2009年12月13日 (日)

直木賞とは……直木賞をとれなかった経験が一篇の渾身作を生む。そしてそれが、また候補になる。お見事。――胡桃沢耕史『天山を越えて』

091213 胡桃沢耕史『天山を越えて』(昭和57年/1982年9月・徳間書店刊)

(←左書影は平成1年/1989年10月・徳間書店/徳間文庫

 今年の6月まで1年間、うちのブログでは「これぞ直木賞の名候補作」を取り上げました。そのときは、「受賞した作家の、過去の候補作は、その対象から外す」と決めていたので、素通りしちゃいましたが、第88回(昭和57年/1982年・下半期)の候補作『天山を越えて』はかなり特異な候補作です。

 物語の重要な背景として「直木賞」のことが描かれているからです。

 読み手によっては「こりゃあ直木賞批判だ」と受け取られかねないくらい、堂々と描かれちゃっています。

 まあ、当時の文春編集者が、よくぞこういう作品を候補作に残してくれたな、と感心・感動するわけですけど、胡桃沢耕史さんが「直木賞をとりたい!」っていう熱い思いを込めて書いた渾身の作であり、また彼の自信作であることは、確からしいです。

「ぼくは六期続けて毎度挑戦資格を得られるようにと常に何作か平行して、準備、執筆、出版をずらして仕事をしていた。当選作(引用者注:第89回受賞の『黒パン俘虜記』)は候補で四度目、製作は五作目(一作だけ予選で落ちる)、挑戦作品は六作で後一作しか残っていなかった。」(『現代』昭和58年/1983年9月号 胡桃沢耕史「直木賞の魔力」より)

 そうです。昭和50年代に胡桃沢耕史と名前を変えてからは、ただひたすら直木賞をとろうと仕事をしていたそうで。そのなかでも、とくに『天山を越えて』は胡桃沢さんにとって特別な作品だったんでしょう。

「五十六年に初めて直木賞の候補となり、四度目の正直。フィクションとしては、「これ以上のものはない」と思った自信作「天山を越えて」(徳間書店、推理作家協会賞受賞)が前回落とされ、「二流の作家の仕事」と考えているノンフィクションものを、不本意ながら書いてこぎつけた受賞だという。」(『週刊朝日』昭和58年/1983年7月29日号「苦節16年 直木賞に胡桃沢耕史さん やっと文壇キャリア組に仲間入りした元性豪作家の「男の意地」より 署名・本誌・五十嵐文生)

 『天山を越えて』が持つ魅力は、そりゃあ「ロマンあふれる」だとか、「壮大な構想」だとか、「現代と過去と、さらなる過去が入り組み合う、練りに練られた構成」だとか、そういう言葉で語られがちです。ワタクシもそんな世界に酔わされた一人です。だけれども。ワタクシにとってのいちばんの魅力は、胡桃沢さんが、直木賞をとろうとして、おのれの直木賞に対する怨念(ちゅうか夢)を作品のなかに塗り込めた部分なんです。

 主人公の衛藤良丸が昭和35年/1960年にただ一度、同人誌に発表した小説。その題「東干」(ルビ:トンガン)。

「その初めての作品が、どこで誰の目にとまったのか、文壇の登竜門とされている、有名な文学賞の候補作品になった。」(『天山を越えて』「一章―A」より)

 この小説全文が、そのまま『天山を越えて』の前半部の中心をなす「二章」になっています。

 そして三章の冒頭で、この「東干」が当時の文学賞の選考会でどんな扱いを受けたかが語られるわけです。

「会議では作品としての本質的な構成上のむじゅんを衝く意見が多く出された。(引用者中略)

 つい前年に赤穂義士の切腹の直前のことを、義士当人の述懐で書いた作品が候補に上ったことがあるが、では腹を切るため刑場に向う直前の人がどうしてこんなことを書き残すことができたかということであっさり落選した。これも全く同じだ。

 こんな風で会議では、作品の内容は最初から問題にもされなかったらしい。」(同書「三章―A」より)

 赤穂義士の切腹うんぬん、だとか妙に具体的に紹介しているのは、もちろんほんとに、そういう作品が直木賞の候補に挙がって、落とされたことがある事実を踏まえてのことです。第39回(昭和33年/1958年・上半期)候補の「切腹九人目」。作者は田中敏樹さん……って、この方も胡桃沢さん同様、長いあいだ直木賞をめざし、オール讀物新人賞を受賞するところまでは行った方ですもんね。そういう方の候補作をわざわざ、ここで連想させるたあ。胡桃沢さん、ニクいね。

 そして、上記の引用部分では、直木賞選考委員たちってのは、物語の内容とは何ら関係のないトコばっかりあげつらうような連中だ、とこっそり揶揄しているわけですが、さらに強烈に皮肉っているのが次の箇所です。

「架空のホラ話で、文学的な物の何一つ存在しない個人のたわごとを、貴重な誌面を使って、紹介する必要はない。

 それが(引用者注:衛藤の属する同人誌の仲間たち)全員一致の意見であった。

 勿論、当時、文学賞の審査に当った先輩作家の意見も最終的には、これと同じようなものだったろう。」(同「三章―A」より)

 つくり話=フィクションを、「架空のホラ話」として馬鹿にする連中。しかし、彼らがホラと思い込み、無価値なものと切り捨てた衛藤の作品が、じつは衛藤がじっさいに経験したことだった、っていう構造。……そのことがわかった瞬間、われわれ読者たちの目のまえに、選考委員たちの阿呆さが際立って映される仕組みが、ここにあるんですね。

 そりゃまあ、これを胡桃沢さんによる直木賞批判、って取るのはワタクシだけかもしれませんけど。でも、ですよ。なんでこの時期(直木賞に本気で挑戦できる、ラストチャンスの時期)に、胡桃沢さんが「東干」なんて小説を、あえて引っ張り出してきたんでしょう。

 20年も前に、じっさいに自分が同人誌に発表した「東干」なんて小説を。

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2009年12月 6日 (日)

直木賞とは……読み手をウンザリさせる自己満足の世界、とはとうてい相容れないもの。――岡照正『高1で芥川賞!』

091206 岡照正『高1で芥川賞!』(平成20年/2008年2月・文芸社刊)

 Amazonで「芥川賞」を検索すると、どどっと一覧が表示されますが、そのなかになぜか、まったく芥川賞作品・作家と関係のない本が一冊だけ含まれていますよね。なんだ、これ? 検索社会を100%意識したマガイもん? と思ったあなた。……おそらく正解です。

