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2009年4月26日 (日)

小説すぎたので候補に挙げられ、小説すぎたので落とされた稀有な作品。 第62回候補 田中穣『藤田嗣治』

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第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補作

田中穣『藤田嗣治』(昭和44年/1969年10月・新潮社刊)

 ひとつの場所にじっとしていられない直木賞は、ときどき「大衆文学」なる領域から、外に手を出そうと試みます。そのため時に、よそから煙たがられたり、人の人生を迷わせたりとよけいな迷惑をかけます。

 このハナシで代表的な例を挙げるとすると、たいてい「純文学」に対するチョッカイです。檀一雄さんや梅崎春生さんなんて、ねえ。直木賞のせいで、いったいどれだけイヤな思いをさせられたことか。ほんと、すみません。

 読売新聞の美術記者、田中穣さんも、もしかしたら直木賞のお節介のおかげで、要らぬ障害と戦わなきゃならなかった人かもしれません。

 穣さんは、芸術家の伝記っていう世界に大いなる足跡を残したと思います。でも、あまりに読みやすく、エピソードとストーリー性に富んで、そのおかげでワタクシみたいな無知な一般読者に受け入れられる反面、「評伝としては軽すぎて、資料的には見るに値しない」とか言われていたとしたら、穣さんには心外なのかもしれないな。

「フジタの生いたちから死までの“人と作品”の全容を、フジタと直接かかわりあった人たちの記録や談話を通じて浮き彫りしようとした私の最初の『藤田嗣治』は、まず総合雑誌「自由」に連載された。昭和四十三年(一九六八)十月号から翌年四月号まで(引用者注:実際は昭和43年/1968年11月号から翌年5月号まで)の七回、巻末の小説的な読物の扱いを受けた。連載がはじまって二回目が店頭に並んだとき、新潮社の出版部から本にしたいという申し入れがあり、連載後に加筆したものが昭和四十四年(一九六九)十月に出版されたのである。」(昭和63年/1988年2月・芸術新聞社刊『評伝藤田嗣治』所収「あとがき」より)

 「巻末の小説的な読物の扱いを受けた」なる表現に、穣さんの口惜しさが滲んでいる気がします。

 扱いを受けたも何も、事実、『自由』誌に連載したときは、題名が「小説 藤田嗣治」でした。題名にどれほど穣さんの意思が反映されていたか事情は知りませんけど、これが新潮社から本になるときには「小説」の言葉を外して、『藤田嗣治』となります。

 でも、それでも世間は、これを小説的な扱いでもって裁こうとします。直木賞のなかでも、とくに領域拡大の先頭にあった大佛次郎さんが、こいつをわざわざ、小説しか議論しないはずの直木賞の場に引きずり込みます。

 せっかく「小説」の文字を消したのに、お節介な直木賞ったら、またも『藤田嗣治』に小説っていう色眼鏡を当てちゃったのね。そこで議論ふんぷん、直木賞史上に残るせめぎ合いの選考があって、結局受賞はのがすのですが、穣さんはやっぱり「小説」のレッテルを剥がしたいと思ったのでしょうか。

「こうして(引用者注:直木賞の審査で最後まで問題にされて)私の『藤田嗣治』は、一応の話題を呼んだことで、よく売れた。初版の部数は、そうながい期間を経ないうちに一冊も残さずに売り切れ、以来、私がいうのもおかしいが、伝記上の藤田を知るには欠かせない必読書の一つのように美術界では見られてきている。これを文庫でとか、あるいは単行本で復刻再版したいとかいった希望が、二、三の出版社から寄せられてきてはいたが、私はいつか機会を見てこれに大きく手を加えたい気持を持っていた。(引用者中略)

 一九八六年(昭和六十一年)は、フジタの生誕百年に当たる。このときに当たって、まずフジタを語る本格的な連載を、「アート・トップ」でやり、それを一冊の本にして出さないか、という話が芸術新聞社から私に寄せられてきた。この本を決定的なフジタ評伝とし、美術界といわず広く世界の読書界に送りこもうではないか、という気宇壮大な申し入れに、私は喜んで共鳴した。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第一章 数々のフジタ伝説をめぐって」より)

