翔んでる人生
そうです、あなたこそ、直木賞受賞者のなかの直木賞受賞者。とるまでの経緯も、とってからの歩みも、最も“直木賞らしさ”を体現した人でありました。
『翔んでる人生』胡桃沢耕史(平成3年/1991年4月・廣済堂出版刊)
亡くなった平成6年/1994年以降、数年間は新しく文庫化された作品があったものの、21世紀に入ってからはパッタリとやみ、胡桃沢耕史の名は急速に書店の店頭から消えていっています。おお、まさしく「そんな作家名、今じゃ誰も知らないよ」とそこかしこで言われるようになった直木三十五の運命、そのまんまじゃないですか。
直木賞がとりたいんだと、辺り憚らず日頃から公言して、3度候補になりながら落選。4度目にして、決して彼の作風をフルパワーで発揮したとはいえない、“お行儀のいい”小説で受賞するところもまた、ははは、“直木賞っぽい”ですし。
まだ受賞する前のこと、横浜にある直木三十五の墓が豪雨で流されたとき、資金集めに奔走して立派な墓を再建した中心人物が、この人でした。さらに、その隣に自分の墓をたてるための土地を買って、「今度落ちたらね、自分の墓には“万斛のうらみを飲んでここに眠る あえて名を記さず”と墓碑銘を刻むつもりだったんですよ」と、受賞後の各週刊誌のグラビアページを飾ったのも、また有名なハナシ。
どんなことしてでも直木賞をとりたいんだ、と強く希望している諸兄は、ぜひ胡桃沢さんの遺した数々の文章を読んでみてください。感化される部分がきっとあるはずです。
こんな凄絶な生き方を真似したいかどうかは、別問題でしょうけど。
胡桃沢さんが直木賞のことについて書いたものといえば、おそらく今最も手に入りやすいのが『青木賞の取り方』(平成4年/1992年9月・光文社/光文社文庫)の表題作「青木賞の取り方」でしょう。
なにせ、かの百々由紀男さんと違って、正真正銘、直木賞をとった人が、こんなタイトルで本を出したんだもの、さぞかし実になる知識が満載のはずです。
かと思いきや、内容はどこまでが嘘でどこからが真かわからないパロディ味の強い短篇小説。実在の人名の置き換えがひんぱつして、澄川正太郎(清水正二郎)にはじまり、大崎乙機(尾崎秀樹)だの永江田鶴夫(永井龍男)だの井筒安高(筒井康隆)だの、それはそれで楽しく読めるんですが、読み終わって何だか物足りない気分になった人も多いはず。
そんな方は、文庫解説で山前譲さんが書いているように、やはり本書『翔んでる人生』を手にとらなくてはなりますまい。
膨大な創作量に比べて、あまり自分自身について書いたものを遺さなかった胡桃沢さんですが、本書は、受賞して8年後に出した貴重なエッセイ集です。直木賞のことを語っているのは、最後の2篇「歪んでしまった魂」と「直木賞の取り方を教えます」。とにかく“自分ほど直木賞に思い入れの深い作家はいない”と自負している方ですから、直木賞に関してズバズバと率直に語っています。
「ぼくがとても尊敬している泡坂妻夫さんが直木賞をとられた(引用者注:第103回 平成2年/1990年・上半期)。(引用者中略)泡坂さんは十年間で六回も直木賞候補になった。つまり最初の候補になって以来、五回も見送られた。なぜ五回も見送られたのか。ぼくはこう思っている。
直木賞の選考委員は技巧のうまい作品を嫌う傾向にある。エンターテインメントの技巧を評価しない。書き手がいくら腕達者でも文学性というのがあまり濃くない作品は落とされる。仕掛けや謎ときがどんなにうまくてもだめだということだ。(引用者中略)
ぼくは直木賞と芥川賞は画然と差をつけなければいけないと思っている。作品の文学性は芥川賞に任せる。そして娯楽性とまではいわないけれど、大衆に喜ばれる要素を持った面白い小説を直木賞にする。こういう区別をしないと、当の直木三十五に申し訳ない。実際、直木三十五の小説は面白かった。」
この考え方には、ワタクシも賛成だなあ。
とは言っても、たかがエンタメ小説を評価するだけの直木賞が、なんとか背伸びして“文学性”を追い求め、狙いどおりか偶然にか権威性をつかみとってきたことと、そこからはじき飛ばされた楽しい小説や、読み手をワクワクさせてくれる作家たちとの、せめぎ合い、格闘の歴史があるからこそ(そして今もそれが続いているからこそ)、“直木賞”は面白いんだよな。
