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2009年3月15日 (日)

自由で軽いものは、楽しくて魅力的。だけど、組織のなかでは恵まれない。 第2回候補 獅子文六『遊覧列車』

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第2回(昭和10年/1935年・下半期)候補作

獅子文六『遊覧列車』(昭和11年/1936年1月・改造社刊)

 説明不要です。あまりに有名、あまりに大家すぎます。だからでしょうか、この人はあまり直木賞とからめて語られる機会が薄いんですけど、「直木賞候補作家」の基本スタイルの祖といえば、断然、文六さんです。

 獅子文六ほどの人が、なぜ直木賞を受賞できなかったのか。きっぱり言っちゃえば、作風が軽すぎたんでしょう。とうてい文学的だとは受け取られなかったんでしょう。でも、たくさんの読者に大ウケしました。佐々木邦さんらとともに、ユーモア路線を広く普及させました。直木賞に認められなくても、十分職業作家としてやっていけるし、受賞作家と同程度には後世に名を残せることを、みごとに実証した作家第一号です。

 それで創設当時の直木賞の特徴で、文六さんにははっきりとした候補作品があまりありません。選考対象は「業績全般」、長篇でいえば「金色青春譜」バツグンのインパクト、「楽天公子」手堅い、「悦ちゃん」もうすでにベテラン売れっ子作家の匂いぷんぷん。といった中で、ここで名候補作リストに入れさせてもらうのは『遊覧列車』です。まだ文六さんが新聞とかに小説を書いて世間から喝采を受けられる人材なのか、誰もわからなかった時代に、きらめく才能で颯爽と登場した単行本です。

 なにせ、この本は、出だし迷走の直木賞の候補になるにふさわしい内容でした。いくつもの作品が収められているんですが、「短篇集」だとズバッと命名することを許しません。半読み物・半随筆・半短篇集……ってあいまいでゴチャまぜな感じ。おお、これこそ「ユーモア文学」、いや「諧謔文学」「滑稽文学」「明朗文学」の正統的なたたずまいじゃないですか。どんなものに賞を授けたらいいのかウロウロして目移りの激しかった直木賞君の好みにピッタリ適っています。そして結局、直木賞は重たーい玄人ウケしそうな小説を受賞圏内と定めることになっちゃって、軽いものは落とされる、の道をつくった意味でも、重要な候補作です。

 もうひとつ言えば、文六さんは文壇づきあい嫌いで鳴らした人ですが、そのことに由来するのか帰結するのか、まるで文学賞みたいなものに対して淡白な風合いが、どうにも「候補作家の基本スタイル」を思わせます。直木賞の場合は、自分で応募する公募の賞と違って、勝手に候補に挙げられるわけで、候補者のみんながみんな「直木賞とりたい!」って願っている連中ばかりじゃありません。おそらく歴代候補作家のうち、7:3か8:2ぐらいで「淡白派」のほうが多いんじゃないでしょうか。

 直木賞? ふーん、そういうのあんまし興味ないんだよね。っていうのは、別に時代が今に近づくにつれて日本人がクールになったから起こったわけじゃなさそうです。そのことを文六さんは教えてくれます。

 そんな基本スタイルを身につけた文六さんですから、自身の直木賞候補のことについて、ほとんど発言していません。なので代わりに、この時期、文六さんが書いたユーモア文学まわりのエッセイから、少々引用してお茶を濁すことにします。

(引用者注:夏目漱石の)「坊っちゃん」と「猫」とは、われわれの一番親しむべき古典である。漱石が純文学に転じないで、一生ユーモア文学を書いてくれたら、斯道の発達は目覚しき限りだっただろうと、残念でならない。「坊っちゃん」の方は小説らしい構成だけれど、われわれの勉強になるのは「猫」のデテールにありと思う。(引用者中略)漱石の眼と腕とハアトは、如何(ルビ:どう)考えても、過云の日本ユーモリストの最大なそれらである。漱石の仕事を凌駕することで、初めて今日のユーモア作家の面目ありだ。」(昭和44年/1969年8月・朝日新聞社刊『獅子文六全集 第十三巻』所収「ユーモア文学管見」 初出『新青年』昭和10年/1935年7月号 より)

