2019年2月17日 (日)

昭和52年/1977年・改造ライフル銃が自宅から見つかり、現行犯逮捕された小嵐九八郎。

最高裁判所裏庭に先月三十日、火炎びん二十本が投げ込まれた事件を調べている警視庁公安部は二十九日、神奈川県川崎市内の内ゲバ三派の一つ「革労協(社青同解放派)」の幹部アパートを捜索したところ、実弾入りモデル小銃一丁を見つけた。

(引用者中略)

同裁判所火炎びん事件に関連して、火炎びん使用処罰法などの疑いで家宅捜索を受けたのは、川崎市川崎区(引用者中略)革労協総務委員、元早大生工藤永人(三三)。工藤のアパートを捜索していたところ、鉄パイプ六本とともにコタツのわきから、バスタオルでくるんだモデル小銃一丁が見つかった。このため公安部は、工藤を銃刀法違反の現行犯で逮捕した。

――『朝日新聞』昭和52年/1977年11月30日「革労協幹部宅から改造銃 手製銃身で殺傷力 川崎のアパート 実弾をセット」より

 昭和19年/1944年生まれの小嵐九八郎さんが、多感すぎる10代を通りすぎ、晴れて(?)20歳となったのは昭和39年/1964年のことでした。通っていたのは、学生運動の渦中にあった早稲田大学。最初のころはサークルをいくつも渡り歩くノンポリ学生でしたが、大学二年生も終わりに差しかかった昭和41年/1966年、いかなるきっかけがあったか、学費値上げや学生会館の管理運営権をめぐる闘争に参加したところから、過激派と呼ばれる革命的労働者協会(社青同解放派)の一員に。そこから1980年代なかばの40歳すぎまで、愛する妻と子供たちに負担を強いながら、いわゆる〈活動家〉として、あるいは〈職業革命家〉としての生活を送ります。

 小嵐さんに『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(平成15年/2003年4月・講談社刊)という一冊があります。1960年代から70年代、少しズレて80年代ごろに新左翼の世界に生きた人たちのなかから、志なかばで斃れた人、自ら死を選んだ人などのことを、小嵐さんの20年近くに及ぶその実体験を通して描いていますが、「さまざまな過去のまつわりついて離れないことが今の私と新左翼にはあって、伸び伸び、自由、奔放に書けないわけがあり、」(「あとがき 死して、死せざる日日に」)とも書いてあって、とくに小嵐さん自身が何を考え、どうやって生きていたのか、系統立って明かされているわけではありません。そのなかでも「ぶきっちょな解放派のごり」と題された第十七章・第十八章は、社青同解放派の中原一(本名・笠原正義)さんが中心になった章ですが、「正直中の正直をいうと、この章を書きたくて、わたしゃ、物書きになった。」と、本音なのか照れ隠しなのかわからないようなことをポロッと吐露しているだけあって、やはり小嵐さんにとっては影響されるところの大きかった人らしく、他の章にも増して気合と情熱のこもった内容になっています。

 ということで、小嵐さんがある時期、身を捧げた革命的労働者協会=革労協とは何なのか。そこに触れないわけにはいきませんが、これがまた、どういう歴史的経緯で発生して、どことどこがつながって、何がどう争ったのか、専門の研究家や専門書は山ほどあり、とうてい追いきれません。それを言ったら直木賞というものをとりまく小説の世界だって、何だかわかったような顔をして解説する人は後を絶ちませんが、けっきょく直木賞がどんな賞でどういう小説を選ぼうとしてきたのか、支流や沼地がたくさんあって、全体としては正直よくわかりません。追いきれない、ということだけを確認して、強引にまとめてみます。

 昭和35年/1960年、いまはなき日本社会党が青年組織としてつくった日本社会主義青年同盟=社青同というものがありました。人が集団としてまとまれば、意見の合うやつ合わないやつ、派閥めいたものができるのが世の習いです。具体的に何が直接の火種になったのか、もはや数々の争点がありすぎてよくわかりませんが、はじめに主導権を握っていた構造改革派が、協会派や解放派などのセクトから強烈な攻撃を受けて影響力をなくすと、今度は協会派と解放派がずいぶんとやり合うことになります。

 組織のなかでは協会派のほうが上手に立ちまわったそうですが、過激な行動力を秘めた解放派のほうは昭和40年/1965年に「解放派結成宣言」を出して元気に社会を攪乱、学生運動などにも積極的に手を伸ばすなど、なかなか勢力を拡大していきます。さすがにこいつらヤバいな、と社会党や社青同の中央機構側では眉をひそめるなか、解放派は昭和44年/1969年に革命的労働者協会を名乗り出し、成田闘争や狭山闘争にあっては、トイレに爆弾をしかけるは、ダンプカーを炎上させるは、高裁判事を襲うはと暴れまくり、中核、革マルの過激派二派と並び称される、マジでヤバい団体へと育っていった、ということです。

 その社青同解放派から、革労協と名乗りはじめる頃には、すでに小嵐さんはずっぷりと革命を目指す立派な戦士になっていて、昭和42年/1967年からは、ことあるごとに逮捕、逮捕、逮捕の連続。一つひとつの罪状や逮捕理由は調べ切れていませんが、昭和44年/1969年10月「国際反戦デー」に参加して、公務執行妨害、凶器準備集合罪の疑いでお縄にかかったことは判明しています。

 これと『蜂起には至らず』の記述とつなげてみると、その直後の11月に大菩薩峠で起きた赤軍派の検挙や、翌昭和45年/1970年11月の三島由紀夫さん自刃の時期には、未決囚として中野刑務所に拘置されていたそうです。昭和47年/1972年2月、連合赤軍浅間山荘事件のときには保釈中、その様子をテレビを観てはがんばれがんばれと、連合赤軍のほうに声援を送っていた、との回想もあります。

 けっきょくは最終的に、往年の左翼小僧、菊岡久利さんのようなかたちで出たり入ったりを繰り返し、逮捕歴は10回か11回かそのくらいを数えたと言うのですが、報道によればその8回目の逮捕に当たるのが、冒頭に引用した一件になります。被差別部落出身の男性が、女子高生に対する強盗強姦ほかの罪に問われて起訴された狭山事件。昭和52年/1977年、被告側の上告が棄却され、二審でくだされた無期懲役が確定しましたが、そのことを不当と訴える革労協は、10月30日、高速道路から最高裁の裏庭に火炎びん20本を投擲します。その捜査に当たった警視庁公安部が、11月29日、川崎市に住む革労協幹部の小嵐さんの家を捜索したところ、改造したライフル銃を所持していたことが見つかり、銃刀法違反の罪で現行犯逮捕されたものです。各紙を通じて、小嵐さんのことが顔写真付きで大きく取り上げられ、明るく前向きだったとばかりは言えない時代の、物騒な雰囲気を紙面に残しています。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月10日 (日)

