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2008年7月20日 (日)

まさに直木賞が逸した長蛇の代表格。山口瞳に深ーく未練を残させる。 第95回候補 隆慶一郎『吉原御免状』

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第95回(昭和61年/1986年・上半期)候補作

隆慶一郎『吉原御免状』(昭和61年/1986年2月・新潮社刊)

 うっ。あまりにも有名作家すぎるので、正直、ブログを一回お休みするふりしてワタクシは尻尾をまいて退散したい。それでも、あえてこの方のこの作品をご紹介するのは、「これぞ名候補作」リストから、まさか隆さんを外すわけにはいかないからです。

 隆さんと直木賞、ってネタで言えば、この小説デビュー作『吉原御免状』よりも、第101回(平成1年/1989年・上半期)候補の『柳生非情剣』のほうが受賞の近くまで行ったはずです。それは『オール讀物』の選評を読むとわかります。しかし、だいたい直木賞エピソードのおいしいところは、「公式文書」以外に転がっているものです。

 「おれは隆慶一郎のことなら毛穴の数まで知っているぜ」と自負する数多くのファンの方々には申し訳ないですが、きっと以下のハナシは既知のことでしょう。まあ、この場はあくまで「直木賞」メインのブログなものですから目をつぶってやってください。隆慶一郎のことをそれほど知らない方のために書かせてもらいます。

 隆さんといえば、お仲間に、最近集英社文庫が復刊され始めた広瀬正や、お医者さんの妻で5児の母親だった川野彰子がいます。つまりは、ほんの数年の作家活動、そのわずかな間に直木賞候補に何度か挙がり、さあこれからというときに、早すぎる死。……隆さんの61歳~66歳の閃光は、あまりにまぶしいけれど短すぎます。

 結果として柴田錬三郎賞を受けたのが、隆さんにとって最後の文学賞になっちゃいました。今の柴錬賞は、すごろくで言えば直木賞の一コマ二コマ次ぐらいに位置しているんでしょうが、隆さんが受けた第2回の段階ではどんな賞になるかまだわからない時期だったはずですからね、ひょっとすると柴錬賞→直木賞、のルートを隆さんが切り開いてくれた可能性もあったかもしれません。

 没後19年、今さら隆さんの偉業を振り返って、「まったく直木賞ってやつは、節穴もいいとこだな」とせせら笑うのは、もう後出しジャンケン以外の何物でもないんですが、後出しは後に生まれてきた人間の特権です。存分に活用させてもらいましょう。「隆慶一郎の『吉原御免状』は何が理由で、直木賞をとれなかったのか」を、あくまで資料の上から突つきたいと思います。

 まずは、近しい人が語る『吉原御免状』の落選理由から。

「『吉原御免状』は時代考証に問題があるという一部の選考委員の強硬な反対で、惜しくも賞を逃した。

「直木賞残念でしたね」

「なあに、賞なんて……」

 隆慶一郎は何事もなかったような顔で答えた。

(賞なんて取ろうと思えばいつでも取れるさ)という意味か(賞なんて問題にしてないよ)という意味だったのか、分からない。だが、私は後者の方だと受け取った。」(松岡せいじ著『隆慶一郎 男の「器量」』平成9年/1997年1月・本の森出版センター刊、「偉ぶらない、自慢しない」より)

 隆=池田一朗に師事したシナリオライター・松岡せいじさんの言葉です。これを裏返してみれば、「一部の委員の反対さえなければ、直木賞をとれた」とも読めます。

 さて、どうなんでしょうか。

          ○

 さらに近しい人でもある、隆さんの長女、羽生真名さんも、松岡さんとほぼ同じ内容のことを語られています。

「選考過程で八割方の賛成を集めた『吉原御免状』の直木賞受賞が、「時代考証に問題がある」という強烈な異議申し立てによって流れた、という話を風の便りに聞いている。」(『隆慶一郎全集』第六巻 平成8年/1996年4月・新潮社刊 月報所収「ドン・キホーテの子守歌」より)

