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2009年5月10日 (日)

この無冠の士の前を、直木賞もやっぱり素通り。そのかわり半年で700万円を落としていきました。 第87回候補 飯尾憲士「自決」

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第87回(昭和57年/1982年・上半期)候補作

飯尾憲士「自決」(『すばる』昭和57年/1982年6月号)

 2週前第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補、田中穣『藤田嗣治』をとりあげました。このあと、直木賞ではプチブームが起こります。伝記もの(とくに近現代に生きた著名人の伝記)がさかんに候補に挙げられたのです。

 福岡徹さんの『軍神』(第63回)と『華燭』(第66回)、梅本育子さんの『時雨のあと』(第64回)、藤本義一さんの「生きいそぎの記」(第65回)などなど。ただ、推理小説やSFがそうであったように、伝記ものもやはり、直木賞の本流とはなりませんでした。

 もうひとつ、『藤田嗣治』からこっち、直木賞のなかを吹き荒れた風があります。ノンフィクションです。

 今の直木賞は、小説小説したものしか眼中に入らなくなってしまったようで、よほど予選選考している文春社員が気張らないと、ノンフィクションなど候補に挙がらないでしょう。でも、平成の声を聞くまでの十数年間、確実にノンフィクションが直木賞の骨格をささえていた時代がありました。

 その代表選手といって思い浮かぶのは、これでしょう。飯尾憲士さんの「自決」。副題は「森近衛師団長斬殺事件」。

 初出は『すばる』誌の昭和57年/1982年6月号です。どどっと520枚一挙掲載。これの単行本化を待たずして、昭和57年/1982年の上半期の候補としてすくい上げた、当時の日本文学振興会の目配りの広さに、ワタクシは拍手を送りたい。

 この作品は、田中穣『藤田嗣治』とちがって、はじめっから自分がノンフィクションであることを宣言していました。

 『すばる』誌の表紙と目次に、編集者がこう書いています。

「日本終戦史の謎に挑む長篇ノンフィクション」

 ははあ。ノンフィクション。あの飯尾憲士さんがねえ。熊本の同人誌『詩と真実』にのっけた「炎」に始まり、中央文壇に足がかりを得たのちの「ソウルの位牌」「隻眼の人」と3度も芥川賞候補になったことのある、あの飯尾さんが。520枚のノンフィクション。

 さすがにこの作品を、芥川賞候補にはできないもんなあ。長さといい、体裁といい。ほとんど枠組みをもたない直木賞なんてものがあったおかげで、ほんと幸いでした。作品の性質上、もしかして直木賞の候補になどならずとも、単行本『自決』は売上げを伸ばしたとは思いますが、直木賞候補作の名は多少なりとも後押ししたことでしょう。それで、筆一本で生きていた飯尾さんの懐がちょっとでも潤ったのなら、ほんとよかった。

「この七、八年間で、いっぺんだけ大いに収入があった。『自決』という本が集英社から出版されたとき、アレヨアレヨで、半年間で七〇〇万円以上ザクザクと手にした。友人と一〇〇万円程飲んで、あとは全部細君にやった。私は、背広一着も作らなかった。一つだけ買った。下駄である。いい下駄であった。」(平成5年/1993年11月・蝸牛社刊『怨望―日本人の忘れもの』所収「ユダよ、あなたの誠実を謳う」より)

 おせっかい焼きの直木賞も、時には、人助けをすることもあるみたいです。

          ○

 「自決」が取り扱うのは、知らない人はけっこういるかもしれない、でも現代史のなかでは有名な事件、昭和20年/1945年に起きた八・一五事件とも宮城事件とも呼ばれる一連の出来事のことです。Wikipediaでは「宮城事件」の項が立っています。

 語り手「私」は、かつて陸軍航空士官学校の生徒でした。同校の生徒隊付区隊長は、上原重太郎大尉。上原はこれまでにも、終戦史を描いた数々の書物に登場してきました。

 昭和20年/1945年8月14日~15日に、ポツダム宣言受諾に反対した一部の将校が、宮城を占拠して徹底抗戦しようと企て、その蹶起の要請を受け入れなかった森赳中将(近衛師団長)を殺害したのですが、その現場に上原はいました。4日後、彼は24歳にして自害します。