昭和61年/1986年・結婚を断られた女性に嫌がらせの電話をかけつづけて有罪になった川本旗子=一條諦輔。

付き合っていた兵庫県内の有名私立大助教授の女性に結婚を断られ、交際も断たれた腹いせに百回以上も電話で嫌がらせを続けていた元直木賞候補作家の一條諦輔(四一)(引用者中略)が十八日、神戸地裁から脅迫罪で起訴された。一條は直木賞の候補にのぼった前後、文芸春秋、講談社などから単行本を数冊出しているが、最近はこれといった作品もなく人気も下降線だった。

(引用者中略)

一條は先月二十九日、同地検に逮捕され、拘留中。今回の事件とは別に、別れ話のこじれから五十九年にA子さんの父親をなぐり、傷害罪に問われ、同年十一月、東京地裁で懲役一年六月(執行猶予四年)の判決を受けている。

――『毎日新聞』昭和61年/1986年8月19日「直木賞候補作家が脅迫 フラれて腹いせ電話100回」より

 直木賞の場合、受賞してから消える作家はほとんどいません。しかし、候補に挙がった程度のことでは、何かの切符を手にしたわけでもなく、その後消えてしまう人はけっこういます。なかには、消える原因の大きな一端が犯罪事件だった、という人までいます。

 その代表格に挙げられるのが、第87回(昭和57年/1982年上半期)で候補になった川本旗子さんです。

 名前は女性のように見えますが、これは当時『オール讀物』にスチュワーデス物の連作が書かれたときに使われた名前で、本人はれっきとした男性です。元の本名は庄子亜郎(つぐお)さん、一般には〈一條諦輔〉という名で知られています。いや、知られていました。

 写真でみるかぎり麻原彰晃を彷彿させるひげを生やしたポッチャリ型、というような見た目は措いておくとしても、自身の語る履歴や挙動、振る舞いが、もう胡散くさいを地で行くようなイカガワしさに満ちあふれています。渋谷の一角に事務所を構え、二、三人の女性秘書を雇い、事務所には自慢のギターコレクションのほかに、彫刻、宝石などが飾られていたそうで、世界各国ほとんどを旅したと豪語、25歳のときから7年間、ロンドンに住んでいたころは、数多くの芸術家と交流があったのだとか何だとか。作詞作曲をこなし、〈Mr.George〉というブランドをもつファッションデザイナーとしての顔を持ちながら、小説を書く、80年代の言葉でいうところの「マルチな人」という感じでいくつかの記事に取り上げられましたが、この取り上げられ方が、はっきりいって胡散くさいです。80年代という時代が一面で持っていた胡散くささ、と言ってもいいです。

 それはともかく、一條さんが音楽の世界から出てきたことは間違いありません。仙台一高に通っていたころにギターにハマり、卒業後に上京してギタリストとして歩み始めますが、やがてギターづくりの修行のために渡欧。結局、ギターを中心とした輸入業者となって帰国しますが、とにかく自分を大きく見せて吹きに吹きまくっているうちに事態が好転したらしく、ブティックを始め、音楽プロデュースの道を渡り歩き、そこでたくさんの曲をつくるうちに、今度は小説にも手を伸ばして、『面白半分』に投稿した「ロンドン・ロンド」が〈一條諦輔〉の名で掲載されたのが昭和54年/1979年のこと。さらにこの年には『野性時代』に「ダーティー・ジョーク」が掲載されると、勢いに乗って〈森道郎〉の名で中央公論新人賞に投じた「耳」が翌年昭和55年/1980年度の最終候補にまで残り、徐々にそちらのほうでの活動を増やしていきます。

 『小説現代』に小説を書き、それらをまとめた『シンプル・ペイン』(講談社刊)が昭和56年/1981年9月に刊行され、いよいよ一條さん単行本デビューを果たしたのが36歳のときです。イケイケというか、乗りに乗った一條さんはそこからも攻勢ゆるめず、文芸誌界に進出していくのですが、好事魔多し、じつはこのとき、やがて訪れる犯罪の種が撒かれていた、ということになります。この本の出版記念会を開いたときに、秘書の知人ということで出席していた、当時東京の大学で助教授をしていた女性と知り合い、深い仲になり、関係をもったことが、事件への扉を開けてしまいました。

 その後、一條さんは、川本旗子というスチュワーデスを語り手にした「翔んで翔んで」(フライト・オン・フライト)を『オール讀物』に発表、セックスにあけすけな若い女性の生態を、イマドキな語り口で書いたところに編集部が食いついたものか、直木賞の候補にまで選ばれます。同誌では、一條名義で「この世の外なら何処へでも」というやはりセックスを題材にとりいれた小説を書いたりして、一応新進作家として注目を浴びるにいたりますが、どうも調子に乗りすぎたのか、傲慢な性格が表に出たものか、編集者の評判はかなり悪かった、と伝えられています。

「「一條は人間としてホントに下司(ルビ:げす)な奴ですよ。自分の思い通りにならないと、すぐに暴れたりする。つまり、幼児性と狂暴性があるんですよ。編集者はずいぶんイヤな目に遭っています。例えば、今回、あなたの作品は見送らせて頂きますなどと言うと、夜中から明け方までずっと、“ぶっ殺すぞ”“テメエのガキの顔に硫酸ぶっかけるぞ”などと脅迫電話をかけて来たりする。ヤクザ同様の手口で、実際、パンチパーマのそれ風の男を連れて編集者の家に押しかけたこともあるんですよ」(某編集者)」(『週刊新潮』昭和61年/1986年9月4日号「「直木賞候補」にバラ撒かれた女の助教授「大醜体」」より)

 売れている作家ならともかく、まだ駆け出しの、一回変名で直木賞の候補になったぐらいの作家に、そんな態度をとられたら、編集者だって付き合いきれなくなるのはよくわかります。一條さん、やりすぎです。

 そして直木賞の候補となってからわずか2年後、『この世の外なら何処へでも』が文藝春秋から発売された昭和59年/1984年、ついに一條さんが私生活でやらかしてしまいます。

 先に触れた、出版記念会で知り合った大学教師の女性との関係がうまくいかず、昭和59年/1984年4月、一條さんは無理やり彼女のマンションのベランダから部屋に侵入、たまたま上京していた彼女の父親と争ったすえに殴りつける、という暴行事件を起こします。また、このとき一條さんは、あいだに子供を二人もうけた妻がいて、こちらからも別れ話を切り出されていました。どうやら話がこじれたのか、妻の関係者にも暴力をふるった。ということで、二つの事件によって、同年11月、懲役1年6月(執行猶予4年)という有罪判決がくだされます。妻だった女性とは、その月に離婚したそうです。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 3日 (日)

