史上唯一の70代候補。年下の連中から酷評されて、受賞の望みも断たれて、ややムッとする。 第112回候補 池宮彰一郎『高杉晋作』
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- 【歴史的重要度】…



4 - 【一般的無名度】…

2 - 【極私的推奨度】…


3
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第112回(平成6年/1994年・下半期)候補作
池宮彰一郎『高杉晋作』(上)(下)(平成6年/1994年11月・講談社刊)
前クール(平成21年/2009年3月1日付)のエントリーで田口ランディさんの『モザイク』を取上げました。ならば当然、この方を無視しちゃいかんぞな、さあ池宮彰一郎さんに壇上に姿をさらしていただこう。ってわけじゃありません。盗作ファンのみなさま、申し訳ございません。
そうは言っても、池宮さんを語るにあたって、『遁げろ家康』や『島津奔る』の一件(いや、二件)を省いて進めるほど、ワタクシも紳士じゃないもので。まずは、そこから触れます。
『遁げろ家康』は、平成9年/1997年1月3日・10日号~12月26日号に『週刊朝日』に連載。その後、単行本化、文庫化と順調に版をかさねたものの、平成14年/2002年の9月にいたって版元の朝日新聞社に、読者から指摘が寄せられる。いわく、司馬遼太郎の『覇王の家』と、よく似た表現・記述が多いのではないか、と。それで平成14年/2002年12月25日付で絶版、および自主回収。
『島津奔る』は、平成8年/1996年7月18日号~平成9年/1997年10月23日号に『週刊新潮』に連載。その後、単行本化(第12回柴田錬三郎賞も受賞)、文庫化と、かなりの売上げを稼いだものの、平成14年/2002年の12月にいたって版元の新潮社に、読者からまたも指摘が突きつけられる。いわく、司馬遼太郎の『関ケ原』と、まるで引き写しに近い表現・記述が多いんじゃないかコノヤロ、と。それで平成15年/2003年4月1日付で絶版、および自主回収。
池宮さんご本人の、類似表現をまねいてしまった原因の説明やお詫びについては、他のサイトをご覧ください。人の作品から表現を盗むなんざ、ひでえ奴だ、それで作家を名乗るとは言語道断、ってご意見が出るのもごもっとも、そんな切れ味鋭いコメントの類も、どうぞ他のサイトをご覧ください。
ここでは、これら二件で、ああ、池宮さん残念だよ、しょぼーんとなってしまった、池宮さんに近しい方々の思いを、ちょこっと引用しておきます。
まずは、栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史――市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)でも触れられた『朝日新聞』の記事、「「類似表現で絶版」慎重に 池宮彰一郎「島津奔る」問題で識者指摘」より。お二方のコメントです。
「「類似即絶版」という流れが定着することへの、懸念の声も上がっている。歴史作家の安部龍太郎氏(47)は「同じ史料や軍記などを参考に事件を描けば、似た描写や表現になることはある程度やむをえない。先行作品と似ているから絶版という措置を取られると、歴史小説の自由な表現をそがれる恐れがある」とする。
文芸評論家の縄田一男氏(45)も「原史料との厳密な照合が必要で、表面上の類似だけの即断はさけるべきだ」と話す。」(『朝日新聞』夕刊 平成15年/2003年4月9日より)
プラス、この記事を書いた佐藤憲一記者の感想も。
「作家にそれなりの事情があったとしても、連載、単行本化、文庫化まで三度の編集作業を経た出版社側がなぜ長年、類似を発見し改善できなかったのか。両作とも十万部以上のベストセラーで、柴田錬三郎賞を受賞した『島津―』が、近年の歴史小説の名作と評価されていることを考えれば、残念でならない。」
さらに池宮さんが亡くなったときの、『朝日新聞』と『読売新聞』の記事があります。これらもやっぱり「池宮作品=盗作のイメージが残っちゃって、いやあ残念だ」の路線を継承しています。
『朝日新聞』の編集委員、白石明彦さんは「作家・池宮彰一郎さん 歴史小説に斬新な人物像」のなかで、こう嘆きました。
「「司馬史観を超えなければ新しい歴史小説は生まれない」と熱く語る言葉が今も耳に残る私は、あの独創的な発想の持ち主がなぜ、という思いが消えない。」(『朝日新聞』夕刊 平成19年/2007年6月1日「惜別」より)
