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2009年3月 8日 (日)

いちじるしく低俗なバカ騒ぎに、よくぞ5度もお付き合いいただきました。 第133回候補 絲山秋子『逃亡くそたわけ』

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第133回(平成17年/2005年・上半期)候補作

絲山秋子『逃亡くそたわけ』(平成17年/2005年2月・中央公論新社刊)

 このあいだこっそり開催しました「最近10年間の直木賞候補作、重量ランキング」では、みごと最軽量の栄冠に輝きました。

 いや、そんなの小さなことです。それ以外に絲山ねえさんは直木賞の場にくっきりと鍬の跡を残していってくれました。およそ30年も前、昭和49年/1974年下半期に阪田寛夫がなしとげて以来、だれも実現することのできなかった「直木賞候補の経験のある人が、芥川賞を受賞する」わざを、久しぶりに決めてくれたことです。

 へ。芥川賞だって直木賞だって、大して違いなんかないじゃん。絲山さんが直木賞じゃなくて芥川賞の側で表彰されたのも、たまたまでしょ。角田光代車谷長吉山田詠美が直木賞をとったのがたまたまだったように。……っていう一般的な感覚には、ワタクシも心の底から同意します。同意しますが、それで終わったんじゃ面白くありません。昔はよくあったのに、最近じゃあグンと数の減ってきた「直木賞と芥川賞と、一人の作家がまたがって候補になる」現象が、せっかく平成17年/2005年に起きたんですもん。もう少し考えを押し進めさせてください。

 まずひとつ、こんな考え方があります。芥川賞は大手商業純文学誌(『文學界』『新潮』『群像』『すばる』『文藝』)にのった短篇のなかから選ばれる、直木賞は大手出版社から出された単行本のなかから選ばれる、それ以外に明確な違いはない。とくに作品のジャンルや質など、どっちがどっちと規定できるものは、なくなったと見ていい。

 と、こんなことを言うと、直木賞畑の面々がやった座談会にたいして「不勉強だ」とブチ切れた笙野頼子さん辺りは憮然とするでしょう。でもたしかに、文学がどうだとか触れずに、このくらいわかりやすい枠組みをつくったほうが、賞の運営側からすれば、よけいな波風を起こさずにスムーズに事が運びます。運営効率の面でみれば、「この小説は大衆文学の一種だ」「いや、なにぬかす、こりゃ断然、純文学だ」と不毛な議論で時間を浪費するより、媒体によって振り分けちゃったほうが、ハナシは早いはずです。

 いまじゃ、直木賞と芥川賞では、下読み担当グループもはっきりと分離しているそうですし。直木賞のほうで候補にしようと思っていたものが、芥川賞のほうでも同じこと考えていて、なんて事態が発生したら、どっちの候補にするか、いちいち会議しなきゃいけません。そんなの非効率です。それをなくすために、最初から子供でもわかる枠組みを決めておく。なるほど。納得です。

 そこまではわかります。ああ、そうか、だから『逃亡くそたわけ』は直木賞の戦場に送り込まれたのか、と推察はできます。じゃあ同じような例――純文学誌を活動の場としている作家が単行本を出して、それが直木賞ではかられた例が、過去にはどんなものがあったのかな、とさかのぼっていきますと、こんな感じになるでしょうか。

 お、同人誌からの刺客が登場しましたので、ここらで止めときましょう。

 なにい、内田春菊って純文学系かあ? ってツッコミもあるかと思いますが、まあコラえてください。

 それにしても少ないなあ。これしかないんですか。「純文学と大衆文学に垣根はなくなった」と威勢のいい文句が、事あるごとに鬼の首をとったかのように繰り返し言われている割りには。

 補足の資料として、ここに山本周五郎賞の候補作を差し挟んでみるのも面白いかもしれません。あちらは賞の発足から単行本オンリー、直木賞みたく紆余曲折の末にいまのような枠組みを手に入れたわけじゃありませんけど。島本理生『ナラタージュ』(平成16年/2004年度)、吉田修一 『パレード』(平成13年/2001年度)。それ以前はずっと間隔があいて、中村隆資『地蔵記』(平成3年/1991年度)、吉本ばなな『TUGUMIつぐみ』(昭和63年/1988年度)、久間十義『聖マリア・らぷそでぃ』(同)、干刈あがた『黄色い髪』(昭和62年/1987年度)。