平成15年/2003年・大麻取締法違反で有罪判決を受けた中島らも。

大麻を所持したとして大麻取締法違反の罪に問われた作家の中島らも=本名・中島裕之(ゆうし)=被告(51)に対し、大阪地裁は26日、懲役10月、執行猶予3年(求刑・懲役10月)の有罪判決を言い渡した。

(引用者中略)

判決言い渡し後、西田裁判官は「再び執筆活動に期待している読者の存在を忘れないように」と諭した。中島被告は兵庫県出身。92年に小説「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。直木賞候補にも3回なった。

――『毎日新聞』平成15年/2003年5月26日夕刊「大麻所持で作家・中島らも被告に猶予判決 「読者の存在、忘れぬよう」」より

 直木賞の長い歴史を通じても、中島らもさんという候補者はその作品の味わい、発言、行動などの面白さがあまりに際立っていて、直木賞ゴシップしか書かないうちのようなブログにとっても、まず無視できない存在です。これまで何度も触れてきて、いまさら追加する直木賞の話題はないんですが、違法と適法のあいだを自由に泳ぐ中島さんが、とりあえず何度か直木賞とからんでくれた現実に喜び震えながら、懲りずに犯罪事件のことを取り上げます。

 といいながら、犯罪よりも先に文学賞の話から始めますと、世のなかには、直木賞よりも数倍、いや数十倍スゴい、と一部で言われている吉川英治文学新人賞という文学賞があります。平成4年/1992年、『今夜、すべてのバーで』でこの賞を受賞しているのですから、中島さんのスゴさもよくわかりますが、アル中の男の放埓というか真摯というか、性懲りもない可愛げのある姿をあますところなく描いたこの作品に、文学の賞を贈ってしまおうと判断した吉川新人賞はやっぱり、直木賞などとは比較にならないくらいに偉大です。

 直木賞のほうは、第106回(平成3年/1991年・下半期)から第112回(平成6年/1994年・下半期)までの3年間で、3度中島さんを候補に残しましたが、結局賞を贈ることはありませんでした。しかし、それでもこの日本は「本屋には直木賞をとった人の小説しか並ばない」などという不自由な社会ではなかったので、ひきつづきパンクで優しい中島作品が次から次へと誕生し、またたく間に小説家としても一家を成します。

 仮にあそこで直木賞をとっていたとしても、文壇の中心になったりはせず、中島さんのスタンスはさほど変わらなかっただろう――という夢枕獏さんの言葉を、以前も引用したような記憶があります。たしかに中島さんが変わるイメージは沸きませんし、大麻を所持して逮捕される未来も、そのままだった可能性はあります。ただ、直木賞によって変わるのは、それを取り巻く読者を含めた一般の人たちのほうだ、というのは過去にいくらでも例があり、この場合、本人のスタンスはあまり関係ないかもしれません。直木賞の受賞者が大麻で捕まったとなれば、それはそれは、騒ぎも確実に各方面に飛び火したでしょう、そういう場面を見ることができなかったのは残念です。

 ともかくも、社会ルールをきまじめに守る品行方正な作家像とは、まったく相容れることなく、そこから人間のおかしみと哀しみをあぶり出す中島さんの作品は、それだけでこの世界に存在する価値のあるものばかりですが、麻薬と呼ばれるもののなかでも、大麻は人間に害などない、禁止するのではなく逆にもっと保護すべきだ、と考える人は日本にも少なからずいて、そういう人から大麻を入手した中島さんは、精神的に追い詰められたり、つらくなったときなどに吸引していたそうです。睡眠薬中毒から、ブロン中毒、アルコール中毒、そして躁鬱病の持ち主と、こういうなかで生きていることも、中島さんのひとつの個性でした。

 それが当局にタレコまれたか、厚生労働省近畿厚生局の麻薬取締部に知られるところとなり、平成15年/2003年2月4日、いきなり家宅捜索の襲撃を受け、自宅にあった乾燥大麻や〈マジックマッシュルーム〉を押収され、現行犯逮捕されます。話によれば、21歳のころには自身で大麻を大量に栽培し、周囲に分け与えたりしていたそうですが、押収された大麻類を使用しはじめたのは逮捕される前年の平成14年/2002年10月ごろから。日本以外の、大麻が合法化されている国で吸引したその経験が忘れられず、また創作に行き詰まった心の苦しみを埋めるために手を出したのだ、と罪状の多くを認めています。

 法律は法律、たしかにそこは守らなければならない。だけど、そんなにいきり立って大麻を取り締まるのが、ほんとうの正義なのだろうか。……と、思わせてしまうところが中島さんの底知れなさです。

 勾留中から躁の症状を見せては、留置所のなかで苦笑、微笑、混乱を巻き起こし、保釈されてマスコミに取り囲まれたときにも、「驚くほどのハイテンション」(『日刊スポーツ』平成15年/2003年2月26日)と言われるほど手がつけられず、記者陣をけむに巻く一大会見をやってのけます

 熟慮や熟考などくそくらえ。とばかりに、『牢屋でやせるダイエット』(平成15年/2003年8月・青春出版社刊)というタイトルの書き下ろしを、ものの数か月で仕上げてしまうスピーディーな筆の乗りにも、ハイテンションの一端は現われていると思いますが、「前科がついた」事件からのアゲの展開は、とどまるところを知りません。

 あまりに躁がひどくなって保釈後まもなく大阪市立総合医療センターに入院、初公判の4月14日、大阪地裁に病院から出向くことになった中島さんは、投薬の影響で最初は口が重かったそうですが、しかし徐々にしゃべりたがりの性格が顔をのぞかせ、大麻解放論を語り出し、弁護人から注意されたりした、とも言います。とうてい懲りていたとは思えない振る舞いですが、5月26日にくだされた判決では、これからの執筆に再起をかける意欲が強く反省の情もある、と認められて、懲役10月に執行猶予3年がつきました。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月27日 (日)

昭和48年/1973年・盗用したと断定する記事を書いた朝日新聞に対し、訴えを起こした山崎豊子。

作家の山崎豊子さんは一日午後、朝日新聞社(広岡知男代表取締役)を相手どり「朝日新聞が十月二十一日付朝刊で、サンデー毎日連載“不毛地帯”中に無名作家の作品から盗用と報ぜられたのは事実ではない」と民放七二三条に基づき謝罪広告掲載を求める名誉回復請求訴訟を大阪地裁に起こした。創作における資料引用をめぐって争われる珍しい裁判となりそう。

