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2009年4月19日 (日)

執念に憑かれると成功とか不成功はどうでもよくなる。うん、わかる、わかるなあ。 第60回候補 浅田晃彦「乾坤独算民」

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  • 【歴史的重要度】…flairflairflair 3
  • 【一般的無名度】…flairflairflairflair 4
  • 【極私的推奨度】…flairflairflair 3

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第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補作

浅田晃彦「乾坤独算民」(『小説と詩と評論』62号[昭和43年/1968年11月])

 いつもながら唐突ですが、まずは浅田晃彦さんが候補になった証拠物件から。そのときに主催者から送られてきた2種類の通知書の、全文を引用します。

「前略 此の度貴作品「乾坤独算民 小説と詩と評論11月」が直木賞予選作品に推薦されておりますので、今後の参考に致したいと存じますから、誠に御手数ながら折返し左記の箇条につき御回答下さい。

一、本名と筆名(両方にふりがなをおつけ下さい)

一、現住所(電話番号、又は連絡先もお書き下さい)

一、略歴(生年月日、出生地、学歴、職業等)

一、作品歴(掲載誌、月号、発行年月、及び発行所等、単行本についてもお書き下さい)

一、顔写真(鮮明なもの、後程お返し致します)

以上要用のみ 匆々

 昭和四十十二十三

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦様

 そして、もう一通。

「謹啓 先般来御履歴や作品 お写真などでは お手数を煩わせました 有難く御礼申し上げます

第六十回芥川賞直木賞の選考委員会は 来る一月二十日(月)夜 築地の新喜楽で開かれ決定発表は例年七時半か八時頃になります その時 早速貴殿の当落をお知らせいたしますので当夜その頃においでの場所と電話番号を承りたく存じます

御多用中恐入りますが 折返し御返事下さい

尚 両賞の贈呈式は 来る二月七日(金)夕六時より 第一ホテル(港区新橋一ノ二ノ六)で開かれます 受賞のお方には 御出席頂くことになりますので 予めお含み置き下さいますよう 先ずは右お願いまで 末筆ながら 御自愛祈り上げます

匆々

昭和四十四年一月八日

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦殿

 以上はともに、『図録 第6回記念展 桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦―』(平成10年/1998年10月・群馬県立土屋文明記念文学館刊)より、筆写引用しました。上が、「直木賞予選作品通知(昭和43年12月13日付)」、下が「直木賞予選通過通知(昭和44年1月8日付)」、ともに土屋文明記念文学館蔵です。

 太字+下線の部分はペンの手書き箇所、他は印刷された字面です(前者の「直木賞」のところだけは、見るかぎり、ゴム印っぽいです)。

 もうこんな文面を見たら、ねえ、誰だって、この前後の時期(第58回第59回第67回)に候補になった筒井康隆さんの、あの『大いなる助走』を見返してみたくもなりますよね。さあ、あなたもお手元にあるこの小説の、ACT3/SCENE10と、ACT4/SCENE8に掲げられた2つの通知書と、見比べてみてください。

 『大いなる助走』では年月日は省かれていましたが、前者の通知では「昭和四十 年」と、一ケタ目の数字を記入すればいいようになっていて、なるほど十年単位で使いまわす心積もりだったんだなと、ほほ笑ましいかぎりです。

 いや、こんなふうに書き出したからといって、今回は『大いなる助走』をどうのこうの語るつもりはありません。主役は浅田晃彦さんです。愛情を込めてテルさんと呼ばせてもらいます。

 「乾坤独算民」、いやあ知的興奮に満ちあふれた楽しい小説じゃないですか。群馬の文学史に興味も関心もなく、浅田テルさんの名などはじめて聞いた、って方にもぜひおすすめしたい一篇です。

 とか言って毎度嘆かなきゃいけないのは芸がないんですが、テルさんを、群馬一地方の偉大な文化人ってだけで置いておくのはもったいないよなあ。

 テルさんは謙虚な方だった(らしい)から、すぐこんなこと言うんですけど。

(引用者注:船医になったのは)船に乗りながら傑作をものし、芥川賞かなんか取って職業作家になるもくろみだった。「オレンジの皮」「潜める声」で作家賞という同人雑誌賞をもらったが、海の生活にくたびれてしまい、陸に上がることにしたのだった。

