2017年6月18日 (日)

『九州文学』…煮えたぎる情熱と時の運で直木賞(候補)への扉をこじ開ける。

『九州文学』(第二期~第五期)

●刊行期間:昭和13年/1938年9月~昭和58年/1983年12月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 岩下俊作(候補5回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 原田種夫(候補3回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 劉 寒吉(候補2回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 我孫子 毅(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)
  • 堀 勇蔵(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)

 前週の『作家』にも似て、やはり『九州文学』の入口には、芥川賞がウロウロしています。

 福岡あたりで高まった文学熱の成果として数々の同人誌が生まれ、そして消えていくなか、たまたま久留米の同人誌『文学会議』に載った火野葦平さんの「糞尿譚」が、昭和13年/1938年2月、芥川賞を受賞してしまったものですから、うおーッ、福岡に住んでいても認められるチャンスってあるんだ!と、界隈にいた文学青年たちがこぞって興奮し……たんだと思いますが、その『文学会議』を含めた四つの雑誌が一つになって、新生『九州文学』が誕生します。

 四誌合体した同人の数は50人を超え、何だかんだ口うるさい人も多かったでしょうから、これをまとめるだけでも大変だったでしょう。しかも、ほぼ毎月出していく、というのですから、よほどの情熱であり、また狂気です。そこら辺が出発期の『九州文学』につい敬愛と興味をもってしまう所以でもあります。

 そのなかで、この雑誌の熱い(熱すぎる)思いがほとばしり、結果、成功した企画が、100枚程度の当時としてはかなりボリューミーな作品をドンと巻頭に据える編集を、昭和14年/1939年ごろから毎号のように続けたことでした。これに加わったひとり、原田種夫さんもあとで振り返って、正直あきれています。

「みんなモンペをはいて防空演習があったりして、なんとなく騒然とした時代であった。そんな時代によく百枚を越える作品が書けたものだと、いま不思議な気がする。その時は文学についての情熱の火が妖しいまでに燃えていたのであったろう。」(昭和33年/1958年3月・文画堂刊 原田種夫・著『西日本文壇史』より)

 すみません、「あきれている」は言いすぎでしたね。間違えました。

 しかし、ほとんど毎月、いかにも力作のような100枚以上の作品を載せた地方発の同人誌が、このころ目につかないはずがありません。当時、芥川賞の予選を担当していた宇野浩二さんが、候補に挙がるまえの(要するに候補選出にすら落ちた)作品のことにまで、いちいち言及する選評を書いていたおかげで、同誌のいくつかの作品も芥川賞の選評で触れられることになり、同人が束となってドッと注目を浴びるようになります。

 基本、宇野さんの選評はこきおろしですので、だいたい『九州文学』の諸作は褒められていないんですが。

「矢野朗の『肉体の秋』は、作者が小説の中で断っているように安易な書き方であるばかりでなく、通俗的である上に、肝心の人物が皆ほとんど書けていない。厳し過ぎる言葉を使うと、書かれてある事がよく現れないで、これ見よがしの大袈裟な文章の方が目に立つ。これは、「九州文学」の小説家の大部分に共通している、邪道である。(引用者中略)それから救われているのは、勝野ふじ子であるが、その勝野さえ「九州文学」の作家に共通する弊から全く遁れている訳ではない。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号 第10回芥川賞 宇野浩二選評より)

 とにかく、矢野さんや勝野さんをはじめとして、『九州文学』で注目された人が、芥川賞の候補に目されたり、またあとでは直木賞の候補にもなったりしますが、候補者ばかりがぞくぞく増えて、だれひとり受賞ができない呪われた同人誌だ……などと、口さがない人から嘲笑の声が送られてしまうほど、受賞までには距離がありました。

 だけども、受賞して賞の恩恵を受けるなんて当たり前。文学賞は、たとえ落ちても、名前が挙がるだけで役に立つものなのだ! と身をもって示してくれたのが、『九州文学』の同人たちです。

 昭和14年/1939年、第10回目に当たる『改造』懸賞創作に応募した彼ら同人のうち、原田種夫さんの「風塵」、岩下俊作さんの「富島松五郎伝」、劉寒吉さんの「魑魅跳梁」、矢野朗さんの「似而非妖婦譚」という4つが、34編選ばれた選外佳作のなかに残り、要するに当選までは行かなかった落選作ですけど、原田さんと岩下さんはそのままの題で、劉さんは「人間競争」、矢野さんは「肉体の秋」と改題して、100枚以上に手を加えて『九州文学』に発表したものが、みな芥川賞の予選委員の目に止まって、それぞれの出世作となっていく……。という経緯には、どこにも「受賞」は登場しませんが、でも文学賞がなければ成立しなかったことはたしかです。

 なかでも、やはり「富島松五郎伝」で登場した岩下さんのインパクトは、まずもって偉容です。

 この第10回から芥川賞の選考委員も直木賞の審査に加わることになった、という運のよさもたしかにありました。これが芥川賞委員の采配で、直木賞の選考に回されることになり、創設5年目にして行き詰まり中のドン詰まりにあった直木賞を救った……かどうかはともかくも、「呪われた『九州文学』」の魔性はそちらでも発揮されてしまって、受賞はしませんでしたが、戦前・戦中に原田さんや劉さん、我孫子毅さんが芥川賞ではなく直木賞のほうで候補に名がのぼった背景には、まず岩下さんの例があったからだと見ていいでしょう。

 そう考えると、『九州文学』が昭和14年/1939年に煮えたぎる思いで続けた力作連発の編集が成功したのだ、と言うほかありません。

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2017年6月11日 (日)

『作家』…芥川賞よりも直木賞に愛された、と言っていい同人誌。

『作家』

●刊行期間:昭和23年/1948年1月~平成4年/1992年1月(44年)

