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2008年5月18日 (日)

どでかい住居に住んだ堂々たる一文なし 第22回候補 河内信「甲子園の想出」

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  • 【歴史的重要度】…flairflair 2
  • 【一般的無名度】…flairflairflairflairflair 5
  • 【極私的推奨度】…flairflairflairflairflair 5

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第22回(昭和24年/1949年・下半期)候補作

河内信「甲子園の想出」(『雄鶏通信』昭和24年/1949年9月号)

 はじめて読んでから、しばらくたちます。それなのに、どうにも忘れ難い作品のひとつです。

 ところで、おそらく、あなたが河内信をご存知ないのと同じレベルで、ワタクシも河内信さんが何者なのか、ほとんど知りません。書誌検索して、「大河内信威」さんとか「河内信弘」さんとかがドバッと出てきて、イライラした経験をお持ちの同志も、きっといらっしゃるでしょう(え。いますよね?)。

 終戦直後、鈴木徹夫という作家がいました。『新青年』にいくつか作品を発表し、前にご紹介した高森栄次『想い出の作家たち』でも一項を割かれています。鈴木さんは自称“乞食作家”。そのものズバリです。結局、短期間、いくつかの雑誌に作品を発表したのち、集団で農村をまわる物乞いのグループに加わって、消息を絶ってしまいました。

 鈴木徹夫と河内信、直接の関連はなんもありません。だけど、どうにも似通ったものを感じます。それで、『新青年』の高森栄次さんのように、『雄鶏通信』の武内俊三さんでも延原謙さんでも、ほんの一瞬だけ誌面に顔を出した草の根作家のことを、なんらか書き遺しておいてくれたら、嬉しいんだけど。……世の中そう甘くはないようです。

 そうだ、『雄鶏通信』が生み出した「記録文学」の名作は、高木俊朗『イムパール』だけじゃないんだぞ、との思いを存分にこめまして。雄鶏社と縁のある直木賞関連作家、と問われたらワタクシは迷いなく、木々高太郎今日出海向田邦子をさしおいても、断然この河内信を選びたいと思います。

          ○

 表題の「甲子園」というのは、ほら、みなさんが思い描くあの甲子園のことです。甲子園球場です。

 ただし、野球の場面は、ほとんど出てきません。会話文も、そうとう少なくて、かなり短い作品とはいえ、ほぼ地の文、語り手「私」の述懐です。

 時は昭和9年/1934年。「私」は定職もなく、家もない、正真正銘の一文なし。行き場所のない「私」は、甲子園球場に入り込み、そこに泊まることにします。

 悲愴感も罪悪感も、まあ多少はあるんでしょうが、そこに泊まれる場所があるから当然泊まるのだと言わんばかりの淡々たる語りが、なんとも頼もしい。泊まるだけじゃない。座席に残された観客たちの食い残しを探し出し、そこで食料も調達してしまうという、そこは夢のような住まいだったのです。

 アルプススタンドよりも、内野スタンドの指定席付近のほうが、富裕層の観客が多いせいで、落ちている食料も豪華なんだそうで。さあ今から甲子園球場に不法侵入、不法宿泊しようと意気込んでいる方がいたら、いかにも参考になりそうな情報です。

 ところでアニキ、甲子園球場の楽園ぶりはそれだけに留まらないんですぜ。客席の間には、空のサイダー瓶、シトロン瓶が無数に捨てられています。それをかき集めて近くの古瓶屋に持ち込めば、なんとお金にもありつける、と来たもんです。

 ただ、ある期間、甲子園球場に住み着き、生活を営んだ乞食のおハナシ、と言ってしまえばそれまでです。ですけど、ロビンソン・クルーソーの例をひくまでもなく、どんな境遇、どんな場所においても、自らの才覚でもって生き抜く人間がそこにいて、切迫感など垣間見せず、悠々と日を送ってみせるその達観ぶりには、ほとほと感嘆してしまいます。

          ○

 今、ノンフィクションと呼ばれる概念は、おそらく戦後まもなくの昭和20年代には、「記録文学」とか「ルポルタージュ」とか呼ばれていました。『雄鶏通信』は、海外推理小説をさかんに紹介した側面で、一部では知られていますけど、もう一面、「記録文学」を積極的に掘り起こした雑誌として、その名を日本出版史に刻んでいます。たぶん。

 編集後記によると、この「甲子園の想出」も、同誌の記録文学募集に対して寄せられた作品のようです。当時の記録文学といえや、当たり前のごとく何らかの戦争体験をつづったものばかりで(たとえば、今日出海の「山中放浪」とかね)、さすがにそんな作品ばかりを立て続けに読む根気も熱意も、ワタクシには湧いてきません。へへ、林真理子女史のことをとやかく言えませんな。

 そんな昭和24年/1949年、記録文学=戦争もの全盛の時代にあって、おそらく売れ線でもなかった、こんな一文なしものを取り上げた、延原謙さん以下『雄鶏通信』編集部の方々には、その勇気を褒めたたえましょう。そして、なぜか純粋なガッチガチ新人によるこんな短い作品を、直木賞の候補にもってきた日比谷出版社『文藝讀物』編集部の方々には、がぜん拍手を送りましょう。

 「甲子園の想出」の本文を信ずるに、昭和24年/1949年当時、40歳ちょっと手前だった「私」こと河内信さん。その後もきっと、飄々とこの世を渡り歩かれたことと祈ります。そしてワタクシも、少しでもあなたの生きる姿勢を見習いたいと、つくづく思っているところです。

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