2018年6月17日 (日)

昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。

警視庁保安課は十七日までに神奈川県鎌倉市二階堂二四七作家清水正二郎(四一)をワイセツ文書販売、同目的所持の疑いで取調べ、出版関係者五人とともに書類送検した。これと同時に十七日までに(中略)去る三月から清水が書いた六十二種の単行本のうち、四十五種計四万一千冊余を押収した。

――昭和40年/1965年12月18日『朝日新聞』夕刊「清水正二郎ら書類送検 ワイセツ文書販売など」より

 他人に対する憎悪と怨嗟で生きている、と言いながら、パフォーマンスや自己売り込みをやってのけ、直木賞史上もっともパンクな作家人生を歩んだ受賞者、と称されることになった胡桃沢耕史さんは、呼吸をするようにゴシップを生産してしまう、という特異な人柄からか、うちのブログでも何度となく取り上げてきました。「犯罪」の観点から見ても間違いなく、忘れることのできない人物です。

 数々ある胡桃沢さん関連の犯罪事件のうち、いちばん有名で、根が深く、また直木賞も関わっているのが、昭和24年/1949年「暁に祈る」事件でしょう。

 胡桃沢さんが清水正二郎の名ではじめて出版した、自費出版だったとも言われる『国境物語』(昭和24年/1949年)は、ぼくはカルチャーセンターに通う主婦みたいに自分の体験そのままの小説は書かない、と豪語するようになる胡桃沢さんの、原点と言ってもいい作品で、モンゴル・ウランバートルの俘虜収容所に抑留されたときの自身の体験を軸としながらも、伝聞、取材、脚色、妄想をふんだんに盛り込んで物語性を高め、いかにもホントのことっぽく仕立てた小説ですが、最大のセールスポイントは、昭和24年/1949年3月15日に『朝日新聞』に掲載され、じつはデッチあげだったと一説に言われる記事から始まった「暁に祈る」事件の実態を、元吉村隊員という触れこみの書き手が、その残虐で非人道的な私刑の様子を描いた、というところにあります。

 ここで胡桃沢さんは『週刊朝日』の座談会に声がかかって出席するなど、あたかもこの事件の暗部を知るスポークスマン役を買って出て乗りだしていくと、吉村久佳=本名・池田重善以外にも悪人はまだまだいる、そのひとりが永井正だと、同誌5月1日号に載った手記(のような小説)「パン」のなかで糾弾、当の永井さんから名誉毀損で告訴される流れになったらなったで、「パン」の内容は創作だったと自分で認めながら、それでも強硬に対決姿勢を崩さない、というハートの強さを見せつけます。

 何よりも、どんなことを言えば話題になるのか把握し、実際にそういう言動をとるだけじゃなく、あまりに仕掛けてやろうという鼻息が荒すぎて、周囲がドン引きしてしまう、この展開が、のちの胡桃沢さんの原点だ、と言える点でしょう。三食ナマ肉を食べる性豪とか、一日に三発やらないと鼻血が止まらないとか、四人も五人も愛人を抱えているとか、性の面で脚光を浴びたときにしきりに繰り返した自己アピールに、一脈通じるものがあります。

 自分の受けた苦しみは、生涯忘れないしつこさ、というのも胡桃沢さんが終生言い続けた特徴です。現に、創作の原点にもなった抑留体験を常に大事に温めて、清水正二郎の名を捨てて新しい筆名になっても、その記憶と手法は捨てず、もう一度改めて書き直した『黒パン俘虜記』が、念願の直木賞受賞作となるのですから、作家として筋が通っている、と言えば、そう言えるのかもしれません。

 その胡桃沢さんが、刑事事件の被告となったのが昭和40年/1965年に送検された、猥褻文書販売・販売目的所持による、いわゆる「シミショウセクシー文学」事件でした。

 アンダーグラウンド小説界の帝王、隠れた流行作家と呼ばれた胡桃沢さん、いや当時は清水正二郎の筆名でしたが、昭和40年/1965年3月に『世界秘密文学選書』(浪速書房)の26点が摘発、5月から7月にかけて13点が追加されると、12月にはさらに4点、計43点が当局から猥褻文書とされて、検察に送られます。

 かつて、他の翻訳家のことを勉強が足りないとケナし、合法のなかで訳しきる技量があるのは自分一人しかいない、と言っていた胡桃沢さんでしたが、いざ違法だと摘発されて裁判となると、猥褻のどこが悪いのか、猥褻とは何なのかを論争したかったが向こうは相手にしてくれない、と検察批判を繰り出し、おれは検察ににらまれているが一度も留置所に入れられたことがないんだ、と呵呵大笑する有り様で、この強がりというか、負け惜しみというか、腹の底が見えない感じは、まったく変わりません。

 その打たれ強いはずの胡桃沢さんが、一斉40数点を猥褻文書と認定されて送検された昭和40年/1965年から、10年以上も経った昭和51年/1976年に筆名を変えたのは、いかなる理由があったのか。これがまた、謎ちゅうの謎に包まれています。

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2018年6月10日 (日)

昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。

有閑不善のバチルス麻雀賭博は先に久米正雄、里見弴氏等一流文士の大檢擧により同好者を戰慄せしめ一時その病根を絶やしたかと思はれたが、(中略)十六日午前五時を期し浦川捜査課長、田多羅係長、渡邊警部補以下卅名の刑事隊を動員し文字通り疾風的に關係者の寢込みを襲ひ、更に同日午後も引續き檢擧洩れの關係者を追窮して徹底的大檢擧を行つた、

(中略)

更に驚くべきことにはこの麻雀の一群は、同好の士の訃に接するやその靈を慰めると稱しては千點十圓の大賭博を開帳してゐたことが判明した(中略)三月一日には芝區田村町の吾妻屋旅館の一室で故直木三十五氏の靈を弔ふと稱して福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛、淵川銀次諸氏で同樣千點十圓の麻雀を開いてゐたものである

――昭和9年/1934年3月17日『都新聞』「麻雀賭博檢擧 文士畫家重役」(昭和40年/1965年5月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成 昭和編年史九年』より)

 だれか親しい人の死に接したとき、生きた人間たちはさまざまな行動をとりますが、そのいくつかは時代の記録に刻まれることがあります。われらが直木賞もその末席を汚す、しがない追悼企画のひとつですけど、人気絶頂の大衆作家と目された直木三十五が、昭和9年/1934年2月24日、43歳で亡くなったことに端を発する現象は、文学賞の創設だけに限りません。

 ここで出てくるのが、とある犯罪事件です。昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて俗世を騒がせたと伝えられる、文士賭博事件というものがありました。

 なにしろ世を騒がせたぐらいなので、この事件には数多くの回想、解釈、言い分が関係各所にあふれ返っており、とうてい全貌は把握しきれませんが、概略をまとめてみるとこうなります。

