2017年10月22日 (日)

『一座』…けっきょく無名作家で終わることを敢然と受け入れる、大人な同人たち。

『一座』

●刊行期間:昭和26年/1951年11月~昭和42年/1967年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※ただし第57回は別の同人誌に発表した作品

 直木賞史に出現した『一座』……というと、その主役は鬼頭恭而さんなんでしょうが、ハナシの順番からして、やはり同誌の主宰者のことから触れなきゃなりません。

 森田雄蔵さんです。明治43年/1910年東京生まれ、法政大学英文科を卒業後、岩手の釜石に行ったり満洲で暮らしたりと青年期の自由な生活を謳歌しながら、終戦を迎えた外蒙古で俘虜となり、昭和22年/1947年に帰国。九段の料亭「いちまつ」を経営するかたわらで、もとより文学に対する関心が高く、『一座』と題する同人雑誌を始めたころには、40歳を超えていました。

 これがまあ、当時『文學界』の同人雑誌評を受け持った山本健吉さんからは、ボロカスに言われまして、

「私が編集委員に加はつてゐる雑誌にも五十を越した社会人が何を発心したのか、暇と金が出来たせいか、小説を持込んでくるが、年だけは取つたがいつかう利口にならないと言つた俗臭の強い作品が多い。(引用者中略、注:『一座』創刊号のうち)一つ『蘇苔』(森田雄蔵)といふのを読んだが、案の定であつた。お妾小説で、所々性描写を交へ、年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさと、「手紙を、ふてくされて、投げ棄てると、畳の上に、気弱な短音となつて、醜く姿をさらした」といつた幼稚な文学青年的表現と混り合つてゐて滑稽でもある。

ジイドは「物を書かないといふ屈辱に堪へられないから書くのだといふ意味のことを言つたが、この人たちには「物を書くといふ屈辱」を教へた方がよささうである。」(『文學界』昭和27年/1952年2月号 山本健吉「同人雑誌評」より)

 と、360度どこから見ても、完全なるボロカス評です。

 山本健吉さんはこのとき40代半ば、同世代でしたから、オジさん世代はこんなふうに批判されてもさしてヘコまない、ということはわかっていたと思います。森田さんはまったくめげずに、ここからえんえんと、創作や同人雑誌運営に没入することになるわけです。

 捨てる神あればナントヤラで、昭和29年/1954年には、『一座』に発表した「はがゆい男」が芥川賞の候補に。昭和33年/1958年、やはり『一座』に書いた「岳父書簡撰」が、久保田正文さんの目にとまり、ちょうど久保田さんが日本文芸家協会『創作代表選集』の編集委員をしていたものですから、そこに推薦されたところ、同じく編集委員だった正宗白鳥さんも大絶賛、『読売新聞』で正宗さんに激賞されるという思いがけない展開に。

 昭和36年/1961年、とにかくスキさえあれば人に推理小説を書かせようと目論んでいた江戸川乱歩さんから、とある短篇について、長篇に書き直したらいいと勧められ、森田さん悪戦苦闘、ようやく河出書房新社から『あたしが殺したのです』として上梓されると、森田さんの文芸ものを高く買っていた中島河太郎さんが、ぜひともどうぞと日本探偵作家クラブへの入会を承認。以来、同会の会員として名を連ねます。

 『一座』の刊行は徐々に、年一回出せればいいぐらいに減っていき、森田さんの主戦場は、師事することになる木々高太郎さん主宰の『小説と詩と評論』に移行。昭和44年/1969年、木々さんが没すると、すでに還暦近い森田さんの、同人誌に賭ける熱烈さ、東京の真ん中で料亭を経営するところから湧き出る(?)経済力、仲間たちをまとめて事業を持続させる統括力、などもろもろの理由から、『小説と詩と評論』の中心人物へと押し上げられ、これを亡くなるまで守りぬきました。

 同人誌『藝文』代表の森下節さんも、この森田さんのオトナな人格(山本健吉さんに「年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさ」と言われた、例のアレ)には、敬服の言葉を送っています。

「同人はそれぞれが一家言を持った、一匹狼的個性の強い集団であってみれば、それを巧みにリードしながら運営して行かなければならない。へたをすれば忽ち空中分解する運命を、同人雑誌は宿命として持っている。あちら立てればこちら立たずという現実のはざ間に立って、大所帯を切り盛りしてゆくだけの能力がなければ、文学集団は永続しない。

森田雄蔵は作家としての地歩も確立したが、それと同時に人間としての人生の表裏にもたけた人物像を確立した。」(森下節・著『新・同人雑誌入門』「第三章 風土の下の地方文壇」より)

 それで、昭和50年/1975年に、数多くの同人誌・同人グループが集まってできた「全国同人雑誌作家協会」(現・全作家協会)の、初代理事長に推薦されることになり、のちには会長に就任。商業誌ではほとんど名前を見ないが、同人雑誌界ではいわゆるカオ、というまぎれもない同人雑誌史の偉人として、年を重ねても書くことはやめず、平成1年/1989年『小説と詩と評論』11月号に、自身の来歴や女遍歴などを織り交ぜた「虚妄」を発表。これを置き土産のようにして平成2年/1990年に死の床に就く、という同人誌作家の鑑のような終焉を迎えました。

 この「虚妄」のハイライト版、として『新潮45』平成2年/1990年2月号に掲載されたのが「文学八十年のなれの果て」。ついに文学賞をもらうことができなかった作家人生を、

「私の関係した同人誌の仲間は次々と直木賞とか芥川賞になった。ずっと後でプロ作家になった人たちを数えてみたら若い人をふくめて数十人はいた。いかに自分がおいてき堀=江戸の言葉=の人間であったかが判ったが、すべて後の祭りで、アンフェイマスオーサーという、英文学史の中の人間みたいになってしまった。」(『新潮45』平成2年/1990年2月号 森田雄蔵「文学八十年のなれの果て」より)

 と総括するに至っているんですが、そのアンフェイマスオーサー仲間、と言いますか、森田さんの小説などに「K」とか「K・K」とかの名でよく出てくる、東京都庁に勤める地方役人が鬼頭恭而さん。なぜか芥川賞ではなく直木賞の候補に二度もなった、なんとも古風で骨太な小説を書く、森田さんに負けず劣らずの無名作家です。

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2017年10月15日 (日)

『讃岐文学』…地方文化振興に、文学賞も利用する同人雑誌界の偉人・永田敏之。

『讃岐文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年5月~平成14年/2002年12月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 新橋遊吉(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 昭和のころの同人雑誌を見ていると、ときどきぶつかる文章があります。

