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2008年12月の4件の記事

2008年12月28日 (日)

共有しづらい論理。ミステリーと言うより異常。人は彼を「鬼」と呼ぶ。 第43回候補 碧川浩一『美の盗賊』

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  • 【極私的推奨度】…flairflairflair 3

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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作

碧川浩一『美の盗賊』(昭和35年/1960年5月・桃源社刊)

 日本の探偵小説=推理小説=ミステリー史をみる上では、まず欠かすことのできない人です。戦後の「文学派」と「本格派」の熱いバトルが語られるときには、本名・白石潔として、しばしば登場します。あるいは、戦争をはさんでほとんど創作意欲をうしなったアノ乱歩さんに、戦後はじめて小説を書かせた敏腕(?)編集者、それは報知新聞編集局長・白石潔だ、ってことで有名だったりもします。

 その白石さんの実作として知られているのが(というか、ワタクシの知っているのが)、『別冊宝石』に載った「借金鬼」と、中編集『美の盗賊』所収の3つ「美の盗賊」「明日への饗宴」「チカ昇天」。

 なんつったって急進的本格派の牙城『鬼』誌の中心人物、あの白石さんの作品だからね、きっと本格趣味バリバリの推理小説っぽい推理小説なんだろうな、などと期待して読むと、大ヤケドします。

 4作とも、はっきり言ってワケがわかりません。ついてゆくだけで至難のわざです。

 「謎宮会」のヘレン・ケラ一さんは、「明日への饗宴」のことを「地上最強の美食ミステリ、ストロンゲストな美食ミステリ、言わば美食ミステリの核弾頭」とおっしゃっています。まさしく。納得です。もう常人が「楽しい」と認識できる許容感度を、はるかに超えちゃっています。

 で、きっとそういう状態を(そういう状態を日常のものと感じる人のことを)、「鬼」と呼ぶのでしょう。

 まったく「鬼」の称号は、白石潔=碧川浩一さんにぴったりハマります。「鬼」とは、もっと平板な表現をすれば、マニアとか、狂信的ファンとか、そうなるんでしょう。探偵小説を愛しすぎて、本格派擁護の座についたかと思いきや、それすら突き抜けて「文学派」を通りすぎてこんな境地に達してしまうとは。相当の「鬼」です。

 とくれば、取り上げる候補作はそのものズバリ「借金鬼」(第38回 昭和32年/1957年・下半期 候補)でもいいんですけど、せっかくご著書があるので今日はそちらにします。

 ですが、「借金鬼」のときには、木々高太郎さんによる紹介文がいっしょに付いていました。木々さんは直木賞の選評では一言もこの作品に触れていません。ですので代わりに、木々さんがどんなふうに碧川小説を見ていたか、ざっと引用しておきます。

「推理小説では、これが処女作。さてこの作がまた問題である。人間にこのようなスリルのある心理が存在するであろうか。ドストイェフスキィの「賭博者」よりも更に一層近代的な深淵、そして書き方はツワィグの如く、この一種の異常な作品を更に第二第三と、この作家に書かせてみたい。」

 「一種の異常な」? ははは、カドの立たない表現をよくぞ探してきましたな。「一種の」の語をはぶけば、この作品をもっとよく表すと思います。

 さて、『美の盗賊』です。「明日への饗宴」はヘレン・ケラ一さんが、「チカ昇天」は中島河太郎さん(『日本推理小説辞典』昭和60年/1985年9月・東京堂出版)が紹介してくれていますので、ここでは残る標題作「美の盗賊」をご案内しましょう。といってもワタクシ、理解力は常人並みかそれ以下なもので、この異常作のあらすじをまとめる自信など、ほとんどありませんが。

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2008年12月21日 (日)

一度どん底まで落ちて。彼に小説を書く道がのこされていて、ほんとよかった。 第34回候補 八匠衆一「未決囚」

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第34回(昭和30年/1955年・下半期)候補作

八匠衆一「未決囚」(『作家』昭和30年/1955年7月号)

 八匠(はっしょう)さんは本名、松尾一光。直木賞はとらなかったし、たった一度の候補作「未決囚」は選考会でそれほど評判にもなりませんでした。でも、直木賞の候補になったことで、きっと彼の人生は大きく変わったにちがいありません。

