オトナな自主規制で、この作品の落選理由まで封印しようとしたって、そうはさせんぞ。 第43回候補 葉山修平「日本いそっぷ噺」
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- 【歴史的重要度】…




5 - 【一般的無名度】…



4 - 【極私的推奨度】…

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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作
葉山修平「日本いそっぷ噺」(『花』4集[昭和35年/1960年5月])
なにしろ第40回台前半(昭和35年/1960年ごろ)の直木賞は、推理小説たちの暴れっぷりが強烈すぎて、ワタクシなど、そのことに目を眩まされます。どれくらい強烈かといえば、「推理小説では直木賞はとれない」っていう、あの有名な法則は、きっとこの時期に誕生しました。
なぜ推理小説では駄目なのか。いちおう、推理小説の多くは文学とは認められないから、っていうことになっています。当時の直木賞委員には、木々高太郎なんていう大御所がいて、ははあ、文学性重視の木々高さんだからなあ、しかたないか、と思わないでもありません。
ただ、もう少し深く突っ込んでいきますと、なぜ直木賞は文学性を重んじるのだ、と疑問が沸いてきます。そもそも、その当時ほんとにすべての回において、文学性の有無(濃淡)が、授賞の条件とされていたんでしょうか。
案外、文学性がどうのこうのと言うウラには、何か真の理由があったのじゃなかろうか。
それを考えるに、第43回(昭和35年/1960年・上半期)の選考っていうのは、そうとう重要なものを孕んでいます。
たとえば、候補作の「錯乱」は大して褒められていないのに、池波正太郎さんがポロッと受賞したところ。または、売れ線の軌道にのっていた推理小説ジャンルの三人衆、水上勉、黒岩重吾、佐野洋が、そろって落とされたところ。もうひとつ、葉山修平「日本いそっぷ噺」と小泉譲『小説 天皇裕仁』の二作品が、候補にえらばれ、あっさり落とされたところです。
いや、「日本いそっぷ噺」は、あっさりではなかったかもしれません。
もしも直木賞が、文学性の尺度でもってのみ優秀な新人の大衆文学を選ぶ性格をそなえていたなら、第43回受賞作は、おそらく「日本いそっぷ噺」だったでしょう。
じっさいはどうだったか。まずは、なぜこの作品が受賞できなかったのかを知るために、以下の選評(『オール讀物』昭和35年/1960年10月号)を読んでみてください。
「さて、では今回は僕はどれを切り札にしたか。第一「日本いそっぷ噺」(葉山修平)である。ところがこれは如何にもワイセツである。そこで部数の多い公刊物にはどうかと思っていると果して二三の委員からその点で抗議が出た。やむなく除外したが、この作者を是非見守り度い。この作品をよみながら、僕は伏字の効用ということを思い出した。伏字でもいい、オールやその他大雑誌に書かせ度い。」(木々高太郎「努力賞では不満」より)
「今度は、ないと私は決めた。そのくせ、葉山氏の「日本いそっぷ噺」に感服し、北川氏(引用者注:北川荘平)の「企業の伝説」のドライな面白さを勇ましく直木賞にしたく願った。「日本いそっぷ噺」は人間もよく描けているし何よりも生命で充実していた。あくどいところはあるが、ほんものであった。(引用者中略)「日本いそっぷ噺」は、同人雑誌以外には発表され得ない社会的障礙がある、現代では、直木賞のみならず他の賞の場合も失格するだろう。残念だが目をつぶることに成る。そこで私はこの二つを斥けるならば、他の作品も直木賞に値せぬものと見たかった。(引用者中略)「日本いそっぷ」は文学で、手腕、確かである。今度はないと決めて出席したら、なしではいけないと言う主張が委員たちを支配した。「企業」は採決に敗れ、「いそっぷ」は同情されながら除かれた。」(大佛次郎「豹変記」より)
「うまい、といえるのは葉山修平氏の「日本いそっぷ噺」だが、ほかの材料を扱った作品に期待したい。」(村上元三「推理小説への疑問」より)
「もっとも小説らしい小説としてそのてん「日本いそっぷ噺」にたいへん感心した。文章が上手である。構成もいい。こうまで男女の露醜を文字にしなければこれが書けないかという描写力への非難もあったが、私はこんどの全作品中の首位に推してもいいほどにこれは高く評価していた。けれどべつな問題がある。作品の可否とはべつに直木賞として挙げ難い危惧があった。」(吉川英治「自愛を祈る」より)
理解できましたか? どうやらワイセツな表現が問題視されたっぽいです。
