2018年5月20日 (日)

『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。

『断絶』

●刊行期間:昭和29年/1954年1月~(64年)

●直木賞との主な関わり

  • 松本孝(候補1回 第45回:昭和36年/1961年上半期)

 文学賞に限らず、何だってそうかと思いますが、ひとつのものには根っこが無数にあり、そこから追いきれないほどの枝葉が伸びています。『断絶』という同人誌もまた例外ではなく、調べれば調べるほど、まるで知らなかったことが次々に飛び出してくるので、正直、困惑しているところです。

 昭和36年/1961年上半期、松本孝さんの「夜の顔ぶれ」という、一作の直木賞候補作を生んだ同人誌『断絶』は、昭和29年/1954年1月に、早稲田大学の学生だった春嶽哮、浅井良、藤井博吉、山本浩、水田陽太郎、この5人が始めたものだと言われます。当時、その界隈にはやたらと同人誌が群生し、掛け持ち、移籍、喧嘩別れ、幽霊同人、さまざまな現象が華ざかり。すぐにつぶれては新しいグループが発生し、そしてまた闇のなかへ消えていくなど、あまり長続きするような雑誌は見られませんでした。

 『断絶』もやはり、3号を出したあたりのところで、いざこざが起こり、抜ける人、居残る人の二つに分かれます。残ったのが浅井さんと、彼に誘われて同人となっていた武山博さんでしたが、そこに、同じ早稲田でつくられた『波紋』(のち『破紋』)『斜線』『浪漫文学』などに属していた馬場一郎さんが移ってきて、心機一転、立て直しをはかろうとするものの、それに不満をもつ人がすぐに抜けて……と、揺れは全然おさまらず、そのまま泡沫同人誌の足取りをたどるか、と思われました。

 しかし、ここからしぶとく誌歴を重ね、ついには100号を迎えて、創刊60年を超えてしまったのですから、敬服の二文字以外にどんな言葉が見つかるでしょう。ここで多くの人が口々に語るには、第74号(平成5年/1993年3月)まで30年以上、多忙を極める会社勤めをまっとうしながら、同人費の徴収、原稿の催促、とりまとめ、印刷所との交渉などなどの実務を一手に引き受けた同人、馬場一郎さんの存在が大きかった、ということです。

 それだけでも馬場さんは、同人誌界の偉人と呼んで差し支えありません。その割りに、あまりそちらでの逸話を見かけないのは、手間と時間を費やして雑誌を出し続けるぐらい、同人誌の人にとっては当たり前、ということなのかもしれません。

 じっさい馬場さんといえば、商業出版での活躍のほうが有名です。

 早稲田大学仏文科を卒業後、昭和28年/1953年に入った平凡社に長く勤め、一時は営業に回されて、つらい日々を送りながら、不屈の仕事ぶりで編集のフィールドに返り咲き、文芸誌『文体』の復刊なども手がけるうちに、『太陽』編集長として、多くの後輩や外部の書き手たちをたばねて、一大文化を築いたことは、いまも語り継がれる伝説となっていますし、昭和56年/1981年には社内のゴタゴタに巻き込まれるかたちで社を飛び出すと、仲間たちとともに青人社を起こして社長に就任、嵐山光三郎さんや筒井ガンコ堂さん、その他、クセしかないような面々に慕われながら、出版事業を展開し、平成5年/1993年4月に63歳で亡くなった有名編集者、ないしは有名出版人です。嵐山さんの『昭和出版残侠伝』(平成18年/2006年9月・筑摩書房刊)には重要な役どころの〈ババボス〉として登場します。

 そういう人の、もうひとつの顔が同人誌作家だった、というのですから、心が震えないわけがありません。もとより馬場さんは、学生時代から文学に強い情熱を抱き、サラリーマンとして不遇の身に甘んじたり出世したり、あるいはベンチャー的に新しい会社を立ち上げて、その経営に悪戦苦闘するあいだもずっと、『断絶』を刊行しつづけました。ときに、平凡社で知り合った人たちを同人活動に誘うこともあり、アルバイトをしていた吉田善穂さんとか、後輩社員だった高橋健さんや海野弘さんなども、馬場さんに声をかけられて『断絶』に参加しています。

 そういったなかで、没後には充実した編集の〈馬場一郎・追悼号〉(第75号 平成5年/1993年10月)が編まれますが、そこに寄せられた武山博さんの、こんな一文を読むと、感傷的にうるっと来てしまうのが自然でしょう。

「葬儀の時、耳にした弔辞は、それぞれ心に迫るものがあった。事実、君(引用者注:馬場のこと)は編集者として大成され、多くの逸材を世に送り出した。だが、出棺にあたり、われわれの雑誌を胸に抱いている君に供華して別れを告げた時、死ぬに死にきれぬ君の無念さを思い、思わずぼくの胸はつまった。

どれほど、君は文学者として評価され、葬られることを望んだことだろう。」(『断絶』75号 武山博「原風景と私」より)

 平凡社に伸びる枝だけじゃありません。『断絶』には、先に書いたように早稲田の人たちとか、あるいは神田の「東京堂」、新宿の「紀伊國屋書店」などの店頭でも売っていたので、それを見て入会してきた一般の読者が同人の大半を形成し、詩人の廣田國臣さんから、久根淑江さん、小松文木さん、興津喜四郎さんなど、興味深い書き手が続々といます。これはこれで探索していきたい欲がムクムク沸いてきます。

 ただ、ここまでの概略を知るまでに、ずいぶん時間を使ってしまって、疲労も困憊。あとはまたいずれ……としたいところなんですが、やはり松本孝さんのことには、少し触れておきたいところです。直木賞専門のブログですから、そこは避けて通れません。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月13日 (日)

『大衆文芸』…直木賞はもっと雑誌掲載作に重点を置いてほしい、と懇願する雑誌編集者。

『大衆文芸』(第三次)

●刊行期間:昭和14年/1939年3月~(79年)

●直木賞との主な関わり

  • 村上元三(候補2回→受賞 第9回:昭和14年/1939年上半期~第12回:昭和15年/1940年下半期)
  • 河内仙介(受賞 第11回:昭和15年/1940年上半期)
  • 神崎武雄(候補1回→受賞 第12回:昭和15年/1940年下半期~第16回:昭和17年/1942年下半期)
  • 大林清(候補2回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 長谷川幸延(候補7回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和29年/1954年上半期)
    ※うち第13回・第14回以外は別の媒体に発表した作品での候補
  • 大庭さち子(候補2回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第14回:昭和16年/1941年下半期)
    ※うち第10回は別の媒体に発表した作品での候補
  • 山手樹一郎(候補1回 第19回:昭和19年/1944年上半期)
  • 山田克郎(候補1回→受賞 第21回:戦後-昭和24年/1949年上半期~第22回:昭和24年/1949年下半期)
    ※うち第22回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 三橋一夫(候補1回 第27回:昭和27年/1952年上半期)
    ※ただし、雑誌掲載作を単行本化した段階での候補
  • 井手雅人(候補1回 第30回:昭和28年/1953年下半期)
  • 戸川幸夫(受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 邱永漢(候補1回→受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期~第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 野村敏雄(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 小橋博(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第48回:昭和37年/1962年下半期)
  • 赤江行夫(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 穂積驚(受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 池波正太郎(候補5回→受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期~第43回:昭和35年/1960年上半期)
    ※うち第43回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 平岩弓枝(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 木本正次(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 夏目千代(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 杜山悠(候補3回 第45回:昭和36年/1961年上半期~第47回:昭和37年/1962年上半期)
    ※うち第47回は単行本作品での候補
  • 武田八洲満(候補4回 第64回:昭和45年/1970年下半期~第73回:昭和50年/1975年上半期)
    ※うち第64回以外は単行本作品での候補

