2019年10月13日 (日)

鈴木光司、直木賞でさんざんな評価を受けた作品がハリウッド映画になる。

 平成8年/1996年なんてつい最近のハナシじゃないか……と感じるぐらいには、ワタクシもれっきとした爺いですけど、すでにそのころの直木賞というと、人気の出はじめた若手作家が候補ラインナップに勢揃い、という様相を毎回のように見せていました。

 第115回(平成8年/1996年・上半期)で落選した4人の作家は、いずれもエンタメ小説界を賑わしていた有力作家ばかり。一度の候補でとれなくても活躍をつづける候補者が多い、というのが直木賞の特徴ですので、そのなかの篠田節子さん、浅田次郎さん、宮部みゆきさんは、まもなく直木賞を受賞することになります。

 この回の候補で、たったひとり、けっきょく直木賞受賞者にはならなかったのが鈴木光司さんです。他の人たちに負けず劣らず、このころの鈴木さんといえば、人気の爆発具合は相当なものでした。

 とくにデビュー2作目の『リング』(平成3年/1991年6月・角川書店刊)が、平成5年/1993年4月に創刊した角川ホラー文庫の一冊としてラインナップを飾ると、いよいよ和製ホラーブームが到来したぞ、という旋風の中心に置かれるほどに売れに売れ、その続編の『らせん』(平成7年/1995年7月・角川書店刊)もまた、読者たちに好評裡に受け入れられます。そしてまもなく直木賞候補に選ばれた『仄暗い水の底から』(平成8年/1996年2月・角川書店刊)は、こんな何ということもない小説がどうして候補になったんだ、もっといい作品で候補にしてあげればいいのに、と言われたりした鈴木さん6作目の小説です。

 確実にこの作家には風が吹いている。さしもの出足の遅い直木賞も、これは見逃せずに候補にした、という流れでしょう。しかし残念ながら、その候補作があまりに落ち着いた雰囲気の作品で、べつの表現でいえば、そこらへんの小説誌によく載っていますよね、という短篇を、「水と恐怖」というわかったようなわからないような、テーマ設定でくっつけ合わせて連作集のかたちに仕立てた一冊だったため、選考会での評判はまったく芳しくなく、あっさりと落選のほうに仕分けられてしまいます。

 さて、そこからが話のスタートです。鈴木さんとその候補作は大きく羽ばたきます。羽ばたいて羽ばたいて、日本を飛び出します。

 〈リング〉シリーズの第3作は舞台をアメリカに設定、そのための取材旅行で鈴木さんが渡米するのは直木賞落選の平成8年/1996年でしたが、そこから完成したのが『ループ』(平成10年/1998年1月・角川書店刊)です。また、小説家として売れてくると、昔の夢を実現させるテイのお仕事も生まれてくるようで、平成11年/1999年秋には、集英社と組んでアメリカ大陸をバイクで横断。『小説すばる』平成13年/2001年1月号~7月号に連載され、『地球を走る アメリカ横断オートバイ旅行記』(平成13年/2001年8月・集英社刊)というコンパクトな一冊になります。

 昔から鈴木さんは小説家になることを目標に生きてきた、学生の頃にはフィッツジェラルドのような作家に憧れていた、ということだそうです。おれもいつか巨万の富を得て、高級ホテルでパーティとかしながら、豪華な浪費生活を謳歌してやるぜ。……という作家への憧れ方は、一面なかなかイタい感性に見えるところですが、誰がどんな夢を持とうが、それは自由です。

 そのころから鈴木さんは、からだを動かし、あちこちに足を運ぶ行動派。小説を書くのに最も大切なのは自分の経験を増やすことだ、と考えて、大学時代のときにはアメリカ横断を計画します。しかし先立つものがなく、協賛でも宣伝でも企業をバックにつけなければと、大学卒業後の昭和58年/1983年、横断旅行をしながらそれを小説にして雑誌に連載する、というずいぶん虫のいい企画書を書いて、バイク雑誌の『モトラード』に売り込みます。けっきょくこの企画は実現せず、あきらめきれない鈴木さんはとりあえず友達たちといっしょにアメリカに渡り、レンタカーとバスを使いながらロサンゼルスからニューヨークまで旅をしますが、いつかはバイクで横断してやるぜ、という夢は胸に秘めたまま時を過ごします。

 作家になるまえから鈴木さんの頭のなかには、日本の土地だけにとどまらない、のびやかな世界が広がっていたようです。それも含めて、直木賞ももう少し、鈴木さんの雄大さが発揮されたような作品を、候補にすれば面白かったのにな、と悔やまれるところですが、ここら辺りはもう、時の趨勢に縛られなければ生きてはいけない直木賞の限界です。

 あげるチャンスを逃してしまうと、直木賞に取り戻しはききません。過去はもちろん今後も直木賞は、その性質上「あげそこね」を繰り返していくことは確実ですので、あんまりそのことをグダグダ言うのはやめておきたいと思います。

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2019年10月 6日 (日)

結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。

 直木賞をとったのに、直木賞のピラピラ・テカテカした雰囲気に一向に染まらなかった人は、80余年の短い歴史のなかでも山ほどいます。

 山ほどいる、ということは、それこそが直木賞の本質なのでは、と思うところですが、しかしだいたい文学賞といえばピラピラ・テカテカしているもの、という固定観念から抜け出せない人もまた、世のなかには山ほどいます。とりあえず、こういう掛け違いが直木賞を面白くしてくれている現象のひとつですから、それはそれで静かに放っておくのが一番です。

 第63回(昭和45年/1970年・上半期)に受賞した結城昌治さんなどは、明らかに染まらなかったほうの人でしょう。

 いちおう「テレ屋だったから」というふうになっていますが、直木賞のお祭り騒ぎとか、受賞しそうな人にベタベタ寄りつくジャーナリズムがわずらわしく、そういう関連の雑誌、週刊誌の事前の原稿依頼はすべて拒絶。受賞式のときには、恥ずかしいから来るなといって奥さんの出席をやめさせ、賞をとったからって何も変わるわけじゃない、自分のペースで自分の書きたいものを書く、と公言する。……染まらなさがあまりにスマートすぎて、逆にイヤミすら感じさせますが、「直木賞は文学賞として面白いですよね」と話を振っても、まず通じない感性の作家ではなかったかと思います。