●直木賞との主な関わり

  • 八匠衆一(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 熊王徳平(候補1回 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 桑原恭子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)
  • 藤井重夫(受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 豊田穣(候補2回+受賞 第58回:昭和42年/1967年下半期~第64回:昭和45年/1970年下半期)
  • 津木林洋(候補1回 第92回:昭和59年/1984年下半期)

 もちろん、と言いましょうか、同人誌に載った作品が、そのまま直木賞を受賞したケースは、それほど多くはありません。

 そのなかで、とくに大衆文芸を標榜したりもせず、いたって正統派な文芸同人誌っぽいナリをしながら、第53回(昭和40年/1965年上半期)と第64回(昭和45年/1970年下半期)、そこに載った小説が二度も直木賞に選ばれてしまうという、そうとう稀有な道を歩んだのが、小谷剛さんたちの始めた『作家』です。

 『作家』の人たちといえば、梅崎春生との確執でおなじみ・八匠衆一さんもいるし、私の大好きな熊王徳平さんや藤井重夫さんもいる。ということで、一介の直木賞ファンとしても親近感のわく雑誌です。おそらく、まじめに文学に向き合っていた(はずの)同人や会員の人にとっては迷惑なハナシかもしれません。仕方ありません。

 しかし、ひょっとするとこの雑誌は、芥川賞よりも直木賞に愛されたんじゃないか。と思えるのも事実で、候補にあがった数々の『作家』掲載作を読んでも、どうしてこれらが芥川賞のほうじゃなく直木賞に回されたのか、皆目わからず、たとえば『作家』からはじめて直木賞の候補に残ったのが八匠さんの「未決囚」ですが、最終選考の場では、

「毛頭遊び気はないし或る一社会を確実に書いている。しかし直木賞へ持って来るものではないだろう。」(『オール讀物』昭和31年/1956年4月号 吉川英治の選評より)

 だとか、

「いくらうまい作品でも、こういう陰気な材料は直木賞のものではない」(同号 村上元三の選評より)

 などと言われています。

 たしかに、こういう感想をもつのが自然でしょう。だけども、本人や選考委員の希望や意向とは関係なく、直木賞の候補にしようと決めたヤカラが、何人かいたから候補になったわけで、直木賞の色を決めていくのは、選考委員より彼ら下読みの予選委員(編集者たち)でもあります。やがて、『作家』からひとりしか受賞者を生むことができなかった芥川賞を超えて、直木賞が二人の受賞者を擁することになるのも、八匠さんの落選例にめげず、何度も同誌から候補を拾い上げた、予選の人たちの考えやら好みのおかげです。

 ともかく、直木賞でも芥川賞でも、けっこう多くの作品が候補に選出された雑誌ですから、逸話や裏話もたくさん残っています。小谷剛さんの『『作家』・芥川賞・おんな――戦後文化史の傍証』(昭和56年/1981年11月・中日新聞本社刊)には、小谷さん自身の芥川賞受賞前後のあれこれが、かなり詳しく書かれた楽しいエッセイですけど、雑誌代表としての顔ももつ小谷さんですから、直木賞が関わりはじめたあとの、貴重な証言も書かれています。

「私の「四天王」が芥川賞候補になったから、掲載誌を何冊か送れと、文芸春秋社から通知があったのは、合同公演の立稽古がはじまったころであった。

それ以後に『作家』から芥川賞や直木賞の候補作がえらばれた例でみると、何月号を何冊送ってほしいという通知はあっても、誰のどういう作品が、何賞の候補になったとはあきらかにされない。同じ号にいくつか載っている作品のうち、たぶんこの人の作品が芥川賞の、もしくは直木賞の候補になったのだろうと見当をつけるだけであって、正式に新聞発表があるまではわからない。けれど私のときは、「四天王」とはっきり示されていた。」(『『作家』・芥川賞・おんな』「演劇と受賞」より)

 同人誌側に、正式な案内が事前に来ていたわけではなかったんですね。と、べつに誰の得にも損にもならない、こういう詳しい経緯を淡々と書き留めておいてくれるのが、同人誌の素晴らしさ(……小谷さんの場合は単行本ですけど)。たとえば藤井重夫さんも、昭和40年/1965年10月号に寄せた「『虹』始末記」で、「虹」が直木賞か芥川賞のどちらかの予選を通過した、と知らせる小谷さんからのハガキが、6月15日付消印で17日に届き、日本文学振興会からは6月19日付消印の速達で、20日に通知が来た、うんぬんと正確な事実関係を、史料がわりに残してくれました。

 まあ、そういう単なる記録で終わらせないのが、さすが藤井さんの直球の生真面目さで、

「四十九歳半になって、いまさら直木賞候補にならされ、候補だけで見送りになったとしたら、ずいぶん恥ずかしいおもいをすることだろうと、あえて「直木賞候補」を、知らぬ顔の半兵衛で通そうとするのだが、直木賞候補になったことを、おトボケしようとすることじたいが、すでにそれを意識していることであって、受賞までの一ヵ月間、考えてみると、おかしなことだらけだった。」(『作家』昭和40年/1965年10月号「『虹』始末記」より ―下線太字部は原文では傍点)

 と正直な心境を吐露しながら、おのれの自負から、一部のバカな同人にあきれ返った話など、ぐんぐんエンジンを回転させていく藤井さんの、オソロシさを堪能できる一文となっています。

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第11期のテーマは「同人誌」。どうして直木賞がこの世界に足を踏み入れたんでしょうか。不思議です。

 たいがい、うちのサイトは定見がありません。いつも無計画です。その点、直木賞の定見のなさには、まるでかなわないんですが、もう少しまじめに、将来像を描いてサイトづくりしなきゃいけないなあ、と反省しながら、楽しい直木賞エピソードを勝手放題、食い散らかすばかりで、何の達成もなく、いまに至っています。  11年目のブログは、そうするうちに、ときどき目にしておきながら、面倒くさそうなので避けてきた、しかし明...