 作家賞の作品を見て『文学界』から「次作を見たい」と声がかかった。勇躍して「サイゴンの夜」を持ち込んだ。担当は田中健吾という美青年(後の文春編集長)だったが、突っ込みが足りないという判決だった。奮発して「狐穴」を提出した。これも採用されなかった。僕はあんな若造に文学が分かるものかと諦めてしまった。(引用者中略)

 文学の方には運がなかった。直木賞候補になった「乾坤独算民」は落選し、次の「帝王切開事始」は候補に上がらなかった。運ではなく才能がないのである。

 すでに七十七歳、この道を行くしかない。医者になりそこない、作家にもなりそこなった生涯である。」(『風雷』第115号[平成5年/1993年5月] 「往事茫々(十)」より)

 あるいは、こんなふうなことも。

「船医になった僕は『マラリア戦記』という長編小説を書き溜めた。自分の体験をもとに、戦争中マラリア研究に挺身した青年軍医の行状を描いたのである。これを朝日新聞の一千万円懸賞小説に応募してみた。落選して賞金は夢に終わったけれど、出版者に採り上げられて鉄道ペンクラブ賞を受けた。

 その後直木賞候補に挙げられたこともあるが、世の注目浴びるほどの作品は書けず、すでに老衰してしまった。文学史に名を残す夢も見果てぬまま終わるのである。」(『風雷』第118号[平成6年/1994年2月] 「往事茫々(十三)」より)

 文学史に名が残っている、と誰がなにをもって判定するのか、ワタクシは知りません。ただ、勝手に判定させてもらうなら、テルさんの名はくっきりと直木賞史のなかには刻まれています。名候補作「乾坤独算民」とともに。

          ○

 天保のころ、上州の宮城村。宮城清行を流祖とする「宮城流算術」の流れがこの村につづいていましたが、高齢の忠右衛門のあとを継ぐほどの学者がおらず、宮城流はほぼ絶える寸前でした。

 忠右衛門の孫娘に、ほ乃がいました。幼いころから忠右衛門に目をかけられ、学問が好きでした。村の諏訪神社に掲げられた算額――忠右衛門が師匠の考案した算題を掲額したもので、そこにも掲額者のかたすみに「孫 ほ乃」と書かれています。ほ乃の自慢のひとつでした。

 算額には、算題とその答えが書かれています。ほ乃が神社に行った日のこと、この算額を前に、見慣れぬ若者が首をかしげ、しきりに地面のうえで計算しているのを見かけました。そして若者は、ついに「あの算額の答えがまちがっている。取り外したほうがいい」と言い捨てます。名を聞くと「斎藤」とだけ言って、去っていきました。

 まさか祖父の算題にまちがいなどあるはずがない、でもあの若者は自信満々だった。ほ乃は、自分でまちがいがあるかどうか突き止めたいと願い、祖父に頼んで旅人算者をまねいてもらうことになります。剣持章行という、立派な学者です。ほ乃は剣持に算術をまなぶことになりました。

 剣持のもとでまなぶうち、ほ乃は祖父の算額がたしかにまちがっていることを理解できるまでになります。しかし、講習の期間が終わろうとするある日、ほ乃はある場面を目撃してしまいます。剣持が、一糸まとわぬ姿をした自分の母を、もてあそんでいるところを。

 ほ乃は、これからもひきつづいて剣持から教わる気にはとうていなりません。新たな師として、白羽の矢を立てたのが、五里ほど離れたところに住む、斎藤家でした。斎藤長平、村でも評判のかわり者、それでも秀才とうわさされる算術の達人。あの日、祖父の算額のまちがいを若くして見破った、あの男から算術をまなぼうと斎藤家を訪れます。……

          ○

 この作品の初出が『小説と詩と評論』、それから前にテルさんは『作家』同人だったこともある、といった経歴から察せられるとおり、そもそも浅田晃彦なるお方は大衆向け小説を志向していたわけではありません。

 世の文学青年たちと(おそらく)同じように、若いころは芥川賞作家になるのが夢でした。直木賞なんて、たぶん見向きもしていなかったでしょう。

 テルさんには『安吾・潤・魚心』(昭和61年/1986年4月・奈良書店刊)なる本があります。桐生で死んだ講演下手おやじ坂口安吾、その安吾に夜中ゴルフのアイアンを持って殴り込まれた元・流行作家の南川潤、多趣味・悠々自適の民芸品コレクター小池魚心、3人についての追想をまとめた本です。

