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2007年12月16日 (日)

文壇資料 十五日会と「文学者」

 困ったときには、定番の書籍を。定番といったって、決して万民向けでないことは承知していますが、同人誌『文学者』の存在はやっぱり、直木賞に興味があるなら、ぜひ押さえておきたいところですもの。

W170 『文壇資料 十五日会と「文学者」』中村八朗(昭和56年/1981年1月・講談社刊)

 そう、何が困ったといって、今日、急にワタクシの使っているPCの外付けハードディスクがぶっ壊れてしまい、このブログのためにいろいろ準備していたファイルが、まったく取り出せなくなってしまったこと。こんなときは、基礎資料中の基礎資料で、お茶を濁させてもらおう、ってわけです。

 お茶を濁すだなんて失礼な。丹羽文雄御大ひきいる一大文学集団『文学者』は、その関わった人びとのなかから、直木賞の歴史を彩るさまざまな作家を輩出している、重要な同人誌なんですぞ。とくに、そのほとんどが、直木賞受賞者群、というより、候補者群のなかに名を刻んだ人たちですが。

 野村尚吾小田仁二郎榛葉英治瓜生卓造小泉譲峰雪栄小沼丹瀬戸内晴美津村節子武田芳一林青梧……、と本書の途中までで登場する人名を並べてみても、シブい名前がずらずらずら。

 いやいや、何といっても、これを書いた中村八朗さんその人こそ、直木賞マニアにとっては、師匠格の丹羽文雄よりもずっと、重要人物としてマークしなきゃいけない人なんです。“ほぼ受賞作家”として名高い長谷川幸延と並んで、直木賞候補回数7度、そのわりに、今手に入る作品の、なんと少ないこと。

 ハチロー君、誰かれがみんなあなたのことを忘れてしまおうとも、ワタクシだけは絶対、あなたのことを忘れやしません。きっといつか、7度の候補に挙がった8つの作品、読ませていただきます。

 まずは、ハチロー君自身の、直木賞にまつわる部分を、ピックアップしてみます。

「「文学者」に発表した作品の好評によって力を得て、どんどん書く自信が出来た。そのおかげで自分でも代表作の一つにしている「桑門の街」も二十三年の秋には書き上げることが出来た。それは、丹羽先生のおかげで「小説界」という文芸雑誌の二十四年の二月号に発表することが出来た。それが後には戦後復活第一回の芥川賞の候補になり、後に直木賞の候補にもなる(引用者注:第21回 昭和24年/1949年・上半期)という珍しいケースになったりした。そのおかげで、職業作家の仲間入りをして書き出すことが出来た。そんな意味で、この「文学者」に発表させてもらったことは大変に有難いことであった。」

 そうかあ、「桑門の街」誕生には、やはり丹羽文雄大先生が一役買っていたんですねえ。

 ハチロー君が『文学者』で知り合った仲間は数多いんですが、そのなかに、山田静郎という人がいます。山田さんは、小説を書いていたこともあったそうですが、丹羽部屋に参加し始めた頃は、春陽堂が出していた『新小説』の編集長。その後も出版人、編集人として歩んだ方です。

「私は特に彼には世話になった。春陽堂をやめてから、山田静郎編集長は出版社を自ら経営する社長になった。一時期「小説朝日」という立派な小説雑誌を出していて、私に直木賞をとらせるのだと何回か長い作品を書かせてくれた。私も山田社長の好意にこたえたいと、何篇か百枚以上の作品を一生懸命に書き発表させてもらった。いずれも直木賞候補になったが、次を期待するという評価で止っていた。山田社長に対しても合わせる顔がなかった。その中私は肝臓病になって、しばらくの間小説が書けなくなってしまった。」

 ほお、そうなんだ。

 昭和27年/1952年に突如、直木賞候補リストにその名が登場する『小説朝日』は、結局、ハチロー君の「霊を持つ手」「貝殻追放」(第27回 昭和27年/1952年・上半期候補)「紋章家族」(第28回 昭和27年/1952年・下半期候補)でもってのみ、直木賞史に関わった雑誌ですけど、“こいつに直木賞をとらせるために誌面を提供するぜ”との山田さんの熱き思い。こういった編集者の思いは、きっと50年経った今でも、各社の文芸担当編集者たちが持っているものなんでしょうが、ハチロー君の7度の候補も、そんな編集者に支えられたものだったんですね。

 書名に「文壇資料」と付いている通り、本書には、先に挙げた人たち以外にもまだまだたくさんの作家のことが取り上げられていて、ハチロー君、ほんとにいい仕事をしましたね、と頭を下げたくなります。

 以下、有名無名を問わず、直木賞候補者たちについての話題の一端を、無作為に引用させてもらいましょう。

 最初は、「煩悩の果て」で知られる、第25回(昭和26年/1951年・上半期)候補の峰雪栄嬢から。

「女流で丹羽門下から世に出たのは峯雪栄が一番最初の人である。彼女とも私は学生時代から知り合っていた。

 私が早稲田の仏文科の仲間達、八木義徳、辻亮一、多田裕計等とやっていた「黙示」という同人雑誌をやっていたことは何度も書いたが、そのことと少し峯雪栄は関係があった。

(引用者中略)

