2017年12月10日 (日)

『作品』…ゴーストライターとして生きる鬼生田貞雄の、消え失せない文学ゴコロ。

『作品』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~昭和31年/1956年10月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼生田貞雄(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)

 『作品』。……という、何のひねりもない堂々たる名前をもつ雑誌は、歴史上いくつもあったと思いますが、直木賞史に登場する『作品』は、ただひとつ。昭和27年/1952年に創刊された『現象』という同人誌が、なぜか2年弱だけ『作品』と改題して続刊され、昭和32年/1957年にふたたび『現象』の名前に戻って、昭和45年/1970年ごろまで命を保ったその18年弱のあいだに、いっときだけ世に存在した『作品』の時代に掲載した作品のなかから、直木賞と芥川賞、それぞれ一作ずつ候補作が出たという、いわずもがな、純のほうの文芸同人誌です。

 『現象』は、よく知られた人では菊村到、垣花浩濤、赤松光夫、藤本泉などが、よく知られていない(ワタクシも知らない)人では、古賀孝之、南良太郎、白木良夫、高橋恒生などが同人に名を連ねていますが、いちおうその中心的な人物で、主宰だったとも称されるのが石上玄一郎さんです。

 石上さんといえば、戦前から、ほんの一部の文学同好者を魅了する作風でもって、とりあえず作家として活躍中の人でした。昭和26年/1951年ごろ、彼と交流のある無名の文学愛好者たちが集まり、みんなで新しい文学をつくっていこうではないかと気炎を上げて創刊の難事業をやりとげた。ということなんですが、同人たちの意見をまとめながら雑誌をつくる、それを何年もやり続けるのは、はっきり言って面倒なことです。

 面倒と言うか、同人誌の運営に向いている性格と、そうでない性格というのは、おそらくあるでしょう。石上さんは、精神的支柱として、この雑誌に欠かせなかったことは間違いありませんけど、しかし彼だけしかいなかったら、『現象』も『作品』もなかったかもしれません。

 これが10数年も続いたのは、明らかに鬼生田貞雄さんがいたからだ、と思われます。「影の主宰」とも目されます。

 性格は篤実で温厚。戦争をはさんで10数年、実業之日本社に勤め、出版、雑誌編集の経験は申し分なく、文学への熱中度も、戦前には藤口透吾さん、内田生枝さん、芝木好子さん、大原富枝さんなどと仲間となって同人誌に小説を書き、戦後は井野川潔さんと『文学世界』をつくるなど、仕事の合間に創作に打ち込みます。

 それでも文筆業として一本立ちしたい、という望みを捨てることができず、昭和27年/1951年、『現象』創刊の年に、きっぱりと実業之日本社を退職。一説では、鬼生田さんが編集長を務めていた『ホープ』の売れ行きが悪く、その責任をとらされた、とも言われますが、ともかく筆一本で一家の家計を支える身になりまして、数多くの原稿を書き、数多くの本を出します。

 とはいえ、自分の名前で発表できる環境は限られています。ほとんどが無署名、あるいはゴーストライターでのお仕事でした。

 著作の数は膨大にのぼるそうですが、とりあえず『アナタハン』(丸山通郎・著、昭和26年/1951年・東和社刊)、『グアム島 十六年の記録』(伊藤正・著、昭和35年/1960年・二見書房刊)、『式辞挨拶演説事典』(昭和35年/1960年・実業之日本社刊)、『手紙挨拶用語辞典』(昭和36年/1961年・実業之日本社刊)あたりは、鬼生田さんが書いたものだ、と言われています。二見書房からも、相当ゴーストの仕事を請け負った、といいます。

 こういった身すぎ世すぎの売文生活のなかで、「文学的」だと己が信ずる創作への道を忘れず、耐えて忍んで無償の原稿を書きつづける……というのは、ある意味で、直木賞界隈では定番の一風景かもしれません。定番ということは、つまり一時期の、昭和30年代前後の直木賞は、こういう一面をたしかに持っていた、ということでもあります。

 鬼生田さんがどれだけ真剣に、文学に邁進しようと心に決していたか。『現象』創刊号の「編集後記」は、鬼生田さんの筆ですが、その一節を引いてみます。

「この第一歩を踏み出すために、私たちは約三ヵ月の間、暗黒のなかで陣痛の忍耐をつづけて来た。ただ、単に、雑誌を出すというだけのことであつてはならない、とふかく考えさせられていたからである。(引用者中略)どのような烈しい困難に出会おうとも、私たちは、声高らかに、自らの産ぶ声を高めつつ、自らの存在を押し進めて行かなければならないのだ。山頂への距離は全く不明だが、しかし、そのなかで、私たちは、これを押し進めて行くことそれ自身こそ、文学の持つ宿命であることを、自覚してかかろう。」(『現象』第1巻第1号[昭和27年/1952年3月]「編輯後記」より ―署名:(O生))

 こういう熱気あふれる状況を見て、こちらも胸が熱くなったり、思わずドン引きしてしまったり、いろいろな受け取り方があると思いますが、とても輪のなかに入っていく勇気は出ないけど、でもその一途な試みと実行力には魅惑的なものを感じてしまう、というところが、同人雑誌の本領とも言えます。『現象』もまた、その特徴をおのずと備えていた、ということでしょう。

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2017年12月 3日 (日)

『日通文学』…戦争に行かされた作家と、その体験小説を「汚ないもの」と言った選考委員。

『日通文学』

●刊行期間:昭和23年/1948年6月~平成18年/2006年12月(58年)

●直木賞との主な関わり

  • 片山昌造(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)

 不思議な審美眼をもつ男こと、木々高太郎さんは、選評のうえでも数かずの名ゼリフを残しましたが、その忘れがたい選考基準の一つに、「戦争(を回顧する)モノは採らない」というのがあります。

 昭和24年/1949年に直木賞が復活して以降、数多く候補に挙がるようになったのが、戦地・戦場(戦後まもなくの現地を含む)を主な舞台にした作品です。「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年/1956年までの10数年のあいだに、候補になったものを挙げていくと、

 今日出海「山中放浪」(第21回)、今日出海『山中放浪』(第22回)、若尾徳平「俘虜五〇七号」(同)、小泉譲「死の盛粧」(同)、小泉譲「南支那海」(第23回)、玉川一郎「川田二等少尉」(同)、檀一雄「長恨歌」(第24回)、中村八朗「白い蝙蝠」(同)、そこから3年ほど空いて、井手雅人「地の塩」(第30回)、中村八朗『マラッカの火』(第32回)、三ノ瀬溪男(伊藤桂一)「最後の戦闘機」(第33回)

 ……と続きます。

 直木賞には残念ながら、新たな時代を切り開く力はありません。しかし、どういう候補ラインナップを並べたかによって、その当時の時代相(の一端)を映すという性質はあり、戦争モノなどは、その最たる例だと思います。

