2018年10月21日 (日)

平成18年/2006年・子猫を捨てていたことでフランス刑法下での告発が検討された坂東眞砂子。

直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。

――『毎日新聞』平成18年/2006年9月22日夕刊「子猫殺し 告白の坂東眞砂子さんを告発の動き――タヒチ管轄政府「虐待にあたる」」より

 新しいものが生まれては、すぐに廃れていく、その代表的な現象に、ネットの炎上案件があります。いや。マスメディア経由だろうが直接の伝播だろうが、「ニュース」と呼ばれるものは、たいてい似たようなものかもしれません。直木賞の受賞決定報道なども、半年前に誰が受賞したのか思い出せない、という感想をたびたび目にしますが、それは直木賞のせいでも、現代の出版界のせいでもなく、ニュースというものがもつ普遍的な特徴に由来しています。次々と出てきては次々と忘れ去られていく。ニュースとはそういうものなんでしょう。

 さて、直木賞と炎上、ということで思い出されるのは、いまから12年前の平成18年/2006年8月18日、直木賞を受賞して9年を経過した坂東眞砂子さんが、『日本経済新聞』夕刊の「プロムナード」という連載エッセイ枠に「子猫殺し」と題する原稿を発表した一件です。直後から、ほぼ批判的意見を中心とした大反響が沸き起こり、いまなおネット上にたくさんの痕跡が残っているほど、荒れに荒れました。

 そういうものを改めてたどっていると、激怒した猫好きというのは、時に凶暴化するものなのだな、という恐怖心ばかりが思い返されますが、大半の人が「あらゆる物事に対して慈愛をもつ」世界を望んでいそうなのに、その考え方にくみしない人間に対してだけは慈愛をもたなくていい、というふうに感じさせるところが、最も恐ろしいのかもしれません。

 話がズレそうなので炎上の恐怖はともかく忘れましょう。このとき、坂東さんの行動や、その行動を新聞に公表することで問題を提起しようとした姿勢に対して、さまざまな批判と反論が向けられたことはたしかですが、そのなかのひとつに「それって違法行為ではないか」というものがありました。おまえは犯罪者だ、ないしは、こいつは犯罪者だ、と糾弾する行為は意外に大勢の目を引きつけるのに役立ち、糾弾の火の手を焚きつけるのには効果的な手法のようです。

 エッセイによると、当時フランス領ポリネシアのタヒチに住んでいた坂東さんは、よくよく熟慮したうえで飼い猫に去勢手術を施さないことを決意。交尾した猫が子猫を生んだら、自分では責任をもって飼うことはできないからと、心を傷めながら家の裏に投げ捨てていたのだといいます。

 この内容と書きぶりに、ネットユーザーたちのボルテージ急沸騰。それを受けて、数日後には『日経』以外の各新聞がこの騒動を取り上げることになりますが、いくつかの記事では法律のことにも触れています。いわく、日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺すと1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる、タヒチに適用されるフランスの刑法でも、やはり違法と見なされる可能性がある、と。……おそらく、それを紹介することで、単なる感情論を超えた騒動であることを伝えようとしたわけです。

 さらにネットの盛り上がりのなかから、タヒチにある動物愛護団体「フェヌア・アニマリア」に、わざわざこの件を通告する人まで出現。すると、これを問題視した同団体では、地元の『ラ・デペッシェ』紙などに情報を提供、現地でもこれは違法ではないか、という動きに発展していきます。ついには、タヒチを統治するポリネシア政府が、坂東さんに対する告訴状を共和国検事に提出することを決めた、と発表されたのが9月13日。何に違反しているかといえば、フランス刑法第6巻第5題R655-1にある、家畜やペットをみだりに殺したり虐待したりすると罰金によって処罰される、という規定に触れるのだそうです。

 さあ大ゴトになってきた、政府まで動こうとしている、果たしてマサコ・バンドウはほんとうに法律に違反する行いをしているのか、と警察に呼び出されて、取り調べを受けて……といった顛末は、この年の『文藝春秋』12月号に坂東さん自身が寄稿した「「子猫殺し」でついに訴訟騒動に」で追うことができます。

 そこにも書かれていることですが、法的な見解の分かれ目は、日本にしろフランス圏にしろ、「みだりに」という言葉をどう解釈するか、ということになるでしょう。坂東さん本人は当然、理由もなく不必要に猫を捨てている、とは考えていません。しかし、親の猫に不妊手術を施すという「必要な」処置をせず、生まれてきた子猫を捨てるのは、あえて「不必要な」行動をとっているのだ、と言えなくはありません。

 日本でもタヒチでも、猫を捨てる人はたくさんいるのでしょうが、だれも自分がそういうことをしていると公言しないから違法と認定されないだけで、みずから発表してしまえば、取り締まりの対象になってもおかしくないでしょう。しかし、坂東さんが書くところでは、タヒチでは家で飼えない猫を捨ててしまったことで警察に逮捕される、というのはまず考えづらく、現に調書をつくったタラバオ警察署長のフィリップは、坂東さんの事情を聞いたうえで、エーテルを嗅がせてやるといいんだ、眠ったまま死ぬから、とアドバイスしてくれた、と言います。私だって捨てたくて捨てているんじゃない、という事情と心情は、「みだりに」殺しているわけではないものとして十分勘案される、ということです。

 結局のところ、政府の発表はその後うやむやのうちに消え失せます。坂東さんのもとにも告訴の件で連絡が入ることはなく、おそらく起訴も何もされませんでした。

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2018年10月14日 (日)