 おお、山周賞は第5回(平成3年/1991年度)までは同時期の直木賞にくらべて案外、純文学系にも目を向けていたんだな、でもそっから先は、より「直木賞風」の候補ラインナップになっていったんだな。などと、直木賞―山周賞の比較論に発展していけそうです。でも長くなりそうなので、今はやめときます。

 それはそうと、ですね。山周賞も直木賞も「単行本のなかから候補をえらぶ」ルールには則っているんですけど、なんか咽喉の奥に魚の骨がひっかかったような感覚に襲われませんか。奥歯にモノが……っていう比喩でもいいです。大衆文学の賞で、純文学誌をにぎわす作家を取り上げるときの、どうにもモヤモヤした感じ。何なんでしょうね、これは。

          ○

 『逃亡くそたわけ』の語り手「あたし」は大学生。いまは福岡タワーに近い精神病院に入院中です。

 高校のころから鬱持ちで病院に通っていましたが、それがあるときから躁転し、頭のなかで低い男の声が淡々とこう語るようになりました。「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」。この声が繰り返すなかで、「あたし」は自殺未遂をおこし、精神病院に入ることになりました。

 たった一度の21歳の夏。それを入院したまま送らなきゃいけないことに、いてもたってもいられなくなり、「あたし」は脱走を企てます。

 逃げる途中で中庭を通りかかったとき、同じ病棟の「なごやん」がいるのを目にとめ、いっしょに逃げようと誘います。「なごやん」……蓬田司は、本気にしていない様子ながら、ひょこひょこついてきました。

 なごやんは、名古屋出身のくせして、まわりの患者仲間には東京から来たと言い張っていました。なのに名古屋の饅頭「なごやん」が大好きで、それでみんなから「なごやん」と呼ばれています。

 「あたし」は、そんななごやんと一緒に、とにかく逃げようと決意します。交通手段は、なごやんの自動車。名古屋ナンバー。BGMは、車のカセットに入っていたTheピーズ。

 さて、どこに逃げよう。とりあえず、自殺の名所(と言われる)阿蘇を目指します。……

          ○

鹿島(引用者注:鹿島茂) 僕は毎月、産経新聞で文芸時評を書いてるんですが、最近の新人作家では舞城王太郎と絲山秋子が圧倒的です。」

松原(引用者注:松原隆一郎) 最初は主人公が「なごやん」をいたぶってる印象があるけど、しだいに何とも言いがたい関係性ができていく。(引用者中略)最後に主人公が「なごやんを失うのがさびし」いと思う、この距離感の変化が非常によく書けている。」

福田(引用者注:福田和也) 逃避行ものは終わり方が難しいんですよ。(引用者中略)この作品は、主人公に解放感を味わわせた後にきちんと日常に「帰る」のが立派です。読んで解放される人はたくさんいるんじゃないかな。小説としての巧みさもさることながら、書くべきことを書いた、という感じがします。」(以上『文藝春秋』平成17年/2005年5月号「文藝春秋BOOK倶楽部 鼎談書評」より)

 直木賞の選評では、大衆文学のベテランたちにけっこう厳しいこと言われているので、ここでは逆の評価を引用させてもらいました。

 選評といえば、平岩弓枝さんに「次の機会には必ず直木賞を受ける作家と思っている。」(『オール讀物』平成17年/2005年9月号選評より)とまで惚れ込まれながら、半年後に、ささっと芥川賞をとっちゃう絲山ねえさんの力量たるや。読者にとっちゃ、ほんと、どっちの賞でも関係ないや、いつもたのしい小説を読ませてくれる絲山ねえさんに感謝するのみです。

 絲山ねえさんのブログをお読みの方々なら、常識なのでしょう、本来わずらわしいはずの賞の候補に何度も挙がり、それでもイヤにならず、かといって浮かれもせず淡々と受け入れる大人の女性、絲山秋子の姿は。まったく、出版社と野次馬読者たちの無益なバカ騒ぎに5度も付き合っていただいて、ありがとうございます、絲山さん。