 人生だなんて、こらこら、おまえ八匠衆一の人生の何を知ってると言うのだ。自分の人生すら、ろくに顧みないくせに。はい、そうなんですけど、とくに八匠さんのように、万人が経験するわけでない、ちょっと特別な経験をお持ちの方と出逢うと、どうしても「人生」だとか青臭い用語を持ち出したくなるのです。

 八匠さんの特別な経験というのは、アレです。候補作「未決囚」で描かれる状況に、深く関わっているアレです。

 彼がのちに書いた「風花の道」(昭和59年/1984年9月・作品社刊『風花の道』所収)では、こんなふうに語られています。

「その晩、松井田は新宿へ出てカストリを飲んだ。(引用者中略)彼が金を払いその店を出たのは十二時近くである。(引用者中略)太い楡の樹が枝を伸ばしている柿ノ木坂の坂道を、彼は上半身を折るようにして登って行った。都立大学横の崖下の墓地の上には赤い月が懸っていた。

 背後から草履の音がして、ひとりの中年の婦が彼を追い越して行った。(引用者中略)酸っぱい胃液が彼の腹のなかで渦を巻いていた。彼が足をはやめるとその婦も足をはやめ、彼が歩度をゆるめると、その婦も歩度をゆるめるように思えた。その後姿を追っていると、彼は吐気といっしょに鋭い憤りに似たものを覚えてきた。

 坂を登りきり追い越そうとした瞬間、婦の背に急に困惑と狼狽の形が走った。彼はかっとなり婦の背後に近づいて行った。婦は手に持っていたハンドバッグを投げ捨て、鋭い悲鳴をあげた。(引用者中略)声をあげさせないために、彼は婦の肩に手をかけなにか言ったような気がした。(引用者中略)

 翌朝、彼は碑文谷警察の留置所のなかで眼をさました。」

 事件は戦後まもなく、昭和22年/1947年か昭和23年/1948年頃のことです。罪名は「強姦未遂」。執行猶予がついたものの、〈松井田〉はその罪名に恥辱を感じ、勤め先もやめてしまいます。しかし〈松井田〉はまもなく、ふたたび同じような行為をしてしまい、今度こそ未決監に収容されてしまったのでした。

 強姦(未遂)の単語は、たしかに痛いよなあ。で、〈松井田〉がそうであったように、現実の松尾一光さんも作家志望で、そのころ、どうにかボチボチ小説を発表し出していて、これからって時だったのに。

 本エントリーでは深くは触れませんが、松尾さんの逮捕やその後のことを知るにつけ、ワタクシはもう一人、直木賞候補作家のその後のゆくえが気になってくるのです。

 その候補作家っていうのは、罪名は違うんですけど、やはり「女性にまつわる」事件で起訴されちゃいました。結婚の約束をいっぽう的に破棄されたと言って怒り、相手の女性やその家族に連絡をとりつづけ、あげくに脅迫罪の容疑で逮捕。そして、それ以来、表舞台から姿を消してしまいました。

 その方がどうなったのか、今でも小説を書き続けているのかは、ちょっとわかりません。しかし、松尾一光さんは恥辱にまみれながら、服役をまっとうし、出所後にみごとな復活を果たしました。その復活を復活たらしめた一つの要素が、きっと「直木賞候補に挙げられたこと」にあったはずなんです。

 これが「芥川賞候補に挙げられたこと」でなかったのが、もしかして松尾=八匠さんには不服だったかもしれないですけど。まあまあ、どっちでもいいじゃないですか。ねえ。だってほら、梅崎春生だって、一度も芥川賞候補に名を挙げられることなく、それでも本人迷いながらも、直木賞を受けたんですから。……って、何の慰めにもなってないですけど。

 そうそう、梅崎春生です。八匠さんの復活作「未決囚」は、あるときは自殺未遂まではかった松尾一光の、恥辱の昭和23年/1948年当時を、数年たって自身でふりかえることで出来上がりました。ただしそれより前、彼と付き合いのあった人が二人ほど、松尾さんの収監をネタにして、すでに小説を書いています。その一人が伊藤整、もう一人が梅崎春生です。

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2008年12月14日 (日)

だれが候補作を決めるのか。その権力争いはすでに始まっていました。 第28回候補 松本清張「或る『小倉日記』伝」

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第28回(昭和27年/1952年・下半期)候補作

松本清張「或る『小倉日記』伝」(『三田文學』昭和27年/1952年9月号)