昭和61年/1986年・現実の犯罪にしか興味がない、空想の小説を書くのはアホらしいと語る西村望。

【高知】警察庁から凶悪犯総合手配で全国に指名手配中の殺人容疑者、(引用者中略)元鉱夫、西村楠義(五一)=写真=は十九日夜同県幡多郡佐賀町川内国鉄土讃線工事飯場で同県警に逮捕された。第三次手配七人目である。

西村は昭和二十四年一月愛媛県新居浜市角野町の前住所で妻キヨさん(三八)と長女の文香ちゃん(四つ)を殺し床下に埋めた。その後、長男の明君(一〇)二男の博君(六つ)をつれて坑夫生活をしていたが、博君が足手まといになるので同年二月高知県佐川町中山の谷間で絞殺して捨てた。さらに二十五年には自宅近くの斎藤アサ子さんをダイナマイトで爆殺した。

――『毎日新聞』昭和35年/1960年9月20日「「西村」逮捕 総合手配 妻子殺し」より

 10数年ブログ記事を書いていると、何度も取り上げることになる作家がおのずと出てきます。直木賞候補3回、西村望さんもそのひとりです。しかし、「犯罪でたどる直木賞史」というテーマに絶対外せない作家なのはたしかなので、いつもどおり芸がないですが、今回もまた西村さんの話です。

 直木賞で、犯罪そのものを題材にした小説が候補に挙がることは珍しくありません。第2回(昭和10年/1935年下半期)獅子文六さんの『遊覧列車』に収録されたいくつかの短篇をはじめとして、「推理小説」のジャンルに入るものは、ことごとくそうですし、いまの直木賞で犯罪にまつわる小説が主流を占めているのは間違いないところでしょう。はっきり言って「犯罪を描いた直木賞候補者」を取り上げていくだけでもネタは尽きないはずですが、なかでも西村さんは別格だと思います。

 ライター・文筆業の肩書をもちながら、物書きだけでは食べていけず、借金ばかりが増えていった西村さんの人生を変えたのが、犯罪です。犯罪事件との出会いです。

 ちなみに西村さん自身は犯罪者ではありません。本人いわく、小心者なので犯罪を起こすほどの度胸がないから、だそうです。ただひとつ思い出せる犯罪らしきものは、香川県高松からほど近くに浮かぶ故郷、男木島に暮らしていた昭和20年代後半ごろ、飲み屋の女と協力して前借詐欺を働き逃げてきた知人とその女を、小型の漁船に乗せて四国から逃がしてやったこと(『虫の記』所収「ぼくの唯一の犯罪」)だと言います。

 しかし何ごともなく平穏に過ごそうと思っても、どうしても人は犯罪にぶち当たってしまいます。かつて西村さんも警察の取り締まりにひっかかったことがありました。

 というのも西村さんは昭和32年/1957年、当時松本清張さんの「点と線」が連載されていた『旅』誌にルポ記事を投稿してみたところ、編集長の戸塚文子さんに評価され、いきなり1年間の連載を依頼されます。それがきっかけで連載終了後も、同誌の執筆陣のひとりとして文筆に励みますが、昭和36年/1961年、戸塚さんが退社してフリーとなると、西村さんは後任の編集長と喧嘩を起こして出入り禁止。お決まりの貧乏ライター生活に陥りますが、そんな西村さんのお得意先のひとつとなったのが、『笑の泉』別冊号です。泣く子も黙るエロの殿堂。そこに少し性的なエピソードを盛った読み物から、ノンフィクションから、あるいは小説から、いろいろ載せたそうなんですが、雑誌そのものが何度も猥褻文書扱いで警察の摘発を受け、発禁処分に。西村さんの記事も3回、処分対象となり、警察に出頭を命じられ、調書をとられたことがあった、ということです。

 そのころエロ雑誌の社長から、君ならいずれ直木賞ぐらいとれる、うちのようなエロ雑誌にばかり書いてちゃ駄目だ、と諭されますが(「子を捨てる」)、そこですぐに文芸路線に走る、という軽薄さがないのが、西村さんのいいところです。とうてい物書きでは生活できないからと故郷に帰り、土建業、野鳥園の経営、その他いったいどうやって妻と子供を養っていたのか、どうにかなっていたんでしょうけど、地元瀬戸内海放送のテレビ番組「土曜プラザ」の事件レポーターをやってみないかと声をかけられたのが昭和46年/1971年のこと。視聴者受けなどまるで眼中におかず、ズケズケとものを言い、気に入らないことはしない徹底したスタンスが味となって、長いこと起用されつづけました。

 しかしその間、昭和21年/1946年に結婚して以来、苦楽をともにした妻と昭和47年/1972年に死別。がっくり落ち込んで、酒を飲んでは吉村昭さんの小説ばかり読む生活を送ります。そんな折り、作家としてデビューした弟の西村寿行さんが、あれよあれよという間に出版界でのし上がり、人気作家、流行作家と華ひらくのを傍で見て、あんな下手くそな小説が売れるんなら俺もやってやろうかと思い立つと、少なくとも昭和50年/1975年ごろには、四国の鬼熊事件と言われた連続殺人事件の犯人のことを調べ、構想を練っていたと思われます。というのも、この年、佐木隆三さんが『復讐するは我にあり』を発表、新しい犯罪ドキュメント小説だと持て囃されるのを見て、まったく自分が考えていたのと同じ方向性の作品だったものですから、先を越されたと悔しがった、と回想しているからです。

 二番煎じだ、佐木隆三の真似ゴトだ、と言われるぐらいなら、いっそまた別の題材、別の内容を試してみる道もあったとは思うんですが、鬼畜と言っていいほどの所業をおかした人間に対する興味は膨らむばかり。もはや他人にどう思われようと構わない、という境地にあったことが功を奏したものでしょう。原稿用紙に向かいつづけ、一気呵成に書き上げた500枚ほどの作品が完成します。