 昭和24年/1949年、そのころはどうも「記録小説」流行りだったのか、前にも紹介した『雄鶏通信』から名作、河内信の「甲子園の想出」なんかが生れましたが、『月刊讀賣』でも懸賞募集をしていたらしく、テルさんは「唯一つの真実」を応募して、みごと当選します。この雑誌に「魔に憑かれて」を連載していたのが、三田派の気鋭、「風俗」のひと、南川潤。同誌編集長の紹介で、テルさんは潤さんと出会い、交流を深めます。

 その潤さんの手引きによって、桐生に居を構えたのが坂口安吾です。いつのまにやら文壇の寵児、芥川賞選考委員としても駆り出され、第21回(昭和24年/1949年・上半期)~第31回(昭和29年/1954年・上半期)まで務めました。でも最後には、

「芥川賞の選考委員を辞退したのは派閥的な空気があり、自分の意見が通らないためと思う。文芸春秋と不仲になったわけではない。選考のためには作品を丁寧に読まなければならない。いい加減なことができない性質なので、重荷になり面倒になったのかもしれない。」(『安吾・潤・魚心』所収「坂口安吾桐生日記取材帳」の「坂口三千代夫人談」より)

 だそうです。

 なんだかんだで忙しかったはずの坂口安吾に、テルさんは自分の書いた小説を読んでもらい、批評を書き込んでもらいました。昭和28年/1953年ごろのことです。

「昭和二十八年二月十九日、私は坂口安吾の水曜サロンに招かれた。二度目である。この時も南川潤に連れて行って貰った。(引用者中略)

 松本清張の「ある小倉日記伝」が芥川賞を受けた時で、それが話題になった。私はこの作品が三田文学に発表された時に読んで、芥川賞確実だと予想していた。だから受賞を聞いた時、自分の鑑賞眼を誇りたい嬉しさを感じた。そのことを話すと、坂口さんは満足そうに頷いていた。この作品を強力に推薦したのは坂口さんだった。

 驚くべきことに、坂口さんは「小倉日記」の一作で今日の松本清張を予見していた。

「あれは書ける人だね、井上靖になるよ」といったのである。私はそれほどまでは評価してなかった。たまたまいい材料に恵まれたのでいい作品が出来た、と考えていた。

 私もその頃は芥川賞を取ってやろうという野心を持っていた。坂口さんが選考委員であることは都合がいい。「作品を持って来れば読んであげます」といってくれるのである。」(『安吾・潤・魚心』所収「怪物の魅力」より)

 それで何とか見てもらったのが『作家』誌に載せた「六さん正伝」なる一篇。これは、『作家』の主宰者、小谷剛さんにはボロクソ叩かれたそうです。「浪花節的文章だ」「これはお話にすぎない。文学ではない」「いくらお上手に書いても、こういう作品はもう沢山です」だの、なんだの。これでテルさんガツーンとやられちゃって、文学をやめようかとさえ落ち込みます。

 安吾さんは、約束どおりテルさんのこの小説を読み、余白のところに鉛筆で批評まで書き込んでくれました。いろいろと注意や指摘が書いてあって、それでも、

「最後に「佳作なり」と書いてあった。私はその文字によって慰められた。」

 文学といえば芥川賞のテリトリー、ってことで、文学に情熱を燃やす人間が、まず意識のなかに置くのが芥川賞なのはわかります。テルさんもそうだったことでしょう。でもひょっとして、いややっぱり、テルさんのもともとの性質は直木賞のテリトリーに近かったのかもしれません。「これはお話にすぎない。文学ではない」ですって? そんな批評を耳にしたら、きっと小心者の直木賞君は、自分のことを言われていると思ってビクッとするでしょう。そうさ、直木賞は小谷さんたちの言う文学ではないかもしれないさ。でも、それがどうした。

 テルさんの師、南川潤さんだって、きっとテルさんが直木賞テリトリーのほうの力があることを見抜いていたにちがいありません。

(引用者注:生原稿を南川さんに読んでもらうようお願いすると、かなり強引な要求でも)南川さんは怒りもせず、聞いてくれた。批評や忠告を与えてくれた。

「きみはストーリーを考えるのがうめえなあ。このネタはオレにくれよ」

「きみのモノはとにかく読ませる。どんどん書いてみな。キングに紹介してやるよ」

 と一応おだててくれたが、南川さんは容易に「これはいい」と賞めてはくれなかった。私はキングでもいいから載せたかったが、ついに紹介してもらえなかった。

 私の作品は、友人の間でも「通俗臭が強い」「苦悩がない」と言われていた。それを南川さんに話すと、

「そんなこと気にするなよ。だいたい純文学には苦悩が多すぎる。本当に悩んでもいねえことを深刻ぶって書いているから不愉快だ」と弁護してくれた。」(『安吾・潤・魚心』所収「厚かましい弟子」より)