 あ、いや、ワタクシは著者の岡照正さんを全然知りませんし、それどころか、芥川賞作品にも大して興味がありません。なのでほんとうに「正解」かどうかは不明です。あくまで、以下は一読者の解釈ですので、念のため。

 『高1で芥川賞!』のあらすじは、ここでは述べません。ウンザリするので。

 ん? この「ウンザリ」感。ひょっとして、これこそが本作の真骨頂じゃなかろうか。そう思うと、俄然、こいつはギャグ小説として光輝きます。……残念なことに、ほとんど笑いどころのないギャグ小説ですけど。

 たとえば、本文116ページ、っていう薄っぺらさ。美的センスを疑う装丁の、色づかいやら題字。裏表紙オビには「特に95、97と100ページは必見! アメリカの文体の小説なのできっと驚く!」って書いてあるんですけど、どれどれと該当ページを見てみても、え? この文体で驚くやつがいますかね? と思わざるを得なかったり。本文だけにあらず、巻末の「解説」と称する作者の3ページにわたる文章がまたクセモノで、本全体から匂ってくる、世間を見下す自己中心的な(あるいは自己陶酔的な)物言い。

 まだありますよ。この制作者の「企み」は、ほんと執拗です。ネット上でも確認できると思いますけど、奥付ページに「著者プロフィール」が掲げられています。これを見て、思わず吹き出したのは、ワタクシだけではないはずです。

「1992年、講談社の『ウォンバット』(3号)のP204~P206までに『クレイジー・ボーイズ』が掲載される。『クレイジー・ボーイズ』は今回の小説の中のP57~P60に収録。今後も他の人が書けない個性的な小説を世に送り出す予定。」

 そういえば、かつて、妙ちくりんな構えで文学の世界に話題をふりまこうとして空振りで終わった『ウォンバット』誌って雑誌がありましたっけ。その雑誌の「FAX新人トライアル」に原稿を投稿して、ほかの6人の採用者に混じって、ほんの数ページだけ掲載された筆歴を、こんなにも堂々と開陳しちゃいますか。16年もたっているのに。

 いやあ、こんなにも道具立てが揃っているのをみたら、これ全部、本の制作者が意識的にギャグとして放っているとしか思えません。

 もうちょっとわかりやすく言いますと、こういうことです。

 「自分は新しい文学を世に発表するだけの力量(才能)がある」と勘違いしてるどこぞの若者がいる、とします。そんな人が、

「小説が出来あがったのでさっそく新人賞に応募した。(引用者中略)もし落ちても俺には開遠高校1年というちゃんとした滑り止めがある。人生が楽しみだ。俺はひょっとして天才なのかもしれない。」(「13」より)

 だとか、

「芥川賞の発表記者会見があり、高1での最年少の受賞は話題となった。僕は言ってやったよ。

「15歳で若いということがそんなに驚きですか?」と。

 記者はこう言ったね。「15歳で開遠高校1年、芥川賞受賞! 凄い肩書きですね。三島由紀夫の再来ですね。自分でもそう思いませんか?」

 バカバカしい。アホと話すと疲れるよ。」(「19」より)

 だとか、風刺と呼ぶにはスキだらけの自意識過剰な作文を、めんめんと綴り、ついには本にまでしちゃったとします。うわあ、恥ずかしいよね、愚かしいよね、むなしいよね。……っていう一部始終をネタにした作品なんです、これは。

 うんうん。本書の本文として掲載されている、読者を意識的に「ウンザリ」させることを狙った文章は、道具立てのひとつに過ぎません。装丁や、プロフィールや、あとがき、などなど一冊まるごとでもって、自意識過剰で鼻持ちならない野郎を皮肉っちゃっているんですね。

 とくれば、本文に登場する「直木賞」の扱われ方なんかも、もちろん、アレです。一種の「釣り」です。

「同時期に発表になった直木賞はどこかの56のオヤジ。どこから見てもくたびれた近所のオヤジだった。

「君凄いね! 15歳だってね」

 お前になんか言われたくない。僕はこのおっさんを見ていると、一体何のために今このおっさんが生きているのかわからなくなった。僕がもし56でこんなくたびれたオヤジなら昼間恥ずかしくて外出できないし、すぐにでもビルの屋上から飛び降りるだろう。この男は死ぬ勇気がないからだらしなくこの顔で生きているのだと僕は理解した。」(「19」より)

 さすが56歳の男は、えらいなあ。くだらないほど不遜で生意気で、カワイソーな若者を目の前にして、ついつい声をかけてあげるなんて。この直木賞作家は、そうとう人間としてデキた人なんだな、と感心しちゃいます。

 まあ、この語り手「岡照正」の「想像力の貧困さ」は、小説の作者である「岡照正」が一冊全体をつかってこれでもかと見せつける「想像力の貧困さ」につながっているんだもんなあ。で、そのポーズはたぶんに、作者「岡照正」を創造した、制作者である岡照正さん(ややこしいな)の企みなんですもんね。そう考えると、直木賞のくだりは「釣り」以外のなにものでもありません。

 制作者の企み。そうそう、いちばん大事な「企み」にまだ触れていませんでした。

 「文芸社」から出版してる、ってことです。ええ、あの「自費出版の文芸社」から。わざわざ。狙ったように。

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2009年11月29日 (日)

直木賞とは……眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる――徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』

091129 徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』(昭和27年/1952年8月・オリオン社刊)

 今日はぜったいに徳川夢声さんのことを取り上げたい! と強く決意したのはいいんですけど、夢声さんが小説のなかで直木賞を描いたことがあるのかどうか、寡聞にして(不勉強にして)知らず。

 だったら、小説よりも、字数の少ない分だけ読み手がもっといろいろ勝手に想像してもいい俳句(……え、ちがいましたっけ)のなかから、完全に読み手主観でえらんでみました。「直木賞オタク主観」と言い換えてもいいです。

 夢声さんが、頭の片隅に「直木賞」のことを思い浮かべながら、この句を詠んだのだったら、さぞ面白いだろうな、と思いまして。

「眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる」

 昭和25年/1950年5月24日、山王台「山の茶屋」にて開かれた文壇俳句会で、夢諦軒(夢声さんの俳号)詠める句。この日の参加者は、玉川一郎井上友一郎北条誠上林暁檀一雄、真杉静枝、久米正雄永井龍男の諸氏だそうです。

 じつにこのとき、夢声さんが直木賞の有力候補でありながら惜しくも選外となった第21回(昭和24年/1949年・上半期)の選考会から、1年弱。けっして口に出して「直木賞がほしい」などとは言わない夢声老、でも目ではしっかり追っていて、その視線を感じてか感じずにか、蚤なる直木賞は、ひょいひょい逃げていってしまう図。……だなんて解釈は、ええ、確実にワタクシの妄想です。

091129_2  そんなふうにフザけた妄想を抱いてまで、なぜ「徳川夢声を取り上げたい!」と思ったかといえば、これです。ついこのあいだ、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』(平成21年/2009年11月・清流出版刊)なる大変な本が出版されたからなんです。

 だって奥さん。まさか我々が生きているあいだに(いや、地球が回っているあいだに)夢声さんの「九字を切る」&「幽霊大歓迎」を収めた小説集が本になっちゃうだなんて、だれが想像できました?