(引用者中略)

また、山崎さんは同日大阪法務局人権擁護課に朝日新聞の行為は人権侵害だとして文書で訴えた。

――『毎日新聞』昭和48年/1973年11月2日「山崎さん、朝日新聞を訴え 「不毛地帯」問題」より

 小説は作品だけで判断せよ。という一見まともで正しそうな考え方があります。

 一見ではなく、ほんとうに正しいのかもしれませんが、残念ながら現実の人間たちにとっては、まず実現するのが不可能な、ファンタジックな理想論です。小説を作品単体で読むことに、なにがしかの価値がある、と信じる人は、この夢を追いかけるのも無駄ではないと思います。とくに止めません。ただ、作品の書かれるにいたった事情とか、作者の立場とか、歴史的経緯における作品の位置づけとか、もっと話を広げてその作品が関係者、第三者、読者、読んでもいない野次馬たちにどのような影響を与えたのか、そういう背景というか枝葉というか、こぼれた話題まで含めて小説に接するほうが、明らかに面白いです。

 さて、ここに山崎豊子さんという有名な直木賞受賞者がいます。デビュー作の『暖簾』(昭和32年/1957年)以来、山ほどたくさんの作品が残されていて、作品にまつわる何の知識もなく読んでも十分に楽しめるものばかりだとは思いますが、これもまた残念なことに、山崎豊子という人間のもつ面白さが尋常ではなかったために、作品の内容とは直接的な関係のない数多くのトラブルやいざこざがジャーナリズムを賑わせました。

 その最も代表的なひとつが、他人の著作物の一部を、自分なりの表現に書き換えて使用する、という執筆作法です。作品全体をパクったりしているわけではないので「盗作」とは呼びづらいですが、作品の部分的な「盗用」とは言えると思います。

 盗用するのは悪いやつだ。とくに作家を名乗って、その原稿でお金を稼いでいる立場の人間が盗用するのは言語道断、無条件で悪い。という倫理観が、現代の日本にはあるようです。その盗用行為に犯罪を構成する要素が認められ、最終的に法の下で処罰されるに至るまでには高い壁があり、ほとんど犯罪事件になった例はありませんが、倫理的に許せないと思っている人が一定数いるために、盗用というのはしばしばニュース性を帯びることになります。

 山崎さんが最初に問題視された昭和43年/1968年『花紋』における盗用行為の展開などは、まさしくそのひとつでした。『婦人公論』に連載中だった「花紋」のなかで、主人公がパリで外国の記者に出会う場面に、レマルク作・山西英一訳『凱旋門』のなかの一部と似すぎている箇所がある、と読者からの投稿別名チクリがあり、他に芹沢光治良『巴里夫人』や中河与一『天の夕顔』などからも、まるでそのままと言っていいほど酷似した引き写しがある、と指摘されます。違法性があるとかないとか、それとは関わりなく、山崎さん本人もこれは作家としてやってはいけないことをしてしまった、と自らの非を認め、日本文芸家協会から退会。「山崎氏が今後筆を断つことが望ましい」「文壇的生命は一応終ったと考えられる」という協会側からのコメントまでもが新聞にも掲載され、作家的な、あるいは一般的な通念に照らして悪いことをしたので大きく取り上げられ、社会集団のなかで裁かれた、というところで終わりました。

 退会から1年半ほどで復帰を認められ、ふたたび山崎さんは表舞台で活躍しはじめますが、それからわずか3年ほど、今度は『サンデー毎日』で連載中の「不毛地帯」で発生した盗用の話が、またまた全国紙で取り上げられることになったとき、いよいよ告訴、裁判へと発展することになります。

 ここで注目しなければいけないのは、告訴したのが、盗用された『シベリヤの歌 一兵士の捕虜記』の著者、今井源治(いまい・げんじ)さんの側ではなかった点です。昭和48年/1973年11月1日、大阪地裁に訴えを起こした原告は山崎豊子さんのほうでした。訴えられた被告は、朝日新聞社です。

 たしかに山崎さんが今井さんの著作を参照にしたことは間違いなく、取材と称するかたちで面会もしていたのですが、どうやら山崎さん側の不手際で、今井さんの著作からどのように「不毛地帯」のなかに表現を使用するか了解をとりつけないまま、雑誌に載ってしまい、そのことで両者、お詫びの文章を出すことで事を収められないかと協議していたところ、『朝日新聞』が昭和48年/1978年10月21日に「山崎豊子さん、また盗用」の大きな見出しでスッパ抜いてしまいました。これに対して山崎さんが、名誉回復を請求し、謝罪広告を載せることを求めて訴えたのが、「不毛地帯」裁判です。

 はっきり言って、ねじれています。盗用したことが罪だ、いやそうじゃない、ということを争う裁判ではなかったからです。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月20日 (日)

昭和46年/1971年・沖縄ゼネストの警備警官殺害事件で逮捕された佐木隆三。

【那覇支局十八日発】昨年十一月の「11・10沖縄ゼネスト」の際、警備中の山川松三警部(四八)が過激派集団に火炎ビンで襲われ死亡した事件で、琉球警察本部は十八日、作家の佐木隆三こと小先良三(三四)(引用者中略)、沖縄反戦委事務局長佐久本清こと租慶政一(三一)ら六人を凶器準備集合罪、公務執行妨害などの容疑で逮捕した。これで、同事件の逮捕者は計二十人となった。

――『読売新聞』昭和47年/1972年1月18日夕刊「沖縄の作家逮捕 11・10警官殺しに関連?」より

 先日決まった第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞。今回もまた、いわゆるいくつかの「犯罪事件」を描いた小説が受賞しました。

 とくにここでは、その受賞作に触れるつもりはありませんけど、沖縄と直木賞、そして犯罪事件。……この3つの要素を組み合わせたとき、どうしても真っ先に取り上げたくなる人物がいます。佐木隆三さんです。

 佐木さんの場合、何という肩書きが適切なんでしょうか。昭和39年/1964年、27歳のときに八幡製鉄所を辞めて以来、昭和51年/1976年に直木賞を受賞するまでのあいだにも、生み出す対象は小説に限らず、ノンフィクション、ルポ、評論、その他雑文も含めてさまざまなものを書いては原稿収入を得る、フリーライター、もしくは売文業だった、と言われています。

 そのなかでも佐木さんの関心テーマのひとつに、政治状況と人びと、というものがありました。60年代後半、数々の政治的テーマのなかで佐木さんが興味をもったのが、日本に返還されるかされないか、という間際にあった琉球・沖縄のことです。主席公選の様子をルポするという仕事で、昭和43年/1968年秋にはじめて沖縄を訪れますが、政治に関する話題、反戦運動はもちろんのこと、娼婦たちの生態や生活にひときわ好奇心をかき立てられ、琉球の現状を伝える態の原稿をたくさん書くようになります。そのうち、生活の拠点を現地に移して、本腰を入れて仕事をしたいと考えるようになって、コザ市仲宗根に転居したのが、昭和46年/1971年5月のことです。