 ほら、やっぱりテルさんは直木賞の場で語られてこそふさわしいようです。直木賞ファンにとっては、喜ばしいかぎりです。

          ○

 昭和30年代から昭和50年代まで、直木賞の歴史といえば、つまり東京の大手出版社だけ見ててもしかたないよ、ダイヤモンドの原石は同人誌に眠ってることもあるじゃん、っていう勢いが時に強く、時にこっそりと流れていました。それはそのまま、直木賞における「地方の時代」と言ってもいいくらいです。

 このブログで取り上げてきた作家と候補作のなかにも、たとえば山梨の熊王徳平関西の田中ひな子北川荘平南洋の安達征一郎なんて人たちがいます。長部日出雄さんの受賞なんて、まさにその結実です。

 テルさんが候補になった第60回など、その代表例です。他の候補作をみても何と郷土色ゆたかなることよ。「青玉獅子香炉」(陳舜臣)は中国・台湾、『僑人の檻』(早乙女貢)は横浜。「玉妖記」(原田八束)は前漢時代の中国、「斧と楡のひつぎ」(沢田誠一)は北海道、「糸魚川心中」(利根川裕)は新潟、「空港へ」(豊田穣)は九州の街で、『わが町』(阪田寛夫)は大阪、兵庫近辺。ここまでくると、わざと東京を舞台にした現代小説をはぶいたんじゃないか、と思うくらいの散らばしかたで、当時の日本文学振興会の直木賞にたいする力点の置きどころが見えてくるようです。

 候補作で描かれている作品舞台を、なるべく固まらせない、そのことで「候補作のバラエティ感をかもし出す」っていう手法は、以後直木賞の歴史のなかに受け継がれていきます。おいおい、地方の同人誌から一生懸命候補作をさがしてくるのと、大手出版社の単行本のなかから地方を描いた小説を選り分けるのとでは、どだい同じわけがないだろ、と突っ込みますか? まあ、それはそれとして。

 浅田晃彦とくれば群馬の作家、とレッテルを貼らざるを得ません。そしてそういった地方作家の多くを「候補どまり」にしちゃったところが、直木賞史の汚点のひとつでもあるでしょう(たぶん自分では汚点と自覚してないでしょうけど)。「乾坤独算民」をおさめた小説集は、直木賞候補になってもしばらく出ずに、ようやく地元の仲間が、この名作を世にのこさずしてどうする、と立ち上がりました。

「末筆となったが、この本を出版して下さった清水寥人氏の友情と、校正を担当して下さった清水昇氏の厚意に感謝を捧げる。」(昭和50年/1975年4月・あさを社刊『帝王切開事始』所収「あとがき」より)

 この本のあとがきは、テルさんが歴史小説を書くにいたった動機などが書いてあるんですけど、その熱い筆づかいは、ある意味中央文壇からの決別宣言とも読めるものです。

「私も五十を過ぎたころから歴史に素材を求めるようになった。小説だからフィクションには違いないが、できるだけ歴史的事実に帰したものを書くようになった。

 そしてまた郷土の先人たちに目を向けるようになった。郷土作家という意識に目覚めたと言おうか、中央作家の目のとどかぬ人物を書こうという気持になってきた。」

「私は好んで執念に憑かれた人間を描く。人間が最も美しく見えるのは、無心に一つの仕事に没頭している時の姿だと思う。仕事の種類は問わない。成功不成功は問わない。(引用者中略)生まれついた時代環境のなかで、限りある身の力試さん、と精一杯に努め励んだ人――虚しいが故に私はそれは美しいと思い、その讃歌を書きたいと思う。」(前掲「あとがき」より)

 熱いなあ、テルさん。人の世が生み出した醜い(?)行事、文学賞のことなんぞ追っかけている我が身がとことん恥ずかしくなってきますよ。

 この熱さのゆえに、数多くの文学仲間や後輩から慕われ、テルさんはいまも愛されつづける群馬作家のひとりとなっているんでしょう。

 そして、こんなくだらぬブログですらが、テルさん没後10年以上もたつのに、いまだにあなたの小説を取り上げてしまう。きっとテルさんが、成功不成功を問わずに無心に一つの仕事に没頭したんだな、と感じさせてくれる小説を、遺しておいてくれたからこそです。

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