2019年12月 8日 (日)

虫明亜呂無、フランス語由来の名をもつ男が、ヨーロッパを旅して日本のことを思う。

 映画のことやスポーツのことを書くうちに、やがて独特な小説世界を開花させた虫明亜呂無さんは、東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子です。

 しかし彼の文章のまわりには、せまい日本を覆う窮屈な感覚を飛び越えて、ワールドワイドな風合いが明らかに漂っています。何といっても、名前が名前です。亜呂無(あろむ)。相当、日本人離れしています。

 本人によると、この本名は父親がつけたものだそうで、父は二科会、円鳥会と移りながら萬鉄五郎さんに師事した大正時代の洋画家。おそらく虫明柏太さんのことです。西欧の絵画にのめり込んだ父親は、ヨーロッパ熱が高じすぎたのでしょうか、9月に生まれた息子に、菊が香るのイメージから芳香を意味するフランス語「アロム」の名をつけてしまったのだ、といいます。もしかすると、尊敬していた萬鉄五郎の娘さん「馨子」から拝借したのかもしれないな、というのが亜呂無さんの説です(『文藝春秋』昭和43年/1968年11月号「わが名はアロム」)。

 ともかく亜呂無さん自身は、もっと平凡な名前がよかったなあと思いながら、日本という国や歴史に対して関心を深めていった……ようにも思えるところ、一方では西欧のものも同じくらいに好きになって、大学では仏文を専攻。日本とか日本以外だとか、そういう壁をつくらない意識のなかで、貪欲に内外の文化を享受し、やがてそれを伝える立場に身を置くようになります。

 いったいに虫明さんは、幼い頃からひとりでぶらーっと遠くに出かけるのが大好きで、その性格は年を経ても変わらなかったようです。いや、むしろ成長するにつれて放浪の傾向は強くなるばかりだった、と言っています(『月刊教育の森』昭和54年/1979年3月号「放浪へき」)。遠くに行く。何の理由もなく、ただただ家を離れて遠くに行く。東京を出て、日本を出て、異郷をさすらうそのことが、何の理由もなく心地よい、という感覚です。

 それでハナシは一気に飛びまして、虫明さんがユニークなナンデモ評論家から小説を書き出す時代に行くんですが、もうすぐ50歳に差しかかろうかという中年の頃。「小説がいちばん自分のいいたいことがいえますからね。」「今まではその準備のようなものにすぎません。」(『競馬研究』1351号[昭和45年/1970年4月])とインタビューで答えていて、「抒情と感情で語る評論家」の皮を脱いでいよいよ小説に向かうのは、虫明さんのなかでは自然な流れだったと言えるでしょう。

 このとき虫明さんが数多く手がけることになったのが、スポーツにまつわる人間たちの物語です。それがもう新風、新鮮にふさわしく、みずみずしくて先鋭的。虫明さんの切り開いた地平を起点にぞくぞくと、読んで面白い、対象人物に肉迫したスポーツ・ノンフィクション作品が日本で生まれていくことになった……と言われるぐらいですから、その素晴らしさには打ち震えますが、とりあえず他の文学賞の顔をうかがうことなく、虫明さんの小説を候補に挙げた当時の直木賞も、なかなかのものだと思います。

 第80回(昭和53年/1978年・下半期)といえば、いまから見るとちょうど直木賞の歴史の中間あたり。約40年ほどまえですから、そこまで昔ではありません。

 しかし、その候補作は『シャガールの馬』(昭和53年/1978年10月・講談社刊)という作品集に収められた「シャガールの馬」その他である、という記録が残っているいっぽうで、当時の文献には「シャガールの馬」「アイヴィーの城」「海の中道」の3作品だ、と報道されているものもあり(『日本読書新聞』昭和54年/1979年1月29日号)、まあ正確なところはどっちでもいいじゃないかというこの賞の鷹揚さ(もしくはいい加減さ)が垣間見える時代です。どっちでもいいのかもしれません。

 オビにある「収録作品とテーマ」の記述を、そのまま並べると、「海の中道」―マラソン、「連翹の街」―サッカー、「黄色いシャツを着た男」―プロ野球、「タンギーの蝶」―プロ野球、「アイヴィーの城」―テニス、「ふりむけば砂漠」―陸上競技、「シャガールの馬」―競馬、「ペケレットの夏」―ボート、ということになります。スポーツを扱った小説集であることはたしかなんですけど、声なき声のように、この一冊から国際的な香りが漂ってくるのは、やはりその何篇かの舞台が海外だからです。

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2019年12月 1日 (日)

今井泉、青函・宇高の連絡船勤めから「海の人間」としての作家人生をまっとうする。

 つい先日、令和1年/2019年11月11日のことです。岡山県宇野と香川県高松を結ぶ、いわゆる宇高航路のフェリーが今年の12月で定期運航をやめる、というニュースが流れてきました。人間の暮らしや社会の基盤はめまぐるしく変化しますから、瀬戸内を渡る方法がこの何十年間で劇的に変わるのも、当然といえば当然です。そう考えると、いまだに80ン年前の仕組みにしがみつき、いつまでもえんえんとやっている我らが直木賞も、この先いつどこで終焉を迎えたっておかしくありません。ドキドキしながら見守りましょう。

 それはともかく、いつもどおりに強引に進めると、宇高航路と直木賞。この組み合わせを出したら、今井泉さんを取り上げないわけにはいきません。日本中の人が許したとしても、神が許しません。

 日本でも(おそらく)有数の港町、高知市に生まれた今井さんは、土佐中学から丸の内高校を経て、神戸商船大学の航海科に進みます。昭和33年/1958年、卒業とともにどうにかこうにか国鉄への就職が決定。配属されたのは青函連絡船です。以来、青森と函館をつなぐ海上の往来で、ときに危険に遭ったり、ときに人の情に触れながら順調にキャリアを積んでいき、同航路の船長になったのが昭和45年/1970年、45歳のとき。その前後あたりから、ちょっと文章でも書いてみるかと、国鉄文学会北海道支部の発行していた『国鉄北海道文学』に参加したところ、今井泉ってずいぶんいい文章を書くじゃないかと、メキメキ注目を浴びるに至ります。函館文学学校に通ったり同人誌『晨』に加わったりするあいだ、函館市民文芸に一席入選するは(昭和52年/1977年)、国鉄文芸年度賞に一席入賞するは(昭和53年/1978年、昭和54年/1979年)、なかなかの大騒ぎです。