 この状況に敏感に反応したのが、選考委員だった木々さんです。第36回(昭和31年/1956年・下半期)、石野径一郎『沖縄の民』が予選を通過してきたとき、「私は当分戦争ものは、図ぬけてよくなくてはとらぬと決心している」と宣言。翌第37回(昭和32年/1957年・上半期)に挙がってきたバリバリの戦場モノ、江崎誠致『ルソンの谷間』に対しては「戦争もので、その意味では僕は賛成ではなかった」と評するという、頑迷な姿を見せました。

 第34回(昭和30年/1955年・上半期)に候補になった片山昌造さん「戦争記」のことも、当然のように斬り捨てています。

「内容は如何にも汚ない。戦争というものは汚ないもので、それを書くのが戦争否定だから正しいのだという考え方は、それは日本流の純文学の話であって、大衆文学ではとらない。」(『オール讀物』昭和31年/1956年4月号 木々高太郎選評より)

 なかなか、ずいぶんな言いようです。

 しかし木々さんには、一兵卒としてやむなく戦地に行かされた、みたいな経験がありません。同じような体験のある評者だったら、評価する姿勢も変わっていたかもしれないな。と、この小説が発表されるに至った経緯を見ると、どうしても考えてしまうところです。

 作者の片山昌造さん、本名・片山昌村さんは明治44年/1911年、埼玉県川越市の、豊山派真福寺の長男として生まれ、県立川越工業高校機械科を卒業すると、大正大学文学部に進学。中学生のころにはすでに、文学を一生の仕事にしようと心に決めていたそうですが、大学卒業の翌年、火ぶたを切ってしまった支那事変が片山さんの行く先を、大きく変えてしまいます。

 戦中には、「片山稔」名義で童話・児童文学を、「片山昌造」名義で『三田文学』に小説を発表しながら、しかししばしば従軍。「二八歳で兵隊にとられてひどい目にあって、気がついて何とかしなくてはならないと考えたときはすでに四四歳だった」(昭和34年/1959年10月・講談社刊『明日のない町で』「あとがき」)と回想するぐらいに、戦争のせいで長らくイヤな思いをしたらしいです。

 それがようやく終わった昭和20年代、よーし、これからは文学で世の中を変えてやるぞとの気概に燃え、「児童文学もまた文学のひとつだ」という考えに則り、子供向けの創作に励んでいたそんなころに、彼に力を貸したのが、田代儀三郎さんでした。

 田代さんというのは、片山さんより四歳年長の、明治40年/1907年1月2日、長野市生まれ。どこでどうやって片山さんと知り合ったのかは不明ですが、大正から昭和初期にかけて、無政府主義運動に参加しながら詩誌『舗道』『埋火』などを出していた人だそうです。昭和17年/1942年、35歳のときに日本通運の庶務課に入社、そしてまた田代さんも、昭和19年/1944年に応召、北支に派遣されて負傷する、という経験に見舞われます。

 戦後になって田代さんは、日通本社が社内的に出していた『わだち』や『日通ニュース』の編集を中心的に担うようになり、昭和23年/1948年には、日本通運という全国組織の企業をバックに付けて、文芸同人誌『日通文学』を創刊。昭和39年/1964年2月27日、57歳で亡くなるまで、「日通文学の顔」として名を轟かせました。

 かなり轟いたものでしょう。なにしろ田代さんの時代の『日通文学』は、一般的な同人誌とは違って、企業の後ろ盾があり、そのおかげで大きな資金難には悩まなかった、と言います。月刊で刊行できたのも、その恩恵があったからこそと言うしかなく、全国に会員をもち、毎月毎月、雑誌を出しつづけている、というだけで、外部から見れば、有力・有望同人誌のひとつです。当時は、日本文学振興会が、直木賞・芥川賞の候補にいい作品ないですか、と外部にアンケートのハガキを送っていた時代に当たり、その送付先に『日通文学』編集部も含まれていました。

 ここに、日本通運社外の会員、片山さんの長篇小説を、8か月間にわたって分載(連載)しよう、と決めたのも田代さんなら、振興会からの直木賞・芥川賞推薦アンケートに、片山さんの「戦争記」を挙げて返送したのも田代さんです。この、よき理解者がいなければ、とうてい「戦争記」は掲載されず、候補にもならなかった、と見ていいでしょう。

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2017年11月26日 (日)

『午後』…直木賞、歴史作家の芽をひょんなところから見つけてくる。

『午後』

●刊行期間:昭和36年/1961年2月~昭和51年/1976年10月(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補2回 第53回:昭和40年/1965年上半期~第70回:昭和48年/1973年下半期)
    ※のちに通算10回目の候補で受賞

 その昔、直木三十五さんがまだ三十五と名乗っていなかったころ、文壇のゴシップを勝手きままに書き殴り、一部で大評判となった、と言われています。作家や評論家たちの生態、いわばゴシップというものは、どうしたってこの世から廃絶できないシロモノ、と言いますか、どんな時代でも確実に高い関心をもって読まれてしまう運命にあると言ってもよく、それを否定しても仕方ありません。

 1960年代、そういった文人たちのゴシップ記事を載せて注目されたのが、山口県下関の地で刊行されはじめた『午後』です。……などと言うと、明らかに語弊がありそうなので撤回しておきますけども、しかし創刊同人のひとり、のちに下関図書館長になった中原雅夫さんが『午後』に発表した「下関に迎えた文化人」あるいは「下関を訪れた人々」という読み物シリーズが、東京の出版社や文壇のあいだでかなりの興味をもって読まれたことは、たしかだと思います。

 阿川弘之、山口誓子、戸板康二、江藤淳、佐藤春夫、平林たい子、永積安明、外山滋、大宅壮一、小田実、由起しげ子、小林秀雄、大岡昇平、大佛次郎、杉森久英……。講演会だったり、取材旅行だったりで山口を訪れることになった、ちょっと名のある人たち。とくにこの地方は、幕末史を語るうえでは絶対に避けて通れない場所ですから、そういった面での取材アテンドや資料提供を求められることが多かったらしく、そこで活躍したのが中原さんです。下関市の広報係長を務めていたからです。

 それまでも中原さんは、仕事柄、地元・下関の特徴や取り得についての文章を、さまざまに書く機会がありました。しかし次第に、美辞麗句だの、紋切り型の観光ガイドだの、そういうものに飽き足らなくなったんでしょう。自らの視点で、歴史的な事象、風土などを調べはじめ、郷土ゆかりの文学者や文学作品にも手を伸ばして、もとより高かった自身の文学熱をさらにメラメラ燃やしていたところ、市役所に出入りしていた地元新聞社の、文学好きの記者と親しくなります。

 それが『みなと新聞』で働いていた古川薫さんでした。運命的な出会い、と言っていいんでしょう。

 中原さん40歳前後、古川さんは30代後半。市役所で働いていた清永只夫(唯夫)さんなども加わって、こっそりと(いや、大いなる気概をもって)同人誌『午後』を始めたのが、昭和36年/1961年のことです。

 「文学好きの記者」と書きました。古川さんの来歴を簡単にご紹介しますと、23歳のときに徳田秋聲の『仮装人物』を読んで以来、文学の道に進みたいという思いがふくれ上がり、山口大学に入って国文学を専攻。小説家を志望し、「何が作家になりたいだ、無理に決まってるじゃん、あはははは」と周囲に笑われながら、伊藤佐喜雄さんが山口で主宰していた『多島海』に参加して、小説を二つばかり発表したと言います。