「――『袋小路の男』の小田切孝という登場人物は、小説家志望で新人賞に応募しては落ちている。一歩間違えば、小説の後味が悪くなりかねない、扱いにくい設定ですが、そういう印象は受けません。

絲山 ある意味自嘲的な感じですよね。ただもともと小説家ってものが素晴らしいぞ、とも思ってないわけで。」(『文學界』平成18年/2006年3月号「新芥川賞作家ロング・インタビュー 小説の技巧に徹底的にこだわりたい」より)

 そういえば、『絲的メイソウ』(平成18年/2006年7月・講談社刊)っていうエッセイ集がありますが、これも全篇に、「小説家ってものが素晴らしいぞ、とも思ってない」感じがひたひた波打っていましたね。そのなかの「自分の取説」って章は、ご自身を「商品名 絲山秋子(文筆マシン)」と見立てた取扱い説明書式の一章ですけど、

設置場所(警告!)

 以下の場所に設置しないで下さい。故障や変形、喧嘩の原因になります。」

 という項目に、はっきりこう書いてありますし。

「いちじるしく低俗な場所(文壇バーなど)」

 あ、それから、こんな「場所」も、設置してはまずいらしいです。

「賞のプレッシャー、影響が大きすぎる場所」

          ○

 『絲的メイソウ』の初出は、『小説現代』平成16年/2004年9月号~平成18年/2006年3月号です。デビューから3度連続して芥川賞候補、そのころにはすでに、誰もが認める大衆小説誌『小説現代』に1年半の連載エッセイの枠を持ち、みっちりたのしませてくれたりして、ああ、だから直木賞なんかに目を付けられたんだろうな、と思わないでもありません。

 で、『逃亡くそたわけ』です。最近の直木賞のなかでの、プチびっくりです。絲山さん初の書き下ろし単行本だそうです。中央公論新社から出ました。

 中央公論新社? ああ、モヤモヤした感じを引き起こす原因のひとつは、これだったか。中央公論新社の本。

 思い直して、先ほど挙げた候補作のリストを、版元もいっしょにみてみます。

 『対岸の彼女』=文藝春秋。『空中庭園』=文藝春秋。『赤目四十八瀧心中未遂』=文藝春秋。『ファザーファッカー』=文藝春秋。『青春デンデケデケデケ』=河出書房新社。『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』=角川書店

 山周賞のほうは、『ナラタージュ』=角川書店。『パレード』=幻冬舎。『地蔵記』=文藝春秋。『TUGUMIつぐみ』=中央公論社。『聖マリア・らぷそでぃ』=河出書房新社。『黄色い髪』=朝日新聞社

 不思議と言いますか、見る人がみたら当然と思うのかなと言いますか。なぜだ、『新潮』を出している新潮社がいないぞ。『群像』の講談社はどこにいる。『すばる』の集英社はどこ行った。これらの純文学誌といえども、大衆文学の世界でがんばっている作家に、ちょくちょく誌面を提供したりして、「純だの大衆だのと、古くせえこと言うなよ、時代はもう変わってるんだぞ」って顔をのぞかせているはずだけどな。

 古いことを言えば、藤原審爾さんとかも『オール讀物』や『小説新潮』と、『群像』や『新潮』なんかに、同時期に作品を発表していたっけ。

 小説ジャンルのボーダーレス、なんてハナシは、そもそも戦後の日本じゃ幻想にすぎなかったのかもしれません。ただ、文学賞の世界では明らかに、ボーダーはしつっこく根深く残っているようです。芥川賞はいざ知らず、直木賞のほうは、昭和30年代、40年代にそれを懸命にぶち壊そうと努力しました。しかし、このボーダーは思いのほか堅固だったんでしょう。たぶん。新進・中堅作家の単行本なら、たとえ初出が『新潮』でも『群像』でも『すばる』でも、直木賞の候補に挙げてよさそうなものです。なのに、いまのところそこまで至っていないのは、文学賞に備わっているボーダー意識(あるいはボーダー機能)の名残りです。

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