 ……同人の仲間から、たとえば芥川賞・直木賞の受賞者が出ると、とたんに人間関係がギクシャクしだし、休刊・廃刊・再編成される雑誌も多い。……

 たしかに芥川賞のほうでは、そうなのかもしれません。あんまり興味がないので、他の誰かに調べてほしいですけど、少なくとも直木賞に関しては、まずその風聞はデマです。知るかぎり、有馬頼義さんの受賞後に『文学生活』が新たな同人組織に変化した、という例があるくらいで、まあそもそも、同人誌を中心に書いていた人が受賞した例が、直木賞では少ない、ということもあるんでしょうが、仮にそういう人が受賞して華々しく商業ジャーナリズムに乗り出していっても、もといた同人誌が混乱、つぶれる、なんてことは、直木賞ではほとんどありません。

 『讃岐文学』もそうです。掲載作がそのまま直木賞受賞にまでつながった、数少ない同人誌として脚光を浴びながら、21世紀までコツコツと誌歴を重ね、四国の文学史に燦然とその名を残すことになりました。ポッと出の、同人だかどうだかもわからないぐらい怠け者だったヤツが、東京の文学賞をとったことに、嫉妬のあまり悔し涙を流す同人続出……となってもおかしくないところ、そうはならなかったのは、おそらく主宰者の器のデカさ、と言いますか、文学賞に対してうまく距離を取る主宰者がいたから、なんでしょう。おそらく。

 『讃岐文学』を主宰した永田敏之さんは昭和7年/1932年10月31日生まれ。平成15年/2003年2月23日に70歳でこの世を去りました。かたちや対象を変えながら日本にいまも綿々とつづく同人誌世界のなかで、この永田さんは、確実に偉人と言っていいと思います。とにかく身の入れかたが、ハンパじゃありません。

 まえにも紹介した昭和29年/1954年創設の大阪文学学校。永田さんはその第二期の修了生に当たります。そこを終えて、香川の高松に戻ったとき、文校在校中から胸にあたためていた同人雑誌をつくりたい、という希望をどうにかかたちにしました。昭和31年/1956年のことです。

 永田さん自身は、ほとんど創作らしい創作はせず、しかし文学に対する旺盛な情熱があふれ出て、評論や研究をもっぱらとし、仲間とともに文学を語らい、あるいは励ましたりしながら、年に1~2回のペースで『讃岐文学』を続刊。しかし、昭和35年/1960年に経営していた会社が倒産、翌年には妻と離婚、一時東京に住まいを移すことになって、以来少しのあいだ休刊しなければならないことに。

 なかなかつらい時期だったとは思うんですが、これが次なる展開を生み、永田&『讃岐文学』と直木賞とを結びつけていくのですから、不思議な縁です。創刊同人のひとり、永田さんとは高校時代の文芸部でいっしょだった亀山玲子さんという、こちらも相当に文学熱の高い女性がいて、永田さんから、しばらく『讃文』を出せないからその間、大阪の同人誌に参加してみたら? とすすめられたので『文学地帯』に参加。すると、そこで出会ったのが、病み上がりで何かほっとけない男、新橋遊吉さんだった、というところから二人は交際を深めて、結婚するにいたります。

 その後、永田さんが1年ほどのブランクを経て『讃文』を復活させると、亀山さんは『文学地帯』を抜けて『讃文』へ帰還。いっしょにダンナの新橋さんもくっついてくることになるんですが、亀山さんのほうがオール讀物新人賞の最終候補に残るぐらいには、実力ある書き手だったのに比べ、新橋さんはとくにそれまで小説を書いたことがなく、まあ、永田さんからしてみれば、有力同人といっしょになった、得体の知れないダンナ、ぐらいだったに違いありません。

 昭和39年/1964年、新橋・亀山夫妻に第一子が誕生したとの報を受けた永田さん、高松からわざわざお祝いに駆けつけます。ここで、「得体の知れないダンナ」とも一晩、文学を語り合うことになりまして、どうやらお互いに気が合ったらしく大いに盛り上がり、永田さんが「あんたも小説書いてみないか」と誘えば、新橋さん、「よーし、いっちょ大作書いてやりますか」と応じる、楽しい酒の一場面が繰り広げられたそうです。

 酒のうえでのハナシかと思っていたら、ここが『讃文』発行に賭ける永田さんの情熱だと思いますが、高松に帰ってからも、毎週のように新橋さんに手紙を送り、また電話もかけるなどして、催促を切らしません。毎日、町工場で旋盤工の仕事をしていた新橋さんは、その永田さんの思いを受けて気合いが入り、仕事から帰ってきては夜な夜な、小説を書きつづけて、原稿用紙100枚強、だいたい10日間ほどで完成させました。

「今度の受賞に関する限り、はっきり断言出来るのは、「讃岐文学」の主宰者である永田敏之氏の暖たかい理解と協力なくしては、実現しなかったことであろう。(引用者中略)

他の同人雑誌の主宰者なら、おそらくあの「八百長」という作品を掲載してはくれなかったであろう。(引用者中略)私も熱意を以って書き上げた「八百長」を讃岐文学以外に載せたくはなかったし、兄貴分の永田氏だからこそ安心して託したのである。」(『讃岐文学』14号[昭和41年/1966年5月] 新橋遊吉「直木賞を受けて」より)

 と、新橋さんが書いているのは、『讃文』に寄稿する受賞エッセイだからそのくらいのリップサービスはしますよね、というのをさっぴいても、しかし苦しい私生活を経てもなおこの雑誌だけは刊行しつづけようと努力する永田さんの、熱心さに打たれた新橋さんが、正直な思いを吐露したひとつかと思います。

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2017年10月 8日 (日)

『外語文学』…直木賞なんてものは、酒のサカナにしかならない、とわかっている同人たち。

『外語文学』

●刊行期間:昭和40年/1965年6月~平成1年/1989年11月(34年)

●直木賞との主な関わり

  • 三樹青生(候補1回 第64回:昭和45年/1970年下半期)
  • 小山史夫(候補1回 第67回:昭和47年/1972年上半期)

 昭和40年代、全国に同人誌は何百とありました。そこの掲載作が直木賞の候補に選ばれるのは、よほどのことと言っていいでしょうけど、さらに一つの同人誌から違う二人の作品が、予選を通過するのは、これは並の「よほど」を上まわるハイレベルな「よほど」のことで、しかしそれを成し遂げてなお、全貌のよくつかめない雑誌が『外語文学』です。

 全貌がつかめない、などと言いながら、大して調査を進めてこなかった怠惰なおのれを呪うしかありませんが、以前、『外語文学』の三樹青生さんのことを取り上げたことがあり、もうほとんど、そのときのネタを使い回して終わりそうな気がします。なので、「直木賞史に登場する同人誌」のことを知るにはもってこいの(はずの)、『文學界』同人雑誌評を、まずは利用させてもらうことにします。