いや、でもよく読むと、どうもそれ以外に重大な「問題」があったらしいことがわかります。もうそれは、文学性があるとかないとか、そういう正面切って選評で威勢のいい意見を書き込めるテーマとはちがう、「作品の可否とはべつ」の問題が。
○
「日本いそっぷ噺」の主人公は初江。「菊乃屋」で、客をとる商売をしている妓です。
初江はある日をさかいに突然、おかみのさわから、しばらく客をとらなくていい、そのかわり外出も許さない、と言い渡されます。軟禁状態です。初江は、なぜそんな自分がそんな扱いを受けるのか、まるで見当がつきません。
数日たって、ふたたび客をとることになります。初江についた客は、はじめて見る男。どうも、ふだん初江が慣れている種類の客とは、様子が違います。
男は、意外なことを語りはじめました。ここ数日、地元で話題になっているH寺のO堂から火が出て焼け落ちた事件についてでした。
男が語るには、O堂焼失事件は、放火であり犯人の目星もついた、といいます。その容疑者は、H寺の雑役夫、18歳の山木徳一……。初江が軟禁される直前に一夜をともにした客でした。
O堂の焼失の時間からすると、どう考えても、その夜初江といっしょにいた山木が、放火犯人のはずがありません。山木自身も、容疑者扱いされて、まっさきに初江のことを言い、アリバイを主張したと言います。
しかし、じつは男――岡田剛が初江の前にあらわれたのは、初江に「山木など知らない」と証言するように説得するためだったのです。放火の真犯人は別にいて、しかし真相が明るみに出るのはH寺やその関係者にとってまずいことでした。それで、山木を犯人に仕立てる計画となったのです。岡田は、H寺の意を受けて初江を懐柔しようと試みます。
山木を犯人にしてしまうのが、万事うまく運ぶ策でした。なぜなら山木は、S部落の出身。地元で謂れのない強硬な差別を受け続けている未解放部落の青年だったからです。
それを聞いて初江は戸惑います。あの青年が、部落出身。そうと聞くまで気づかなかったほど、彼はほかの人たちと何ら変わりがなかったのに。……ありのままの事実を貫くか、それとも、周囲の「世間」からの説得を受けて、ウソの証言をするか。初江は悩みます。……
○
男を客にとる妓にまつわるおハナシですから、そりゃ多少は性的な表現は含んでいます。でも、目くじらたててワイセツだ、と主張するほどのものでもありません。まあ、青山光二の「法の外へ」(第35回 昭和31年/1956年上半期 候補)をキタナイものと受け取った木々高太郎さんですからね、彼の言う「ワイセツ」の基準は、ちょっと特別なんでしょうけど。
「日本いそっぷ噺」について、直木賞委員たちが問題視しながら、選評にはっきり書かなかったことがあります。それをバシッと解説してくれたのは、平野謙さんです。
「「日本いそっぷ噺」は、たしかに娼婦が女主人公になっているから、エロでないことはないが、実はその描写は大したことはない。問題は、エロではなくて、その作品が部落民と放火事件とをひっかけて、いわば権力がわのデッチアゲを取りあつかっている点にある。選考委員たちはワイセツ罪を考慮したというより、むしろ部落解放同盟などに遠慮した形跡がある。大仏次郎の選評は、明らかにその問題をさして「社会的障礙」といっているのである。」(『小説新潮』昭和35年/1960年11月号「文壇クローズアップ 表現の自由の一ケース」より)
まさしく。そのあとで平野さんが指摘するとおり、葉山修平さんは前年に『異形の群』(昭和34年/1959年8月・東西五月社刊)という長篇小説を出しており、これも「部落」問題を扱ったもの。葉山さんの問題意識のなかには、世間じゃ「部落」に対して無根拠きわまりない差別が横行しているぜ、ひでえもんだ、ホントどうなっちゃってるんだ、って目があって、「日本いそっぷ噺」もそのなかから生まれてきた小説なんでしょう。
平野さんは、この作品にそれほど高い文学性を認めてはいないようです。それでも、選考委員たちが「文学的に最上位」と認めながら、でも「作品の可否とは別に、賞はあげられない」って流れちゃったのは、まずかないかい、と疑義を呈していて、この点平野さんの意見は納得できます。
「直木賞の選考委員がそうだというのではないが、部落問題ではまだまだ「さわらぬ神にたたりなし」という考えかたが、ぬきがたい根ぶかさをもって底流しているのではないか。そして、その底流は「天皇制」問題とちょうどウラハラの関係にあるように思える。それを打破するひとつのテスト・ケースとしても、直木賞選考委員たちは、「日本いそっぷ噺」をもっと積極的に支持し、責任をもった方がよかったのじゃないか、と思った。ここにはやや不当に遠慮することによって、かえって俗見にのせられた形跡がないでもない。」(前掲「文壇クローズアップ」より)