 そもそも『ゴメスの名はゴメス』(第47回 昭和37年/1962年・上半期)、『白昼堂々』(第55回 昭和41年/1966年・上半期)と、この2作で受賞せず、「軍旗はためく下に」なんてもので受賞してしまうところが、型通りのスマートさが出ていて、何ともイヤミです。……いや、これはほとんど結城さん自身の罪じゃありません。直木賞の問題です。

 結城さんが推理小説作家としてデビューしたのは、昭和34年/1959年のこと。あれも推理物、これも推理物、という感じで出版界はてんやわんやの推理物ばやりで、中間・大衆文芸の界隈だけならまだしも、純文芸の方面にまで火ダネと騒ぎが広がっていったという、いまとなっては羨ましいぐらいの盛り上がりを見せましたが、文藝春秋社の編集者たちも、これはと目をつけた作家の推理物があれば、直木賞の予選をぞくぞくと通過させていきます。そしてたいがい最終選考会で落とされる、という展開が続くうちに、推理物では直木賞はとれない、などというホントのようなデマのような話が出版界を飛び交いました。

 そんななかで早川書房の日本ミステリ・シリーズの一巻として結城さんの『ゴメスの名はゴメス』が刊行されます。推理物(というかスパイ物)とはいえ、これが直木賞の予選を通過した理由は、もはや誰にもわかりません。もしくは「文学的にすぐれた作品だから」というあやふやな評価基準に適っていたからだ、と言うしかないんでしょう。しかしこの作品を傑作たらしめているゆえんといえば何でしょうか。舞台を日本に求めず、南北に分裂中だったベトナムに設定したところです。

 海外でいままさに起きている紛争は、一般に親近感を持ちにくい。いっぽうで、ベトナムが南北に分かれ、現実にスパイが暗躍している状況は、かつてこの地を侵略した日本や日本人にとっても無縁ではなく、いまの日本と地つづきでもある。……という結城さんの問題意識が作品の骨格を支えています。

 遠いようで近い、近いようで遠い、というこういう物語の設定は、大衆文芸や娯楽小説、エンタメ小説にとっては欠かせない要素かもしれません。そしてこれがあまりに離れすぎると、すぐに文句をいう選考委員が出てくる……という場面は直木賞ではおなじみの光景ですけど、そのスレスレを責めたがる予選の選考が、直木賞にはときどき現われることがあります。

 しかも『ゴメス』は、昔の海外をノスタルジックに描くわけではなく、時事性を備えている強みがあります。ホットでナウ。直木賞にとっては、そうとう意味のある候補だったと思います。

 ちなみに第47回の直木賞では、この候補作はさほど評価が高くなく、あっさり落とされました。いわく面白いといえば面白いが、それだけのもの、いわく後半の解決に難あり、木々高太郎さんあたりは「ソマセット・モームを学ぶ必要がある」とか何とか、木々さんお得意の、偉そうな知ったか選評で切り捨てるありさまです。

 木々さん辺りは、同じ推理小説作家であっても、賞があれば得はあっても損はない、どしどし目指すべきだ、という感性の人で、結城さんとはとうてい相容れないものがあったでしょうけど、この選評を読むだけでも、結城さんのやりたい創作は直木賞とは性が合わなそうだな、と感じます。

「別に賞をもらおうと思って小説を書いているわけではありませんからね。

私は、直木賞の時も別段これといって感じませんでした。実は、私は直木賞の候補になって二回落ちたことがありまして、もう直木賞は素通りだと思っていたのです。」(『小二教育技術』昭和60年/1985年7月号「作品の価値は賞を受けたか否かではない 作家結城昌治さん」より)

 と結城さんは、後年、吉川英治文学賞を受けたときに言っています。賞なんて自分の創作活動に何の関係もない、と言いたかったんでしょうが、でも、ああいう選考をされたら、まあおれのものは受賞できないだろうな、というあきらめが芽生えたとしても仕方ありません。

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2019年9月29日 (日)

石野径一郎、通俗小説で汚れた自分の筆で、沖縄戦のことを書いていいのか思い悩む。

 「海を越える」の意味を「外国に行く」というふうに限定しなければ、ハナシはいくらでも広がる気がします。もはやこのブログテーマ自体、内容が茫洋としてきて、別に何を書いても構わないんですけど、とりあえず「海を越えた体験が、作家的な履歴のなかで重要な位置を占める、直木賞の候補者たち」という路線は外さずに進めたいところです。

 しかしそうは言っても、地勢的・歴史的な事情から考えて、「海外」の範囲のなかから琉球・沖縄を除くわけにはいきません。

 文学史全体でもそうでしょうが、直木賞でも同じです。沖縄に関する小説は、どこか身近な現代物という枠を超えた、異国情緒とも言いがたい独特な位置づけの小説として候補に挙がり、つい最近、真藤順丈さんの『宝島』(第160回 平成30年/2018年下半期)が受賞するまで、挙げられては落とされるという悲しい歴史を刻んできました。

 その歴史の最初に出てくる作家というと、第36回(昭和31年/1956年・下半期)に『沖縄の民』で直木賞候補になった石野径一郎さんです。

 文学賞とはとんと縁のない石野さんですが、戦前の同人誌時代からコツコツと小説修業を積んだその成果が、思わず花ひらいたのは、何といっても昭和25年/1950年刊行の『ひめゆりの塔』です。沖縄が負わされた悲劇的な歴史に対する作者の情熱がほとばしっていたのはもちろんのこと、衝撃的な素材と、昭和28年/1953年に公開された映画のおかげで、原作者石野さんに対する世間的な注目が一気に増します。

 そこに来るまで石野さんがどんなことをしていたのか。ちょっと時間を巻き戻して、石野さんが「海を越えた」頃から追ってみます。

 明治42年/1909年に沖縄県那覇市(当時・首里区)で生まれた石野さんは中学まで沖縄で育ったあと、16歳で単身東京に渡りました。大正15年/1926年春のことです。東京には先に叔父が出てきていて、高円寺で男二人、共同生活を営みながら、働くかたわらで学校に通い、勉学に励んだといわれています。以降、基本的には東京で結婚相手を見つけ、式を挙げ、家を見つけて生活を送るという、東京の住民となりますが、当然といいましょうか、心は常に琉球人。とくに戦中、戦争末期に及んで故郷の沖縄が戦場となって、同胞の民たちが戦いに巻き込まれていく様子を、遠く東京や、疎開先の石川県小松で知るたびに、じゅくじゅくと心を痛ませます。

