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2007年10月14日 (日)

文壇

 うっかり2度続けて候補作家のことを取り上げてしまったので、今回は正真正銘、有名受賞作家の方にご登場願いましょう。強烈な文体をひっさげて直木賞を射止めてしまったチョイ悪(わる)ならぬバリ悪オヤジ、ふふ、表紙カバーでも酒をかっくらっているんですな。

071014w170 『文壇』野坂昭如(平成17年/2005年4月・文藝春秋/文春文庫)

 直木賞関連書としては他に比べて段違いに有名な本ですので、この場で内容をなぞる必要もないでしょう。昭和36年/1961年~昭和45年/1970年、野坂昭如さんの小説家デビュー前後の自伝(的小説?)で、そのかたわらには常に“直木賞”の存在が並走しています。

 この人の作品が芥川賞でなく直木賞をとってしまうところに、昭和42年/1967年当時の大衆文学、というか中間小説誌が抱えていた百花繚乱ぶり、はたまた混乱ぶりが表れていると思うんですけど、選考委員の面々も、とうてい大衆向きとは思えない野坂さんの読みづらい文体にヤられちゃった感がありますよね。第133回(平成17年/2005年・上半期)のとき、古川日出男の『ベルカ、吠えないのか?』を、「あまりにも読みづらく、読者にかなりの努力を強いる」と評したアノ人なら、「火垂るの墓」をどんなふうに読むんでしょうか。

 古川さんといえば、新潮社でやっている三島由紀夫賞は、創設当時からずっと不思議な賞ですけど、あの賞の間口の広さを見るにつけ、往年の直木賞の姿を思い出してしまうのは、そうですか、ワタクシだけですか。

 さて、本書に直木賞のことが初めて出てくるのは、野坂さんがまだ小説を発表する前の場面です。知り合いの編集者から直木賞についてのハナシを聞かされるくだりがあります。

「直木賞の性質、次の候補者予想と作品を堤(引用者注:『週刊文春』編集部の堤堯)に教わった。どの作品も読んでいなかった。選考委員は川口源氏村上木々小島吉川海音寺大佛中山松本。委員の作品にも馴染みがない。もっとも、「蛇姫樣」「新妻鏡」は小学生の頃、眼にしている。」

 ううむ、ワタクシも堤さんに、“直木賞の性質”とやらをレクチャーしてほしいぞ。

 それからまもなく、昭和38年/1963年に、処女小説「エロ事師たち」を『小説中央公論』に発表。このとき、すでに“直木賞候補になるかも”と噂されたそうです。

「堤が、ひょっとするとひょっとするかもといっていた直木賞は、候補にもならず、受賞者は安藤鶴夫『巷談本牧亭』と和田芳恵『塵の中』。」

 で、この直後に、顔見知りだった吉行淳之介に“第三の新人”たちと引き合わされるんですが、そのとき各作家の語った言葉がこんな感じ。

(引用者注:吉行淳之介)「君は梶山と違う、ゆっくり書けば良い、ぼくは直木賞に推薦したのに、候補にもしないとはけしからん」。阿川(引用者注:阿川弘之は、「あれは直木賞よりピュリッツァー賞だな」、近藤(引用者注:近藤啓太郎)「俺、吉行にいわれて推薦しようと思ってたのに葉書失くしちまった」、遠藤(引用者注:遠藤周作)「君大阪? 神戸なの、どこ、灘区。ぼく六甲小学校やで」」

 さらに数年をへるうち、中間小説誌と直木賞をめぐる環境は変化していきます。その状況を象徴的に示す出来事といえば、突如、才能をもったズブの新人が、『小説現代』誌の新人賞を得て登場し、にわかに脚光を浴びる間に一気に直木賞をとってしまったことでしょう。“五木寛之ショック”ってやつです。

「いちおう文壇デビューの後、いっこうに注目されなかったのは、作品の出来にもよるが、さらに五木寛之の出現が大きかった、「さらばモスクワ愚連隊」に始まり「白夜のオルフェ」「GIブルース」「艶歌」とたて続けに話題作を発表、ぼくは、電波界では永六輔、活字でどうにか形がつきかけると五木寛之、どうもめぐり合わせが悪い、図々しいことを考え、しかし、諦めてもいた。」

 野坂さんがようやく直木賞の表舞台にひっぱり上げられるのは、ちょうどそんな頃でした。第57回(昭和42年/1967年・上半期)で「受胎旅行」が初めて候補に選ばれ、そこから先「アメリカひじき」「火垂るの墓」を文藝春秋の雑誌に発表して、受賞となるまでの部分は、ミクロな事柄まで洩らさず書き連ねるさすがの描写、直木賞史を考えるうえでも、きっと貴重な文献です。