 今日は少しばかり番外編です。

 昭和14年/1939年に創刊された第三次の『大衆文芸』は、昭和38年/1963年9月号から発行元が新鷹会に変わり、一部を除いて書店売りから撤退、ほぼ他の同人誌と変わらない、ほそぼそとした姿になりました。その意味では、「同人誌と直木賞」のテーマで取り上げてもOKだと思うんですけど、じっさいそうなってからの『大衆文芸』は、ほとんど直木賞候補作を送り出していません。

 この雑誌が直木賞と密接にからみ、からまれ、両者そろって世間に流布する「大衆文芸」のイメージを覆そうと奮闘していた時代、昭和38年/1963年までの『大衆文芸』は、『オール讀物』とかそういう雑誌と同じく一般の読者を想定して市販されていた立派な商業誌です。なので本来であれば、同人誌を紹介する企画では、違和感があります。

 しかし、主要な執筆陣がだいたいヒモ付きの……と言いますか、新鷹会その他で長谷川伸さんを大将と仰いで創作の勉強に励む人たちだったことは、まぎれもない事実ですし、『早稲田文学』を同人誌だと見るなら『大衆文芸』だって同じ類いだろう、という極論もなくはないので、何だかんだと言い訳しながら今週は、この雑誌のことでいきます。正直、「同人誌と直木賞」にまつわるネタがいよいよ尽きてきた、という事情もあります。

 第三次『大衆文芸』の創刊経緯、といったようなハナシは、ネット上にゴロゴロ転がっているので、そこはすっ飛ばしますけど、何といっても『大衆文芸』は、直木賞エピソードの宝庫です。そして直木賞との関わりの、ほとんど大部分に顔を出す、と言っていいのが、商業誌だった時代に長く編集に携わった新小説社の島源四郎さんでしょう。

 生みも生んだり、直木賞の受賞者9名。落ちも落ちたり、直木賞の最終候補者11名。その全員を公然と励まし、大衆文芸界に(いや、文芸界全体に)新たな息吹となる作家を送り込みたいと、人生を賭けて、ほとんど儲けにもならない出版事業をつづけては愚痴り、愚痴っては雑誌づくりに邁進したという、相当に熱い人です。

 熱い。すなわち、少々鼻につく。……という状況は、どうしても避けがたく、ここで精進していた作家たちは、長谷川伸さんを慕ってはいても、島さんを慕って集まってきたわけじゃありませんから、いろいろ文句や不満を抱えていた様子が、各作家の回想などからもうかがえます。と、こんなハナシは、いつか以前にも触れた気がします。

 島さんと直木賞とのまじわり、ということでは、やはり第一に目につくのが『日本古書通信』の「出版小僧思い出話」(昭和59年/1984年7月号~昭和60年/1985年7月号)なんですが、こればかり紹介するのも芸がないな、と思い、とりあえず『大衆文芸』の毎号、あとがき代わりに載っていた「編集者の手帳」を読んでみたところ、これが素晴らしく鼻につく、……すなわち熱い雑誌編集者ダマシイに彩られた文章の数々であることに気づき、目をひらかれました。

 直木賞の歴史のなかでも、運営をになう文藝春秋社→日比谷出版社→文藝春秋新社→文藝春秋、これらの会社以外では最もこの賞に愛されたと言ってもいい「新小説社」という小さな出版社の、直木賞に対する情愛、もしくは情念といおうか執着が、毎年夏と冬になると必ずほとばしっている、島さんの個性そのものだと、たぶん呼んでも差し支えない第三次『大衆文芸』。この雑誌の直木賞ウェーブは、戦前と戦後、二つの山がありますが、今週は、その島さんが「編集者の手帳」を書いていた戦後のほうに絞ってみたいと思います。

 取り上げたい島語録はいろいろあるんですけど、直木賞について言えば、種類はそんなに多くないかもしれません。島さんの直木賞観は、ほとんどコレ一本と言ってもいいからです。

「今年も直木賞の選考会がやって来た(引用者中略)二百数十篇の中より予選されて、最後に残った作品は何れも優秀な作品であることは今更申上げるまでもない。本誌はその難関を突破した作品を毎回のように送って来ている、自慢ではない、本誌に寄せられる作者の並々ならぬ努力の賜物であると同時に根強く支持して下さる皆様方の御声援も大きな力を持っていることを感謝する」(『大衆文芸』昭和31年/1966年2月号「編集者の手帳」より ―署名:(G))

 決して自慢ではないけれど、言わずにはいられない、直木賞予選への揺るがぬ執念。コレ一本です。

 別の号では、直木賞の候補発表の季節がくると、われわれ雑誌編集者は、この半期にいい作品を掲載できたか試されている気分になる……といったようなことも言っています。でも、果たして『大衆文芸』の編集者以外に、半年ごとにそんな心境になっていた人が、他にいたでしょうか。直木賞と芥川賞の最大の違い、ともいえるのが、芥川賞はだいたい毎回、どういう雑誌から候補が選ばれるか、みんなわかっているけど、直木賞はそうではない、という点です。当時、昭和20年代後半から昭和30年代でも、その違いは確固たるものがあり、芥川賞はともかく直木賞のほうの予選を通過するのは、出合いがしらの事故のようなものでした。

 うちの雑誌から何が直木賞の予選を通るかな、といつもワクワクしていたのは、文春の編集者のほかには、『大衆文芸』ぐらいしかいなかったと思います。こんなに、ひんぱんに直木賞、直木賞とその話題を誌面に載せる他社の雑誌は、その当時、まず見かけたことがありません。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 6日 (日)

『玄海派』…どうせ虚栄心や嫉妬が渦巻いているに違いない、と小説のモデルにされた唐津の雑誌。

『玄海派』

●刊行期間:昭和41年/1966年8月~平成8年/1996年?(30年)

●直木賞との主な関わり

  • 河村健太郎(候補2回 第56回:昭和41年/1966年下半期~第62回:昭和44年/1969年下半期)

 古川薫さんは、同人誌『午後』に発表した「走狗」で初めて直木賞の候補になったとき、選考委員だった松本清張さんに注目され、「今回の候補作家の中で、最も将来伸びうる人ではないか」と激賞されました。遠く50年以上もまえのハナシです。昨日5月5日、その古川さんの訃報に接し、「同人誌と直木賞」のテーマで触れるような人たちは、もはや誰も生きていない時代になってしまった、と痛感しないわけにはいかないんですけど、と同時に、直木賞という事業の、無用に長くて、とりとめもない歴史を見ることの面白さを、改めて感じるところです。

 さらに前置きをつづけて、先週取り上げた同人誌のひとつ『南方文学』に、もう一度目を向けてみますと、古川さんが白石一郎滝口康彦のご両人と出会うきっかけになったこの雑誌は、それまで同人誌の経験のなかった白石さんが、いきなり初の直木賞候補入りを果たしたことで、この賞の歴史に大きな足跡を残しましたが、昭和45年/1970年に中村光至、石沢英太郎の二人に加えて、白石、滝口、岩井護という5人で創刊したあと、まもなく追加で加入したのが、下関の古川さんと、佐賀の河村健太郎さんです。合わせて「七人の会」と称することになります。

 みんな、その後に立派に小説家として立ち、賞をとったりとらなかったり、ともかく長いこと創作をつづけた人たちばかりです。おそらく小説家としての活躍がなかったのは、ただひとり、河村さんだけと言っていいでしょう。