 『外語文学』は昭和40年/1965年に創刊、中心的な同人のひとり、評論家の原田統吉さんが亡くなって、その追悼的な文章をおさめた第21号(平成1年/1989年11月)まで確認できています。21冊、というのはけっして多い号数じゃありませんが、同人雑誌評、各月のベストファイブに掲載作が選ばれること6度。うち1度は、同人雑誌推薦作として『文學界』への転載を果たすという、かなりの好成績です。

 とくに、「首」(創刊号)と「股嚢(ルビ:またぶくろ)」(6号)の2度、ベストファイブに挙げられたほか、いくつかの機会に雑誌評で触れられたのが森葉児さん。ん? 何となくこの名前、見たことがあるな、と思ったら、始まったころのオール讀物新人賞(当時はオール新人杯)に何度か最終候補にのぼり、第4回(昭和29年/1954年)で佳作、第8回(昭和31年/1956年)で寺内大吉さんといっしょに受賞をした方だそうです。

 『経済往来』昭和45年/1970年6月号に載っている略歴によれば、大正7年/1918年生まれ、本籍は福島県いわき市、大阪外語大学フランス語部卒業、本名、高木敏夫。……ということで、大阪外語大出身であるところから、『外語文学』に参加した模様なんですが、それこそ寺内大吉さんといえば、オール新人杯をとったあとに、同人誌をつくり、商業誌じゃなくそっちに書いた小説で直木賞を受賞してしまった人でもあります。そういうかたちでの、直木賞との関わり方も、そこまで珍しい路線ではなかったんでしょう。

 じっさい、森さんの小説が直木賞の候補になる可能性だって、なくはなかったと思います。なかでも「股嚢」は、評者の小松伸六さんから、

「大型新人の作品といえそうである。その博識と反語精神は花田清輝、大才ぶりは初期の司馬遼太郎をおもわすが、この作品は、コロンブスの巨根伝説にからめて、イスパニア王室のアメリカ探検を風刺しているような異色作なので、私にはちょっと鑑定しかねるところがある。コロンブス=ユダヤ人説、ドン・キホーテのモデルはコロンブス、股嚢の風俗史考と巨根伝説など、エッセイとしておもしろい。」(『文學界』昭和45年/1970年2月号 小松伸六「同人雑誌評 学園紛争のあとから」より)

 と、おそらく賛辞かと思われる評がつき、たしかに面白そうな作品だな、と思われるんですけど、なかなか手軽に読める状況でもないので、残念ながらワタクシは未読です。直木賞の候補になっていればなあ、どうであっても優先して読んだだろうに、と考えるとこのまま見過ごすのも癪なので、どうにかして読んでみたいと思います。

 それで現実に、『外語文学』から出た最初の直木賞候補作は、森葉児さんをさしおいて、次の第7号に載った三樹青生さん「終曲」でした。

 こちらもやはり、その月のベストファイブにすんなり入るほどの大好評作。たいていの作品に厳しい評を連ねる駒田信二さんが、これは相当に褒めちぎります。

「今月、私が最も感銘を受けた作品は、『外語文学』(七号・東京)の三樹青生の「終曲」であった。(引用者中略)四〇〇枚になんなんとする長い話を一気に読ませるこの作者の、ストーリー・テラーとしての力量には瞠目すべきものがある。傲慢で奔放な天才的なピアニストの、これはなれの果ての物語ともいえなくはないが、そこに作者が一種の共鳴音を響かせていることが、この作品の最もすぐれている点であろう。その共鳴音を読者が聞くことのできることが。」(『文學界』昭和45年/1970年11月号 駒田信二「同人雑誌評 現代の憂欝と孤独」より)

 これはその後に直木賞の候補にまで残り、単行本が古本屋で容易に入手できたので、ワタクシも読みました。おっしゃるとおりのサスペンスフル、あるいは読みやすさが光り、音楽家を志望しながら、でもなり切れなかった語り手の、天才ピアニストに対する複雑な心理が揺れ動くさまに、ゾワゾワさせられます。

 候補になるぐらいなので、べつにこれが直木賞をとってもよかったと思いますが、この回は、武田八洲満「紀伊国屋文左衛門」もあれば、豊田穣『長良川』、梅本育子『時雨のあと』、あるいは広瀬正『マイナス・ゼロ』と、同人誌に載ったものが注目されて本になったという、同人誌上がりの作品が、バラエティ豊かに並んでいて、そのうち最も重厚で、古風なナリをした『長良川』に、いちばん票が集まったというのは、「昔ながら」のものに共感を示す直木賞っぽい展開で、それはそれで、べつに文句を言う気はありません。

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2017年10月 1日 (日)

『現代人』…直木賞をとってから今官一がつくった、楽しい集まりの場。

『現代人』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和51年/1976年11月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 平井信作(候補1回 第57回:昭和42年/1967年上半期)

※直木賞の候補になった同人:

  • 桂英澄(候補1回 第67回:昭和47年/1972年上半期)

 青森県弘前生まれの今官一さんが、直木賞を受賞したのが、第35回(昭和31年/1956年・上半期)のときです。

 現在にまでつづく直木賞文化のひとつに、「受賞者の生まれた・育った・何らかの関係がある」土地の人たちが、ほとんど手放しで祝賀ムードを盛り立てる、というのがありますが、今さんの時代もそうだったようです。貧乏作家(だったはずの)今さんは一躍、地元の名士となりました。

 しかし今さんという人は、直木賞の選評でもさんざん批評されているように、とうてい商業的にカネのとれる作風ではなく、「直木賞のあげまちがい」とさえ言われているような人ですから、受賞後も地道で、光の当たりづらい作家の道を歩きます。自身、『海豹』とか『日本浪曼派』とか、伝説と呼ばれる同人誌で仲間たちと揉んだり揉まれたり、そういった活動のなかで文学の心を育んできた、からなのでしょう、受賞して4年後、自分が主宰となってひとつの同人誌を創刊します。『現代人』です。

 「発行者」としてこの雑誌の運営を中核で支えたのが、山岡明さん。大正9年/1920年高知県東洋町に生まれ、ジャーナリストとして活躍、カストリ雑誌をはじめ数々の専門テーマを抱えていた人らしいですが、小説も書き、『現代人』に発表した諸作を中心に編まれた短編集『小説・稲垣足穂』(昭和45年/1970年10月・東洋出版刊)もあります。

 この雑誌に参加した同人、安田保民さんによれば、『現代人』という有力同人誌の発行者だったこともあって、山岡さんは直木賞・芥川賞の予選がどのように進行しているかも、なんとなく把握していたらしい……というのは、以前うちのブログで紹介した気がしますが、あらためて触れておきます。