 それから三十数年、「私」は上原がその事件に関わったあとで、終戦は天皇の真実の御聖断であると知り、軍人として責任をとって死んだ、とずっと信じていました。ところがそれをくつがえす証言が、昭和43年/1968年の『サンデー毎日』に載り、それ以降、上原はほんとうの下手人ではなかったことになっていると知ります。

 まさか、上原は森近衛師団長殺害に関与していなかったのだろうか。ならば、なぜ彼は死ななければならなかったのか。あの8月15日、上原は私たち生徒の前にあらわれた。そしてたしかに、こう言ったのだ。

 「候補生たち。よく聞けよ。俺は、人を斬ってきた」

 「私」はあの日、近衛師団長室で何があったのか、関係者への取材を重ねることで迫っていこうとします。ただ、どうしても取材を拒否する男がいました。『サンデー毎日』に「K元少佐」として登場し、あの日、自分が師団長を殺害した真犯人だとにおわせ、その後の各種文献において上原のかわりに突如登場する男……窪田兼三氏(当時、陸軍通信学校附少佐)でした。

          ○

 「私」こと飯尾憲士さんの調査はどんどん進んでいきます。そのとき現場にいて真実を知っているはずの窪田元少佐に、ほんとうのことを語らせるために、さまざまな状況証拠を積み上げていき、いよいよ窪田氏と対面、というところまで行きます。

 ここら辺りの過程が、推理小説で執念ぶかい老刑事がこつこつと傍証をかためていって、最後に真犯人と対決する、って態に似ています。だから直木賞の場でとりあげられた、って言い切るのは短絡的でしょうねえ。そんな態をとるノンフィクション作品なんて、山ほどあるでしょうし。

 作品「自決」のキモは、何といっても語り手「私」の立ち位置でしょう。なにせ題名が「自決」ですからね。飯尾さんがここまで近衛師団長斬殺事件に執着したのは、そりゃあ何にもまして、若くして自ら命をたった上原重太郎、その自決行為がいったい何に拠るものだったかをもう一度はっきりさせておきたかったからでしょう。

「上原重太郎という一大尉の敗戦前後の行動の是非よりも、二十四歳で自決した男の真実が歪められることを防ぎたかったのである。」(平成11年/1999年2月・光人社/光人社NF文庫『自決』所収「文庫版のあとがき」より)

 で、この姿勢というか心情を「どうも理解できない」と書くのは、鬼塚英昭さんです。『日本のいちばん醜い日 8・15宮城事件は偽装クーデターだった』(平成19年/2007年8月・成甲書房刊)で、飯尾さんの『自決』が真実に届いていないとしてバッサリ斬っちゃっています。

 まずは、『自決』が発表されて以後の、八・一五宮城事件に関する論説のながれを、鬼塚さんはこう解釈します。

「飯尾の『自決』という本は、後の現代史家たちに大きな影響を与え続けていく。一九八四年に田中伸尚は『ドキュメント昭和天皇』を出版した。(引用者中略)

 かくて、この一九八四年に出版された田中伸尚の本により、飯尾の三人(引用者注:畑中健二、上原重太郎、窪田兼三)による殺害説が大宅本(引用者注:大宅壮一編『日本のいちばん長い日』昭和40年/1965年8月・文藝春秋新社刊)や角川文庫本(引用者注:大宅壮一編『日本のいちばん長い日』昭和48年/1973年5月・角川書店/角川文庫)よりも権威あるものとされる。」(『日本のいちばん醜い日』「惨の章」より)

 ところが鬼塚さんいわく、それらの書にはいちばんの真犯人というべき人間がまったく登場せず、まるで真相を語っているとは言えない、と論が進んでいきます。鬼塚説がどういうものなのかは、とてもこんな直木賞ブログでチョロッと語るテーマじゃないので、端折ります(あ、別に「天の声」に洗脳されてるわけじゃないですよ)。

 鬼塚さんが最終的にくだした飯尾憲士「自決」に対する評価は、これ。

「私は飯尾憲士が『天皇の陰謀』(引用者注:デイヴィッド・バーガミニの著書、原題:Japan's Imperial Conspiracy)を読んでいないと見た。たとえ読んでも、死せる彼には申し訳ないが、歴史の闇に入り込む才能の持ち主ではないと見た。単純に(彼だけでなく、八・一五宮城事件について書いた学者、ジャーナリストと同じように)、真実を書けないというのは偽りで、書けないなら書かなければいいのだ。」(前掲書より)