 「七人の会」に参加したころ、すでに河村さんには、直木賞候補に2度挙げられた経験がありました。はじめての著書を出したばかりでもあり、さあ、これからだ、と創作意欲に燃えていたと思います。しかしまもなく、まったく創作をやめてしまう、というナゾの行動に出たことで、逆に直木賞の伝説として楔を打ち込んだ人です。

 その河村さんの本拠地ともいうべき同人誌が、今週取り上げる『玄海派』なんですが、昭和23年/1948年、笹本寅さんがいっとき佐賀県唐津に帰郷、そのときに同地で結成した松浦文化連盟という団体が、いろいろと活動するうちに、「文芸誌をつくろうよ」という強い声に包まれるようになったところで、果敢に立ち上がったのが、唐津文芸界のドンこと、松浦沢治(旧筆名は松浦沢二)さん。当時、佐賀県文学賞の審査員をしていた松浦さんは、応募者のなかに意外と唐津在住の人が多いのを知り、それなら唐津で作品主体の雑誌を出すのも意義があるだろう、と腰を上げたのだと言います。

 佐賀には、すでに『城』という有名(?)同人誌がありました。松浦さんも、もとはそこに属していたひとりでしたが、以前、滝口康彦さんと同誌のエントリーで、ちょこっと紹介したように、昭和38年/1963年に池正人さんのランボオの訳詩をめぐって、同人のあいだで犬も食わない大喧嘩が勃発してしまい、集団は分裂。ものの本によるとこの一件は、佐賀県あたりでは「文学・佐賀の乱」と、なかなかオーバーな呼称で知られているそうで、こういういざこざは、傍目から見ると異様に面白い、というのは多くの人が実感するところでしょうが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、泣く泣く割愛します。

 分裂後、『文学佐賀』の立ち上げに参加した松浦さんですが、まもなくそこも離れて、今度は地元・唐津で始めたのが『玄海派』です。「名ばかりの同人」なんて必要ない、きちんと作品を発表した者だけを同人とする、という実作主義を掲げたこの雑誌の第一集に載ったのが、『文学季節』同人の田中乙代さんに書いてもらった「おとずれ」と、貝原昭さんの詩「廃墟の朝焼け」、三浦外喜守さん「傷痕」、中村一三さん「白南天」、松浦沢二さん「滝」、そして河村健太郎さんの「大きな手」でした。

 このうち、原稿用紙で50枚程度に過ぎない「大きな手」が、いきなり第56回(昭和41年/1966年・下半期)の直木賞候補に選ばれてしまったのですから、驚きというしかありません。佐賀県下にも、ちょっとした衝撃が走ります。

「一番バッターがいきなり三塁打をかっ飛ばした感じで、当地方の有識者に与えた反響は大きかったようだ。」(三浦外喜守)「彼の健闘には郷土の期待が集っている。」(松浦沢二)(『玄海派』第2集[昭和42年/1967年5月]「編集後記」より)

 河村さんも、かつては松浦さんと同じく『城』の同人だった人ですが、これも途中で『城』を抜け『玄海派』の創刊に参加、最初の最初で大きな賞の候補になったことで注目され、このまま受賞していれば、さぞ面白い(いや、佐賀全体が盛り上がる)事態になっただろうと思います。というのも河村さんは、直木賞候補に挙がってしばらくのあいだ、『城』同人の何人かから目のカタキにされたか、目のカタキにされていると意識していたらしく、昭和46年/1971年『朝日新聞』に「文化における中央と地方」という文章を発表したところ、『城』の山本巖や都筑均が、これを勝手に曲解・誤読して難癖をつけてきた、ああ煩わしいことこのうえない、といったエッセイを書いているからです(『玄海派』9集「「地方」文化の「方法」について」)。単なるやっかみなのか、それとも都筑さんたちの意見のほうが正常なのか。ここも突っ込んでいくと面白いところかもしれませんが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、やはり泣く泣く割愛します。

 うちの雑誌には、嫉妬とか反目とか足の引っ張り合いとか、そういう陰湿なものは何ひとつない、と第2集の「編集後記」に書いたのは、『玄海派』の三浦外喜守さんですが、その言葉を疑う理由はなく、たしかにそうだったことでしょう。純粋にそれぞれの文学を高め合っていきたい、という気持ちを全員が共有している。素晴らしいと思います。

 やがて『玄海派』からは、山下惣一さんというバツグンにユニークな作家が登場し、もちろん同人たちにつぶされることもなく、農と文学の融合を、のびのびとやってのけます。残念ながら、これを賞賛できるほどの先見性が直木賞にはなく、候補に挙げながらも落としてしまい、直木賞にひとつの小さな汚点をつくってしまうんですが、山下さんは山下さんで、小説だけでなく、ノンフィクションやルポにも才を見せ、マスコミや出版界が、そういう方面からの書き手を欲していた時期にも重なって、まったく直木賞の出る幕はなくなりました。

 その他、病院長を務めていた同人の進藤三郎さんが資金を提供してS氏賞という賞をつくり、毎年松浦さんたちが運営して、佐賀県下の同人誌の作家たちに奮起の機会を与えるなど、せまい党派意識を捨てて、それぞれが前を向いていこうぜ……というのが、おおむね『玄海派』のたどった歴史だと思います。しかし、そうして着実にまっとうに刊行されつづけていた昭和51年/1976年、いきなり外部から見舞われた下品で下世話な視線もまた、同誌の歴史のひとつではあるので、すみません、後半は少しそのことに触れてみます。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月29日 (日)

『現代作家』『南方文学』『狼群』…大衆文芸の作家が同人誌をつくってもいいじゃないか、という福岡周辺での盛り上がり。

『現代作家』

●刊行期間:昭和37年/1962年6月~昭和42年/1967年8月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 中村光至(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

『南方文学』

●刊行期間:昭和45年/1970年5月~昭和46年/1971年4月(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 白石一郎(候補7回+受賞 第63回:昭和45年/1970年上半期~第97回:昭和62年/1987年上半期)
    ※ただし第63回以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

『狼群』

●刊行期間:昭和47年/1972年~昭和49年/1974年11月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補9回+受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期~第104回:平成2年/1990年下半期)
    ※ただし第72回(昭和49年/1974年下半期)以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

 昭和30年代から昭和40年代の直木賞は(……いや、直木賞に限ったことじゃないですが)、とにかく中間小説誌が天下をとった時代です。と同時にいっぽうで、西のほうの地方で大衆文芸と同人誌の文化が融合、スパークを起こした時代でもあります。

 すでにこれまで、古川薫さんが出た下関の『午後』(昭和36年/1961年創刊)滝口康彦さんが加わった佐賀の『城』(昭和38年/1963年に第二次出発)を取り上げました。ここでもうひとつ、スパークへの導火となった雑誌があります。福岡の『現代作家』(昭和37年/1962年創刊)です。

 この雑誌については、福岡市文学館の『文学館倶楽部』16号[平成25年/2013年3月]に、坂口博さんの「福岡の文学雑誌「現代作家」」という丁寧な解説記事と、創刊号~最後の第11号までの総目次が載っていて、必見の資料なんですが、基本、大衆文芸とは遠い存在にあったことがうかがえます。その点では『午後』や『城』とも似たものがありますけど、「はじめから大衆文芸を目指すヤツなどいない」という、あからさまな偏見が、文学のまわりをぶ厚く覆っていた頃につくられた雑誌ですから、仕方がありません。