 やがて戦後が訪れますが、石野さんはすぐに沖縄の傷跡のことを書ける状況にありません。まずは夫婦と子供2人、一家四人の住まいを確保しなければならない。ということで、変名で通俗小説を書き殴り、三文雑誌の編集を手伝って、まさしく糊口をしのぐことに力を尽くします。

 しかし沖縄に対する愛惜を忘れられるわけもなく、昭和24年/1949年、たまたま沖縄の先輩でキリスト教関係の人からひめゆり部隊の資料を渡されたことをきっかけに、これを小説にしてみることになるのですが、そのときに石野さんのなかで葛藤が渦巻いたそうです。それは、低俗な読みものにさんざん書いて手を汚したおれが、あるいは宗教のことを馬鹿にしていたおれが、どんな顔してこれを書けばいいんだ、という悩みでした。

「さて、私は沖縄戦を小説にかこうとして、又もや考えさせられた。それは、自分の名が、自分の心が、生活のためとはいえ、低俗なストーリーテーラーで汚れていることに絡んだ。宗教を軽蔑していた頃の言動にもひっかかった。しかし、一方、故郷は牢屋の中だ。他人事ではないと叱咤する内の声を絶えず耳のそばできいていた。」(『民主文学』昭和45年/1970年8月号 石野径一郎「遙かに獄中の故郷を望む心」より)

 だいたい沖縄のことをいかように書こうが、それに文句を言う奴のほうが狂っている、とも思いますけど、どんなチッポケなことでも世間はいつも、文句、文句にあふれていますし、沖縄の歴史や実状となれは、これはチッポケなことでもないので、よけいに悩む対象でしょう。しかし、ここで石野さんが、通俗小説を書き散らしたという自分のなかの恥を振り切って、ドキュメンタルに沖縄とそこに生きた人たちを描く道に足を踏み出してくれたおかげで、ゆくゆくひとり直木賞の候補者が生まれるのですから、直木賞ファンとして諸手を挙げて喜びたいと思います。

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2019年9月22日 (日)

安西篤子、小学生のころに中国・営口で見た光景が、めぐりめぐって直木賞。

 人というのは、だいたい人それぞれです。これまで直木賞の候補になった人はたくさんいますが、一人ひとりが個別の事情を抱え、そこに傾向なんてものはありません。それでも「直木賞」に関わりを持った、あるいは持たされた、という一つの共通点だけを軸にして、何の傾向も見えない人たちのことを調べてみる。……やはり傾向なんてありません。

 先週、上海の生島治郎さんのことを取り上げたいと思って『私の父 私の母』(平成6年/1994年10月・中央公論社刊)というエッセイ・アンソロジーを読んでいたら、ちょうど生島さんの一つ前に安西篤子さんが載っていました。そういえば安西さんも、海を越えた直木賞の人です。

 昭和53年/1978年10月、尾崎秀樹さんを団長として文芸関係者による訪中団が組まれます。そのとき、生島さんも安西さんも一行に参加しましたが、ともに上海で幼少を過ごした、という似たような境遇の持ち主でした。

 生島治郎と安西篤子。その文業からは、とうてい近いところにいた作家とは思えませんけど、あちらは第57回(昭和42年/1967年・上半期)、こちらは第52回(昭和39年/1964年・下半期)。60年代なかばの短い期間に、ともに直木賞を受けた二人であることはたしかです。しかも、どちらも受賞したときは既婚者だったのに、受賞後に離婚を経験することになるという、これはまあどうでもいい共通点ですが、多少の縁があると言えなくもないでしょう。今週もまた、上海に縁がある直木賞受賞者のハナシを続けることにします。

 もうひとつ生島さんと安西さんの似た点を挙げるとすると、安西さんが海外に住んだのは、生島さんと同じく父親の仕事の関係だったということです。

 安西さんの父親が勤めていた横浜正金銀行は、古くから国内だけでなく世界各地に支店をもち、安西さんが大人になるまでに暮らした土地は、ほぼこの父親の勤め先の事情によって振り分けられた場所になります。昭和2年/1927年8月、とくに安西家にゆかりのない兵庫県神戸市で篤子さんが生まれたのも、たまたま父親の任地だったからですし、同年11月末、まだ首のすわらない安西さんを抱いた両親が、神戸港からマルセイユまで運航する日本郵船の伏見丸に乗って海を越えたのも、父親がドイツのハンブルグへ転勤することになったからです。

 小学校に上がる直前まで、ハンブルグとベルリンでそれぞれ3年ずつを過ごします。「私の子ども時代」(昭和54年/1979年9月・家の光協会刊『泣かない女』所収)によると、経済的に恵まれた環境のなか、自由な気風の両親のもとで、何ひとつ不自由に思うことなく育てられた少女時代、これがそのまま続けば何ものからも抑圧されず、のびのびと育って、別の方面で活躍する人になったかもしれません。

 それが違う局面に転じるのは、6歳のときに父の転勤で、はじめて東京にいる祖母たちと暮らすことになったときです。ここで安西さんは、祖母から「女の子らしくしろ」「女の子なんだから」と、さんざん旧弊な女性像を押しつけられます。これまでの海外生活ではまず遭遇することのなかった、「女らしく生きる」というかたちを他人から強要される文化。安西さんのからだのなかに強烈な違和感として残ります。

 東京での暮らしはまもなく終わり、ふたたび神戸に移ってそこで小学校に入学しますが、すぐにまた優秀な銀行マンの父に転任の命がくだったことで、海を渡ります。赴いた先は中国の天津。そこから上海、営口、青島と足かけ7年にわたって大陸の街で過ごし、まだ日本が戦争をやっている最中に帰国しました。安西さんが女学校二年のときです。中国で見聞したあれこれは、自伝的な小説『黄砂と桜』(平成13年/2001年1月・徳間書店刊)のなかに生きています。

