2018年8月19日 (日)

昭和62年/1987年・外為法違反で書類送検され起訴猶予になった、ココムへの密告者、熊谷独。

東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件で、東京地検は十九日、外為法違反で書類送検されていた同社工作機械事業部長(当時)ら幹部四人と、商談を持ちかけたソ連貿易商社「和光交易」(本社・東京)の取締役ソ連部長ら幹部三人の計七人を起訴猶予とした。同地検は理由について「東芝機械は逮捕した主犯の幹部二人をすでに起訴しており、和光交易は不正輸出に直接関与していなかった」としている。

――『毎日新聞』昭和62年/1987年6月20日「ココム違反の東芝機械幹部ら七人を起訴猶予」より

 国際情勢を背景にした小説というものがあります。一般的にも注目を浴びるジャンルですが、直木賞のなかでも、明らかに華のひとつです。

 「ナリン殿下への回想」「ローマ日本晴」「寛容」など戦前・戦中に発表されたものから、「香港」『ゴメスの名はゴメス』「蒼ざめた馬を見よ」『風塵地帯』、あるいは『喜望峰』『火神を盗め』『プラハからの道化たち』『元首の謀叛』『炎熱商人』『ぼくの小さな祖国』『カディスの赤い星』『脱出のパスポート』『海外特派員 消されたスクープ』『遠い海から来たCOO』『密約幻書』、近年でも『ジェノサイド』『ヨハネスブルグの天使たち』『アンタッチャブル』『暗幕のゲルニカ』などなど、もう枚挙にいとまがない、という手垢のついた常套句で逃げるしかないぐらい、たくさんの作品が候補に選ばれてきました。

 こう見ると、直木賞とは国際的な事象にも目を向けてきた賞だ。と表現したくなりますが、あまりに権威とか文壇ゴシップとか、そちらに光が当たりすぎて、ほとんどそういう評判は耳にしません。というか、山周賞も吉川新人賞も、その他エンタメ系文学賞の多くも、だいたい同じ程度に、世界的な政治状況を描いた小説を取り上げています。たしかに直木賞だけの特質ではありません。

 しかし、そのなかでも異質中の異質といえる、熊谷独さんのデビュー小説『最後の逃亡者』(平成5年/1993年11月・文藝春秋刊)を候補にしてしまう直木賞の、世間体を気にしない予選のありようは、さすがの大胆さでしょう。世の中、何が直木賞をとるのか気にする人は多くても、直木賞の候補に何が(だれが)選ばれるかに注視するのは、ごく少数です。文藝春秋のとってほしい人を、どんどん候補にすればいいと思います。

 さて、熊谷さんですが、どこが異質なのか。いまから30年ほどまえ、国をあげて大騒ぎになった東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件というものがあり、この事件が明るみになるきっかけをつくった告発者として取り調べを受け、結果は起訴猶予とはなりましたが、犯罪行為スレスレどころか、その渦中に身を置いた対ソ貿易にくわしいビジネスマンです。デビューまで文学的履歴は皆無、エンタメ小説界にとっても、その存在そのものが爆弾のような、一種の不気味さ、凄みをもった候補者でした。

 熊谷さんは昭和60年/1985年、22年間務めた和光交易に自ら辞表を提出、退社します。妻ひとり息子ひとりの3人家族、49歳のときでした。『モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景』(昭和63年/1988年1月・文藝春秋刊)によれば、直接の引き金になったのは、この年の人事異動で自分の名前が昇進者リストになかったこと、と言いますが、モスクワ事務所で対ソ貿易に従事するあいだ、KGB(国家保安委員会)とのやりとりで発生する、理不尽な交渉、心理的に追いつめられる間接の脅迫、腹芸などにほとほと辟易して疲れ果て、これ以上、この仕事は続けられない、ということで退社を決意したそうです。

 この段階で、取引相手のKGBにも信頼され、まじめに社益を考えながら、しかし一方では、しっかりと不正な取引の実態を裏づける多くのデータや資料を記録、保管していた、というのが熊谷さんの恐ろしいところで、それまでソ連相手の商売をしてきた人なら当然知りながら誰も表沙汰にしなかったその実態を、熊谷が公開しようとしているらしい、と噂が流れ、退社してから元の会社から懐柔の声がかかったり、またソ連側からも引き合いの話が持ち込まれますが、熊谷さんはこれを拒否。次第に、これはやはり明るみにしたほうがいい、するべきだ、という考えを固めていき、通産省に話を持っていこうとしますが、相手にされず、思い切ってパリにあるココム本部宛てに、告発状を送ったのが昭和60年/1985年12月のことです。

 ここからの日本政府、官僚たちの対応が、対米関係を含めて混乱と騒動をもたらした最大の要因、とも言われる空白の1年数か月が始まります。

 昭和62年/1987年3月に表沙汰になるまで、告発状を受け取ったココム本部からの問い合わせに、通産省は「そんな事実はない」とシラを切り、ちゃんと調べて答えているのか、とアメリカから執拗に追及されても、「不正な取引はどこにもない」とスットボける。通産省でも当然、告発者である熊谷独、本名・熊谷一男の名前は把握していたのに、直接話を聞こうとはせず、熊谷さんの経歴や素行を調べたうえで、会社を馘首になった腹いせに騒ぎ立てているだけで、他にも悪い評判ばかりがつきまとう、信頼性に欠ける人間だ、と完全無視を決め込みます。

 最初から通産省も非を認め、自浄で事をおさめる気があればよかったんですが、そんなこと、どだい無理な話かもしれません。アメリカ側は不満を募らせ、熊谷さんも想定していなかったような騒ぎへと転がっていき、日米経済摩擦に油をそそぎ、東芝製品非買運動を巻き起こし、日本の商社は武器商人へとなり下がったと叩かれ、そんななか発端となった熊谷さんも無傷では済まされず、業界の掟をやぶった裏切り者だの、私怨で他のサラリーマンまで巻き添えにした自己中人間だの、さんざんに中傷されます。