 昭和8年/1933年11月、東京市下で富裕な婦人や娘に金を貢がせては、淫靡な関係を結んで遊び、帝都の風紀を乱しているとして、ダンスホールで教師をしていた木村政雄こと車均敞や、田村一男などが警察に引致、取り調べを受けたところ、田村に令嬢や有閑マダムを斡旋していた人物として浮かび上がったのが、吉井勇伯爵夫人の徳子です。同月16日、徳子は警視庁に連行され、翌日から取り調べが始まりますが、彼女の証言によって、文士や画家たちのあいだで常習的に花札や麻雀の賭博が横行していることが判明したため、17日午後6時ごろから、名前の挙がった人たちが次々と検挙される事態となります。

 このとき対象となったのは、里見弴とその妻山内まさ、および内妻遠藤喜久、佐佐木茂索とその妻ふさ、中戸川吉二とその妻富枝、久米正雄とその妻艶子、小穴隆一、あるいは美川きよ、川口松太郎、島源四郎、野村真一郎、文藝家協会書記の松本喜郎といった面々で、みな賭博の事実はおおむね認めるいっぽうで、「娯楽でやっていたので悪いこととは思わなかった」と口々に言い、菊池寛が身許引き受けの一札を警察に提出したことが効いたのか、18日早朝には、おのおの釈放。まもなく書類送検され、翌年1月には里見と喜久、佐佐木、久米、中戸川、小穴、野村、島、徳子の9名が起訴、略式での罰金刑、と報じられました。

 しかし、賭け事をやっているのは彼らだけじゃないぞ、という情報を入手した警視庁は、その後も内偵を進め、さらに大勢の被疑者に目をつけると、検挙劇の興奮いまだくすぶる昭和9年/1934年3月16日、麻雀クラブの支配人たちを中心に、常習で麻雀賭博に興じていた医師、実業家、文士、画家などを一斉検挙。広津和郎とその内妻松沢はま、東郷青児などにつづいて、明けて17日には、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三といった文士から、松竹の女優、飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子まで、いっそう名の知れた人たちも連行されることになり、俄然と芸能ゴシップ屋の目をランランとさせる展開を引き寄せます。

 そうはいっても、だいたいが微罪中の微罪だったらしく、有名どころはすぐに釈放され、結局、警察が著名人にまで手を出したのは、世間の耳目を引こうという魂胆だったのではないか、と言われることになったこちらが、俗にいう「第二次文士賭博事件」です。

 うち、直木さんの死に関係しているのは、第二次のほうで、生前大いに可愛がられた福田蘭童さん(尺八奏者)などが2月24日の訃報に接してその死を悲しみ、3月1日、直木さんを追善するための麻雀会を、芝区田村町にあった東屋(吾妻屋)旅館で開催。多賀谷信乃(画家)、川崎備寛(文士)、淵川銀次(貴金属商)といったメンツの参集を見て、千符10円くらいの賭博を行っていたことが明らかになり、最終的に同年5月、この4人は起訴されることが決定して、略式命令による罰金刑が言い渡されました。

 死んでからこんなところに名前が出てきて、直木さんからすれば、トんだトバッちりだ、という感じかもしれませんけど、ともかくもこの事件は、直木賞が創設された時代背景をよく伝えてくれるものだと思います。

 当時の文芸界をとりまいていた国家権力と、遊興と、マスコミ、という三つの要素が勢揃いするなかで、文藝春秋社という、品行方正とは程遠いところにあった雑誌社が、そのいずれにも深く関与していた、ということです。そこには、直木賞がつくられる下地として、三つの要素が奇妙にからみ合う様子をうかがうことができるでしょう。

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第12期のテーマは「犯罪」。法をめぐる雑多なエピソードから直木賞の歴史をたどってみます。

 直木賞とは何でしょう。文学賞の一種です。当たり前ですね。すみません。  ところで、文学賞とは何なのでしょう。言うまでもなく「賞」のひとつなんですが、これまで人類が何千年、何万年と歩みながら、おのずと築いてきた社会組織という枠組みのなかで、時代や環境に応じてさまざまにルールをつくり、または破壊したりと、紆余曲折、試行錯誤するところに「賞」という様式が発生、そこから分かれ分かれて発展した枝葉のうちの...

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2018年6月 3日 (日)

『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)

『全逓文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年11月~平成21年/2009年5月(50年)

●直木賞との主な関わり

  • 各務秀雄(候補1回 第46回:昭和36年/1961年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『全逓文学』掲載作一覧

 直木賞のありようは、さすがにどんな角度から見ても面白いんですが、いっぽう同人誌文化というものも、一度本気で足を踏み入れたら二度と帰ってこられなくなりそうな、魅力や魔力に満ちています。だけど、それぞれの雑誌の成り立ちを知る基本的な調査だけでも、いろんな文献に当たらなければならず、時間がいくらあっても足りません。このまま深淵な泥沼に足をすくわれるまえに、「同人誌と直木賞」のテーマは、今週でひとまず締めたいと思います。

 この一年で取り上げていない、直木賞候補に選ばれたことのある同人誌、直木賞に関係した同人誌は、まだまだ存在しています。有名ドコロの『三田文学』をはじめ、古澤元さんの『麦』、木々高太郎&海野十三&小栗虫太郎の『シュピオ』、海音寺潮五郎さんの『文学建設』、米村晃多郎さんのいた『白描』、井上武彦さんの『文芸中部』、津木林洋さんの『せる』、平成以降では、もりたなるおさんがひとりでつくっていた『回転寿司考』、桜木紫乃さんの属した『北海文学』などなど、とめどなく、たくさん挙げられるでしょう。まったく深淵な泥沼です。

 なかでも、個人的に気になっている一誌に『全逓文学』があります。

 約10年ほどまえの平成21年/2009年に70号で終刊してしまいましたが、昭和の一時期、かなり盛り上がったと言われる労働者文学の世界で、当時数々の問題を抱えていた三つの巨大組織、すなわち電電公社、国鉄、郵便局のそれぞれの労働現場からも、全電通文芸連盟、国鉄動力車文学会、全逓文学会などといった数多くの文学組織が結成され、いまで言うところの「お仕事小説」の、さらに深刻で苛酷なバージョンが、無数の同人誌に掲載された、と洩れ聞いています。

 いわゆる文学系を専門とする人たちには、そういった背景や実作、文学全般にもたらした影響などは常識なのかもしれませんけど、大衆文芸だの中間小説だの、そちらの歴史と労働者文学とは、どのように関連を結んでいたのでしょう。まともに取り上げるのも馬鹿バカしいからなのか、いやワタクシが不勉強すぎるせいで、言及したものをほとんど見かけたことがなく、伊藤桂一さんが「螢の河」で受賞した第46回(昭和36年/1961年・下半期)の直木賞で、全逓文学会の同人誌『全逓文学』から各務秀雄さんの「そこからの出発」が、なぜかポツリと候補に挙げられていることを、どう位置づけたらいいのか、よくわかりません。