 いったんは、伝手を通じて大手出版社の編集者に読んでもらったものの、酷評とともに返されるという不遇の目に遭いますが、それでもあきらめがつかない西村さんは、弟に頼る気はなく、本棚にあった長部日出雄さんの『死刑台への逃走』(昭和44年/1969年)という犯罪小説に目をとめると、奥付にあった版元の立風書房に、いきなり原稿を送ってみます。すると1週間ほどで同社社長の下野博さんから速達で返信が届き、そこにあったのは絶賛の文章。「これは直木賞ものの大変な作品だ」との表現もあったそうです。再婚した若い妻と二人で、泣きました。

 西村望さん52歳。『鬼畜 阿弥陀仏よや、おいおい』(昭和53年/1978年5月・立風書房刊)が刊行され、救いも何もない犯罪と人間の行動を冷徹に見つめる、暗黒犯罪事件専門の小説家がいよいよ世に姿を現します。

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2018年10月 7日 (日)

昭和58年/1983年・自分の名前や作品のことが詐欺行為に使われた向田邦子。

作家の故向田邦子さんと同姓であることを悪用して「オイ」だと名乗り、国際線スチュワーデスら八人から約三千万円を巻き上げ、指名手配されていた鹿児島県生まれ、住所不定、無職向田新作(三四)=写真=が九日、東京・高輪署に詐欺容疑で逮捕された。

向田の直接の逮捕容疑は、一昨年二月、東京都港区の一流ホテル内にある洋品店の店長A子さん(三二)に「結婚しよう」などと持ちかけ、二回にわたり計五十五万円をだまし取った疑い。

――『読売新聞』昭和60年/1985年2月10日「自称“向田邦子さんのオイ” 手配に観念、自首」より

 稀代のシナリオライター、向田邦子さんの名前は、仮に直木賞の受賞がなかったとしても、自然に伝説化したとは思いますが、直木賞という文学賞も、意外と大勢に知れ渡っています。直木賞きっかけで向田さんを知った人もいたはずですし、もとからドラマを観ていた視聴者にも、直木賞をとるなんてスゴい人だったんだ、と改めて見直した人はいたでしょう。

 まもなく向田さんが飛行機事故に巻き込まれたとき、彼女は直木賞に殺されたんだ、と嘆いた人がいたそうです。もちろんそんなことはありません。百歩譲って直木賞の影響があったとしても、直木賞をとったことで、それを見た人たちが向田さんに大量の仕事を依頼、忙殺されるなかで、台湾への取材旅行が組まれ、事故に遭った……要するに「直木賞のことをやたら特別視して、祀り上げようと駆け寄った人間たち」に殺された、ということになります。いつも非道なことをするのは人間であって、直木賞に責任を押しつけるのはまったく筋違いです。

 さて、それに比べればショボい犯罪かもしれませんが、ここに向田さんと同じ姓をもつ、とくに血縁関係のない一人の男性がいました。生まれは鹿児島ですが、大阪で育ち、市内の工業高校を卒業。宝石店などで働くうち、一つ年上のスチュワーデスと出会って妊娠させると、昭和47年/1972年に籍を入れることになります。21、22歳ごろのときです。

 仕事は貿易商と言っていたらしいですが、じっさいはほとんどカネがなく、持ち前の巧みな会話術でさまざまな女性に手を出しては、偽名や嘘の職業を騙ってお金をせしめるようなことを繰り返していたといい、そのことを知った妻はさすがにブチ切れて、家を飛び出すと、秋田の実家で子供を出産しました。

 ひとりになった男でしたが、まるで懲りることなく10人を超える女性に対し詐欺行為を重ねたそうで、ついには寸借詐欺2件、結婚詐欺1件、という内容で警察に捕まり、昭和49年/1974年に懲役6年の実刑判決をくらいます。その一年後に、正式に離婚が成立。

 満期でお務めを果たしたとすると、男が出所したのは昭和55年/1980年です。この年7月、向田邦子さんが直木賞を受賞したニュースも、娑婆のどこかで目にしたかもしれません。20代後半のほとんどを刑務所のなかで暮らし、多少は反省したものとは思うんですが、そこら辺の心境はまったく不明なので飛ばしまして、昭和56年/1981年から福岡市にマンションを借ると、近くのスーパーのなかに小さなブティック店を開店。いったいその資金はどこで調達したのか。それも不明です。いつもブランド品に身を包んで、店にはほとんど行かず、別れた妻から見聞していたスチュワーデスの生態を参考に、日航、全日空、外国航空、そこら辺りのスチュワーデスに次から次へ近づくと、事実と異なる自分の属性を語って相手を信用させ、ン万円からン百万円のお金を拝借しつづけます。相変らずの詐欺師生活です。

 ここで向田邦子さんが昭和56年/1981年に飛行機の事故で命を落としたのは、もちろんまったくの偶然でしかないんですが、そのころから男の手口が少し変わります。初対面の相手には、私は向田邦子の甥なんです、中央大の法科出身で、兄は検事、父は警察署長をしているんです、と自己紹介するようになり、一部のスチュワーデスのあいだでも男の存在はよく知られていた……ということを含めて、上記に挙げた男の来歴はほぼ『週刊新潮』昭和60年/1985年2月7日号「非公開捜査「向田邦子の甥」に結婚詐欺された女たちの「高いレベル」」から引き写しました。誰が書いた記事かわかりませんが、ありがとうございます。