「私の作品「立暗(原文ルビ:たちくらみ)」をも載せた「現代人」第六号(昭和三十九年六月発行)の合評会が、新宿の喫茶店で開かれたが、その席上で冒頭、発行人の山岡明さんから、

「安田君の『立暗』が芥川賞候補に名前が出たが、すぐ消えた」

と報告がなされた。(引用者中略)

山内七郎さんという同人も、直木賞候補にあげられたが、この方も私と同じように、世間一般でいう最終候補者ではなかった。

あとで判ったのであるが、日本文学振興会から「直木賞(または芥川賞)候補選考に当たって、○○の作品掲載誌五部、至急送付してほしい」旨の通知がくる。

たぶん、私の「立暗」の場合も、これではなかったかと思われたが、実は山岡明さんは「芥川賞」の予選委員をしておられたのだった。」(平成15年/2003年4月・私家版 安田保民・著『直木賞作家 今官一先生と私』所収「「現代人」のこと」より)

 芥川賞はまあどうでもいいんですけど、直木賞の予選に諮られたという山内七郎さんは、朝日新聞の校閲部で働いていた人だそうで、発表当初、『文學界』の同人雑誌評でも評判をとった「小説『言海』」(『現代人』5号[昭和38年/1963年11月])という作品があります。もしかしたら予選で議論されたのはこれなのかな、とも思いますが、確証がないので、不明です。

 とりあえず、安田さんの『直木賞作家 今官一先生と私』は、タイトルから容易に想像がつくとおり、今さん礼讃の流れが貫かれているので、そこは踏まえて受け取らないといけないんでしょうが、『現代人』を主宰する今さんに、多くの人が、人間としての魅力も感じていたことはたしかなようです。たとえば吉澤みつさんは、青森市出身の友人からの誘いで「棟方志功アンデパンダン展受賞、今官一直木賞受賞」の祝賀会に出席し、今さんと面識を得たという人ですが、「太宰治のかつての妻・初代の叔父、吉澤祐に後妻として嫁いだ」という関係から、桜桃忌で今さんと顔を合わせることもあって、のちに『現代人』にも参加。その同人会で韮澤謙さんと知り合いになり、そういう縁から韮澤さんのやっている審美社から4冊のエッセイ集を出したりしています。

 その一冊『青い猫』に収められた「谷底の火皿 三田小山町」より。

「同人誌は、一年に三冊位出る。新しい同人誌を手にして集まり、各々の作品についての、批評をする。その時の会合が楽しみであった。褒めることにおいてはみな吝かでないが、あまり欠点について言わない。言うにしても、言葉を慎んで、核心を衝くことは避ける。(引用者中略)それらの有象無象をうち眺め、穏やかな表情にホンの少し靄をかけ、紙巻き煙草をパイプで燻らしながら、含羞にも似たやさしい微笑を見せていた今先生であった。」(平成12年/2000年1月・審美社刊 吉澤みつ・著『青い猫――自分史的人名録 続』より)

 文学に魂を奪われた連中が、ムキになって峻烈な批評を交わせ、怖くなってみんな泣いちゃうような同人会だったら、さすがにこういう感想は出てこないでしょう。今さんの人柄あってこその、『現代人』の歩みだったことと思います。

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2017年9月24日 (日)

『新文学』…文学賞の候補になって騒がれても、舞い上がったりせず澄ました顔、の土壌。

『新文学』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和54年/1979年7月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 田中ひな子(候補1回 第55回:昭和41年/1966年上半期)

 創作なんてものはな、学校で学べるようなものじゃないぞ……といった感覚は、いまではもう時代遅れな、口にするだけで変人扱いされる類いのものだと思いますが、おそらくカルチャーセンターというものが世間的に認知されだす1970年代後半から80年代まで、昭和29年/1954年創設の大阪文学学校は、「わざわざカネ払って小説の書き方を学んだって、書けねえやつは書けねえよ」などと、さんざん言われ倒してきたことでしょう。

 創設から9年後の昭和38年/1963年、松田伊三郎さんいわく「一つの大きな転換点にさしかかっていた」(『新日本文学』昭和53年/1978年10月号「大阪文学学校の現在」)年に当たるそうで、学校事務局が独立した事務所を借りて移転、本科を半年制から一年制に変え、昼間部、通信教育部を新設するなど、なかなか大きなチャレンジに足を踏み出しますが、機関誌として出されていた『大阪文学学校』とは別に、活版の『新文学』を創刊したのも、そのひとつです。

 この雑誌はやがて、昭和40年/1965年4月号から月刊となり、昭和54年/1979年に『文学学校』、昭和59年/1984年に『樹林』と、誌名を変えながら号数を継承して生き残り、いまもなお600号を超えて、学校の「顔」として刊行されつづけている、というモンスター級の「同人雑誌」なわけですが、ここに載った在学生やら卒業生やらの創作が、芥川賞の候補に選ばれたケースは、3回あります。

 第63回(昭和45年/1970年・上半期)奥野忠昭さんの「空騒」(『新文学』63号)、第85回(昭和56年/1981年・上半期)上田真澄さんの「真澄のツー」(『文学学校』増刊〈アロトリオス〉)、第121回(平成11年/1999年・上半期)玄月さんの「おっぱい」(『樹林』406号)です。

 しかし、『樹林』からさかのぼる『文学学校』『新文学』の長い歴史のなかで、おそらくここに載せたからと言って瞬時に何かが起こるとか、書き手からして期待していないかのようなこの舞台から、芥川賞よりも先に、まず候補作をつかみ取ってしまったのが、そう、われらが直木賞。第54回(昭和40年/1965年・下半期)に、よりによって同人雑誌作家2人に受賞させて直木賞界隈をドッチラケさせてから日も浅い第55回のことでした。

 このとき候補になった田中ひな子さんは、一回候補になって一回落ちたぐらいで、とやかく騒ぐような人ではなかったらしく、……というか、身近に直木賞候補のベテラン、北川荘平さんもいたという、候補者として恵まれた(?)環境にあったからでしょうか、直木賞候補のことをクドクドと語ったりはしません。

 あるいは、田中さんは「文学学校と私」のエッセイで、こう書いています。

「話しても話しても話しても、なお話したりぬ対話の場を、文学々校は提供してくれたように思う。(引用者中略)対話の中から、いくら議論してみても作品で示さねば、という考え方――というよりは実感――がひきおこされていった。私はいま、自分の作品評にムキになることが少なくなったように思う。いくらか客観的に受けとめられるゆとりができたのかもしれない。どう注釈づけても書いたものは変らないという認識、何といわれようと書かずにはいられないという一種の図太さみたいなものを、私なりに体得してきたのであろうか。」(『新文学』昭和44年/1969年7月号 田中ひな子「繊細さと図太さと」より)