 その後、新聞社にもぐり込みましたが、やはり物書きになる夢は断ちがたく、運命的に出会ってしまった中原雅夫さんたちと盛り上がるうちに迎えたのが、『午後』創刊の日です。

 これをきっかけに文壇に出てやろう、という気概がどのくらい熱かったのか。現場にいたわけでもない人間には、とうてい測りかねるものがありますが、昭和40年/1965年、古川さんの「走狗」が『文學界』の同人雑誌評で好評を博し、同誌に転載されるまでの約5年、古川さん自身は必死にやったと思い出を語っています。

「学生の頃から小説は書いていたんですけどね。三十六歳のときに同人誌を出して、四十歳のときに直木賞の候補になりましたから、五年掛かりました。その五年間で同人雑誌を十号出して、そのときの小説(「走狗」)が(引用者注:『文學界』に)掲載されたんですよ。僕は、十年頑張ったらね、まあなんとかなるんじゃないかという気がするんです。(引用者中略)十年死に物狂いになってやって、それでも駄目ならやめた方がいいかも分らんなと思う。」(平成26年/2014年3月・文藝春秋/文春新書『作家の決断 人生を見極めた19人の証言』所収「古川薫 文芸と言わず芸術というのは、死を賭けた遊びと言ってもよい」より)

 『文學界』に同人雑誌優秀作が再録される、という企画が始まったのは、昭和33年/1958年1月号からです。その転載作が、はじめて直木賞候補になったのは、先日取り上げた北川荘平さんの「水の壁」(昭和33年/1958年8月号転載)ですが、これは芥川賞との同時候補でした。

 言うまでもなくこの企画は、直木賞のためというより芥川賞のために存在している、と同人雑誌の人たちも、あるいは文藝春秋の人たちだって考えていたはずで、ワタクシの目にもそう見えます。事実、北川さんの作品以降、7年ものあいだ、直木賞に直結する転載作は出ませんでした。

 たとえば「走狗」がどこかの読み物雑誌に載っていたら、明らかに違和感があります。しかし、なぜだか直木賞の候補に選ばれてしまいました。「始めた理由」とか「やっている人の意思」とか、そういうものに縛られない、自由で予測不能な動きを見せる直木賞の特徴が、また顔をのぞかせたと言う他なく、直木賞め、また「お門違い」をやらかしやがって、と難詰されたところで文句は言えません。

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2017年11月19日 (日)

『早稲田文学』…直木賞作品とは思えないものを候補にする、不思議な直木賞。

『早稲田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和9年/1934年~昭和24年/1949年(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 佐藤善一(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 まだ出たばかりの新刊、小谷野敦さんの『純文学とは何か』(平成29年/2017年11月・中央公論新社/中公新書ラクレ)を読んでいて、思わずひざを打つ思い、と言いますか、こういうかたちで直木賞のことを、折りに触れて書けてしまう小谷野さんの、貴重な仕事ぶりに改めて感嘆しています。

 と言うのも、純文学/大衆文学の差や違いを語るときに、数多くの評論家、作家、文筆家、ライター、文芸記者などなどが、さらっと「芥川賞/直木賞」の枠組みを持ち出してくる場面を、気絶するほど数多く目にしてきました。だけど、じっさいに芥川賞の受賞作や候補作だけじゃなく、直木賞の受賞作・候補作、あるいは通俗的だと言われるユーモア小説の類や、倶楽部雑誌に載っている時代ものや情愛もの、はたまたノベルスを読んだりしているうち、直木賞が大衆文学を代表しているとは、とうてい思えなくなってきます。純文学=芥川賞はいいとして、大衆文学=直木賞、という切り取りかたに、強い違和感をおぼえるのです。

 じゃあ、いったい直木賞は何なのか。……というところで、『純文学とは何か』では「第五章 謎の直木賞」として、直木賞みたいなもののために一章分もページを割き、はっきりこうだと定義できない直木賞の不思議さと特異さを説明してくれています。

 くわしくは、じっさいにこの本を読んで堪能していただくとして、今週とりあげる雑誌『早稲田文学』は、とくに小谷野さんの本とは関係がないんですが、しかし『早稲田文学』に載った小説を候補に挙げちゃう直木賞って、やっぱり謎だよな、と思うしかありません。

 『早稲田文学』はいまも頑張って第十次のものが出ていて、ここから芥川賞の受賞作も生まれているので、基本的には大衆文学のための雑誌とは言えません(いや、基本的もクソもないぐらいです)。第九次以前だって、やはりその性質はさほど変わらず、最も直木賞との関連が深いのは、おそらく第七次に立原正秋さんや有馬頼義さんが編集長をした時代かと思いますが、これとて、こういう人たちがいかに純文学への関心が高かったか、を示すものでしかなく、この雑誌と直木賞とが直結している、と見た人はまずいないでしょう。

 歴史全体を通して、まず直木賞とは世界が違う、としか見えない『早稲田文学』から、唯一、直木賞の候補が選ばれたのは、谷崎精二さんが編集のトップに立った第三次のころ。昭和19年/1944年の下半期です。

 一次・二次と違って第三次は、同人が編集だけじゃなくて販売から何から雑誌経営(お金のやりくり)全般を一手に担う、ということで始めたそうで、当時の編集後記や、谷崎さんの回想、あるいは浅見淵さんの文壇回顧ものを見ても、その苦心惨憺のさまがいろいろ描かれています。同人雑誌でもあり営利雑誌でもある、というのは相反した性質なのかどうなのか、たしかにお金を出して書店で買える同人雑誌は、とくに『早稲田文学』の専売特許でもなかったはずですが、しかし、売れないと続けて出しつづけることができない経済社会のなかの一誌として、何次になっても苦労が絶えないようです。

 そのなかでも『早稲田文学』が、常に持ちつづけたのが、新人作家を積極的に起用する心でした。この雑誌の公募の新人賞は、いままた、続いているのかどうかわからない段階に入ってしまいましたが、第三次の終盤ごろからこの手の企画を繰り返しています。おそらくは、この雑誌の「新しい作家よ出でよ」の精神が、公募賞の開催というかたちで現われているものでしょう。

 谷崎さんの書くところによれば、こうなります。

「営利雑誌となるためには資本が足りないし、と云って純然たる同人雑誌になるためには新人の発見育成と云う、半ば公式に托された任務を捨てなければならない。勿論現在どの文藝雑誌でも新人の発見には努めているが、『早稲田文学』同人の眼ざすところは我々の後継者として新人の育成である。」(『早稲田文学』昭和24年/1949年5月号 谷崎精二「雑誌経営十五年」より)

 ということで、既成の同人だけじゃなく、門戸をひらいて誌面を提供し、新しい人たちにうちの雑誌から巣立っていってもらおう! とこれは、昭和9年/1934年に第三次として復刊して以来、『早稲田文学』のひとつの核ともなり、尾崎一雄、浅見淵、野村尚吾、逸見広と、中心の編集担当が変わっても受け継がれていきます。他の商業文芸誌とまざって、新人が作品を持ち込む先に、並の同人雑誌とは違う一種の格のあるメディアとして、どうやら認識されるようにもなったらしく、岩手師範を出て教員をしていた佐藤善一さんの小説が、この雑誌に採用されることになったのも、(おそらく)『早稲田文学』の新人待望熱が強かったおかげでした。