 作家の名前が世間にひとり歩きすると、それを騙って悪さを企む人間が出てくる、といえば、海音寺潮五郎さんや村上元三さんも、知らないあいだに自分の名前を使われたことがありました。しかしそれは昔の話、こと直木賞に関していうと、時代が現在に近くなればなるほど、「有名になる」イコール「顔がマスコミでさらされる」というのが基本になるので、さすがに自分は受賞者本人だと嘘をつくのは難しくなります。そこで「親戚を騙る詐欺手口」が発生するわけですが、この男の場合、「向田邦子」の活用のしかたが絶妙というか悪質というか、単に信用度を上げるためだけでなく、会話を盛り上げる手段にもしていた、というのですから、なかなか罪深いです。

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2018年9月30日 (日)

昭和20年/1945年・立川の米軍捕虜虐殺事件を、巡査として目撃したもりたなるお。

起訴理由概要 昭和20、8、9一俘虜軍曹を棒に縛りつけ一般民衆に依り竹竿を以て二時間に亘り打擲を加えしめ失神せしめ或は之を蘇生せしめ且軍刀を以て斬首せしめたる等の行為に依り戦争法規慣習違反せり

所属 立川憲兵分隊長

階級 憲少佐

氏名 ●島●郎

判決 年月日 22、6、24 刑 無罪(引用者注:「無期」の誤記)

(引用者中略)

起訴理由概要 立川憲兵分隊に勤務中立川市に於いて米軍俘虜を虐待酷遇死に至らしめ又完全なる看護保護を加へず部下の行為を取り締ることを怠れり(20、8、9)

所属 立川憲兵隊

階級 准尉

氏名 ●昇

判決 年月日 22、8、22 刑 20年

――昭和60年/1985年8月・不二出版刊 茶園義男・編・解説『BC級戦犯横浜裁判資料』「横浜裁判一覧表」より(原典は表組み)

 人は生まれながらにして罪人だ、という表現がありますが、そういう宗教的な考えは抜きにしても、人が常に犯罪に囲まれて生きていることは明らかです。本人が自覚的に罪を犯すケース、法律にのっとっていないと突然指摘されるケース、違法だか何だか誰にもわからないところで裁判に持ち込まれるケース、などなど当事者として関わる場面もあるでしょうが、それ以外にもさまざまな立場から、ほぼすべての人間が、なにがしかの犯罪に接しています。

 直木賞の候補者のうち、かつて警官だったもりたなるおさんは、単に警官だったという経歴的な事実を超えて、犯罪事象と縁の深い作家だった、と言っていいでしょう。警察官もまた、他の人と変わらずにそれぞれが一個の人間であり、小市民である、という思いのもと、何作も警察官の側に視点を据えた小説を書き、そのうち『無名の盾 警察官の二・二六事件』(第97回 昭和62年/1987年・上半期)、『大空襲 昭和二十年三月十日の洲崎警察署』(第100回 昭和63年/1988年・下半期)の二つが直木賞の候補になりました。二・二六事件で数名の警備警察官が犠牲になった、というところから、この事件のことを調べるうちにズブズブとはまり、〈二・二六作家〉としても名をなします。

 じっさいには、もりたさんが警官だったのは約3年ほどで、それほどの長期間ではありません。18歳のとき、警察官の多くが兵役にとられて人員不足となったために、その補助的な位置づけにあった少年警察官として雇われたのち、警視庁警察練習所に学んで、昭和19年/1944年に、巡査となって立川警察署に配属されます。しかしまもなく、昭和20年/1945年春には徴兵検査を受けて第一乙種となり、現役兵として浜名海兵団に入団したのが、終戦まぎわの8月10日。

 やがて日本の無条件降伏によって、もりたさんもすぐに復員し、立川警察に戻るのですが、戦時中、腰にサーベルを差し、さんざんイバり散らして偉そうだった警察が、戻ってみるとガラリと様相が変わっていて、民主警察に再生したという態で丸腰になり、やることといえば、通称〈MP〉と呼ばれるアメリカ軍人たちの護衛というか使いっ走り。日本の治安をわれわれが守るのだ、という燃え盛る気概が、もろくも消え失せるような大転換のこの時期に、若い警官として日々を過ごすなか、わずか3年の勤務、とはいえ、そうとう精神的に揺り動かされる経験をしたのでしょう。

 闇米の取り締まりのために立川駅に派遣されたある日、買い出しにきて風呂敷包みを抱えていた女性を発見。逃げる彼女を、職務に忠実に追っていったところ、便所の中に逃げ込まれ、いくら説得しても出てこようとしない。しまいにはすすり泣く声で、うちには腹を空かせた子供たちが待っているんだ、と訴えられ、いよいよ森田巡査は自分のしていることがわからなくなってきます。取り締まろうとする自分も貧乏、取り締まられる人たちも貧乏。ああ、もうヤダヤダ、と辞職の覚悟を決め、宿直明けに制服姿のまま電車に乗り、以前から「大衆のための芸術」だと思って興味のあった漫画を描こうと、近藤日出造さんの家をいきなり訪ねていき、それからは師匠ゆずりに、画も描きながら文章も書く、新進の漫画家として、戦後の再出発をはかりました。

 その後も、昭和27年/1952年5月のメーデー事件の行進に参加したり、昭和31年/1956年には米軍の基地拡張に伴う農地接収などの問題が起きていた砂川闘争を取材したり、いくつか〈元・警官〉の立場で接した社会事件もありますが、ここで触れたいのは、もりたさんが現役巡査だった頃に発生した事件のことです。