 とにかく今井さんの書く小説は、基本的に海上を行き来する船の物語、もっといえば船長が出てくるところに特徴がありました。その点、広がりはあまりありませんが、いいじゃないか、船員だって一人の人間にすぎないんだから、それを軸に小説を書いて何が悪い、と言わんばかりの頑固さで、現役の国鉄連絡船船長という得がたい肩書きをひっさげたまま、コツコツと創作を続けます。

 11年間、青函で船長を務めたあと、今度は郷里にも近い宇高連絡船に移って、そちらでも7年間、船長生活を送りますが、汗水たらして働きながら小説を書く、というのはもはや今井さんの日常になっていたらしく、香川菊池寛賞(昭和57年/1982年度)を受賞してからは、商業誌にも進出。昭和59年/1984年に『別冊文藝春秋』167号に「溟い海峡」を発表すると、おっとびっくり、これがいきなり第91回(昭和59年/1984年上半期)直木賞の候補に選ばれます。ただそれは、直木賞が『別冊文藝春秋』を出す文藝春秋がやっている賞だったからで、それほどびっくりではなかったかもしれません。

 文学賞とはいったい何のために存在するんでしょう。作家や編集者たちが定期的に盛り上がることを目的として、お金に余裕のあるところでとりあえず惰性でやっている、という側面は否めません。しかし、出版を商業ベースでやっている企業体として、事業を長く継続させるには、つねに先のことを考えなければいけないので、新たな人材を見つけること、見つけた人材のケツを叩いて物書き道を邁進してもらうことは、重要な仕事のひとつです。その意味からも、文学賞というのは有用な装置です。

 同人誌出身だから、ということもないでしょうが、今井さんの書く小説は、事件性よりもぐっと人情に、あるいは人間に対する信頼感に寄った文芸臭のする、はっきり言って地味なものばかり。こういうものを直木賞がすくい取っても別に文句はないはずですが、直木賞は新人発掘以外の、もろもろの機構が入り組んだ、訳のわからなさを備える文学賞でもあり、このときは今井さんに光を当てることはできませんでした。その後、同じく文藝春秋が噛んで開催されていた、将来への先行投資型のちょっと大きめの賞、サントリーミステリー大賞のほうで今井さんに職業作家への道筋をつけることができたので、それはそれでよかったと思います。

 ときは前後して昭和63年/1988年の春に、青函と宇高の連絡船が廃止となり、それを機に今井さんは船長を退任、筆一本の生活に入ります。年齢でいうと52歳から53歳のころ。専門的な知識もあり、人と違ったさまざまな経験をして、文芸修業の道も歩んできた今井さんの前途は、おそらく明るいものがありました。

 そういうなかで、第109回(平成5年/1993年・上半期)にもう一度、今度は文藝春秋から出た単行本『ガラスの墓標』で候補に挙げられます。基本的には、昭和50年代から60年代、まだ今井さんが船長を務めていた頃の『別冊文藝春秋』掲載の旧作をまとめたもので、これも直木賞(文春)だから候補に選ばれたんだ、と言うしかない類いの候補作です。

 本選では結局落選して、鈍い光を放つシブい候補作というところに落ち着きますが、やはり何といっても特徴は、海、海、そして海。日本に生きている以上、船乗りなんて何も特殊な存在ではない、というぐらいに海の上に生きる人間たちの、陸のほうでの生活と事件をからめた作品ばかりが並んでいることでしょう。

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2019年11月24日 (日)

村松喬、従軍記者として赴任したビルマで、忘れられない恋愛をする。

 村松梢風という作家がいます。白井喬二さんたちの大衆文芸の輪には参加しなかったけど、読み物の書き手として活躍したことでは、広義の大衆文芸を考えるときに、まず外せない名前です。

 大正後期、『中央公論』お抱えの情話作家だったころには、情話作家ごときが「創作」欄に作品を載せるとは何ごとだと、芥川龍之介さんたちがキャンキャン吠え立てたという、もの哀しい逸話も引き起こします。情話のような読み物は文芸じゃないあっち行け、という感覚は、大衆文芸は純文芸より格下だあっち行け、という偏狭さと、ほとんど同じです。昭和9年/1934年創設の直木賞もやはり同じような目に遭い、残念ながら文芸界隈で芥川賞と同格視されていたとはとても言えない不遇の文学賞になりましたが、似たもの同士の直木賞と梢風さん、両者に直接の関わりはありません。ただ、一族郎党まで含めると、無縁でもありません。

 なにしろ、第87回(昭和57年/1982年・上半期)にポロっと直木賞を受賞した村松友視さんがいます。梢風さんの長男の息子、という関係にありながら、籍のうえでは息子にされたという、そういうハナシを聞くだけでも複雑な村松家の一端が知れて、少しヒきます。じっさい村松梢風といえば奔放な女性関係で知られた人、というのが一般的な認識らしく、艶福家というかエロおやじというか、女なしでは生きられない、よくいるタイプといえばタイプの男かもしれません。

 直木賞にはもうひとり、この人と濃い血のつながりのある候補者がいます。友視さんの伯父、つまり梢風さんから見れば三男に当たる村松喬さんです。

 風貌やたたずまいなどは、ほとんど梢風の生き写しと言われるほどそっくりだったそうですが、父のあとをなぞるように新聞社に勤め、文章を書き、そして小説にも手を染めました。直木賞では第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、二期連続で候補に挙がります。

 いずれの候補作も書き下ろしの単行本です。先に候補になった『異郷の女』(昭和31年/1956年12月・虎書房刊)は、井上靖さん、由起しげ子さんの推薦文をつけたモノモノしいなりの小説で、舞台は太平洋戦争中のビルマ、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員、とほとんど村松さん自身の体験が反映されています。約半年後に刊行された2つ目の候補作『ONLY YOU サンパギータは夜の花』(昭和32年/1957年6月・虎書房刊)もまた、前作と同様、時代は太平洋戦争中、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員。今度の舞台はフィリピン・マニラ近辺ということで、こちらもやはり、村松さん本人の見聞がいかんなく盛り込まれた、実体験ものでした。

 大正6年/1917年生まれの村松さんは、昭和15年/1940年、22歳で早稲田大学を卒業して、東京日日新聞社に入社、フレッシュでエネルギッシュな若者記者としてまもなく昭和17年/1942年4月には南方前線部隊への従軍を命じられます。20代半ばの血気盛んな青年、とくれば、淫蕩の血が流れていようが、そうでなかろうが、女性への関心や性的衝動が抑えられなくなって当然でしょう。

