人、小田切進といっしょに「昭和二十年代の文学」を語り合う機会がありました。その途中で、風俗小説やら中間小説やらがテーマになります。

 風俗小説の文学史的地位ということも今(引用者注:昭和50年/1975年)だからいえるので、当時は全くわからなかった。風俗小説と中間小説と大衆文学とはお互いにジャンルが違うみたいに思っていましたね。ほんとうはいっしょなんだけれども。(引用者中略)

 さっき小田切さんがおっしゃった週刊小説というものが週刊誌を舞台にして出て、これはこれで広い読者層が拡がっているんですね。「群像」「文学界」「文芸」を読まぬ人たちでも、それを文学あるいは小説だと思って読んでいるということは否定できない事実です。

野口 だから、作家自身もそこで変ってきて、たとえばああいう傾向がなければ、柴田錬三郎はいまだに純文学作家だったかもしれない。それが「眠狂四郎」になるというのは、やっぱりこれの影響だと思いますね。

小田切 新しい時代をつくった作品ですね。」

 冨士男さんは最後まで純文学作家だったんでしょうけども。果たして、週刊誌とその連載小説がなかったとしたら、柴田錬三郎は最後まで純文学作家だったかどうだか。人それぞれです。

 この対談では、おっと、直木賞のことにも触れられているんで、ついでに引用しちゃおうっと。

野口 戦前の純文学と大衆小説というような単純な割切り方はできなくなりましたね。

 あれは便宜的なものですよ。もちろん効果はありますけどね、あれだけじゃ絶対割切れない。(引用者中略)

野口 そういう意味で戦前の大衆作家は、不幸だったと思うのですよ。たとえば佐々木味津三なんて人、戦後だったらあんなに劣等感を持たずに済んだ。

 劣等感じゃないけど、今だって被差別感は持っていますよ。

小田切 芥川賞をもらうより、直木賞をもらったほうが、作家生活は安定するんだ、といわれるようになってきましたけれども、それでも「大波小波」が今度の直木賞の選び方について疑問を出していました。」

 この座談会の初出は、『風景』昭和50年/1975年5・6月号です。

 まあ、それから30年後の今だって、ある種の被差別感(とか差別感)は残っていますよ。作家生活の安定度とは、何の関係もないのでして。その芥川賞と直木賞のあいだに横たわる「差別」って、ひょっとして男と女のあいだに横たわるソレと同質のものかもしれないけど。

 それにしても、「大波小波」は、さてさて、どんな面白いツッコミを入れたのか。時期からすると、第72回(昭和49年/1974年・下半期)の、半村良「雨やどり」と井出孫六『アトラス伝説』受賞回にたいするツッコミなのかな。今度、調べときます。

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