 そんな熊谷さんに反撃の場をつくったのが『文藝春秋』で、昭和62年/1987年8月号と9月号、2か月にわたり「東芝機械事件・主役の告白 これがソ連密貿易の手口だ」「東芝事件・主役の告発手記第二弾 西側がつくるソ連空母」を掲載。編集部の担当者は木俣正剛さんだったそうです。普通であれば、この事件も収束に向かっていましたので、世間の関心もすぐに離れ、これで終わり、となりそうなところ、昭和63年/1988年には加筆修正、より熊谷さんの心境とソ連での商売の深部にまでせまった単行本が文藝春秋から出たのみならず、文春の息が存分にかかったサントリーミステリー大賞に、小説を書いて参加し、そのディテールを細かく積み上げる筆致が選考委員に褒められて受賞。すると文春の息が存分にかかった直木賞で、予選を通過する、というまさかの作家デビューを果たすのですから、才能はどこに眠っているかわかりません。

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2018年8月12日 (日)

平成11年/1999年・プライバシー侵害の裁判で和解を選んだ高橋治。

作家高橋治さん(69)の小説「名もなき道を」をめぐって、「兄をモデルにされ、プライバシーを侵害された」として、妹夫婦が高橋さんと出版元の講談社を相手に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審は八日、高橋さんと講談社が和解金を支払うほか、小説以外での作品化の場合には主人公の出身地を変えることなどを条件に東京高裁(青山正明裁判長)で和解が成立した。一審は高橋さん側が勝訴していた。

――『東京新聞』平成11年/1999年3月9日「小説「名もなき道を」 プライバシー訴訟 「精神的苦痛」認め和解 控訴審」より

 「犯罪」の範疇からは外れますが、民事であっても、訴訟にまで発展した小説作品はいくつかあります。ときに多くの報道がなされ、文学関係者の意見が飛び交い、一般社会の関心の目が小説界にそそがれる、という事態を引き起こすこともあって、社会通念に照らして「やってはいけないことをした」という印象をもたれてしまうのは、否定できません。

 直木賞の関係者(受賞者・候補者・選考委員)のなかで、そういう場面に遭遇した例として、まず取り上げておきたいのが高橋治さんです。

 直木賞受賞者のなかでも決して時代を画した流行作家とは言いがたく、読書好きならともかく、一般的には「え、だれそれ」と首を傾げられても仕方のない、淡々と我が道を歩きつづけた渋めの人ですが、直木賞受賞翌年に刊行された『風の盆恋歌』(昭和60年/1985年4月・新潮社刊)というベストセラーがあり、年を重ねてから読むとビシビシ心に突き刺さる作品を数多く残しています。

 『名もなき道を』(昭和63年/1988年5月・講談社刊)も、題名から連想させるとおり、華やかな栄達とは縁のなかった一人の男の、常人とは相容れない生き様を掘り起こしていく、なかなか地味な小説です。いったい何でこういう小説が問題になるのか、よくわかりませんが、しかし、珍しい判例を導き出した特殊な事例として、小説と裁判の歴史のなかではよく取り上げられています。

 この小説では、昭和59年/1984年~昭和60年/1985年に、地方各紙に連載されるに当たって、高橋さんが自分の旧制第四高校時代の同期生をモデルにした「槙山光太郎」を中心的に登場させ、じっさいにその妹夫婦にも取材したうえで、彼らもまた「武部保雄」「万里子」という名前で、重要な役を担って描かれます。連載終了後、昭和63年/1988年に単行本化、その年の10月には『別れてのちの恋歌』とともに、第1回柴田錬三郎賞を受賞。しかし、作中に描かれた説明などから、「槙山」や「武部」夫妻が誰なのか、その地元では容易に特定できるらしく、私生活上のことを公表されて名誉・プライバシーが侵害されたとして、「武部」夫妻のモデルとなった妹夫妻が平成1年/1989年12月に提訴。訴えられた高橋さんと講談社は、プライバシーの侵害には当たらないと主張して法廷で争い、平成7年/1995年5月19日、東京地裁(魚住庸夫裁判長)で判決が言い渡されました。

 当該作品の記述は、プライバシー侵害、名誉棄損としての違法性を欠く。原告の訴え棄却。要するに、高橋さん・講談社側の全面勝訴、となったのです。

 モデル小説をめぐるプライバシー侵害の裁判で、こういった判決が出たことは、いまにいたるまで重要な議論を残したと言われます。誰か特定の人をモデルにし、その私生活の、本人たちが知られたくないことまで題材にしても、違法と判断されない場合があるんだ、でもその線引きっていったいどこにあるんだろう……と、果てなき議論に、また一本薪をくべた、と言ってもいいです。もはや裁判の世界もわからないことだらけ、という感を深くしますが、そこに「文芸性、芸術性があるか、ないか」という、よけいに理解不能な文学の話がかぶさっている。善か悪か、判別の難しいことばかりのこの社会において、でもひとつの判決においてはどこかに線を引かなければならない、という人間的な不条理さが、より際立って見える事例でもありました。

 そのなかでも注目したいのは、このときの判決文で、実在の人物をモデルにしたことを、どの程度、売りにした作品か、それがプライバシー侵害と判断する材料にもなりうる、という文章が出てくることです。

 誰それをモデルにした、あるいは誰それの実生活を描いたと言って売り出す、暴露小説、実録小説の類なら、法に触れるかもよ、というわけです。『名もなき道を』は反対に、ことさら、そのことで読者の関心を煽った作品ではない、と判断されたために、被告の勝訴へと導かれた面が、多分にありました。

 この点、にぎやかで騒々しいことが性に合わず、テレビもほとんどつけずに、田舎暮らしを愛し、つねづねゴシップ的なジャーナリズムが大嫌いだと公言していた高橋さんの、その地味な精神が功を奏した、と言ってもいいでしょう。

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2018年8月 5日 (日)

昭和13年/1938年・『若い人』が告発された一件で、「軍人誣告罪」と表現した石坂洋次郎。

作家石坂洋次郎(三九)氏の小説「若い人」中に尊厳冒涜の節があると日本橋区蠣殻町三の四福島健氏から石坂氏並に改造社発行人山本三生氏を相手どり出版法第廿六条による告発が提訴されてゐたが(引用者中略)同氏はすでに秋田県立横手中学校の教職を去り謹慎の意を表したうへ「若い人」の題材、辞句についても変更或は訂正の意があるところを申出てゐるので結局起訴には至らぬものとみられてゐる