 ということで、ビルマのラングーン支局に赴任した村松さんは現地ではじめて女性を知り、このひとと一緒になろう、一生を添い遂げよう、と一気に思いつめます。ビルマでの生活は短く、着任の翌年昭和18年/1943年5月には、フィリピン・マニラ支局に異動の命がくだされますが、『異郷の女』のなかに〈マ・ヌエ〉という名前で登場するシャン人の娘に、完全にイカれきっていた村松さんは、そこで人生の選択をせまられました。社命に従ってビルマを去るか。いやいや、このまま残って〈マ・ヌエ〉とともにビルマに骨をうずめるか。

「決断というか、選択を迫られることが人生には時々あるということでして、ぼくは比較的悔いのない生き方をしてきたと思います。一つの選択はビルマを離れる時で、ぼくは現地の女と同棲していましてね。まあ若かったし、ほとんどそれがはじめての女なのです。ほんとうにビルマ人になってしまおうと思ったことがありましたよ。そこへ「マニラへ行け」という社命で、随分悩んで熱を出して寝込んでしまった。気力が弱って、そこでがんばって残るということができなかった。できなかったけれども、それはやはり一つの選択を迫られたことでしたね。」(昭和49年/1974年12月・番町書房刊、三国一朗・編『昭和史探訪(4) 太平洋戦争後期』所収 村松喬「「英霊」四七万・比島戦記」より)

 好きな相手でありながら、社会的な環境の変転で意にかなわず別れなければならなかった、戦中ビルマでの強烈な思い出。どんな場所、どんな環境でも、恋愛による精神の高ぶりは、あとになって振り返ってみるとよけいに、その本人にとっては人生の一大事件だったと感じられるものでしょう。それはよくわかるんですが、村松さんは帰国後に毎日新聞の学芸部に籍をおき、文化全般のジャーナリストとして再出発を切ったあと、10年ほどたって、なぜか過去の実体験を小説化しはじめます。

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2019年11月17日 (日)

古川薫、カナリア諸島に出向いたまま、会社に内緒で遊んで暮らす。

 今年のブログは、これまで取り上げた候補者のことはなるべく避けよう。と思って始めたんですけど、今週の古川薫さんは、もはや何度も触れてきた人です。しつこいぐらいです。ただ古川さん自身、10回も候補になった歴史的な人物ですから、直木賞にからむ話題が多いのは仕方ありません。

 といった言い訳はまあどうでもよくて、古川薫さんという人も海外には何かと縁のある作家でした。

 ようやく直木賞をとった『漂泊者のアリア』(平成2年/1990年10月・文藝春秋刊)からして、藤原義江の伝記のテイをとりながら、日本とヨーロッパの文化的な交わりや断絶を前提にしたような作品でしたし、平成2年/1990年には文藝春秋の担当編集者だった岡崎正隆さんに誘われてホノルル・マラソンに参加、そのあとすぐに直木賞を受賞したことから、みずからの道のりをマラソンに例えてみせた、という一件もあります。

 海外紀行と歴史随想をからませたお仕事の集成に『彼方に眠る日本の夢――海の向こうの幕末・維新史紀行』(平成1年/1989年12月・PHP研究所刊)というのがありますし、そういった経験から生まれた創作も数々あります。山口県下関といえば、幕末のころには外国との衝突や交誼に燃えたお土地柄。そこに居を構え、歴史を深掘りしていったことを契機に、おのずと古川さんも海外に目を向ける物書きになった、とは言えるでしょう。いや。もともと古川さんの血のなかに、日本の風土よりもっと広々とした世界に憧れる性格が、多分に流れていたからかもしれません。

 そこで、どうしても触れておかなきゃならない古川さんの海外体験があります。山口新聞社の敏腕記者(?)時代、その仕事でアフリカ方面に取材に出かけたときのことです。

 古川さんがはじめて直木賞の候補に挙がったのは、いまとなっては遠い昔の第53回(昭和40年/1965年上半期)。古川さんもまだ、多くの人を喜ばせるような小説をどんどん書いていこうとは、たぶん思っていなかった時代です。直木賞史のなかで見ると、小説のなかに歴史的な人物や事象が描かれていれば、多少文学臭のするものでも、芥川賞じゃなく直木賞の候補に持ってきてしまえ、というけっこう雑な振り分けが横行していた時代で、この雑さがなかったら、古川さんの直木賞への道も存在しなかったでしょう。いまはともかく、60年代の直木賞には、決まり決まったレールなんてありません。その雑さに付いていけなくなった作家もいれば、古川さんのように救われた人もいた。ということで、だいたいの物事は表裏一体です。

 ともかく、いきなり直木賞の候補になって、新聞社内でも急に白眼視されるようになった……もとい、一目おかれるようになった古川さんは、そうか君は小説が書きたいのか、と社長に言われ、編集局長の職から、わざわざそのために新設された企画室という部署に異動になります。別にそこで仕事をサボッてもよかったんでしょう。しかし古川さんの思考はグルグルとまわり、よし勝手に企画を立てて会社のカネで行きたい土地に行かせてもらおうと、遠洋トロール漁船の北大西洋での活躍を取材する、という企画を立ててしまいます。一説によれば、それは自分で言い出したのではなく、山口新聞系列の水産業界紙『みなと新聞』から仕事のお鉢がまわってきたのだ、とも言われます。

 いずれにしても、この長期出張のハナシを古川さんが喜び勇んで引き受けて、遠洋に乗り出したのは事実のようです。出発は昭和41年/1966年3月のことですから、直木賞の候補入りから1年も経っていません。

 年齢でいうと40歳を少し超えたぐらいのところです。下関に思い切って戸建ての家を構え、子供たちの成長を見守るという平穏な生活とは裏腹に、少しまえには両親と同居しながら関係がうまくいかず、ついにはイヤな思いを残しながら実の父親、母親が家を出ていくという事件があり、イラついていた古川さんは家に寄りつく猫たちを虐待しては気を晴らす、なかなか最低な男になり下がっていた時分、とのことです(昭和59年/1984年9月・文藝春秋刊『十三匹の猫と哀妻と私』)。

 仕事にも倦み、家庭生活にも倦みはじめた40過ぎのおじさんが、どうにか環境を変えたくて、海の向こうの生活に憧れた……という心境は否定できないところでしょう。それに類した回想を、古川さんもいくつか残しています。