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2017年6月 4日 (日)

第122回直木賞『長崎ぶらぶら節』~第125回『愛の領分』までの受賞作単行本部数と、全体のまとめ

第122回(平成11年/1999年・下半期)直木賞

受賞作●なかにし礼『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋刊)
初版(受賞前)8,000部→23万

第123回(平成12年/2000年・上半期)直木賞

受賞作●金城一紀『GO』(講談社刊)
18万
受賞作●船戸与一『虹の谷の五月』(集英社刊)
13万

第124回(平成12年/2000年・下半期)直木賞

受賞作●山本文緒『プラナリア』(文藝春秋刊)
14万7,000
受賞作●重松清『ビタミンF』(新潮社刊)
11万8,000

第125回(平成13年/2001年・上半期)直木賞

受賞作●藤田宜永『愛の領分』(文藝春秋刊)
12万

 部数のテーマも一年がたったので、とりあえず最後にまとめておきます。

 直木賞受賞作の、単行本(あくまで単行本です)での歴代売上げランキングをつくるとしたら、おそらくこんな感じです。

  • 1.  155万部 浅田次郎『鉄道員』(集英社)第117回・平成9年/1997年上半期
  • 2.  117万部 青島幸男『人間万事塞翁が丙午』(新潮社)第85回・昭和56年/1981年上半期
  • 3.   66万部 東野圭吾『容疑者Xの献身』(文藝春秋)第134回・平成17年/2005年下半期
  • 4.   57万部 高村薫『マークスの山』(早川書房)第109回・平成5年/1993年上半期
  • 5.   50万3500部 桜木紫乃『ホテルローヤル』(集英社)第149回・平成25年/2013年上半期
  • 6.   50万部 恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)第156回・平成28年/2016年下半期
  • 7.   47万部 西加奈子『サラバ!』(上・下)(小学館)第152回・平成26年/2014年下半期
  • 8.   46万2000部 向田邦子『思い出トランプ』(新潮社)第83回・昭和55年/1980年上半期
  • 9.   45万部 宮部みゆき『理由』(朝日新聞社)第120回・平成10年/1998年下半期
  • 10.  43万7000部 佐木隆三『復讐するは我にあり』(上・下)(講談社)第74回・昭和50年/1975年下半期
  • 11.  40万部 景山民夫『遠い海から来たCOO』(角川書店)第99回・昭和63年/1988年上半期
  • 12.  39万部 桐野夏生『柔らかな頬』(講談社)第121回・平成11年/1999年上半期
  • 13.  37万部 奥田英朗『空中ブランコ』(文藝春秋)第131回・平成16年/2004年上半期
  • 14.  35万部 原尞『私が殺した少女』(早川書房)第102回・平成1年/1989年下半期
  • 14.  35万部 藤原伊織『テロリストのパラソル』(講談社)第114回・平成7年/1996年下半期
  • 14.  35万部 池井戸潤『下町ロケット』(小学館)第145回・平成22年/2010年下半期
  • 17.  32万部 宮尾登美子『一絃の琴』(講談社)第80回・昭和53年/1978年下半期
  • 17.  32万部 小池真理子『恋』(早川書房)第114回・平成7年/1995年下半期
  • 17.  32万部 江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮社)第130回・平成15年/2003年下半期
  • 20.  31万3500部 連城三紀彦『恋文』(新潮社)第91回・昭和59年/1984年上半期
  • 21.  30万部 宮城谷昌光『夏姫春秋』(上・下)(海越出版社)第105回・平成3年/1991年上半期
  • 21.  30万部 天童荒太『悼む人』(文藝春秋)第140回・平成20年/1998年下半期

 上下巻のものは両巻合計、またすべて公称部数として報道・宣伝・発表されたもので、じっさいは多少の誤差もあるでしょうけど、おおよそはこういう並びです。30万部まで行ったものが22作あり、芥川賞の受賞作で、同じように調べると、30万部以上は13作ですから、全体的に直木賞のほうが売上げ好調で、とくにこれは平成(1990年代)以降に顕著です。

 ……ふふん、そんなことは数字なんか調べなくたって知っているよ。と、モノ知り博士は笑うかもしれませんが、187冊、直木賞受賞単行本と呼ばれるすべてについて調べたかったのに、それはかないませんでした。笑われることより、そっちのほうが悲しいです。

 「よく売れた」部類だけを挙げれば、直木賞をとればそんなに売れるのか、と思いたくもなりますが、判明している分だけでも、20万部~30万部のものが21作、10万部~20万部が44作、と比率で見ればそっちのほうが断然、直木賞の中心です。さらにいうと、10万部未満もやはり40、50作はあると推測されます。芥川賞より売れることを誇っている場合ではなく、安定して10万部以上売れる賞でありながら、「最近の直木賞は、昔より売れないんだってよ」と、なぜか馬鹿にされてしまう、直木賞の体質に、私は関心があります。

 ということで、まだ取り上げていなかった第122回(平成11年/1999年・下半期)~第125回(平成13年/2001年・上半期)の6つの作品『長崎ぶらぶら節』『GO』『虹の谷の五月』『プラナリア』『ビタミンF』『愛の領分』のことですけど、伝えられている部数は、20万部以上が1作と、10万部台が5作。何ひとつ文句を言える筋合いの部数ではありません。立派そのものです。

 ところが、当時の『出版月報』『出版指標 年報』などを当たってみると、まあけっこう、ずいぶんなことを言われています。

「毎回注目度が高い両賞(引用者注:直木賞と芥川賞)だが、文芸書全般が落ち込んでいる中、こういった受賞作関連も今ひとつ振るわなかった。」(『2001出版指標 年報』平成13年/2001年4月「書籍の出版傾向―文学」より)

「直木賞や芥川賞等の受賞作品は、最近今ひとつ元気がない。文藝春秋『プラナリア』などが期待されたが、読者の反応はもうひとつ。」(『出版月報』平成13年/2001年7月号「特集 2001年上半期出版動向」より)