――『読売新聞』昭和13年/1938年11月15日「石坂氏を告発 検事局へ出頭」より

 石坂洋次郎さんは、直木賞や、もうひとつの兄弟賞は受賞していませんが、功成り名を遂げた昭和42年/1967年、67歳になってから直木賞の選考委員に就きました。

 先日、芦屋で行われた元・文藝春秋社長、平尾隆弘さんの講演でも、選考会にまつわる印象深いエピソードとして、議論とは関係ない場面でいきなり手を上げて「選考料は上がりましたか」などと質問する石坂さんの、茶目っけのある姿が語られ、笑いを誘っていましたが、約10年間その調子で務め上げ、77歳で退任するときには、老衰してたくさんの作品を読むのがつらくなった、とその理由を述べるなど、おおらかな自由人というか、気負いのない、あるいはつかみどころのない飄然とした態度に特徴のあった選考委員です。

 その石坂さんの筆歴のなかには、自身が犯罪者にされそうになった、大きな事件が二つあります。昭和13年/1938年の『若い人』告訴と、昭和23年/1948年~昭和24年/1949年『石中先生行状記』猥褻文書摘発です。

 どちらも有名作品、しかも有名な逸話なので、いたるところで取り上げられてきましたが、前者の『若い人』事件には、確実に奇怪な点があります。「軍人誣告罪」って何なんだ、ということです。

 経緯を簡単にたどってみます。昭和8年/1933年~昭和12年/1937年にかけて『三田文学』に発表された石坂さんの「若い人」は、連載中から文壇内で大評判となり、昭和12年/1937年2月に前半が、同年12月に後半が、改造社から単行本化されます。これが売れに売れ、後半が書店に並ぶころには映画も公開されて、さらに多くの読者を獲得。ときに新進気鋭の作家として『東京朝日新聞』から連載小説の依頼も舞い込んで、石坂さん大喜び、昭和13年/1938年9月14日の紙面に、新連載の告知が出たところ、発表からかなり経った『若い人』に対して、ある右翼がかった人物からケチをつけられ、不敬罪および軍人誣告罪に当たるということで、検察局に提訴されてしまいます。そんな作家を起用する気かと追及された『朝日』は9月17日、わずか3日で連載予定をとりさげ、秋田県で中学の教師をしていた石坂さんも、不承不承、教職を辞す羽目になりました。……

 と、石坂さんがどうこうより、一部の人たちの朝日新聞に対する敵意が凄まじかった、ということのわかるイザコザに、石坂さんも巻き込まれたかっこうですが、ここに出てくる「不敬罪」が何なのか、それはわかります。しかし「軍人誣告罪」とは何でしょうか。

 これについては近年、小谷野敦さんによる、ブログ記事や『忘れられたベストセラー作家』(平成30年/2018年3月・イースト・プレス刊)での指摘があったおかげで、目からウロコが落ちました。「誣告罪で提訴された」という表現は、明らかな間違いです。もしくは勘違いです。

 作中、軍人の剣は鉛筆を削ったり果物の皮を剥くのにも使われる云々、と書かれた部分が、告発対象のひとつになったと言われています。だけど、そこで難癖をつけるなら、(当時の)刑法第2編第34章「名誉ニ対スル罪」のなかにある、第231条への抵触でしょう。事実ヲ摘示セスト雖モ公然人ヲ侮辱シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス。つまり「侮辱罪」です。

 刑法では、第2編第21章「誣告ノ罪」第172条に、いわゆる「誣告罪」も規定されていますが、誣告というのは、誰かに法的処分を受けさせようと企んで、虚偽の申告をすること。いわば、偽証に近い行為のことです。ブジョク罪とブコク罪。語感は似ていますが、意味は全然ちがいます。

 あるいは「誣言」と取り違えた、という可能性も考えられるでしょう。軍人に対する誣言、といえば、軍人に関する虚偽の事柄をでっち上げて触れまわる、といった意味でしょうか。言葉として通らなくはありませんが、だとしても、それは誣言であって、誣告ではありません。

 誣告罪。一般的になじみのない語句のほうが、いかにも法律用語らしいし、恰好いいです。いや、罪名に恰好よさを求める人など、いないのかもしれません。となると、戦後『若い人』が語られるとき、知名な著述家からそうでない著述家まで、こぞって「軍人誣告罪」という意味不明な表現を、平気で使い続けてきたこの状況は、いったいどういう事情によるのでしょうか。

 なにしろ何百例、何千例とありますから、それらの事情を一概に推しはかることはできません。しかし、有力な元凶をひとつ挙げるとすれば、告発された事情にくわしいはずの石坂さん本人が、いちばん最初に「軍人誣告罪」という言葉を使った。……これだろうと思います。

 戦争が終結してまもない昭和21年/1946年4月、『若い人』は改造社で復刊され、このとき上巻に、石坂さんによる「あとがき」(昭和21年/1946年1月付)が付きました。そこで作者自身が、この作品は「軍人誣告罪」で告発されたのだ、と二度も重ねて触れています。致命的といおうか、相当厄介なケースです。

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2018年7月29日 (日)

昭和47年/1972年・前年につづいて万引きで捕まった小島視英子と、黙ってやり過ごした夫・政二郎。

【鳥取】十二日午後五時五十五分ごろ、鳥取市川端二、鳥取県東部生協(広田幸一組合長)二階衣料品売り場で、中年の女性二人が、くつ下など衣料八点(九千九十円相当)を万引きしたのを、店員が見つけ、鳥取署に突き出した。

同署の調べでは、(引用者中略)作家小島政二郎氏夫人、視英子こと嘉子(四五)と、(引用者中略)無職和田美樹(三〇)で、(引用者中略)調べに対し、視英子は、はじめ和田嘉子と名乗り、万引きは、美樹がやったといい張ったが、追及され二人でやったと自供した。

――『読売新聞』昭和47年/1972年7月13日夕刊「里帰り先で万引き また小島政二郎氏夫人」より

 昭和10年/1935年上半期の第1回から、直木賞・芥川賞の兼任で選考委員になった小島政二郎さんは、8年ものあいだ両賞のために尽力した大偉人です。とくに直木賞の予選主査を務めるなど、こちらの賞の礎を築いた人、と紹介しても大げさではありません。