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2017年11月12日 (日)

『花』…いきなりブレイクしかけた葉山修平、しかし生涯、同人誌に生きる。

『花』(第一次)

●刊行期間:昭和33年/1958年~昭和45年/1970年(12年)

●直木賞との主な関わり

  • 葉山修平(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)

 何か月か前、『文芸日本』のことを取り上げました。1950年代、榊山潤さんが親分となって、尾崎秀樹さんが編集実務を切り盛りしていた雑誌ですが、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞候補のなかに名を見せる同人誌『花』は、どうやらこれと多少の縁があったようです。

 『花』の創刊号に、尾崎さんが「ノラのゆくえ 魯迅研究ノート・I」という評論を寄せています。どうしてそこに至ったか。創刊までの経緯を少しさかのぼってみますと、もともと千葉の郷土誌に葉山修平さんが書いた小説を、『東京タイムス』で同人雑誌評を担当していた林富士馬さんが褒め、まもなく同人雑誌界の集まりの席ではじめて挨拶を交わして以来、葉山さんは林さんと意気投合。たびたび林さん宅を訪れるうち、同人誌『玻璃』の創刊から参加することになりますが、林さんの隣の家に住んでいたのが榊山潤さんです。「だれかいい新人作家がいたら紹介してくれよ」とつねづね頼まれていた林さんが、榊山さん、この人はどうですかと引き合わせたことから、おのずと葉山さんは尾崎さんとも顔なじみになりました。

 いっぽうで、『玻璃』で知り合った詩人、太田浩さんともお友だちに。やがて『玻璃』がつぶれる折りには、『文芸日本』の会に入っていながら作品を載せてもらえない人たちを誘ったりして、新しい同人誌をつくろうという機運が生まれ、宇井要子さん(直前に葉山さんと結婚)や井上清さんなどが参集、世阿弥の「風姿花伝」からとって『花』と命名されます。葉山さんが付けたそうです。

 このとき、「葉山修平」という、ひとりの無名作家にとっての順風が、明らかに吹いてきていました。葉山さんが『文芸日本』に載せた「バスケットの仔猫」は、まったく思いがけず室生犀星さんの目に留まり、直接お褒めのハガキが送られてきたりして、葉山さん大感激。褒めてくれた先輩にズブズブと心酔していく、という感情は、誰しも理解できる一般的なものだと思いますが、やはり葉山さんもその例に洩れません。室生さんを師とあおぎ、『花』を創刊するときにも室生さんに相談したそうですし、その『花』に発表した「天皇の村」(未完)を、室生さんの紹介で東西五月社から処女出版することになって、師弟の絆はいっそう強まったものと思います。

 いっぽうで葉山さんは、林富士馬という人を通じて、当時、若手の有力作家と呼ばれていた人たち、庄野潤三さんや吉行淳之介さんなどと交歓をもったと言いますし、林―榊山―尾崎というラインからは、『文芸日本』の伊藤桂一さんや大森光章さんといった面々ともつながりを持ちます。

 林さんに連れられて、佐藤春夫さんに会うことが叶ったのも、そのころのことです。会話のなかから、ふと「バスケットの仔猫」が室生さんに褒められたことが話題に出ると、すかさず佐藤さんが言ったのが、「室生君が褒めたものなら間違いないだろう、僕が芥川賞の候補に推薦しておこう」とのお言葉。文学青年として有頂天にならないはずがありません。

 しかし、結局この作品は芥川賞の予選は通らず、

「やがて芥川賞候補の作者と作品が新聞に掲載された。彼の名前はどこにもなかった。(引用者中略)太宰治が芥川賞の候補になって、ぜひ受賞したいからと選者の佐藤春夫に手紙で真情を綴った手紙を書いたが、それを佐藤春夫が公表したことのあるのを、何の脈絡もなく思い出していた。なるほど、春夫は若い人を励まし鼓舞する名人だ、と思い、しかし、なにか裏切られた気持になった。」(平成25年/2013年11月・龍書房刊 葉山修平・著『処女出版―そして室生犀星』より)

 と、人に期待をもたせてしまう佐藤さんの、巧みな人心掌握術にひっかかったらしいとわかって、少し悲しみを覚えることになったのも、この時期、葉山さんが急速に「文壇」の端っこで注目されだしていた証しでしょう。

 以来、葉山さんは、高校の先生から、千葉大学講師、駒沢短大では助教授・教授・名誉教授と進む教育者として、長年勤めをもちながら、各地のカルチャーセンターでわいわい生徒たちと文学について語らって暮らす、そんな道のりを歩んでいきます。

 文学研究のかたわら、自身での創作も続け、どうやら文学のジャーナリズム化や商業化に対しては抵抗感があったらしく、そういうものと距離を置いたところで活動をつづけます。あるいは、自分の書いたものが、商業出版界では受け入れられず、ほんとうは作家で食っていきたかったのに、それが果たせなかった、という面もあったのかもしれませんけど、とにかく「私がつくっては潰し、つぶしては作ってきた同人雑誌」(「わが百花譜抄」)と自分でも振り返るほどに、数々の同人誌を、息つくひまもなくつくり続けたことが、何と言っても葉山さんの、特筆していい業績です。

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2017年11月 5日 (日)

『半世界』…文壇への足がかりにするつもりはない、と言いながら創刊されて幾星霜。

『半世界』

●刊行期間:昭和32年/1957年10月~平成14年/2002年1月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 稲垣真美(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 粂川光樹(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 梶野豊三(候補1回 第59回:昭和43年/1968年上半期)

 平成29年/2017年、創刊から60年もたつのに、同人誌『半世界』に対してこんなに気軽に親近感が抱けるのは、確実に『晩鐘』(平成29年/2017年9月・文藝春秋/文春文庫 上・下)を書いた佐藤愛子さんのおかげです。

 田畑麦彦さんをモデルにし、彼との出会い、結婚、文壇デビュー、離婚、さらに時が経って彼の死、とそういった変遷が軸となった物語ですから、当然、二人とその仲間たちが創刊した『半世界』のことにも、かなりのボリュームで触れられています。

 『晩鐘』に出てくる人物名・固有名詞をカッコ付きで補足しながら、『半世界』の前半期までをたどりますと、昭和20年代なかば、有名・有力同人誌『文芸首都』(『文芸キャピタル』)に参加した20代の若手たちが、「ロマンの残党」と名乗るグループを組みます。筆名「天笠人誌」を使う天笠一郎(天野梧一)、筆名「荘司重吉」の庄司重吉(庄田宗太)、マッサージ師の林圭介(森健郎)、その林に強引に誘われて同人になった筆名「田畑麦彦」篠原省三(畑中辰彦)、それと佐藤愛子(藤田杉)、などなどです。