 候補になった「善意通訳」(『新文学』16号)にも垣間見えていた、何ゴトが起きても暗く落ち込んだりしない、むしろ前向きに立ち向かう図太さは、田中さんの生来のものでもあるでしょうが、文学学校に通って体験した数おおくの議論が、さらに田中さんの強みとなって文章の端々に現われている、のかもしれませんね。

 この第55回の直木賞というのは、大阪文学学校の雑誌からはじめて候補を取り上げただけに終わらず、この学校でチューター(指導支援役)を務める北川荘平さんの作品もいっしょに候補に選び、北川さんと田中さんは、『VIKING』の先輩後輩、あるいは編集長と同人、でもありますから、結果次第では「後輩に一気に先を越された先輩作家の悲哀」とか、「講師役が卒業生に文学賞で負けた! 文学学校の悲惨!」などと、ゴシップ好き野次馬たちの心に火をつける可能性もあって、文藝春秋もなかなか鬼畜な企みを仕掛けてくるよな、という回だったんですが、二人とも、選考日までさんざんマスコミの取材攻撃を受けて辟易したぐらいで終わり、直木賞は、いわゆる商業誌にいるプロ作家へと流れていきました。

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2017年9月17日 (日)

『層』…刊行中は直木賞も芥川賞も受賞しなかったけど、あとからじわじわ効いてくる。

『層』

●刊行期間:昭和40年/1965年11月~昭和45年/1970年9月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 井出孫六(候補1回→受賞 第55回~第72回:昭和41年/1966年上半期~昭和49年/1974年下半期)
    ※ただし第72回は単行本

※直木賞を受賞した同人:

  • 色川武大(候補1回→受賞 第77回~第79回:昭和52年/1977年上半期~昭和53年/1978年上半期)

 同人誌と直木賞の関連史を見通したとき、やはり第54回(昭和40年/1965年下半期)を境として、前半と後半に分けられると思います。

 その後半部分、要するに同人誌と直木賞の両者が、徐々に離れていって疎遠になっていく時間のなかで、ひょっこり登場するやいなや一躍(?)有力同人誌の座にのぼりつめ、にもかかわらず、たった10号で潔く幕を下ろしてしまったのが、『層』です。

 『層』というのは刊行中、直木賞にも芥川賞にも候補者を出し、しかし受賞者はひとりも送り出せず、あるいは小田三月さんやら武田文章さんやら室生朝子さんやら、作家の二世たちが何人か参加していたことで知られ……ているのかどうなのか、微妙なところではありますけど、少なくとも中心にいたのが夏堀正元さんであることは、間違いありません。

 昭和27年/1952年ごろ、夏堀さんは親しい付き合いのあった藤原審爾さんから、ひとりの男を紹介されます。これが当時20代前半だった色川武大さん。ウマが合ったか、夏堀・色川の二人の仲はどんどん接近し、いっときは色川さんが夏堀夫妻の家に転がり込んで、ほとんど同居の態で暮らしていたそうですが、色川さんの文学的才能を買った夏堀さんは、知り合いだった中央公論社の笹原金次郎さんに色川さんを引き合わせ、締め切りは守れないかもしれないがきっと傑作を書く男だからと、公募のはずの中央公論新人賞で、下読みの一次選考をすっ飛ばし、編集部での最終選考に入れ込んでくれと、コンプライアンス的に大いに問題のあるルートを依頼。これが、色川さんの作家デビューにつながるんですから、まあ炎上しなくてよかったですね、という感じです。

 しかし二作目以降、目に見えてスランプ状態に陥った色川さんは、夏堀さんに二人だけで同人誌をやろうと言い出します。夏堀さんも、その気になって準備に動きますが、やはり締め切りの守れない色川さんは、いつまで待っても原稿ができず。うかうかしているうちに、夏堀さんの中央公論の担当編集者だった井出孫六さんが、おれも仲間に入れてくれと割り込んできて、じゃあみんなでやるかと夏堀さん、方向転換をはかり、昭和40年/1965年に『層』創刊号ができあがりました。

 柱はどう見ても、色川さんだったはずですが、ここでいきなり注目を浴びてしまったのが、小説なんか初めて書いたんだよ、という井出さんです。創刊号に載った「非英雄伝」が、『文學界』の同人雑誌評でも取り上げられるわ、直木賞の候補に選ばれるわ、とちょっとした井出バブルが起こります(……起きてないか)。

 候補になったけど、このときはさらりと落選しまして、井出さん打ちひしがれたのか。といえば、そんなことはなく、花田清輝さんとの交友記のなかで、

「花田さんは、その後私が同人雑誌に書いた小説を送るたび、読後感をハガキにしたためて寄せてくれた。いつかそのひとつが直木賞候補にあげられ、みごと選にもれたとき、「君の文章は、絶対に賞の対象にはならぬものだ。それを名誉のことと思え」との趣旨をハガキをくださった。私はなんとなく嬉しくなり、以来その趣旨を拳々服膺してきたのだが、今回私は、はからずも直木賞を授かることとなった。」(『群像』昭和50年/1975年4月号 井出孫六「花田清輝流の取材」より)

 と回想。あははは花田清輝といえども、さすがにおれが賞に選ばれることまでは見通せなかったか……なんて勝ち誇ったりはせず、受賞したということは、おれの文章が変わってしまった証しなのか、花田さんにスマない気がする、と良識のあるところを見せています。

 それはそれとして、井出さんは『層』の参加者のなかでも、あまり同人雑誌の経験のなかった人、と言っていいようです。それだけに、同人誌の群衆に置かれると、どこか新鮮な作風であり文章であると見なされ、だからこそ直木賞候補に選ばれる道に通じていたのかも、と思いますけど、その井出さんが、『層』について綴ったエッセイがあります。『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号の「同人雑誌という道場」です。

 同人誌に集う人たちの、その真剣な批評のやり合いに、ドギモを抜かれた、と語っています。

「同人雑誌の鬼ともいうべきヴェテラン大森光章さんの参加は、たぶん三号の頃だったろうか。ぼくは三号に「太陽の葬送」という作品を載せてもらったのだが、合評の席上、大森さんから痛烈な批評をたまわったのをおぼえている。大上段からふりおろされた大森さんの剣が、いきなりぼくのメンをとらえたのであった。うまれて二度目に書いた作品であるから、まるでぼくの腰は定まらず、ヴェテランの剣をどう避けるかもわからず、丸腰で名人に立ち向かったようなものであったから、大森さんの一戟でぼくはたちまち脳震とうを起こしてひっくり返ってしまったようなていたらくであった。」(『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号 井出孫六「同人雑誌という道場」より)

 『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)とかで垣間見せる大森さんの、太刀筋のするどさが、いかにも想像できるような回想で、たしかに、そそくさと逃げ出しくなる雰囲気ですね、これは。

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2017年9月10日 (日)

