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2007年11月 4日 (日)

ととまじり

 若手の作家が、お年を召した選考委員に公然と楯突いたりすると、にわかに事件として扱われます。直木賞を受賞した後に、それをやらかしたのが、土佐の魂を体現する男、このお方です。

071104w170 『ととまじり』田岡典夫(昭和56年/1981年2月・平凡社刊)

 その事件に登場するのは、若手側、田岡典夫。パチパチパチ。対する先輩側、小島政二郎。パチパチパチ。と、今ではご両人ともあまり聞きなじみのない存在になってしまったので、ゴシップ好きが飛びつくようなニュースでもないでしょうが、直木賞史、はてまた大衆文芸史ではたいてい取り上げられる事件なんで、いちおうおさらいしておきます。

 小島のおじさんといえば、純文芸を志して、どうにか文壇の仲間入りをしたものの、意に沿わないながら大衆文芸の道を歩むことになり、“純文芸>大衆文芸”の構図のなかで、いつまでももがき苦しんだ人として有名ですが(言い過ぎたかな)、昭和28年/1953年、『毎日新聞』に自伝的な小説「甘肌」を連載します。そこで日頃の思いを吐露したものか、経済上の理由から大衆文芸を書くようになった主人公の作家が、ああおれも堕落してしまったな、早くこんなトコから抜け出したいな、と煩悶する様子を描いたわけです。

 それを読んでカッとなったのが田岡君。ちょっと待ちなよ、おれはあんたの推挙も受けて直木賞をもらい、今でも一生懸命大衆文芸道を歩いているんだ。そのあんたが、大衆文芸とは堕落の文学だみたいなこと書くなんて、どういうことだよ、そこら辺ちゃんと説明しろよ、と『毎日新聞』に公開質問状を載せたのでした(念のため、じっさいの田岡さんの文章は、こんなに荒っぽくありません。もっと紳士的で謙虚です)。

 しかし小島おじさん、結局黙して語らず。この対決は、まるっきり田岡さんの一方的な質問だけで終わってしまいます。

「しかし、これは私個人の問題ではない。大衆小説イコール通俗小説であるか、そうでないか、という問題である。そして、それに対する小島さんのお考え、つまり権威ある大家の御意見を承わりたいので、敢えて公開状の形をとったのである。それだから、黙殺されたということは、お情けとわかっていても残念であった。

(引用者中略)

 このとき、ただ一つの反響は、ある新聞記者が「あれは田岡の売名だと言っている人がありますよ」と、教えてくれたことであった。私はニガ笑いするよりほかはなかった。なるほど、そういう売名の手段も、あるにはある。また、作家たるものは「名を売る」ということが、ある意味において必要だとも思う。けれども、私は作品によって名を売ることには努力するが、その他の手段によって売名しようとは、ゆめにも思ったことはないのだ。」

 小島おじさんもさ、何か言えばよかったのに。

 “まあ言いたい奴には言わせておけ”と知らんぷりを決め込む態度は、なんとなしに“直木賞っぽく”もありますが、それ以外のところでも、事実、昭和40年/1965年頃までの直木賞と、小島おじさんとの関係は、似た者同士、飼い犬は飼い主に似る、と言いますか、どうもその生き筋や考え方がオーバーラップするんですよね。その意味で、小島政二郎にせまることが、昔の直木賞の実像に近づく一つの策になるとワタクシは思っています。

 ちなみに、おじさんおじさん、とワタクシは失礼な呼び方をしていますが、小島さんの年は田岡さんより14しか上回っていないのでした。勝手にご老体扱いして、ホントすみません。

 本書は、田岡さんの回想録です。全篇興味ぶかいのはもちろんですが、やはり最も心ひかれるのは、「しばてん榎」の章で描かれる、田岡さん自身の直木賞受賞までのくだりでしょう。田岡さんが何度か候補に上がり、いよいよ第16回(昭和17年/1942年・下半期)で受賞するまでの裏話は、まぎれもなく貴重です。

 田中貢太郎とその仲間たちが立ち上げた随筆誌に『博浪沙』があります。田岡さんも同誌に深く関わったひとりで、いくつか原稿を載せていますが、そのうちの一つ「しばてん榎文書」(昭和16年/1941年2月号)が、永井龍男の目に止まり、永井のすすめで菊池寛も読み、田岡さんは文藝春秋社に呼び出されます。田岡と菊池、両者初対面でした。

「菊池先生は広い部屋で、タバコの灰を胸いっぱいまきちらしながら、誰かと話しておられたが、私が近づいて名を名乗ると、ふりかえって、「君のしばてん榎文書を、もっと大衆的に書き直して来たまえ、そうしたら直木賞をやるよ」と言われた。ただ、それだけであった。

 そのころは、今とちがって、芥川賞も直木賞も菊池先生の私物のような観があった。それだから「直木賞をやるよ」と言われると、書きさえすればもらえることはまちがいなかった。」

 ほお、そうだったんですか。“私物”ねえ。

 そんな折り、『博浪沙』で親交のあった井伏鱒二から観劇に誘われます。劇場を出てから、

「そのまま連れ立って外に出て、銀座のほうへ歩きながら、「君、直木賞のほうはどうした、もう書いたの」と訊かれたので、「まだです」と言うと、「そりゃあ、いかん、早く書かないと、菊池さんが忘れてしまうぞ」と言う。私も、なるほど、忘れられたらたいへんだ、と、大いに慌てる気になった。」