「実際日本の小説家は、皆よく似てる一面をもってる。例えば、ファンテエジイに対する態度なぞはどうか。ファンテエジイというものは、どこの国の文学にも、必ずどれかの作家を流れているし、現代文学にも前代文学にも古典文学にも、必ず見出される要素だが、文壇のどこを見渡しも、片影すらないとすると、これに対する日本文士の態度は、期せずして似ていることになる。(引用者中略)

 日本でも、昔は村井弦斎の料理小説とか、浪六のビンパツ小説とか、春浪の武侠小説とか、いろいろ看板が豊富だったのに、自然派以後は小説に対する考えがマジメになって、文壇の習慣が窮屈になった。しかし要するに習慣であるから、いつ改めてもいいようなものである。」(前掲書所収「文学のいろいろ」より)

 勃興したての大衆文学陣営=直木賞委員会を、文壇の一部だとか見なすと、眉をひそめる人たちが、そこかしこにいたことでしょう。本来、直木賞はそういう一派のかもしだす窮屈な感じから自由でいられる存在だったはずで、そんな観点から獅子文六の肩の力のぬけた軽い小説群に賞をやってもいいんじゃないの、っていう空気が出てきたわけです。

 でも残念、時の直木賞の選んだのは、窮屈な方向の道でした。なにも好きこのんで、そんな困難なほうに行かなくてもよかったのに。自由で広々とした場所には、獅子文六にしろ徳川夢声にしろ、恰好の救世主たちが現れていたのに。……直木賞委員会の方々も、やはりマジメすぎたんでしょうか。

 そう考えると、昭和10年代の窮屈さ代表=『オール讀物』、自由さ代表=『新青年』だったと見ることができるかもしれません。ううむ、やはり水谷準は偉大だ。

「小説という面倒臭い、原稿紙に一杯字を書かねばならぬ仕事は、毛頭やる気はなかったのだが、ふとしたハズミで書いてしまった。雑誌「新青年」で、杉山平助氏ともう一人誰だったか、平常(ルビ:ふだん)小説を書かぬ人に小説を書かせる企画で、僕もその選に入れられた。(引用者中略)「八幸会異変」という題のそれが、つまり、処女作というものだが、まことに処女を破るという事情は、つねに慌しきものである。

 すると翌月、同誌のJ・M氏は、今度は、連載小説を書けといってきた。」(前掲書所収「ユーモア小説懺悔」より)

 これが、「いったいこの妙ちくりんなペンネームの正体は誰だ」とちょっと話題を起こした処女長篇「金色青春譜」誕生のくだり。『『新青年』読本全一巻 昭和グラフィティ』(昭和63年/1988年2月・作品社刊)の「獅子文六」の人物紹介によると、「これは、大衆文学論の盛んになった状況に対して新しい大衆小説をめざした編集部の肝煎りもあり、」と表現されています。

 まあ、そのうち『新青年』もいろいろと窮屈になっていっていっちゃうわけですけど、同誌の生んだ(?)二大ユーモア作家、文六と夢声はともども、直木賞についてはカスった程度で終わってしまいます。木々高太郎さんあたりが、直木賞にとってギリギリ背伸びの限度だったのかもしれません。

 モダーンな香りただよう『新青年』出身作家の名に恥じず、『遊覧列車』は、パリ帰りの岩田豊雄こと獅子文六の西洋ネタが満載です。「久里岬土産」とか「巷に歌あらん」とかの日本物もワタクシは好きなんですけど、ここではやっぱり、パリ物のなかから「血と泥濘の事件」を紹介させてもらいます。

          ○

 ピストルが廻転式(レヴォルヴァ)ばかりだった頃には想像もつかないことです。コルトやブロオニングの自働式が発明されてから、婦人用(プール・ダーム)なるものが売り出されるや、婦女子の手にもピストルが握られるようになり、フランス各地で悪いことが流行りだしました。そこかしこでパンパンと、亭主が殺されるようになったのです。

 そんなピストル恐怖の絶頂にあった1930年、巴里のブロジョア的住宅地で、またも亭主が殺されます。被害者ロベヱル・ヴヱイヱ、被疑者その妻ジャアヌ。この事件が一躍、巴里の新聞をにぎわせたのは他でもありません、この家庭が相当のブルジョア、上流階級だったからです。