 何といっても、この一作、いまどこに行けば読むことができるんでしょうか。

 本気でだれかに教えてほしい、と願うこと十数年、いまだに読むことがかなわずにいて、じっさいの作品を読まずに偉そうに語る恥ずかしさは、十分承知しているつもりですから、『全逓文学』と直木賞とのことは、突っ込んで触れるのを避けようと思いますが、この雑誌が創刊された昭和30年代、全逓文学会は、関東と関西の、二つのグループが同居していたといいます。しかし、どうやら昭和40年/1965年前後に両者分裂。関東グループのひとりだった神田貞三さんが、のちに語るところによると、

「その鋭敏な感受性と旺盛な筆力によって会内のもっとも有力な作家でありつづけた各務秀雄が、その資質の赴くところ当然に会内外の頽廃した空気を感じとって、〈頽廃的な日日〉のなかで「生活に狎れ、文学に狎れ」(会報六〇号)てしまっている会員たちを鋭く告発し、名差されたわたし、神田との会の活動にとって生産的な何ものもつけ加えない討論のあとで、ついに会にとどまる如何なる意味も発見できないとし、「ながき辛抱を」(会報六六号)という辛辣な告別の言葉をわたしたちに残して会を去ってしまった・・・」(『全逓文学』21号[昭和48年/1973年8月] 神田貞三「文学への荷担 会活動の十三年・その断片」より)

 ということだそうで、雑誌そのものは関東のメンバーがひきつづいて続刊、神田さんや清水克二さん、徳留徳さんといった人たちの活躍を、その後も通じてうかがうことができますが、関西グループの実作者のなかで最も期待され、外部からの評価も高かった各務さんは、まったく忽然と消えた作家となってしまいます。

 直木賞はとくにそうですが、消えた消えたと言われていても、案外あとのことまで判明している受賞者・候補者がほとんどです。そんなに簡単に人は消えたりしないもの、ということかもしれませんけど、各務さんみたいに、ここまでパッタリと文学的な歩みを断つ候補者は珍しく、しかも当の候補作ですら、どこで読めばいいのか皆目わからない。直木賞候補になったのはたしかなのに、それを手にとることができない損失感。あまりに堪えがたく、とりあえず、こんなかたちで触れてみました。マジでだれか読ませてください、「そこからの出発」。

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2018年5月27日 (日)

『近代説話』…司馬遼太郎や寺内大吉、直木賞と結びつけられることを、ことさら嫌がる。

『近代説話』

●刊行期間:昭和32年/1957年5月~昭和38年/1963年5月(6年)

●直木賞との主な関わり

  • 寺内大吉(受賞 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 伊藤桂一(候補1回→受賞 第33回:昭和30年/1955年上半期~第46回:昭和36年/1961年下半期)
    ※ただし第33回は別名義で別の媒体に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『近代説話』掲載作一覧

 直木賞に関係した同人誌というテーマがあったとき、百人中百人が触れないわけにはいかず、いや、この一誌だけ紹介すれば事足りるんじゃないか、と考えてもおかしくはないほどに、昭和30年代に見られた直木賞の、同人誌文化に対する愛情を、やたらと多く浴びてしまった『近代説話』。同人だった尾崎秀樹さんは、奇妙な雑誌だった、とのちに回想していますが、ここから生まれた直木賞受賞者6人、候補になったけど結局とれなかった人1人。……どうしてここまで直木賞と相性のいい雑誌になったのか、たしかに奇妙といえば奇妙です。

 そんなの単なる偶然だ、という説はあり得ると思います。

 とくに、はじめのほうに受賞した司馬遼太郎さんや黒岩重吾さんは、『近代説話』とはほとんど関係ない方面で小説を書き、それが注目されて受賞に至っていますし、第44回(昭和35年/1960年・下半期)に寺内大吉さんと黒岩さん、同じ雑誌に属する作家が二人同時に受賞したのは、ほんのちょっと話題になったそうですが、はっきり言ってしまうと、たまたまです。

 しかし、「たまたま」で済ませてはいけない、というのは、直木賞(と、もうひとつの文学賞)の界隈では常識と言ってもよく、「やっぱり岩手には、優れた文学を生み出す風土があるのだ!」とか、「根本昌夫さんの小説指導力は恐るべきものがあるのだ!」とか煽りながら、たまたまで済ませられるところを、あえてそうは言わず、現象のつながりのなかで話題を盛り上げていくのが、この二つの賞の、正当な取り扱い方のようです。ときどき何かにスポットライトを当てて人の目を向けさせる、というのが、直木賞たちに備わった基本的な性質ですから、「たまたま」などという、つまらない考え方で白けさせるのは、御法度かもしれません。

 それでハナシを戻して『近代説話』のことですけど、直木賞と相性がよかった理由は、いくつか挙げられると思います。

 ひとつに、小説を書く勉強のために同人誌をやるのではない、という創刊同人の司馬さんの考えにより、ある程度、小説家として力の認められている人、つまり何かの新人賞をとった人だけを同人にしたおかげで、商業誌と遜色のない掲載作が並んだこと。

 ひとつに、何のツテもない世界でぽつんと始めたわけじゃなく、関西文壇の大職業作家・藤沢桓夫さん、直木賞をとったばかりの今東光さん、直木賞の選考委員になったばかりで選考に対する熱心さが満ちていた源氏鶏太さんや海音寺潮五郎さんなど、そういう人たちの支援を受けて、期待のなかでスタートを切ったこと。

 ひとつに、伊藤桂一さんや胡桃沢耕史(清水正二郎)さん、斎藤芳樹さんといった、雑誌づくりに欠かせない事務能力に長けた人が何人もいて、しかも胡桃沢さんは自分も直木賞をとりたいと強く希望していたことから、その希望をつなげるかたちで刊行がつづき、6年間、出しつづけたこと。

 そういったいくつかの要素が、明らかに直木賞(の運営母体)から好感を寄せられる流れを生んでいった……とは推測できるんですけど、この雑誌が10年後、20年後に創刊していたら、ここまで伝説化していなかっただろう、というのは当然のことで、となると、昭和32年/1957年から昭和38年/1963年というこの活動期間の時代性は、何より見過ごすことができません。

 もともと直木賞は昭和9年/1934年にできたころから、既成の商業誌、商業出版の潮流とは少し違うところから、新しい作家を見つけたい、という思いの強かった文学賞で、その風土が色濃く残っていた昭和30年代。文藝春秋新社の握っていた、作家を見つけるシステムに、同人雑誌を全国から送ってもらい目を通すルートと、雑誌で懸賞小説(新人賞)を企画するルートの二つがあり、昭和30年代というのは、その二つが、経済成長と社会基盤の整備に後押しされて、着々と進化していった時代に当たります。