 『アート・トップ』での連載のときは「星がまたたいていた――ピエロ愛し レオナルド・フジタの立像(ルビ:スタチュー)――」なる題だったんですが、本にするときに題名を変えて、バシッと『評伝藤田嗣治』。「評伝」の二文字に、小説じゃないんだよ、あんなものと一緒にするな、っていう穣さんの長年の苦しみが籠もっているようでもあり。

 『評伝藤田嗣治』は、新潮社版『藤田嗣治』での基本的な解釈や筋のながれを踏襲しつつも、大幅に加筆されています。その新たな筆の部分にも、やっぱり穣さん、小説として見られたのはイヤだったんだな、と思わせる箇所があります。

(引用者前略)私は、フジタの実像に迫るのに、フジタならびにその周囲の調査取材を可能な限り徹底してきた。取材を密にして、すでに他界したフジタの内面を探ってきたわけである。が、今回は、これまで主として外から攻めてきたフジタの内部に、あえて評者の私がはいりこんでみることにした。フジタの内側から、フジタのなまの声を聞きとろうとする試みである。これまでの取材調査で、外にあらわれたフジタのおよその言動は押えてあるので、これからの私の試みはまちがっても読むにたえぬ“三文小説”や、見るにたえぬ“三文オペラ”式のものにはならないと思う。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第十章 さようなら、日本」より)

 ただ残念ながら、評伝として読めと言うけど、穣さんの想像を、それと断りもなく入れすぎじゃない? って読まれかねない危険はあるんでしょう。芸術家の評伝を専門とされているらしい湯原かの子さんは、平成18年/2006年の段階で、

「そこ(引用者注:パリ滞在中のフジタが最初の妻とみに宛てた書簡)には、たとえば田中穣の評伝『藤田嗣治』(一九六九)――これは美術記者ならではの裏話にも富み、ケレン味のきいた面白い読み物なのだが――に描かれた軽薄で冷酷な藤田とは異なって、真剣に芸術に取り組み精励刻苦する無名時代の藤田の意外に真面目で真摯な一面が読み取れて、きわめて興味深いのである。」(平成18年/2006年3月・新潮社刊『藤田嗣治 パリからの恋文』より)

 などと、あっさり「読み物」扱いしちゃったりして。

 ああ、小説にしては評伝すぎ、評伝にしては小説すぎる穣さんの『藤田嗣治』。たしかに境界線上の好きな大佛次郎さんが、賞賛するのもわかります。ワタクシまでも面白がって、直木賞の名候補作として取り上げちゃって、穣さん、心からすみません。あとに生まれた人間が、好き勝手なことぬかすのは、後出しジャンケンしている特権なのでして。許してください。

          ○

 昭和43年/1968年1月29日。読売新聞の美術記者「わたし」は、仲間づきあいのアルコールで酔っ払って帰宅します。しかし妻はただならぬ様子。会社から何度も電話がかかってきたというのです。あのフジタが、チューリヒの病院で亡くなったのでした。

 翌日、この有名大画家・フジタ=藤田嗣治について各マスコミが報じます。

 フジタには生前から常にスキャンダルがついて回りました。1920年代、エコール・ド・パリで一躍名をなしたフジタ、しかし日本の画壇では彼の業績(と人柄)に対して冷淡で、やっかみ、中傷などが絶えなかったこと。戦時中、フジタが戦争画を多く描いたことから、戦後になって日本画壇が、画家の戦争責任をフジタに背負わせようとして、それに嫌気が差してフジタはパリに帰り、日本名も捨て、二度と帰国しようとしなかったこと。