 それはそれとして、『現代作家』の中心人物のひとりだったのが中村光至さんで、福岡の地で『九州文学』から、『文學街』(昭和26年/1951年・以下創刊年)、『九州作家』(昭和28年/1953年)、『地標』(昭和29年/1954年)、『藝術季刊』(昭和30年/1955年)などなど、いくつもの同人誌に関わったり、みずからつくったりするうちに、昭和35年/1960年に応募した「交叉点」が〈オール新人杯〉の次席、半年後には「白い紐」が〈オール讀物新人賞〉と名称の変わったこの賞を受賞して、いよいよ筆も乗り始めるかと思われたのが、38歳のときでした。

 ただ、『オール讀物』の新人賞をとったぐらいで、すぐに筆一本で食えるようにはならない。という事情は、昔も今も違いません。中村さんも福岡県警に籍を置きながら、稿料の出る原稿から、同人誌用の無償の小説まで、いろいろと書きつづけます。すると、こんどは直木賞が今とは違って「新人賞をとっても次々と商業出版界に乗り出していけるわけではない人たちを、救済するシステム」という性格を内蔵していたおかげで、中村さんの場合も、商業誌に書いたものではなく、同人誌に発表した小説が、直木賞の予選を通過することになりました。昭和40年/1965年、『現代作家』9号全138ページの9割程度を使った長篇430枚の、「氷の庭」です。

 これが直木賞の候補となったことで、中村さんの文名が一気に上がったことは間違いありません。この年、講談社から単行本化されたこの作品が、中村さんの処女出版となり、福岡地域に居を構える大衆文芸(いや、中間小説)分野の作家のひとりとして存在感を示し始めます。

 しかし、根が純文学志向の高い同人誌出身の人でもあった。ということが、その後、直木賞に対して隠れた、だけども大きな功績を残すことにつながるのですから、何とも面白くてワクワクしてきます。おのずとテンションの上がるところでしょう。

 このときキーマンとなったのが、その『現代作家』に途中から加入し、中村さんとともに文学の熱を高め合っていた仲間、鵜飼光太郎さんです。本名は澤井覚、一般には推理作家の石沢英太郎として知られています。

 中村さんが、オール讀物新人賞受賞、直木賞候補入りで光を浴びたのと、ちょうど同じころ、鵜飼=石沢さんもまた、昭和37年/1962年にオール讀物推理小説新人賞の最終候補に残り、昭和38年/1963年には宝石短編賞で「つるばあ」が佳作、昭和41年/1966年に双葉推理賞を「羊歯行」で受賞と、かなりの猛ダッシュを見せます。さあ、原稿料を稼ぎながら作家としての腕を高めていかなければならない、そんな状況になったとき、石沢さんが思いついたのが、近くに住んでいる大衆文芸エリアの作家たちだけで、何か同人誌をつくれないかな……ということでした。

 おお、それはいい、やってみようか、と応じたのが、同人誌を何誌もつくっては渡り歩いてきた中村さんです。福岡にいた岩井護さん(昭和37年/1962年講談倶楽部賞佳作、昭和43年/1968年小説現代新人賞受賞)、白石一郎さん(昭和32年/1957年講談倶楽部賞受賞)、佐賀の滝口康彦さん(昭和30年/1955年講談倶楽部賞佳作、昭和34年/1959年オール新人杯受賞、他多数)という3人に声をかけ、そこに石沢さんと中村さんが加わり、昭和44年/1969年2月、西日本新聞の役員室で、新雑誌創刊の座談会をひらくまでにこぎつけます。

 まさに、これが九州北部+山口エリアの、大衆文芸でカネを稼ぎはじめた作家たちが、いっしょに同人誌をやる、というスパークの発火となった瞬間です。直木賞の歴史に燦然と輝く〈西国三人衆〉現象にまでつながる契機ともなった、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでもとびきりの、思わず感動で震えてしまう一大事件と言っていいでしょう(と、震えているのは、ワタクシだけかもしれません)。

「この「南方文学」を出すまでに、一年半かかった。昨年のはじめには、秋に出そうと準備はしたのだが、誕生まで優に一年半はかかった。たいへんな難産であった。雑誌創刊の話が出てから、PRの方がむしろゆきとどいてしまって、発行がおくれていることにだいぶお叱りをちようだいした。」(『南方文学』第1集[昭和45年/1970年5月]「あとがき」より ―署名:(中村))

 ということで、この集まりを提唱した石沢さんだけでなく、そこに共感を示し、段取りをつけ、編集の責務を担って、どうにか刊行を実現させた中村さんの努力もまた、尊いものだと記しておきたいと思います。創刊時に5人だった同人は、まもなく下関の古川薫さん、佐賀の河村健太郎さんという、直木賞候補経験者の2人を迎えて7人となりましたが、中村さんによれば、『南方文学』は「二号出したが、これも経済的な理由で廃刊に追いこまれた」(昭和63年/1988年10月刊『石沢英太郎 追悼文集』)と、短命中の短命に終わってしまいます。

 しかし何といっても、倶楽部雑誌の出身で、どこぞの文学的師匠の庇護があるわけでもなく、直木賞みたいな文学賞には遠いところにいたはずの白石一郎さんが、『南方文学』発表の一作で、はじめて直木賞の候補に入り、その作家的環境を大きく変えることになったという、なかなかの成果を残しました。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月22日 (日)

『日輪』…将棋の世界を描いた吉井栄治、何の奇跡か直木賞候補になる。

『日輪』

●刊行期間:昭和24年/1949年10月~昭和25年/1950年8月?(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 吉井栄治(候補1回 第23回:昭和25年/1950年上半期)

 昔の直木賞のことなど調べて何の意味があるんだ。と、よく言われます。

 いちいち意味を考えて、そこに価値があると判断してから動くような、スマートな生きかたがどうしてもできません。何の意味があるのか、自分でもいまだに不明です。

 ……ということを改めて思い返したのは、春日井ひとしさんが平成25年/2013年から作成されている冊子《昭和八年 文学者のいる風景》シリーズというものがあり、少し前に、その8編目に当たる『昭和八年の織田作之助・上 三高の青春』(平成30年/2018年1月)を頂戴したんですが、うはあ、細かいところまで調べ上げているぞ、さすがだなあ、と感嘆しながら読んでいたところ、織田作之助さんの高津中学時代の親友、吉井栄治さんのハナシがそこに出てきたからです。

 吉井さんという人は、直木賞の候補一覧の、第23回(昭和25年/1950年・上半期)のところに登場する人物ですけど、ふつうに暮らしていて、まず目にする名前ではありません。いったいこの人は何者なのか。候補作はどんな作品なのか。どうしても知りたくなって、やむにやまれず調べたことがあります。

 いまだったら、このブログに書くところですが、当時はまだ本体のサイトしかなかったので、「小研究」コーナーに「将棋・オダサク・直木賞~吉井栄治メモリアル」という調査ページをつくりました。かれこれ10数年前のことで、まだ『文学雑誌』に杉山平一さんが存命だったころです。問い合わせの手紙を送ってみたら、ご返信があったんですが、そこに杉山さんがこんなふうに書かれていたことを思い出します。どうして、いま吉井栄治などに興味をもったんですか――と。

 どうしてなんでしょう。答えは見つかっていません。だけど、いつの時代の直木賞でも、それに関わるあれこれを知るのは無上に楽しい、というたしかな実感だけはあります。それで十分といえば十分です。