 ついに日本が戦争をおっぱじめるという、多くの人の人生を変えた衝撃の事態に遭遇したのが、上海にいたときです。さまざまなことに興味をもち、自我の芽生えをはぐくんだのが、違う国の人たちに囲まれた中国での小学校生活。その後にまた、余人にはわからない種々雑多なことを経験することになり、やがては母親に反対されながら小説の筆をとることになるわけですが、安西さんにとって忘れがたい重要な土地となれば、少女時代を過ごしたドイツもしくは中国です。と、これは本人もいろんなエッセイに書いています。

 もちろん、ドイツや中国で成長期を送った人が誰もかれも作家になるわけではありません。日本に戻って女学校に通い、20歳そこそこのときに両親のすすめで、とくに好きでも嫌いでもなかった男性と結婚、一男一女をもうけるうちに小説を書きたくなって、中山義秀さんに読んでもらうようになり、鎌倉を中心に出されていた同人誌『南北』に加わって、何だかわからないうちに直木賞を受賞、というなりゆきも、とくべつ何の傾向にも当てはまりません。はっきり言って安西さんしか経験していない、独特な一本道です。

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2019年9月15日 (日)

生島治郎、上海で気きままに生きていたころの父に親しみを覚えて、小説を書く。

 先週は、上海の小泉さんを取り上げました。せっかくのつながりなので、今週も上海の小泉さんのことで行きたいと思います。

 生島治郎、本名は小泉太郎。たぶん小泉譲さんとは赤の他人で、血縁関係などないはずです。

 あちらは大正2年/1913年に埼玉で生まれた戦前からの文学派、こちらも早稲田大学にいたころまでは純文学志向の強い人でしたが、社会に出てからは一転、そんな青臭い文学観から解き放たれて娯楽街道を突き進み、譲さんとはまったくかけ離れた領域で活躍します。そんな両者の接点といえば、苗字の一致、直木賞の候補になったこと、そして上海との縁です。

 小泉譲さんの直木賞候補作に「死の盛粧」(第22回 昭和24年/1949年下半期)という小説があります。上海を舞台にして日本人たちが走りまわるちょっとした冒険小説モノです。いっぽう生島さんは、上海に根を生やす日本人を主人公とした『黄土の奔流』という活劇モノで第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補になりました。

 ……なりました、というか、「どうして『黄土の奔流』で生島治郎に直木賞をあげておかなかったんだ」問題は、直木賞史のなかでも特別に珍妙な授賞回として大きな傷を残していて、そうだよね直木賞だっていくらでも失敗をやらしますよね、というその代表的な例として知られています。

 大正期のころに中国で生活していた日本人のたくましさは、『黄土の奔流』でふんだんに味わうことができますが、これを書くに当たって生島さんが取材したひとりが、実の父親です。当然、この父親がいなければ『黄土の奔流』はあれほど面白い小説にならなかったでしょう。そもそも作品が生まれることもなく、生島さんが直木賞候補になる機会だってなかったかもしれません。生島さん自身が各所に書き残し、よく知られているハナシっぽいですけど、やはり「海を越えた直木賞」のテーマに、この作家、この作品のことは外せません。

 明治29年/1896年、大阪で貿易商をやっていた家に、小泉辛吾さんが生まれます。商売人の父親がかなり年を行ってからの子供だったそうで、子供の頃から京都の親戚にあずけられた辛吾さんは、そこで京都一中に進みます。成績は優秀、試験を受けなくてもそのまま三高に入れる、というぐらいの出来のいい学生だったらしいんですが、ちょうど親が裁判沙汰に巻き込まれたことをきっかけに商売が傾きはじめ、学費も払えない、というぐらい苦しくなったこともあり、年の離れた長兄を頼って上海に渡ります。これが辛吾さん18歳のときだった、というので大正3年/1914年ごろのハナシです。

 「やり直し夫婦」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収)によると、辛吾さんの長兄は、父親の商売の上海支店のようなかたちで同地で商いを営んでいた、ということで、はじめはその庇護の下に置かれますが、血気盛んで行動的な辛吾さんは勝手にいろんな商売に手を出します。『黄土の奔流』に出てくるように、揚子江をのぼって重慶まで歯ブラシ用の豚の毛を買い集めに行ったのもそのころのこと。だいたい20代の時期に当たります。

 のちに生島さんは、父親の逸話のなかからこの時代をチョイスして小説のネタに使おうと考えたわけですけど、そこが面白いところだと思います。この小説を書いたころ、生島さんも20代を終えてようやく30歳前後になったばかり。無鉄砲な20代の人間がかもし出す、無鉄砲さゆえの熱情と悲しみがあることを、ひしひしと我が身に実感していたはずです。

 さらに後年、生島さんはやはり自分の20代のころを、回想記のような小説『浪漫疾風録』(平成5年/1993年10月・講談社刊)に書き残します。時代とか場所とか、登場する人物像はみなまちまちですが、若いうちのムチャクチャな無軌道というものに、娯楽小説には欠かせない興奮と悲哀の要素がおのずとまといつくことを、生島さんは作家になりたてのときから早くもつかみ取っていたのでしょう。

 生島さんの父、辛吾さんが、家族から眉をしかめられるような不安定な生活をしていたのは、生島さんがまだ生まれる前のことです。いや逆か。辛吾さんは30歳で上海で結婚、家庭をもちますが、そういう道に変わっていなければ、生島さんも生まれていなかったかもしれません。

 生島さんの表現によると、こうなります。

「三十歳の時、母と家庭をもったことをきっかけに、父はそういう浮き沈みのはげしい職業から足を洗い、いわば堅気の勤め人になることに決心した。彼はもう一度勉強し直して米国系資本の上海電力という会社の技師として入社した。そこで日本人としては異例の幹部になり、第二次大戦と同時に米英人の幹部たちが収容所に収容されると、事実上の支配人となった。

昭和二十年二月まで、われわれの家族はなに不自由ないぜいたくな生活を送っていた。」(『文藝春秋』昭和42年/1967年10月号 生島治郎「青春は風太郎とともに」より)

 しかし、贅沢な生活のなかで育った生島さんは、戦争の激化を機に敗戦まぢかの日本に引き揚げ、そこから苦難の青春時代を送るうちに、けっきょくその「浮き沈みのはげしい」生き方に心を寄せ、自身もそういう生き様を展開していくことになります。