「今まで、ほかで何度か云っているので繰り返さないが、直木賞候補とばかり思っていた拙作は、芥川賞委員会の方へ廻付されていたのである。これは読んで下さった小島政二郎氏と永井龍男氏とが主張されてその結果になったとあとで承った。」(松本清張「作家殺しの賞」より 初出『文學界』昭和34年/1959年3月号 『松本清張全集34』昭和49年/1974年2月・文藝春秋刊 所収)

 有名作家にして、芥川賞をとった有名作。そして、あまりにも有名な“芥川賞への横すべり事件”。ご本人も昭和34年/1959年の段階ですでに何度も語っているそうですし、現在にいたるまでさまざまな人が、くどいほど紹介しています。新資料が手に入ったわけでもなし、何を今さらワタクシが付け加えることがあるでしょう。

 直木賞研究の視点から、この横すべり事件を今一度とらえ直してみたいと思います。

 まずは、事件の概要を簡単におさらいしておきましょう。「そんなこたあ、誰だって知っとるわい」と芥川賞・直木賞に造詣の深い方も、ちょっとお付き合いください。

 事の発端は、昭和26年/1951年はじめ。松本清張さんが、自分の働いていた新聞社の雑誌主催の小説募集に、みごと三等入選したことから始まります。「西郷札」です。

 このとき、清張さんの上には特選があり、優賞2名があり、入選一等・二等がありました。なのに、その中で特選と、三等の「西郷札」が『週刊朝日』春季特別号に掲載されました。

 これを読んだ大佛次郎火野葦平、長谷川伸などからお褒めと激励の手紙が送られてきます。自信を得た清張さんは、その掲載号を木々高太郎にも送ってみました。するとまた、好意的な手紙が返ってきました。

 木々高太郎が清張さんに寄せる期待は相当なものでした。その期(第25回)の直木賞の候補作に「西郷札」が選ばれるや、選考会において木々氏はかなり高い点を付けます。

 こういった縁で木々とのパイプができた清張さん、どこかの雑誌に紹介してくれるだろうと思い、推理色の強い「記憶」という作品を書いて送ります。それがすぐさま、木々が編集に関わっていた『三田文學』に載ったものですから、清張さんやや戸惑います。そうか、『三田文學』に載せてくれるのなら、と

「同誌の性格に合う小説をと思い、つぎに提出したのが「或る小倉日記伝」である。」(『松本清張短編全集1 西郷札』昭和38年/1963年12月・光文社/カッパノベルス「あとがき」より)

 この作品は予想どおり『三田文學』に載せてもらえ、ひきつづき第28回(昭和27年/1952年・下半期)の直木賞候補に挙がります。

 選考会は昭和28年/1953年1月19日(月)でした。清張さん、わくわくしながら家でラジオを聴いていたんですが、受賞は立野信之『叛乱』との報が流れてきます。ああ、自分の作品は落選したんだな、と清張さんが思うのも当然です。

 ところが、選考会の席上では予想外の事態が起こっていました。冒頭に永井龍男が「或る『小倉日記』伝」は芥川賞で選考するほうがふさわしいと発言、それが受入れられて3日後の1月22日(木)に開かれる芥川賞選考会に回されることが決まっていたのでした。

 当のご本人の知らないうちに、日は流れ22日の芥川賞選考会が開かれます。佐藤春夫川端康成坂口安吾らが評価し、反対派の石川達三舟橋聖一らの意見を押さえて、五味康祐の「喪神」とともに、受賞が決まります。

 清張さんのところには、新聞記者が急行。なんだなんだ、こんな夜に。え? 芥川賞を受賞した? うそつけ。と、事情を知らない清張さん、面をくらいました。

 以上、登場人物たちの著名度も申し分なし、芥川賞や直木賞の“権威”を傷つけるような文脈も見当たらず、エピソードとしてはなかなか面白い。ってことで、文藝春秋が紹介する「芥川賞エピソード史」みたいなものには、たいてい取り上げられて、そう、よく知られた事件になったわけです。

 でも、この一連の事件を、その後の両賞の歩みと合わせて見返してみると、どうしても注目しなきゃならない事項がひそんでいます。「選考委員の立場」ってやつです。

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2008年12月 7日 (日)

「最も直木賞に嫌われた男」コンテスト、栄えある第一位。 第13回候補 長谷川幸延「冠婚葬祭」

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第13回(昭和16年/1941年・上半期)候補作

長谷川幸延「冠婚葬祭」(『大衆文藝』昭和16年/1941年6月号)