 ここからが、古川薫一世一代の武勇伝、と言いましょうか、いっしょに働いていたら確実にまわりの人から嫌われる類いの行動をとってしまいます。

 旅行の予定はだいたい3か月、行きはエールフランスでヨーロッパに渡ります。のんびりと欧州旅行を楽しんでから、スペイン領カナリア諸島の、グラン・カナリアに向かい、そこで日本のトロール船を取材しては、現地の様子などを原稿にして日本に送る……という仕事だったはずなんですが、だれの監視もない風光明媚な異国でゆうゆうと羽根をのばした古川さんは、酒を飲み、アバンチュールを楽しみ、やがて会社にも連絡をとらなくなって、ずるずると海外生活を満喫した、ということになっています。まあ、あまり褒められたハナシではありません。

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2019年11月10日 (日)

赤瀬川隼、「古代朝鮮語で『万葉集』が解読できる」という話を小説に書いて直木賞候補に。

 『万葉集』の歌は、古代の朝鮮語で解読できる。しかも、従来の解釈とはまったく違う意味だったこともわかってしまう。

 ……というハナシを、いまでも真剣に信じている人はいるんでしょうか。いるかもしれません。いてもいなくても、正直どちらでもいいんですが、少なくともこの有名な(?)説が広まる発端に、直木賞が関係していたことは間違いありません。せっかくなので取り上げておこうと思います。

 第90回(昭和58年/1983年・下半期)の直木賞、赤瀬川隼さんが自身2度目の候補に挙げられました。このときの候補作「潮もかなひぬ」は『別冊文藝春秋』165号[昭和58年/1983年10月]に掲載された150枚ほどの中篇小説です。

 主人公は、ルポライターの笹木一成。ないしはその妹の旧友である荒巻田津子。ないしは田津子の祖父に当たる荒巻潮。戦時中に『万葉集』を独自に研究していた潮は、特高に引っ張られ、釈放直後に病死します。潮が無念の死を遂げた背景には何があったのか。調べていく筋のなかで、じつは彼が『万葉集』は朝鮮語で読み解けることを突き止めていたのだ、という過去に行きつきます。

 ……小説は小説です。つくり話と言ってしまえば、それまでです。しかし、赤瀬川さん自身、この解読法に何らかの真実を探り当てる鉱脈を見出し、すごい発見だと考えていたことも、またたしかです。

 昭和58年/1983年にいたるまでに小説のネタになりそうな題材をいろいろと探していた赤瀬川さんは、「古代朝鮮語で『万葉集』は解読できる」という研究に出会います。こんなリアリティ(およびロマン)のある仮説を無視するわけにはいかない。そう刺激を受けたらしく、これを小説化し、エッセイを書き、いかに日本語の歴史に新しい知見をもたらすものか、宣伝に努めました。要するにのめり込みます。

 赤瀬川さんが話を聞いた取材先ははっきりしています。言語交流研究所という民間組織の運営する会員制教育組織「ヒッポファミリークラブ」でフェローの役職にあった中野矢尾さんです。

 ところで赤瀬川さんが作家デビューしたのはけっこう遅く、50歳を超えてからのことでした。それまでは、きっちり定職に就いていて住友銀行に在籍したあと、「外国語教育機関」に勤めていたことになっています。外国語教育機関。そのときに、言語交流研究所創設者の榊原陽さんと知り合いになった、という推測は自然でしょうし、あるいは赤瀬川さんのことを「小説を書く前は、言語交流研究所という民間団体に勤め、子どもの文化交流を介して韓国の人と接触する機会が多かった」(『宝石』昭和61年/1986年6月号「宝石図書館」)と、ずばり紹介している文章もあります。ともかくも赤瀬川さんが以前から、日本語を含む多言語に関心をもち、この研究所の活動に理解を示していたことは間違いないでしょう。

 いや、間違いないどころではありません。成長する自分の子供と話しているうちに、どうやら言語に興味があるらしいぞと踏んで、子供を「ヒッポファミリークラブ」に連れていった、という回想もあります(『サンデー毎日』平成12年/2000年5月28日号「親と子の情景」)。そういったなかから同クラブの中野さんが『万葉集』のユニークな研究をしているハナシを聞きつけて教示を請うた……ということのようです。

 それで直木賞の候補になった「潮もかなひぬ」は、朝鮮語で『万葉集』が読めるとか眉ツバも甚だしいな、と思う選考委員が何人もいて、説としても不十分、物語としても中途半端ということで落選してしまいます。しかし、とくに井上ひさしさんが選評で、批評なのか激励なのか、こういう評を書いたことで赤瀬川さんの情熱に火をそそぐことになるのですから、直木賞もなかなか罪が深いです。

「今回の題材は、この枚数で支えるには巨きすぎたかもしれない。そこで作者の美点がそれぞれ幾分かずつ損われてしまったのではないか。とにかくこれは凄い題材ではある。」(『オール讀物』昭和59年/1984年4月号 井上ひさし選評より)

 そうなんだ、これはすごい題材なんだ! と勇気を得た赤瀬川さんは、朝鮮語と『万葉集』の部分をもっと詳しく、説得力が出るような方向で、長篇小説として書き改めることを決意。中野矢尾さん、榊原陽さん、あるいは同クラブで中野さんといっしょに研究に励んでいた若者たちの協力を得て長篇を書き上げます。単行本となった『潮もかなひぬ』(昭和60年/1985年6月・文藝春秋刊)です。

 刊行当時、多少は話題になったのかもしれません。しかし、べつに若い女性が書いたものでもなく、だらだらと恋愛めいた要素が入り込んだ小説でもあり、何十万部突破の大ヒット、という展開にはとうてい及びません。

 そのままだったら凡百の直木賞候補作と、さして変わらない一作で終わっていたと思います。ところが、「このテーマは、本来はこのような方々(引用者注:言語交流研究所のみなさんなど)の研究論文として、もっと深い洞察と緻密な論証のもとに世に問われるべきであろう。」(『潮もかなひぬ』「あとがき」)と書いた赤瀬川さんの願いは、天に届くことになります。

 中野さんたちの研究はその後も続けられ、何がどうひっくり返ったのか新潮社の編集者の目に止まり、研究者4名の名前から一文字ずつ取った「藤村由加」という著者名がつけられて『人麻呂の暗号』(平成1年/1989年1月・新潮社刊)という本が刊行されるに至ります。

 『潮もかなひぬ』の巻末では、中野矢尾さんや榊原陽さんに謝辞が捧げられていましたが、それと呼応するように、『人麻呂の暗号』の「後記」では、赤瀬川隼さんに対してお礼が述べられました。もっといえば「藤」「村」「由」「加」のうちの「藤」に名前がとられた佐藤まなつさんは、じっさいのところ、赤瀬川さんの娘です。かつて父親と一緒に「ヒッポファミリークラブ」に参加し、そこで多言語に携わる面白さに開眼、そのまま同研究所に就職したという経緯もあったそうで、その意味で赤瀬川さんが『人麻呂の暗号』の誕生にひと役買った、とも言えるでしょう。