「直木賞、芥川賞受賞作の部数の伸びは今ひとつだった」(『出版月報』平成13年/2001年12月号「特集 2001年出版動向」より)

 直木賞をみると、どんな場面でもいつも「いまひとつ」と言いたくなる、人間本来の(?)素直な感覚が、こういうところにも現われているのかもしれません。

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2017年5月28日 (日)

第129回直木賞『4TEEN』『星々の舟』の受賞作単行本部数

第129回(平成15年/2003年・上半期)直木賞

受賞作●石田衣良『4TEEN フォーティーン』(新潮社刊)
受賞前2万9,000部→13万9,000
受賞作●村山由佳『星々の舟』(文藝春秋刊)
14万

※ちなみに……

第128回(平成14年/2002年・下半期)芥川賞

受賞作●大道珠貴「しょっぱいドライブ」収録『しょっぱいドライブ』(文藝春秋刊)
7万3,000

第129回(平成15年/2003年・上半期)芥川賞

受賞作●吉村萬壱「ハリガネムシ」収録『ハリガネムシ』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)5万部→5万5,000

 そろそろ、部数に関するテーマも終わりが見えてきました。

 まだ取り上げていない受賞作がいくつかありますが、いずれも特徴的な性格が薄く、いわゆる「そこそこの話題と、そこそこの売上げ」という、直木賞のスタンダードを体現した、平均的な作品と言っていいと思います。

 ……と前置きしてからの『4TEEN』と『星々の舟』。ということで、うわー、いかにも直木賞の平均っぽいよなー、という感がハンパありません。手がたいと言いますか、昔ながらのフォーマットと言いますか、第128回の『半落ち』騒動を受けて、また第129回の注目候補『重力ピエロ』をさしおいて、この二作に賞を与えてしまったことで、直木賞に漂う閉塞感が決定的になったとも言われる、重要な受賞作です。

 まあ、「そこそこ」な感じが好きじゃなきゃ直木賞ファンなんてやっていられません。どちらの小説も、低調でないうえに突き抜けもしない、バツグンのそこそこ感に満ちた、直木賞らしい受賞作だと思いますけど、世のなかには、こういうものより多くの人に喜ばれる小説があります。

 この年、平成15年/2003年は年初から、例の『半落ち』が好調な売れ行きをキープ。『出版月報』の記事を追ってみると、「このミス」パワーの力もあったんでしょう、1月15日現在17万5,000部、直木賞に落ちて、なんだかんだと騒がしくなるなか、2月には22万5,000部、3月27万5,000部と、ボン、ボンと大量増刷がかかり、その後も継続して売れて、年内には33万部到達、というところまで上昇します。

 第128回、直木賞はけっきょく授賞作を出せず、芥川賞のほうはどうにか1作、作品を選んだんですが、受賞したらかなりの売れ行きが見込めたはずの、最も注目された島本理生さんではなく、大道珠貴さんの「しょっぱいドライブ」だったものですから、大したお祭りにはなりません。

 『しょっぱいドライブ』は、受賞後に単行本が発売され、だいたい1~2か月で7万部程度まで行き、そのあたりで落ち着きました。

 芥川賞で7万部。というのは、多くもなければ少ないとも言えないし、ネタにしようにも注目点が見つけづらい数字ですから、ワタクシもとくに言いたいことはありません。しかし、この回は、受賞作は大したことないのに、(島本さんが候補になったおかげか)まわりだけが騒がしい、いつまでこんなことやっているんだ日本人! 的な記事が、数多く書かれた回でもあります。さすがは芥川賞、そんなことですら話題になってしまう恐ろしいヤツ。それから10数年たっても、べつに状況に変化がないところを見れば、確実に今後もこういうことが繰り返されるに違いないという、ある意味、伝統的な芥川賞スタイルだったのかもしれません。

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2017年5月21日 (日)

第48回直木賞「江分利満氏の優雅な生活」の受賞作単行本部数

第48回(昭和37年/1962年・下半期)直木賞

受賞作●山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』(文藝春秋新社刊)
初版(受賞後)7万部?

※ちなみに……

第28回(昭和27年/1952年・下半期)芥川賞

受賞作●五味康祐「喪神」収録『秘剣』(新潮社/小説文庫)
10万5,000

第32回(昭和29年/1954年・下半期)芥川賞

受賞作●小島信夫「アメリカン・スクール」収録『アメリカン・スクール』(みすず書房刊)
(受賞前)3,000部→(受賞後・新書判に)2万

第37回(昭和32年/1957年・上半期)芥川賞

受賞作●菊村到「硫黄島」収録『硫黄島』(文藝春秋新社刊)
約4万

第43回(昭和35年/1960年・上半期)芥川賞

受賞作●北杜夫「夜と霧の隅で」収録『夜と霧の隅で』(新潮社刊)
4万5,000

第44回(昭和35年/1960年・下半期)芥川賞

受賞作●三浦哲郎「忍ぶ川」収録『忍ぶ川』(新潮社刊)
3万8,000(発売約1か月で)約7万(発売約半年で)12万2,500

 直木賞・芥川賞といっても、オレたちの時代はそんなに売れなかった。……っていうのが、先人たちによくある回想テンプレです。いまでも、売れ行きの悪い受賞作というのは存在するので、どこまで時代のせいなのか、はっきりしませんが、たしかに昭和50年代よりまえは、5万部も10万部も売れた受賞作をさがすほうが、難しいです。

 戦前はちょっと比較しづらいのでおいておきます。戦後、10万部を超えた受賞作として、まず最初に名前が上がるのが第28回(昭和27年/1952年・下半期)、直木賞の立野信之『叛乱』11万5,000部でしょう。「直木賞だから」そんなに売れたのかといえば、かなり疑問符がつきますが、受賞の効果も多少はあった、と見られています。