 同人誌と懸賞入選、その両方のイイトコ取り、といいますか、美しい融合でもって産声を上げた『近代説話』が、直木賞にハマッたのは、やはりこの時代ならではの出来事と言うしかないでしょう。これを日本語では「たまたま」と言うのかもしれません。だけど、必然と見たっておかしくないと思います。

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2018年5月20日 (日)

『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。

『断絶』

●刊行期間:昭和29年/1954年1月~(64年)

●直木賞との主な関わり

  • 松本孝(候補1回 第45回:昭和36年/1961年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『断絶』掲載作一覧

 文学賞に限らず、何だってそうかと思いますが、ひとつのものには根っこが無数にあり、そこから追いきれないほどの枝葉が伸びています。『断絶』という同人誌もまた例外ではなく、調べれば調べるほど、まるで知らなかったことが次々に出てくるものですから、正直、困惑しているところです。

 昭和36年/1961年上半期、松本孝さんの「夜の顔ぶれ」という、一作の直木賞候補作を生んだ同人誌『断絶』は、昭和29年/1954年1月に、早稲田大学の学生だった春嶽哮、浅井良、藤井博吉、山本浩、水田陽太郎、この5人が始めたものだと言われます。当時、その界隈にはやたらと同人誌が群生し、掛け持ち、移籍、喧嘩別れ、幽霊同人、いろんな現象が華ざかり。すぐにつぶれては新しいグループが発生し、そしてまた闇のなかへ消えていくなど、あまり長続きするような雑誌は見られませんでした。

 『断絶』もやはり、3号を出したあたりのところで、いざこざが起こり、抜ける人、居残る人の二つに分かれます。残ったのが浅井さんと、彼に誘われて同人となっていた武山博さんでしたが、そこに、同じ早稲田でつくられた『波紋』(のち『破紋』)『斜線』『浪漫文学』などに属した馬場一郎さんが移ってきて、心機一転、立て直しをはかろうと画策。ところが、それに不満をもつ人がすぐに抜けてしまい……と、揺れは全然おさまらず、そのまま泡沫同人誌の足取りをたどるか、と思われました。

 しかし、ここからしぶとく誌歴を重ね、ついには100号を迎えて、創刊60年を超えてしまったのですから、敬服の二文字以外にどんな言葉が見つかるのでしょう。ここで多くの人が口々に語るには、第74号(平成5年/1993年3月)まで30年以上、多忙を極める会社勤めをまっとうしながら、同人費の徴収、原稿の催促、とりまとめ、印刷所との交渉などなどの実務を一手に引き受けた同人、馬場一郎さんの存在が大きかった、ということです。

 それだけでも馬場さんは、同人誌界の偉人と呼んで差し支えないと思いますが、あまりそちらでの逸話を見かけないのは、手間と時間を費やして雑誌を出し続けるぐらい、同人誌の人にとっては当たり前、ということなのかもしれません。

 じっさい馬場さんといえば、商業出版での活躍のほうが有名です。

 早稲田大学仏文科を卒業後、昭和28年/1953年に入った平凡社に長く勤め、一時は営業に回されて、つらい日々を送りながら、不屈の仕事ぶりで編集のフィールドに返り咲き、文芸誌『文体』の復刊なども手がけるうちに、『太陽』編集長として、多くの後輩や外部の書き手たちをたばねて、一大文化を築いたことは、いまも語り継がれる伝説となっていますし、昭和56年/1981年には社内のゴタゴタに巻き込まれるかたちで社を飛び出すと、仲間たちとともに青人社を起こして社長に就任、嵐山光三郎さんや筒井ガンコ堂さん、その他、クセしかないような面々に慕われながら、出版事業を展開していた矢先、平成5年/1993年4月に63歳で亡くなった有名編集者、ないしは有名出版人です。嵐山さんの『昭和出版残侠伝』(平成18年/2006年9月・筑摩書房刊)には重要な役どころの〈ババボス〉として登場します。

 そういう人の、もうひとつの顔が同人誌作家だった、というのですから、おのずと心が震わされます。もとより馬場さんは、学生時代から文学に強い情熱を抱き、サラリーマンとして不遇の身に甘んじたり出世したり、あるいはベンチャー的に新しい会社を立ち上げて、その経営に悪戦苦闘するあいだもずっと、『断絶』を刊行しつづけました。ときに、平凡社で知り合った人たちを同人活動に誘うこともあり、アルバイトをしていた吉田善穂さんとか、後輩社員だった高橋健さんや海野弘さんなども、馬場さんに声をかけられて『断絶』に参加しています。

 そういったなかで、没後には充実した編集の〈追悼・馬場一郎〉特集(第75号 平成5年/1993年10月)が編まれますが、そこに寄せられた武山博さんの、こんな一文を読むと、感傷的にうるっと来てしまうのは、ワタクシだけなのかどうなのか、さっぱりわかりませんけど、しかしどうにもせつなくて仕方ありません。

「葬儀の時、耳にした弔辞は、それぞれ心に迫るものがあった。事実、君(引用者注:馬場のこと)は編集者として大成され、多くの逸材を世に送り出した。だが、出棺にあたり、われわれの雑誌を胸に抱いている君に供華して別れを告げた時、死ぬに死にきれぬ君の無念さを思い、思わずぼくの胸はつまった。

どれほど、君は文学者として評価され、葬られることを望んだことだろう。」(『断絶』75号 武山博「原風景と私」より)

 平凡社から伸びる枝だけじゃありません。『断絶』には、先に書いたように早稲田の人たちとか、あるいは神田の「東京堂」、新宿の「紀伊國屋書店」などの店頭でも売っていたので、それを見て入会してきた一般の読者が同人の大半を形成し、詩人の廣田國臣さんから、久根淑江さん、小松文木さん、興津喜四郎さんなど、興味深い書き手が続々とうごめいています。これはこれで探索していきたい欲がムクムク沸いてくるところです。

 ただ、ここまでの概略を知るまでに、ずいぶん時間を使ってしまって、疲労困憊。あとはまたいずれ……としたかったんですが、やはり松本孝さんのことには、少し触れておきたいと思います。直木賞専門のブログですから、そこは避けて通れません。

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2018年5月13日 (日)

『大衆文芸』…直木賞はもっと雑誌掲載作に重点を置いてほしい、と懇願する雑誌編集者。

『大衆文芸』(第三次)

●刊行期間:昭和14年/1939年3月~(79年)