 と、10数年前にやっていたレベルから、いまも全然成長していなくて、まあこれが自分の限界だから仕方ないんですが、吉井さんの候補作が載った同人誌『日輪』を、いま一度「同人誌と直木賞」のテーマのなかに置いてみると、他とは明らかに違う様相、性格、歴史的背景をもった一誌だと、これは断言することができます。

 直木賞が同人誌の、とくに東京以外で発行されている同人誌の掲載作を当たり前のように候補に挙げはじめるのは、昭和30年/1955年前後からです。ちなみに『文學界』で同人雑誌評がスタートしたのが昭和26年/1951年、『新潮』で全国同人雑誌推薦小説特集をやり出したのが昭和25年/1950年で、文芸出版社の同人誌に対する注目度が勢いよく増していた状況が、なぜか大衆文芸を標榜していたはずの直木賞にも波及したという、なかなか震える展開を見せた一現象ではあるんですが、『日輪』から候補が選ばれたのは、それよりもっと前の時代です。

 関西方面でこっそり出された、有名でも何でもないこの同人誌が、日本文学振興会の予選の人たちの知るところとなったのは、何の風が吹いたのでしょう。たまたまだとしたら奇跡に近く、やはりこれは当時、候補作選びの参考アンケートを依頼される立場だった藤沢桓夫さんが、推薦したのに違いない。可能性としては、それぐらいしか思い浮かびません。

 『日輪』は、そのころ芦屋市に住んでいた中野繁雄さんと吉井さんが、おそらく戦後に湧き上がったお互いの創作欲をぶつける場として創刊したものと思われる、ほんとうに小規模な雑誌です。じっさい創刊経緯は不明なんですけど、編集兼発行人は最初から最後まで中野さん、ただし創刊号のみ、編集部は吉井さんの自宅に置かれたようです。

 中野さんのほうはともかく、吉井さんは昭和14年/1939年に織田さんに誘われて『海風』に加わると、『大阪文学』(昭和16年/1941年~昭和18年/1943年)へと移り、戦後には、藤沢桓夫さんが中心となった『文学雑誌』(昭和22年/1947年~)に同人として参加、『文学雑誌』が休刊していた昭和24年/1949年から昭和25年/1950年のほんのいっとき、『日輪』を興して作品を発表しました。『文学雑誌』はまもなく復刊して、のちにまで残りましたが、『日輪』のほうはすぐにつぶれてしまった、と見られます。

 かたや、戦後ぐずぐずしながら昭和24年/1949年にようやく復活した直木賞ですが、復活の第1回(通算第21回)が富田常雄、第2回が山田克郎と、選考委員のお仲間か、ちょっと後輩ぐらいの、作家歴の古い人に贈られ、第23回(昭和25年/1950年・上半期)にいたってその路線がくっきり明瞭になってしまいます。「今さらか、みたいな人ばかりが受賞して、つまらないな」という感情は、いまの直木賞をリアルタイムで見ている人たちには共感できるものかと思いますが、当時もそういう批判が直木賞に対して結構飛びました。

 だけども、そういうなかで、吉井栄治という、世間でおなじみじゃない人を、しれっと候補に選ぶこの心意気。単に藤沢桓夫さんの(文藝春秋周辺における)存在感が、当時は尋常じゃないぐらい重かった、ということかもしれませんが、大衆文芸の新人を同人誌から発掘しようという風潮のまだ薄かった昭和25年/1950年に、それをやってのけた直木賞の姿を見て、ワクワクと心弾まない人がいるのだとしたら、そういう人はどうかしていると思います。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月15日 (日)

『暖流』…新橋遊吉の受賞の影で、ひっそり徳島に帰った中川静子の、その後。

『暖流』

●刊行期間:昭和36年/1961年10月~昭和52年/1977年12月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 中川静子(候補2回 第52回:昭和39年/1964年下半期~第53回:昭和40年/1965年上半期)
    ※ただし第52回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 ああ、新橋遊吉さん。ついに帰らぬ人となってしまいました。

 新橋さんといえば、同人誌の作品で直木賞を受賞した数少ない体験者ですから、当然、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでは重要人物のひとりです。あまりに重要だったもので、『讃岐文学』のエントリーを書くときにさっさと触れてしまい、改めて語ることもないんですが、もう一誌、直木賞に関連した同人誌で、新橋さんと縁のあったものがあります。せっかくなので、今週はそれで。

 昭和36年/1961年に創刊された『暖流』は、徳島出身の貴司山治さんが主宰格となって率いた雑誌です。徳島から日本の文壇に通用する作家を育てて羽ばたいていってもらおう、というのを目的のひとつに掲げ、当時なかなかキテた新進の佃実夫さん、岡田みゆきさん、近藤季保さんなどの参加を見て、同人からの会費徴収は0円、掲載にかかる費用も0円、お金は全部、貴司さんが負担するという、丹羽文雄さんみたいな太っ腹なことをしていました。その創刊理念や発刊経緯を見てもわかるとおり、徳島ラブな心を芯にもつ、徳島人のための同人誌です。

 しばらくはそれで順調に号数を重ねていきますが、カネも払わず原稿だけを同人誌に書く、という構造が当事者意識の薄れにつながったものか、だんだん原稿の集まりが悪くなっていきます。これじゃいかんと貴司さん危機感を抱いて、同人たちに相談のうえ、ふつうの同人誌みたいに会費をとり、メンバーは徳島人だけで構成するという縛りもやめて、再スタートを切ったのが第6号(昭和41年/1966年1月)からでした。

 そこで新規に加入してきたのが、お隣り香川県で自前の同人誌をやっていた永田敏之さんや亀山玲子さんで、これはもともと『四国文学』を主宰していた佃さんが、亀山さんの筆力と情熱に感心していたところ、『暖流』の門戸が開かれたタイミングで、彼女を誘ったそうです。また、佃さんと永田さんは旧知の間柄でしたから、二人の加入は何の障害もなかったものと見られます。

 しかし、亀山玲子のいるところ、だいたい髪結いの亭主がくっついてくる……という法則が、あったわけじゃないんでしょうが、亀山さんの旦那、新橋遊吉さんは、妻が新たに入るという『暖流』の、同人の顔ぶれを見て、こんな立派な人たちがいる雑誌なら、おれも入りたいなあ、と口走ったとか何だとか。とはいえ、そのとき彼には『行人』に発表した「内輪外輪」と、『讃岐文学』の「八百長」ぐらいしか作品がなく、まだおれには『暖流』の仲間になるほどの資格はない、とあきらめますが、直後に「八百長」が第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補に選ばれたことがわかり、しかも誰もがびっくり仰天したことに、一発で受賞までしてしまいます。

 そういった縁で、新橋さんは『暖流』のほうにも「『暖流』の人びとと共に」(7号・昭和41年/1966年7月)というエッセイを載せ、あるいは佃實夫さんによる「東京例会の記――新橋遊吉祝賀会――」(同号)や「『八百長』出版記念会の記」(8号・昭和42年/1967年4月)などの紹介文が載り、祝賀ムードを『暖流』に送り込みます。かつて、直木賞と芥川賞ができた当初、どうせこんな賞はすぐにやめるだろうと憎まれ口を叩いて菊池寛さんにムッとされた、『暖流』の親分、貴司さんとしても、やはりこうして縁のある人が直木賞受賞でパーッと騒がしくなることには、ご機嫌だったようです。

「受賞式の翌日の夕刻、内幸町もとのNHKの前あたりの地下レストランで「暖流」主催の受賞記念パーティが東京在住の同人によって催された。(引用者中略)新橋遊吉は名前を変え芥川賞を狙え、次は亀山が直木賞を獲れ。貴司先生がいったのか、佃氏がいっているのか、ビール瓶とコップのかち合う音とともに聞えて来たのがまだ耳もとに残っている。」(『讃岐文学』25号[昭和49年/1974年11月] 永田敏之「なつかしい貴司先生」より)