いっぽう、拙ブログ二度目のご登場となるのが、『読売新聞』文化部記者、石田汗太さん。「作家・池宮彰一郎さん 無頼が描く「美しい生」」なる記事を書きました。
「同年生まれの司馬遼太郎氏を敬愛し、「常にその背中を追いかけていた」(司さん(引用者注:息子で作家の池上司))。それだけに、柴田錬三郎賞を受賞した「島津奔(はし)る」など2作が「司馬作品との類似表現多数」との指摘を受け絶版・回収になったのは、皮肉としか言いようがない。「島津奔る」は、司馬氏が「定見なし」と切り捨てた薩摩の島津義弘を正反対の視点から英雄的に描いた代表作で、作家にとっても、小説界にとっても、計り知れない傷を残した。
この件について、作家に直接尋ねる機会は、ついに訪れなかった。最後の連載担当を務めた角川書店常務の新名新さん(53)によれば、一時「筆を折る」とまで漏らしたという。いかなる葛藤(かっとう)が胸の内にあったのか、もう知るすべはない。」(『読売新聞』夕刊 平成19年/2007年6月5日「追悼抄」より)
ほんとほんと、「もう知るすべはない」んですけど、少しだけ想像しますとね。版元から「司馬さんの作品と、似てる表現があるみたいですよ」と知らされたときに、池宮さん自身がどれだけショックを受けたことか。……このショック、たぶん年齢を重ねた者のみが体験することを許されたものだったりして。ねえ、池宮さん。
「人間の老化は、十八歳ごろから始まるという。
その自覚症状は、四十歳台からである。頭髪に白髪がまじり、薄くなる。観た映画の俳優の名を忘れる。読んだ小説の作中の人物が思い出せない。(引用者中略)
六十歳になると、ど忘れが頻発する。いま手許にあった物が突然亡失する。ひょいと置いた眼鏡や煙草がどうしても見当らない。
七十歳近くになると、老人惚けが顕著になる。思いついた事があって茶の間に行く途中、妻が台所で首を傾げて立っている。聞けば用向きを忘れたという。惚けを笑って、さてわが身となると、こちらも用件を失念して、どうしても思い出せない。
そういう身で、時代小説を書く事自体無理である。史料を漁り史実を確めるのは、壮齢の人間の想像を越えた手間暇がかかる。せめて時間の余裕があれば、と思うが、原稿依頼には必ず期限が附せられる。締切間近となる辛さは筆舌に尽し難い。無理して書くには体力が続かない。」(平成9年/1997年2月・新潮社刊『義、我を美しく』
所収「時計の音」より ―初出『歴史ピープル』平成7年/1995年春号)
若いころから段違いに記憶力がよくて、それでまわりの人から褒められている人ほど、たぶん「自分がいつの間にか忘れてしまっている」ことに気づいたときのショックは大きいんじゃないかなあと。……あくまで想像です。
「池宮さんと親しかった新潮社の元編集者宮澤徹甫さんは語る。「酒席で人の脚本をそらんじたことがあり、後でその映画を見て一字一句一致しているのに驚いた。司馬さんの小説を読み込み、類似表現が無意識のうちに出たのだろう」
長男で作家の池上司さんも父の異常な記憶力について触れ、「暗唱できるほど記憶の中に刷り込まれていた司馬さんの文章が、創作の最中に自分の文章と判別できなくなったのではないか」という。」(前掲『朝日新聞』夕刊「惜別」より)
ワタクシだって老いる身ですし、いや、そろそろ物忘れ攻撃を食らいはじめてもいて、あんまり当時の池宮さんを老人老人とあげつらいたくはないんですけど。いちおう今日のエントリーで書こうとすることも、年齢のことでして。
○
『高杉晋作』は、池宮さんが『四十七人の刺客』に続いて発表した長篇の第二作目です。
文久二年、上海に向かう貿易船に23歳の長州藩士、高杉晋作が乗っていました。驕慢で可愛げがなく、それでも周囲の人からは自然とその態度が許されていた若者。たしかに、彼には人を惹きつけてやまない〈何か〉がありました。
……という歴史上の有名人、幕末の高杉晋作が尊王倒幕の運動に身をささげ、28歳の若さで亡くなるまでの5年間を描いていきます。
池宮さんは『平家』下巻(平成15年/2003年6月・角川書店刊)の「あとがき」で、
「第一作『四十七人の刺客』上梓後、「あとがき」を書かないことを常とした。(引用者中略)
作者は弁明せず。それは鉄則である。」
と書かれていますが、文庫はそのルールの埒外にあったのか、『高杉晋作』の文庫には「あとがき」が付いています。