●直木賞との主な関わり

  • 村上元三(候補2回→受賞 第9回:昭和14年/1939年上半期~第12回:昭和15年/1940年下半期)
  • 河内仙介(受賞 第11回:昭和15年/1940年上半期)
  • 神崎武雄(候補1回→受賞 第12回:昭和15年/1940年下半期~第16回:昭和17年/1942年下半期)
  • 大林清(候補2回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 長谷川幸延(候補7回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和29年/1954年上半期)
    ※うち第13回・第14回以外は別の媒体に発表した作品での候補
  • 大庭さち子(候補2回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第14回:昭和16年/1941年下半期)
    ※うち第10回は別の媒体に発表した作品での候補
  • 山手樹一郎(候補1回 第19回:昭和19年/1944年上半期)
  • 山田克郎(候補1回→受賞 第21回:戦後-昭和24年/1949年上半期~第22回:昭和24年/1949年下半期)
    ※うち第22回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 三橋一夫(候補1回 第27回:昭和27年/1952年上半期)
    ※ただし、雑誌掲載作を単行本化した段階での候補
  • 井手雅人(候補1回 第30回:昭和28年/1953年下半期)
  • 戸川幸夫(受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 邱永漢(候補1回→受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期~第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 野村敏雄(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 小橋博(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第48回:昭和37年/1962年下半期)
  • 赤江行夫(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 穂積驚(受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 池波正太郎(候補5回→受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期~第43回:昭和35年/1960年上半期)
    ※うち第43回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 平岩弓枝(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 木本正次(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 夏目千代(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 杜山悠(候補3回 第45回:昭和36年/1961年上半期~第47回:昭和37年/1962年上半期)
    ※うち第47回は単行本作品での候補
  • 武田八洲満(候補4回 第64回:昭和45年/1970年下半期~第73回:昭和50年/1975年上半期)
    ※うち第64回以外は単行本作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『大衆文芸』掲載作一覧

 今日は少しばかり番外編です。

 昭和14年/1939年に創刊された第三次の『大衆文芸』は、昭和38年/1963年9月号から発行元が新鷹会に変わり、一部を除いて書店売りから撤退、ほぼ他の同人誌と変わらない、ほそぼそとした姿になりました。その意味では、「同人誌と直木賞」のテーマで取り上げてもOKだと思うんですけど、じっさいそうなってからの『大衆文芸』は、ほとんど直木賞候補作を送り出していません。

 この雑誌が直木賞と密接にからみ、からまれ、両者そろって世間に流布する「大衆文芸」のイメージを覆そうと奮闘していた時代、昭和38年/1963年までの『大衆文芸』は、『オール讀物』とかそういう雑誌と同じく一般の読者を想定して市販されていた立派な商業誌です。なので本来であれば、同人誌を紹介する企画では、違和感があります。

 しかし、主要な執筆陣がだいたいヒモ付きの……と言いますか、新鷹会その他で長谷川伸さんを大将と仰いで創作の勉強に励む人たちだったことは、まぎれもない事実ですし、『早稲田文学』を同人誌だと見るなら『大衆文芸』だって同じ類いだろう、という極論もなくはないので、何だかんだと言い訳しながら今週は、この雑誌のことでいきます。正直、「同人誌と直木賞」にまつわるネタがいよいよ尽きてきた、という事情もあります。

 第三次『大衆文芸』の創刊経緯、といったようなハナシは、ネット上にゴロゴロ転がっているので、そこはすっ飛ばしますけど、何といっても『大衆文芸』は、直木賞エピソードの宝庫です。そして直木賞との関わりの、ほとんど大部分に顔を出す、と言っていいのが、商業誌だった時代に長く編集に携わった新小説社の島源四郎さんでしょう。

 生みも生んだり、直木賞の受賞者9名。落ちも落ちたり、直木賞の最終候補者11名。その全員を公然と励まし、大衆文芸界に(いや、文芸界全体に)新たな息吹となる作家を送り込みたいと、人生を賭けて、ほとんど儲けにもならない出版事業をつづけては愚痴り、愚痴っては雑誌づくりに邁進したという、相当に熱い人です。

 熱い。すなわち、少々鼻につく。……という状況は、どうしても避けがたく、ここで精進していた作家たちは、長谷川伸さんを慕ってはいても、島さんを慕って集まってきたわけじゃありませんから、いろいろ文句や不満を抱えていた様子が、各作家の回想などからもうかがえます。と、こんなハナシは、いつか以前にも触れた気がします。

 島さんと直木賞とのまじわり、ということでは、やはり第一に目につくのが『日本古書通信』の「出版小僧思い出話」(昭和59年/1984年7月号~昭和60年/1985年7月号)なんですが、こればかり紹介するのも芸がないな、と思い、とりあえず『大衆文芸』の毎号、あとがき代わりに載っていた「編集者の手帳」を読んでみたところ、これが素晴らしく鼻につく、……すなわち熱い雑誌編集者ダマシイに彩られた文章の数々であることに気づき、目をひらかれました。

 直木賞の歴史のなかでも、運営をになう文藝春秋社→日比谷出版社→文藝春秋新社→文藝春秋、これらの会社以外では最もこの賞に愛されたと言ってもいい「新小説社」という小さな出版社の、直木賞に対する情愛、もしくは情念といおうか執着が、毎年夏と冬になると必ずほとばしっている、島さんの個性そのものだと、たぶん呼んでも差し支えない第三次『大衆文芸』。この雑誌の直木賞ウェーブは、戦前と戦後、二つの山がありますが、今週は、その島さんが「編集者の手帳」を書いていた戦後のほうに絞ってみたいと思います。

 取り上げたい島語録はいろいろあるんですけど、直木賞について言えば、種類はそんなに多くないかもしれません。島さんの直木賞観は、ほとんどコレ一本と言ってもいいからです。

「今年も直木賞の選考会がやって来た(引用者中略)二百数十篇の中より予選されて、最後に残った作品は何れも優秀な作品であることは今更申上げるまでもない。本誌はその難関を突破した作品を毎回のように送って来ている、自慢ではない、本誌に寄せられる作者の並々ならぬ努力の賜物であると同時に根強く支持して下さる皆様方の御声援も大きな力を持っていることを感謝する」(『大衆文芸』昭和31年/1966年2月号「編集者の手帳」より ―署名:(G))

 決して自慢ではないけれど、言わずにはいられない、直木賞予選への揺るがぬ執念。コレ一本です。

 別の号では、直木賞の候補発表の季節がくると、われわれ雑誌編集者は、この半期にいい作品を掲載できたか試されている気分になる……といったようなことも言っています。でも、果たして『大衆文芸』の編集者以外に、半年ごとにそんな心境になっていた人が、他にいたでしょうか。直木賞と芥川賞の最大の違い、ともいえるのが、芥川賞はだいたい毎回、どういう雑誌から候補が選ばれるか、みんなわかっているけど、直木賞はそうではない、という点です。当時、昭和20年代後半から昭和30年代でも、その違いは確固たるものがあり、芥川賞はともかく直木賞のほうの予選を通過するのは、出合いがしらの事故のようなものでした。

 うちの雑誌から何が直木賞の予選を通るかな、といつもワクワクしていたのは、文春の編集者のほかには、『大衆文芸』ぐらいしかいなかったと思います。こんなに、ひんぱんに直木賞、直木賞とその話題を誌面に載せる他社の雑誌は、その当時、まず見かけたことがありません。