 後年、もりたさん自身、小説の題材にもしています。立川市錦町の米軍捕虜虐殺事件です。戦後の横浜軍事裁判では、日本側文書で見ると事件番号134および158、米文書ではケースNo.217という番号が付けられています。

 もりたさんがこの事件にどう関わったのか……と、その前に事件の概要を紹介しておかないと話は進みません。

 昭和20年/1945年8月8日昼すぎ、立川上空に現われた米軍のB29編隊に対して、日野台にあった高射砲が火を噴いた結果、撃ち落とされた機体が一機。墜落死する搭乗員たちのなかで、落下傘での降下に成功した2人の米兵は、すぐに日本の警備隊に捕えられ、立川憲兵分隊に収容されますが、住民たちが分隊の施設に押し寄せ、殺気立った状況のつづく有り様を見て、このままでは収まらないと判断したらしい憲兵分隊では、翌9日、捕虜のうち1人を錦国民学校の校庭に連れ出すと、十字架のように組んだ棒に括りつけ、住民たちのなかで希望する者に、一人一回ずつ竹槍で打たせる、という対応をとります。

 希望者は長蛇の列をなし、約2時間たっても終わらなかったところ、警戒警報が発令されたために一般市民たちは即座に解散。憲兵隊は傷ついた捕虜を、正薬院のなかにあった市営墓地に担ぎ込み、どういう経緯だったかは不明ながら、一人の航空技術将校と思われる中尉が軍刀を一振りし、米兵を斬首します。ところが一転、まもなく無条件降伏が決まったものですから、米軍に事実が発覚するのを恐れた憲兵たちは、墓地を掘り返して腐乱した遺体を取り出すと、改めて火葬して埋め直すなどの隠蔽をはかった、ということです。

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2018年9月23日 (日)

昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。

目白の高田農商銀行ギヤング事件が神戸で逮捕されたアナ系の相澤尚夫(二八)の指導下に行はれ、しかも一味の間に重大な陰謀計畫が進められてゐることがわかつたので警視廳特高課では十一夜來俄然緊張、全課員及び各署特高係をそれぞれ待機せしめたうへ十二日拂曉を期しアナ系分子の大檢擧を開始(引用者中略)このアナ系大檢擧によつて大杉榮の死後漸次沒落の過程をたどりつゝあつた無政府主義者がフアツシヨ非常時下にもぐつて從來の理想的觀念論を揚棄して極左及び極右の組織的行動の長所を取入れ一切の權力を否定する建設的テロリズムによる暴力革命を決行するためにすでに昨年六月「日本無政府共産黨」を結成して暗躍してゐた怖るべき全貌が暴露された

――『読売新聞』昭和10年/1935年11月13日夕刊「暴力革命を企らむ “無政府共産黨”の全貌 五十三名打盡さる」より

 直木賞の特徴のひとつに「歴史の長さ」が挙げられます。そのため、しょうもない作品が受賞作に選ばれても、伝統ある賞、というイメージのおかげで、何かエラいもののように感じる人が後を絶たないという、得がたい効果が発生するわけですが、昭和10年/1935年から80余年も続いているので、候補に挙がった人数も優に500人以上。当然それぞれに違った人生があり、彼らの小説を読むという行為とはまた別に、さまざまな候補者の来歴を知ろうとする楽しみも、直木賞を見るときの面白さにつながっています。

 なにしろ直木賞が始まったのは、昭和の初期です。ということで、ある程度の時代まで、候補者のなかには政治思想を理由に警察に検挙されたことのある作家が、何人か見受けられます。いまとなっては、とうてい犯罪者の枠には入りませんけど、国家権力や社会の仕組みに反旗をひるがえすことで辛酸をなめた人が、候補者として重要な歴史を刻んでいるのも、長く続けられている直木賞の一側面でしょう。

 第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)、混乱とゴタゴタのなかで行われた戦後復活1回目の直木賞に、候補として名前の挙がったひとりが、菊岡久利さんです。候補作は「怖るべき子供たち」。これのどこが大衆文芸なのか、さっぱりわかりませんが、とりあえず直木賞を運営する日比谷出版社の『文藝讀物』に掲載された作品だから候補になったんだろうとしか思えない、この図式からして伝統的な直木賞の姿を垣間見せる、なかなか唐突で面白い候補選出だったと思います。

 たどってみると菊岡さんの履歴は、もし彼が女性だったらいまごろ桐野夏生さんあたりが小説化していてもおかしくないぐらいに波乱に富んでいる、と言ってもいいものですが、昭和20年/1945年に日本の政治情勢がガラリと変わるまでは、年がら年じゅう留置所に入れられていたそうです。

 平成21年/2009年に青森県近代文学館の館長として「生誕一〇〇年 菊岡久利の世界」展を企画した黒岩恭介さんの『綺想の風土あおもり』(平成27年/2015年5月・水声社刊)によると、菊岡さんは大正15年/1926年、17歳のときに秋田県で小坂鉱山煙害賠償労働争議に参加。このころからすでに、社会的に弱い立場にある人たちへの思い入れがすさまじく、社会問題への関心を深めるとともに、思索的のみならず行動的でもあった菊岡さんは、この年、『小樽毎日新聞』に古田大次郎さんの原稿を載せた科でしょっぴかれ、留置されてしまいます。

 翌年、上京すると、石川三四郎さんのもとに拠り、鷹樹寿之介と名乗ってアナキズム運動に本格的に邁進。歯止めの効かない危ない奴、というか、誰の前に出ても決してひるまずに自分をさらす無鉄砲さが、あるいは通じたものか、文壇の作家たちにもけっこう可愛がられました。なかでも横光利一さんとはかなり相性がよかったらしく、菊岡さんは長く横光さんを敬愛し、また横光さんのほうも、ゆくゆくは小説を書いていきたいという菊岡さんに、それならと「菊岡久利」のペンネームを与えます。これは、菊池寛、岡鬼太郎、久米正雄、横光利一の4人の名前から一字ずつ取ったものだそうです。