 と、いや、これは佃さんのテンションが上がっただけかもしれませんが、貴司さんがこの受賞を歓迎したのは次の文章を読んでも間違いありません。

「暖流の会の改組は成功だったようだ。

新しい会員がいろいろはいってきて、それが新しい血液となり、徳島の同人の創作慾を刺戟もしたらしい。

ことにそういうイミの一と騒ぎが生じたのは新橋遊吉君の直木賞受賞事件だった。」(『暖流』7号[昭和41年/1966年7月] 貴司山治「暖流雑記」より)

 ほとんど忘れられたプロレタリア作家、と見られておかしくなかった貴司さんが、ふるさと徳島のために私財を投じてつくった雑誌が、こうやって盛り上がって一つの成功を見たのですから、よかったよかった。とホッとしたのも束の間、創刊時から『暖流』を支えつづけてきた佃さんが、自作『阿波自由党始末記』について貴司さんから酷評のような私信が送られてきたことにブチ切れて、10号の編集途中で憤然と脱退。別のハナシによれば、「○○はおれが育てた」ふうの偉そうな姿勢をとりつづける貴司さんの傲慢さに耐えられなかったのでは、ともいいますが、ともかく10号以降は、有力な同人がごっそりと抜けて、なかなか苦しい同人誌活動となり、昭和48年/1973年11月、貴司さんが亡くなると、もはや立て直す余力もなく、昭和52年/1977年に3年半ぶりに第17号を出して、おそらく誌命も尽きたかっこうです。

 などと、『暖流』の盛衰の流れを追っている場合ではありません。新橋さんの直木賞受賞の盛り上がりとは別に、やはり『暖流』といえば、中川静子さんが二期連続で候補入りした話題に尽きるでしょう。他人の不幸を見て喜ぶ人たちにとっては、きっと好物にちがいない、いわゆる文壇残酷物語的な、直木賞史上でも有数の悲哀に満ちた中川さんのエピソードについては、後半で触れてみようと思います。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 8日 (日)

『無頼』…同じ回で直木賞の候補になった草川俊と福本和也、二人で組んで同人誌を出す。

『無頼』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和43年/1968年5月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回、第40回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 直木賞の候補一覧を見ていると、同じ回の候補に選ばれやすい作家ペア、というのが存在します。

 いちばん多いのが、61回、62回、65回、71回と、藤本義一さんが候補に挙がった4回すべてで、ともに候補になった阿部牧郎さん、というペアです。あまりにバッティングしすぎて、当時、二人のことを好敵手として比較する雑誌の記事まで書かれました。

 その他、同じタイミングで3度、候補に挙がったペアには、海音寺潮五郎×濱本浩とか、田岡典夫×神崎武雄とか、長谷川幸延×中村八朗とか、古川薫×もりたなるおとか、連城三紀彦×高橋治林真理子×落合恵子乙川優三郎×宇江佐真理東野圭吾×真保裕一、東野圭吾×伊坂幸太郎葉室麟×道尾秀介……といった組み合わせがあり、これが2回となると、さらにその数が急増します。今日は、たまたま直木賞で同じ回に候補になった、というそんな縁で結ばれた人たちの、同人誌にまつわるおハナシです。

 およそ同人誌が結成される背景といえば、「同じ学校に通っている」「同じ地域に住んでいる」というのが二大定番でしょう。そこにあとから「同じ小説教室に通っている」というのが三つ目の定番として加わりますが、マイナーな経緯のひとつに、同じ文学賞に関係した人たちの集まり、というのがあります。たとえば『小説会議』などがそうです。

 しかし、同人誌をつくりました、なかから直木賞の候補者が出ました、という順番はよく見かけますが、まず直木賞の候補になり、それがきっかけで同人誌結成の話が持ち上がった、などという例は、かなり稀だと思います。いや、この『無頼』の他にそんな例があるんでしょうか。

 『無頼』は、福本和也さんと草川俊さん、二人の作家によってつくられました。きっかけとなったのは正真正銘、直木賞……というかそれを取り仕切る文藝春秋の計らいだったと伝えられています。

 お互いに、二度ずつ直木賞の候補になってまもなくの昭和35年/1960年ごろ、文藝春秋がオール新人杯受賞者や直木賞の候補者などに声をかけて、懇談会を開いたことがあったんですけど、そこで隣の席になったのがご両人。後日、二人で酒を飲む機会を得たところ、福本さんから強引に同人誌の結成を誘われたのだ……と、『大衆文学研究』に(K)さん、おそらく草川さんが書き残しています。

「三人ぐらいで同人雑誌をやらないかといい出した張本人は、福本和也である。相談を受けたのは草川俊だった。この二人は全く未知の人間だった。どうやら意識の中に、お互いの名前を刻みつけたのは、三十三年の上期と下期に、つづけて同じく、直木賞候補に名を連ねて以来のことだろう。

(引用者中略)

草川は、実のところ福本をよく知らないので、半信半疑でいたが、思いがけず福本が積極的に動き出し、草川が引きずられる恰好になった。あとで草川が感心したことだが、若いからという理由ばかりでなく、福本は全てに積極的で、行動派の人間である。」(『大衆文学研究』7号[昭和38年/1963年7月] 「大衆文学・同人誌めぐり(その五) 無頼の六人」より ―署名:(K))

 創刊は昭和36年/1961年11月で、誌名の『無頼』は、『オール讀物』編集部の某氏にも相談して決まった、ということですから、商業出版の世界に片足を突っ込んだような成り立ちです。

 草川さん47歳、対して福本さん33歳。年齢層も経歴も作風もほとんど交わるところのない二人が意気投合して手を組み、数年、同人誌を出しつづけたのは、いかなるタマシイの交流があったものか。うかがい知れませんけど、明らかに雑食の傾向が強いと言っていい直木賞予選の特徴が、このときばかりはうまく働いたものでしょう。

 草川さんは『東北作家』や『下界』などで長く同人誌経験を積んだ人でもあります。年もくっています。そんなことから彼が、編集から経理処理などもろもろの雑誌づくりを担当、おかげで8年ぐらいは続いたようです。

 他の同人には、ゴルフ雑誌の編集者だった文芸評論の田野辺薫さん、サンケイ新聞に勤める戸山草二さん、花や虫や貝殻の収集・取引で生活している二宮泰三さん、電通の名古屋支社に籍をおく朝倉文治郎さんなどがいて、それぞれの文業をとらえようと思っても、なかなか困難が伴いますが、草川さんと福本さんに関しては、この『無頼』を十二分に活用し、次の新たな展開につなげることに成功しました。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 1日 (日)

『風群』…純粋芸術を指向する文芸同人誌が、いきなり直木賞のほうに巻き込まれる。

『風群』

●刊行期間:昭和42年/1967年4月~昭和50年/1975年9月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 原田八束(候補3回 第58回:昭和42年/1967年下半期~第60回:昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 今日は一日、うちのサイトの本体で「本屋大賞のすべて」というコンテンツを出しています。せっかくなので、ブログでも「同人誌と本屋大賞」みたいなことが書ければ美しいな。……とは思ったんですが、何といっても同人誌と本屋大賞では、まるでソリが合わないと言いますか、同人誌と最も離れたところにある文学賞、と言ってもいい本屋大賞を、このテーマで語るのはいくら何でも苦しすぎます。やはり今週も、最後まで直木賞の話題で押し通すつもりです。