ワタクシ個人的には、胡桃沢さんの「ロン・コン」「ロン・コンPARTII」(第85回 昭和56年/1981年・上半期 候補)、『ぼくの小さな祖国』(第87回 昭和57年/1982年・上半期 候補)、『天山を越えて』(第88回 昭和57年/1982年・下半期 候補)の3つの作品のほうが、『黒パン俘虜記』(第89回 昭和58年/1983年・上半期 受賞)よりも好きです。大ボラをふきながら、読者を楽しませようとしてくれているから。
「ぼくの第三回の候補作は『天山を越えて』という作品だった。これはとても面白い作品だったけれども、自分史がないといわれた。落ちたあと、文芸春秋のある編集者から「私小説を書きなさい」と懇々と説諭された。いやだったけど、それじゃ一回だけ私小説を書くといって執筆したのが『黒パン俘虜記』(直木賞受賞作)だった。
正直にいうと、ぼくは私小説というのがあまり好きではない。私小説は才能のない人やカルチャーセンターで小説の書き方を学んだ素人主婦が書くもので、われわれ物語作家が手を出すものではないという意識がぼくにはある。」
いったい誰なんだ、「直木賞をとりたいなら、私小説で」だなんてアドバイスした文春の編集者は。
何度も候補になって落とされた人が、直木賞をとるために、“文学性をもたせる→私小説を書く”という発想でいって、バッチリ成功した例は、胡桃沢さんのほかには、阿部牧郎ぐらいなものだし、また私小説っぽい候補作で落選したものもたくさんあるわけですから、よい子のみんなは真に受けちゃいけません。
そうは言っても胡桃沢さんのケースでは、この作戦がうまくいっちゃったのです。文春編集者の目が的確だったと言うべきか。はたまた、私小説に飛びついた当時の選考委員たち(とくに、過去の候補作をマイナス評価しておきながら、一転、賛成派に回った人たち)の小説観っていったい何なの? と言うべきか。
「作風が直木賞選考委員の肌に合わないからだ――と言われた。(引用者中略)胡桃沢の真骨頂は“血沸き肉躍る壮大な嘘”を書くことにある。しかしそれでは直木賞はもらえない。直木賞が欲しいなら自分の体験を書いてはどうか――と同賞の勧進元・文藝春秋の編集者に言われて書いたのが、受賞作『黒パン俘虜記』だ。」(『中央公論』昭和58年/1983年9月号「人物交差点」より)
むろん、この観方が事実に即しているかどうかは、わかりませんよ。でも、なんで『黒パン俘虜記』にあげちゃったのかなあ。『天山を越えて』で授賞していれば、こんな風評を立てられずに済んだのに。
転んでもただでは起きない胡桃沢さん、意地で受賞までこぎつけたのもさすがですが、“文壇ゴシップの帝王”直木三十五の名を冠した賞を受けるにふさわしく、この受賞から、いくつかの文壇エピソードも生み出してくれたのでした。
一つは、選考委員だった城山三郎がこれを機に辞任したこと。当時の新聞ではけっこう大きめに取り上げられたものです。
この事件は、こんなブログでさらっと取り上げるよりも、横山秀夫さんの直木賞決別宣言と同じく、きちんと記録として残しておくべきだと思うので、いつか親サイトのほうにまとめたいと思います。とりあえず、『毎日新聞』に「「直木賞」に波紋 城山さん、選考委員を辞任 「作品か人物か」 “経歴優先”にイヤ気」として載った記事だけ、引用しておきます。
以下、城山三郎さんのコメントの一部。
「今回、胡桃沢さんが候補に入って目を輝かせていた、といったことを選考委員会の席上で話す委員もいた。作家の個人的な事情がわからないと選考に当たれないような空気があって、私には資格がないと思えた。個人的事情は関係ないといってきたが無視され、もう耐えられないという気持ちだ。賞を今回あげなければ最後になる、といった無言の圧力を加えられ、私がおかしいと主張したことで選考委員会が長引いた、と非難もされた。」