 ひとえに、この本の収録作の採択を担当した夢声研究家・濱田研吾さん(姓の「濱」は正確には「濵」)のおかげです。

 もちろん、「解題」にて「幽霊大歓迎」と「九字を切る」両作の運命を翻弄してきた第21回直木賞候補作のハナシに関して、うちの親サイトのページに触れてくれているのも感激なんですけど。いやいや、なんたって単行本未収録らしい「九字を切る」を、今の今、新刊のなかに収めちゃおうっていう濱田さんの心意気たるや。すばらしすぎる。

 夢声と直木賞。この両者は、もう縁が深いあいだがらにあった、ってことはごぞんじのとおりでありまして、なんつったって第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞。これの贈呈式は、いちおう大々的に、多くの観客のまえで行われたらしいんですが、そこに夢声さんも顔を出しているんですから、悪縁(?)です。

「28日、東京愛讀者大會を日比谷公會堂に開く。講演・穂積重遠、兼常清佐、久米正雄、小島政二郎。「芥川賞直木賞贈呈式」菊池寛より石川達三川口松太郎に賞品授與。餘興出演者・二三吉、松原操、大辻司郎、古川緑波、徳川夢聲。」(昭和34年/1959年4月・文藝春秋新社刊『文藝春秋三十五年史稿』「年誌 昭和10年10月」の項より)

 ん? これは「夢声と直木賞」、じゃなくて「夢声と文藝春秋」の悪縁かもしれませんけど。

 でも、戦前の直木賞のうち、どこら辺の作家に焦点をおくか迷いに迷っていた頃には、たしかに、夢声さんは有力候補のひとりでした。

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2009年11月22日 (日)

直木賞とは……「候補作家」の肩書は、政治家をめざす者には、アクセサリーとしてはちょうどいい。――豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」

091122s4910 豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号)

 直木賞と芥川賞のちがいを表現するとき、俗にこんな言葉があります。

「受賞してからエロ小説を書くのが芥川賞、エロ小説を書いてから受賞するのが直木賞」。

 と言うのは、ウソです。ワタクシがいま勝手に考えついた言葉です。

 ともかくも、胡桃沢耕史さんや阿部牧郎さんのように、豊田行二さんだってタイミングさえ合えば、昭和50年代~60年代にいたって直木賞をとったかもしれません。奇遇にもこの3人は、エロ小説を多発する以前の、デビュー当時から、「直木賞」の世界をことさら意識させられる環境にいた、って点でも共通しているわけですし。

 山口県下関で、周東英雄代議士の私設秘書だった豊田さん。いや、あえて本名で言いましょう、渡辺修造さん。「豊田行二」になる前、すでに「山口昌高」なるペンネームで、クラブ雑誌にユーモア小説を発表していました。しかし、渡辺さんはいろんな小説を書いていきたいと思っていたのに、注文はユーモア物ばかりだったそうで、飽き足らなくなり、別のペンネームでさまざまな新人賞に応募しだしたのだとか。

 そのうちのひとつが「示談書」。めでたく昭和43年/1968年、第32回のオール讀物新人賞を受賞します。

 そのときの受賞のことばです。すでに豊田さんが遠く「直木賞」あたりから吹き降ろす風を感じていたことがわかります。

「もう、こうなれば、次の目標を直木賞に置いて、ひたすら突っ走るだけである。一生かかっても直木賞はいただけないかも知れないし、そんな大それたことを、新人賞をいただいたばかりの者が口走ると、「頭を冷やせ」とお叱りを蒙るかもしれない。しかし、無縁と思っていた新人賞をいただいたことで、破れかぶれの欲が、猛然と湧いてきたのである。」(『オール讀物』昭和43年/1948年6月号「破れかぶれの弁」より)

 そりゃあもう、豊田さんの回想によれば、そもそも作家になろうと思ったきっかけが、身近に「直木賞候補」の先輩がいたからなのだそうで。東京から遠く離れた下関の地で、新聞記者を勤めながら同人誌に書いた短篇がいきなり直木賞候補になり、俄然注目を浴びた先輩……。古川薫さんです。

「私が作家になったのも、古川さんの影響に負うところが大きい。

 古川さんの『走狗』が単行本になり、料亭で出版記念会が行なわれたとき、私も招かれて末席に連なった。そして、そこから、メインテーブルを見て驚いた。

 古川さんを中心に、下関在住で芥川賞の候補に何度かなった長谷川修さん、北九州在住の作家、劉寒吉さん、岩下俊作さんらの作家がずらりと並び、東京から来た出版社の編集長や雑誌社の編集者が賑やかに顔を揃えている。彼等がかわるがわる立って喋るスピーチも、聞くものを圧倒するような迫力があった。小説を書いて認められるということは、かくも素晴らしいものか、と古川さんの出版記念会の雰囲気に感動した私は、家に帰ると机に向かい、半月ほどかかって、『示談書』を書きあげ、オール読物新人賞に応募した。」(昭和57年/1982年1月・大陸書房刊『作家前後』所収「男の誓いを交した古川薫さん」より ―初出『トップ小説』昭和55年/1980年8月号)

 ……といった頃の実状などがストーリーの間に差し挟まれるのが、新人賞受賞から6年後に書かれた「太陽への挑戦者」って小説です。むろんかなり虚構を交えているんでしょうけども。

 郷里で代議士の地元秘書をしていた牧月晃一。やがては自分も政治家になりたいと夢を持っています。慢性中耳炎で入院しちゃうんですが、そのとき何げなく書いた小説が、入院患者たちに褒められたのが運のツキ。それに気をよくして、退院後、小説を書き上げて「当時、日本で最も権威があると言われていたB社の新人賞の懸賞」に応募します。