 その金親氏(引用者注:早稲田の学生街にいたプロレタリヤ派作家、金親清)が宇都宮雪栄という女性を編集室へつれて来たのだ。「同人に加えてもらえないか」というような話だった。宇都宮雪栄は二十歳位で、小がらだが何か思いつめたような眼で切り口上に物を言う娘だった。郷里の四国から文学を志して上京し、今は新宿のデパートに勤めているという話だった。

(引用者中略)

 その後宇都宮雪栄がどうしていたかは、私は知らないで過した。

 丹羽先生が或る年、古谷綱武氏と四国へ文芸講演に行ったことがあった。

 その時私の下宿へ四国から先生が絵ハガキの便りを下さった。文中に、「四国で君を知っているという娘さんに逢った」という一行があった。辻の指導も空しく、彼女は東京の夢に破れて郷里の四国へ帰っていたのだ。

 それが、五月の十五日会で上京した時、私は宇都宮雪栄に丹羽家の書斎でばったり十年ぶりかで再会した。」

 いったん夢破れた切り口上の娘、宇都宮雪栄。しかし、その夢を捨てることなく、峰雪栄として再び上京、芥川賞や直木賞の候補になり、着実に作家の道を歩いていくのでした。拍手拍手。

 次にご紹介しますのは、上海文学の星、小泉譲さん。

「彼は小説家には珍しい生真面目な人だ。特にポルノ的なものに強く拒否反応を示した。そういうものには一番先にとびつく私とは違っていた。だから彼は恋愛小説は苦手で、彼の作品のいいものは社会性、政治性といったハードな面のものが多い。

(引用者中略)

 彼も数回芥川賞、直木賞の候補にあげられ、有力といわれながら逸していた。いわゆる大衆向きのする作風ではなかったからだろう。そんなことは、彼を少々くさらせ足ぶみをさせたかもわからない。

(引用者中略)

 その後小泉は毛沢東思想に心酔して、私達の仲間では考えも及ばなかった中国通になった。何回か中国大陸に渡り実地に革命運動にふれて帰り、日中友好の運動に身を投じて行った。これは私も思いも及ばぬ意外な転身であった。」

 “足ぶみ”ですか。直木賞の候補になることは、職業作家への道を切りひらくことになることもあれば、誰かにとっては“足ぶみ”させる障害にも、なり得るんですな。

 さあ、どんどん先に進みまして、お次は、異色の経歴の持ち主、太田俊夫さん。

「かつてカメラ業界で会社を経営した社長経験者太田俊夫が、その体験を描くことで登場してきた。

(引用者中略)

そして「文学者」に連載した「暗雲」が単行本としてまとまるとそれが直木賞候補になり(引用者注:第68回 昭和47年/1972年・下半期)、世の注目を受け新しい企業小説家として出発して行った。「暗雲」は自伝的な作品で戦雲の暗い時代の勤め人時代から戦場への出征、敗戦と破乱の多い内容を重厚に描いて読みごたえのある作品であった。

(引用者中略)

勿論、その彼も簡単に小説家になれたわけではない。「文学者」に最初の小説「駐在員」を発表するまでに、長い習作の苦労があり、それが徐々に実ってきたことを見逃してはいけない。彼も忍耐と努力の人であったのだ。一朝にして作家は生れるものではない。苦労に負けなかった才能が花を開くのである。ちなみに太田は丹羽夫人の弟さんである。」

 へえ、そうなんだ。丹羽親分の義弟ですか。

 “ちなみに”の情報がピリッときいていて、さすがハチロー君、ツボを心得ていらっしゃる。

 最後は、ハチロー君が編集の中核からしりぞいた後に、にわかに表れた“南海”を描く異才、安達征一郎さん。

「この新しい編集スタッフになってから出現した新しい才能の中では、すでに出来上っていたものではあるが、「怨の儀式」「種族の歌」の安達征一郎の登場は新鮮な感じを皆に与えた。

(引用者中略)

 この特異な才能はすぐに世の中は迎え入れた。「怨の儀式」は作品集として本となり出版され、直木賞候補にもなった(引用者注:第70回 昭和48年/1973年・下半期)。その後も「島を愛した男」という作品集も出た。そして書き下し長篇「日出る海日沈む海」も出た。この長篇の海洋描写、特に群蝶の海を渡る描写の美しさなどで世評を高くした。直木賞候補にもなった(引用者注:第80回 昭和53年/1978年・下半期)。健康を害してやや空白の時期を持っているが、やがて、世にたくましい作品をひっさげて出て来る作家だ。」

 「怨の儀式」は、じつはワタクシも好きな作品です。時の選考委員のうち、源氏鶏太さん以外からは、まるで一顧だにされていないのが、残念でなりません。

 ほんと、丹羽文雄門下っていうのは、長谷川伸門下と並んで、直木賞を語るなら外せない面々ばかりですよね。で、『大衆文藝』はバリバリ大衆文学寄りで、純文学だとかそんな小難しいことを感じさせない路線を行ったところが偉いんですけど、いっぽうの『文学者』は直木賞だけじゃなく、芥川賞のほうにもチョッカイを出し、またチョッカイを出されたりして、これまた特別な路線をひた走った連中です。そんな連中のさまざまを、きっちり資料化しといてくれて、ハチロー君、ありがとう。

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