 この回、芥川賞のほうは二作授賞。どちらも本になるまで時間がかかります。1月に決定した後、のちのベストセラー作家松本清張さんの『戦国権謀』(「或る『小倉日記』伝」収録)は10月の刊行。清張さんの研究本はゴマンとありますが、これなど、まず売れたとは聞きません。いっぽう五味康祐さんの『秘剣』(「喪神」収録)となると、さらに遅く、発売は2年以上たった昭和30年/1955年7月でした。

 しかしこれが功を奏したか(いや、偶然にも)、発売当初はともかく、しばらくしたのち軽装版ブーム&剣豪小説ブームの代表とも目されるほどに、当たってしまい、

「五月に出た「新剣豪伝」(引用者注:中山義秀・著)(新潮社小説文庫)を皮切りに、下半期はいわゆる“剣豪小説ばやり”が起り、雑誌でも毎月必ず数篇が載るという盛況となった。五味康祐「秘剣」「柳生連也斎」(新潮社小説文庫)がチャンピオンぶりを示す売れ行き(引用者後略)(『日本読書新聞』昭和33年/1958年12月12日号「複雑な“活況” 書籍界一年の動き」より)

 この記事によると、『秘剣』は10万部、『柳生連也斎』8万部、中山義秀さんの『新剣豪伝』が5万部だったそうです。『新潮社八十年図書総目録』(昭和51年/1976年10月)にも、『秘剣』は昭和30年/1955月7月発売から昭和33年/1958年4月までに10万5,000部を記録、とあって、ほとんど芥川賞とは関係ないかもしれませんが、とりあえず受賞作収録本の10万部超えをなしとげました。

 いっぽうで、オレは売れなかったよ回想の急先鋒が、以前にも紹介した安岡章太郎さん(第29回芥川賞)や吉行淳之介さん(第31回芥川賞)です。同じ時代の受賞者といってもいい小島信夫さん(第32回芥川賞)もまた、このグループのお仲間のようです。

「受賞前に三千部だけ刷っていた『アメリカン・スクール』は、受賞後、新書判で二万部ほど出したが、ほとんど返ってきて出版社がつぶれそうになった。芥川賞をもらったからといって、パッとするものではなかった」(平成8年/1996年2月・産経新聞ニュースサービス刊『戦後史開封3』所収「芥川賞・直木賞」より)

 芥川賞をもらって、パッとしない人もいるでしょう。パッとした人も、いたでしょう。当時に特有のことじゃなく、その後もずっと続いたし、いまだってそうかもしれません。……などと普通のことを言い出しても、話が進まないので、先に向かいます。

 昭和30年代、よく売れたものとして判明している受賞作を挙げていくと、芥川賞では『太陽の季節』(昭和30年/1955年下半期)22万5,000部、『硫黄島』(昭和32年/1957年上半期)4万部、『裸の王様』(昭和32年/1957年下半期)6万5,000部、『死者の奢り』(昭和33年/1958年上半期)7万部、『夜と霧の隅で』(昭和35年/1960年上半期)4万5,000部、『忍ぶ川』(昭和35年/1960年下半期)12万2,500部……といった按配。直木賞となると、ぐっと少なくなって、『花のれん』(昭和33年/1958年上半期)10万部、『落ちる』(昭和33年/1958年下半期)3万部、『雁の寺』(昭和36年/1961年上半期)9万部と、このぐらいしか、いまのところワタクシは知りません。

 こないだ引用した江崎誠致さんの文に、芥川賞受賞作は1万部刷られる、という説が載っていました。それと合わせて考えてみると、3万部いったらかなりのもので、5万部ともなれば話題のヒット作、10万部なんて、たまにしか生まれない破格のベストセラー。といった様相です。

 ところで、吉原敦子さんに『あの本にもう一度 ベストセラーとその著者たち』(平成8年/1996年7月・文藝春秋刊)という本があります。昭和22年/1947年『ノンちゃん雲に乗る』から昭和53年/1978年『日本人の脳』まで、23作の「ベストセラー」の、それぞれの著者へのインタビューをまとめたものですが、そこで取り上げられた直木賞受賞作が2つあります。佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』と、もうひとつが山口瞳さんの『江分利満氏の優雅な生活』という、昭和30年代の作品でした。

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2017年5月14日 (日)

第16回直木賞「強情いちご」「寛容」の受賞作単行本部数

第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞

受賞作●田岡典夫「強情いちご」収録『小説 武辺土佐物語』(大日本雄弁会講談社刊)
初版(受賞前)1万
受賞作●神崎武雄「寛容」収録『寛容』(大川屋書店刊)
初版(受賞後)1万

※ちなみに……

第3回(昭和11年/1936年・上半期)芥川賞

受賞作●鶴田知也「コシャマイン記」収録『コシャマイン記』(改造社刊)
初版(受賞後)約1,900

第9回(昭和14年/1939年・上半期)芥川賞

受賞作●長谷健「あさくさの子供」収録『あさくさの子供』(改造社刊)
初版(受賞後)約2,900

第14回(昭和16年/1941年・下半期)芥川賞

受賞作●芝木好子「青果の市」収録『青果の市』(文藝春秋社刊)
初版(受賞後)5,000

第19回(昭和19年/1944年・上半期)芥川賞

受賞作●小尾十三「登攀」収録『雑巾先生』(満洲文藝春秋社刊)
初版(受賞後)5,000部→1万

第20回(昭和19年/1944年・下半期)芥川賞

受賞作●清水基吉「雁立」収録『雁立』(鎌倉文庫刊)
約1万

第29回(昭和28年/1953年・上半期)芥川賞

受賞作●安岡章太郎「悪い仲間」「陰気な愉しみ」収録『悪い仲間』(文藝春秋新社刊)
初版(受賞後)3,000

 戦前、第20回までの直木賞は、久米正雄さんによれば「道楽的に」決められていた、とのことです。言うよねー、って感じではありますが、道楽で文学賞を決めちゃいけない理由なんて何もありません。むしろ、直木賞は道楽的ぐらいなのが、ちょうどいいのかもしれません。