 法廷に現れた美しい被告人、ジャアヌ。その公判の問答によって、ジャアヌとその夫の過去が明らかにされていきます。

 二人の出逢った場所は、メヱゾン・ド・ランデヴウ。訳して「御待合」。巴里の魔窟の一種です。ブルジョアたちが世間の目をはばかりながら、つまり夫のいる妻、妻のいる夫が、その配偶者を欺くコトをするために利用する場所です。ジャアヌは古くから、ここで職業的に働いていた女でした。

 果たして夫のロベヱル、こちらも父親は富裕な工業家、伯父は陸軍大将というブルジョア。彼の日常も法廷においてはじめて白日のもとにさらされます。ジャアヌの凶行があまりに無惨だったのにもかかわらず、女中をして「あんなヒドイ旦那なら、奥様でなくても、私だって一発やりたくなりますよ」と言わしめるほど、ロベヱルの日常は、俗悪を極めていたのでした。……

          ○

 ここで語るべきは、候補作家としての文六さんのことです。でも、文学賞に淡白な文六像ってハナシになると、それだけじゃ中途半端です。選考委員としての文六さん、にも目を向けることが必要になってきます。

 直木賞委員はじめての改選となった昭和18年/1943年に、濱本浩中野実たちといっしょにお声がかかり、第17回(昭和18年/1943年・上半期)から、終戦の中断期をまたいで第26回(昭和26年/1951年・下半期)まで。選考委員・文六さんは、たった10回、8年間のおつとめでした。58歳にしてさっさと辞めています。

 選評を書いたのは半分の5回だけ。出席数にいたっては、10度のうちほんの2度。あとは全部欠席したっていうツワモノです。「淡白」というより、怠け者、不まじめ、不謹慎、と言われかねない所業です。

 でも文六さんにしてみたら、よっぽど選考会(というか文士の会合)がイヤだったんでしょう。

 文士の会合がいかに愉快でないか、その最初の経験のことを、文六さんが「名月とソバの会」に書いています。

 大正終りか昭和初め頃、滝野川のソバ屋で文士らが集まってソバを食う会なんてものが催され、文六さん(当時は本名の岩田豊雄さんでしたが)誘いを受けて出かけていきました。佐藤春夫やら久保田万太郎らが顔をそろえるなかで、二人の老人が仲間はずれのように座っています。幸田露伴と上田万年でした。

 ずいぶん待たされたあとに最初のセイロが座敷中央に出てきます。みな手を出すのを遠慮するなかで、佐藤春夫が「年寄りは、腹が空かないだろうから、後でいいや」などと口にしながら、さっさと自分の分をとってしまいます。露伴翁のほうは「年寄りだって腹が空くよ」とニコニコしながら言い返したのでしたが、文壇の流行児になっていた佐藤、いっぽうは明治文士の生き残りとして影の薄かった露伴、そのやりとりを見て、文六さんはどうにも不快になってしまいます。

「私はその晩の会が、愉快でなかった。文士の集まる会へ出たのは、始めてだったが、こんなことならもう止めようと思った。

 その後、私も文士の仲間入りして、時には、会合に出ることもあったが、いつも、つまらなかった。近頃は、どんな会合にも(実に会合が多い世の中になった)ご免を蒙っている。最初の時に、失望したからだろう。」(昭和43年/1968年12月・朝日新聞社刊『獅子文六全集 第十五巻』所収「名月とソバの会」 初出『心』昭和41年/1966年11月 より)

 そういう集まりに行きたくない人間が、選考会に出たくない気持ちもわからんでもありません。みずから、ヘンクツと言い、口下手と言い、ケンカっぱやいと来ているのですから、まあ会議だの何だのを苦痛に感じるにもむべなるかな。

 選考委員の(とくに直木賞のそれの)条件は、もちろん第一に数十年来、創作の現場で活躍してきた人、っていうのがあります。でもわざわざ文六さんに、白羽の矢が立てられたのは、きっと直木賞がまだ若かったからです。老成してくると、選考委員の条件も変わってきます。たとえばこんなふうに。