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2019年9月 8日 (日)

小泉譲、上海で働くあいだに同人誌に参加、そのまま敗戦を迎える。

 丹羽文雄門下=『文学者』のハナシとなると、だいたい一世代、二世代まえの、おそろしく古びた臭いが出てしまいます。その割りによく知られた集団なのは間違いありませんから、昭和の文学同人誌を語ろうとすると触れないわけにはいかず、話題としてどこか手垢のついた感が否めません。

 先週の林青梧さんも『文学者』で注目された作家でした。つづいて今週もまた、この集団のなかの直木賞候補者のうち、海を越えた先の土地と縁のあった人を取り上げたいと思います。小泉譲さんです。

 大正2年/1913年に埼玉県で生まれた小泉さんは20代前半のころ、つまり昭和10年代のはじめ、丹羽文雄さんが文壇に現われてまたたく間にその寵児となっていくころには早くも直接の交流をもち、小説に関するアドバイスなどを受けていたそうです。小泉さんの所属していた同人誌は『三角州』という、もう無名中の無名な一誌ですが、丹羽門下と呼ばれる人のなかでも、ずいぶん早い時期から謦咳に接していたことになります。

 慶應高等部を中退したあと、どういう流れからか内務省の検閲係に勤務。作家や文化人の書くものを取り締まる、はっきり言ってほとんど尊敬されない立場の役人として俸給を得ていましたが、やがて満鉄調査部に移って海を渡ることになります。昭和14年/1939年には同社の上海事務所に籍を置いていた、とのことです。

 満鉄調査部の一員として上海で生活する日本人。ということで、ぐいぐいと大陸に進出して支配圏を広げることを国の方針としていた当時の情勢のなかで、文学青年だった小泉さんは、〈外地〉の上海で何とか楽しく過ごしながら、精神的に満たされないものを感じます。そこで現地で同人誌をつくったり、国の方針を越えて中国の作家たちから学ぼうとしたり、さまざまな活動に取り組みます。

 『評伝 丹羽文雄』という小泉さんの著作があります。ここでは著者本人のハナシはほとんど出てきませんが、その当時上海で接した中国人作家と日本人作家の印象が、ほんの少し書き残されています。

「私は当時、上海にいたので、上海にやってきた(引用者注:日本の)有名作家の上海でのふるまいはよくみている。「大東亜文学者大会」などに顔をつらねていい気になって、知りもしない奥地中国文学の在り方をボロくそにいったり、中国文化の低さについて弁じたり、それも酒の肴にいうのだからきいているわれわれの方が辛い思いだった。上海にひっそりと生きている中国の作家の中にも大東亜文学者大会などには顔を向けなければ、生活に困りながらも、奸漢雑誌には書こうとしないで頑張っている人々も相当にいた。私たちはそういう人を探し当てて話し合い、いろいろと教えてもらったものである。今にして思っても学ぶところが多かった。(引用者中略)だが、日本からやってきた先生方からほとんど教わるものはなかった。余ほど日本では酒に不自由していたとみえて酒ばかり呑み歩き、つまらぬ中国の女流作家を追いかけて騒ぎまわっていたような有名作家の日常などには嘔吐を感じた。」(昭和52年/1977年12月・講談社刊 小泉譲・著『評伝 丹羽文雄』「9 文学的昏乱と絶望」より)

 日本から行った連中が、あまりにも唾棄すべき手合いばっかりだったのかもしれません。小泉さんは懸命に嘔吐に耐え、自分がいまいる場所で学ぶべき生活、学ぶべき人生を送る人たちと接しながら、少しでも嘔吐的でない文学の波を起こそうと小説を書きます。

 そのなかのひとつが昭和18年/1943年に発表された「桑園地帯」という、小泉さんの名前が、多少日本の文学者のなかで知られるきっかけとなった作品です。これが芥川賞の候補になり、落選します。そのおかげで、戦後、小泉さんが商業誌にたくさん書くようになった何篇かを、今度は直木賞が候補に挙げることができるようになったのですから、直木賞にとってはよかったと言いますか何と言いますか、小泉譲の運命をにぎった代表作、と言っておきたいと思います。

 掲載されたのは『上海文學』という同人誌です。発行所は上海で結成された上海文学研究会で、発行者兼編集人として武田芳一さんの名が上がっています。この人ものちの直木賞候補者ですけど、それはともかく脇に措くとして、発売元となったのが上海の内山書店でした。小泉さんものちに『魯迅と内山完造』(昭和54年/1979年6月・講談社刊)という本を書き下ろしたりしていますが、「大東亜文学者大会」みたいな官製のウソっぱち国際交流とは対極にいるような、民間の立場からひとりひとり現地の文学者たちと触れ合うところに交流の基盤を置いた内山完造さんが店主を務める、内山書店です。

 こういうところにも、上海にいた小泉さんが自分の尊敬できる人たちと交流を広げ、互いに草の根の文学活動をつづけていたことがうかがい知れます。芥川賞も、こういう雑誌から候補にするだけじゃなく、受賞作を出すところまで行っていれば、少なくとも小泉さんののちの作家的歩みも違っていたんでしょうけど、小泉さん自身、これが芥川賞の候補になって落選したことを「まあそれは余談でどうということはない」(平成2年/1990年5月・批評社刊『上海物語 第一部 顔のない城』(下)「思い出のアルバムII」)と書いていますし、おおむね落選は芥川賞の責任でもあるので、ワタクシの関知するところではありません。

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2019年9月 1日 (日)

林青梧、中学時代に朝鮮平壌で終戦を迎えて、命からがら日本まで逃げ帰る。

 令和1年/2019年9月現在、まさにいま、リアルタイムでホットな海外といえばどこでしょう。韓国ないしは朝鮮、ということになります。

 とまあ、これは別にいまだけのハナシではなく、直木賞が続いてきた80余年のあいだ、ほとんどの時代でホットな話題の中心にあった海外です。いまさら感が満載すぎて、ホットだホットだと叫ぶのも恥かしいくらいですが、とくに朝鮮半島のあれこれに終生関心を燃やした日本人の作家のうち、直木賞の候補者が何人かいます。今回取り上げるのは、そのなかの代表的なひとり、林青梧さんです。