 エネルギーの有り余った若者たちの青春群像、って感じで、それぞれ他人の作品に文句をつけながら、小説やら評論やらを書いたりしていましたが、田畑さんと佐藤さんが結婚した頃から、天笠さんが見る見る距離をおくように。やがて俺は文学から足を洗うと捨て台詞を残して、天笠さんが脱退し、「ロマンの残党」は解体します。

 しかし、やっぱり俺たちは俺たちの信念のもとで同人誌をつくらなければ、と気負いを見せたのが田畑さん。荘司さんもそれに賛同し、ほうぼう仲間たちに声をかけて、昭和32年/1957年に出来上がったのが『半世界』です。当初は北杜夫、川上宗薫(川添卓次)、日沼倫太郎(生沼慎一)、宇能鴻一郎、原子朗、小池多米司、津島青などなどが参加しました。

 べつにこの雑誌を、文壇に出るための足がかりにするつもりはない、と田畑さんは豪語していたそうです。しかし、そうは言ってもかたくなにジャーナリズムを拒絶するわけじゃなく、やはり多くの人目に触れて感想のひとつでも言ってもらえれば、うれしいには違いありません。創刊から14号まで出したところで、荘司さんがボヤいています。

「自分の作品は多くの人の眼にふれるほうがのぞましい。同人雑誌の発行部数などはタカがしれたもので、そういう意味で私たちにとって商業雑誌というものはたいへん魅力ある存在であるが、そういうところでは私たちの作品は面白くないので問題にされはしない。まったくいつものとおり年月だけが過ぎて行くのである。」(『新潮』昭和37年/1962年3月号 荘司重吉「「半世界」の立場」より)

 たしかに荘司さんの作品は、さほど問題にされなかったかもしれません。しかし他の同人たちは次々と商業誌にデビューを果たし、あるいは芥川賞の候補になったりして注目されまして、ついには昭和37年/1962年、主宰格の田畑さんが、第1回文藝賞の中短篇部門に応募した「嬰ヘ短調」で、みごと受賞に輝きます。追ってまもなく佐藤さんも、『半世界』に発表した「ソクラテスの妻」(第16号[昭和38年/1963年春])が、おっとびっくり『文學界』に同人雑誌推薦作として転載。そのまま芥川賞候補になってしまったうえに、落選後には『文藝春秋』でもお披露目されることになって、俄然、美貌の新進女性作家としてデビュー。何だかみんな『半世界』を土台にエラくなりましたね、よかったよかった……というのが『半世界』史、前半までの概略となります。

 びっくり、といえばそれから6年後、佐藤さんがせっせと商業誌のために書いた『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞しました。ブンガク、ブンガクと高らかに声を上げていた『半世界』の同人から、まさか直木賞の受賞者が出るとは、と激震が走ったことでしょう。もうそれだけでも『半世界』は、直木賞史に現われた同人雑誌のひとつとして重要なポジションを占めるわけですが、創刊当時の有力な同人がひとり、またひとりと商業的なライトを当てられて、去っていくなかで、この雑誌を守った人たちのことを見逃すわけにはいきません。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)から第59回(昭和43年/1968年・上半期)まで、都合3度も、『半世界』の作品が直木賞候補に挙げられました。それは明らかに、その人たちの継続力に負うところが大きく、そこから『半世界』の第二章が始まったと言っても過言ではないからです。

 ひとりは、取り残された「ロマンの残党」こと荘司重吉さん。というのはいいとして、いまひとりは、第17号から編集同人に加わった稲垣真美さんです。

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2017年10月29日 (日)

『状況』…直木賞と芥川賞の同時候補で、一気に注目を浴びた北川荘平の、矜持の会社員生活。

『状況』

●刊行期間:昭和33年/1958年6月~昭和34年/1959年?(1年?)

●直木賞との主な関わり

  • 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和41年/1966年上半期)
    ※ただし第39回以外は別の同人誌に発表した作品

 朝日新聞に野波健祐さんという記者がいます。

 前回第157回(平成29年/2017年・上半期)の直木賞が決まるまえ、話題のひとつは、宮内悠介さんという、直木賞と芥川賞の候補を行ったり来たりしている(させられている)作家がいよいよ受賞するんだろうか……ということでした。そこで果たして、この二つの賞にはいかなる違いがあるのか、昔はどうだったのか、今後はどうなるのか、などなど、あまりに深淵すぎて絶対に答えの出ないことが確実視されるテーマで、何か記事が書けないだろうか。そんなことを野波記者が考えた、としておきましょう。

 そんな折り、直木賞の「すべて」などという、大風呂敷も甚だしいサイトの名前を見た野波さんが、ここの管理人ならきっと両賞の違いについてスッキリした見解を持っているんじゃないか、と期待したのかどうなのか、秋葉原の喫茶店で直接会ってお話しすることになったんですけど、なにしろこちらは文学に興味がありません。大衆文学と純文学の違いなんて何ひとつわかりません、わかるわけがありません、すみません、と延々と謝ることに終始。あとは、「両賞の交差」についての雑談を少しして別れました。

 このときの雑談に、当然出てきたのは、柳本光晴さんの『響~小説家になる方法~』の話題です。二つの賞で同時に候補になるとかあり得るんですかねえ、昔は何人かいたようですけどねえ、みたいな話です。

 同一作品で同時に候補、というのを経験した人は、これまで4人いますが、いま一般的に名前が通じるのは、柴田錬三郎さんぐらいでしょう。『響』の作中でも、芥川賞受賞者の鬼島仁が、テレビ番組での解説で、唯一、過去の例として名前を挙げているのがシバレンぐらいですから、その通じやすさは相当だとわかります。ただ、じっさいその候補作「デスマスク」は、さほど面白い小説ではありません。

 小説の面白さからいって、同時候補になったのも当然だ、といまでも思えるのは、第39回(昭和33年/1958年・下半期)北川荘平「水の壁」しかない、これに尽きる。とワタクシはかねがね思っています。しかしキタガワソウヘイなどと言っても、たいがい話は通じず、言ったこちらが変人扱いされるのが関の山でした。ところが、野波記者、「水の壁」を読んでいたらしく、「あれは面白いです、絶対に復刊すべきです」と語りはじめたので、正直こちらが驚く展開に。じっさい後日、『朝日』の紙面で「古い候補作を読む」(平成29年/2017年7月21日大阪夕刊)と題する、「水の壁」礼讃の記事を書いてしまうぐらいの熱い思いに、たじろぎながらも、まさか北川荘平の話でだれかと盛り上がることができるなんて、長生きはするもんだな、と思わぬうれしさを噛みしめた夜でした。

 ……と、心温まる(?)思い出はそのくらいにして、北川さんの「水の壁」ですが、昭和33年/1958年に『状況』という、大阪で創刊されたばかりのチッポケな同人誌に発表されたものです。その後何号まで出たのかも判然としない、正真正銘、チッポケな雑誌です。

 いったい『状況』とは何なのか。どんな経緯で創刊されたのか。北川さんの「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」(『別冊文藝春秋』117号[昭和46年/1971年9月]、のち『孤高の鬼たち 素顔の作家』平成1年/1989年11月・文藝春秋/文春文庫に所収)に、けっこうくわしく書かれていることを知りました。