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2018年5月 6日 (日)

『玄海派』…どうせ虚栄心や嫉妬が渦巻いているに違いない、と小説のモデルにされた唐津の雑誌。

『玄海派』

●刊行期間:昭和41年/1966年8月~平成8年/1996年?(30年)

●直木賞との主な関わり

  • 河村健太郎(候補2回 第56回:昭和41年/1966年下半期~第62回:昭和44年/1969年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『玄海派』掲載作一覧

 古川薫さんは、同人誌『午後』に発表した「走狗」で初めて直木賞の候補になったとき、選考委員だった松本清張さんに注目され、「今回の候補作家の中で、最も将来伸びうる人ではないか」と激賞されました。遠く50年以上もまえのハナシです。昨日5月5日、その古川さんの訃報に接し、「同人誌と直木賞」のテーマで触れるような人たちは、もはや誰も生きていない時代になってしまった、と痛感しないわけにはいかないんですけど、と同時に、直木賞という事業の、無用に長くて、とりとめもない歴史を見ることの面白さを、改めて感じるところです。

 さらに前置きをつづけて、先週取り上げた同人誌のひとつ『南方文学』に、もう一度目を向けてみますと、古川さんが白石一郎滝口康彦のご両人と出会うきっかけになったこの雑誌は、それまで同人誌の経験のなかった白石さんが、いきなり初の直木賞候補入りを果たしたことで、この賞の歴史に大きな足跡を残しましたが、昭和45年/1970年に中村光至、石沢英太郎の二人に加えて、白石、滝口、岩井護という5人で創刊したあと、まもなく追加で加入したのが、下関の古川さんと、佐賀の河村健太郎さんです。合わせて「七人の会」と称することになります。

 みんな、その後に立派に小説家として立ち、賞をとったりとらなかったり、ともかく長いこと創作をつづけた人たちばかりです。おそらく小説家としての活躍がなかったのは、ただひとり、河村さんだけと言っていいでしょう。

 「七人の会」に参加したころ、すでに河村さんには、直木賞候補に2度挙げられた経験がありました。はじめての著書を出したばかりでもあり、さあ、これからだ、と創作意欲に燃えていたと思います。しかしまもなく、まったく創作をやめてしまう、というナゾの行動に出たことで、逆に直木賞の伝説として楔を打ち込んだ人です。

 その河村さんの本拠地ともいうべき同人誌が、今週取り上げる『玄海派』なんですが、昭和23年/1948年、笹本寅さんがいっとき佐賀県唐津に帰郷、そのときに同地で結成した松浦文化連盟という団体が、いろいろと活動するうちに、「文芸誌をつくろうよ」という強い声に包まれるようになったところで、果敢に立ち上がったのが、唐津文芸界のドンこと、松浦沢治(旧筆名は松浦沢二)さん。当時、佐賀県文学賞の審査員をしていた松浦さんは、応募者のなかに意外と唐津在住の人が多いのを知り、それなら唐津で作品主体の雑誌を出すのも意義があるだろう、と腰を上げたのだと言います。

 佐賀には、すでに『城』という有名(?)同人誌がありました。松浦さんも、もとはそこに属していたひとりでしたが、以前、滝口康彦さんと同誌のエントリーで、ちょこっと紹介したように、昭和38年/1963年に池正人さんのランボオの訳詩をめぐって、同人のあいだで犬も食わない大喧嘩が勃発してしまい、集団は分裂。ものの本によるとこの一件は、佐賀県あたりでは「文学・佐賀の乱」と、なかなかオーバーな呼称で知られているそうで、こういういざこざは、傍目から見ると異様に面白い、というのは多くの人が実感するところでしょうが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、泣く泣く割愛します。

 分裂後、『文学佐賀』の立ち上げに参加した松浦さんですが、まもなくそこも離れて、今度は地元・唐津で始めたのが『玄海派』です。「名ばかりの同人」なんて必要ない、きちんと作品を発表した者だけを同人とする、という実作主義を掲げたこの雑誌の第一集に載ったのが、『文学季節』同人の田中乙代さんに書いてもらった「おとずれ」と、貝原昭さんの詩「廃墟の朝焼け」、三浦外喜守さん「傷痕」、中村一三さん「白南天」、松浦沢二さん「滝」、そして河村健太郎さんの「大きな手」でした。

 このうち、原稿用紙で50枚程度に過ぎない「大きな手」が、いきなり第56回(昭和41年/1966年・下半期)の直木賞候補に選ばれてしまったのですから、驚きというしかありません。佐賀県下にも、ちょっとした衝撃が走ります。

「一番バッターがいきなり三塁打をかっ飛ばした感じで、当地方の有識者に与えた反響は大きかったようだ。」(三浦外喜守)「彼の健闘には郷土の期待が集っている。」(松浦沢二)(『玄海派』第2集[昭和42年/1967年5月]「編集後記」より)

 河村さんも、かつては松浦さんと同じく『城』の同人だった人ですが、これも途中で『城』を抜け『玄海派』の創刊に参加、最初の最初で大きな賞の候補になったことで注目され、このまま受賞していれば、さぞ面白い(いや、佐賀全体が盛り上がる)事態になっただろうと思います。というのも河村さんは、直木賞候補に挙がってしばらくのあいだ、『城』同人の何人かから目のカタキにされたか、目のカタキにされていると意識していたらしく、昭和46年/1971年『朝日新聞』に「文化における中央と地方」という文章を発表したところ、『城』の山本巖や都筑均が、これを勝手に曲解・誤読して難癖をつけてきた、ああ煩わしいことこのうえない、といったエッセイを書いているからです(『玄海派』9集「「地方」文化の「方法」について」)。単なるやっかみなのか、それとも都筑さんたちの意見のほうが正常なのか。ここも突っ込んでいくと面白いところかもしれませんが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、やはり泣く泣く割愛します。

 うちの雑誌には、嫉妬とか反目とか足の引っ張り合いとか、そういう陰湿なものは何ひとつない、と第2集の「編集後記」に書いたのは、『玄海派』の三浦外喜守さんですが、その言葉を疑う理由はなく、たしかにそうだったことでしょう。純粋にそれぞれの文学を高め合っていきたい、という気持ちを全員が共有している。素晴らしいと思います。

 やがて『玄海派』からは、山下惣一さんというバツグンにユニークな作家が登場し、もちろん同人たちにつぶされることもなく、農と文学の融合を、のびのびとやってのけます。残念ながら、これを賞賛できるほどの先見性が直木賞にはなく、候補に挙げながらも落としてしまい、直木賞にひとつの小さな汚点をつくってしまうんですが、山下さんは山下さんで、小説だけでなく、ノンフィクションやルポにも才を見せ、マスコミや出版界が、そういう方面からの書き手を欲していた時期にも重なって、まったく直木賞の出る幕はなくなりました。