 林さん、本名・亀谷梧郎さんは昭和4年/1929年11月生まれ。場所は朝鮮半島北部の片田舎だったらしいです。

 当時、半島一帯から大陸の一部にかけての、そのあたりの地域は日本の支配下にあり、岐阜の出身だった林さんの両親も、大正7年/1918年、開拓移民として日本から海を越え、そこに住まいを構えた人たちでした。父親は土地会社の社員だったそうです。

 日本の治政のもとにあった朝鮮の地、多感な少年時代を過ごした林さんですが、徐々に人間としての性格と精神性がはぐくまれてきた15、16歳にいたったときに、その後の人生を変えてしまうほどの、なかなか強烈な体験に見舞われます。昭和20年/1945年8月。戦争していた日本が全面降伏したことです。

 林さんは平壌中学4年に在学していました。日本の降伏が決まると、平壌でも一気に建国の準備が進みだし、たちまちのうちに多くの機関が停止、閉鎖、あるいは接収。林さんには在学証明書なるものが渡されたきり、中学校もいきなり解散して、ああ明日からおれはどこに行けばいいんだよ、という立場に落とされます。子供だけじゃありません。まわりの日本人たちのあいだでも、いったいこれからどうなるのか、噂や蜚語が飛び交います。みな右往左往です。

 亀谷家では、父の判断でここは日本に戻ろうということに決まり、引揚げの準備を始めます。林さんの長兄はすでに満鉄に勤めていて不在。次兄は九州の大学に在学中。彼らを除いて、結婚した姉、その下の家にいる姉、末っ子で中学1年の弟と両親、家族みなで日本まで帰るのに、父親を補佐するような頼りになるオトコ手といって、急激に責任感にかられたのが、15歳の中学生、林青梧さんだったわけです。

 日本人ではありますけど、日本なんてまだ見たこともありません。そんな少年が、急にまわりは敵ばかりになり、敗戦国人の扱いを受けながら約1年ほどをかけて朝鮮の北部から仁川港までたどり着き、日本引揚船に乗るまでの艱難辛苦の体験は、明らかにその後の林さんの人生を変えてしまいます。

 のちに林さんの処女作となる小説「脱出」から、芥川賞の候補に選ばれて落選作でありながら『文藝春秋』に転載された「ふりむくな奇蹟は」など、林さんの作家人生はこの朝鮮北部からの強烈な逃避行体験を描くところから始まります。「原点」と言うと、なんだかカッコつけた感じがあってイヤですけど、生まれてからある程度の年齢まで朝鮮で移民として成長したことと、そこからの困難極まる逃亡が、林さんに異様な熱をもたせて、小説執筆への筆をとらせた大きな背景だったことは、まず間違いありません。昭和20年代、東京都立大学在学中から、自身の朝鮮での経験をモチーフに創作を始めます。

 基本的に、こういうマジメな文学への情熱は、純文芸のほうに向かうもののようです。そちらの界隈でガヤガヤやっていてもらえればいいと思うんですが、ほんとに余計な手を伸ばすのが好きな文学賞に「直木賞」というものがあります。どうせ多くの無知蒙昧な読者たちに読ませるだけの軽い大衆文芸のための賞でしょ、という大半のイメージなど気にもせず、ついつい手を伸ばした先に、やはり林さんもひっかかって、昭和33年/1958年から3度の芥川賞候補のあと、第46回(昭和36年/1961年・下半期)、第51回(昭和39年/1964年・上半期)、第63回(昭和45年/1970年・上半期)と3回も直木賞の候補に挙げられました。

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2019年8月25日 (日)

醍醐麻沙夫、表現欲が高まった末に、ブラジルから日本の新人賞に小説を応募する。

 海外に渡り、海外で小説を書きはじめ、海外在住のまま直木賞の候補になった人がいます。醍醐麻沙夫さんです。

 それで受賞していれば確実に「直木賞、海を越えた」ということで、世を挙げての大騒ぎになったと思いますが、世を挙げようがそうでなかろうが、文春社員の予選委員たちがこの人を予選通過させた段階で、直木賞はもう海を越えています。今回はブラジル日系作家の雄、醍醐さんのおハナシです。

 昭和10年/1935年に生まれた醍醐さんは学生のころから音楽にハマり、クラリネットを吹いたりしていましたが、いっぽうで学生運動にも参加。学習院大学に通っていたちょうど最後のほうは、日本では60年安保をめぐる、何が善で何が悪なのか、誰が味方で誰が敵なのか、混然とした状態に多くの若者たちが刹那的に熱狂していたころに当たります。醍醐さんもその運動に加わり、国会議事堂前のデモに身を投じたりしたそうです。

 そんな頃合いの昭和35年/1960年に大学を卒業、ほぼすぐに醍醐さんは単身、おそらく未来の展望など何もないままでブラジルに渡ります。たしかに深い未来像などなかったんでしょう。横浜で生まれ育ち、港を行き来する外国船が目の前にあった、つねに身近に外国の風を感じていたわけだから、学校を出たら外国に行ってみる、というのはなかば自然な行動だった、と醍醐さんは書いています(平成8年/1996年4月・つり人社刊『アマゾンの巨魚釣り』)。あるいは『「銀座」と南十字星』(昭和60年/1985年8月・無明舎出版刊)の「あとがき」では、別にブラジルに長くとどまるつもりはなかった、とも述懐しています。

 ところが人生というのは恐ろしいです。何気なく渡ったブラジル、そこで出会ったアマゾンの風物や、日系移民を含めたさまざまな人たちに関心が深まるままにズブズブと、醍醐さん自身、移民となってブラジルに住みつきます。のちに醍醐さんが、現地のことを現地の人間の感覚で語れる日本人の書き手、という得がたい立場になっていくのは、多少は狙ったところもあったかもしれませんが、おおよそは偶然の産物でしょう。

 さて20代でブラジルにやってきた醍醐さんですが、最初はやはり自分の得意とする音楽の世界に入ります。ナイトクラブでピアノを弾くという職をゲットし、数年間働くうちに、サンバやボサノバを身につけます。しかしどうやら、このままやっても駄目だな、と夢を追うことをあきらめたのが、だいたい30歳を迎えるか迎えないかのころ。きちんとした職に就こうと、玩具輸入商会に外交員として就職しました。ここでの見聞が、のちにオール讀物新人賞に応募した「「銀座」と南十字星」という小説に活かされている、といいます。

