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2009年2月15日 (日)

ああ、禅僧も出版界も、この世は小事煩悩がうずまいているなあ。 第104回候補 堀和久『死にとうない』新人物往来社刊

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  • 【歴史的重要度】…flairflair 2
  • 【一般的無名度】…flairflairflairflair 4
  • 【極私的推奨度】…flairflairflair 3

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第104回(平成2年/1990年・下半期)候補作

堀和久『死にとうない』(平成2年/1990年9月・新人物往来社刊)

 『死にとうない』は、ワタクシの好きな歴史小説です。でも、今回の主役はこの作品じゃありません。書いた堀和久さんでもありません。

 直木賞の候補に挙がると、その作家の多くは、選考会の当日、賑やかななかで過ごします。その様子は時にテレビカメラが映したり、週刊誌が取り上げたり、あるいは作家本人がエッセイなどに書きのこしたりもします。そういうものから垣間見えるかぎりでは、候補者は案外と冷静だったり、賞のゆくえに無関心だったりするんですよね。じゃあ、浮かれ騒いでいるのはいったい誰か。……その作家と付き合いのある編集者とか、出版社の人たちだった、なんてことが、しばしばあります。

 たとえば、候補作を出した出版社は、候補に挙げられた段階で、「直木賞受賞」の字の入ったオビを刷って当日を迎えるらしいです。受賞するとも決まっていないのに。

 こうなってくると直木賞を「作家個人のための賞」と言うのは単なる建て前であって、内実は違うものになっているんだな、とわかります。直木賞の大部分は出版社のための賞でもある、というのが正確なとらえ方です。

 なので今日の「これぞ名候補作」の主役は、出版社です。正賞の時計も、賞金の100万円ももらえないのに、けなげに候補作誕生のために力を尽くす出版社に目を向けます。『死にとうない』の生みの親、新人物往来社です。

 で、まずは、同社が直木賞史に送り出してきたすべての候補作をご紹介しましょう。第89回(昭和58年/1983年・上半期)で初登場、第107回(平成4年/1992年・上半期)までの9年間で、5つの作品が候補になりました。

Photo 『写楽まぼろし』

(昭和58年/1983年5月10日、杉本章子

装丁・原田維夫

発行者・菅英志

『歴史読本』の連載をまとめた長篇。

第89回直木賞候補。



Photo_2 『常夜燈』

(昭和60年/1985年11月25日、篠田達明

装丁・熊田正男

発行者・菅英志

『歴史読本』の連載をまとめた長篇。

第94回直木賞候補。



Photo_3 『東京新大橋雨中図』

(昭和63年/1988年11月25日、杉本章子

装幀・森田誠吾 レタリング・徳留正昭

発行者・菅英志

『別冊歴史読本』に掲載した作品に加筆した長篇。

第100回直木賞受賞。



Photo_4 『死にとうない』

(平成2年/1990年9月30日、堀和久

装幀・安彦勝博

発行者・菅英志

『別冊歴史読本』に掲載した作品に加筆した長篇。

第104回直木賞候補。



Photo_5 『五左衛門坂の敵討』

(平成4年/1992年4月30日、中村彰彦

装幀・大木眠魚 装画・関根雲停

発行者・菅英志

『時代小説』に掲載した4作品をまとめた短篇集。

第107回直木賞候補。



 ううむ、おそるべし『歴史読本』ファミリー怒濤の攻撃。

 昭和50年/1975年に創設した歴史文学賞を、陽があたらない頃から地道につづけて、そうやって蒔いた種がひとつ、またひとつと咲きはじめた軌跡、それが5つの直木賞候補作として表れたんでしょう。となると、それを育て上げた『歴史読本』編集長(上記の各書で「あとがき」のあるものには、決まって名前が登場します)田中満儀さんは、やはり直木賞の歩みを支えた文芸編集者リストの一員に加わってもらわなければなりません。

 それにしても新人物往来社、平成4年/1992年を最後に、すっかり直木賞の場に登場することがなくなり、はや10数年。いかがお過ごしでしょうか、と思っていたら去年の秋、突然(?)出版界の話題の表舞台にお出ましになったので、いやあ驚いたものです。