「もちろん、入選の期待など、爪の垢ほども持ってはいなかった。

 ところが、この作品は新人賞を受賞し、あまつさえも、直木賞の候補になったのである。」(「太陽への挑戦者」より)

 それで、豊田さんの本心だったのか、小説上のウソなのか不明ですけど、「直木賞候補」になったことは、牧月晃一にとってはさほどの重みはなかった、っぽく描かれています。なぜなら牧月は政治家になりたいからです。

「作品が一級品だと認められたのだ、という嬉しさは、筆歴が浅すぎるせいか、まったくなかった。

 新人賞を受賞してからも、まだ、牧月は依然として政治家になる夢を追っていた。直木賞候補の肩書はそのためのアクセサリーに使えるからありがたい。そういった感覚しかなかった。もちろん文筆で生計を立てようなどという考えは毛頭なかった。」(同「太陽への挑戦者」より)

 文筆で生計を立てる気がなかった、のはどうやらそのとおりのようで、『作家前後』におさめられた「これから先が……」(初出『午後』昭和48年/1973年7月)にも、同じような場面で、同じような表現が出てきます。ただし、

「『示談書』がオール読物新人賞を受け、直木賞候補になったときも、私は将来物書きになろうとは思わなかった。あくまでも政治家になるつもりだった。しかし、それは以前のように確固たる信念ではなく、ややぐらついたものに変わってはきていた。」(前掲『作家前後』所収「これから先が……」より)

 と、作家の世界への「欲」も、けっこう膨らんでいたみたいですけど。

 それにしても、「直木賞候補の肩書は、政治家になるためのアクセサリーに使える」だなんて一文が、どうして小説「太陽への挑戦者」には、付け加えられているのか。なある。これはこの小説で明らかにされる、もう一人の主人公「糸山英太郎」と政界進出劇についての物語を補強する伏線だったんですね。

 そう。その物語とは。……青年実業家の糸山が選挙に打って出るための、一つの道具として、別のだれかに本を書かせた、っていういきさつのことです。

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2009年11月15日 (日)

直木賞とは……ちょっとした主婦でも知ってるよ。「一夜で有名になる」代表的な出来事だってことをね。――丹羽文雄『樹海』

091115 丹羽文雄『樹海』上・下(昭和57年/1982年5月・新潮社刊 -> 昭和63年/1988年2月・新潮社/新潮文庫

 おいらみたいな素人には、とうてい理解できないけど、戦後の流行作家三羽ガラス、丹羽文雄舟橋聖一石川達三は、「大衆小説」じゃないのだそうで。いいじゃん、大衆小説で。何が悪いのさ。……と言ってみたところで、少なくともご本人たちのなかには、歴然たる区別意識があったそうで。

 舟橋さんが戦前、菊池寛親分から直木賞選考委員になってもらえないか、と打診を受けたのに、断ったとか。それで、芥川賞委員ならば、ひょいひょい引き受けちゃうとか。

 戦後に両賞が復活するとき、石川さんははじめ直木賞選考委員を務める予定で、昭和23年/1948年の段階では、直木賞の選考会に出席していたくせに、昭和24年/1949年になったら、なぜか澄ました顔して芥川賞の選考委員の座におさまっていたとか。

 永井龍男さんも、井伏鱒二さんも、水上勉さんも、何年にもわたって直木賞委員を務めていたはずが、何の未練もなく急に芥川賞委員に鞍替えしちゃったりして。何なんだ、あなたたちは。そんなに直木賞がイヤか。

 丹羽文雄さんが、そんな方たちと同類かどうかは異論あるところでしょうけど、それにしても直木賞オタクとしては、丹羽さんの動向は、舟橋聖一・石川達三とともに、研究欲をかき立ててくれます。たぶんワタクシは生きているあいだに、それに手を付けるところまで到達できないでしょうけど。なにせ丹羽山脈は標高もたかく、面積も広大すぎます。

 ……と言いつつ、丹羽さんが昭和50年/1975年にもなって、まだ、とある一つの信念を貫いていたかと見ると、まあ彼が直木賞について何かを語るなんて、あるわきゃないな、と納得してしまいます。

 とある一つの信念とは、「通俗雑誌にのった小説は、絶対に純文学ではない」ってものです。

091115_4  昭和50年/1975年の第11回谷崎潤一郎賞にて。丹羽さんは候補作品に、ある作品を推薦します。ところが、ふたをあけてみると……。

「私(引用者注:丹羽自身)がその作品を推したのである。しかし、その小説をよんでいなかった。作者の名をみて、書下ろしの長篇ではないかと思い、その作者なら必ずよみごたえのあるものを書いているだろうと思ったからである。選考会で、私が推したのが通った。が、一読して、私がまちがっていたことを知った。候補作品にはなりかねないものであった。筆がひどく荒れていた。作者がその雑誌の特色に多分に迎合して書いているようであった。そのため今後は、掲載誌を厳重に調査することになった。」(昭和51年/1976年11月・講談社刊『創作の秘密』「作者の持味」より)

 すげえぜ、丹羽親分。作品を読まずして、作者の名と「書下ろしだろう」との当て推量で、推薦するたあ。候補作の作者名と作品名、掲載誌(または出版社名)だけ見て賞のなりゆきを予想する、我らみたいな素人とほとんど同じレベルじゃないかよ、すげえぜ。

 いやいや丹羽親分は、自分自身や他の作家たちのこれまでの長ーい経験に裏打ちされた理論を持っていたのですから、おいらたちと一緒にしちゃあいけません。たぶん。

「が、私がかんじんの内容を知らずに、その名前だけで推薦したというのも、かねてからその作者の持味に期待をかけていたからである。その持味は、文学的にもかなり高いものであった。が、いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く、持味が十分に生かされていなかった。これも一種の作者の不幸というべきであろう。」(同「作者の持味」より)

 このエッセイでは、谷崎賞5つの候補作のうち、水上勉『一休』、安岡章太郎『私設聊斎志異』、中村真一郎『四季』の3つについて実名を挙げて詳細に論じていて、すると残るは2作品。まさか丹羽親分が「いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く」と評したのが、古井由吉さんであるわきゃないもんね。……ってことで、その作家とは容易に野坂昭如さんのことだとわかるわけです。

 しかしまあ、丹羽親分いわく、この一件はご自身の責任っていうより運営者側の「谷崎賞候補を選ぶときの手落ち」だそうですし、野坂昭如は、通俗的な雑誌に書くと手加減をくわえる(あるいは手を抜く)から、とうてい推せないんだ、でも俺はちがう、「私はいろんな雑誌、新聞に作品を発表しているが、かつて手加減を加えたということは一度もなかった」んだそうです。