 さて、50年ほどさかのぼって昭和42年/1967年、文学に取り憑かれた40代のひとりの男が、神戸の地で勢いよく立ち上がりました。同人誌『風群』の創刊です。

 集まった同人および会員は、合計34人。同人誌を、自己表現の研鑽の場にしていこうという人、あるいはスキあれば文壇進出を狙っている野心家、はたまた、ただ小説や評論を読むのが好きだから参加してみました、というけなげな読書家まで、来る者は拒まずの姿勢で、同人誌経営という荒波に果敢に挑みはじめたその男とは、だれでしょう。松田達郎さんです。

 ご出身は京都府ですが、昭和13年/1938年に彦根高商を卒業すると、住友銀行に入行。その後、三菱電機に移ってからもメキメキと働き、やがて松田土地建物や住友建設工業の設立に関わって、それぞれ社長に就任。という、ビジネスパーソンとして大活躍した人ですが、そのいっぽうで文学の世界にもハマり、自身でも小説だの何だのを書いていました。

 しかし、文学とは特定の好事家だけがひっそり愛でるようなものではない、広く一般の人たちが日常生活のなかで文学精神をはぐくみ、触れられるようなものでなければ……という強い考えがあったようで、『風群』の運営に際しても、まずはその立脚点から外れないよう、書きたい人も読みたい人も、みんな仲間だ、何だったら文学に関心があり、自分の文学ゴコロを高めていきたいと向上心をもつ人間は、誰だって仲間だ、というような熱い思いで雑誌づくりに乗り出します。

 目指したのは「純粋芸術を指向する作品の創造」(『読売新聞』昭和43年/1968年6月2日「われらのグループ」)。ということで、創刊号に小説5編、評論2編、詩3編、随想4編を掲載して以来、一年に二冊、三冊のペースで刊行を続けますが、なかでも、昭和39年/1964年に群像新人文学賞に当選していた評論家、松原新一さんが同人に加わり、その松原さんが評論はもちろん、小説や詩などを発表した、という点に注目が集まるところでしょう。

 ところが、スタートして間もなく、この雑誌は松田さんの思惑とは微妙に異なる事態に遭遇することになってしまいます。

 同人の原田八束さんが発表した「風塵」(第2号)が、『文學界』同人雑誌評で好評裡に扱われてベスト5入り。次の号の稲垣麻里さん「序章」(3号)は、これもまた高く評価されて『文學界』昭和43年/1968年1月号に転載されることに。……と、ここまでは、順調な運びです。

 これがそののち、原田さんの「風塵」が芥川賞じゃなくて直木賞の候補になり、稲垣さんにお声がかかったのが純文芸誌じゃなくて『小説現代』だったところから、何だか不穏な空気が漂いはじめます。

 松田さんには、同人誌はそれぞれが孤城を守るのではなく大同団結していかなければいけない、という持論があったそうなのですが、どうも原田、稲垣両同人への、急激な注目の集まり方に、松田さん自身、不快な経験をさせられたことが、その信念を固める一要因となった様子なのです。

 ある座談会での発言を引きます。

「極端にいえば、たとえば北川(引用者注:北川荘平さんが直木賞をとられた。直木賞作家になっちゃった、こういう仮定がありますね。そうすると、北川さんが直木賞作家になられたという底辺には、『VIKING』の異常な熱意と、異常な支持と異常な努力が積み重なって一人の作家が生まれるわけですね。それが生まれた瞬間から、大きな出版社が独占してしまうということ、これが現実なんです。それに対してわれわれ(引用者注:同人雑誌の側)は別に還元を要求はしないけれども、しかし、それでいいんだろうか。

(引用者中略)

ぼくらでも、早い話が、非常にむかつくのは、たとえば一人ちょっとこう、ピュッと顔を出すと、パーッと出版社から直通でまず発行所へ来よりますわ。そこまではよろしんやけども、あとはもう飛ばしてしもうて、本人に直結でパパパーッとこう、マスコミの線に乗せてしまいますわね。そういう非礼ですな、非礼を防止し、してやらんことには、あまりにも大出版社が気まますぎますね。」(『関西文学』昭和44年/1969年1・2月合併号 「座談会 同人雑誌を語る」出席者:北川荘平、松岡昭宏、松田達郎、尾下欣一、中川九郎、横井晃、司会:八橋一郎より)

 具体例は出していませんが「ぼくらでも、非常にむかつく」という表現をしています。出版社のやっている文学賞が、同人雑誌の人たちから見て、ある面で憧れの対象でありながら、ある意味で憎悪されているのは、このシステムを「非礼」だと見る感覚が、当時まだ、同人雑誌文化のなかに残っていたからかもしれません。いま、同じことを「非礼」と感じる人が、果たしているんでしょうか。

 そう考えると、純粋芸術を目指してやっている、と言っているのに、芥川賞ならともかく、そうでもない奴が、勝手に目をつけて、勝手に候補にして、勝手に落選させるというのは、非礼・オブ・非礼でしかない。と、直木賞のその立場が極めて悪く映ったとしても文句は言えません。しかも、二期も連続して、この雑誌から候補作を引き抜いているのですから、やりもやったり直木賞め、という状態です。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月25日 (日)

『立像』…「森敦の手にかかれば直木賞も芥川賞も間違いなし」伝説の、一挿話。

『立像』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~平成13年/2001年6月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 今官一(候補1回+受賞 第34回:昭和30年/1955年下半期~第35回:昭和31年/1956年上半期)
    ※ただし第35回の受賞作は単行本作品によるもの

 昭和20年代後半、〈カネはないが言うことはデカい男〉こと森敦さんは、東京の東大久保に下宿していました。その家には、日常生活に疲れ果てた人たちが、夜な夜な集結し、目を輝かせて文学談義に明け暮れていたそうですが、当の森さんが山形県の月山山麓に引っ越すことになったため、仲間たちは突如、行き場をなくしてしまいます。

 そのひとりが、毎日新聞社に勤めていた柴田四郎、筆名・斯波四郎さんです。どうにも寂しさに耐えきれず、自分で同人雑誌をつくってしまおうと思い立ち、森さんの他、今官一、河北倫明、島尾正、島田家弘、藤田博司、山内豊喜といった人たちを編集同人にして『立像』を創刊します。費用は斯波さんが全額を負担するという、もう心の寂しさがよくわかる成り立ちの雑誌でした。

 そこから斯波さんが代表として発刊した2年半、第7号までの歴史のなかで、最大にして奇天烈極まりない事件と言われたのが、今官一さんが第2号に発表した「銀簪」の、直木賞への候補入りです。つづいて今さんは、まず売れないのを承知のうえで芸術社から刊行した作品集『壁の花』が第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞する、という直木賞の振り切った天然ぶりに見事にマッチしてしまいます。

 何といっても、『立像』のメンバーがメンバーです。このような同人雑誌から、まず最初に直木賞のほうの受賞者が出てしまった、というのは、いま考えても痛快このうえありません。

 いっぽう、読みづらくて難解な作風、と言われた斯波さんのほうは、それでも引き続き読みづらくて難解な小説を書きつづけましたが、多少は読みやすい部類だという「山塔」が『早稲田文学』に載り、今さんの直木賞から遅れること3年、首尾よく第41回(昭和34年/1959年・上半期)の芥川賞を受賞。寂しい孤立から一転、もう同人誌をやっているどころではなくなって、自然と『立像』は休刊状態に入ります。