 昭和18年/1943年~昭和19年/1944年、戦争中の2年間は任から退きますが、戦後あらためて直木賞の委員に復活。「直木賞は(いや、直木賞といえども)文芸作品を選ばなければならない」という、難しくて険しい道を、頑固な文芸信者として押しすすめ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)の選考をもって、主催者側から退任をすすめられたところで、おそらく不本意ながら身をひきます。

 時に御年72歳。エッセイ『食いしん坊』で有名な老文士、という立場に甘んじ、もはや大衆文壇の第一線にいるわけでもなく、他の委員に比べて、一般的な人気はさほどなかったでしょう。鶴書房から『小島政二郎全集』の刊行が始まったのは、委員退任後の昭和42年/1967年からですが、当初計画されていた全12巻のうち、3巻を残して続刊は頓挫。余生というか、実質引退状態というか、終わった人というか、基本的には新たな活躍は望めない過去の作家、と見られていたなか、ここで〈小島政二郎〉の名を広く世間に知らしめたのが、昭和41年/1966年から同居、昭和42年/1967年4月に正式に婚姻届を出した32歳下の二番目の妻、視英子さんでした。

 自称〈悪妻〉。他称もやはり〈悪妻〉。翔んでるミセスとして、ほんのわずかの期間マスコミの表舞台でも活躍した人です。

 本名は嘉壽子といい、視英子というのは小島さんとの結婚後に、姓名判断に従って名乗りはじめた名前だそうです。ともかくオチャメでお転婆、歯に衣着せぬ放言や、だれに対しても物怖じしない屈託のない態度が興味をひかれ、『甘辛春秋』昭和43年/1968年夏号に書いた「マイ・ディア・ドンビキ」をきっかけに、いろいろと執筆の仕事が舞い込むようになり、翌年には『現代不作法教室』(昭和44年/1969年10月・二見書房刊)を刊行。いっぽう小島さんのほうも「若い妻と老いた作家」という題材を得て、私小説への情熱を燃え上がらせると、「眼中の人(その二)」「妻が娘になる時」「美籠と共に私はあるの」などなどを精力的に発表し、昭和45年/1970年1月、中央公論社から作品集『妻が娘になる時』が出たときには、久しぶりに自分の芸術小説の本が出ることになってうれしい! と喜びをあらわにしました。

 この「妻が娘に~」は同年、TBSテレビの東芝日曜劇場でドラマ化され、美貌でならした視英子さんは同局「あなたは名探偵」の解答者のひとりに大抜擢。『サンデー毎日』では夫婦そろって対談のホスト役を務める「不作法対談」の連載も始まり、小島政二郎、直木賞委員を退任してからの、まさかの大にぎわいです。視英子さんに負けず劣らず、自分の感情を包み隠さずぶつける小島さんの魅力が、ここにきてさらに花開いた、と言ってもいいでしょう。

 そんな「年の差婚」景気が、ばっさりと終わりを告げたのは、昭和46年/1971年6月15日、昭和47年/1972年7月12日、2度にわたる視英子さんの万引きと、それを大きく取り上げた新聞や週刊誌による報道だった。……というわけなんですが、叩くとなったら口きたない表現をこれでもかとつぎ込んで叩く、雑誌ライターの煽り立てるような文章・文体は、当然この時代も健在。ちょっと名のあるエロ爺いに取り入って、ちゃっかり妻の座におさまると、調子に乗っていろいろと顔を出すようになったけど、何だ、けっきょく幼稚な犯罪者じゃないか、といった感じの、他人を糾弾するときのライターたちのわくわく感が、どの記事からもよく伝わってきます。

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2018年7月22日 (日)

昭和62年/1987年・婦女暴行致傷罪で起訴された同棲相手のことを、記者会見で聞かれた山田詠美。

作家山田詠美さんの小説「ベッドタイムアイズ」のモデルとされる在日米空軍横田基地の技術軍曹A(35)が7日、東京地検八王子支部から東京地裁八王子支部に婦女暴行致傷罪で起訴された。

起訴状によると、Aは3月1日午前4時半ごろ、東京都福生市福生の公園で、帰宅途中の女性(46)に背後から抱きつき、約100メートル離れた自宅に引きずり込んで暴行し、顔などに2週間のけがをさせた、とされる。

――『朝日新聞』昭和62年/1987年7月8日夕刊「小説「ベッドタイムアイズ」のモデル黒人兵、女性暴行で起訴」より

 直木賞の受賞記者会見というのは、直木賞全体から見るとかなり局所的なイベントですが、それでも毎回、確実に関心をそそられます。

 その会見のなかで、直木賞史上最大の盛り上がりを見せた、と語り継がれているのが、第97回(昭和62年/1987年上半期)。いまから30年余りまえの、夏の出来事です。

 いつもは冴えない文芸記者しか集まらない会見場に、テレビから週刊誌からゴシップ誌から、カメラとフラッシュを抱えた取材陣が群れをなして押し寄せ、まるで芸能人の会見かと思わせた、と形容されるほどの千客万来ぶり。少なくとも文芸関連の行事という穏やかな様子は一変し、直木賞・芥川賞は完全にショー化した、というおなじみの論評がこのときも現われ、しかし以来30年、だれもそれを変えようとせず、いまだに「直木賞・芥川賞は完全にショーだ」と批判する人が後を絶たない、という記念すべき第97回直木賞。

 主役となったのは、山田詠美さんです。

 いや、山田さんの華やかさや話題性も相当でしたが、それだけが大勢の取材陣を動かしたわけではありません。直木賞の会見風景を一気に変貌させたその最大の要因は、明らかにひとつの犯罪事件でした。否定する人はいないと思います。

 報道によると、昭和62年/1987年3月1日明け方5時半ごろ。東京都福生市に住む会社員、46歳の女性が徒歩で帰宅中、ちょうど「わらつけ公園」を歩いていたところ、何者かに突然抱きつかれ、100メートルほど離れたマンション3階の一室に、強引に連れ込まれる事件が発生します。加害者は抵抗する女性を殴りつけ、レイプに及んだとのこと。被害を受けた女性はそのマンションの住人でもあったため、加害者の人体は把握しており、3月4日に被害届を警察に提出。その加害者とはアメリカ国籍をもつ氏名カールビン・ウィルソン35歳(ケルビン、カルビンと表記する文献もあり)、米軍横田基地の航空貨物補給部で働く技術軍曹で、福生署の捜査員は性犯罪ということもあって慎重に裏づけ捜査を進めますが、事実関係の捜査がかたまり、6月17日に逮捕。7月7日、東京地裁八王子支部に起訴されました。続報によれば、同年12月23日に同支部にて、求刑懲役四年に対し、懲役三年六か月の実刑判決が言い渡され、刑に服すことになった、ということです。