          ○

 新人物往来社4作めの候補作『死にとうない』。こちらも候補4作めとなる堀和久さんが、いよいよ受賞なるかと注目されるなかで送り出した歴史小説です。

 博多にある聖福寺は日本最初の禅寺として名が知られています。天保のころ、その聖福寺の虚白院に、前住職だった一人の老和尚が住んでいました。仙厓和尚です。

 仙厓は周囲の住人に慕われていました。和歌を詠み、童子たちと遊び、畑を耕し、自己流の墨絵を描いて暮らす毎日。貧乏な長屋の連中が出入りするのもいとわず、寺に寄進された食べ物、飲み物を彼らがたべるのも放っておき、自然のままに受け入れています。

 まわりの目から見れば、仙厓はすべてを達観しているように見える人でした。しかし、彼とて若いころから小事煩悩に思いまどってきたのです。

 死を目前にして仙厓の頭のなかには、そんなおのれの一生が回想されていきます。

          ○

 ええと、とてもワタクシの任じゃないんですが、新人物往来社の歩みをチョロッと概観してみようと思います。これ、高杉良さんあたりがビシッと小説化してくれたら、面白い物語になりそうです。

  • 昭和26年/1951年12月:雑誌『人物往来』創刊(昭和27年/1952年1月号)。発行元は「人物往来社」。興したのは八谷政行(やたがい・まさゆき)。
  • 昭和30年/1955年9月:創業。
  • 昭和31年/1956年:雑誌『特集人物往来』創刊。のち昭和35年/1960年より『人物往来歴史読本』と誌名を変え、同社の基幹誌へと成長していく。
  • 昭和43年/1968年9月:経営の行き詰まりにより、八谷の友人だった菅貞人が経営を引き継ぐ。社名を「新人物往来社」に変更。
  • 昭和43年/1968年12月:『人物往来歴史読本』を『歴史読本』と誌名変更し、刊行を継続。
  • 昭和50年/1975年:歴史文学賞を創設。第1回受賞者発表は昭和52年/1977年。
  • 昭和51年/1976年:菅貞人の後を受け、その息子・菅英志が社長に就任。
  • 昭和58年/1983年~平成4年/1992年:5度にわたり直木賞候補作を生み出す。うち第100回(昭和63年/1988年・下半期)に『東京新大橋雨中図』が受賞(現在まで同社で唯一の受賞作)。
  • 平成10年/1998年:累積赤字が2億4000万円となり、出版方針を転換。毎月の新刊を6点から3点に(2年後には2800万円の黒字決算となる)。
  • 平成17年/2005年6月:菅春貴が社長に就任。
  • 平成20年/2008年11月:出版部門が中経出版のグループ傘下に入る(社名は変更せず)。菅春貴は経営から退き、大出俊幸が社長に就任。

 だいたいですよ、八谷政行さんが困り果てて、時の有名人・菅貞人さんがその経営を引き継いだあたりなんかに、物語になりそうな雰囲気がぷんぷん漂っているんですよね。昭和43年/1968年の出版界のできごとといえや、河出書房新社の倒産、いわゆる「河出ショック」が強烈すぎて、新人物往来社のことはその影に隠れている感があるんですけど、だって、なにせ菅貞人さんですよ。ほんの1年前に、共和製糖事件で詐欺・私文書偽造行使の容疑で逮捕されて、その前後にはマスコミからよってたかって悪人よばわりされた、あの菅貞人さんですよ。

「酒もタバコものまず、“ただ金もうけ”だけが生き甲斐と豪語し、共和グループの総帥として文字通りワンマン振りを発揮していた菅貞人も、昭和四十二年二月八日、東京地検特捜部によりついに逮捕されることとなるのであるが、その前身は、多くの謎につつまれている。」『共和製糖事件』昭和42年/1967年4月・東邦出版社刊、大森創造[参議院議員]監修、栗田勝広[大森の秘書]著、「怪物菅貞人とその周辺」より)