 と、ここで終わっていたらどうなっていたでしょう。「芥川賞の受賞者が出ると、その同人誌はだいたいすぐつぶれる」という都市伝説を補強する、恰好の事例になったかもしれません。しかし世の中そう単純なものでもなく、斯波さんのあとを継いで『立像』を続けていこう、と手を挙げる勇敢または無謀な男が登場します。桂英澄さんです。

 話によれば、もともと桂さんは、お互いに太宰治さんの信奉者、という太い(?)糸で結ばれた今官一さんの誘いに乗って、『立像』に参加。同誌の精神的支柱だった森敦さんとは、会ったことはなかったけれど、『立像』をきっかけに手紙でやりとりするうちに、その深淵な……ぶっちゃけて言うと、なまじの頭では理解の不能な文学理論に、すぐさま膝を屈することになり、尊敬の意を表します。森さんが山形を引き払って東京に戻ってくる、と聞けば、いろいろつてを頼って、森さんの働き先を探してまわるなど、人のよさもバツグンだった桂さんは、森さんからも大いに愛され、第二次『立像』をすくすくと育てていきました。その経費、運営費などに、桂さん、かなりお金をつぎ込んたとも言います。

 その当時、同誌の例会はどんな様子だったか。昭和46年/1971年から『立像』に参加した境経夫さんが回想しています。境さんは、以前に紹介した今官一さん主宰の同人誌『現代人』への参加経験もあったため、両者のことを比較しながら、こんなふうに語ります。

「今先生主宰の「現代人」の例会は、二の橋の先生宅の狭い茶の間で畳に座布団という、ごく家庭的な雰囲気の中でだった。「立像」の当初の同人で直木賞作家の今先生は、合評のやりとりに時たま言葉を挟む位だったが、書き手にとってはどんな作品も一期一会のものだと、訥々と説いたりもされた。(引用者中略)

一方、駅前の喫茶店での「立像」の例会は軽食に珈琲など啜りながらの同人諸氏の談論風発という形で、「現代人」とはまるで別世界のように明るかった。桂さんは当然ながら司会と一座のとりまとめをされていたが、歯切れのよい批評の後に、作者がそれからどう考えればよいかというアドバイスが繊細に裏打ちされていた。」(『立像』60号[平成13年/2001年6月] 境経夫「在りし日の記憶――桂先生と私」より)

 今さんが中心にいると重い、対して桂さんが取り仕切ると場が明るくなる……。『立像』がぎりぎり21世紀の平成13年/2001年まで続いたのは、桂さんの献身と人徳があったからだと、言ってしまっていいでしょう。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月18日 (日)

『瀬戸内海文学』…没後の小林実に光を当てたのは、ふるさと山梨県。

『瀬戸内海文学』

●刊行期間:昭和30年/1955年2月~平成8年/1996年4月?(41年)

●直木賞との主な関わり

  • 小林実(候補1回 第38回:昭和32年/1957年下半期)

 作家への光の当て方として、「地元出身の作家」という方法が存在します。そして、そこには、かなり不思議な臭味が漂っています。

 こういう取り上げ方は、21世紀の現在では、ほぼ無条件で許容され、生まれ故郷やゆかりの土地、いっとき育った地方などがあれば、積極的に作家や作品と結びつけて宣伝に励む、というのは当たり前です。特別、だれかに危害を加えるわけでもないので、お子様にもおすすめできる安心・安全の地方振興策として華やいでいます。いや、現在に限らずとも、昔からずっとそうだったじゃないか、と言われれば、たしかにそうかもしれません。

 それを「臭味」などと呼ぶと、語弊がありそうですけど、そこに直木賞や、もうひとつの文学賞が関わりはじめると、とたんに味わいが変わるのはたしかです。「直木賞をとった名作」とか「直木賞をとった素晴らしい人」とか、そういう表現だけでも、如実にうさん臭さがあるのに、「直木賞受賞者を生んだ○○県スゴい」とか、「ここ数年で○○人もうちの県から直木賞が出ている」とか、そういう煽り方をされると、ちょっと腰が引けてしまいます。

 たくましい郷土愛が、直木賞の「実態や実状はさておいての、知名度とブランド力の高さ」とドッキングしたときに起きる、微笑んだほうがいいのか、シラけても構わないのか、判断に苦しむこの現象。多くの人がそれで元気になったり、張り切ったり、お金が動いたりするんだから、文句いわずにそっとしておきたい……とは思いますが、少なくとも直木賞の特性のひとつとして、見過ごすことのできない社会的な様相です。

 と、だらだら書いてきたのは他でもありません。今週触れようと思った同人誌『瀬戸内海文学』について、正直あまり知っていることがないからです。

 戦後の昭和20年代、岡山県に住む文学愛にあふれた人たちが盛り上がってできた岡山県文学連盟という組織があり、そういうなかから中務保二さんあたりが中心となって『山陽文学』が創刊されたのが昭和29年/1954年のことでした。そこから枝分かれしたか、あとを継いだか、一部の同人が昭和30年/1955年に同人誌『瀬戸内海』を立ち上げることになり、40円の定価をつけて500部ほど刷って、岡山や倉敷の書店に置いてもらったところ、またたく間に全部売れてしまう! というロケットスタートに成功します。第2号から誌名を『瀬戸内海文学』とし、以来、こつこつと誌歴を重ねて、ン十年。地域で愛される同人雑誌に育っていったことでしょう、おそらく。

 岡山の同人雑誌、というと、これは無数に存在するでしょうが、下江巖さん、右遠俊郎さん、小野東さんといった錚々たる(?)メンツを生んだ『遠景』、赤木けい子さん主宰の『真昼』などが、ちょうど昭和30年代、芥川賞が同人雑誌界に対しても歓迎ムードを醸し出していたころに岡山でブイブイ言わせて、よく注目されていました。そのなかで『瀬戸内海文学』がどういう位置づけを持っていたのか。ワタクシの知るところはありません。

 そこに『瀬戸内海文学』第3号に載った、小林実さんの「白い太陽」が第38回(昭和32年/1957年下半期)直木賞の最終候補に選ばれました。正直、これは文藝春秋の下読み編集者の、ナイスな選択だったと思います。

 敗戦から10数年を経て書かれたこの作品も、これまで何度か触れてきた「戦争中や戦争直後に、戦地にいた人たちのドラマ」を描いたものですが、魅力的な要素を散りばめているおかげで、深刻ぶった鈍重さを感じさせません。昭和20年/1945年8月15日、中国大陸の張北の地で敗戦を知った医師、瀬崎俊作が、身重の妻、絹江とともに、ふるさとの岡山県白石島に帰るため、群盗や匪賊の出没するというトロン砂漠(多倫高原)を越えて承徳へ、そこから列車に乗って錦州へ、と移動する引き揚げの道のりが終盤まで描かれます。

 この瀬崎が単なる医師ではなく、戦時中には特務機関から命を受け、何人もの人間を死に送り込んできたスパイの元締め役だった、という話を最初に明かし、身もとがバレれば無事ではすまない、その緊張感を演出。また、張北で瀬崎の知り合いだった牧場経営者、筑波一家の娘、久美子を、道中なにくれと瀬崎やその妻に遭遇させながら、男女間に発する緊張感も高めていく、という心にくさです。

 作者の小林さんは、直木賞の候補にあがったあとに、いろいろ公募の賞にも応募して、昭和34年/1959年には講談倶楽部賞を受賞しました。それもうなずけるうまさが、「白い太陽」を読んだだけでも感じます。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«『小説と詩と評論』…木々高太郎がいてもいなくても、直木賞を彩ってくれた、そのしぶとさ。