 沖縄で知り合った石垣島出身の女性と、いい仲になり、再婚したのが昭和46年/1971年10月。長女のふき子さんが生まれたのが昭和47年/1972年9月で、いずれも佐木さんが沖縄で生活を送っていたころのことです。仕事だけじゃなく人生の重大な局面に、沖縄の土地とその風土、出来事が大きくからんでくることになります。

 とくに、のちの直木賞受賞にも関わることになるのが、昭和46年/1971年11月10日、沖縄各地で展開された沖縄完全復帰要求ゼネストおよびこれに関する集会でした。

 この日、那覇市の与儀公園で開催された「沖縄返還協定の批准に反対し完全復帰を要求する県民総決起大会」では、数万人と言われる参加者が、浦添市のアメリカ国民政府庁舎までデモ行進を実施。そこで警備に当たっていた琉球警察警備部隊の山川松三さんが、数名の人間から狙われて、角材などを使って殴りつけられ、足蹴にされ、火炎びんを投げつけられ、はっきり「暴行」と呼ぶほかない攻撃を食らった末に、殺されてしまいます。殺人事件です。

 沖縄返還をこのまま進めたい政府権力にとって、協定の批准に反対する勢力は邪魔ものです。しかも警官がひとり殺されているのですから黙って見過ごせるはずもなく、11月16日、実行に加担した過激派幹部のひとり、と目されて松永優さんが逮捕されます。しかしこれが調べてみると、染色工芸の「紅型」を研究するために沖縄を訪れていた松永さんが、たまたま現場に居合わせた、というぐらいの事実しかないのに、殺人犯にでっち上げた、という杜撰な捜査だったらしく、那覇地裁での第一審(昭和49年/1974年10月7日)では傷害致死罪で懲役1年執行猶予2年の判決がくだされたものの、福岡高裁那覇支部の第二審(昭和51年/1976年4月5日)はこれを完全に覆して無罪判決。その後、松永さんは国を相手どり、そもそも検察官による公訴の提起・追行が違法なものだったと主張して、損害賠償の支払いと謝罪広告を求める民事裁判を起こします。

 松永さんが疑われた要因のひとつに挙げられているのが、平野富久さんが撮影したという現場の写真です。昭和46年/1971年11月11日『読売新聞』一面に載っています。被害者が暴行されている状況の一瞬を切り取ったもので、そこに実行犯たちが写っている!……ということなんですが、静止画一葉だけでは、当然だれが何をしているのかはわからず、解釈次第でどうとでも言えてしまいます。最終的に、こんなものに証拠能力はないと判断されて松永さんの嫌疑も晴れるのですが、ゼネストに伴うデモ隊決起の様子は、他にいくつも写真が撮られていて、そのなかに写っていた佐木さんのもとにもまた、警察が乗り込んできます。

 昭和47年/1972年1月18日朝7時すぎ、突然、佐木さんの家に琉球警察の刑事たちがやってきて、有無を言わせず逮捕されてしまったのです。

 そのときの状況から留置所暮らし、釈放されるまでの体験は、佐木さん自身が『新日本文学』昭和47年/1972年6月号、7月号、9月号にわたって「あなたにも迎えがくる」(6月号のみ「あなたにも迎えが来る」)で克明に記録しています。取材活動をおこなっていただけの佐木さんを、交番を襲撃し、警備隊と衝突し、自動車整備工場に対して火炎びんを投擲したグループの、実行犯のひとりだと言って逮捕した。普天間署の留置場に12日にわたって拘留した。……ということだそうです。自分がやってもいないことを、やっていると間違えられ、行動の自由を奪われ、それが新聞に報じられたことで、知り合いや親類縁者によけいな心配をかけ、40年以上もたってこんなブログであれこれホジくられるわけですから、佐木さんとしては怒りに怒り尽くせない激情もわいてきたと思いますし、「あなたにも迎えがくる」でも、私ははらわたが煮えくり返っていると書いています。

 しかしこの経験を、個人的な怒りや無駄な時間で終わらせなかったのは、おそらく物書きとしての佐木さんに柔軟性があったゆえでしょう。

 それまで芥川賞候補に1回(昭和42年/1967年・下半期)、直木賞候補にも1回(昭和43年/1968年・上半期)挙げられながら、小説家としては飯を食うことができず、琉球の地で逮捕されたときにも、過激派に属するイロ付きライターと見られ、ほとんど現実の事象を筆に起こしてお金を稼ぐような仕事に従事するようになった佐木さんが、この経験を経たことで次に関心の目を向けたのが、「犯罪事件」でした。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月17日 (木)

第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)決定の夜に

 平成31年/2019年1月16日、横綱・稀勢の里が引退会見を行いました。ひとつの時代が終わったと見るか。引退する力士という存在はそれほど珍しくないのだから、恒例の日常風景と見るか。どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 平成31年/2019年1月16日、第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)も決まりました。これなど、まさしく恒例の日常風景、6か月に1回、定期的に開催されています。話題になっているのかいないのか。これもまたもちろん、どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 個人的な感覚で、今回の直木賞を思い返すと、とにかく熱い。重い。長い。という印象ばかりがひしひしと身体にのしかかってきます。どの候補作が受賞しても、そんな直木賞を象徴しているかのようで、直木賞ファンとしては何一つ問題なく楽しみましたが、せっかくだったら平成最後のサプライズ、候補5つ全部受賞! とかやってくれたら最高だったのに、と思います。受賞作ばかりがこの賞を形成しているわけじゃないんだな。そんな事実を再確認させてくれた回だったとも思います。

 何をさておいても、真っ先に取り上げたいのは、そりゃあ、あなたですよ深緑野分さん。『ベルリンは晴れているか』に、このままどの文学賞も賞を贈らない、ということにでもなったら、何だかこれからワタクシ自身、心に傷が残ってしまいそうで、何ちゅう判断をしてくれたんだ直木賞、と悲しくなりますが、終わった賞は終わったことです。直木賞の候補がきっかけで、こういう小説と出会うことができたのは、掛け値なし、大げさでなく幸せでした。きっと直木賞に悪気はありません。どうか深緑さんも直木賞のことを嫌いにならずにいてくださると、うれしいです。