 そのウィルソンさんは、山田詠美さんの当時の同棲相手。処女作『ベッドタイムアイズ』のモデルのひとりとも言われて、デビュー直後から数々のメディアに取り上げられた山田さんとともに、マスコミに幾度となく登場していた人ですが、犯行のあった当日、山田さんはバリ島に取材旅行に出かけていて不在、その留守宅が犯行現場になった、という話から、二人の仲は最近ギクシャクしていたとか、山田さんの浮気に心痛めたウィルソンさんがそのフラストレーションを爆発させたのではないかとか、どうでもいいといえばどうでもいい事情が、週刊誌を中心に報じられます。

 ここで、いつもなら世の注目を浴びるのは芥川賞です。しかし、このときばかりは偶然にも直木賞に風が吹きました。7月7日起訴のニュースが新聞に載った翌8日、同じ日に日本文学振興会から直木賞・芥川賞の候補作の情報が解禁され、山田さんの名前が、それまで3度候補になった芥川賞ではなく、はじめて直木賞のほうの候補に入っていたからです。選考会は一週間後の7月16日。直木賞で山田さんの候補作はどう扱われるんだ、権威ある偉い人たちはまさか犯罪者の同棲相手を許したりしないだろうな、落ちろ、いや受賞して叩かれろ……などと、多くの記者やライターたちがウキウキと心を弾ませた、といいます。

 つまり「権威ある文学賞」と「犯罪事件」というイメージの落差に、多数の人間が魅了された、と言っても間違いではないでしょう。

 ひょっとすると第85回(昭和56年/1981年・上半期)ホンモノ芸能人・青島幸男さんが受賞したときや、第94回(昭和60年/1985年・下半期)テレビでおなじみ林真理子さん受賞のときを、しのいだのではないかと言われるほどの大量の取材陣が、直木賞という小さな行事のために予定を調整し、暑いなか都内ホテルの会見場に足を運ぶことになった、というわけです。

 景気のいい時代の日本人は、なかなかの浮かれ調子で、馬鹿なことをやっていたもんだな。あはははは。……と素直に笑えないのが、またつらいところです。

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2018年7月19日 (木)

第159回直木賞(平成30年/2018年上半期)決定の夜に

 決まってしまいます。気温が何度になろうが、誰の訃報が流れようが、政治の状況がどうだろうが、やはり直木賞は決まってしまいます。7月18日(水)。第159回(平成30年/2018年上半期)の直木賞が決まりました。

 ああ、それにしても、目を閉じると、いつも思い出すのは、受賞しなかった候補作のことばかり。

 ……と、これは、ワタクシがひねくれている、というのも理由のひとつでしょうけど、しかし、それぞれの小説を読んで、受賞作よりも候補作のほうに魅かれる、というのは直木賞を外から見ているわれわれには、きっとよくある伝統的な現象でしょう。

 まずは何といっても今回は、湊かなえさんの『未来』のことに触れないわけにはいきません。端から端まで、〈湊かなえ〉の匂いを存分に充満させた、この熱い、熱すぎる一作。はっきり言って困りました。授賞させる気なら、もっと前に授賞させておけよ、と思いました。作家としての実績は、直木賞向き、だけどこの一作は、あまりにあまりすぎて、選考委員の人たちも苦しんだのではないかと想像します。そして、苦しみのヒストリーはこれからもまだまだ続く。受賞のその日まで。

 苦しみか平穏か、こちらはよくわかりませんが、『宇喜多の楽土』の木下昌輝さんが、すでに直木賞受賞者であっても遜色ない活躍ぶりを見せていることを目にすると、やはり第152回(平成26年/2014年下半期)に『宇喜多の捨て嫁』で受賞させなかったアノ選考は、大失敗だったと思わずにはいられません。その大失敗を、どうにか帳消しにするためには、木下さん自身の力を借りるしかなく、どうか木下さん、今度こそ直木賞にギャフンと言わせてやってください。切に祈ります。

 上田早夕里さんの『破滅の王』のような作品を、高く評価して、最終決選にまで残すことは残すが、受賞圏内には届かない……という、いかにもな直木賞の決断。まったく歯がゆいです。候補になったのもサプライズ、これで受賞していれば、二重三重の輪がかかって最高級のサプライズになったのにな。相変らずの直木賞でごめんなさい。ワタクシが謝っても仕方ないですけど、とりあえず今後とも、直木賞のことをよろしくお願いいたします。

 どうして本城雅人さんの、はじめての直木賞候補作が『傍流の記者』なんだ。と不満に思った人は多いはずです。多いかどうかは知りませんが、少なくともワタクシはそのひとりです。やはり本城さんの記者モノは、どこか影をもった、エリートコースから外れぎみの記者の造型に、抜群の魅力があふれていると思います。これからの、馬力あるお仕事ぶりが楽しみでなりません。

 何の星のめぐりあわせか、窪美澄さんの『じっと手を見る』が、不思議にも直木賞の受賞作になりませんでした。これで早くも「どうしてこの作家が直木賞候補どまりで、受賞者になっていないんだ」グループの仲間入りです。いや、すでに選考委員ぐらいの貫禄がある。そこが恐ろしいです。いつか直木賞の選考委員になって、この賞に文芸の風を送り込んでやってください。

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2018年7月15日 (日)

第159回直木賞で話題となっている参考文献記載問題。

 平成30年/2018年夏、7月18日(水)に第159回直木賞が決まります。

 直木賞と、もうひとつ同時に開催される他の賞が、決まるまえのこの時期からいろいろと話題になるのは常道の光景ですが、とくに今回は、巻末に参考文献を載せるか載せないか、載せるとしたらどう載せるか、それが候補作の運命を左右する大きな注目点になる、と数々の識者が指摘しています。ご存じのとおりです。