 まあまあ、“怪物”菅さんのことですから、新人物往来社がはじめての出版事業じゃなかったらしいです。前掲の『共和製糖事件』には、戦後まもなく「吉昌社」なる出版社をやっていたことが書かれています。

「韓は(引用者注:菅貞人の旧名・韓吉昌のこと)、昭和二十三年四月、明治大学商学部夜間部に入学、二十六年三月に卒業したことになっているが、菅の真面目は、学業より商才の方にあった。上京するや間もなく、怪しげなブローカー仕事に精を出し、小金をためてから、昭和二十一年には、「吉昌社」という出版社をつくり「桃源」という雑誌や「心敬集」という単行本を発刊するとともに、同じ事務所の一角には「中日貿易」の看板をかけて、ここでもっぱらヤミ商売をするといういっぱしの虚業家になっていたという。この「桃源」という雑誌は何回か出されてから廃刊となるのであるが、その執筆者には、江口換(原文ママ)北条誠、舟橋聖一、草野心平などの文学者の名前がみられた。」

 さらにその息子、英志さんの代になってもきっと、この会社にはいろいろな紆余曲折、方針変更があったことでしょう。塩澤実信さんの『出版社大全』(平成15年/2003年11月・論創社刊)には、そのほんの一端だけ出てきます。たとえば、平成10年/1998年から数年間に同社が体験した「厳冬期」に触れられていて、

「出版界が超厳冬期のいま、隠しだてなくこの三年間の経営内情を話せるのは、「決断とスピード」で修羅場を超えた自信があるからだろう。」

 と、塩澤さん苦肉の提灯記事ギリギリの文章があるわけです。

 ちなみにこの記事の小見出しが「どん底に耐えた強味」。ははあ、そのたった数年後に、いよいよギブアップして、中経出版に丸抱えされる境遇になっちゃったのを見ると、なんだかこの記事以外の部分でも、外野の人間には知り得ないサスペンスフルな物語性がずっと続いていたんじゃないだろうか、と想像されてきてしまいます。

          ○

 出版社にとって、直木賞っていうのはいったいどんな存在なんでしょうか。

 作家の場合でいえば、かりに受賞しても、その恩恵で賑わうのはせいぜい半年から1年(いや、もっと短いですか)、っていう定説があります。たぶん、その賑わいの短さは、まんま出版社にも当てはまりそうです。

 直木賞の候補作を出せば、その瞬間(1月とか7月)に会社を覆う熱気はそりゃあ熱いものがあるでしょう。でも、賑わいはすぐに覚めます。とくに文芸書なんて、出版社にとっては見栄えや体裁はいいものの、けっして儲けさせてくれるたぐいの部門じゃないですもんね。今の時代。それでもめげずに、継続して文芸書をつくり出す熱気を保っていける出版社だけが、おそらく長いあいだ、直木賞の候補作リストに、その名を登場させることができます。

 あ、もちろん「継続して直木賞候補を生み出す」のが、出版業として価値がある、だなんて暴論を吐く気はありませんよ。逆に、直木賞路線には全然見抜きもしない、っていう生き方のほうが多くの読者を獲得するし、出版社として成功するのかもしれませんし。

 それでも、直木賞の選考日前後の、あの狂騒的な出版業界隈のありさまを傍観していますと、さすが「文壇・業界内の祭りにすぎん」と揶揄されるだけのことはあります。この賞の授賞は、ある側面では担当編集者、担当出版社にたいする表彰です。

 新人物往来社が、そのお祭りごとに目をくらまされ、ある時期から、直木賞を意識して候補になりそうな小説づくりに進んでしまい、その結果、売れない領域に足を突っ込んで深みにハマった……だなんてウラ事情がなかったことを願います。

 とりあえず今は、経営再建でたいへんなことと思います。当分は、直木賞なんて、そんな名誉はあっても大してお金にならない賞のことなど、どーでもいいことでしょう。それでも直木賞マニアたちは待っています。新人作家たちの気合いのこもった濃くてシブーい歴史小説・時代小説を刊行して、ふたたび「直木賞候補社」の座に舞い戻ってくる日を、少なくともワタクシは、期待して待っています。

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