 「受賞目前まで行った」感じがより明確に表わされています。八割方の賛成を受けながら、時代考証への疑義ただ一点を理由として、あたかも強引に外された感じですね。

 そして、このウワサが果てまで到達しますと、アノ本のトークショーの注釈として、豊崎由美さんが書いているこんなゴシップのかたちになります。

*オレが目の黒いうちは~やれない

その典型が池波正太郎の隆慶一郎に対する態度。『吉原御免状』(新潮文庫)が第九十五回直木賞候補に挙がった際、まさにこの台詞によって強硬に受賞に反対したと聞き及んでおります。(豊)」(大森望・豊崎由美著『文学賞メッタ斬り!リターンズ』平成18年/2006年8月・パルコ刊「公開トークショー 文学賞に異変!?」より)

 池波さんならやりかねないよな、とちっとも不自然さを感じさせないところが、流言系ゴシップとしては秀逸なのです(ほら、胡桃沢耕史さんの時のおハナシもありますし)。けど、いちおう選考会は合議制だしなあ、一人が強烈に反対したぐらいで「八割方賛成」が一気にひっくり返るものなのかあ、と思わされたりもします。

          ○

 もう少し、正太郎ネタに触れてみます。

 この当時も今も、選考会のあとには記者会見が開かれ、選考委員のなかで受賞作を推した代表者が、選考経緯を説明するならわしになっています。第95回のとき、その役目を務めたのが、その正太郎さんでした。

 たとえば『毎日新聞』の、皆川博子『恋紅』受賞を伝える記事より。

「選考委員の池波正太郎氏は(引用者注:『恋紅』を)「テーマがはっきりしており吉原や芝居役者の内幕もよく書けた秀作」と評価した。」(『毎日新聞』昭和61年/1986年7月18日社会面より)

 『読売新聞』に載った同じ日の記事。もちろん、内容はほとんど同じです。

「選考委員の池波正太郎氏は(引用者注:『恋紅』を)「テーマがはっきりしている上に、主人公と相手の男性がよく書けている。ほぼ満票だった」と評している。」(『読売新聞』昭和61年/1986年7月18日社会面より)

 『読売』にはその3日後の夕刊に「芥川・直木賞の選考経過」という記事も出ていて、これもおそらく、受賞後記者会見の内容がベースになっているものと思われます。

「候補七作中、逢坂剛泡坂妻夫、皆川博子の三作品が最終選考に残った。このうち、逢坂・泡坂作品は受賞作には値しないとされ、皆川作品が十点満点で八点を獲得して選ばれた。

(引用者中略)

 前評判が高かった隆慶一郎作品は「さまざまな文献を引用して書いているが、吉原に関する基本的な時代考証が書けていない」という欠点から早々と落選した。」(『読売新聞』夕刊 昭和61年/1986年7月21日文化面より)

 「早々と落選した」の言葉と、先の「八割方の賛成」といった説のあいだに横たわる、この埋めがたい溝はいったい何なんだ。つまり、池波委員は強硬に反対しただけにとどまらず、記者会見で嘘までついたってことなんでしょうか。まるっきりわかりません。

 ちなみにこの回の選考会に実際に出席していた黒岩重吾さんは、のちにインタビューでこう回想しています。

「隆慶一郎という作家の作品を読んだのは六十一年、『吉原御免状』が、直木賞の候補になったときが最初。

 正直いって映画のシナリオ読んでるみたいだった。なにより、女郎の反応にこれはまずいなと思った。

 あの作品の主人公は、眠狂四郎みたいにええ男や。吉原を歩けば、女郎たちが、姿を見ただけでポーッとなる。

 それは良い。しかし、なかに、客をとってとって疲れ果ててる女郎が出てくる。最低の女郎やね。これでさえ、一眼見て顔を赤らめたという描写がある。

 これは小説というより映画です。(引用者中略)

 面白がってるな、思うに。小説は、こういうとこで面白がるもんやない。たか括ってるやないか、と思ったわけや。それは他の選考委員にも感じられたんやないの。一票しか入ってないもん。」(『週刊ポスト』平成2年/1990年3月2日号 倉本四郎「『捨て童子・松平忠輝』―骨太に闊達に描き切った「鬼」と「人」との凄絶な暗闇」より)

 池波さんや、その上をゆく長老・村上元三さんあたりが、『吉原御免状』の時代考証について、何らかケチをつけ、低い評価しか下さなかったのは、文献から見るに明らかです。だけど「八割方の賛成」の証拠が、どうにも探し出せません。仮にそれがほんとうだったとしたら、池波さんのヒステリックな性格はともかく、その反対意見にあっさり屈した他の委員たちの弱腰についても指摘しなきゃいけないんですけど、さて、どうなんですかねえ。