あらすじをなぞる代わりに、池宮さんのこの「あとがき」によって、本作を紹介させてもらいましょう。
「薩摩、特に西郷隆盛を維新最大の英雄とした小説があった。また、土佐、坂本龍馬を維新回天の最高指揮者とした小説もある。それらは、薩摩、あるいは土佐の観点から維新史を展望した。が、ふしぎなことに、長州から維新史を眺めた小説は銖錙である。
筆者は、長州の高杉晋作の立場から、維新革命を直視しようと思い、筆を執った。(引用者中略)
この作品の編集者は、講談社文芸第一出版部の川端幹三氏である。
川端氏は執筆に当り、筆者に二つの方針を提示した。
奔放に書くこと。
高杉晋作の短かい生涯を伝えるため、早いテンポで書き続けること。」(平成9年/1997年9月・講談社/講談社文庫『高杉晋作(下)』所収「あとがき」より)
まさに、文章は短く、ひんぱんな段落替えで、テンポよく晋作の死までを疾走します。
○
過去、直木賞の候補に挙げられた人は、500名を超えます(予選候補として名の挙がった人も含む)。そのなかで、池宮彰一郎さんただ一人しか経験していない世界があります。
70歳をすぎて直木賞候補になった経験です。
池宮さんには「「柴田錬三郎賞」受賞に際して」というエッセイがあります。既出のエッセイ集『義、我を美しく』は平成12年/2000年5月に新潮文庫におさめられたのですが、このときに同書に新たに追加されました。初出は『青春と読書』平成11年/1999年12月号です。
映画とテレビの脚本家から、60歳をすぎて時代小説を書く作家になり、直木賞に2度候補となりながら落選して、柴田錬三郎賞をとった……っていう同じ道を歩んだ隆慶一郎さんとの思い出も語られています。
いやいや、それより何より、拙ブログで引用するにふさわしいのは、B社のN賞の件でしょう。
「初夏の頃、B社の編集者に、冗談を言った。
「そろそろ、N賞をくれんだろうか」
N賞は、文壇の登龍門として長い歴史を持つ。私は時代小説第一作『四十七人の刺客』で、「新田次郎文学賞」受賞の栄誉を得たが、他の賞は逸していた。
「今更、失礼でしょう」
彼は、事もなげに言った。
「それ、年齢のことかね」
「まあね」
彼は、笑いながら言う。
――そうかも知れん。
ほろ苦くそう思った。私は文学修行の年数がほとんど無い。今更修行を積むには年をとり過ぎている。」(平成12年/2000年5月・新潮社/新潮文庫『義、我を美しく』より)
『高杉晋作』が第112回(平成6年/1994年・下半期)候補になったのは、池宮さん71歳8ヵ月のとき。選考委員は8名いました。お年の若い順に当時の年齢とともに列挙しますと、井上ひさし(60歳1ヵ月)、渡辺淳一(61歳2ヵ月)、五木寛之(62歳3ヵ月)、平岩弓枝(62歳9ヵ月)、田辺聖子(66歳9ヵ月)、藤沢周平(67歳0ヵ月)、山口瞳(68歳2ヵ月)、黒岩重吾(70歳10ヵ月)。全員年下です。
第113回(平成7年/1995年・上半期)の「千里の馬」候補は、その6か月後。この回から新たに選考委員になった阿刀田高(60歳6ヵ月)、津本陽(66歳3ヵ月)両氏とも、やっぱり池宮さんほど年輪を重ねていません。
そりゃ池宮さんにとって「直木賞をとりたい」っていうのは半分冗談なんでしょうけど、ムカついたところもあったでしょう。ねえ、池宮さん。
「『高杉晋作』を書いて小説家の中では非常な酷評を受けています。どうも高杉という人間がよく描けていない、高杉がやせて見えるという批評がありました。もっとひどい批評になりますと、これはおもしろおかしい講談本ではないかという説もありました。私はこの年ですから、言っている方が同業でしかも先輩となると、私は反抗心が強いですから反発もしたくなるのですが、考えてみるとみんな年下の方なんです。(引用者中略)年下の人と自分の作品のことについてけんかしても始まらないとも思うものですから、私はそれについてどう思いますかというかなり手厳しい質問に対しては、『高杉晋作』を出版したのは講談社である、講談社で講談本を書いて何が悪い――みんな黙ってしまいました。
それで体をかわしたわけですが、実を言うと、そこら辺にも私は現代の小説の弊害があると思います。高杉の知性であるとか、理念であるとか、意思力であるとか、そして、激動する幕末の時代の世相ということを無視して、高杉の情念が書いていないと言われますと、それを書くつもりではなかったんだというのがありまして、非常に困り果てたことがあります。」(前掲『義、我を美しく』所収「歴史小説における史実と虚構」より ―初出『司馬遼太郎の世紀』平成8年/1996年6月・朝日出版社刊)