 参考文献を笑う者は、参考文献に泣く。何ごとも細部にまで神経を尖らせるのは大切なことだと思います。

           ○

 ところで、参考文献の記載ぶりは、これまで直木賞にどんな結果をもたらしてきたのでしょうか。

 かつてこの賞は、雑誌掲載の作品ばかり受賞していましたが、それらの末尾に参考文献が付される例はほとんどなく、村上元三さん「上総風土記」ぐらいのものだったでしょう。ここでは単行本で受賞した例のみを対象にして、集計してみます。

●受賞作総数:128

●参考文献の記載アリ:22冊(17.2%

 これだけ割合が低いのは、直木賞が古くからやっている証しかもしれません。とにかく昔の本の多くは、参考文献の表示が省略されているからです。

 よく知られているものに、井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』があります。この作品には確実に親本があり、本人も受賞当時からそのように語っていて、要するに内容まるパクリなんですが、これが直木賞を受賞するとはどういうことだ、と猪瀬直樹さんあたりがいっとき猛烈に批判していました。

 直木賞の本に、はじめて参考文献が登場するまでには、かなりの時間を要します。

 時代はぐっと下って第87回(昭和57年/1982年・上半期)。3ページにわたって、ずらずらと参考元を列記した深田祐介さんの『炎熱商人』が、直木賞史上初の作品です。なにせ深田さんはその2年半まえ、3度目の候補になった『革命商人』でも同じように大量の参考文献を付し、しかしそのときは惜しくも受賞を逃したので、「執念の参考文献列挙者」として、いまも直木賞の語り草になっています。

 その後もまだしばらくは、直木賞に参考文献の時代は訪れません。ようやく潮目が変わりはじめたのが、元号が平成に変わる頃から。平成の受賞作(単行本で受賞したもの)だけで数えると、その数字の上昇ぶりは明らかです。

●受賞作総数:73

●参考文献の記載アリ:19冊(26.0%

 それでもまだ、全体の4分の1程度でしかありませんが、歴史モノは当然のこと、少し前の時代を描いた小説などにも、ぞくぞくと参考文献アリの拡大が見られる、という流れを経て、もはや現代小説の巻末で参考文献が紹介されることが、何も不思議ではない状況に突入しました。

 たとえば、2回まえの佐藤正午さん『月の満ち欠け』は、参考文献〈アリ〉派。前回、門井慶喜さん『銀河鉄道の父』は、いかにも〈アリ〉派に属していそうな構えの小説でしたが、じっさいは〈ナシ〉派。

 参考文献アリか、ナシか。……一進一退の攻防を繰り広げるそんな現状だからこそ、今回第159回の直木賞も、そのゆくえが注目されています。

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2018年7月 8日 (日)

昭和59年/1984年・「ロス疑惑」報道事件でゴシップメディアに重宝された小林久三。

ロス疑惑事件をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして、三浦和義被告(四九)が新聞社に損害賠償を求めた二件の訴訟の上告審判決が二十七日、最高裁第三小法廷であった。

(引用者中略)

夕刊フジの発行元の産経新聞社と作家の小林久三氏に計五百万円の慰謝料を求めた訴訟では、二審判決が「夕刊紙は、帰宅途上のサラリーマンを対象として主に興味本位の記事を掲載するもの。読者は大げさな憶測記事として一読したに過ぎない」としていた。

しかし、この日の判決で園部逸夫裁判長は「興味本位の編集方針をとっていても、報道媒体である以上は、読者も記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、記事にいくぶんかの真実も含まれているものと考えている」と述べて、二審判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻した。

――『朝日新聞』平成9年/1997年5月27日夕刊「「夕刊紙にも真実ある」 名誉棄損に新判断 ロス疑惑で最高裁判決」より

 犯罪事件が起こると、それに対して当事者や捜査機関ではない第三者の立場から意見や推論を述べる、あまり尊敬されない役割を担う人が登場します。〈コメンテーター〉と呼ばれたりします。

 さまざまな職種の人が、その役割を押しつけられ、また自ら望んで担ってきましたが、伝統的に重宝されてきた職種のひとつが、推理小説作家です。

 直木賞と縁のある作家のなかからも、やはり何人かが狩りだされ、犯罪史ならぬ日本の犯罪報道史を色どり豊かに彩ってきました。とくに昭和50年代から平成はじめごろにかけて、多くのメディアに登場、どこか胡散くささをまといながら、しかし大きな功績を残した人といって思い浮かぶのが、直木賞候補者、小林久三さんです。

 小林さんは、もとは松竹で映画の制作に携わり、助監督時代にはストーリーや脚本を書いたりしていた人ですが、昭和47年/1972年に冬木鋭介のペンネームでサンデー毎日新人賞(推理小説部門)を受賞、2年後、「暗黒告知」で江戸川乱歩賞を受賞し、それがそのまま直木賞の候補にも残って、小説家としての道が開けます。次第に活動分野はひろがって、週刊誌、スポーツ紙、夕刊紙といった、ちょっといかがわしいけど、楽しさ満点の、大衆向けメディアにも積極的に登板、多忙な作家生活を送ります。

 そんな小林さんが昭和57年/1982年に見舞われたのが、盗用・盗作事件です。

 明らかに小林久三の作品は盗作だ! と思いっきり全国紙の紙面で糾弾されることになったのは、『週刊大衆』に連載した「ノンフィクション・ノベル 帝銀事件」および、『小説現代』に発表した小説「マッカーサー謀殺事件」が、轍寅次郎こと和多田進さんの出版した『追跡・帝銀事件』の内容を大きくパクったもので、転用・借用、数限りなく、許容範囲を超えていて、参考資料にしたという言い訳は成り立たない、として和多田さんが抗議。裁判も辞さないとする和多田さん、それなら受けて立つと構える小林さん、双方の主張を報じたのが、『読売新聞』昭和57年/1982年7月3日夕刊の記事「売れっ子推理作家 小林久三氏 「帝銀事件」盗作トラブル」でした。

 この記事になるまでに、両者は代理人を通じて話し合いをもち、謝罪文の掲載、慰謝料の支払いなど、示談の要件を詰めようとしていたけれど、折り合いがつかず、ということで表沙汰になった感じですが、その後、両者の知人でもあった森村誠一さんがあいだに入り、和解金200万円の支払い、単行本化は見送る、ということを条件にして昭和57年/1982年10月29日に双方和解(昭和58年/1983年6月・幸洋出版刊 片野勧・著『マスコミ裁判―戦後編』)。立件されることもなく、また某かの文学賞の候補に挙げられていたわけでもなかったので、「○○賞は死んだ」などと、まわりから煽り立てる声も起こらずに、穏便なところに着地します。