 で、戦前の受賞作は、ほとんど部数がわからない、とさんざん愚痴ってきたとおりです。ただ、まったくわからないのもナンなので、おおよその見当をつけるために、芥川賞のほうを少し見てみることにします。

 『改造社出版関係資料』(平成22年/2010年2月・慶応義塾図書館改造社資料刊行委員会・編、雄松堂出版刊)というものがあります。このなかに、新刊を各取次に何部ずつ配本したのか記された資料があり、当時の部数水準を知るためには、かなり有益なものです。

 改造社から出た芥川賞受賞作の単行本は、戦前、3冊ありました。上記の資料「4.改造社の経営にかかわる内部資料」-「新刊配本帳」を見てみますと、初版の配本総数は、次のようになっています。

  •  第1回受賞 石川達三『蒼氓』(昭和10年/1935年10月19日) 2,440
  •  第3回受賞 鶴田知也『コシャマイン記』(昭和11年/1936年10月20日) 1,890
  •  第9回受賞 長谷健『あさくさの子供』(昭和15年/1940年1月19日) 2,900

 ちなみに、新小説社から出した第1回直木賞受賞作本(のひとつ)川口松太郎『明治一代女』(昭和11年/1936年3月)は、初版2,000部を刷ったそうです。改造社の資料を見ると、他の、とくに文学賞とは関係ない文芸書でも、1,500部~3,000部ぐらいのものをよく見かけます。まず2,000部前後というのが、だいたいスタンダードだったんでしょう。

 当時の芥川賞では、受賞してはじめて本になる、というケースがほとんどでしたが、そのなかで異例中の異例、単行本が受賞対象になってしまった尾崎一雄さんの『暢気眼鏡』も、受賞後あわててつくった再版普及版は、だいたい3,000部から始めたようです(受賞対象となった昭和12年/1937年4月の初版は500部だった、とのこと)。

 戦前、21冊刊行された芥川賞受賞作本のうち、文藝春秋社4冊を上まわって、5冊の版元となったのが小山書店です。その社長、小山久二郎さんの回想に、こうあります。

「その後(引用者注:『糞尿譚』と『あらがね』の好調な売れ行き後)、同人雑誌などにも注意を向けるようになり、芥川賞の候補作なども注意ぶかく観察し、宇野浩二の力なども借りて、その後に芥川賞になったほとんどの作品は、小山書店から出たもののうちからという様になった。この為、新人作家たちは小山書店を熱心に注目するようになった。私が注目した新人の作品は、処女出版であっても、少なくとも三千部は必ず売れるような出版社にのし上った。」(昭和57年/1982年12月・六興出版刊 小山久二郎・著『ひとつの時代――小山書店私史――』より)

 受賞作がどれくらい売れたかは書いてありませんが、3,000部というのが、けっこう誇れる数字だったことは読み取れます。そういえば、こないだ引用した江崎誠致さんの「小説芥川賞」にも、『糞尿譚』(昭和13年/1938年3月・小山書店刊)の初版は3,000部だった、って書いてありましたね。

 第12回(昭和15年/1940年・下半期)の櫻田常久さん以降、勧進元の文藝春秋社が、いよいよ受賞作の単行本化に乗り出し、芥川賞の世界における小山書店の天下(?)は早くも終わってしまうのですが、そのころの部数について証言しているのが、第14回「青果の市」で受賞した芝木好子さんです。当時としては多い部数だろう、と断りながらも、初版は5,000部だったはず、と書いています(『週刊読書人』昭和39年/1964年3月9日号「はじめての本」)。

 3,000部から5,000部に若干アップした、と言えるのか。実数はけっきょく不明なので、やっぱり3,000部前後で推移した、と見るべきか。細かいハナシすぎて、どうでもいいような気もするんですが、とりあえずこの段階で、芥川賞の初版は5,000部、というのが現実的な線になった、と言っておいてもいいと思います。

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2017年5月 7日 (日)

第56回直木賞『蒼ざめた馬を見よ』の受賞作単行本部数

第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞

受賞作●五木寛之 「蒼ざめた馬を見よ」収録『蒼ざめた馬を見よ』(文藝春秋刊)
3万3,000(受賞後1年で)20万6,000(受賞後6年で)→?

※ちなみに……

第56回(昭和41年/1966年・下半期)芥川賞

受賞作●丸山健二「夏の流れ」収録『夏の流れ』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)8,000部→?

 直木賞の第60回は、昭和43年/1968年・下半期です。ようやくこのごろは、一般的な芥川賞偏重主義も薄れてきて、直木賞のほうも注目されるようになってきた、なんて言われはじめた時代です。

 ワタクシから見れば、「どこがだ!」とツッコミたくなるほど、当時の文献で、直木賞に言及されたものはまだまだ少なかったと思うんですが、それまでが、よっぽどヒドかったんでしょう。50年まえの直木賞ファンたちの、せつない境遇が悲しすぎます。

 とりあえず当時、芥川賞作品はだいたい2万部から、ということを夏堀正元さんが明らかにしていましたが、直木賞がそれを上まわっていた、という話は見えません。第71回(昭和49年/1974年・上半期)の藤本義一さんが、自分の受賞作が3万部行った! ということで驚いていたくらいなので、やはり直木賞のほうも、順当に売れて2~3万部見当だったんでしょう。

 直木賞史に燦然と輝くインパクトをもって登場した五木寛之さんが、「蒼ざめた馬を見よ」で受賞したのは第56回(昭和41年/1966年・下半期)。ちょうどそんな時代です。

 受賞からわずか5年で「圧倒的五木寛之ブームを解剖する」(『週刊現代』昭和46年/1971年10月14日号)なんちゅう記事が書かれるくらいに、本が売れた人ですが、同記事によれば昭和46年/1971年での売上部数は、『ゴキブリの歌』15万部、『朱鷺の墓』(空笛の章、風花の章あわせて)18万3,000部、『対論』(野坂昭如・共著)15万部、従来の作品の再版・重版分が約82万部。まあ、ものすごいです。