 おお、偉大なるかな、キング・オブ・ブンダン。かわゆすぎます。

 ……でもまあ、これが丹羽さんのお人柄なのだとしたら、そりゃあ周りに敵が多そうだな。

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2009年11月 8日 (日)

直木賞とは……噂をするなら匿名で。だって悪口いってるのがバレたら、とれなくなっちゃうもん。――夢枕獏『仰天・文壇和歌集』

091108 夢枕獏『仰天・文壇和歌集』(平成4年/1992年5月・集英社刊 -> 平成14年/2002年6月・集英社/集英社文庫

 小説でもエッセイでも、「文学賞をネタにする」っていうのは、飛び道具みたいなところがありますよね。あ、飛び道具というか、低俗、ゴシップ、卑しい、下品、文学の本筋とは関係のない傍流。

 それでたいていの良識人は、あえて文学賞について深く語ったりしないものらしいですけど、性格上、ついついネタにしちゃう人もいます。たぶん、夢枕獏さんもそのひとりです。

 キマイラ、サイコダイバー、餓狼伝。昭和50年代後半(1980年代)に、一気にノベルス・文庫界隈で売れっ子になり、『上弦の月を喰べる獅子』で無冠の座から脱却(第10回日本SF大賞)。これが平成1年ごろのことで、ちょうど獏さんにとって一回目のお仕事自重期のころなんですが、このあたりから獏さんからは文壇ネタ、文学賞ネタが一気に噴き出していきます。

 そのなかの一作である『仰天・文壇和歌集』(初出『小説すばる』平成2年/1990年11月号、平成3年/1991年3月号、8月号、10月号~平成4年/1992年4月号)より。まずは一首。

「勝手に候補にしておきながらこの賞が欲しければもっと勉強しろと言って落選させた審査員がいたようないないような」(『仰天・文壇和歌集』「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 終わりかたに、やや腰の引けた感じが残っています。

 いかんいかん、これじゃ面白がってもらえんぞ、と切り替えたのかどうなのか、そのあとは賞を欲しがる作家の心情とか生態とかを、次々にネタにしていきます。

 なにせ、ちょうど昭和の末から平成のはじめごろっていえや、あれです、「推理小説では直木賞はとれない」(昭和30年代~昭和40年代)、「SF小説では直木賞はとれない」(昭和40年代~昭和50年代)などと、各グループで怨みまじりの気炎が上がったのと同様、夢枕獏さんの周辺の冒険小説グループが、直木賞から迎え入れたり拒否られていたりした時代ですもん。獏さんも、文学賞ネタには事欠かなかったようで。

「あの賞を取ったあいつの作品より取らぬおれの本の方が売れている

と言う君の酒は五杯目である」(同「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 ははあ。たくさん本が売れること……人気作家っていう座を何年も持続できること。それも作家の価値のひとつと認めて、直木賞を与える理由として採り入れたっていいじゃないか、とのちに北方謙三さんが提示する土壌が、このあたりに垣間見えたりもします。

 それから獏さんは、賞に対して作家たちが裏で悪口を叩き合っている図、なんてのも描きます。

「欲しい賞の悪口けして言わないあなたは世渡り上手」

「もらってしまった賞の悪口しか言わないあんたが大将」

「あの賞の悪口急に言いはじめた同業者(ルビ:きみ)を見て きみがエロスとバイオレンスでやってゆく決心をしたことを知る」(以上三首「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 悪口を言い出すと、それが噂となってどこかの出版社あたりに流れて、もうその賞から声がかからなくなる、っていう原理。くーっ、まったくこの世は生きづらいもんなんですね。たとえば文学賞が「発表された小説のなかで、最高のものを選び出す」っていう理念があったとしても、なかなかその理念どおりに事が運ばんのも、わかります。

「「ぼくは一度あの賞の候補になりました」「おれは三度なった」とらぬどうしで哀しくはないか」(同「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 なあんてことを、あまり「文学賞の候補者」ってかたちで表沙汰になったことのない獏さんがつぶやくから、クククッと黒い想像の広がる一首です。

 ……と、あまり引用ばかりしていくと、面白くなって止まらなくなりそうなので、ここらでやめときます。もっと出てくる文学賞ネタについては、同書をチェックしてみてください。

 それにしても、あの賞あの賞、としか言わず、いちいち固有名詞を出さないところが、獏さんも自嘲ぎみに「世渡り上手」と詠っちゃうところなんですけど。ただ、本書のなかではっきりと「欲しい」とネタにされて具体的に賞名の挙がっているものが、二つだけあります。

 芥川賞と直木賞です。

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2009年11月 1日 (日)

直木賞とは……「とれば周囲の目が変わる」。と思われていることそのものが、ユーモアのネタになる。――奥田英朗「妻と玄米御飯」その他

091101 奥田英朗「妻と玄米御飯」(平成19年/2007年4月・集英社刊『家日和』所収)その他

 精神科医・伊良部一郎のもとに訪れたのは、すでに著作数200冊を超える人気大衆作家、彼はここ最近悩んでいて、数年前からN木賞の選考委員を務めているのですが、かつては自分の物差しで「推す」小説と「推さない」小説をきっぱり決断できていたのに、急にどの小説を読んでも良し悪しが判断できなくなってしまって、選考会に出ては胸をはって発言することができず、冷や汗のかきどおし……。

 とかいう伊良部シリーズがあってもよさそうなんですけど、そんな小説ありません。残念。

 奥田英朗さんに、文学賞(とくに直木賞ふうのもの)が出てくる小説が、まったくないわけじゃありません。ただし、それぞれがズバリ直木賞、って書かれ方はしていないし、文学賞をネタにしているっていうより、登場人物である作家を肉付けするような小道具程度のものですけど。

 ってことで、今日のお題は、「妻と玄米御飯」その他。たぶん「その他」のほうに多くの文量を割くことになりそうです。

 「その他」その1。『ララピポ』(平成17年/2005年9月・幻冬舎刊)から行きますか。

091101_2  『ララピポ』第5話の「I SHALL BE RELEASED」の主人公は、作家の西郷寺敬次郎です。いや、官能作家の、と言い換えておきましょう。桃園書院の書き下ろしシリーズとか、月刊誌『小説エロス』『桃色ノベル』、週刊誌『実話パンチ』、夕刊紙『夕刊トップ』の締め切りを控える、人気者です。