「胡桃沢さんには個人的に何のわだかまりもないが、冒険・痛快小説でやってきた人が、今回だけだれかにアドバイスされて自伝的なものを書き、それで賞をとられても不幸ではないか。『黒パン俘虜記』は粗雑で感動もない」(『毎日新聞』昭和58年/1983年8月7日社会面より)
もう一つも、当時の選考委員だった、とある作家のおハナシです。これは本書の「直木賞の取り方を教えます」と「あとがき」の2か所で、胡桃沢さんが披露してくれています。
「三十代か四十代で取ると、いい作品は残せるかもしれないけど、人間がだめになる。つまり三十代、四十代でみんなに「先生、先生」とチヤホヤされ、崇拝者に囲まれると、ものがわからなくなる。こんな人と一緒に仕事をしたら大変な目にあう。少しでもヘマをすると、「あれはクビにしろ」なんて会社の上層部に平気でいう。地球が自分を中心に回ってるような感じになってしまうのだ。
名前は出せないけど、もう亡くなったある作家もそういう一人だった。この人は怒りっぽくて、何でもかんでも自分の思うようにならないと、いまにも死にそうなほどエキセントリックになる。その人はぼくの受賞に一番反対した。ぼくの受賞式のときに、欠席ということだったのに、突然、会場にやってきた。そして壇の下へ駆け寄って、何かあったら駆け登ってぼくを殴ろうと思ってか、ゲンコツを構えて震えていた。
なぜ、その人がぼくの受賞に反対したのか、いまだに理由がわからない。三十代のときは一緒に自動車旅行で九州を回ったり、仲は良かった。多分、今まで兵卒と思っていた人間が、急に自分たちの仲間になるのがたまらなく嫌だったと思う。」
ボロクソ書かれてるなあ。で、そのエキセントリックな作家って誰なの? と思ったあなた。「あとがき」に、駄目押しの決定的ヒントが。
「ほぼ一月後の受賞式には、審査員の一人(故人・時代物作家)が、受賞の言葉をのべるぼくを、壇の下で睨みつけ、両拳を固めて今にもとびかかりそうにして震えていた。」
第89回の選考委員は全部で8人。本書が刊行された平成3年/1991年、故人となっていたのは2人。
そのうちの1人、源氏鶏太は選考会でも『黒パン俘虜記』を高く評価しているし、本書にも、
「ぼくが直木賞を取ったあと、クレームみたいなのを含めていろいろなことが起こった。授賞式には作家がほとんど来なかった。取ったあと、しゃべりまくったから、一斉にブーイングが起こった。ぼくの名前が出る度に支持してくれたのが源氏鶏太さんと村上元三さんだった。」
とあって、好意的な支持者として紹介されています。
すると残るは1人。胡桃沢さんの授賞に猛烈に反対し、平成3年/1991年より前に亡くなった時代小説家。……ううむ、自分が候補だったときに何度も海音寺潮五郎から受けた仕打ちを、今度は自分もやってみただけですよね。池波正太郎さん。
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コメント
興味深く、また非常に面白く読ませていただきました。
胡桃沢さんの授賞にこんなエピソードがあったのですね。
管理人様は重々ご承知かと思いますが、胡桃沢さんは海音寺潮五郎さんの弟子ともいうべき作家ですから、某選考委員もさぞかし心に含むところがあったのでしょうね。
投稿: モモタ | 2007年12月 3日 (月) 12時49分
モモタさん、
海音寺潮五郎に関する充実サイトとしてワタクシも日頃より敬服している2つのサイト、
●海音寺潮五郎 私設情報局~塵壺(ちりつぼ)~
http://www5d.biglobe.ne.jp/~s-yuki/
●海音寺潮五郎応援サイト~塵壺(ちりつぼ)~
http://momota1192.at.webry.info/
をつくっていらっしゃるモモタさんよりコメントいただいて、
大変光栄です。
うちのブログなんぞにも、目に止めていただいてありがとうございます。
海音寺さんの選評をひもといてみると、司馬遼太郎といい、寺内大吉といい、伊藤桂一といい、
『近代説話』の人たちを、かなり評価しているみたいですね。
その辺も、アノ人には面白くなかったのかも。……って、ほとんど推測なんですが。
投稿: P.L.B. | 2007年12月 3日 (月) 23時40分