 それでは、直木賞の受賞作はどのくらいだったのか。……といったことは、以前もうちのブログで取り上げたことがあります。でもワタクシも、すっかり忘れてしまったので、改めて思い出してみます。

 植田康夫さんが調べて、『新評』昭和48年/1973年8月号「白夜のエンターティナー 五木寛之ズームイン」に書き残しておいてくれた数字です。

 昭和42年/1967年4月刊行の『蒼ざめた馬を見よ』は、昭和42年/1967年:3万3,000部、昭和43年/1968年:2万7,000部、昭和44年/1969年:3万4,000部、昭和45年/1970年:4万1,000部、昭和46年/1971年:3万1,000部、昭和47年/1972年:4万部、約6年の合計が20万6,000部。

 この受賞作はその後、昭和47年/1972年10月に『五木寛之作品集1』に収められ(この本もまた相当売れたらしいです)、昭和49年/1974年7月に文春文庫となりますので、さすがに単行本の増刷ペースは落ちたんじゃないかと思いますが、ロングセラー作家を標榜する五木さんの売れ方は、こういうデータからも実証できる、と植田さんはまとめています。

「それにしても、四十二年から四十七年の六年間で約二〇万部という数字は、一年間の平均増刷部数が三三〇〇〇部ということである。これでは、ベストセラーとはいえない。

ちなみに、五木の本で年間ベストセラーに入ったのは、『にっぽん三銃士』と『青春の門』自立篇だけである。だから、五木はむしろ、ベストセラー作家というより、ロングセラー作家と呼んだ方がよい。」(『新評』昭和48年/1973年8月号より)

 ひょっとしたら、受賞作が3万部ぐらい売れた、というのは当時でも珍しくなかったかもしれません。

 しかし、そのくらいの部数で毎年増刷をつづけたうえに、『さらばモスクワ愚連隊』(講談社版、同時期までに20万1,000部)、『青年は荒野をめざす』(文藝春秋版、昭和47年/1972年上半期までで32万1,000部)、『風に吹かれて』(読売新聞社版、同時期までに19万1,000部)など、じわじわ売れて10万、20万を超すような本も、ボロボロ出す。直木賞の受賞で光が当たったのは間違いないのに、直木賞作品だけが特別に売れたわけじゃない(売れなかったわけでもない)、となると、これは直木賞の力というより、五木さんのパワーと見るしかありません。

 受賞直後から、新世代の旗手だ、新しいエンタメ文学の幕開きだ、とテレビから雑誌から、さんざん五木さんを取り上げてにぎわったのに、直木賞の力、そんな程度だったのか。ほんと、だいじょうぶかよ!? と50年前のことを心配しても始まりません。せつなさを感じながら、先に進みたいと思います。

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2017年4月30日 (日)

第61回直木賞『戦いすんで日が暮れて』の受賞作単行本部数

第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞

受賞作●佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』(講談社刊)
3万部弱(受賞後2か月で)→?

※ちなみに……

第61回(昭和44年/1969年・上半期)芥川賞

受賞作●庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中央公論社刊)
30万(受賞後半年で)45万(受賞後1年で)64万(受賞後2年で)90万

 直木賞の、文学賞としての面白さは、数えきれないほどにあります。「昔と比べてモノが言えること」なんかも、そのひとつでしょう。

 「昔はよかった、でも今では……」とか、「昔は話題にもならなかった、でも今では……」とか。昔のことを引き合いに出したくなる欲求が人間に備わっていることは、私も実体験としてよくわかります。なにしろ、こういう場面では、とくに正確さは求められません。それっぽければ、「何かいいこと言った」感に包まれ、満足できてしまいます。こんなに面白いことはないし、直木賞のまわりには、こういうものが大量に渦巻いています。ハッピー・スポットです。

 ……といって、いまから紹介するハナシが芥川賞のこと、というのがまた、直木賞の悲しいところなんですが、芥川賞も、昔と比べて言及されることの多い代表選手です。とくに部数に関しては、芥川賞のほうこそ、ポツリポツリと文献に残されてきました。

 江崎誠致さんは、もと小山書店に勤務していた経緯もあり、「小説芥川賞」(『別冊文藝春秋』50号[昭和34年/1959年12月])のなかで、火野葦平さんの『糞尿譚』の部数を記しています。

「今から考えれば嘘のような話であるが、その火野葦平の「糞尿譚」が初版はわずか三千部である。しかもはじめは返品さえあった。まもなく従軍中に書かれた名著「麦と兵隊」が改造社から出版され、空前の売行きを見せてから、「糞尿譚」も何度か版を重ねた。といっても、たしか四版までだったと記憶している。

(引用者中略)

「太陽の季節」は別としても、今日芥川賞になりさえすれば、どんな地味なものでも一万部は下らないという。芥川賞に対する一般の関心が高まったことが、こんなところにもはっきりあらわれている。」(『別冊文藝春秋』50号[昭和34年/1959年12月]「小説芥川賞」より ―下線・太字の強調は引用者によるもの)

 これが、昭和34年/1959年上半期……第41回ごろの、江崎さんの観測です。第41回の芥川賞は斯波四郎さんの「山塔」で、文藝春秋新社が単行本にしましたが、まさに「地味」そのものと言っていい受賞作で、おそらくこれも初版1万部ぐらいは刷られたんじゃないかと思います。

 それから約10年後。今度は、夏堀正元さんが芥川賞の歴史を書かされる羽目になりまして、たぶん江崎さんの文章も参考にしたことでしょう。こんなふうに記録しました。

「この型破りの評判作「糞尿譚」も、初版はわずかに三千部だったということだ。そのうち、従軍中に火野が書いた「麦と兵隊」が改造社から出版されて、空前のベストセラーになってから、それにひきずられるようにして「糞尿譚」も売れたが、四版をかさねたにすぎなかった。その点、芥川賞作品は二万部はかたいといわれる現在とは、比較にならない。」(『文藝春秋臨時増刊 明治・大正・昭和 日本の作家100人』[昭和46年/1971年12月]「ドキュメント芥川賞」より ―下線・太字の強調は引用者によるもの)