『下界』…商業誌じゃなく、あえて、あえて同人誌をつくったつもりが、直木賞の餌食に。

『下界』

●刊行期間:昭和29年/1954年5月~昭和45年/1970年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回~第51回:昭和33年/1958年上半期~昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回以外は別のところで発表した作品

※直木賞を受賞した同人:

  • 榛葉英治(受賞 第39回:昭和33年/1958年上半期)
  • 渡辺喜恵子(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 杉森久英(候補1回→受賞 第42回~第47回:昭和35年/1960年下半期~昭和37年/1962年上半期)
  • 和田芳恵(候補2回→受賞 第27回~第50回:昭和27年/1952年上半期~昭和38年/1963年下半期)

 文壇の人たちから愛され、また文壇を愛した文芸編集者、和田芳恵さんは、どうにも儲からない雑誌をつくったり、とても儲かるわけもない小説を書いたりしました。それでもめげず、ひたむきに打ち込むけなげな姿勢が、さらに周囲の人に好感を抱かせる一因となったものと思います。

 大地書房で『日本小説』を編集、しかし小出版社の悲しさか、はてまた読者の好みを誌面に反映する才に欠けていたのか、よくわかりませんが、けっきょく志半ばで廃刊に。借金を抱えて、かなり精神的に傷を負ったはずのところ、そんなことで沈み込まないタフな和田さんは、またいっちょ、雑誌をつくってやろうかと意欲を燃やしていたそうです。

 その雑誌の名前が『下界』。武田麟太郎さんの小説『下界の眺め』の題名を気に入っていた和田さんが、そこから拝借したものだということです。

 発刊に関わった竹内良夫さんが回想しています。

「この雑誌(引用者注:『日本小説』)がつぶれると、(引用者注:和田芳恵は)小説上手なのに未だ書こうとせず、さらに雑誌発刊をたくらんでいた。「下界」という名前が気に入って、資金調達に奔走していた頃、私はかなり和田と親しくなり、

「和田さん、その下界という雑誌を同人誌にして、和田さんも書きなさい。それが一番よろしい」

ともちかけた。(引用者中略)

「うん、しかしこれは営業雑誌にして出したいからな」

「和田さんは小説の名人と皆さん言ってる。雑誌を出すよりも小説を書きなさい、それが一番いいんだ」

私は若くて気が早くて、和田が迷っているうちに、ついに同人誌「下界」発刊を急ピッチに他の連中とも相談して、出す運びにしてしまった。」(昭和54年/1979年4月・講談社刊 竹内良夫・著『文壇資料 春の日の會』より)

 いっぽう和田さんが回想しているところでは、『日本小説』がつぶれたあとに、同人誌を出そうと話し合っていた「下界の会」という集まりがあり、海音寺潮五郎さんの家に行ったり、「文学論争」と呼ばれる殴り合いをしたり、いいオジさんたちが、たぎる情熱を発散していたような会があって、その「下界の会」は「波の会」へと変わりながら、野村尚吾、杉森久英、榛葉英治、八木義徳、野口冨士男、進藤純孝などの面々との、親睦がつづいてきた、と言っています。

 ともかくも、発足からしてセミプロ文学者たちがウジャウジャと蠢くなかで出てきた同人誌『下界』。昭和20年代から30年代は、こういう同人誌も続々と生まれました。

 すると、中年にさしかかった売文ライターたちの、文学に賭けたいという強い思いを受け止めようとした直木賞が、プロの読み物作家、あるいは無名の素人作家などに紛れ込ませるかたちで、彼らの作品も候補のなかにぶち込むことになりまして、鮮やかというか渾沌としたというか、どうにも整理のつかないムチャクチャな状況が、直木賞のなかに展開することになります。

 そのなかで、とくに『下界』のメンバーが直木賞の場に召喚されたのは、やはり選考委員の海音寺潮五郎さんの存在が、大きかったことでしょう。『下界』がつくられるに当たっても、それはいいことだと、ポンと援助資金を提供。普段から、いっしょに同人たちと語らったりしていたことが、彼らを光の当たるところに押し上げたい、という気持ちに直結するだろうことは、容易に想像ができます。

 まあ、現に榛葉英治さんの書下ろし小説『赤い雪』の版元を、海音寺さんが紹介してあげたりしていたそうですし。……ってことは、前にもうちのブログで触れましたね。

 文筆歴は古いけど、いまいちパッとしない書き手が、同人雑誌で改めて修業に励むうちに、直木賞の威光の恩恵を受けて、ひとり、またひとりと表舞台へと上げられていく。苦労が実ってよかったですね。と、つい言いたいところではあります。だけど、単純に「よかった」と言って終わってしまっていいのか。ここが、同人誌という多面的な性質をもった存在をとらえるときの、難しいところに違いありません。

 『下界』にしてもそうです。結果的に、同人から直木賞の受賞者が次々と生まれましたけど、いや、そもそもそういうために発刊した雑誌じゃなかったでしょ? と疑義を投げかける人もいました。池田岬さんです。

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2017年9月 3日 (日)

『文学61』…流行作家になりたい? 同人雑誌ってそういうもんじゃないでしょ。と金子明彦は言う。

『文学61』

●刊行期間:昭和37年/1962年~昭和39年/1964年(2年)?

●直木賞との主な関わり

  • 金子明彦(候補1回 第47回:昭和37年/1962年上半期)

 金子明彦さんという人がいました。

 もちろんワタクシは会ったこともなく、直木賞候補作一覧のなかに出てくる、「格子の外」の作者、という程度の知識しかないんですが、残されたエッセイや文章のいくつかを拾い読みするうち、浮き世の栄華に背を向けた反骨の人、という側面がかなりあった俄然興味のわく人物だと知りました。その金子さんが、(おそらく)中心となって大阪で創刊された同人誌が、『文学61』です。

 創刊号は昭和37年/1962年4月10日発行。巻末に28人の同人氏名が掲載され、そのうち小川悟、重本利一、芝弘、加藤あき、脇田澄子、金子明彦の6人が「編集委員」となっています。発行所は、大阪市住吉区長居町東六丁目Cノ三八六号金子明彦方 文学61の会、です。

 この号には、創作として金子さんの「格子の外」のほか、加藤あき「悪意」、詩は竹信恵「海鳴」、評論・批評に重本利一「海外文学の展望 《形而上学派》の再認識」、中川喜久雄「小林秀雄私語」、小川悟「批評を歪曲するもの」、随筆に芝弘「国語問題考」、脇田澄子「団地の学校」、大島加代子「うららかな日に」が寄せられていて、執筆者紹介によれば、金子・重本・竹信・小川・芝・加藤の諸氏はみな関西大学の出身(中退も含む)ということになっています。どういうことでつながった仲間でしょうか。よくわかりません。