 まあまあ、抑えて抑えて。真実が(あるいは真相が)書いてあるものを読みたい向きには、飯尾さんの「自決」は、しっくりこないのかもしれないな。なにしろこの作品の柱は「上原自決にとことんこだわる「私」の存在」にあるはずですもんね。

 でも、「自決」から語り手「私」を消し去ったら、ワタクシはきっとそれほど面白く読めなかったかもしれません。たとえ「私」の存在が、真相に近づく邪魔をしてしまったのだとしても。

          ○

 それにしても、昭和57年/1982年にして飯尾さんが直木賞候補とはなあ。意外のようでもあり、妥当のようでもあり。

 その前の回(第86回)で熊本の人、光岡明さんが長年の文学修業のすえに、芥川賞じゃなくって直木賞を長篇でとった、っていうのが直木賞の世界では余韻として残っていたんでしょうか。飯尾さんは大分の人ですけど、『詩と真実』に参加していたしなあ。

 光岡さんと飯尾さん、あまり両者の交流を書いた文献は見当たらないんですけど。

(引用者注:光岡明は)熊本日日新聞社では、政経部から文化部に転じ、上司に恵まれ、同世代の画家や陶芸家、詩人、歌人、演劇青年らと交わり、愉快に、活発に仕事をした。(引用者中略)

(引用者注:昭和41年/1966年)人事異動で東京支社に誰を出すか、となった。独身者が条件だったが、光岡さんが名乗り出た。「まあいいだろう」となり、夜行寝台で親子四人、東京に向かった。二女はまだ乳児だった。西大泉の借家の一軒おいた隣に五高出身の作家、飯尾憲士氏がいた。」(平成17年/2005年8月・文藝春秋刊 光岡明『恋い明恵』所収 井上智重・熊本日日新聞社編集委員「光岡明さんのこと」より)

 光岡さんは4度の芥川賞候補のあとで、渾身の長篇『機雷』が唐突に直木賞の候補となり受賞。飯尾さんは3度の芥川賞候補をへて、これまた似たように、戦争の頃を見つめた長篇で直木賞にひっぱり出されました。

 光岡さんと異なるのは、受賞できなかったこと。

 そうだよな、そうなっちゃうと飯尾さんも、次のような文章を書きたくなっちゃうよな。

「賞などに縁が無いことにも、肚は据わっている。いや、据わらせられてしまった、と言い替えよう。ちっとやそっとの不運や貧乏には、バタバタしない。」(前掲書『怨望』所収「金潤姫の電話」より)

「マッタク、私は、先頭を切ることができない。文学賞に類するものをもらったことは、一度もない。

 そんなものは不要、などと私は絶対に達観しないつもりである。

 しかし、私の前を、すべて素通りする。ミゴトな程である。」(前掲書『怨望』所収「ユダよ、あなたの誠実を謳う」より)

 ちなみに、『毒笑』(平成16年/2004年12月・集英社刊)の巻末に掲載された楜沢健さん作成の「年譜」によれば、第10回新田次郎文学賞(平成3年/1991年)では前年出版した『静かな自裁』が候補になったそうで。それでも受賞は飯尾さんではなく、宮城谷昌光さんの『天空の舟』。ははあ、「ミゴトな程」ですか。

 直木賞には、最近はそれほどでもないけど、一時期「戦争もの、戦時下もの」が跋扈したときがありました。たとえば、虚構でかためた冒険小説じゃ賞がとれずに、自分の戦争経験(戦後の抑留経験)を描いた『黒パン俘虜記』で胡桃沢耕史さんがようやく直木賞をとれたとか、現代の若者の恋愛まわりでブイブイ言わせていた村山由佳さんが、連作『星々の舟』の一篇では太平洋戦争のころのことを持ち出して、ははあ直木賞対策か、なかなかヤルわいと感心した人がいたとかいないとか。

 いやいや、戦争ものが直木賞ではウケがいい(かつてはウケがよかった)、なんていうのは9割がた俗説の、根拠ないうわさバナシですからね、真にうけてはまずいよな。飯尾さんの「自決」だって、直木賞選考会では、おおよそ不評。大佛次郎さんなんかがいる頃ならまだ違ったんでしょうけど、「ノンフィクションなぞ直木賞の候補にするなよ」と言わんばかりの頑陋な空気がただよいはじめた1980年代。

 ううむ、時代が悪かったか。飯尾さんの「ミゴトな程」の無冠ぶりに、またひとつ勲章が増えたのでした。

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