 被害を訴える側は、これは明らかな盗作だと主張し、訴えられた本人も、たしかに参考にしたのは事実だと認めている。それでも、作家生命が断たれるほどのことはなく、先の道を歩んでいくのが一般的な展開です。小林さんも例に洩れません。「推理作家」の看板を降ろすことはなく、歴史に関する文献を読み込み、気になる犯罪事件があれば取材し、求められれば、事件に対する自分の感想や推理もお話しする。相変らず仕事に忙しい日々を送りました。

 というところで、昭和59年/1984年に小林さんが遭遇した、遭遇してしまうことになったひとつの事件があります。さかのぼること約2年前、昭和56年/1981年11月18日に、三浦一美さんがロサンゼルスで銃撃された事件の真相をさぐるという名目で、夫・三浦和義さんを追いまわす、度を超えた過熱報道が日本中を席巻した、という事件です。

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2018年7月 1日 (日)

昭和29年/1954年・「幹事長と女秘書」事件で佐藤栄作から訴えられた宮本幹也。

判決

(引用者中略)文筆業 宮本幹也こと 宮本正勝

大正二年三月二十日生

(引用者中略)会社員 丸尾文六

明治四十二年八月三日生

右両名に対する名誉毀損被告事件について、次のとおり判決する。

主文

被告人宮本正勝を罰金五万円に処する。(引用者中略)

被告人丸尾文六を罰金五万円に処する。

――『判例時報』昭和32年/1957年8月11日号「判例特報(1) モデル小説と名誉毀損罪の成立」より

 とりあえず直木賞は、文学の賞を名乗っています。文学にまつわる犯罪といって、やはりひとつの軸となるのは、発表された作品をめぐる抗議、告発、難癖などが引き起こす訴訟・判決でしょう。

 直木賞も80年以上やっていますから、受賞者や候補者の書いた小説が、道義的もしくは法的に非難され、告訴にまで至った例は、数多く見受けられます。せっかくいま、芥川賞のほうが盗作関係のハナシで盛り上がっているので、直木賞の、過去の盗作エピソードを振り返ってみるのも悪くないかな。とは思いましたが、準備もできておらず、それはまた後日、時機を見てからということにして、今日は盗用・盗作と並ぶ、「文学上の二大犯罪」のひとつ、モデル小説による権利侵害の話題でいきたいと思います。

 さかのぼってみますと、直木賞の受賞作や候補作で、特定の人物をモデルにしたと言われる小説は、古くからけっこうありますが、そのことが実在の相手や周辺人物たちに問題視され、異議を唱えられた一例が、有馬頼義さんの「終身未決囚」事件です。

 「終身未決囚」は、はじめは同人誌『文学生活』に発表されました。そのときは何の話題にもなりませんでしたが、これを表題作とした短篇集が、第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞を受賞。実際に目にする読者がにわかに増えたことで、早速、口を挟んでくるクレーマーが現われます。評論家の津久井龍雄さんです。

 本作で描かれた登場人物〈宮原基〉は、どう読んでも大川周明がモデルである。歴然と明確なモデルのある小説で、事実と異なるストーリーを都合よく並べたうえ、戦犯の容疑で法廷に立たされた彼が、精神病者と認定されて釈放されたのは、ウソの発狂を装ったからだ、などと大川氏を貶めるような内容を堂々と展開しているのは、大川氏本人や彼を尊敬する多くの人を冒涜するものだ。うんぬん。

 ……という、ヤフーコメントに載っていてもおかしくないような言いがかりを、『出版ニュース』昭和29年/1954年10月上旬号が掲載。同号で有馬さんは、モデルがあったことは事実だが何も大川周明のことを書いた小説ではない、と反論に打って出て、これが他の文学賞だったら議論の盛り上がり方も多少違ったかもしれません。しかし、他ならぬ直木賞をとった作品でもあり、それだけで文学的には数等落ちる、と本気で信じられていた時代です。とくに犯罪認定されることもなく、収束していきます。

 けっきょく直木賞が騒動にさらされることはありませんでしたが、昭和29年/1954年のこの年は、「小説のモデル」問題が、ついに文壇のせせこましい枠を超え、裁判で争われることになった重要な年です。その経緯は、直木賞とは直接の関係がなく、このブログで扱うには不適なんですけど、しかしそこには「純文芸の人たちによる大衆文芸差別」という、直木賞の置かれた当時の文芸状況が密接にからんでいて、その後の直木賞関係の、小説モデル事件を見るうえでも欠かせない歴史的な事件だった、と思います。俗に「幹事長と女秘書」事件と言われる一件です。

 光文社の出していた大衆小説誌『面白倶楽部』に、宮本幹也さん作「幹事長と女秘書」が田代光さんの挿絵付きで載ったのが、昭和29年/1954年11月号のこと。主人公は、疑獄事件の渦中にあり、自民党幹事長の職を辞す決意をかためた代議士、後藤大作と、彼のもとに突如現われた20歳前後の若い女性、若月ミチコで、ミチコの自由奔放な言動にふりまわされる後藤と、彼の実兄で同じく代議士の岸井新介や、古田総理とのやりとりをはじめ、後藤がかつて愛した赤坂の芸者とのあいだには美しい娘がいる、といった逸話を、巧みに入れ込んで読ませる楽しい小説なんですが、なにしろ田代さんの描いた挿絵の人物が、実在の政治家と瓜二つ。だれが何を言わなくてもこれが、当時自由党幹事長を辞めたばかりの佐藤栄作さんをモデルにしていることは、明らかでした。

 本文末尾に「この小説にはモデルはありません」の断りが付けられていましたが、そんな言い訳に何の効果もなく、雑誌発売直後の9月末に、当の佐藤さんが名誉毀損だとして告訴。その直前、光文社の編集部に抗議に乗り込んできたのが、「佐藤氏から世話になっている者だ」という殉国青年隊顧問の男とその部下たち、いわゆるそのスジの、右翼ったコワい人たちだったこともあり、創作の自由をこういう威圧的な手法で封じようというのはおかしいじゃないか、と『面白倶楽部』編集長の丸尾文六さん、作者の宮本幹也さんともに、徹底抗戦の構えを見せます。