 『熱帯』を読み終わって、不思議な感覚になりました。そして思いました。どうやらこの世には森見登美彦という人がいるそうで、サイン会もやっているし、インタビューも受けている。だけど、あれは誰かが、森見登美彦が実在しているという状況を創造したフィクションで、直木賞の受賞会見のときに、誰かからその仕組みが明かされるのではないか、と。けっきょく今回も明かされはしませんでしたが、読者の心のなかに森見登美彦はいます。謎は、いつまでも謎のままです。

 ところで、やっぱり直木賞選考会での、歴史小説に対するハードルの高さは尋常じゃないな、と思わされたのが、垣根涼介さんの『信長の原理』が受賞できなかったことです。これでも受賞圏じゃないのか。どんだけ歴史モノに厳しいんだ、と叫びたくなります。たぶん選考委員の方たちのなかには、一生解けそうもない「直木賞にふさわしい歴史小説」像があるのでしょう。そういう他人の感覚など気にせず、これからも垣根さんの歴史モノ、読みつづけていきたいと思います。

 『童の神』、正直なところ面白かったです。現代的なテーマを下敷きに、説話の世界からここまで肉付けして、突き抜けた物語をつくるという今村翔吾さんのタダ者じゃなさが、痛いほど伝わってきました。デビューまもない勢いのある新人作家を、なぜか取りこぼしてしまう直木賞。ああ、またか。とガッカリしましたが、とりあえず文学賞の当落はさておいて、今村さんの前途には明るさしか見えません。時代小説の新時代への扉、開けちゃってください。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月13日 (日)

0と出るか2と出るか、いわゆるひとつの直木賞キリ番回。

 もうじき決まる第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞は、平成最後なんだそうです。

 だから何なんでしょうか。

 ……という感想しか沸いてこないのが、直木賞にしか興味のない人間の哀しいところですが、平成の直木賞というと、いきなり星川清司さんに嘘をつかれ、横山秀夫さんに嫌われ、伊坂幸太郎さんに見放され、本屋大賞にオイシイところを持っていかれ、受賞作ベストセラートップ1の座を芥川賞から奪うこともできなかった、さんざんな時代でした。新しい時代には、多くの読者から愛され、慕われ、感心されるような文学賞に生まれ変われるよう、心から期待しています。

           ○

 と、ふざけたことを言っていても始まりません。だいたい選考会直前の、うちのブログのエントリーは、ふざけたことしか書かないんですが、今回は久しぶりに、まじめに振り返ってみます。たまたま「直木賞のすべて」のイベントが今日1月13日に実施されるために、そんなに長く書いているひまがない、という事情もあります。

 それはともかく、平成のはじめ頃の直木賞は、快調に推移していました。よく売れる人から、売れゆきはいまいちな地道な実力者まで、次々とバランスよく選び、昭和の終盤の第93回から第111回(平成6年/1994年・上半期)、連続9年半にわたって賞を贈ります。生まれた受賞者は、しめて31名。

 半年に一度も、そんな大傑作が生まれるわけがないことくらい、誰だって知っています。それなのに、何でこのペースで日本文学振興会=文藝春秋がやり続けているかというと、少しでも多くの作家に光を当てて、もっともっとあふれるぐらいに人材を増やしたいからで、しかも一度に二つもの賞を継続してきました。もくろみは十分に達成されてきた、と認めないわけにはいきません。

 ところが、平成後半の直木賞は、そのペースが確実に鈍ります。

 第137回(平成19年/2007年・上半期)に松井今朝子さんの受賞から始まった「連続授賞記録」というものがあり、半年前の第159回(平成30年/2018年・上半期)まで23回、11年半ものあいだ、一回も途切れずに授賞をつづけてきました。もちろん直木賞はじまって以来、いちばんの長さです。

 しかし、その間、誕生した受賞者は28名。さきに紹介した「9年半で31名」のころに比べると明らかに減っています。少数精鋭、といえば聞こえがいいですが、別に意識しないでそうなってしまったんでしょう。「受賞させたい人や作品が2つもなくなった」傾向が顕著になったのが、平成後半の直木賞の特徴です。

 どうして第160回をまえに、こんなハナシをダラダラしてきたかと言いますと、10で割り切れるいわゆる「キリ番の回」というのは、2作授賞が起こやすい巡り合わせをはらんでいるからです。とくにこの賞が、宣伝・PRの性格を担わされた昭和20年代以後は、いっそう歴然としています。

» 続きを読む

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2019年1月 6日 (日)

平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。

米国からのコカイン密輸入事件で麻薬取締法違反などの罪に問われた元角川書店社長角川春樹被告(58)について、最高裁第2小法廷は1日までに被告側の上告を棄却する決定をした。懲役4年の実刑が確定する。近く収監される見通し。

(引用者中略)

1審では、密輸入を実行したとされるカメラマンの「角川被告から指示された」との証言が有罪認定の決め手となり、千葉地裁は96年6月、懲役4年を言い渡した。2審でカメラマンは「密輸は自分の生活費を稼ぐためだった」と1審の証言を撤回したが、昨年3月の東京高裁判決は「信用できない」と新証言を退け、角川被告の控訴を棄却した。

――『日刊スポーツ』平成12年/2000年11月2日「角川春樹被告 コカイン密輸入事件 最高裁 被告側上告を棄却、実刑4年確定」より

 まもなく決定する第160回(平成30年/2018年・下半期)直木賞。史上はじめて、個人のフルネームの付いた出版社から候補作が選ばれた、ということで話題沸騰……しているのかどうなのか、そういう熱気はあまり伝わってきませんが、「犯罪でたどる直木賞史」にこれほど適した出版人が他にいるでしょうか。いや、いないに違いない。と、ひとりで勝手に納得したところで、今日はこの人。角川春樹さんのお話です。

 1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。

 派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。

 しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。

 とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。

 じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。

 そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。

 平成5年/1993年、逮捕の前日に取締役会が緊急の「社長辞任要求記者会見」を開き、9月2日に新社長が決まったことで、社長の座から追われることになった(公式には「辞任した」)角川さんは、平成6年/1994年12月に1億円の保証金を支払って保釈されるまで獄中生活を送ります。翌平成7年/1995年3月に、保有していた角川書店の株をすべて売却して、新たな出版社「角川春樹事務所」を設立。その間、麻薬取締法違反・業務上横領などの罪に問われた裁判はつづき、平成8年/1996年6月12日に、千葉地裁で懲役4年の実刑判決がくだりますが、無実を主張していた角川さんはすぐさま控訴します。