 京都大学在学中に、文学を介して親しくなった高橋和巳さんが、みんな卒業して社会人になった昭和31年/1956年、同人誌『対話』の創刊を画策したそうです。参加者たちが集まって議論は白熱する、しかし雑誌がなかなか出ない。ようやく1号、2号と出るなかで、高橋さんと喧嘩したり仲直りしたり、北川さんは作品を書くこともできないまま、どうも思い描く同人誌の姿ではない気がして見切りをつけたところ、たまたま旧制大阪高校の同級生、天野政治さんから新たな同人誌の結成に誘われます。

 津田考、村山兼夫、亀山英夫、開高健……と昔の同級生に声をかけて創刊準備にとりかかっていた昭和32年/1957年、ちょっとした事件が起こりました。参加予定者に名を連ねていた開高健さんが、文芸誌に作品を発表、燦然とデビューしてしまったのです。さらに年が明けて1月には、その開高さんが芥川賞を受賞。と幸先がいいというか、出鼻をくじかれたというか、なかなか衝撃を受けるような出来事に見舞われたなかで、北川さんは昼間サラリーマンとして勤めながら、はじめて本格的に小説の執筆にのめり込み、どうにか他の人の原稿も集まって、昭和33年/1958年6月、『状況』創刊号の完成までこぎつけます。

 無名な仲間たちが集まって、どうにか手づくりで出した同人誌。いったいこれを誰が興味をもって読んでくれるのか、と不安は高まるばかりです。しかし、まもなく北川さんの身に、当初考えていた以上の反響と騒動と困惑が、次々と襲いかかってきます。

 新潮社からは新作執筆の打診が届き、文藝春秋からは『文學界』同人雑誌優秀作への転載(7月8日発売・8月号)の連絡、7月5日の朝には『文學界』編集部から芥川賞候補内定の報せが入ったと思ったら、午後には日本文学振興会から直木賞候補への推薦のハガキが届く。『文學界』が発売され、新聞各紙で直木賞・芥川賞候補が発表されると、あちこちの文芸誌から注文がくるわ、週刊誌から取材依頼が押し寄せるわ、という状況に、

「文學界に掲載されることだけでも、処女作をやっと書いたばかりのわたしには大事件だった。そこへこの幸運のダブルパンチである。くらくらして、事態の意味がしばらくはよくわからなかった。」(北川荘平「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」より)

 との回想を残しています。

 しかも「水の壁」一作が特異なのは、候補になっただけじゃなく、直木賞では最終の本選で何人もの選考委員がこれを推し、芥川賞側でもほんのちょっぴり褒められたこと。要するにほんとに惜しかった、ってところです。おそらく可能性は直木賞受賞のほうが高かったんですが、芥川賞発表号の『文藝春秋』本誌のほうに、落選したけど惜しかった候補作として、またも転載され、さらに大勢の人の手に行き渡ることに。

 作品は、掛け値なしに面白いです。スポットライトが当たって、ワーキャー騒がれるのも当然でしょう。しかしここからが、また北川さんのイイところなんです。直木賞・芥川賞同時候補だ、脚光が当たって注文も殺到だ、という局面を受けて、浮かれた考えへと傾かず、ずっとサラリーマン生活を続けたことです。

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2017年10月22日 (日)

『一座』…けっきょく無名作家で終わることを敢然と受け入れる、大人な同人たち。

『一座』

●刊行期間:昭和26年/1951年11月~昭和42年/1967年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※ただし第57回は別の同人誌に発表した作品

 直木賞史に出現した『一座』……というと、その主役は鬼頭恭而さんなんでしょうが、ハナシの順番からして、やはり同誌の主宰者のことから触れなきゃなりません。

 森田雄蔵さんです。明治43年/1910年東京生まれ、法政大学英文科を卒業後、岩手の釜石に行ったり満洲で暮らしたりと青年期の自由な生活を謳歌しながら、終戦を迎えた外蒙古で俘虜となり、昭和22年/1947年に帰国。九段の料亭「いちまつ」を経営するかたわらで、もとより文学に対する関心が高く、『一座』と題する同人雑誌を始めたころには、40歳を超えていました。

 これがまあ、当時『文學界』の同人雑誌評を受け持った山本健吉さんからは、ボロカスに言われまして、

「私が編集委員に加はつてゐる雑誌にも五十を越した社会人が何を発心したのか、暇と金が出来たせいか、小説を持込んでくるが、年だけは取つたがいつかう利口にならないと言つた俗臭の強い作品が多い。(引用者中略、注:『一座』創刊号のうち)一つ『蘇苔』(森田雄蔵)といふのを読んだが、案の定であつた。お妾小説で、所々性描写を交へ、年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさと、「手紙を、ふてくされて、投げ棄てると、畳の上に、気弱な短音となつて、醜く姿をさらした」といつた幼稚な文学青年的表現と混り合つてゐて滑稽でもある。

ジイドは「物を書かないといふ屈辱に堪へられないから書くのだ」といふ意味のことを言つたが、この人たちには「物を書くといふ屈辱」を教へた方がよささうである。」(『文學界』昭和27年/1952年2月号 山本健吉「同人雑誌評」より)

 と、360度どこから見ても、完全なるボロカス評です。

 山本健吉さんはこのとき40代半ば、同世代でしたから、オジさん世代はこんなふうに批判されてもさしてヘコまない、ということはわかっていたと思います。森田さんはまったくめげずに、ここからえんえんと、創作や同人雑誌運営に没入することになるわけです。

 捨てる神あればナントヤラで、昭和29年/1954年には、『一座』に発表した「はがゆい男」が芥川賞の候補に。昭和33年/1958年、やはり『一座』に書いた「岳父書簡撰」が、久保田正文さんの目にとまり、ちょうど久保田さんが日本文芸家協会『創作代表選集』の編集委員をしていたものですから、そこに推薦されたところ、同じく編集委員だった正宗白鳥さんも大絶賛、『読売新聞』で正宗さんに激賞されるという思いがけない展開に。

 昭和36年/1961年には、とにかくスキさえあれば人に推理小説を書かせようと目論んでいた江戸川乱歩さんから、とある短篇について、長篇に書き直したらいいと勧められ、森田さん悪戦苦闘、ようやく河出書房新社から『あたしが殺したのです』として上梓されると、森田さんの文芸ものを高く買っていた中島河太郎さんが、ぜひともどうぞと日本探偵作家クラブへの入会を承認。以来、同会の会員として名を連ねます。

 『一座』の刊行は徐々に、年一回出せればいいぐらいに減っていき、森田さんの主戦場は、師事していた木々高太郎さん主宰の『小説と詩と評論』に移行。昭和44年/1969年に木々さんが没すると、すでに還暦近い森田さんの、同人誌に賭ける熱烈さ、東京の真ん中で料亭を経営するところから湧き出る(?)経済力、仲間たちをまとめて事業を持続させる統括力、などもろもろの理由から、『小説と詩と評論』の中心人物へと押し上げられ、これを亡くなるまで守りぬきました。