 あるいは、そこらの刊行経緯を邪推しようと思えばいろいろ邪推できるんでしょうけど、作家のコネで本が出せたんだろう、と言われるのは(娘はともかく父のほうは)ことさらイヤだったはずです。……というのは、赤瀬川さん自身、デビューするときに、弟の原平さんが昔からある種の有名人だったので、弟を頼る手もあったのに、そういう関係で見られるのを避けたくて、あえて自分で原稿を携え、出版先を探したといいます。それを考えると、『人麻呂の暗号』の刊行に赤瀬川さんが積極的に関わっていたとは思えないところですが、こればっかりは現場にいたわけではないので、よくわかりません。

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2019年11月 3日 (日)

辻勝三郎、中国の戦場にいたせいで、直木賞・芥川賞で同時に候補に残ったことも知らず。

 柳本光晴さんのマンガ「響~小説家になる方法~」の連載が、令和1年/2019年21号[10月11日発売]の『ビッグコミックスペリオール』で終了しました。なにはともあれ、ひとつの小説で直木賞と芥川賞の両方を同時に受賞する、という絵空事を衒いなく描いてくれた作品として、直木賞周辺史にしっかりと刻まれたのは、おそらく間違いありません。

 これまで、ひとつの小説が同じ回の直木賞・芥川賞で、それぞれ最終候補に選ばれた例は、じっさいに4回ある、というハナシは「響」のおかげでさんざん有名になりました。しかしこれを、「ひとりの作家が」と置き換えると、中村八朗さんより前の戦中にもうひとり、直木賞・芥川賞同時候補入りの例が見つかります。それが今日の主役の辻勝三郎さんです。

 ちなみに、何をもって「最終候補作」あるいは「予選通過作」とするのかは、戦中の第20回(昭和19年/1944年・下半期)までは非常にあいまいで、文藝春秋や日本文学振興会が出してきた刊行物でも、時代に応じて微妙に変化してきたぐらい、どれが正解だと見極めるのが難しい問題です。なので「辻勝三郎よりもっと前に、両賞に同時に候補になった人物がいるではないか」とムキになって怒られても困るんですけど、とりあえず、第17回(昭和18年/1943年・上半期)の辻さんの例は、両賞の経緯のなかに確実に予選通過者として名前が出てくる、ということで、おそらく最初の同時候補入り作家だったことにしておきたいと思います。

 辻勝三郎さんが生まれたのは大正5年/1916年7月です。佐賀出身の父親は当時、東京の京橋で米屋をやっていたそうですが、記憶喪失か精神を病んだかしたらしく、辻さんが幼い頃に店を畳むことになって、父だけ郷里に帰されます。その後、辻さんは横浜、大崎と移り、祖父母の家から三ッ木小学校に通いますが、関東大震災のあと、小田小学校に転校。

 卒業すると同時に、呉服屋に奉公に出されたという苦労人で、しかしやがて文学への恋情がおさえがたくなり、17歳のときに奉公先をやめ、本気で小説家を志します。小説を書くためには、もっと経験を積まなくちゃ駄目だと考えた辻さんは、銀座あたりの水商売の店を転々。そうこうするうちに、昭和12年/1937年3月、20歳そこそこのときに満州公主嶺関東軍に現役兵として入隊することになりますが、まもなく「支那事変」というやつが勃発したために、一気に辻さんの人生が変わります。

 ……というような履歴は、辻さんのほぼ実体験が描かれた小説『不完全な魂』(昭和55年/1980年・けいせい出版刊)を参考にしたものです。辻さんが編集者として働いた『モダン日本』の新太陽社のことや、戦後になってそこを辞めたいきさつなども出てきます。辻さんといえば十五日会や『文藝首都』とも関わりが深く、そのころは多少名の知られた作家でしたので、そういう意味での文壇資料といった側面も備えた一冊です。

 ともかく戦後に編集者として、あるいは放送人として活躍を遂げるまでの辻さんは、作家といいますか、現役の兵隊作家として知られていました。

 昭和15年/1940年ごろまで戦闘の前線をひっぱり回され、河北、河南、察哈爾、綏遠、山西、山東と懸命の思いで転々としながら、そんな状況でも作家に憧れてきた辻さんは次々と、実体験に基づく小説を書いては日本に送ります。いったんは日本に帰還し、2年ほど過ごすあいだに『モダン日本』を出していたモダン日本社に編集者として雇われますが、昭和18年/1943年春に再召集、ふたたび兵士として中国に渡ります。

 辻さんには、ほんとは行きたくないのにイヤイヤ戦争に巻き込まれちまったぜ、というような、文学者にはお決まりの感覚があまり見られません。「生れつき運命にすなおなせいか」(昭和45年/1970年7月・創思社刊『戦友群像』「あとがき」)と自分の性格を分析しているように、過酷な状況は状況として受け入れ、そこからどんな小説を生み出せるかを必死に考えてペンをとっていた節があります。これはこれで、物書きとしてのひとつの生きかたでしょう。

 それで辻さんの属していた『文藝首都』は、保高徳蔵さんがやっていた超有名同人誌ですが、ここにどしどし発表するうちに、商業誌の編集者の目にもとまりはじめます。それはそうです。「現地の戦争ものを、兵士の視点から書ける作家」というのは、当時の出版界からすれば欲しくてたまらない人材です。読み物雑誌の『オール讀物』に辻さんが書くことになった由来は、よくわかりませんが、昭和18年/1943年3月号の同誌に「新人傑作」という角書きを附されて「雪よりも白く」を発表。また、同年2月号の『文藝首都』では「雁わたる」が採用され、前者が直木賞の、後者が芥川賞の候補に挙げられることになりました。

 第17回のこの回から、両賞とも選考委員の顔ぶれが一新して、ほのかに戦時体制の影が見え隠れしていた時代です。ただけっきょくのところ、芥川賞のほうで辻さんの作品に言及したのは、欠席した片岡鉄兵さんぐらいのものでしたし、直木賞では「文学派」の代表のような立場で井伏鱒二さんがずいぶん褒めてくれましたが、結果は山本周五郎さんに賞を贈ることで委員の意見は一致。のちに周五郎さんが賞を辞退したので、この回は授賞作なし、という記録で終わっています。

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2019年10月27日 (日)