 ともかく10代の少年だった頃から40代に至るまで、本人によれば、留置所入りは30回、監獄入り3回を経験した(『新潮 別巻第一号 人生読本』昭和26年/1951年1月「文士ゆすり顛末記」)というのですから、ツワモノには違いありません。そのひとつひとつの詳細は、なかなか追いきれませんが、なかで最もマスコミを賑わせた事件というと、昭和10年/1935年秋、「黒色ギャング」と書き立てられた銀行襲撃からの、日本無政府共産党一斉検挙事件になるでしょう。

 さかのぼること2年前、昭和8年/1933年12月はじめごろに、アナキストによる革命団体をつくる目的で集結した植村諦聞、相沢尚夫、入江汎、二見敏雄、寺尾実の5人が〈日本無政府共産主義者連盟〉を結成、翌昭和9年/1934年1月に〈日本無政府共産党〉と改称したこの組織の、大きな問題の一つは資金をどうやって調達するかだった、ということが、のちに相沢さんが回想した『日本無政府共産党』(昭和49年/1974年6月・海燕書房刊)で詳細に触れられています。しばらくは知り合いからの寄付金で、どうにか賄っていたものの、すぐに底をつく有り様。もうこれは、どこか金融機関を襲って奪い取るより他はない、という結論に達し、馬橋郵便局にするか、いや駒場郵便局にするかと物色するうちに、最終的に標的となったのが、目白に住む二見さんに土地勘のあった高田農商銀行です。昭和10年/1935年11月6日朝、二見さんと小林一信さんの二人で同銀行に赴き、脅迫のうえ金を奪取しようとしますが、結果は大失敗。これをきっかけに同党および、無政府共産主義者たちの一大検挙へと拡大していきます。

 その後、官憲の目をかいくぐって逃げ回っていた二見さんも、12月24日、クリスマスイブの夜に銀座の街頭で特高に捕えられ、昭和14年/1939年5月8日の一審では死刑判決が下され、昭和15年/1940年2月8日東京控訴院の二審で無期懲役の判決を受けます。ただし、まもなく2月11日に、紀元2600年の恩赦によって懲役20年となり、刑務所暮らし。5年ほど経って、日本が降伏した直後の昭和20年/1945年10月4日、マッカーサーの政治犯釈放命令によって出獄したのが39歳のときで、すぐに政治運動に戻りますが、日本自治同盟が数年で解散したあとは主だった活動はなかったらしく、昭和42年/1967年に没しました。

 その二見さんとかつて共同生活を営んでいたのが、友人の菊岡さんです。銀行襲撃の失敗で、警察の手から逃れようとする二見さんの、逃亡期間中の生活費の一部を、菊岡さんが出してあげていたとも言います。数百人に及んだと伝えられるこの一斉検挙の対象のひとりとして代々木署に留置され、一週間ぐらいで帰されたそうですが(『思想の科学』昭和40年/1965年11月号 秋山清「無政府共産党事件」)、しかし菊岡さんの履歴を見ると、処女詩集『貧時交』(第一書房刊)の出た昭和11年/1936年1月には、まだ勾留中の身だったとも言われていて、いつ入って、いつ出てきたのか、よくわかりません。

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2018年9月16日 (日)

昭和43年/1968年・公職選挙法違反に問われ、起訴猶予になった今東光。

【大阪】去年四月に行われた大阪市議選に同市此花区から自民党公認で立候補して落選した大谷保一(三五)派(引用者中略)の選挙違反を捜査していた大阪地検特捜部は、作家の今東光(六九)(引用者中略)と、今の秘書の千葉たみ子(三七)(引用者中略)が、大谷から現金をもらった事実をつかみ、公選法違反(被買収)の疑いで調べていたが、三日午後「犯罪は構成するが、反省の色が濃い」として、二人を起訴猶予処分にした。今は佐藤首相から要請され、ことしの参院選全国区に自民党公認候補として立候補する予定で、その処分が注目されていた。

――『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)の直木賞は、今東光さんと穂積驚さんの二人に贈られました。穂積さん44歳に対して、今さん58歳。……いまとなっては、とくに珍しくない受賞年齢ですが、それまで50代で受賞した人すらひとりもいなかったのに、いきなり最年長記録を60歳近くまで伸ばしたのですから、とくに今さんの受賞は、一部に大きな驚きを与えた、と伝えられています。

 いや、年齢など些末な話題にすぎません。今さんが直木賞史のなかに残した爪痕といえば、受賞した後の圧倒的なマスコミ露出。これに尽きるでしょう。

 芥川賞に石原慎太郎(第34回 昭和30年/1955年・下半期)あれば、直木賞に今東光(第36回)あり。……と表現したのは、誰だったでしょうか。スター性の面では、たしかに石原さんには勝てないでしょうけど、「かしこまって偉ぶるのではなく、少し崩した口調・文体で、場所柄わきまえず放言する」というスタイルが多くの人にウケたおかげで、小説の出来うんぬんはさておき、作家であり僧侶であり毒舌家、という方向で世間に知れ渡るようになります。直木賞では珍しいことです。