そうそう、この回では、「日本いそっぷ噺」における「部落」問題だけじゃなくて、『小説 天皇裕仁』がもつ天皇表現問題がこっそり発生していました。そこでも選考委員の源氏鶏太さんなどは、
「小泉譲氏の「天皇裕仁」は、その努力と構成の妙に頭を下げた。しかし、こういう小説を授賞作品とするには、いろいろの問題が残るようだ。」(選評「黒岩氏を推す」より)
とオトナ風を吹かせていたりして。なんだい、いろいろの問題って。とツッコむのはきっと世間のことを何も知らない無知なやつだけがやることなんでしょう、きっと。
しかしまあ、平野さんが言うように、直木賞がえらく遠慮しすぎだ、っていうのは、どうにも直木賞君の性格の一端を指摘しているようで、思わずうなずいてしまいます。
直木賞は昔っから、なんだか世間ちゅうか、人の目を気にしすぎ、なんじゃないですかね。「直木賞には文学性が必要だ」とかいう戦前からひきつぐお題目だってそうです。これとて「大衆文学は低俗だ」、「売れはするけど後に残らないそれだけのもの」、「あんなもん文学じゃない」って見下している純文学系の人たちや、文学に取りつかれた賢い人たちの目を、一方的に気にしているうちに生まれ出た基準っぽい雰囲気がありますし。
そもそも、だれも君のことなど真剣に注目してないんですよ、直木賞君。自意識過剰です。もっと気楽に、自由に、思い切って生きてみたらどうです。
○
おっと、直木賞のことにばかり目を向けて、葉山修平さんについて語る余裕がなくなってしまいました。
ワタクシがこんなエントリーを書いたからと言って、まさか葉山さんって「部落」問題を通俗的に興味本位で取り上げてきた人なのか、と勘違いする人はいないと思いますけど、念のために。
葉山さんの長篇『異形の群』は、「部落」のことを書いた小説です。これなど、もう題名にインパクトがありすぎて、『部落』誌の書評で、
「部落の人びとのことを「異形の群」などと差別的に名づけた葉山修平自身が、実は異形の作家であり、現実の部落の姿を正しく作品の中にうかびあがらせることができなかった(引用者後略)」(『部落』昭和37年/1962年1月号 井上俊夫「書評 グロテスクな幻燈画 塩見鮮一郎『黄色い国の脱出口』」より)
とか言われました。でも実はこの題名、葉山さん自身が付けたものではない、ってことは、すでに当時、作者ご本人が明かしています。
「「異形の群」は、比叡山麓にあるいわゆる「部落」を扱っているために、関係者からの便りもあったが、それには私の態度を素直に書き送ったし、注意深く作品を読まれれば、作者の意図は自ら理解されるものとも思っている。ついでにいえば二、三質された『異形の群』の題名については他意がない。出版には素人の私は、出版社の忠告に従い、提出された題名にしたまでである。(事実は、すでに表紙は印刷されてしまっていて変更できない、ということだった)。」(平成4年/1992年5月・東銀座出版社刊『太郎冠者』所収「「天皇の村」と「異形の群」」―初出『花』3号[昭和34年/1959年12月]より)
ここで引用につかった葉山さんのエッセイ集『太郎冠者』は、こういった昔の事情に触れた文章も、多数収録されていて、勉強になることの多い本です。じっさい、先に引用した平野謙さんの文章のあることも、ワタクシはこのエッセイ集によって教えられました。
「「日本いそっぷ噺」は「新潮」編集部の依頼で書いたものだが、テーマが微妙な未解放部落に関わるものであったため、別のものを求められた。これは「花」に発表したあと、ある文学賞の候補になったが、やはり未解放部落問題のために見送られた。「ワイセツか芸術か」という議論を生んだと、ジャーナリスティックに後に書き立てられ、事典などにも〈ワイセツ性が強いために」との記述などもあるが、あれは誤りである。世の事典執筆者などが、いかに忙しい仕事であるか、改めて思い知らされたということになろうか。ついでだからいっておけば、「小説新潮」(一九六〇・一一)の「文壇クローズアップ」で、平野謙が四頁(引用者注:実際は三頁)に亘って詳細にこれについて論じてくれている。これは生涯の嬉しい文章となっている。」(前掲書所収「わが青春の街」―初出『冬扇』6号・特集「わが町」[昭和56年/1981年10月]より)
ああ、たしかワタクシも、何かの機会に、葉山さんのこの作品を「ワイセツすぎて議論になった」と書いた覚えが……。たいして忙しくもないくせに、このテイたらく。
そうか、ワイセツなんかじゃなかったんだ。「部落」問題だったんだ。必要以上に周囲の視線を気にする小心な直木賞像、その姿を浮き彫りにしてくれたという意味で、「日本いそっぷ噺」は、歴史的重要度、満点です。
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