陳舜臣、神戸で生まれ育ちながら、心は台湾、中国、そしてアジア。

 外国籍にあって直木賞をはじめてとったのは邱永漢さん(第34回 昭和30年/1955年下半期)ですが、それから13年後、二番目に受賞したのが陳舜臣さん(第60回 昭和43年/1968年下半期)です。50年ほどまえの出来事です。

 いまもあたりを見渡すと、日本の国籍をもたない日本在住者に、悪意を向けるヤカラがけっこういます。だいたいいつの時代でもウヨウヨしてきた、正直関わり合いになりたくない手合いです。陳さんも江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞、直木賞と、なかなか順調に文学賞を受賞するなかで、「おまえ何様だ」「国に帰れ!」といった内容のイヤガラセの手紙をときどき受け取った、といいます。三番目の受賞者、東山彰良さんも似たような経験をしているんでしょうか。だれか聞いておいてください。

 ところで、そんな陳さんには、邱さんや東山さんとは少し違ったところがあります。日本本土の兵庫県神戸で生まれた、という履歴です。父親である陳通さんが海産物貿易商「泰安公司」を経営、その事務所と自宅がずっと神戸にあった関係でそういう境遇に置かれたのですが、学校も付近の諏訪山小や神戸小、第一神港商業に通ったという陳さんの来歴は、長く日本で生活した日本人とさして変わりがありません。

 しかし、何といっても時代が時代、陳さんの育ったのは昭和初期です。台湾やその住民、あるいは台湾にルーツを持つ人たちがたどった現実は重く被虐的というほかありません。当時の台湾は日本の一植民地でしたから、大きなくくりではいちおう「日本人」というかたちでしたけど、築いてきた歴史はまるで違うし、周囲からそそがれる目は「よその国の人」扱いです。いったい祖国とは何なのか。自分は何者なのか。つねに意識させられるなかで成長したという意味では、陳さんの来歴もそう簡単に割り切れません。

 ということで、ここはやはり陳さんの半生記『道半ば』(平成15年/2003年9月・集英社刊)を参照しなきゃいけないわけですけど、物ごころつく前の幼少時代は別として、陳さんが海を越えて、父母の係累が住む台湾の地を踏んだのは数えるほどの機会しかなかったそうです。最初は、祖父の法事のために帰省した小学三年生の春休み。もう一回は、昭和12年/1937年の盧溝橋事変からまもなく中学二年の夏休みです。

 ただ、じっさいに海を渡らなくても、ほとんど渡った気になれるのが、神戸という街の特性なんでしょう。陳さんも存分にその恩恵を受けて大人への階段をのぼります。

 とくに当時、台湾から東京を目指そうという人たちは、基隆・神戸間の航路を利用してまず神戸に入り、そこで一泊してから東に向かう、ということが多かったらしく、陳さんの家には親戚や知人などがしょっちゅう宿を借りていたそうです。陳少年は、そういう人たちとの会話のなかから、台湾の現状やさらに中国、アジア圏への関心を高めていった、と振り返ります。

 そこで陳さんは漠然と将来の目標を思い描くのですが、それは作家ではなく、学者でした。小説はむさぼるほどたくさん読んでいましたが、俗にいう文学青年たちとは性が合わなかった、その輪に加わりたいとはまったく思わなかった……と非常に共感の持てる感想を漏らしています。世が世なら、陳さんは大学を出たあとも研究の道をずっと続け、学者の世界ではたしかな業績の持ち主として知られながら、一般には「だれそれ?」と首をかしげられる、まっとうで堅実な言語学者だか歴史学者だか社会学者だかになったかもしれません。

 そうはならなかった理由は、ひとつに集約されるはずはないんですけど、そのいたるところに陳さんの、まったくもって割り切れない出自、環境、社会情勢が関係してきます。日本、ボロボロに負けた。台湾、中国に返還されることになった。陳さん、国籍が日本ではなくなるので、公立の大学でそのまま研究者を続けることが難しくなった。いったん台湾に帰った。しかし、台湾もまた政情が不安定で、昭和22年/1947年には二・二八事件が勃発、戒厳令も敷かれ、多くの一般市民たちが政府の手によって殺され、大混乱した。昭和24年/1949年、陳さんは神戸の実家に戻ることに決め、再度海を渡った。……という展開があって、陳さんが日本語で小説を書き、日本で作家デビューして、日本の直木賞をとる、というところまでつながります。

 あまり遠くはない海を隔たった場所に位置する台湾と日本。そのあいだの関係性が、陳舜臣という作家を生み落としたことは、どう見ても間違いありません。

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2019年10月20日 (日)

谷恒生、航海士を辞めて小説を書いたあと、マンネリ打破のために東南アジアに行く。

 ワタクシの好きな直木賞候補作は何十もありますが、そこに確実に入ってくるのが、谷恒生さんの『喜望峰』(第77回・昭和52年/1977年上半期)と『ホーン岬』(第79回・昭和53年/1978年上半期)です。

 いずれも〈ベストセラー・ノベルズ〉という、いわゆるソフトカバー新書版のノベルズ小説で、いまであれば間違いなく候補に挙がることはないでしょう。70年代後半、直木賞そのものが混迷していた時代とはいえ、劇画調だ、人間が描けていない、と言ってこういう面白い小説を落とすのですから、たいがい直木賞というのも頭のおかしな文学賞です。

 直木賞の暗黒期もしくは黒歴史とも言われるこの恥ずべき70年代は、中間小説・大衆小説全般を見渡しても、海外を舞台にした作品が数多く発表されました。当然、全部を網羅できるわけがないので、そこはバッサリ端折りますけど、なかでも一等航海士として実務経験がある谷さんが『喜望峰』『マラッカ海峡』、二冊同時刊行でデビューを果たした姿は、あまりに鮮烈だったと漏れ聞いています。

 なんといっても船や海、国外の港町・都市を描くときのディテールがたしかなうえに、犯罪組織の謀略やら、男同士の殴り合いやら撃ち合いやら、イカした美女との交情やら、惜しげもなく展開される大風呂敷で派手なストーリー。海外の翻訳物が流入したことで耕されていた冒険小説出版の世界にいきなり現われた、本格的な国産冒険作家だ、と当時の読者たちが興奮したのもうなずけます。

 そこで光を浴びた谷さんが、まだ30歳そこそこの血気盛んな世代だったことも見逃せません。定年で引退し、あとは余生という段階で作家デビュー、という姿がサマになるのは日本の高齢化が日常の風景になるもう少しあとのことです。閉塞的な状況を打ち破るのは、やはり若い作家だ、という幻想のような感覚が、70年代にはまだ常識として生きていました。