 そういうなかで実施されたのが昭和43年/1968年の参議院選挙です。著名人やタレントが続々と候補者に名乗りを挙げたことから、政治もここまで落ちぶれたかと言われ、いつもいつも、ついに落ちぶれたかと言われている文学賞の姿を、どことなく思い起こさせる様相がありましたが、石原さんと並んで自民党公認で出馬した今さんも、事前から「タレント候補者」の有力者だ、と見られていたといいます。そのことでもわかるとおり、直木賞・芥川賞の受賞者のなかではタレントに分類して違和感のないくらい、とくに顔も名前も売れていたひとりです。

 と、ここで今さんがぶち当たった法律があります。公職選挙法です。

 以前より今さんは、公選法に対して文句があったらしく、ずいぶん悪口を叩いていました。たとえば昭和42年/1967年には、現行の公選法は結局ダメな政治家しか選べないダメ法律だと、お得意の鋭い舌鋒を披露。なぜ戸別訪問やビラに禁止条項があるんだ、そんなどうでもいいことをいちいち条文に示しているから、おれはこの法律が嫌いなんだ、と言い張っています。

 そしてこう書きます。

「買収や供応が悪いことは言うまでもなく、それをする奴や、それに応ずる奴は下等至極な奴で、そんな者を罰するために吾々まで罰則の適応を受ける理由はないのだ。いかなる罰則を制定しても、罪人はこの世の中から無くなるものではないのだ。買収や供応をする候補者には投票しないことが即ち罰則なのだ。

何もそれを法律で規正する必要はあるまい。」(『週刊サンケイ』昭和42年/1967年5月22日号 今東光「東光毒舌説法(21) 選挙法という悪法」より)

 何でも罰則で縛ろうとする法の存在と、今さんの考え方もしくは生きざまは、しょせん相容れないもの同士、ということかもしれません。買収・供応をする奴、応ずる奴、どちらも下等だとかました今さん自身が、実際そのルールにひっかかり、選挙前から後まで、とにかく「今東光といえば選挙違反」という妙な展開へと転がっていってしまうのです。

 この年の春、大阪市議選に応援演説に狩り出された今さんは、候補者だった大谷保一さん派の運動員から10万円を受け取ります。日頃から講演を依頼されること数限りなく、しかも今さんは、たいてい相場より高い講演料を要求することで知られていたそうで、人前に立ってしゃべる、お金が発生する、これ当然、という世界で生きていたものですから、深い考えもなく謝礼を受け取ったところ、法的にはアウト。7月末から2回にわたって取り調べを受け、事実関係を全面的に認めたうえで、「自民党の公認を受けながら、自分が違反をおかしたことをはずかしく思う」(『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より)と反省の姿勢を見せたことが効いて、法律違反ではあるが起訴猶予、という結果に落ち着きました。

 何が選挙法違反だ。何の悪気もなくやったことなんだから、いいじゃないか。と、いつものように開き直ればよかったと思うんですけど、ここで反省してみせるところが、今さんの正直さかもしれません。あるいは、なんだかんだ言っても法の下にある社会集団の一員として、多少は折り合いをつけないと生きてはいけない俗世のつらさを垣間見せ、何だこのクソ坊主は、と批判する人たちを生んでなお、自身の参議院選挙に影響するところは、ほとんどなかったようです。

 天台宗務庁からは昭和43年/1968年4月、大僧正の呼称が贈られ、選挙戦が始まれば、若いころからの友人、川端康成さんが応援演説に立ったと言っては話題となり、自分でも行く先々で、何が佐藤内閣だ、これをぶっ壊せるのはおれだ、と自民党公認でありながら自民党を批判して喝采を浴びる、いまでもよく見かける戦法をとって有権者の心をつかみ、きっちりとこの戦いを乗り切って、100万票以上を獲得して全国区4位当選。直木賞受賞者にして国会議員、という前代未聞の道をきりひらきます。……いやいや、芥川賞のほうはその3倍近い票が石原慎太郎に入ったじゃないか、やっぱり芥と比べたら直っていつもパッとしないんだな、というボヤキは、このさい封印しておきましょう。

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2018年9月 9日 (日)

昭和38年/1963年・盗用だと言われたことに怒って、名誉棄損だと訴えた三好徹。

黒沢プロの映画「天国と地獄」のシナリオのトリック部分を作家三好徹氏が推理小説「乾いた季節」のなかで盗用している―と同プロと東宝が十九日発表したことについて同氏は二十一日午後「誤解もはなはだしい。盗作をいわれることは作家としての生命が奪われることにひとしい」と東京地検に同プロ側を名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和38年/1963年2月22日「三好氏、名誉棄損で告訴」より

 人はさまざまな理由によって怒りを感じますが、たとえば自分が考え出したストーリーなりアイデアなりが、知らないところで他人に使用されていたとき、発生する種類の怒りがあります。

 アイデア盗用が疑われる案件を目にした人たちが、当事者でないにもかかわらず、パクリだ何だと声高に騒ぎ立てて面白がる光景が、日常的に展開されてきた現実を見るかぎり、どうやらそういう種類の怒りは、多くの人間に通用する感情のようです。

 怒りを持つぐらいであれば、実害は少なく、周囲をまきこんだ炎上、という程度で済むかもしれません。済まないかもしれません。事情は案件ごとに違うでしょうけど、怒りと怒りがぶつかり合って法廷に訴えを持ち込み、あるいは持ち込まれた結果、2年間にわたって裁判で争った直木賞受賞者がいます。三好徹さんです。

 いまから50年以上前の、昭和38年/1963年2月から昭和40年/1965年2月。三好さんが『風塵地帯』ではじめて直木賞の候補に挙がったのが昭和41年/1966年下半期のことですから、それより前の、新進の推理作家として売り出していた矢先のころでした。