 その他、病院長を務めていた同人の進藤三郎さんが資金を提供してS氏賞という賞をつくり、毎年松浦さんたちが運営して、佐賀県下の同人誌の作家たちに奮起の機会を与えるなど、せまい党派意識を捨てて、それぞれが前を向いていこうぜ……というのが、おおむね『玄海派』のたどった歴史だと思います。しかし、そうして着実にまっとうに刊行されつづけていた昭和51年/1976年、いきなり外部から見舞われた下品で下世話な視線もまた、同誌の歴史のひとつではあるので、すみません、後半は少しそのことに触れてみます。

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2018年4月29日 (日)

『現代作家』『南方文学』『狼群』…大衆文芸の作家が同人誌をつくってもいいじゃないか、という福岡周辺での盛り上がり。

『現代作家』

●刊行期間:昭和37年/1962年6月~昭和42年/1967年8月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 中村光至(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『現代作家』掲載作一覧

『南方文学』

●刊行期間:昭和45年/1970年5月~昭和46年/1971年4月(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 白石一郎(候補7回+受賞 第63回:昭和45年/1970年上半期~第97回:昭和62年/1987年上半期)
    ※ただし第63回以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『南方文学』掲載作一覧

『狼群』

●刊行期間:昭和47年/1972年~昭和49年/1974年11月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補9回+受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期~第104回:平成2年/1990年下半期)
    ※ただし第72回(昭和49年/1974年下半期)以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『狼群』掲載作一覧

 昭和30年代から昭和40年代の直木賞は(……いや、直木賞に限ったことじゃないですが)、とにかく中間小説誌が天下をとった時代です。と同時にいっぽうで、西のほうの地方で大衆文芸と同人誌の文化が融合、スパークを起こした時代でもあります。

 すでにこれまで、古川薫さんが出た下関の『午後』(昭和36年/1961年創刊)滝口康彦さんが加わった佐賀の『城』(昭和38年/1963年に第二次出発)を取り上げました。ここでもうひとつ、スパークへの導火となった雑誌があります。福岡の『現代作家』(昭和37年/1962年創刊)です。

 この雑誌については、福岡市文学館の『文学館倶楽部』16号[平成25年/2013年3月]に、坂口博さんの「福岡の文学雑誌「現代作家」」という丁寧な解説記事と、創刊号~最後の第11号までの総目次が載っていて、必見の資料なんですが、基本、大衆文芸とは遠い存在にあったことがうかがえます。その点では『午後』や『城』とも似たものがありますけど、「はじめから大衆文芸を目指すヤツなどいない」という、あからさまな偏見が、文学のまわりをぶ厚く覆っていた頃につくられた雑誌ですから、仕方がありません。

 それはそれとして、『現代作家』の中心人物のひとりだったのが中村光至さんで、福岡の地で『九州文学』から、『文學街』(昭和26年/1951年・以下創刊年)、『九州作家』(昭和28年/1953年)、『地標』(昭和29年/1954年)、『藝術季刊』(昭和30年/1955年)などなど、いくつもの同人誌に関わったり、みずからつくったりするうちに、昭和35年/1960年に応募した「交叉点」が〈オール新人杯〉の次席、半年後には「白い紐」が〈オール讀物新人賞〉と名称の変わったこの賞を受賞して、いよいよ筆も乗り始めるかと思われたのが、38歳のときでした。

 ただ、『オール讀物』の新人賞をとったぐらいで、すぐに筆一本で食えるようにはならない。という事情は、昔も今も違いません。中村さんも福岡県警に籍を置きながら、稿料の出る原稿から、同人誌用の無償の小説まで、いろいろと書きつづけます。すると、こんどは直木賞が今とは違って「新人賞をとっても次々と商業出版界に乗り出していけるわけではない人たちを、救済するシステム」という性格を内蔵していたおかげで、中村さんの場合も、商業誌に書いたものではなく、同人誌に発表した小説が、直木賞の予選を通過することになりました。昭和40年/1965年、『現代作家』9号全138ページの9割程度を使った長篇430枚の、「氷の庭」です。

 これが直木賞の候補となったことで、中村さんの文名が一気に上がったことは間違いありません。この年、講談社から単行本化されたこの作品が、中村さんの処女出版となり、福岡地域に居を構える大衆文芸(いや、中間小説)分野の作家のひとりとして存在感を示し始めます。

 しかし、根が純文学志向の高い同人誌出身の人でもあった。ということが、その後、直木賞に対して隠れた、だけども大きな功績を残すことにつながるのですから、何とも面白くてワクワクしてきます。おのずとテンションの上がるところでしょう。

 このときキーマンとなったのが、その『現代作家』に途中から加入し、中村さんとともに文学の熱を高め合っていた仲間、鵜飼光太郎さんです。本名は澤井覚、一般には推理作家の石沢英太郎として知られています。

 中村さんが、オール讀物新人賞受賞、直木賞候補入りで光を浴びたのと、ちょうど同じころ、鵜飼=石沢さんもまた、昭和37年/1962年にオール讀物推理小説新人賞の最終候補に残り、昭和38年/1963年には宝石短編賞で「つるばあ」が佳作、昭和41年/1966年に双葉推理賞を「羊歯行」で受賞と、かなりの猛ダッシュを見せます。さあ、原稿料を稼ぎながら作家としての腕を高めていかなければならない、そんな状況になったとき、石沢さんが思いついたのが、近くに住んでいる大衆文芸エリアの作家たちだけで、何か同人誌をつくれないかな……ということでした。

 おお、それはいい、やってみようか、と応じたのが、同人誌を何誌もつくっては渡り歩いてきた中村さんです。福岡にいた岩井護さん(昭和37年/1962年講談倶楽部賞佳作、昭和43年/1968年小説現代新人賞受賞)、白石一郎さん(昭和32年/1957年講談倶楽部賞受賞)、佐賀の滝口康彦さん(昭和30年/1955年講談倶楽部賞佳作、昭和34年/1959年オール新人杯受賞、他多数)という3人に声をかけ、そこに石沢さんと中村さんが加わり、昭和44年/1969年2月、西日本新聞の役員室で、新雑誌創刊の座談会をひらくまでにこぎつけます。

 まさに、これが九州北部+山口エリアの、大衆文芸でカネを稼ぎはじめた作家たちが、いっしょに同人誌をやる、というスパークの発火となった瞬間です。直木賞の歴史に燦然と輝く〈西国三人衆〉現象にまでつながる契機ともなった、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでもとびきりの、思わず感動で震えてしまう一大事件と言っていいでしょう(と、震えているのは、ワタクシだけかもしれません)。