 金子さんはそれ以前から文筆歴があったらしく、戦中の15歳ごろには句作をはじめ、戦後、日野草城の『太陽系』、あるいは下村槐太の『金剛』に拠り、自身では林田紀音夫さんと同人誌『嶺』を発行したりしています。いっぽうでは、

「私が小説を書いたのは学生時代からのことで、小説や評論や詩を書く友人ばかりの中で、やむなく書きはじめていただけのこと(引用者後略)(『十七音詩』66号[昭和57年/1982年1月] 金子明彦「誤伝」より)

 との回想もあるように、句作と並行するかたちで小説もぼちぼち書いていたそうです。金子さんの『十七音詩』に参加していた北条沖也さんはこう書きます。

「金子明彦は切支丹弾圧を主題とする小説をはじめから書いたのではなく、はじめは日本の植民地時代の朝鮮の民族解放闘争を主題とする小説を書いていた。私はそのころの金子明彦とは会うこともなく、文通もなく没交渉であったが、金子明彦が小説を書く一作ごとに評判になったので、よくわかった。そうだ。彼の小説が発表されるごとにその同人雑誌は、新聞・雑誌の批評欄で激賞されるのが常であった。(引用者中略)

昭和三十六年の暮だったか、明彦の小説が直木賞候補にあげられているのを新聞で見て、私は驚いた。しかし驚くことではなかったのである。彼の小説はそのたびごとに朝日新聞や毎日新聞の批評欄で激賞されていたのである。」(『十七音詩』48号[昭和53年/1978年1月] 北条沖也「金子明彦覚え書ノオト(一)」より)

 その激賞された数々の小説が、いったい何というどこに載った作品なのか、いまではもはや、パッと調べることのできないのが、もう悲しさ満点なところで、なかに金達寿さんが褒めた「北漢山の雪」という小説もあるみたいなんですけど、人が褒めたことはわかっても、どこで読めばいいのかわかりません。つらいです。

 「激賞」と言えるかどうかは、賛否があるでしょうが、同人誌に書かれた金子さんの小説が、たとえば『文學界』の同人雑誌評でいくつか取り上げられたことはほんとうで、「長袴抄」(『黄土』創刊号[昭和29年/1954年12月])、それから「格子の外」は本文での言及がないままベスト5のひとつに選ばれていたりしますし、「天涯」(『文学61』3号[昭和38年/1963年11月])もベスト5になっています。

 1960年代の前半は、金子さんが林田紀音夫、堀葦男の両氏とはじめた『十七音詩』もまだ続いていましたけど、小説でもチラリと光が当てられそうになった時期にあたり、金子さん自身、小説執筆の意欲も十分にあったと思われます。

 この状況が突如、変わるのが昭和43年/1968年のこと。金子さん、もうイヤになっちゃって、小説の筆を折ってしまいます。

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2017年8月27日 (日)

『炎』…10年つづいて、それぞれの思い出を後に残した、女性だけの同人誌。

『炎』

●刊行期間:昭和35年/1960年~昭和45年/1970年(10年)

●直木賞との主な関わり

  • 村山明子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)

 どこの同人誌にいた誰それが、よそに移ったり新たな雑誌をつくった……とか、同人同士が糾合したり、仲たがいしたりして、別の同人誌が生まれた、またはつぶれた……とか、同人誌の世界っていうのは、古代中国やら戦国時代をほうふつさせるその、集合体同士の離合集散を含めた興亡史が、なにより面白いことは確実です(なのか?)。

 大所帯の有名誌ならともかく、ほんの数年しか活動しなかった、いまはもうなくなってしまった雑誌のことは、ほんとよくわからないので、歴史のかげにうずもれてしまうんですが、そのなかでも、東京で出ていたという『炎』は、多少は語られる機会の多かった雑誌かもしれません。これも、紆余曲折のすえに生まれた雑誌だったそうです。

 もとは丹羽文雄さん傘下の『文学者』というチョー有名な同人誌があり、昭和25年/1950年から、十五日会が出していました。これが昭和30年/1955年、惜しまれつつもいったん休刊。それじゃあ私だけで集まって新雑誌をつくりましょうかと、『文学者』同人のなかの女性たち……瀬戸内晴美さんや河野多恵子さんなどが音頭をとって出発を切ったのが同人誌『女流』です。昭和31年/1956年~昭和34年/1959年までつづきます。

 ところが昭和33年/1958年、早くも『文学者』が再刊されることになって、『女流』に参加した人たちのほとんどは、『文学者』へ戻っていってしまった、といいます。残されたのは、『文学者』とは、とくに縁のない旧同人たち。んもう、こうなったら自分たちだけで新しいものをつくりますか、と言って立ち上がったのが、『炎』だ、とのことです。

 『女流』には第二号から参加した人で、のちに『炎』の生んだ最大の職業作家ともいうべき存在となる、中山あい子さんが書いています。

「私は女流に二度か三度作品が載って、当時の文学界の同人誌批評と云うのに取りあげられ面白いと云われた。云われたがストーリーテラーで、むしろ中間小説だと書かれた。私には中間小説も純文学も分らなかった。

モナミで散々会合を重ね、結局、自分たちで別の新しい本を作ろうと云うことになり、七、八人が残った。勿論そんな頼りない集まりに後援を云い出す会員はなかった。

本の名前をと決め、発行所を私の住む英国大使館にし、編集責任者は私になった。校正も印刷も、前の女流の頃に覚えたので、印刷所も暫くは同じ処だった。」(昭和63年/1988年5月・海竜社刊 中山あい子・著『私の東京物語』「同人仲間と東中野」より ―太字下線は原文では傍点)

 『文學界』の同人雑誌評で、『女流』掲載作として名が挙がったのは、小滝和子、中野雅子、片野純恵、中山あい子、岸田和子、山村錦子、森志斐子、および〈岡本かの子論〉を連載した西岡久子、といった面々でしたが、これが『炎』に移ってからは、中山あい子、森志斐子、山村錦子という3人の作品が、ひきつづき同コーナーでは数多く取り上げられるようになります。

 そこから中山さんは、昭和38年/1963年終盤に、創設されたばかりの第1回小説現代新人賞を受賞、以来中間読物誌を主戦場としながら、エッセイ、対談、テレビ出演で顔と名前がバンバン売れるいっぽう、文学賞という文学賞には何ひとつカスりもしなかったという、身ぎれい極まりない作家人生を歩みました。なので、直木賞とはほとんど関係がありません。