 鳥羽商船高専を卒業した谷さんは、航海士として汽船会社に入社、1960年代から70代にかけての8年間、貨物船の船員として世界各国をめぐりました。世界のどこかで大きな戦争や紛争、衝突が起こると海運の仕事も忙しくなる、という状況があるらしく、谷さんが働いていた頃にはベトナム紛争があって、貨物の仕事も大忙し。アジア、アフリカ、南米、北米と、船の行く先はまさに世界一円どこでも、という感じだったそうです。昭和45年/1970年2月に沈没した〈かりふぉるにあ丸〉には、沈没の半年ほど前まで乗っていた、とも言います。

 しかし、航海士といっても貨物を運ぶ仕事ですから、自由気ままに港から港を渡り歩くフリーな立場ではありません。谷さんが経験した〈世界を股にかける船乗り〉の実像も、現実にはけっして優雅なものではありませんでした。映画や歌謡曲で描かれるような、荒くれで優しいマドロスの世界なんてものは嘘っぱちで、商業船の船乗りなんてものはキツい肉体労働の連続に、休みも少なく、集団で仕事するのだから人間関係での悩みもサラリーマンあたりと何ら変わりのない、海に対する憧れだけではやってはいけない職業だ、とその厳しさを身に染みて感じた30歳の男。社会のなかで働こうと思うと、おおかたぶち当たる壁かもしれません。

 壁にぶち当たった経験者が書くから、フィクションでも何でも面白くなるんでしょうけど、航海士の職をすっぱりと辞し、さあ小説でも書いてみようかと腕まくりして、アクションやエロスをからませた読み物小説に乗り出したところに、谷さんの素晴らしさがあります。文芸、文学、そんなものクソくらえの感覚です。

 さすがに「クソくらえ」という発言は見つけられていませんが、純文学にはまったく興味がない、とは言っています。

「――最近、小説が面白くないと、新聞なんかでもよくいわれますが……?

 面白さの質ということがあるんだろうけど、ぼくなんかは、いわゆる純文学には全く興味がないんですね。

大藪(引用者注:大藪春彦) とくに、心境小説というか、自分の身のまわりのことをチョコチョコと書いたのなんか、あれがなんで小説なのかと思いますね。随筆と変わらないんじゃないか、と。

 フィクションの面白さ、活字じゃないと書けない面白さがないとね……。」(『青春と読書』昭和53年/1978年10月号 大藪春彦、谷恒生「対談 ぼくたちの体験、ぼくたちの小説」より)

 そうやって書かれた谷さんの小説が、直木賞の候補になって、いかに当時の選考委員にボロカス叩かれたか。すでに何度か、どこかに書いた気がするので、「選評の概要」(第77回第79回)へのリンクだけ貼っておきます。閉塞感に包まれたままの直木賞、打つ手なし、って感じです。

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2019年10月13日 (日)

鈴木光司、直木賞でさんざんな評価を受けた作品がハリウッド映画になる。

 平成8年/1996年なんてつい最近のハナシじゃないか……と感じるぐらいには、ワタクシもれっきとした爺いですけど、すでにそのころの直木賞というと、人気の出はじめた若手作家が候補ラインナップに勢揃い、という様相を毎回のように見せていました。

 第115回(平成8年/1996年・上半期)で落選した4人の作家は、いずれもエンタメ小説界を賑わしていた有力作家ばかり。一度の候補でとれなくても活躍をつづける候補者が多い、というのが直木賞の特徴ですので、そのなかの篠田節子さん、浅田次郎さん、宮部みゆきさんは、まもなく直木賞を受賞することになります。

 この回の候補で、たったひとり、けっきょく直木賞受賞者にはならなかったのが鈴木光司さんです。他の人たちに負けず劣らず、このころの鈴木さんといえば、人気の爆発具合は相当なものでした。

 とくにデビュー2作目の『リング』(平成3年/1991年6月・角川書店刊)が、平成5年/1993年4月に創刊した角川ホラー文庫の一冊としてラインナップを飾ると、いよいよ和製ホラーブームが到来したぞ、という旋風の中心に置かれるほどに売れに売れ、その続編の『らせん』(平成7年/1995年7月・角川書店刊)もまた、読者たちに好評裡に受け入れられます。そしてまもなく直木賞候補に選ばれた『仄暗い水の底から』(平成8年/1996年2月・角川書店刊)は、こんな何ということもない小説がどうして候補になったんだ、もっといい作品で候補にしてあげればいいのに、と言われたりした鈴木さん6作目の小説です。

 確実にこの作家には風が吹いている。さしもの出足の遅い直木賞も、これは見逃せずに候補にした、という流れでしょう。しかし残念ながら、その候補作があまりに落ち着いた雰囲気の作品で、べつの表現でいえば、そこらへんの小説誌によく載っていますよね、という短篇を、「水と恐怖」というわかったようなわからないような、テーマ設定でくっつけ合わせて連作集のかたちに仕立てた一冊だったため、選考会での評判はまったく芳しくなく、あっさりと落選のほうに仕分けられてしまいます。

 さて、そこからが話のスタートです。鈴木さんとその候補作は大きく羽ばたきます。羽ばたいて羽ばたいて、日本を飛び出します。

 〈リング〉シリーズの第3作は舞台をアメリカに設定、そのための取材旅行で鈴木さんが渡米するのは直木賞落選の平成8年/1996年でしたが、そこから完成したのが『ループ』(平成10年/1998年1月・角川書店刊)です。また、小説家として売れてくると、昔の夢を実現させるテイのお仕事も生まれてくるようで、平成11年/1999年秋には、集英社と組んでアメリカ大陸をバイクで横断。『小説すばる』平成13年/2001年1月号~7月号に連載され、『地球を走る アメリカ横断オートバイ旅行記』(平成13年/2001年8月・集英社刊)というコンパクトな一冊になります。

 昔から鈴木さんは小説家になることを目標に生きてきた、学生の頃にはフィッツジェラルドのような作家に憧れていた、ということだそうです。おれもいつか巨万の富を得て、高級ホテルでパーティとかしながら、豪華な浪費生活を謳歌してやるぜ。……という作家への憧れ方は、一面なかなかイタい感性に見えるところですが、誰がどんな夢を持とうが、それは自由です。