 たとえば、直木賞のことをまわりの編集者がどう見ていたのか、こんなものが紹介されています。「しんみりしっとりした作品が有利」。

「アメリカひじき」はと、ようやく直木賞を意識、「とれる時にとっといた方が良いよ」芥川、直木両賞にまたがり、何度も候補となって、ついに受賞しないまま、流行作家となった川上(引用者注:川上宗薫)がいっていた。大村(引用者注:講談社『小説現代』編集部の大村彦次郎)は、「アメリカひじき」を読み、「豊田(引用者注:『文學界』編集部の豊田健次)はこれで直木賞を考えているのかなぁ。本来なら、『ベトナム姐ちゃん』でとっておかしくないんだけど、やっぱり題名がちょっと」「ベトナム姐ちゃん」は、「小説現代」七月号掲載、前期に間に合わないが、発表は六月下旬、月号にこだわらないケースもあるらしい。豊田、鈴木(引用者注:『オール讀物』編集部の鈴木琢二)、村田耕二に箱根裕泰(引用者注:ともに編集者)まで、ぼくの直木賞を心配しはじめた、「アメリカひじき」は選考委員の好みに合わないかもしれないという。「好み?」「やっぱり、なんというか、しんみりしっとりした作品が有利」また、TVを止めること、「印象良くない」。」

 そうそう、昭和42年/1967年頃からの直木賞には、テレビメディアとの関わりっていうテーマも出てくるんですよね。テレビの人間たち(裏方であり、かつ画面にも登場するような準タレント)の小説創作を、直木賞がどう受け止めていくのか。まあ最初はやはり、うるさがたの選考委員たちには不評だったようで、そうだ、野坂さんの逸話でいえば、「テレビの寄生虫」問題なんてのもありましたっけ(昭和37年/1962年とちょっと前の出来事ですが)。

 大村彦次郎さんの『文壇挽歌物語』(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊)から、その事件のことを引いてみます。

「その頃、柴田錬三郎が舟橋聖一の主宰する雑誌「風景」で、「マスコミと私」と題し、自分のような作家はマスコミにとってはうってつけの消耗型で、便利重宝な存在に過ぎない、と自嘲する一文を書いたが、その一方で人気タレント永六輔らの名前を挙げて、彼らをテレビ、ラジオ界の寄生虫として非難したことがあった。柴田にとっては永が週刊誌のインタビューで、文壇作家をどう思うか、と訊かれ、面白い人はすくないですね、と答えたのが癇に触った。柴田の筆誅を取り上げた週刊誌に対し、永は恭順の意を見せたが、野坂は目糞、鼻糞を笑う、と言って、柴田に開き直った。」

 第57回の「受胎旅行」への選評でも、松本清張「よけいなことだが、テレビなどの雑業を整理し、新フォームの小説開拓に専念されることを望みたい」と、そのことに触れていますが、なんといっても面白いのは、川口松太郎の選評でしょう。

「テレビタレントの真似であったり、プレイボーイを自称してひんしゅくさせる言動があったり、人生を茶化している態度に真実が感じられない。真剣に取り組めばいい作家になる素質を持っているだけに次回作を期待する。」『オール讀物』昭和43年/1968年4月号選評「傑作のない年度」より)

 ふふふ、第1回で自分自身が選考されたとき、吉川英治に、

「僕と同様に、君の生活体験がまだ、市井的に過ぎないものであって、文学的苦労に於ては生若いのである、加うるに、人間的修養に多分な薄ッぺらさえも僕は君に正直に感じる、より友誼的にいうならば、ここで一皮剥いで、もっと、作家的川口になってもらいたいと思う。」『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号経緯より)

 なんて書かれちゃった川口さんならではのおコトバですよなあ。

 「アメリカひじき」が“しんみりしっとり”系じゃなかったので、ややそっちも意識して書いたのが「火垂るの墓」。で、その年の12月に直木賞候補作が発表されて、野坂さん自身もちょっとびっくり、二作同時に候補となっていたのです。

(引用者注:直木賞候補作として)ぼくも入っていて、ただ「アメリカひじき」「火垂るの墓」二作、こういう前例はあるのか、訊ねると、第一回の川口松太郎が「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」等。戦後では。ぼくの場合、二作セットは「振興会」の配慮と見当がつく。まったく「傾向」の違う二つ並べて、受賞「対策」。」

 ははあ、“配慮”ですか。われら外野の人間が無責任な立場で感じるのと同様、候補ご本人ですらそんなふうに感じちゃうのですから、日本文学振興会の意図みえみえ、な気もします。野坂昭如にとらせてあげたい、とらせたい、っていう。

 ともかくも、本書を読んでしみじみ感じるのは、昭和30年代~40年代に起こった中間小説誌の隆盛ぶりですよねえ。この頃はおそらく、直木賞の歴史のなかでも大きな転換期だったに違いありません。

 そのキーワードを一つ出すとするなら、『別冊文藝春秋』かなあ。

 “直木賞候補作製造機”の異名をとる『別冊文藝春秋』が、コンスタントに候補作を輩出するようになったのが、第54回(昭和40年/1965年・下半期)、立原正秋「漆の花」(同誌93号)からだったわけです。『オール讀物』と『別冊文藝春秋』(どちらも文藝春秋の雑誌)の棲み分けはよくわからないけど、ともかく『別冊文藝春秋』が、有力な新進作家に直木賞をとらせるための舞台と化したのは、この頃です。

 で、直木賞史上、そのことがどんな意味をはらんでいたのか。――言葉を選ばずに言ってみますと、いよいよ、露骨な“文春びいき”路線が本格化していく時代に入った、ととらえたいところです。もちろん、直木賞事務当局が意識していたか、無意識だったのか、とは関係なく。

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