 平成11年/1999年3月1日、東京高裁の控訴審も一審を支持し、平成12年/2000年秋、最高裁が上告を棄却する決定したことで実刑が確定。平成13年/2001年11月15日から収監されて、平成16年/2004年4月8日に仮釈放されるまでの2年5か月、刑務所で服役しました。平成12年/2000年11月、上告棄却の段階で、角川さんは春樹事務所社長を辞任。お務めを終えて社会に復帰してしばらくは、同社の特別顧問として「映画プロデューサー」の肩書きで活動していましたが、平成21年/2009年11月ごろには、代表取締役会長兼社長として実務のトップに返り咲き、いまも同社の経営の舵をとっています。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月30日 (日)

昭和46年/1971年・芸能界暴露記事への協力を強要された、と週刊誌を告訴したなかにし礼。

「取材に応じなければ、私生活をあばく」と作詞家なかにし礼さん(三二)(引用者中略)に“不本意な告白”をさせた疑い(強要罪容疑)で二十三日、週刊ポスト誌社外記者の新宿区百人町二丁目鈴木寿男(三二)中野区新井五丁目寺島義雄(三〇)の二人が警視庁に逮捕された。

調べによると、二人は七月九日号の同誌「衝撃の告白シリーズ・芸能界“相愛”図」について六月中―下旬、「以前お宅にいた内弟子のAさんから取材したあなたの私生活をのせる。いやなら“相愛図”の作成に協力しろ」という趣旨の強要をおこない、いかにもなかにしさんが自分から進んで告白したように発表した。なかにしさんは七月二十日「断ったのだが、石川県の出張先まで追いかけてこられて、無理やり話を聞かれたが、全体としてかなり違っている」と告訴していた。

――『朝日新聞』昭和46年/1971年8月24日「ウソの“告白”強要 週刊ポストの二記者を逮捕」より

 20世紀に作詞家としてさんざん活躍したなかにし礼さんは、50代になってから本格的に小説家を目指し、平成12年/2000年1月、第122回直木賞を受賞したときには、すでに完全な有名人でした。有名人だから犯罪や事件を起こしやすい、とは一概には言えませんけど、多少のことをしても話題になり、結果としてオオゴトに広がっていきやすい、ということは言えると思います。

 なかにしさんといえば、20代の若いころからヒットを飛ばし、なかなかの風貌も兼ね備えていたためか、各種メディアにも顔をさらしていましたが、そんななかにしさんが、うっかりなのか自業自得なのか、思わぬトラブルに巻き込まれたのは、32歳のころ、昭和46年/1971年のことです。

 騒ぎの発端となったのは、小学館が発行する『週刊ポスト』の記事でした。この雑誌にはシリーズ企画として続いていた〈衝撃の告白〉という連載枠があり、そこを担当していた社外記者の鈴木寿男さんと寺島義雄さんが、芸能界のホレたハレたの内幕を暴露してくれそうな人として目をつけたのが、なかにしさんです。取材の結果、昭和46年/1971年7月9日号に「凄い芸能界“相愛”図=なかにし礼 「異常な特殊集団――ぼくは傍観者なのだが、あえて証言する」」というタイトルで、扇情的な記事を掲載。「最近、演奏家と結婚した女性歌手M・J」とか「最近婚約した清純派歌手I・Y」とか、基本的にはイニシャルを使いながらも、だいたい個人名が類推できるような表現で、誰と誰がくっついているとか、誰と誰が寝たとか、そういう話をずらずらと紹介します。

 ところが、記事が出たことで慌てたのが、なかにしさんです。本人の証言によれば、そもそもは週刊誌の記者が、この秋に石田ゆりさんとの結婚式を控えていたなかにしさんの、かつての内弟子から聞いたという、じつは弟子の作詞を盗作しているとか、ホモの疑いもあるとかいったゴシップ記事を、もしも載せてほしくないならこの企画に協力しろ、と脅迫めいたことを言ってきたのだ、といいます。コメント・談話程度の扱いにする、ということでしぶしぶ取材に応じたのに、刷り上がってみれば、完全になかにしさんが自分の言葉で暴露したっぽく書かれている。何だこれは訂正してくれ、と編集部に掛け合ったけど折り合いがつかず、7月10日に告訴へと踏み切ります。

 警視庁ではこれは強要罪の疑いがあると見て、捜査四課が事情を調査、すると8月23日、社外記者二人が突如逮捕される、というなかなか強行な展開に。一気に犯罪沙汰へと盛り上がりを見せたところで、しかし両者の話を突き合わせてみると、強要と言えるかどうかは微妙だし、告訴通りとは受け取れない事実も浮かび上がってくる。まもなく民事上では和解が成立して、10月9日になかにしさんが告訴を取り下げたところで、10月11日、東京地検はこれを不起訴処分にすることを発表します。

 無理やり取材に協力させられた、事前の話と違っていたので告訴した、でも仲直りしたので取り下げた、という話題だけなら、さほどの騒ぎとは言えないかもしれません。しかしこの一連の動きは、単なるタレント同士の男女関係を詮索する、しがない覗き見趣味を超えて、さまざまな方面に影を落とすことになります。

 なにしろ、あまりに早すぎたこの収束ぶり。何か裏があるんじゃないかと思われたからです。

 少なくとも、ここで芸能プロダクションを中心とした業界団体が色をなしたことは間違いありません。なかにしさんの記事は、渡辺晋さんが理事長を務める日本音楽事業者協会(以下「協会」)の逆鱗に触れ、この問題が片付くまではなかにしに新しい仕事はさせない、などと息巻く関係者も現れる有りさま。われわれの商品であるタレントの価値をおとしめるような奴は、きつく懲らしめてやる……というかたちでの実力行為が現実にあったのかどうか、よくわかりませんが、なかにしさんを干す動きに発展したのだ、という噂ばなしが、あちこちの記事に躍ります。

 協会の抗議の矛先は、なかにしさんだけではなく、当然週刊誌のほうにも向けられました。小学館に対して、謝罪の姿勢がないようであれば、今後、取材を拒否する、写真使用も禁止すると通告したのです。こうなってしまっては小学館としても妥協点を探すしかなく、けっきょく同社は協会側の要請を受け入れ、相賀徹夫社長の名で「日本音楽事業者協会、日本歌手協会ならびに関係各位に、多大のご迷惑をおかけ致しましたことを深くおわび」(『読売新聞』昭和46年/1971年10月1日「謹告」)という9月28日付の広告を全国紙に掲載。逮捕された記者二人はすぐに証拠不十分で不起訴、要するに冤罪に近い状態だったので、逆になかにしさんを誣告罪で告訴してやろうかと検討していたらしいですが、これ以上、協会との対立の溝を深めたくない小学館が、二人の記者をなだめ、会社から慰謝料を払って事を収めた、などとも伝えられています。