 同人誌『藝文』代表の森下節さんも、この森田さんのオトナな人格(山本健吉さんに「年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさ」と言われた、例のアレ)には、敬服の言葉を送っています。

「同人はそれぞれが一家言を持った、一匹狼的個性の強い集団であってみれば、それを巧みにリードしながら運営して行かなければならない。へたをすれば忽ち空中分解する運命を、同人雑誌は宿命として持っている。あちら立てればこちら立たずという現実のはざ間に立って、大所帯を切り盛りしてゆくだけの能力がなければ、文学集団は永続しない。

森田雄蔵は作家としての地歩も確立したが、それと同時に人間としての人生の表裏にもたけた人物像を確立した。」(森下節・著『新・同人雑誌入門』「第三章 風土の下の地方文壇」より)

 それで、昭和50年/1975年に、数多くの同人誌・同人グループが集まってできた「全国同人雑誌作家協会」(現・全作家協会)の、初代理事長に推薦されることになり、のちには会長に就任。商業誌ではほとんど名前を見ないが、同人雑誌界ではいわゆるカオ、というまぎれもない同人雑誌史の偉人として、年を重ねても書くことはやめず、平成1年/1989年『小説と詩と評論』11月号に、自身の来歴や女遍歴などを織り交ぜた「虚妄」を発表。これを置き土産のようにして平成2年/1990年に死の床に就く、という同人誌作家の鑑のような終焉を迎えました。

 この「虚妄」のハイライト版、として『新潮45』平成2年/1990年2月号に掲載されたのが「文学八十年のなれの果て」。ついに文学賞をもらうことができなかった作家人生を、

「私の関係した同人誌の仲間は次々と直木賞とか芥川賞になった。ずっと後でプロ作家になった人たちを数えてみたら若い人をふくめて数十人はいた。いかに自分がおいてき堀=江戸の言葉=の人間であったかが判ったが、すべて後の祭りで、アンフェイマスオーサーという、英文学史の中の人間みたいになってしまった。」(『新潮45』平成2年/1990年2月号 森田雄蔵「文学八十年のなれの果て」より)

 と総括するに至っているんですが、そのアンフェイマスオーサー仲間、と言いますか、森田さんの小説などに「K」とか「K・K」とかの名でよく出てくる、東京都庁に勤める地方役人が鬼頭恭而さんです。なぜか芥川賞ではなく直木賞の候補に二度もなった、なんとも古風で骨太な小説を書く、森田さんに負けず劣らずの無名作家です。

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2017年10月15日 (日)

『讃岐文学』…地方文化振興に、文学賞も利用する同人雑誌界の偉人・永田敏之。

『讃岐文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年5月~平成14年/2002年12月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 新橋遊吉(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 昭和のころの同人雑誌を見ていると、ときどきぶつかる文章があります。

 ……同人の仲間から、たとえば芥川賞・直木賞の受賞者が出ると、とたんに人間関係がギクシャクしだし、休刊・廃刊・再編成される雑誌も多い。……

 たしかに芥川賞のほうでは、そうなのかもしれません。あんまり興味がないので、他の誰かに調べてほしいですけど、少なくとも直木賞に関しては、まずその風聞はデマです。知るかぎり、有馬頼義さんの受賞後に『文学生活』が新たな同人組織に変化した、という例があるくらいで、まあそもそも、同人誌を中心に書いていた人が受賞した例が、直木賞では少ない、ということもあるんでしょうが、仮にそういう人が受賞して華々しく商業ジャーナリズムに乗り出していっても、もといた同人誌が混乱、つぶれる、なんてことは、直木賞ではほとんどありません。

 『讃岐文学』もそうです。掲載作がそのまま直木賞受賞にまでつながった、数少ない同人誌として脚光を浴びながら、21世紀までコツコツと誌歴を重ね、四国の文学史に燦然とその名を残すことになりました。ポッと出の、同人だかどうだかもわからないぐらい怠け者だったヤツが、東京の文学賞をとったことに、嫉妬のあまり悔し涙を流す同人続出……となってもおかしくないところ、そうはならなかったのは、おそらく主宰者の器のデカさ、と言いますか、文学賞に対してうまく距離を取る主宰者がいたから、なんでしょう。おそらく。

 『讃岐文学』を主宰した永田敏之さんは昭和7年/1932年10月31日生まれ。平成15年/2003年2月23日に70歳でこの世を去りました。かたちや対象を変えながら日本にいまも綿々とつづく同人誌世界のなかで、この永田さんは、確実に偉人と言っていいと思います。とにかく身の入れかたが、ハンパじゃありません。

 まえにも紹介した昭和29年/1954年創設の大阪文学学校。永田さんはその第二期の修了生に当たります。そこを終えて、香川の高松に戻ったとき、文校在校中から胸にあたためていた同人雑誌をつくりたい、という希望をどうにかかたちにしました。昭和31年/1956年のことです。

 永田さん自身は、ほとんど創作らしい創作はせず、しかし文学に対する旺盛な情熱があふれ出て、評論や研究をもっぱらとし、仲間とともに文学を語らい、あるいは励ましたりしながら、年に1~2回のペースで『讃岐文学』を続刊。しかし、昭和35年/1960年に経営していた会社が倒産、翌年には妻と離婚、一時東京に住まいを移すことになって、以来少しのあいだ休刊しなければならないことに。

 なかなかつらい時期だったとは思うんですが、これが次なる展開を生み、永田&『讃岐文学』と直木賞とを結びつけていくのですから、不思議な縁です。創刊同人のひとり、永田さんとは高校時代の文芸部でいっしょだった亀山玲子さんという、こちらも相当に文学熱の高い女性がいて、永田さんから、しばらく『讃文』を出せないからその間、大阪の同人誌に参加してみたら? とすすめられたので『文学地帯』に参加。すると、そこで出会ったのが、病み上がりで何かほっとけない男、新橋遊吉さんだった、というところから二人は交際を深めて、結婚するにいたります。

 その後、永田さんが1年ほどのブランクを経て『讃文』を復活させると、亀山さんは『文学地帯』を抜けて『讃文』へ帰還。いっしょにダンナの新橋さんもくっついてくることになるんですが、亀山さんのほうがオール讀物新人賞の最終候補に残るぐらいには、実力ある書き手だったのに比べ、新橋さんはとくにそれまで小説を書いたことがなく、まあ、永田さんからしてみれば、有力同人といっしょになった、得体の知れないダンナ、ぐらいだったに違いありません。

 昭和39年/1964年、新橋・亀山夫妻に第一子が誕生したとの報を受けた永田さん、高松からわざわざお祝いに駆けつけます。ここで、「得体の知れないダンナ」とも一晩、文学を語り合うことになりまして、どうやらお互いに気が合ったらしく大いに盛り上がり、永田さんが「あんたも小説書いてみないか」と誘えば、新橋さん、「よーし、いっちょ大作書いてやりますか」と応じる、楽しい酒の一場面が繰り広げられたそうです。