 でも西郷寺先生、むかしは純文学を志していました。文壇デビューは20年前、日本を代表する老舗出版社の「世界文藝社」(わざわざ「藝」と書いてあるところがミソ)が主催する世界文藝新人賞を受賞したことにあります。しかし、文学に賭ける志は途中でどっかに行ってしまい、今じゃ官能小説専門。そんな西郷寺先生ですが、もう一度、純文学をどこかに発表できないかと、短篇を何本か書き溜めています。

 それで、西郷寺先生と、三流出版社(利益の大半は官能小説で上げている)の桃園書院編集者、石井との会話。

「「ところで、近頃はどんな小説が売れてるわけ?」(引用者中略)

「文芸ですか。うちの本ではあまり……」

「別に桃園書院のことを聞いてるわけじゃないの。世間一般のことだよ」

「さあ。宮部あけみ先生とか、浅田一郎先生とか、そういった方なんじゃないでしょうか」

「この前、賞を獲った翠川輝夫はぼくの同人誌時代の後輩だけどね」(引用者中略)「小説のイロハを教えてやったのはぼくだよ。あいつも長かったね、地味な私小説ばかり書いてて。食えるようになったのは最近だろう」」(『ララピポ』「I SHALL BE RELEASED」より)

 へえ、翠川輝夫が獲った賞って、どんな賞なんだろ。同人誌出身というから純文学系の可能性もあるけれど、長い作家歴、それから小説で食えるようになった、ってぐらいですからねえ。直木賞・山周賞・吉川新人賞、その辺の系列ですかね。

 もう一場面、引用します。西郷寺先生が、銀座で艶聞社ってところの接待を受けている最中に、たまたま同じ文壇バーに高橋なるミステリー作家が、編集者を引き連れてやってきたところです。

「「高橋先生」ママが華やいだ声をあげ、駆け寄った。ほかのホステスたちも一斉に立ち上がる。

 テレビや雑誌でよく見かけるミステリー作家だった。大半の作品がドラマや映画になっていて、賞の選考委員もいくつか兼任している文壇の大御所だ。」

 その高橋を接待しているのが、先にご紹介した世界文藝社なんでした。

「向こうのテーブルは端から賑やかだった。ミステリー作家は両脇にホステスを抱え、大物ぶっている。

 ふん。たかが三文推理小説だろう。何を大きな顔をしているのか。こっちは純文学作品を書いていたことだってあるのだ。」(同「I SHALL BE RELEASED」より)

 ふふふ。小物感・俗物感たっぷりの中年作家の、ドロドロした心理をあぶり出すために、文学賞が使われているんですね。

 自分は、先ごろ賞をとった後輩作家とは、知らぬ仲じゃないってことで、優越をひけらかす。対して、賞の選考委員をしているのみならず、それを「いくつか兼任する」ほどの流行作家には、バーのママやホステスの態度――つまり世間の目の違いを見せつけられ、めらめら怨念を燃やす。

 ちなみに、この『ララピポ』第5話が発表されたのは、幻冬舎の『ポンツーン』誌、平成16年/2004年4月号だそうで。とりあえず、奥田さんが直木賞を受賞(平成16年/2004年7月)する前のことです。

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2009年10月25日 (日)

直木賞とは……エンタメ小説に与えられる賞。と、言い切りたいけど言い切れない。――柴田よしき『Miss You』

091025missyou 柴田よしき『Miss You』(平成11年/1999年6月・文藝春秋刊)

(←左書影は平成14年/2002年5月・文藝春秋/文春文庫

 ふいに、こんな推薦文を見せられたとき、どんな対応をとるかによって、あなたの直木賞ハマり度が測れます。

「しかし何よりも読ませるのは、ここまで書くかという業界の内幕話だろう。具体的に読んでのお楽しみだが、この暴露度は筒井康隆「大いなる助走」以来と言ってもいい。出版界に興味のある読者には、たまらない一冊だと思う。」(『北海道新聞』平成11年/1999年8月22日「書評 Miss You 出版界の内幕徹底暴露」茶木則雄・著 より)

 直木賞オタクとしての正解は……ほお、評者は茶木則雄さんか、しかもその前段では「本書ほど徹底して“業界”を舞台にした作品は、ことミステリーに限って言えば、おそらくないのではあるまいか。」などと、あまりにも言いすぎ・暴論の勢いだもんな、こりゃとても信用できんな、としてスルーする。

 っていうのは冗談ですけど、もうちょっと信頼感のありそうな(こらこら)長谷部文親さんは、こう語ります。

「もちろん本書はミステリーの形式を踏んだフィクションには違いないが、あえて作家や文芸編集者の生態を掘り下げたところにドラマを構築した点で、含蓄に富んだ新機軸と呼べるのではないかと思う。」(『THE 21』178号[平成11年/1999年9月]「ミステリーから現代を読む」長谷部文親・著 より)

 ああ、柴田よしきさん。何にでも手を出す彼女の活躍ぶりは、ワタクシみたいな偏向読者にとっては、ただ指をくわえて遠くから眺めていることしかできません。なので、ワタクシは厚顔無恥を承知のうえで邪道を歩かせてもらいまして、村上緑子もリアルゼロも炎都もすっとばして、いきなり『Miss You』に手を出してしまうわけです。

 『Miss You』では、現実の出版界を想像させながらも、スレスレのところでモデルを特定させない配慮が、いたるところにまぶしてあります。

 主人公の江口有美の勤める会社が「文潮社」、担当雑誌が「小説フロンティア」。ここ一流出版社だそうで、東大卒の学生が就職先に選ぶ部類の会社だそうで、他にファッション誌とかも出しているらしくて、「小説フロンティア」は公募の新人賞も主催していて、そこには五人の選考委員がいて……。

 競合の出版社は、「講論社」と「丸川書房」。この作品にはいろいろと文学賞(っていうかミステリー賞)が出てくるんですけど、意識的にか無意識的にか、まず最初に出てくるのは、この競合二社のものです。

「講論社のコナン・ドイル賞は推理小説の新人賞としてはいちばん知名度があり、受賞者は新人のエリートコースに乗ることが出来る。」(『Miss You』「第一章 砂の城」より)

 はい、ここで講談社の江戸川乱歩賞以外の、現実の賞をパッと頭に思い浮かべた人がいたら、挙手をお願いします。

「丸川書房のミステリ新人賞でデビューしていきなりベストセラー作家になってしまった新田恒星、」(同「第一章」より)

 デビュー作『霧の迷路』は公称50万部突破、だそうじゃないですか。すごいですね。それにしても、この賞もまたミステリー対象なんだそうで、ははあ、平成の世の出版界を映しているような気がしたり、しなかったり。