 じっさい、このあたりを契機として、大手芸能プロが、メディアに対する圧力団体の性質を持ち出したのだ、ととらえる向きもあるそうです。こうなるともはや日本の芸能史に一大痕跡を残す事件だった、と言ってもいいんでしょうが、業界を揺るがす騒動の当事者として、それでもつぶされずに顔を出しながら稼げる作詞家の道を、その後も続けたなかにしさんの強さが、よけいにまぶしく見えるところです。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月23日 (日)

昭和50年/1975年・『落日燃ゆ』が死者の名誉を毀損していると訴えられた城山三郎。

広田弘毅元首相の生涯を描いた作家城山三郎氏(本名・杉浦英一)の小説「落日燃ゆ」の中の元駐支公使佐分利貞男氏(故人)をめぐる記述をめぐり、「死者の名誉棄損」が争われた訴訟について、原告側が十一日、上告を取り下げた。原告で佐分利氏のおいに当たる元三菱商事常務、佐分利健氏がことし五月に死亡し、遺族が承継を拒んだためで、これにより、すでに十年にわたる長期裁判となっていたこの訴訟は、注目の「死者の名誉」に対する最高裁判断が示されないまま、原告側敗訴という形で決着した。

――『朝日新聞』昭和60年/1985年11月12日「「落日燃ゆ」訴訟 原告、上告取り下げ 「死者の名誉」に判断なし」より

 「直木賞の黄金期」と呼ばれる昭和30年代、そのバラエティに富んだ受賞者のなかでも、一国一城の主にふさわしい独特な活躍をしたのが城山三郎さんです。いまとなって振り返れば、城山さんの作品を大衆文芸に分類してもあまり違和感はありませんが、選ぶテーマ、素材、仕事の範囲などを見てみると、いかにも枠にハメづらい作家だと見るのが適切だと思います。直木賞という文学賞が、とくに定見や信念をもたない、ゆらぎの多い賞だったことが、のちに功を奏した、という代表的な受賞例かもしれません。

 それはともかく、城山さんの書下ろし小説『落日燃ゆ』(昭和49年/1974年1月刊)です。自分の経験と絡ませて戦争小説を書いてみよう、と発想してからいろいろ転じ、文官として唯一A級戦犯で死刑となった広田弘毅さんの存在に行き当たって、構想三年、執筆二年。広田? そんなパッとしない人物を書いた小説なんか売れるわけない、とあきらめ切っていた新潮社内部の声を覆し、発売されるとたちまち大評判をとって、城山さんの代表作のひとつとなりました。実名小説、もしくは実在の人物を主人公にしたフィクションです。

 「自らのために計らわず」というのを生涯の信条とした広田さんは、自分のことは絶対にしゃべるなと遺族に言い残していたため、城山さんの取材も難航したそうですが、ゴルフ仲間だった大岡昇平さんが、広田の長男とは小学校以来の友人だからおれが何とかして口説いてやる、と一肌脱いでくれたおかげで、遺族への取材がかない、かつて知られていなかった広田さんやその周辺の動向を描けたのだそうです。もとより、実名小説とは言っても、誰かの醜聞を暴露してやろうとか、読者の刹那的なゴシップ趣味を煽って読ませようとか、そういう類いの小説ではありません。

 ところが、この作品を読んで傷ついた人がいます。

 『落日燃ゆ』では、広田さんと同じ外交官として活躍していた佐分利貞男さんのことに触れる段で、彼の女性関係について言及し、「相手は花柳界の女だけではない。部下の妻との関係もうんぬんされた。(潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に「風上にも置けぬ」と、眉をひそめていた)」と書きました。佐分利さんの甥にあたる健さんは、子供のころからずいぶん可愛がられた記憶があり、そんなオジに対する醜聞を、こんなところで描かれて大ショック。事実無根だ、亡くなった人間の名誉を傷つけた、おれも精神的な苦痛を負った、と主張して、謝罪広告の掲載と慰謝料100万円の支払いを求める訴訟を提起します。昭和50年/1975年のことです。

 小説のなかで、過去に実在した人物の、一般的には倫理に悖ると判断されるような言動が書かれることは、よくあります。名誉毀損といえば毀損でしょう。しかしそれを全部受け入れはじめたら、何世代前の先祖のことだったら精神的苦痛が認められるのかとか、小説を構成するうえで重要な設定や醜聞も、名誉毀損で裁かれるのかとか、けっきょくキリがありません。そこに一応のキリを付けるのが法的な判断、というやつです。

 昭和52年/1977年7月19日、東京地裁の判決は、今回のケースでいえば訴えた原告側の敗訴。その理由は、死者の名誉を毀損したという場合、虚偽虚妄をもってその名誉毀損がなされた場合にかぎって不法行為となるが、本件では、佐分利貞男さんの女性関係が小説に書かれたどおりのものだったか、もはや50年近く前のことでこれが虚偽虚妄による記述と認められるほどの証明がないから、というものでした。

 それでも、いくら死者のことだからって、いい加減なこと書けば名誉毀損で罰せられるぞ、とも言っており、それはそれで妥当だと思います。城山さんもこの判決に対しては、そこまでユニークな判決とは思えない、とコメント。自分の場合は、そこに関しても取材・調査のうえで書いていて、虚偽虚妄じゃないのだから、勝訴は当然だという姿勢を示しました。

 当時、死者の名誉毀損が注目された訴訟には、昭和52年/1977年の臼井吉見さん『事故のてんまつ』訴訟があります。しかしこちらは、告訴から3か月で臼井さん側が全面的に謝罪して、原告・被告両者の和解が成立。前にこのブログで取り上げた小堺昭三さんの『密告』裁判では、一審の判決を被告側が受け入れて、謝罪広告の掲載および賠償金支払いに従いました。ところが、『落日燃ゆ』については、原告の佐分利健さんがよほど執念を燃やしたか、判決を不服として控訴したおかげで、裁判がつづき、昭和54年/1979年3月14日東京高裁の第二審では一審同様に、訴えはしりぞけられたあと、昭和60年/1985年5月31日、佐分利さん83歳で亡くなったところ、遺族が訴訟の承継を拒否、同年11月11日に上告が取り下げられるまで約10年にわたって続くことになります。

 自分のオジさんの女性関係が乱れ切っていたと書かれたことを、とにかく許すことができず、告訴するだけではなく控訴、上告と何年にもわたって闘いつづける甥御さんの、その燃えたぎる心に何があったのでしょうか。うかがい知れないものがありますが、ともかく城山さんの勝訴のままで幕を閉じたとはいえ、死者の名誉毀損に対する一定の法的解釈が出されたのですから、佐分利さんの(おそらく孤独な)闘いも、意味のあったものと思います。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«平成23年/2011年・自炊代行業者を相手に訴訟を起こした浅田次郎たち。