 こんな経緯で、田岡さんの初めての『オール讀物』登場作「しばてん榎」(昭和16年/1941年6月号)が生まれたのでした。

「まもなく直木賞の銓衡がおこなわれたが、この期(十六年下期)は該当者なしであった。なんでも私と長谷川幸延君が最後にのこり、すでに幾つかの作品を発表して流行作家の域にあった長谷川君のほうが有力であった。しかし、菊池先生はどうしても私にやると言われる。ところが、私が発表しているのは「しばてん榎」一作だけだから、難色を示す委員のかたが多かった。すると、菊池先生は「それでは両方にやらない」と言われて、この結果になったとのことであった。」

 ううむ。何度も何度も、直木賞受賞一歩手前まで行った長谷川幸延の、惜敗のうちの一つがこの第14回(昭和16年/1941年・下半期)なんだけど、こんなウラがあったのですか。

 菊池寛が「話の屑籠」で書いたところによれば、

「小島君(引用者注:小島政二郎)は長谷川幸延氏に授与せよと、主張された。が、その候補作品である「幼年画報」と「模型飛行機」を読んだだけでは、どうしても賛成することは、出来なかった。こうした回想小説は、大衆文学としては、邪道であると思ったからである。(引用者中略)が、審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号「話の屑籠」より)

 んもう、菊池親分。そりゃお忙しい身ではありましょうが、候補作ぐらい毎回読んでくださいよ。今と違って、このころの候補作はたいてい短篇なんですから。

 さて、なにせ交友関係の広い田岡さんですから、本書には、直木賞関連作家のエピソードがいくつも散りばめられています。たとえば、『博浪沙』まわりで井伏鱒二富田常雄日吉早苗、新鷹会まわりで村上元三鹿島孝二玉川一郎、そのほか田宮虎彦山本周五郎濱本浩徳川夢声などがチラッチラッと顔を出します。

 錚々たる顔ぶれが居並ぶなかで、おっと、女性がひとり。野澤富美子嬢です。最終候補になったことこそないけれど第11回(昭和15年/1940年・上半期)の直木賞に参考候補として名の挙がった、アノ天才少女です。

 田岡さんと野澤嬢の出会いは、漫画家・近藤日出男の紹介によるものでした。

「ある日、その漫画集団の事務所へ行くと、近藤君の机のそばに、質素な着物を着た、顔色の冴えない少女が立っていた。近藤君が「野沢富美子クンだよ」と言って私に紹介した。

 野沢さんはそのころ『煉瓦女工』というベストセラーを出して、天才少女出現などと言われていたひとである。『煉瓦女工』は「ホトトギス」の応募小説に投稿して、同誌の編集者大岡龍男さんにみとめられ、単行本として出版されるや江湖の紙価を高からしめたのであった。」

 『煉瓦女工』は昭和15年/1940年に出た短篇集。当時、野澤嬢19歳。芥川賞で久坂葉子、島本理生、綿矢りさが初候補になったのと同じ年齢です。

 どんなお嬢さんだったのかと思いきや、これがまた強烈なのです。

「私は野沢さんに適当に挨拶して、それからしばらく近藤君と話をしていた。すると、突然、野沢さんがツカツカと私のそばに近よったかと思うと、ものも言わずに両手をのばして私の咽喉もとを押えて力まかせに締め上げた。何しろ不意打ちだから抵抗するひまもなく、私は息がつまりそうになってしまった。」

 なんちゅうことするんだ、うら若き乙女が。

「なぜ、野沢さんがそんなことをしたのかというと、それは私が敬語をつかって近藤君と話をしていた、それが癪にさわったのである。なにしろ、野沢さんは、その後、懇意になってから、私が「あなたは恋人があるの」と訊ねたら、「あることはあるけどさ、アンちくしょう、妻子がありやがるのさ」と答えたほどである。男のくせに「そうですか」とか「何々ですね」と言って話をしている私を締め上げねば気がすまなかったらしい。」

 田岡さんの分析によれば、野澤嬢の性格もその作風も「思っていることを、そのままぶっつける」ようなものだったために、戦争に突入した時代下では、思うような社会批判も許されず、野澤嬢の作品が受け入れられる環境ではなくなっていったのだそうです。

「すこしでも右顧左眄すれば野沢さんのレーゾンデートル(引用者注:存在理由)がなくなる。それをうまく風当りを避けて、などという世間智は持っていない。とうとう、それだけで終戦をむかえ、終戦後、すぐに結婚したという通知をもらって、そして、音信不通になってしまったので、その後の消息は知らない。」

 その後、結婚して小池姓になったとか、共産党に入ったとか、昭和23年/1948年に『ある女子共産党員の手記』を出版したとか、昭和30年/1955年には『新日本文学』に「コスモスの咲く家」(1月号)、『群像』に中野重治の推挙で「おおばこの穂」(5月号)を発表したとか、そんなこんながあったようですけど、ああ、今はどうされていることやら。『民主文学』の420号(平成12年/2000年10月)に、“野沢富美子”という方が「山さんとの事」と題したエッセイを書かれていて、内容からするに野澤嬢と同一人物かとも思うんですが、詳細はワタクシにはわかりません。もしご存命なら86歳。その激動の人生について、思ったままぶっつけるような筆でお書きになってほしいなあ。

 昭和57年/1982年で亡くなる田岡さんが、まさに生前最後の作品として書き遺しておいてくれた本書のように。

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