 しかし、おそらく人に使われる会社員生活に馴染めなかったものか、1年ももたずに辞めて、自前で画廊をオープン。経営が立ち行かず火の車。若者向けファッションの店をオープン。こちらは成功してようやく収入に恵まれた生活を手に入れることになります。

 金は稼げるようになった。高級住宅街にも住めるようになった。だけど、それがいったい何なんだ。……と、どうにも満たされない思いを抱えてしまったところに、醍醐さんの人となりが現われているんでしょう。そんな折りにサンパウロの日系社会のあいだで『コロニア文学』という同人誌が創刊されたことを知り、なるほど小説か、それなら自分の表現欲を満たせるかもしれない、と思ったそうです。昭和41年/1966年。醍醐さんが31歳のときでした。

 おれの青春放浪もひと区切りだ、自分の経験をもとに小説としてまとめて発表してみよう。ということで、醍醐さんが『コロニア文学』に参加したのは創刊2年後の昭和43年/1968年7月刊(第7号)から。処女作が存外の好評を得たことで醍醐さん自身も、背を押されたところがあったはずです。表現欲もぐんぐん高まり、成功して儲かっていたはずの事業を思い切って放棄。これからも小説を書き続けるために自由な時間と環境を求めて、海辺の村に日本語教師の職を見つけます。

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2019年8月18日 (日)

神崎武雄、南シナ海の洋上で沈没した戦艦に乗り合わせ、命を落とす。

 今年もまた8月がきました。毎日が暑いです。こんな季節に海外のことを書くとなれば、中国大陸や太平洋を舞台にした例の戦争に触れないわけにはいきません。直木賞にとっても無関係とは言えない戦争です。

 昭和10年/1935年に始まった直木賞は、戦中の第20回(昭和19年/1944年・下半期)までに15人の受賞者を出しました。そのなかにあって戦争で命を落とした人がひとりだけいます。神崎武雄さんです。

 明治39年/1906年生まれの神崎さんは、早稲田の文科で学びながら途中で退学、その後に『都新聞』に勤めます。もとより作文が大好きで、ゆくゆくは物を書く仕事に就きたいという希望があったらしく、青年のころには国柱会の『天業民報』に「おばあさんの話」と題する文章を発表したこともあったそうです(『真世界』昭和31年/1956年9月 星野武雄「神崎武雄よ、母も子供たちもこの通り元気だ」)。

 やがて長谷川伸さんと出会って、その勉強会に出入りするようになると、昭和15年/1940年から十五日会(のちの新鷹会)に参加。本格的に小説を書きはじめ、『大衆文藝』に発表しはじめたところ、いきなり直木賞の候補に挙がるなど、仲間うちのなかでも俄然注目される存在になります。『オール讀物』の香西昇さんが中心となった若手作家の集まり「礫々会」のメンバーにも選ばれて、大衆文芸作家への街道まっしぐら、という感じです。

 注目の新進作家となったことが、その後の神崎さんの運命を変えることにもなりますが、それはいまさら言っても仕方がない人生の綾というものでしょう。何度か直木賞の候補になるうちに、当時予選を担当していた小島政二郎さんに期待をかけられて、昭和18年/1943年2月、第16回(昭和17年/1942年・下半期)で受賞を果たします。このとき神崎さん36歳。同時に受賞した田岡典夫さんは34歳。のちに田岡さんが長く作家として食っていったことを考えると、神崎さんも同じくらいに活躍してもおかしくありませんでした。

 ところが神崎さんは、海軍の報道班員のひとりに任命され、南洋シンガポール付近へ派遣されます。おそらく昭和18年/1943年、直木賞を受賞してまもなくのタイミングです。日本には妻の愛子(よしこ)さんと、男1人女3人の子供を残していましたが、昭和19年/1944年には妻が第五子を出産。父親と対面することの叶わなかったその5番目の子が神崎東吉さんという人で、のちに自費出版の編集者となり、幻冬舎ルネッサンスや無双舎というところで編集業務に就いていたことが、いまもネット上などで確認することができます。

 その東吉さんを産み落としたあと、母の愛子さんは体調を崩してしまい、回復を見ることなく昭和19年/1944年6月17日に帰らぬ人となってしまいます。彼女を看取ったのは、神崎さんの母親の靖子さん。九州の門司で料亭を経営していたという人で、父も母もいない5人の孫をそのままにするわけにはいかず、東京に住まいを移して育てていくことになるのですが、その後も神崎一家は長谷川門下の新鷹会との縁を保ち、『大衆文芸』誌上や関係者たちのエッセイなどで折りに触れて、靖子ばあさんと孫たちの様子が書き残されています。

 それはそれとして、いっぽう南洋に派遣された武雄さんです。彼の最後の姿を見た、と証言する中満中佐という軍医がいます。ほんとに偶然、中満さんと山陽線の列車に乗り合わせた北村小松さんがその最後の様子を聞くことができたという話を、山岡荘八さん(『大衆文藝』昭和21年/1946年10月号「消えざる笑顔」)や村上元三さん(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊『思い出の時代作家たち』)などが紹介してくれていて、まとめてみると、こうなります。

 第五子の誕生と、妻・愛子さんの死を、どうにかして神崎さんに知らせたいと思った新鷹会の面々は、海軍省に掛け合って連絡をつけてほしい、早く帰還命令を出してほしい、と嘆願したそうです。シンガポール(当時の日本名で昭南)に駐在していた神崎さんは海軍からの電報を手にし、おそらく驚き、悲しみ、一刻も早く帰らなければと思って帰還の手続きをとりますが、昭和19年/1944年の夏、そうやすやすと日本に帰れるほど軍の体制が整っていたわけではなく、なかなか航空便の手配がとれません。

 すると、ちょうど内地へ向かう船団を護衛するために軍艦「雲鷹」が出港する、という情報が入り、海軍士官にすすめられて神崎さんもその船に乗せてもらうことになります。9月11日に昭南を出港。台湾南部の高雄を目指して北東に進路をとり、おおむね順調に航海をつづけました。