「この「南方文学」を出すまでに、一年半かかった。昨年のはじめには、秋に出そうと準備はしたのだが、誕生まで優に一年半はかかった。たいへんな難産であった。雑誌創刊の話が出てから、PRの方がむしろゆきとどいてしまって、発行がおくれていることにだいぶお叱りをちようだいした。」(『南方文学』第1集[昭和45年/1970年5月]「あとがき」より ―署名:(中村))

 ということで、この集まりを提唱した石沢さんだけでなく、そこに共感を示し、段取りをつけ、編集の責務を担って、どうにか刊行を実現させた中村さんの努力もまた、尊いものだと記しておきたいと思います。創刊時に5人だった同人は、まもなく下関の古川薫さん、佐賀の河村健太郎さんという、直木賞候補経験者の2人を迎えて7人となりましたが、中村さんによれば、『南方文学』は「二号出したが、これも経済的な理由で廃刊に追いこまれた」(昭和63年/1988年10月刊『石沢英太郎 追悼文集』)と、短命中の短命に終わってしまいます。

 しかし何といっても、倶楽部雑誌の出身で、どこぞの文学的師匠の庇護があるわけでもなく、直木賞みたいな文学賞には遠いところにいたはずの白石一郎さんが、『南方文学』発表の一作で、はじめて直木賞の候補に入り、その作家的環境を大きく変えることになったという、なかなかの成果を残しました。

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2018年4月22日 (日)

『日輪』…将棋の世界を描いた吉井栄治、何の奇跡か直木賞候補になる。

『日輪』

●刊行期間:昭和24年/1949年10月~昭和25年/1950年8月?(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 吉井栄治(候補1回 第23回:昭和25年/1950年上半期)

 昔の直木賞のことなど調べて何の意味があるんだ。と、よく言われます。

 いちいち意味を考えて、そこに価値があると判断してから動くような、スマートな生きかたがどうしてもできません。何の意味があるのか、自分でもいまだに不明です。

 ……ということを改めて思い返したのは、春日井ひとしさんが平成25年/2013年から作成されている冊子《昭和八年 文学者のいる風景》シリーズというものがあり、少し前に、その8編目に当たる『昭和八年の織田作之助・上 三高の青春』(平成30年/2018年1月)を頂戴したんですが、うはあ、細かいところまで調べ上げているぞ、さすがだなあ、と感嘆しながら読んでいたところ、織田作之助さんの高津中学時代の親友、吉井栄治さんのハナシがそこに出てきたからです。

 吉井さんという人は、直木賞の候補一覧の、第23回(昭和25年/1950年・上半期)のところに登場する人物ですけど、ふつうに暮らしていて、まず目にする名前ではありません。いったいこの人は何者なのか。候補作はどんな作品なのか。どうしても知りたくなって、やむにやまれず調べたことがあります。

 いまだったら、このブログに書くところですが、当時はまだ本体のサイトしかなかったので、「小研究」コーナーに「将棋・オダサク・直木賞~吉井栄治メモリアル」という調査ページをつくりました。かれこれ10数年前のことで、まだ『文学雑誌』に杉山平一さんが存命だったころです。問い合わせの手紙を送ってみたら、ご返信があったんですが、そこに杉山さんがこんなふうに書かれていたことを思い出します。どうして、いま吉井栄治などに興味をもったんですか――と。

 どうしてなんでしょう。答えは見つかっていません。だけど、いつの時代の直木賞でも、それに関わるあれこれを知るのは無上に楽しい、というたしかな実感だけはあります。それで十分といえば十分です。

 と、10数年前にやっていたレベルから、いまも全然成長していなくて、まあこれが自分の限界だから仕方ないんですが、吉井さんの候補作が載った同人誌『日輪』を、いま一度「同人誌と直木賞」のテーマのなかに置いてみると、他とは明らかに違う様相、性格、歴史的背景をもった一誌だと、これは断言することができます。

 直木賞が同人誌の、とくに東京以外で発行されている同人誌の掲載作を当たり前のように候補に挙げはじめるのは、昭和30年/1955年前後からです。ちなみに『文學界』で同人雑誌評がスタートしたのが昭和26年/1951年、『新潮』で全国同人雑誌推薦小説特集をやり出したのが昭和25年/1950年で、文芸出版社の同人誌に対する注目度が勢いよく増していた状況が、なぜか大衆文芸を標榜していたはずの直木賞にも波及したという、なかなか震える展開を見せた一現象ではあるんですが、『日輪』から候補が選ばれたのは、それよりもっと前の時代です。

 関西方面でこっそり出された、有名でも何でもないこの同人誌が、日本文学振興会の予選の人たちの知るところとなったのは、何の風が吹いたのでしょう。たまたまだとしたら奇跡に近く、やはりこれは当時、候補作選びの参考アンケートを依頼される立場だった藤沢桓夫さんが、推薦したのに違いない。可能性としては、それぐらいしか思い浮かびません。

 『日輪』は、そのころ芦屋市に住んでいた中野繁雄さんと吉井さんが、おそらく戦後に湧き上がったお互いの創作欲をぶつける場として創刊したものと思われる、ほんとうに小規模な雑誌です。じっさい創刊経緯は不明なんですけど、編集兼発行人は最初から最後まで中野さん、ただし創刊号のみ、編集部は吉井さんの自宅に置かれたようです。

 中野さんのほうはともかく、吉井さんは昭和14年/1939年に織田さんに誘われて『海風』に加わると、『大阪文学』(昭和16年/1941年~昭和18年/1943年)へと移り、戦後には、藤沢桓夫さんが中心となった『文学雑誌』(昭和22年/1947年~)に同人として参加、『文学雑誌』が休刊していた昭和24年/1949年から昭和25年/1950年のほんのいっとき、『日輪』を興して作品を発表しました。『文学雑誌』はまもなく復刊して、のちにまで残りましたが、『日輪』のほうはすぐにつぶれてしまった、と見られます。

 かたや、戦後ぐずぐずしながら昭和24年/1949年にようやく復活した直木賞ですが、復活の第1回(通算第21回)が富田常雄、第2回が山田克郎と、選考委員のお仲間か、ちょっと後輩ぐらいの、作家歴の古い人に贈られ、第23回(昭和25年/1950年・上半期)にいたってその路線がくっきり明瞭になってしまいます。「今さらか、みたいな人ばかりが受賞して、つまらないな」という感情は、いまの直木賞をリアルタイムで見ている人たちには共感できるものかと思いますが、当時もそういう批判が直木賞に対して結構飛びました。

 だけども、そういうなかで、吉井栄治という、世間でおなじみじゃない人を、しれっと候補に選ぶこの心意気。単に藤沢桓夫さんの(文藝春秋周辺における)存在感が、当時は尋常じゃないぐらい重かった、ということかもしれませんが、大衆文芸の新人を同人誌から発掘しようという風潮のまだ薄かった昭和25年/1950年に、それをやってのけた直木賞の姿を見て、ワクワクと心弾まない人がいるのだとしたら、そういう人はどうかしていると思います。

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