 それで、直木賞っぽい文学賞がもうちょっと後にエピソードとして出てきます。「いや、それって別に直木賞をモデルにしたわけじゃないから」と、言い逃れできてしまいそうな記述が、ちょこちょこと差し挟まっているのが特徴です。

 このエピソードは、江口有美の先輩編集者、竹田沙恵にからめた話です。竹田沙恵と、作家・石田瑛との関係が語られています。

「竹田ってのは、ドライでバリバリのようでいて、妙なところで女っぽいというか、女性特有の面倒見のよさを発揮することもあったな。去年、立木賞とった石川瑛、あの人は丸川書房の新人賞で出たんだが、受賞作も大して当たらなくてその後もパッとしないまま三年沈んでたんだ。」(同作「第二章 予兆」より)

 なんだよ、石川瑛さんもやっぱりミステリー系かよ。

 竹田沙恵はその石川瑛の作品に惚れ込んで、女房のように尽くしてあげて、「自分が売ってみせる」との宣言どおり、石川瑛さん立木賞受賞。と、実はそこでは竹田沙恵の周到な(あるいは、必死の)戦略も、功を奏したらしいんです。こんなふうに。

「「(引用者前略)竹田の宣言通り、石川さんはいきなり立木賞をとって大復活、うちは受賞第一作を連載でもらえてほくほくもんだ。だが、あの立木賞をとったやつがなぜうちから出ないで他から出たのか」

「竹田さん、他社に売り込んだんですね」

「そういうことだな。そこに竹田の計算があったんだと思う。立木賞はあの前年と前々年、二年続きでうちの作品がとっていた。いくら何でも三年続けば裏があるんじゃないかと勘ぐられる。主催しているミステリ協会としても、痛くもない腹を探られるのはできたら避けたいと思うだろうさ。よほどぐうの音も出ない大傑作でもない限り、あの年、うちの作品が受賞する可能性は薄かった。竹田は会社を裏切ってでも、石川瑛を復活させようとしたんだ。」(同「第二章」より)

 おっと。立木賞の主催者は、ミステリ協会なんですか。ミステリーミステリー、って柴田さん、それで押しますね。

 さらに本作では、「立木賞をとること」は、「人気作家になること」とほぼ同義って感じで書いてあります。

 平成10年/1998年前後のエンターテインメント文芸界は、もうほとんどミステリー(って名を付けたもの)で埋め尽くされていた、っていう世界観は、まあある意味正しいかもしれません。でも、この賞の主催者を、あえて出版社ではなく「ミステリ協会」なる団体に設定しておきながら、なぜに「ミステリ大賞」とか、そういう毒にも薬にもならない名称にしなかったんでしょう。「立木賞」だなんて。まるで、現実のなにかを連想させるような賞名にしたりして。

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2009年10月18日 (日)

直木賞とは……受賞後に書きつづけることができないと、自嘲の対象になる。――岡田誠三『定年後』

091018 岡田誠三『定年後』(昭和50年/1975年3月・中央公論社刊)

 直木賞がまだ、佐佐木茂索&池島信平イズムにどっぷりと塗りつぶされる前のころ……。香西昇さんたちが、なけなしの奮闘ぶりを発揮するその礎にさせられる前のころ……。「原始直木賞」の終焉は、太平洋戦争が終わるころに訪れました。

 戦中最後の受賞者、第19回(昭和19年/1944年・上半期)の岡田誠三さんです。

 だいたい世の中には、「直木賞作家なんて、受賞後、あまり活躍できない人も結構いる」とかなんとか、やっかみ混じりの妙なイメージをもつ人がいるらしいです。それ、正しい見立てかもしれないけど、別の視点でみたら、間違いかもしれません。

 とくに、戦時下に受賞した作家たちと言ったら、あなた。その後のたくましい躍進ぶりは、なかなかエラいもんです。

 早くに亡くなった神崎武雄さんは、まあ措いときましょう。

 「没落受賞作家」の代名詞、河内仙介さんにしたって、戦争終結前はけっこう、ぶいぶい活躍してたんじゃないですか?

 堤千代さんは、家庭誌・女性誌をメインに、一時期は超流行作家。戦後に直木賞が復活するときには、選考委員に予定されているメンバーの一人として名が挙がっていたほどです。木村荘十さんは、戦後の出版復興期には、各誌からひっぱりダコ。森荘已池さんは、宮沢賢治のことならまずこの人に聞け、と言われるほどの賢治研究の大家にのぼりつめちゃったし。

 田岡典夫さんは、渋いながらも良心的な歴史小説で長らくご活躍。村上元三さんの、佐々木小次郎旋風と、それからの重鎮化にいたる道のりは、「直木賞作家」としてバツグンの優等生です。

 で、岡田誠三さん。いやあ、さすがにこの人は、戦争モノ中の戦争モノで唐突にポロッと受賞できただけの人だからな、早々と表舞台から名前が消えちゃったよな。……と戦後、30年間も、言われつづけました。おそらく。

 昭和50年/1975年に、『定年後』なる半自伝的な、爆弾小説が投下されるまでは。

 朝日新聞記者の岡田さん、受賞のころやその後のことを、あくまでサラッと、『定年後』のなかで触れてくれています。

 岡田さん流の、なかなかコネくられヒネくられた文章ですので、注意深く読んでみましょう。

「受賞してから私を見る周囲の目が微妙に変ってきたことを私は皮膚の上に感じる。廊下ですれ違うたびに故上野精一社長が「岡田はん、書いてるか」と、その丸く禿げた頭と同じソフトな大阪弁でいう。敗戦前後へかけての内面の振幅がまぎれるにつれ、それ以後の中年サラリーマンの惰性的ぬるま湯へまたしても私は徐々に首まで漬っていった。受賞の記憶はやがて虚称と化して空転しはじめる。」(『定年後』「1 定年葬」より)

 虚称。……ははあ。そうなんですか。コイツは、職業作家じゃない人間にとっての、正確な直木賞観でしょう。

 さらに、つづいてもう一段落、その「虚称」が具体的にどう空転していったかを述懐しています。

「戦後社会が深まる中でおおかたの人は私の作品の意味を問わずに受賞のことにふれる。虚栄心のくすぐられる限界効用が逓減して自身にむなしいコッケイさを感じながら、「イヤ、あれはもう、時効にかかりましたよ」と受け流す文句を編み出しながら私は、「直木賞をもらった男」という自嘲的短編の幻想の主人公の姿を自分の中に見ていた。」(同『定年後』より)