 それまで、モデル小説で告訴された平林たい子さん「栄誉夫人」、由起しげ子さん「警視総監の笑い」などは、当事者間の話し合いや、金銭の授受で示談になっていましたが、当案件は被告側が示談を拒否。ついに起訴されるに至り、法廷で争うことになります。

 しかし、このとき文学関係者が見せた反応は、かなり鈍いものでした。

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2018年6月24日 (日)

昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。

一昨年の朝鮮動乱二周年記念日に新宿スケートリンクで開かれた「国際平和の集い」に集った群衆の流れが新宿駅前東交番などを襲い火炎ビンを投げつけ集団暴動を働いた事件の判決公判は十日午前十時五十分から東京地裁二十一号法廷で加納裁判長係で開かれ、次の判決言渡しがあった。

▽懲役一年、小林勝(求刑懲役三年)公務執行妨害、銃砲刀剣所持違反

――昭和29年/1954年7月10日『毎日新聞』夕刊「小林に懲役一年 新宿火炎ビン事件に判決」より

 東京・新宿駅の東口および歌舞伎町の周辺は、常に何かが暴発しそうな、毒々しさに満ちた一帯ですが、昭和27年/1952年6月25日水曜日夜、その付近に集まった熱気あるデモ隊が、仕事熱心な警官隊と正面衝突。報道陣を含め負傷者20数名を出すという大騒動が起こりました。

 当日は午後5時半から、歌舞伎町にあった東京スケートリンクで、渡辺三知夫さんを委員長とする芸術家集団が、「国際平和記念大会」ないし「国際平和のつどい」と称する大会を企画、そこに2500人ほどが集結していたと言います。朝鮮動乱とも朝鮮戦争とも呼ばれる、コリア半島を舞台にした南北分かれての、例の争いが始まって、ちょうど丸2年となった6月25日、日本に住む朝鮮の人たちをはじめ、日本人の学生、労働者などがぞくぞくと集まり、半島の平和を願いながら、その争いに荷担しようとする日本国家のやり口に不平不満を高め合うこと数時間、盛り上がりのボルテージが上がったまま閉会を迎えたのが午後9時すぎのことです。

 どうやら今日の集まりは(も)過激な参加者が多く、箱詰めの火炎ビンや硫酸ビンが用意されているらしい、との噂を耳にした警視庁は、早くから警備体制を整え、淀橋署の警戒本部に約1000人という、なかなか大人数の警官たちを待機させて、状況を見守ります。

 すると大会終了後、興奮状態を持ち越すかたちで、掛け声を上げ、アジビラを撒きながら新宿駅までやってきた大群が、東口前のあたりに陣取って、インターナショナルを歌いながらビラをまく。これは不穏な雰囲気になってきたぞと判断した警察は、躊躇なく1000人の警官隊を送り込む。怒号やら悲鳴やらが新宿の街にこだまする展開となったところで、ここぞとばかりにデモ隊の一部が、警官隊に向かって火炎ビンや硫酸ビンを投げ込みはじめます。ハナシによれば、その数50本以上。

 押し合いへし合い、混乱は東口から西口にも拡大し、平日夜の新宿駅付近といえば、いまとは様相も違っていたでしょうが、デモとは関係のない帰宅途中の一般人や酔っ払いなども大勢いたと言われていて、デモ隊はそういった群衆にまぎれ込みながら、警官隊に抵抗。そんなことが30分ぐらい続くうちに、警察の制圧が効いて騒ぎは徐々に収束し、検挙者30名ほどを出しながら、26日午前0時すぎに警戒態勢は解除となりました。

 そのなかで、とくにハジけた行動をして目をつけられたのでしょうか、4人が起訴されるまでにいたります。会社員黒沢洋さん、無職金南燮さん、分離公判となった平田虎雄さん、そして雑誌編集業の小林勝さんです。

 このとき、小林さんは24歳。どうしてその場にいたのか、とたどってみると、小林さんの両親は大正3年/1914年ごろ、日本の支配の及ぶ朝鮮に渡った、在朝の日本人で、おのれにとっての朝鮮とは、生誕の土地であり、故郷であり、この国というか民族というか土地との関係性は、小林さんの思想を形成してきた重要な礎です。朝鮮戦争の動向はヒトゴトではありませんし、しかも小林さんは、昭和23年/1948年に日本共産党に入党すると、早稲田大学の在学中にレッド・パージ反対闘争を指導して停学処分を受けるなど、いわゆるバリバリの、バリバリな歩みを見せた人で、昭和27年/1952年の事件のときは、『人民文学』に参加して編集に当たっていたという、正真正銘、バリバリの人でした。

 そのころはまだ、元気と威勢のいい一介の共産党員、ぐらいだったかもしれません。そこから昭和28年/1953年1月に保釈されて以降、小説を書く勉強をはじめ、昭和29年/1954年7月には、一審で有罪の判決を受けたものの、控訴。裁判を争うあいだに新日本文学会に入り、昭和31年/1956年に「フォード・一九二七年」を『新日本文学』に発表します。朝鮮・洛東江上流の山深い町を舞台に、ただ一台の自動車を所有するトルコ人、原住の朝鮮人、植民地化後に入植してきた日本人の関係性を、戦争を背景にして描いたもので、これが芥川賞の候補に選ばれることになったために、一躍、注目の新進作家として名を挙げます。

 このあたりで芥川賞でもとっていれば、のちの展開を含めて、間違いなく大きな話題となり、芥川賞も「ニュースの女神に愛された文学賞」と呼ばれるその特徴を、存分に発揮してくれたと思いますが、昭和34年/1959年、保釈手続きの不備によっていったん収監されるという余波を経て、7月7日、最高裁で判決が確定。懲役一年の実刑、ということで、戦後の作家としてはじめて実刑による刑務所生活を経験することになり、獄中で戯曲「檻」を執筆。翌昭和35年/1960年に出所するとたちまち、『文藝春秋』に「刑務所紳士録」を発表するは、「檻」が劇団民芸で上演されるは、これが第6回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)を受賞するは、「架橋」が3度目の芥川賞候補になるは、と話題性の風は確実に、小林さんのほうに吹きはじめました。

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«昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。