 関係があるのは、『炎』で書いてただひとり直木賞の候補に挙げられた村山明子さんです。

 この村山さんという方が、まあ謎に満ちた、と言いますか、何がどうなって『炎』に参加し、その後、何がどうなったのか、皆目つかめない人なんですが、『炎』に載せた何気ない一作「指のメルヘン」が第51回(昭和39年/1964年・上半期)直木賞の候補になったり、昭和44年/1969年には「蛙」が、『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれたりし、昭和45年/1970年に『炎』に終止符が打たれて以降、もはや消えてしまった伝説の直木賞候補者になりかけたところ、昭和57年/1982年になっていきなり、福沢英敏さんの近代文藝社から旧作を集めた『指のメルヘン』を、今沢明子名義で刊行。

 昔の自作を同人誌に埋もれさせておかず、とりあえず単行本にして、同時代、あるいは後世の読者にその刻印を伝え残す、という意味では、かなりありがたい出版です。だけど、ひょっとして本人にとっては単なる思い出づくり? ……と心配に思うのは、べつにワタクシだけじゃなかったらしく、この本に寄せた宣伝文で、中山さんも書いています。

「20年経ったいまも、彼女の作品が新しいことに改めておどろいている。

これを機会に今沢さん自身も、もう一度、書く姿勢を取り戻してくれたらと、私は本気で考えているのだ。これをただ思い出の作品集で終らせたくない。」(『群像』昭和57年/1982年12月号「近代文藝社の本」広告より)

 しかし、どうやら中山さんの願い空しく、村山=今沢さんが、書く姿勢を取り戻した気配はなかったものですから、ここに一点の曇りもない、消えてしまった伝説の直木賞候補者が完成してしまいました。ああ、どうなったんでしょうかね、今沢さん。

 と、ここからは「ちなみに」のハナシなんですけど、『炎』からは一人の直木賞候補者が生まれたあと、3年後に今度は、芥川賞候補者が出ることになります。北條文緒さんです。こちらは、どうなったか不明なんてことはなく、とりあえず、「のちに自分の候補入りをどう感じたか」などの回想文も残っています。賞違いではありますが、後半はそっちのほうで。

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2017年8月20日 (日)

『文学街』…文学賞ごときで、反逆児の文学熱は動揺しない……ものなのかどうなのか。

『文学街』

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和42年/1967年(10年)、平成10年/1998年8月~

●直木賞との主な関わり

  • 古川洋三(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 直木賞はともかく、芥川賞の世界では、受賞作でしか知られていないような一発屋が多い、いや、べつに芥川賞イコール、レベルが高かったり何十万部も売れたりするわけじゃないのだから、じつは一発も当てていないうちに消えていっちゃった受賞者がゴロゴロいる……などと言われます。

 たしかにそうなんでしょう。わざわざ「じつは」などと、大げさに言うほどの事実じゃない気もしますが、一発も当てていないうちに消えた人といって、まず外せないのが、川村晃さんです。おそらく。

 芥川賞のハナシなんで、駆け足で振り返ります。

 美馬志朗さんを中心にして、昭和32年/1957年に創刊した同人誌『文学街』。あまりに文学への情熱が大きすぎて、月刊で出す! と決めたのがよかったのか悪かったのか、とにかくその、無益だ何だとまわりから冷たい目で見られる時期を過ごすこと5年。さすがに毎月ですから、載せる原稿も底をつきはじめ、同人だった川村さんも仕方なしに、10日ほどかけて新作を書き上げます。するとこれが、『文學界』の「同人雑誌評」で高評価を得て、同誌に転載、まもなく行われた第47回(昭和37年/1962年・上半期)芥川賞でも、文壇ズレしていない素人くさいところが逆にウケてしまい、さらっと受賞に決まります。

 いまから60年も前のことですけど、受賞と決まるとそこにワッと群がるマスコミの狂乱、というステレオタイプな受賞光景が、当時も相当ゲスな感じで展開されたらしく、わいわい持ち上げられる受賞者、それを祝いながらしかし嫉妬を隠せない同人誌仲間、みたいなかなり楽しい(楽しくはないか)状況が生み出されたそうです。

 自身、同人誌『藝文』を運営していた森下節さんは言います。

「「文学街」を主宰した美馬志朗は、下町の印刷所の社長で、自らも文学を目指し同人誌を出しつづけた。

しかし、同人の中から芥川賞作家が出て以来、妙に同人会のムードがぎくしゃくするようになり、川村晃との仲も次第に冷えたものとなった。」(昭和55年/1980年9月・皓星社発売 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第一章 同人雑誌作法」より)

 芥川賞がもたらすひとつの打撃は、受賞者本人だけにおさまるものじゃなく、とくに同人誌に所属している人が受賞することの自然だった時代には、同じ同人、もしくは同人誌の主宰者にも、かなりの衝撃を与えたとは、たしかによく聞くところです。

 ここで、周囲の彼らがどんな反応を示すか。公にどんな文章を残すか。芥川賞と関わった同人誌を見るときの、大きな注目どころでしょう。

 ちなみに美馬さんは、川村さんの受賞のすぐあとで、『文学街』に「川村晃の芥川賞受賞を祝す」という一文を書きました。マスコミが食い散らかす「芥川賞」報道の軽薄さと、それへの嫌悪感、というのは当然のようにコンコンと綴られているんですが、いっぽうでは、自分の心にある嫉妬かもしれない感情を素通りせずに、さすがそこにも分け入ろうと努力しています。

「一昨日ぼくのうちにやつてきた週間文春(原文ママ)の若い記者から、名刺を貰うなり、「同人の方が受賞されると本当にうれしいものですか」と聞かれたとき、ふと頬のこわばるのを意識したのがどうにも苦がくて忘れきれないでいる(引用者中略)「本当にうれしいものですか?」これ程他人の心をのぞきこもうとする無礼な言葉もないが、反面、これほど真実を問うという意味できびしい言葉もないようだ。「本当に」という言葉ほど、ぼく等の世界に生きる人間にとつて恐ろしく苦しい道はない。それをかきわけて生きねばならぬ文学青年のはしくれとして、ぼくはいまなお自分に問うているのである。「おまえは果たして川村さんの受賞を本当によろこんでいるのか」と。」(『文学街』昭和37年/1962年8月号 美馬志朗「川村晃の芥川賞受賞を祝す」より)

 みんなべつに賞が欲しくて文学を志しているわけじゃない、だから賞をとろうがどうだろうが、その作品の本質には何ひとつ関係がない。というのは、まず当たり前です。当たり前すぎて、言葉としても、ものの考え方としても、かなり薄いです。

 自分でも小説を書いているのに、他の同人が賞をとって、ほんとにうれしいものなのか。と聞かれて反射的にムッとした心根の底に何があるのか、そこを考え抜かなくては、どうにも目覚めが悪い。というところから書かれた美馬さんの文章は、やはり面白く、そう考えても美馬さんのような方も、明らかに芥川賞劇場の登場人物のひとりとして数えてもいいものと思います。

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