 「自嘲」と来ました。

 受賞当時のことをひるがえって見ますと、昭和19年/1944年には、新聞の従軍記者が戦地の状況を報告する文章なんか、山ほど発表されていて、『新青年』にだって、そんな散文はいろいろ出ていたはずです。そのなかで、作家として何の実績もない岡田誠三なる記者の、「讀切長篇 報道小説」と角書きを付した小説とも現地報告文ともとれる文章に、よくぞまあ、直木賞は賞を授けたものだな。……と思うわけですけど、岡田さんが単なる従軍記者、ジャーナリストであったなら、もしかして、こんな虚称になんか無関心を貫けたかもしれません。

 ところがです。岡田さんはどうやら、からだの奥底に「作家」の魂を持っていました。戦争だあ国策だあってことで鑑賞眼が曇りがちな戦時下に、そういう人の書いたものを、ビシッと探して出してきて、文学の賞を与えてしまった直木賞たるや。むむ。なかなかやるな。

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2009年10月11日 (日)

直木賞とは……人間の自尊心を侮辱し、愚弄する非人間的なシステム。――小林信彦『悪魔の下回り』

091011 小林信彦『悪魔の下回り』(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊)

(←左書影は昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫

 選考委員がぶっ殺される、二大“直木賞”本のうちのひとつを、そりゃあ素通りするわけにはいかないだろうな。拙ブログで、『大いなる助走』は何度も登場しているのに、本書にまで筆が及んでいなかったのは、ただワタクシが筒井康隆さんの本ほど、小林信彦さんのものを読んでこなかった個人的事情、以外には何もないわけでして。

 『悪魔の下回り』を語った文章は、おそらくたくさんあるはずです。たとえば藤脇邦夫さんは、

「この小説を読むと、誰しも筒井康隆の『大いなる助走』を連想することだろう。この二つの作品を並列して論じた評論もあったが、(引用者後略)(昭和61年/1986年12月・弓立社刊『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』「第三章 道化師の回帰」より)

 と、さらりと述べています。

 そうだよな、筒井作品では選考委員を殺すのは同人誌作家で、小林作品では、雑誌編集者だもんな。お互いの発表時期や発表媒体をながめてみても、前者は『別冊文藝春秋』第141号[昭和52年/1977年9月]~第146号[昭和53年/1978年12月]、後者は『週刊文春』昭和55年/1980年1月3日号~10月23日号だもの、比較したくなる心をよけい熱くさせてくれるしな。両者の作品にくわしい人たちが、すでに、いろいろと評してくれているんだろうなあ。ぜひあなたも、そんな評論を探して読んでみてください。

091011_2  で、身近なところで、前出の藤脇邦夫さんの評論本と、それから文壇揶揄小説の解説者としておなじみ(?)大岡昇平さんの『悪魔の下回り』文庫解説を読んでみまして、やや違和感をおぼえた人間が、ここにひとりいる、ってことをまず宣言しておきたいと思います。

「大体、この出版社(引用者注:『悪魔の下回り』を連載した『週刊文春』の発行元、文藝春秋)が主催する芥介賞(原文ママ)の明らかなモジリである(いや直木賞のニュアンスもある)青田刈賞(このネーミングを考えついた著者はエライ!)がこの小説では徹底的に糾弾(いや、もっといじわるいコキおろしといった方がいい)されているのだから。何か故意に(下線部は原文傍点)連載中止になればいいような意図があって、書かれているようにも思える。」(藤脇邦夫―前出『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』より)

「「青田刈賞」は芥川賞と直木賞をいっしょにしたようなものだが、私の芥川賞選考の経験では「根回し」はなかった。縁故や交友関係から有利になる程度である。」(大岡昇平―昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫『悪魔の下回り』「解説」より)

 ほお、本作の後半部のものがたりを支配する文学賞「青田刈賞」は、芥川賞と直木賞の混合とおっしゃる。

 そりゃあね、文壇、文学世界、の領域で、出版社が主催する薄汚れた賞(……おっと、失礼。)といえば、その世界にいる人も、あるいは普通の読者も、まずは「芥川賞」を思い浮かべるんでしょう。ネーミングも、あおたがり <-> あくたがわ、ってことですから、「青田刈賞」を構成する要素に「芥川賞」は外せない、って感触もわかります。

 でも、この「青田刈賞」って、意外に、現実の直木賞のほうと瓜二つじゃん。逆に芥川賞っぽい要素なんて、薄くないかい?

 悪魔(=挫折した文学中年・笹井に化けている)が、よろず評論家の首沢に、「どの賞がもっともショウ的要素が大きいでしょうか」と尋ねたところ。

「「それは、もう……」と首沢はにやにやして、「同朋社の青田刈賞だな。この賞は、純文学とか大衆小説とか区分けをしないので、数年まえまでは軽く見られていた。しかし、今の若者は、やれ文学だ、非文学だ、といった発想がない。〈面白ければいい〉〈面白い小説を読ませろ〉――これ一本だ。(引用者中略)この賞は、昭和十年代の代表作家、故青田刈甚輔の〈これからの純文学は、大衆小説の要素も持たなければならない〉という、当時としては破天荒な説にもとづいて設定されたものだ。あの説が、ようやく実を結んだというべきだろう」(『悪魔の下回り』「第八章 賞の周辺」より)

 常識としては、直木賞は「大衆文学の賞」ってことになっていますけど、実際は(少なくとも1980年代ごろまでは)全然そんなことなかった、っていうのは、ご存じのとおりです。

 かつては「直木賞=第二芥川賞」と揶揄されたとかされないとか、要は大衆文学の仮面をかぶって、机の下では純文学に手を差し出していて、さらにはノンフィクションからもエッセイ風散文からも自分の賞に取り込んでやろうと頑張っていて、ああ、まさしく「純文学とか大衆小説とか区分けをしない」姿。なんだ、青田刈賞って直木賞そのまんまじゃないですか。

 だいたい、『悪魔の下回り』では芥川賞のことは「芥川賞」として別に触れられていますしね。

 直木賞マニアの目から見れば、どう考えも本作は、直木賞っぽい賞を主たる攻撃目標として、そのまわりの事象を黒グロしい笑いで蹴っ飛ばしてやろう、としているとしか思えません。

 で、物語のなかでは選考会が近づくにつれて、もっともっと直木賞度は高まっていきます。

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«直木賞とは……当落はさして意味がない。多くの人に読まれるチャンスなのが重要なのだ。――吉村昭『一家の主』、津村節子『重い歳月』