直木賞とは……受賞すれば名前が一躍メジャーになり、親戚連中を見返せる。――東野圭吾「もうひとつの助走」
東野圭吾「もうひとつの助走」(平成17年/2005年4月・集英社刊『黒笑小説』所収)
「直木賞を描いた小説」、新たな定番といえば、これでしょう。「もうひとつの助走」です。
パロディものです。こういう類の作品を、知ったかぶりして講釈たれるのは、心底はずかしい。要はパロディものなんて、元ネタになっているモデルや本家を知っている人だけが楽しめればいいわけであって、わざわざ解説するなんざ愚の骨頂。ほんと、そう思います。
思いつつも、あえて愚をおかします。愚かな行為がお好みでない方は、ぜひこんなブログ無視して、東野圭吾さんの『黒笑小説』を読んでお楽しみください。
ええと、「もうひとつの助走」を紹介するにあたって、絶対に忘れちゃいけないこと。それはこの作品がワタクシたちの前に現れたタイミングが、3度あるってことでしょう。
一回目。『小説すばる』平成11年/1999年7月号。
二回目。単行本『黒笑小説』(平成17年/2005年4月・集英社刊)に収録されて出版。
三回目。文庫本『黒笑小説』(平成20年/2008年4月・集英社刊)に収録されて出版。
3度とも作品の内容はまったく変わっていません。そのかわり、東野圭吾さんと直木賞を取り巻く状況は、3度とも変わりました。劇的に。
それゆえにこの作品は「奇跡の小説」とかいう称号とともに、誰が言い出したということなしに、呼ばれることになるのです。
○
作品のなかで、直木賞がどのように描かれているか。少しご紹介してみます。
賞の具体的な名前には一度も触れられていません。「灸英社」(ルビ:きゅうえいしゃ。ルビは初出にはなく、単行本・文庫本に付されたもの。以下同じ)がスポンサーとなって、「新日本小説家協会」が主催する賞です。
寒川心五郎(ルビ:さむかわ・しんごろう)は、デビュー30年のベテラン作家。ミステリ的な小説を灸英社から出して、今回で5度目の候補にあがります。
さてこの賞をとると、いったい何がどうなるのか。寒川は心のなかで、次のように思っています。
「受賞ということになれば、本の売れ行きも全然違ってくる。本屋にずらっと俺の本が並ぶぞ。寒川心五郎という名前が一躍メジャーになる。クレジットカードだって簡単に作れる。テレビからだってお呼びがかかるかもしれない。寒川心五郎と聞いて、「あらあ、ごめんなさい。聞いたことないわあ」と馬鹿笑いをされなくても済む。俺のことを売れない作家だと思っている親戚連中を見返してやることもできる。」
それが真実なら、この賞は直木賞よりも社会的影響の大きいニュース性をもっていることになります。だってあなた、少なくとも、現実的にまわりの人に、直木賞受賞者の名前を言って、「ああ、あのひと」とうなずいてもらえる割合が、どのくらいありますか? 直木賞作家の名前なんて、多くの人は興味もないし覚えてもいません。そんなもんです。
寒川5度目の候補となった今回は、おそらく冬から春にかけての時期。全候補作中、時代小説はひとつもなく、一作を除いてみなミステリ的な小説です。その例外の一作を書いたのが乃木坂(ルビ:のぎざか)という女流作家。もうひとり、今度で3度目の候補の望月(ルビ:もちづき)と、それから寒川の3人が、実質的に受賞の可能性があるのではともっぱらの評判です。
選考会は5時に始まりますが、過去1時間以内で終わったことなど一回もなく、たいてい結果が出るのは7時から8時。NHKの夜のニュースに間に合うかどうかの時間帯です。
選考委員のうち、作品内に名前が登場するのは次の5名。
- 花本(ルビ:はなもと。望月を推しそう)
- 鞠野(ルビ:まりの。乃木坂を推しそう。前回の選考では一人、乃木坂を推した)
- 狭間(ルビ:はざま。時代ものが好き。ミステリ・SFが嫌い)
- 夏井(ルビ:なつい。大御所。若手作家にも強烈なライバル意識を燃やす)
- 平泉(ルビ:ひらいずみ。選考会のたびに言うことが変わる。望月を推しそう)
有力視されている3人の候補作家は、みんな2度以上の候補経験がある人ばかり。このあたりが、“本家の助走”の物語から20年以上、時がたって書かれたその時代性を感じさせます。
○
そうそう、“本家の助走”……筒井康隆さんの『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)に比べると、こっちは短篇ってこともあって、作家とそれを取り巻く編集者たちの、オモテの顔と、内心で考えていることのギャップに絞って描かれていて、そこが読ませどころです。“本家”みたいに、選考委員たちが俗物(っていうより、“本家”の場合はほぼ怪物)っぷりまんまんで描かれることもありません。
初出の『小説すばる』誌をみてみますと、イラストは浅賀行雄さん。本文の前に、こんなキャッチ文(あらすじ)が付けられていました。
「受賞か、また落選か?