 死後でさえ、各紙・各雑誌にのった追悼文には、フジタに対する人間不信の声が多く、美談らしい美談はまず載りませんでした。

 そんなときに、これまで知られていなかったフジタの一面……パリに渡る前にフジタには結婚した日本人の妻がいたことが明らかになります。

 フジタとは、いったいどんな男だったのか。それまで一般に世に知れ渡り、また周囲の人たちに知られていた藤田嗣治像は正しいのか。「わたし」は、フジタの「人間」をさぐるために、関係者への取材や、資料の渉猟にのりだすのでした。……

          ○

 第62回の選考が直木賞史に残るのは、一票の差で『藤田嗣治』が落選の憂き目を合わされた、ってこともあります。ただ、それより大きいのは、この作品が落選となった理由のほうです。

 田中穣さん本人は、前掲の『評伝藤田嗣治』でこう述べています。

「あとで聞いた話だが、審査で最後まで問題にされた私の『藤田嗣治』の難点は、美術記者が書いた評論のようでもあり、ルポのようでもあり、果して直木賞の対象とするに足る“小説”として認められるかどうか、ということだったそうだ。確かに登場人物も実名であるし、結局、小説ではないということになった。」

 これと同じ理由を挙げている文献があります。当時の『毎日新聞』です。

「直木賞のほうは、候補作八編のうち議論の対象になったのは、河村健太郎「おたまじゃくしは蛙の子」と田中穣「藤田嗣治」の二作品。

 河村作品は石坂洋次郎氏が推したが“結末に破たんがある”ということで見送られ、もっぱら田中作品が話題になった。しかし“ノンフィクション的な作品”であることが同賞の性格にそわないという強い批判があって、わずかの差で“該当作ナシ”になったという。」(『毎日新聞 夕刊』昭和45年/1970年1月22日「学芸欄」掲載「芥川・直木賞の選考経過」より)

 つまり、小説かノンフィクションか、の議論の挙句に、直木賞は小説にあたえるもので、これはノンフィクション味が強いからあたえない、の結論にいたった、って理由です。

 確かに、小説かノンフィクションかは話し合われたらしいです。でも、落ちた理由が、ノンフィクションであったからというのは、どうも違うようです。

「或る新聞の文化欄が、ノンフィクション的な作品が直木賞の性格にそわないという強い批判があって落ちた、という意味を書いているが、誤りである。そんなことをいった委員は一人もいない。」『オール讀物』昭和45年4月号選評 松本清張「ノンフィクション」より)

 清張さんは、『藤田嗣治』への授賞に強力に反対したひとりです。しかしそれは、これがノンフィクションだからではなくて、逆に小説的でありすぎるから、でした。

「部分的に作者の小説らしいフジタの場面描写があるが、これが、ほかの聞き書きスタイルから浮き上り分離している。小説的描写はなるべく筆を惜しみ、作者のフジタを執拗な筆で造型すべきであった。」(前掲選評より)

 なにせ小説もノンフィクションも愛し、それぞれ大量に実作していた清張さんですからね、直木賞の場に突然送り込まれたノンフィクション=評伝を目の前にして、思わず点が辛くなったんでしょう。

 他の評者の選評を読み合わせると、『藤田嗣治』が落ちたのは、ジャンルを問われているのではなく、ノンフィクションとしての質を問われてのことです。小説っぽいなりをしていたのが、仇となりました。

 しかし、これまた史伝ものに一家言をもつ海音寺潮五郎さんは、候補作『藤田嗣治』の功績をたたえて、こう選評に書きのこしています。

「史伝もこれから取上げて行こうという動議が出て、大いに賛成であり、そう決議したのだが、しからばこの作をということになると、ためらわれた。(引用者中略)ただ、史伝も賞の対象になるという決定をさせたのはこの作品の功績である。特筆しておきたい。」(選評 海音寺潮五郎「迫力不足」より)

 むろん、たとえ直木賞にとって目新しいノンフィクション=伝記ものであっても、箸にも棒にもかからないレベルの候補作であれば、こんな決定もなかったでしょう。ひとえに『藤田嗣治』が、受賞一歩手前まで行くほどの高レベルな作品だったからこその、動議であり決定でした。