 このブログで名候補作を紹介しはじめてから、すでに半年。だがP.L.B.よ、反省したまえ。なぜに長谷川幸延のことを半年間も放ったらかしにしてきたのだ。

 おっしゃるとおりです。今まで取り上げてきたどの候補作家よりも、「最も直木賞に嫌われた男」の称号は、長谷川幸延さんに捧げるべきです。異論なし、異論なし。

 真保裕一ファンの憤慨。伊坂幸太郎ファンの諦観。そういったものに心からの共感を寄せつつも、いや、それよりもっと深い悲しみに暮れた人たちが、かつて日本にいたことを、ワタクシは忘れはしません。長谷川幸延ファンのことです。

 彼らの悲嘆の歴史は第12回(昭和15年/1940年・下半期)に始まり、何度も何度も何度も悪夢のごとく繰りかえされて、戦争をはさんで第31回(昭和29年/1954年・上半期)まで、都合7度。

 回数だけじゃありません。同じく7度のショックを味わった中村八朗ファンに比べて、さらに幸延ファンの傷心の深さに思いを馳せるのには大きな理由があります。多くの回でほとんど受賞目前と言えるほどの高評価を受けていながら、選考委員たちにあと一息の思い切りが足りず、きれいに落とされているからです。こんなにもたくさん「惜しくも落とされた」候補作家は、長谷川幸延をおいて他にいません。

 そのくらいの名候補作家ですから、選考委員のなかにも「コーエン擁護隊」と呼ぶべきグループがありました。その筆頭に位置するのは、まず小島政二郎でしょう。吉川英治もかなり好意的です。戦後では木々高太郎がこれに加わりました。ときどき、片岡鐵兵永井龍男などが援護射撃を放ちます。

 それでもやっぱり受賞の的を打ち抜くことができなかった計7度、10作におよぶ候補作品。そのなかでどれを「名候補作リスト」に入れるか悩んだ末に、幸延さん最初のニアピン、カップすれすれ、スーパーショットを選ばせてもらいました。「冠婚葬祭」です。

 時は第13回(昭和16年/1941年・上半期)。強力な対抗馬は、木村荘十「雲南守備兵」。選考会では、その「雲南」を推す白井喬二と、「冠婚葬祭」を推す小島政二郎とが争います。あえて「もしも」を持ち出すならば、もしもこのとき、日本が戦時下でなかったなら、中国大陸で暴れていなかったら、「雲南」ではなく「冠婚葬祭」のほうが受賞していたんじゃないかと思います。

 惜しくも敗れ去った小島政二郎、その悔しさはずっと胸にくすぶり続けたようです。12年のちの第28回(昭和27年/1952年・下半期)、長谷川幸延「老残」が候補作となったのを目の前にして、政二郎さんガラにもなく懇願口調の選評を書いてしまいます。

「この作品を書き上げた時、作者は私に直木賞候補になるような作を書きましたと云っていました。この言葉から押すと、彼は未だに直木賞に望みを賭けていると思わなければなりますまい。そう思うと、私は笑止でなりません。戦争前の「直木賞」の時、もう少しで授賞作品になりそうになった「冠婚葬祭」を思い出して、(あの時、「婚葬祭」の三作ああ、あと一つ「冠」が出来て、四作完成したら直木賞をやろうと委員会で話がありました。その旨を当時作者へ伝えましたところ、悲しや、現代には「冠」の事実がないと云って慨いていました)この作品に賞を授けて下さい。

 こんな傑作を書いても、今更長谷川幸延でもあるまいという意味で敬遠するなら以後「直木賞」候補作品の中から長谷川幸延君の名を遠慮することにして下さい。それでないと、私は笑止で見ていられません。」『オール讀物』昭和28年/1953年4月号選評「長谷川君のペーソス」より)

 ここまで言っても、なお落選。そればかりか日本文学振興会は、このあとも2回ほど長谷川幸延を候補に挙げちゃいます。いわば小島発言を完全無視。恥をかかされた政二郎さん、その2回では長谷川作品について一言も選評で触れず、ああ、悲哀感たっぷりの背中をワタクシたちに見せてくれました。

 ほんとに、なぜ河内仙介神崎武雄など、新鷹会出身の作家が受賞できているのに、幸延さんが受賞できなかったのか。そして、なぜここまで直木賞に嫌われ続けたのか。不思議です。

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