 酒のうえでのハナシかと思っていたら、ここが『讃文』発行に賭ける永田さんの情熱だと思いますが、高松に帰ってからも、毎週のように新橋さんに手紙を送り、また電話もかけるなどして、催促を切らしません。毎日、町工場で旋盤工の仕事をしていた新橋さんは、その永田さんの思いを受けて気合いが入り、仕事から帰ってきては夜な夜な、小説を書きつづけて、原稿用紙100枚強、だいたい10日間ほどで完成させました。

「今度の受賞に関する限り、はっきり断言出来るのは、「讃岐文学」の主宰者である永田敏之氏の暖たかい理解と協力なくしては、実現しなかったことであろう。(引用者中略)

他の同人雑誌の主宰者なら、おそらくあの「八百長」という作品を掲載してはくれなかったであろう。(引用者中略)私も熱意を以って書き上げた「八百長」を讃岐文学以外に載せたくはなかったし、兄貴分の永田氏だからこそ安心して託したのである。」(『讃岐文学』14号[昭和41年/1966年5月] 新橋遊吉「直木賞を受けて」より)

 と、新橋さんが書いているのは、『讃文』に寄稿する受賞エッセイだからそのくらいのリップサービスはしますよね、というのをさっぴいても、しかし苦しい私生活を経てもなおこの雑誌だけは刊行しつづけようと努力する永田さんの、熱心さに打たれた新橋さんが、正直な思いを吐露したひとつかと思います。

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2017年10月 8日 (日)

『外語文学』…直木賞なんてものは、酒のサカナにしかならない、とわかっている同人たち。

『外語文学』

●刊行期間:昭和40年/1965年6月~平成1年/1989年11月(34年)

●直木賞との主な関わり

  • 三樹青生(候補1回 第64回:昭和45年/1970年下半期)
  • 小山史夫(候補1回 第67回:昭和47年/1972年上半期)

 昭和40年代、全国に同人誌は何百とありました。そこの掲載作が直木賞の候補に選ばれるのは、よほどのことと言っていいでしょうけど、さらに一つの同人誌から違う二人の作品が、予選を通過するのは、これは並の「よほど」を上まわるハイレベルな「よほど」のことで、しかしそれを成し遂げてなお、全貌のよくつかめない雑誌が『外語文学』です。

 全貌がつかめない、などと言いながら、大して調査を進めてこなかった怠惰なおのれを呪うしかありませんが、以前、『外語文学』の三樹青生さんのことを取り上げたことがあり、もうほとんど、そのときのネタを使い回して終わりそうな気がします。なので、「直木賞史に登場する同人誌」のことを知るにはもってこいの(はずの)、『文學界』同人雑誌評を、まずは利用させてもらうことにします。

 『外語文学』は昭和40年/1965年に創刊、中心的な同人のひとり、評論家の原田統吉さんが亡くなって、その追悼的な文章をおさめた第21号(平成1年/1989年11月)まで確認できています。21冊、というのはけっして多い号数じゃありませんが、同人雑誌評、各月のベストファイブに掲載作が選ばれること6度。うち1度は、同人雑誌推薦作として『文學界』への転載を果たすという、かなりの好成績です。

 とくに、「首」(創刊号)と「股嚢(ルビ:またぶくろ)」(6号)の2度、ベストファイブに挙げられたほか、いくつかの機会に雑誌評で触れられたのが森葉児さん。ん? 何となくこの名前、見たことがあるな、と思ったら、始まったころのオール讀物新人賞(当時はオール新人杯)に何度か最終候補にのぼり、第4回(昭和29年/1954年)で佳作、第8回(昭和31年/1956年)で寺内大吉さんといっしょに受賞をした方だそうです。

 『経済往来』昭和45年/1970年6月号に載っている略歴によれば、大正7年/1918年生まれ、本籍は福島県いわき市、大阪外語大学フランス語部卒業、本名、高木敏夫。……ということで、大阪外語大出身であるところから、『外語文学』に参加した模様なんですが、それこそ寺内大吉さんといえば、オール新人杯をとったあとに、同人誌をつくり、商業誌じゃなくそっちに書いた小説で直木賞を受賞してしまった人でもあります。そういうかたちでの、直木賞との関わり方も、そこまで珍しい路線ではなかったんでしょう。

 じっさい、森さんの小説が直木賞の候補になる可能性だって、なくはなかったと思います。なかでも「股嚢」は、評者の小松伸六さんから、

「大型新人の作品といえそうである。その博識と反語精神は花田清輝、大才ぶりは初期の司馬遼太郎をおもわすが、この作品は、コロンブスの巨根伝説にからめて、イスパニア王室のアメリカ探検を風刺しているような異色作なので、私にはちょっと鑑定しかねるところがある。コロンブス=ユダヤ人説、ドン・キホーテのモデルはコロンブス、股嚢の風俗史考と巨根伝説など、エッセイとしておもしろい。」(『文學界』昭和45年/1970年2月号 小松伸六「同人雑誌評 学園紛争のあとから」より)

 と、おそらく賛辞かと思われる評がつき、たしかに面白そうな作品だな、と思われるんですけど、なかなか手軽に読める状況でもないので、残念ながらワタクシは未読です。直木賞の候補になっていればなあ、どうであっても優先して読んだだろうに、と考えるとこのまま見過ごすのも癪なので、どうにかして読んでみたいと思います。

 それで現実に、『外語文学』から出た最初の直木賞候補作は、森葉児さんをさしおいて、次の第7号に載った三樹青生さん「終曲」でした。

 こちらもやはり、その月のベストファイブにすんなり入るほどの大好評作。たいていの作品に厳しい評を連ねる駒田信二さんが、これは相当に褒めちぎります。

「今月、私が最も感銘を受けた作品は、『外語文学』(七号・東京)の三樹青生の「終曲」であった。(引用者中略)四〇〇枚になんなんとする長い話を一気に読ませるこの作者の、ストーリー・テラーとしての力量には瞠目すべきものがある。傲慢で奔放な天才的なピアニストの、これはなれの果ての物語ともいえなくはないが、そこに作者が一種の共鳴音を響かせていることが、この作品の最もすぐれている点であろう。その共鳴音を読者が聞くことのできることが。」(『文學界』昭和45年/1970年11月号 駒田信二「同人雑誌評 現代の憂欝と孤独」より)

 これはその後に直木賞の候補にまで残り、単行本が古本屋で容易に入手できたので、ワタクシも読みました。おっしゃるとおりのサスペンスフル、あるいは読みやすさが光り、音楽家を志望しながら、でもなり切れなかった語り手の、天才ピアニストに対する複雑な心理が揺れ動くさまに、ゾワゾワさせられます。

 候補になるぐらいなので、べつにこれが直木賞をとってもよかったと思いますが、この回は、武田八洲満「紀伊国屋文左衛門」もあれば、豊田穣『長良川』、梅本育子『時雨のあと』、あるいは広瀬正『マイナス・ゼロ』と、同人誌に載ったものが注目されて本になったという、同人誌上がりの作品が、バラエティ豊かに並んでいて、そのうち最も重厚で、古風なナリをした『長良川』に、いちばん票が集まったというのは、「昔ながら」のものに共感を示す直木賞っぽい展開で、それはそれで、べつに文句を言う気はありません。

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