 そのころから鈴木さんは、からだを動かし、あちこちに足を運ぶ行動派。小説を書くのに最も大切なのは自分の経験を増やすことだ、と考えて、大学時代のときにはアメリカ横断を計画します。しかし先立つものがなく、協賛でも宣伝でも企業をバックにつけなければと、大学卒業後の昭和58年/1983年、横断旅行をしながらそれを小説にして雑誌に連載する、というずいぶん虫のいい企画書を書いて、バイク雑誌の『モトラード』に売り込みます。けっきょくこの企画は実現せず、あきらめきれない鈴木さんはとりあえず友達たちといっしょにアメリカに渡り、レンタカーとバスを使いながらロサンゼルスからニューヨークまで旅をしますが、いつかはバイクで横断してやるぜ、という夢は胸に秘めたまま時を過ごします。

 作家になるまえから鈴木さんの頭のなかには、日本の土地だけにとどまらない、のびやかな世界が広がっていたようです。それも含めて、直木賞ももう少し、鈴木さんの雄大さが発揮されたような作品を、候補にすれば面白かったのにな、と悔やまれるところですが、ここら辺りはもう、時の趨勢に縛られなければ生きてはいけない直木賞の限界です。

 あげるチャンスを逃してしまうと、直木賞に取り戻しはききません。過去はもちろん今後も直木賞は、その性質上「あげそこね」を繰り返していくことは確実ですので、あんまりそのことをグダグダ言うのはやめておきたいと思います。

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2019年10月 6日 (日)

結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。

 直木賞をとったのに、直木賞のピラピラ・テカテカした雰囲気に一向に染まらなかった人は、80余年の短い歴史のなかでも山ほどいます。

 山ほどいる、ということは、それこそが直木賞の本質なのでは、と思うところですが、しかしだいたい文学賞といえばピラピラ・テカテカしているもの、という固定観念から抜け出せない人もまた、世のなかには山ほどいます。とりあえず、こういう掛け違いが直木賞を面白くしてくれている現象のひとつですから、それはそれで静かに放っておくのが一番です。

 第63回(昭和45年/1970年・上半期)に受賞した結城昌治さんなどは、明らかに染まらなかったほうの人でしょう。

 いちおう「テレ屋だったから」というふうになっていますが、直木賞のお祭り騒ぎとか、受賞しそうな人にベタベタ寄りつくジャーナリズムがわずらわしく、そういう関連の雑誌、週刊誌の事前の原稿依頼はすべて拒絶。受賞式のときには、恥ずかしいから来るなといって奥さんの出席をやめさせ、賞をとったからって何も変わるわけじゃない、自分のペースで自分の書きたいものを書く、と公言する。……染まらなさがあまりにスマートすぎて、逆にイヤミすら感じさせますが、「直木賞は文学賞として面白いですよね」と話を振っても、まず通じない感性の作家ではなかったかと思います。

 そもそも『ゴメスの名はゴメス』(第47回 昭和37年/1962年・上半期)、『白昼堂々』(第55回 昭和41年/1966年・上半期)と、この2作で受賞せず、「軍旗はためく下に」なんてもので受賞してしまうところが、型通りのスマートさが出ていて、何ともイヤミです。……いや、これはほとんど結城さん自身の罪じゃありません。直木賞の問題です。

 結城さんが推理小説作家としてデビューしたのは、昭和34年/1959年のこと。あれも推理物、これも推理物、という感じで出版界はてんやわんやの推理物ばやりで、中間・大衆文芸の界隈だけならまだしも、純文芸の方面にまで火ダネと騒ぎが広がっていったという、いまとなっては羨ましいぐらいの盛り上がりを見せましたが、文藝春秋社の編集者たちも、これはと目をつけた作家の推理物があれば、直木賞の予選をぞくぞくと通過させていきます。そしてたいがい最終選考会で落とされる、という展開が続くうちに、推理物では直木賞はとれない、などというホントのようなデマのような話が出版界を飛び交いました。

 そんななかで早川書房の日本ミステリ・シリーズの一巻として結城さんの『ゴメスの名はゴメス』が刊行されます。推理物(というかスパイ物)とはいえ、これが直木賞の予選を通過した理由は、もはや誰にもわかりません。もしくは「文学的にすぐれた作品だから」というあやふやな評価基準に適っていたからだ、と言うしかないんでしょう。しかしこの作品を傑作たらしめているゆえんといえば何でしょうか。舞台を日本に求めず、南北に分裂中だったベトナムに設定したところです。

 海外でいままさに起きている紛争は、一般に親近感を持ちにくい。いっぽうで、ベトナムが南北に分かれ、現実にスパイが暗躍している状況は、かつてこの地を侵略した日本や日本人にとっても無縁ではなく、いまの日本と地つづきでもある。……という結城さんの問題意識が作品の骨格を支えています。

 遠いようで近い、近いようで遠い、というこういう物語の設定は、大衆文芸や娯楽小説、エンタメ小説にとっては欠かせない要素かもしれません。そしてこれがあまりに離れすぎると、すぐに文句をいう選考委員が出てくる……という場面は直木賞ではおなじみの光景ですけど、そのスレスレを責めたがる予選の選考が、直木賞にはときどき現われることがあります。

 しかも『ゴメス』は、昔の海外をノスタルジックに描くわけではなく、時事性を備えている強みがあります。ホットでナウ。直木賞にとっては、そうとう意味のある候補だったと思います。

 ちなみに第47回の直木賞では、この候補作はさほど評価が高くなく、あっさり落とされました。いわく面白いといえば面白いが、それだけのもの、いわく後半の解決に難あり、木々高太郎さんあたりは「ソマセット・モームを学ぶ必要がある」とか何とか、木々さんお得意の、偉そうな知ったか選評で切り捨てるありさまです。

 木々さん辺りは、同じ推理小説作家であっても、賞があれば得はあっても損はない、どしどし目指すべきだ、という感性の人で、結城さんとはとうてい相容れないものがあったでしょうけど、この選評を読むだけでも、結城さんのやりたい創作は直木賞とは性が合わなそうだな、と感じます。

「別に賞をもらおうと思って小説を書いているわけではありませんからね。

私は、直木賞の時も別段これといって感じませんでした。実は、私は直木賞の候補になって二回落ちたことがありまして、もう直木賞は素通りだと思っていたのです。」(『小二教育技術』昭和60年/1985年7月号「作品の価値は賞を受けたか否かではない 作家結城昌治さん」より)

 と結城さんは、後年、吉川英治文学賞を受けたときに言っています。賞なんて自分の創作活動に何の関係もない、と言いたかったんでしょうが、でも、ああいう選考をされたら、まあおれのものは受賞できないだろうな、というあきらめが芽生えたとしても仕方ありません。

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«石野径一郎、通俗小説で汚れた自分の筆で、沖縄戦のことを書いていいのか思い悩む。