 普通に考えれば、同時期に『恋紅』が候補に挙がっていたのが運のツキ。扱う時代は違えどコッチは吉原、向こうは新吉原。そんななか『恋紅』に対する各委員の評価があまりに高すぎて、「時代小説票」は全部(ひとりを除いて)向こうに持っていかれちまった、と見るのが妥当なような気もするんですけど。

          ○

 時代小説オタクにして評論家、縄田一男さんは、隆さん没後、網野善彦さんとの対談でこう発言しています。

「直木賞の候補にも二回なりましたけれども、その時点では、隆さんが実現している作品の構想の意図がまだ酌み取られていなかったという感じですね。作品のテーマがあまりに大きすぎたので、亡くなってからじわじわとその真価が認められたというところでしょうか。」(『波』平成7年/1995年11月号「隆慶一郎の世界」より)

 縄田さんは紳士然として穏やかに語られています。けど、この言葉をもとに、ワタクシが意地悪い解釈を付け加えるとするなら、結局のところ、「新人賞の選考委員ってものは、つまりは新人作家の秘めたる力量や世界観まで含めて見通せて、はじめてその価値が決まるんでしょ。それがわからなかったのだから、当時の選考委員で、受賞に反対した人たちの目は、そうとう曇っていたわけですな」ってことになります。

 いや、誰だって間違いはありますって。とくに選考委員なんてのは、そうとう困難な仕事に違いないでしょうから。

 で、先に引用した黒岩重吾さんなんかは、『吉原御免状』は評価しなかったけれど、2度目の『柳生非情剣』では一転、隆さんの技量に感心して賛成派にまわり、柴田錬三郎賞のときも強力に推す側にまわったそうです。そして、『吉原御免状』にただ一人、受賞大賛成の意を示した山口瞳さんも、やはりのちのち、後悔(?)の念を洩らしていたらしいです。

 またまた松岡せいじさんの著書から引用します。

「隆慶一郎の死後、

「あのとき、私が一票投じていれば……」

(直木賞を取れたのに)というようなことを山口瞳が『週刊新潮』連載の《男性自身》に書いていたが、没後にそんなことを書かれてもどうしようもないではないか。

 山口瞳のこの一文は、彼ほどの具眼の士でも隆慶一郎の本質を読み損なったという慙愧の念の文章だと今は理解している。」(前掲書より)

 ここで山口さんが悔やんでいるのは、『吉原御免状』のときではなくて、『柳生非情剣』のときのこと。ただ山口さんの『吉原御免状』に対する惚れ込みようは尋常ではなく、『柳生非情剣』の選評のときも『吉原御免状』のことを引き合いに出して触れているし、その次の回(隆さんが亡くなった直後)の選評でも、またまたこの作品のことを書いているのです。

「私は星川(引用者注:清司)さんは力のある作家だと思っているが、同じシナリオライターで隆慶一郎さんが二度落選して星川さんが一度で受賞したことに運命的なものを感ずる。文学賞には運・不運があり、それが直木賞の面白いところでもあるのだが、私には、まだ隆さんの『吉原御免状』に未練が残っている。(以上妄言多謝)」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 第102回選評「自分の文体」より)

 たった一人が猛烈に賛成しても受賞できないこともあれば、たった一人が猛烈に反対しても受賞することがある、それが合議制ってもんだと思います。ただ、もしも、第95回選考会の場に実際にいた選考委員か、『オール讀物』編集長か、文春社員かが、「八割方の賛成から、時代考証をネタにした反対で、それが覆った」という証言を、どこかで書いたり語ったりしているのであれば、ぜひ拙ブログで補足としてご紹介したいと思いますので、ご存じの方がいれば教えて下さいませんか。そんなおいしいネタ、一人で味わってないで、みんなで共有しましょうよ。

 あ。『吉原御免状』のあらすじを紹介するの忘れてた。……内容は読んでからのおたのしみ。きっと損はしませんよ。いや、損をしないどころか、『吉原御免状』を入り口に隆さんファンがもっともっと増えることと確信しています。

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