若造ども(!)に偉そうな顔されて、さんざんなこと言われて、それでも耐えなきゃならなかったのも、高齢候補であるがゆえの不幸のひとつです。ほんとは池宮さん、直木賞とりたかったんだろうな。いや、認めてもらいたかったんだろうな。
○
先のエッセイでは「B社のN賞」とボカしていますけど、「講談社の講談本」のエピソードとともに、はっきりと直木賞の逸話として書かれたのが『大将論』(平成14年/2002年3月・朝日新聞社刊)の「あとがき」です。
ただ、もう直木賞候補に挙げてもらえない理由として、先のエッセイと多少ちがうやりとりが書かれています。
「そうした身(引用者注:直木賞候補に2度なって落ちた身)でありながら、文藝春秋の各誌から、時に原稿依頼を受ける。老齢の身、無理が利かず、お断りする言葉に窮して、
「直木賞の候補にもならぬ身ですから」
と、冗談に紛らせたら、ある日、重役の方が拙宅に来訪された。
「あなたは駄目です」
「駄目というのは、将来何を書いても、という事ですか?」
「そう、見込みがありません」
「どうしてですか?」
大方、年齢制限でもあるのか、と思った。
「あなたの本は売れ過ぎる」
唖然となった。たまさか本が売れたのは、偶然の結果に過ぎない。
それで、直木賞作家になる望みは断たれた。」
なるほど、売れすぎですか。まあ、売れていても、しつこく直木賞候補に挙げられる作家もいますからねえ、これってやや文藝春秋某重役の方の逃げ口上(もしくはお世辞?)の臭が匂ってこなくもありません。
ただ、池宮さんが老齢にして身にあまるほどの人気を博しすぎたのは、事実なんだろうな。たとえば、エッセイ「「柴田錬三郎賞」受賞に際して」には、『島津奔る』の連載から単行本上梓のころ、そうとう無理をしながら各紙誌の依頼に対応しているさまが描かれています。このさなかに、本人気づかぬうちに、司馬さんの文章が自作に紛れ込んじゃったんだものな。
「長篇第三作・第四作を企画しながら、目先の短篇・中篇に追われて、集中することが難しく、筆が進まない。
業を煮やした編集者は、書下ろしの長篇を連載に切り換えた。『島津奔る』は週刊誌連載となった。
初めての長期連載に、書き溜めを作る余裕などあろう筈もなく、毎週締切りに追われた。悪い事に数年前に約束した別の週刊誌連載が途中から加わり、二誌同時連載となった。
加えて、住居が住むに堪えなくなり、建て直しが始まる。家人が病で入院する。内憂外患が同時に襲いかかって、修羅場となった。」(前掲「「柴田錬三郎賞」受賞に際して」より)
立て続けの盗作への糾弾ごろから、池宮さんの新作は急激に減っています。各出版社側が池宮さんに依頼するのを避けたのかもしれませんし、池宮さん自身、反省をして依頼を断りつづけたのかもしれません。単純に健康上の問題かもしれません。事情は知りません。それでも、池宮さんを(たぶん)励まして新作を書かせつづけた出版社が一つありました。そうです、池宮作品の終着駅、として知られる(ん?)角川文庫を出している角川書店です。
ってことで、どなたかwikipediaに、池宮さんが盗作騒動のあとも作品を発表していて、「密約―西郷と大久保」(角川書店刊『野性時代』平成16年/2004年5月号~平成17年/2005年1月号)の第一部を書き終えたところで未完となったことなんかも、書き加えておいてあげてください。死の半月前まで、この作品を書き継ぎ、書き直していたことも、添えておいてあげてください。
案外、池宮さんにとっては、相手をしてくれる出版社が一社だけになってくれて、それからは落ち着いて仕事に打ち込めた……そんな晩年であったことを願うばかりです。
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コメント
よくぞ、これほど池宮氏について調べ、考えてくださいました。万感のおもいをこめて、御礼申し上げます。
投稿: 一読者人 | 2009年6月 1日 (月) 01時46分
一読者人さん、
コメントありがとうございます。
池宮さんと一面識もない身で、あれやこれや想像するのは(そして、ブログなんかに書き連ねるのは)失礼なことなんでしょうね。
でも、池宮さんならきっと許してくれるでしょう、
史料をもとにしつつ、自分なりの解釈で思うぞんぶん想像力を発揮していた方ですから。
投稿: P.L.B. | 2009年6月 1日 (月) 22時50分