 というところで雲鷹は被雷、沈没することになりますが、さすがにその詳細は山岡さんや村上さんの筆からはわかりません。それについては当時、同艦の記録指揮官だった土田国保さんの「雲鷹被雷之記」(昭和43年/1968年2月・浴恩出版会刊『海軍主計科士官物語』所収)を参考にしてみます。

 そろそろ台湾も近づいてきて、9月17日中には高雄に入港できる、というところまで進んできた「雲鷹」。17日に入ったばかりの真夜中、00時05分ごろに突然爆発音のような轟音が艦内に響き渡ります。艦体は激しく横に揺れ、乗船者みな騒然。海上に見えている、護衛対象の一隻だった「あずさ丸」はといえば、どうやら雷撃を食らったらしく炎を上げてみるみるうちに沈没していきます。「雲鷹」も敵の潜水艦から爆撃をもらったことが判明し、艦内は応急の作業で夜どおしてんてこまい。やがて白々と夜があけて、海面の様子も目に入るころ、上甲板に総員集合せよとの命がかかります。被雷の跡いかんともしたがく、これ以上持ちこたえられないと見て、総員退去の判断がくだったのです。

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2019年8月11日 (日)

平田敬、コロラドあたりの峡谷をイメージして小説を書き下ろす。

 だいたい40年まえの昭和52年/1977年。平田敬さんが『喝采の谷』(昭和52年/1977年4月・講談社刊)という題名の長篇小説を書き下ろしました。舞台はアメリカのサスカラン峡谷。ということになっていますが、そんな場所はじっさいには存在しません。

 単行本には、城山三郎さんと平田さんの対談「生涯を賭ける充実感」という差し込みの付録が入っていて、平田さん自身がその峡谷のことを語っています。「風景としてはコロラドですが、ニューヨークからの距離としてはシカゴから少し南、という感じ」だそうです。

 小説の視点人物は越永四郎という男で、日本のテレビ局の報道局に勤めているという設定ですが、たまたま観光旅行の途中で、そのサスカラン峡谷を綱渡りしようとしているアルバート・シロニーという老人と出会います。おお、これはドキュメンタリー番組に仕立てたらきっと面白いぞとひらめいて、旅行先でありながらカメラマンを手配したり、老人夫妻に取材したり。当時、TBSの敏腕局員だった平田さんお得意の素材と言いましょうか、「テレビをつくる側の人間」と「撮られる対象」、その関わり合いのなかで話が組み上げられていきます。

 第62回(昭和44年/1969年・下半期)の「ダイビング」につづいて『喝采の谷』は第77回(昭和52年/1977年・上半期)の直木賞候補に上がりました。60年から70年代といえばまさに、放送業界の人たちが続々と文芸の畑で評価されていく時期に当たります。明らかに平田さんなどはその中核をなす一人で、本来直木賞のなかでもそういった側面からとらえたほうがいいはずですけど、うちのブログではずっと触れる機会がありませんでした。正直いって、どうにも取り上げづらいというか、パッとした業績のない作家なのはたしかです。

 デビューの経緯からしてもう、かなりパッとしていません。

 ……パッとしていないと言うと、また語弊がありますが、平田さんはTBSに入るまえ、化学工業の会社に勤めていた時期があり、そのころに書いた小説「平和の日々」を群像新人文学賞に応募、最終候補にまで残ります。しかし、この回は当選作がなく、最優秀作に成相夏男(上田三四二)さんの「逆縁」が選ばれて、平田さんの作品はあえなく落選します。

 後年平田さんは『昭和の子どもよ ぼくたちは』(平成18年/2006年8月・文藝春秋刊)という小説で、ここらあたりの経緯と似通った場面を描いています。それによると四人の選考委員のうち、強く推してくれたのが作家の〈村岡利平〉。対して文芸評論家の〈野平慎一〉は強く否定、文芸評論家の〈河野卓郎〉はどちらとも決めかねて、過半の票は得られず、結局受賞作なしということで新聞発表をしてしまったが、遅れて滞米中だった作家の〈加藤精〉から手紙が届きます。そこにあったのは、主人公の応募作を大絶賛する文面。選考会の日までにその手紙がちゃんと到着していれば、確実に受賞作になったはずだが、マスコミ発表をしてしまっているので、応分の原稿料を支払って雑誌に掲載する、というかたちで納得していただけないか、と主人公は編集部の人に言われた、ということです。

 現実の群像新人文学賞を見ると、この回の委員は、作家の〈大岡昇平〉、文芸評論家の〈平野謙〉と〈中村光夫〉、外遊中で選考会に欠席した作家の〈伊藤整〉という4人です。ほんとうに『昭和の子どもよぼくたちは』で書かれたように、平田さんの応募作がぎりぎりで当選を逃して雑誌掲載となったのか。その可能性は高そうなんですけど、ともかく平田さんは「最終落選作」でデビューを果たし、そして無冠のまま作家人生を送ることになります。文学賞を「当選か落選か」の軸だけで見れば、パッとしない業績の持ち主です。

 直木賞のほうでも候補に挙がった二度とも、やはり選考会ではさんざんな評価を受けました。二度目の『喝采の谷』のときには、選考委員の源氏鶏太さんや村上元三さんが、単に一人の男が綱のうえを歩いて谷を渡る、というそれだけのことを書くために、余計な枝葉を足しすぎている……とか何とか言い、他の委員はみな黙殺するという仕打ちです。

 当時は、どうということのない候補作は、こぞって委員から黙殺される風潮があり、その面でも現在の直木賞とはまるで構えが違いますが、ここで平田さんが直木賞でももらっていたら、もう少し違うタイプの「海を渡った作家」になったかもしれません。

 直木賞の候補になって落選してから約2~3年。昭和54年/1979年に平田さんはTBSを辞め、翌年、家族とともにハワイに移住します。50歳を前にした40代終盤のころです。以来、平成12年/2000年までの20年間、日本の出版界のなかでの平田さんは、ハワイに住んでいる強みを生かした当地での見聞や、海外に住んでいることでわかる日本人たちの生態論など、80年代以降現在にいたるまで、無数の人間によって無数に書かれたような記事を、ときどき発表する海外在住ライターとなりました。

 

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«藤田宜永、大学を中退して何も決めずにフランス・パリに渡る。