苦節三十年候補五回目寒川心五郎は文学賞の選考結果を待っていた。
作家編集者選考委員の思惑期待が入り乱れ!
そして、運命の電話が鳴った。」
このとき、東野さんは作家デビュー14年目くらい。直木賞の候補になったのは、その年(平成11年/1999年)の1月に、第120回(平成10年/1998年・下半期)で『秘密』が取り上げられたその1回きりしかありませんでした。
当時だって、さすがに30年も作家稼業を送っているようなベテランが、候補になるケースはなくて、そういう意味でこの「灸英社がスポンサーの賞」は、直木賞を連想させつつ、そこまで似ていない、架空度の高い小説でした。
そうは言っても、苦節10ン年でようやくはじめての直木賞候補、それで落とされてまもなくこんな作品を発表するなんて、なかなか勇気がありますね、ってところでしょうか。
ご本人いわく、
「1999
直木賞落選という派手なセレモニーから、この年は始まった。本当にいろいろなことのあった一年だった。直木賞に続いて、吉川英治文学新人賞にも落ちた。デビューして十四年の人間が新人ということ自体おかしいと思っていたから、これには何とも思わなかった。よく落ちたなあと感慨深かっただけである。」(平成19年/2007年1月・文藝春秋刊『たぶん最後の御挨拶』
所収「I. 年譜」より)
と、すでにかなり落選慣れ(ってコラコラ)していたところに、直木賞落選なるセレモニーが加わって、「苦節三十年、五度目の候補」っていう寒川心五郎が生み出せたのかもしれませんね。
こんな回想もあります。
「『黒笑小説』(2005年4月 集英社)
『怪笑小説』、『毒笑小説』に続く第三弾の、お笑い小説集である。これまでで一番の出来だと思っている。文壇ネタが多いが、担当者から自粛するようにいわれたこともある。」(前掲書所収「II. 自作解説」より)
担当者が、この作品から呪いのパワーを感じ取ったからなのか、どうかは知りませんけど、発表から5年後、平成16年/2004年7月に東野さんが『幻夜』で第131回(平成16年/2004年・上半期)の候補に挙がり、そして落ちたとき、しきりに「『もうひとつの助走』の呪い」論がささやかれたものです。寒川先生ほどじゃないにしても、東野さんデビューから20年弱、そして寒川先生に追いついて(?)ついに5度目の直木賞候補(落選)。
ところが、これが呪いなのか幸いなのか、よくわかりません。翌年4月に、「もうひとつの助走」が単行本に収録されて広く読者に流布します。初出のころにはなかったパワーが、自然とこの作品にみなぎることになったのは、まさに僥倖でした。直木賞に5度落ちた人気作家が、文学賞に5度も候補になって期待と不満たらたらの作家のことを描いた小説を出す。
そして、『黒笑小説』のあのカバー写真です(オモテとウラ表紙含めて)。本書には、こう書かれています。
「装幀 今井秀之
写真 NOBU
(某文学賞の選考結果を編集者と待つ著者)」
前掲の『たぶん最後の御挨拶』の「自作解説」によれば、写っているのは著者ご本人と実際の編集者たちだそうで、都内の某焼鳥屋で撮影したものとのこと。
小説もさることながら、あのカバー写真にゃ笑った、参った、という読者が(たぶん)急増して「もうひとつの助走」に込められた呪いも、ふっとんだ。のでしょう、おそらく。
『黒笑小説』が文庫になるころには、東野さんも晴れて直木賞受賞作家(第134回 平成17年/2005年・下半期 『容疑者Xの献身』で受賞)。ただし、文庫のカバーは、やけにあっさりとしたものになっちゃいました。「もうひとつの助走」にまといつく怨念または笑いも、否応なくレベルダウンしてしまうわけですが、いや、3度市場に現れて、内容は全然変わっていないのに3度ともちがった風味で受け止められる、奇跡の変遷を、この数ページの短篇が持っているそのことだけでも、ワタクシは一読者として、嬉しく楽しいのです。
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