 江崎さんのころより増えて、2万部になっています。

 昭和45年/1970年下半期……ちょうど前週のエントリーで触れた古井由吉さん(第64回)や古山高麗雄・吉田知子(第63回)ごろのハナシです。そこから40年~50年たって、いまでは芥川賞受賞作の初版が5万部平均になったのは、増えたといえるのかどうなのか、よくわかりませんが、江崎さんや夏堀さんには、直木賞作品の部数状況も書き残しておいてほしかったなあ、と心から悔やまれます。

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2017年4月23日 (日)

第63回直木賞『軍旗はためく下に』の受賞作単行本部数

第63回(昭和45年/1970年・上半期)直木賞

受賞作●結城昌治『軍旗はためく下に』(中央公論社刊)
5万(受賞後2か月で)→?

※ちなみに……

第62回(昭和44年/1969年・下半期)芥川賞

受賞作●清岡卓行「アカシヤの大連」収録『アカシヤの大連』(講談社刊)
17万5,000

第64回(昭和45年/1970年・下半期)芥川賞

受賞作●古井由吉「杳子」収録『杳子・妻隠』(河出書房新社刊)
21万

第66回(昭和46年/1971年・下半期)芥川賞

受賞作●東峰夫「オキナワの少年」収録『オキナワの少年』(文藝春秋刊)
約7万

 なかなか部数にまつわるネタもなくなってきました。今日は、昭和40年代後半ごろ、1970年前後の受賞作を、サラッとさらってみたいと思います。

 いまからだいたい50年ぐらい前に当たりますが、このあたりはもう、荒涼・閑散としていると言いますか、部数の不明な受賞作ばかりです。

 ベストセラー作家として(も)知られるようになった渡辺淳一さんは、そのころ(第63回 昭和45年/1970年・上半期)の受賞者です。本が売れ出したのは直木賞をとってしばらくしてからなのかと思っていましたが、意外にすぐに売れっ子になったらしく、直木賞をとった昭和45年/1970年には、早くもベストセラーリストに名前が挙がっています。

 しかし、売れたのは受賞前から準備していたという書き下ろし『花埋み』(昭和45年/1970年8月・河出書房新社刊)。受賞作(を収録した)『光と影』(昭和45年/1970年10月・文藝春秋刊)も、さすがに売れなかったわけじゃないと思いますが、どの程度の好調ぶりだったのかはわかりません。

 『出版年鑑』に書かれた『花埋み』についての解説を見ますと、

直木賞受賞作品の出版である。9月期からベストメンバーとなり、下半期から'71年はじめにかけて好調な成績である。芥川賞とともに直木賞もまた受賞によって作品の価値を一挙に高め、その出版は売れるというところにも権威があるようだ。」(昭和46年/1971年5月・出版ニュース社刊『出版年鑑1971年版』より ―下線太字は引用者によるもの)

 と、かなりのウソッパチが書いてあって、ついズッコケてしまいますけど、このぐらいのゆるい見方が、直木賞には合っているのかもしれません。「直木賞をとったその小説じゃなきゃ、絶対買いたくない」という感覚のほうがズレている、と言われれば、そうかもなあと思ってしまいます。

 ところで「芥川賞ととも直木賞もまた」という表現が出てきました。このころは、売れる文学賞といえば筆頭は芥川賞、みたいなイメージがあったことは、どうやら言わずもがなで、この年も清岡卓行さんの『アカシヤの大連』がよく売れたそうです。おそらく年内だけでも10万部近くは記録したんじゃないかと推定され、最終的に17万5,000部まで行ったと伝えられています。

 じっさい、直木賞の渡辺さんは、『出版年鑑』と同じところが発行している『出版ニュース』のほうでも、芥川賞の清岡さんとセットでのくくり。

「相変らず芥川、直木受賞作品は売れる。『アカシヤの大連』『花埋み』がそれである。」(『出版ニュース』昭和46年/1971年1月中・下旬号「1970年度全国ベスト・セラーズ調査」より)

 ううむ、ここで(おそらく)誰もツッコまなかったところが、直木賞のもつフトコロの深さ、もしくはゆるい部分なのかもしれません。『光と影』の細かい数字は、残念ながら不明です。

 何だかんだで芥川賞作品はよく売れる。というのは、昭和43年/1968年の『三匹の蟹』、昭和44年/1969年『赤頭巾ちゃん気をつけて』、昭和45年/1970年『アカシヤの大連』ときての、昭和46年/1971年『杳子・妻隠』。……と、ここらあたりの良好なセールスが培った風評だと思われます。しかし、やはりすべてがそんなに売れたわけじゃありません。

 ベストセラーに対する「売れなかったほう受賞作」もいくつもあり、そのことをずっと持ちネタにしているのが、おそらく吉田知子さんです。

 「持ちネタ」というほど、たくさん披露されているわけじゃありませんでしたね、すみません。ほんとうに吉田さんの本は売れたことがないのだと思いますけど、第63回(昭和45年/1970年・上半期)の『無明長夜』(新潮社刊)は、史上二番目に売れなかった芥川賞受賞作だと編集者から聞かされた、とのことです。

 さすがに戦前には、何千(もしくは何百)といった単位の受賞作はあったはずですし、よほどの少部数でないかぎり史上二番目に食い込むのは難しいと思いますが、ひょっとしてすべての受賞作の部数を調べあげた編集者が、吉田さんのまわりに、いなかったともかぎりません。そういった調査結果が、内輪のおしゃべりに使われるだけでなく、少しでも公になることを、ただ願うばかりです。

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