「選考委員は、日本文学振興会の理事長である文藝春秋の社長が大所高所に立って人選する。(引用者中略)選考会だから、協調性のある人でないとつとまらない。」(平成20年/2008年12月・青志社刊 高橋一清・著『編集者魂』所収「「芥川賞・直木賞」物語」より)

 完全に、運営者サイドならではの要件です。小説家に協調性を求めているところなんぞが、ううむ、とうならされます。

          ○

 そうは言っても、文六さんが選考委員を辞めたのは、会合が嫌いだったからもあるんでしょうけど、さらに三つほど理由があるみたいです。

 一つは、他人の小説をたくさん読むのが、オックウであること。

 そのことは後述する文六さんのエッセイにも出てきますし、元・お手伝いさんの回想録でも触れられています。

「以前に、来訪されたY新聞のA文芸部長さんが先生に言われていた。

「飛び抜けた優秀作品がない限り、普段の創作態度で『賞』を決定するんですよ。みんなそうなんですよ。作家は頼まれても読みませんからね」

 この言葉がすべての審査を引き受けた作家にあてはまるかどうか、また作家がいつもこうした風潮に流れているかどうか、田舎娘の詮索の届かないことであった。対談されていた文六先生は、A文芸部長さんの言葉に、

「う~ん、そうだね。そうなってしまうね」

 ひととき芥川賞の選考委員を務めていたことがあると言われた先生は、その傾向になりかけた自分に責任を感じ、短期間務めたあとは、委員を辞退されたようであった。」(平成15年/2003年11月・影書房刊 福本信子・著『獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ―』「かんしゃく玉」より)

 明瞭に「芥川賞の」と印刷されているのを目にして、思わずワタクシの胸はキュンと悲しくなったんですけど、それはそれとして。

 二つめは、文六さん自身、自分の審査は好悪がはげしいのを自覚したこと。そうですよねえ、河内信の「甲子園の想出」なんてものを推すくらいですもん。ワタクシは好きですけど。獅子文六の変わり者っぷりをまざまざと見せつけられた気はします。

 三つめの理由は、ずばり、選考会場がイヤだから。つまり、なんで直木賞の選考を新喜楽なんかでやるんだよ、まったく、っていうことです。

 ワタクシの意見じゃありませんよ。獅子文六さんの忌憚のない考えです。『読売新聞』での連載エッセイ「愚者の楽園」にて、堂々と疑義を呈しました。

 これも長めに引用させてもらいます。直木賞研究家に対する問題提起もしていただいていますので。

「近ごろの文学賞審査会というと、きまって、新喜楽とか、金(ルビ:かね)田中とかいうところで開かれるが、あんなご大層なところへ、行く気になれない。あれは、政治家だの実業家だのが寄り合う場所であって、ちょっと空気がちがうだろう。(引用者中略)

 昔は麻布の竜土軒、その前には芝の紅葉館あたりが、文士の寄り合う場所だった。それが、いつか築地へ移ったわけだが、文壇史やジャーナリズムの歴史を書く人は、この辺のところを見落さないでほしい。一皮むくと、おもしろいことがでてくる。

 とはいっても、築地移転はそんなに古いことではない。戦後、私がまだ直木賞の委員をやってるころには、銀座の飲み屋「はちまき岡田」で、審査会が開かれたこともあった。私は、無論、出席した。」(前掲『全集 第十五巻』所収「愚者の楽園」内「築地移転」より)

 これが書かれてから、おそらく40年余り。一皮むいたおもしろい文壇史も、きっと誰かによって書かれていることだと思います。読んでみたいな。……麻布や芝、銀座の飲み屋から、なぜに築地の料亭に場所が変わったのか。文学賞は、戦前だって立派な「政治」だったんでしょうが、そこに戦後になって次第に「実業」も重くなっていったことと、関わりがあるんでしょうか。

 まあ、そういうもろもろがイヤで、文学賞との関わりを避けた文六さん。「ユーモア作家には、ヘンクツ者が多い」ってことも、どこかのエッセイで書いていましたけど、ユーモア小説書いて、しかもヘンクツとくれば、そりゃあ賞なんかとは無縁でしょう。で、それが実に獅子文六らしさです。魅力です。ほんとこの方は、直木賞の世界における名候補作家であり、名選考委員であったなあと、思いを新たにしました。

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