          ○

 後年、穣さんは小説ではなく“評伝”をおのれの生きる道と決意します。そんな穣さんに、小説的すぎるとして『藤田嗣治』を直木賞からしりぞけた先輩作家・松本清張さんの作品について、語る機会がありました。

 昭和58年/1983年、『國文學 解釈と教材の研究』での「松本清張・体験と創造」特集に、「贋作の思想」という原稿を寄せます。

 この文をベースに、さらに穣さんの考えを加えた文章が、『私家版 ささやかな「ふたり史」抄』(田中恵子・穣・著 平成5年/1993年7月・非売品)におさめられた「第五章 人間のいる風景」です。

「私は、清張さんが画壇の現実として切りとった材料をモデル小説ふうにまぶして見事な推理小説にしていたのと(見かけはちがっても作者の意図・精神は)同じに、画壇の現実として私が切りとる材料をそのまま後世に伝えるのにふさわしい実名の評伝に仕立てているのである。」

 穣さんがめざす(めざした)評伝とは、作者の意図・精神としては松本清張のモデル小説に近いものだったんでしょう。つまり、資料だの評論だのを調べ尽くすのは当然として、それを並べて解釈するだけでは生まれてこない、いま一歩の感情移入。……ひとによっては、それを「創作」と呼び、「飛躍」と呼び、はてまた「誤解」と言うんでしょうけども。

「田中穣の『評伝藤田嗣治』にはこうある。

〈九月はじめの朝の事だった。フジタは庭先に掘った穴のなかで、戦争画のためのスケッチや資料、写真などを焼いた。朝から午後にかけて昇り続けた煙が近隣の人々に不審を抱かせた程、証拠の隠滅を計るフジタは徹底していた〉

 田中は、続いてGHQに出頭したときのことも記している。(引用者中略)

 その(引用者注:GHQの)追及をフジタは巧みに切り抜け、絵を差し出すのと引き替えに、その若い将校と協力関係を結ぶことに成功する、というストーリーである。

 夫人(引用者注:藤田夫人の君代)は、今もこうした誤解を訂正したいと強く望んでいる。一九八八年に刊行された田中の『評伝藤田嗣治』は、その前に上梓した『藤田嗣治』に加筆訂正したものだが、『藤田嗣治』は、一九六九年度に直木賞候補となり、NHKでテレビ化する計画があった。その企画は夫人の強固な反対で中止となったのだが、反対の大きな理由の一つが戦争画についての記述であった。」(平成14年/2002年11月・講談社刊『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』近藤史人・著 より)

 そう、こういう悶着をおこすタネが埋もれているのが、田中穣評伝の特質なんでしょう。なにせ穣さんは、たとえばゴーギャンの人物像について、こういう感想を洩らしておりますし。

「ゴーギャンの「人と芸術」を伝えるどんな論や、詳細な記録よりも、事実の骨組みを借りて創作されたサマセット・モームの『月と六ペンス』の主人公の方が、はるかに的確にゴーギャンを感じさせる」(前掲書『私家版 ささやかな「ふたり史」抄』より)

 ああ、そういえばこの書には、穣さんの妻・恵子さんが、二人が結婚したときのことについて語った、こんな回顧談も載っていましたっけ。

「そもそもが、敗戦直後のことだったでしょ。そのころの若者のほとんどが、はっきりした未来に対する希望を持たずに(というより持てずに)いたときに、あなた(引用者注:田中穣)は作家になる、物書きに必ずなる、と言っていた。」

 ふうむ。本人が評伝のつもりで書いた『藤田嗣治』が、最初は「小説」と名づけられ、直木賞の場に駆り出されたのは、直木賞がお節介だったほかに、穣さんが若かりし頃から内に溜めてきた作家魂(作家志向)のゆえかもしれないなあ。うん、穣さんよ、なげくなかれ。想像を差し挟まない評伝が、読み手の心に届けることのできないものを、小説や読み物が届けることだって、きっとあるさ。

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