 三好さんが作家デビューしたのは、文學界新人賞に「遠い声」を応募して佳作に入った昭和34年/1959年ですが、はじめて本になった小説は、推理小説の『光と影』(光文社/カッパ・ノベルス)です。これが昭和35年/1960年11月のときのこと。

 読売新聞の社員として『週刊読売』編集部に籍を置きながら、急激に小説を書く意欲を燃え上がらせ、昭和36年/1961年には5月に『炎の街』(雪華社)、11月に『死んだ時代』(光風社)を刊行。そんなさなかの10月に、河出書房新社から何か作品をお願いできないかと打診され、12月ごろにはある程度のプロットやトリックを編集担当に話したところ、それは面白そうですねと話がまとまって、原稿にとりかかります。途中で病気になったために少し遅れたものの、翌昭和37年/1962年7月になって脱稿したのが、『乾いた季節』です。

 いっぽうその頃、新しい映画制作にとりかかっていた黒沢プロでは、黒沢明さんが読んだエド・マクベイン『キングの身代金』(昭和35年/1960年8月・早川書房/ハヤカワポケットミステリ)を下敷きに、舞台を現代の日本に置き換えて脚本をつくる作業が、黒沢・菊島隆三・小国英雄・久板栄二郎の4人のあいだで進みます。なかに出てくる身代金受け渡しの場面をどうしようかと悩むうちに、特急電車のトイレの窓から金を投げ落とさせるというアイデアが生まれ、昭和37年/1962年1月ごろに国鉄から資料を入手、それをもとにシナリオを仕上げた結果、同4月5日には『天国と地獄』第一稿のシナリオが90部印刷されて報道関係者に配られると、4月30日、さらに650部がマスコミ関係者たちの手に渡った、ということです。

 三好さんが当初の予定どおり、春の脱稿を死守していれば、その後の展開も変わったかもしれませんが、7月に版元の手に渡った原稿は、刊行形態について社内で検討するのに少し時間がかかり、同年12月に《Kawade Paperbacks》の20冊目の作品として出版されるに至ります。すると、昭和38年/1963年2月5日、菊島隆三さんが市川崑さんと話しているうち、『天国と地獄』に似た場面が、この小説で描かれていることがわかったものですから、黒沢プロ・東宝側で調べてみたところ、あまりにも似すぎている、ということになり、またその間、2月14日にフジテレビで放送された『少年探偵団・地獄の仮面』にも「外から電話で指示して電車のなかから身代金を落とさせる」という場面があったことが判明します。

 映画制作サイドでは、三好さんと、『少年探偵団・地獄の仮面』脚本担当の内田弘三さんに対して、アイデア盗用だと抗議しようと話し合いを進めますが、東宝の宣伝部や文芸部に出入りしていた新聞記者たちに、その話が伝わってしまい、正式な抗議を待たずに、朝日・毎日・読売が各紙そろって報道したのが2月20日朝のこと。これによって騒動の幕が切って落とされました。

 ……といった経緯やその後の展開については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に取り上げられており、同書を読めば十分でしょう。仮にアイデアの盗用があったとしても、それを法的に著作権侵害だと確定させるのは相当に難しく、道義的に許せない怒りの気持ちと、何かの罪に問う話とは、おおむね別問題のようです。

 しかし、この騒ぎは表沙汰になって早々に裁判へと発展していきます。のちに「聖少女」という、家庭裁判所の話を書いて直木賞を受賞する三好さんが、この段階で自ら裁判を経験した、という点に思わず身を乗り出さない直木賞ファンなど、果たしているのでしょうか。

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2018年9月 2日 (日)

大正3年/1914年ごろ・業務上横領罪で監獄に入ったと語る橘外男。

「判決を、いい渡す」

と裁判長が、視線をくれる。

「被告を、懲役一年半に処す」

(引用者中略)

一審服罪と決めたから、それから二週間ばかりの時を隔てて、控訴期限が切れると同時に、私の刑は確定した。業務上横領罪、一年半の懲役囚として、いよいよ札幌市外扇池にある、札幌監獄へ移送されることになったのであった(引用者後略)

――昭和35年/1960年2月・中央公論社刊、橘外男著『ある小説家の思い出』より

 この世で最も愚かな行為とは何か。それは、橘外男の経歴・履歴をあたかも事実という前提で語ることだ。と、これまで評論家や研究者など、数多くの先人たちが書いていたような気がします。たしかにそうだと思います。

 自分には前科がある、という内容の作品で知られた直木賞受賞者とくれば、「犯罪でたどる」というテーマには恰好の対象でしょう。しかし、この人に関することは、だいたい虚実が判然としません。思い切って無視してしまおうか。とも考えたんですが、やはり素通りするのは難しそうです。今週は、橘さんの告白した犯罪について触れることにします。

 橘さんが中学(旧制)で問題行動を起こした挙句、厳格な父親から勘当を言い渡され、親戚がいるということで預けられた札幌の地で、一人の若い芸者屋のおかみと出会い、いろいろあったのち、札幌を去る。……というストーリーは、いくつかの橘外男作品に描かれている、自伝的な要素です。その「いろいろ」のなかに、自身思い出したくもないと語った犯罪および服役が含まれているわけですが、一部のことはじっさいに橘さんの身に起こったことで、一部はつくり話、と見られています。

 作家が書いたものをいちいち事実だと信用するわけにはいかない、というのは正論に違いありません。ただ、そこで納得していてもラチが明きません。いちおうここでは、橘さんの青春時代までを別の人が実話ふうに仕立てた「小説 橘外男」(『妖奇』昭和27年/1952年5月号 並木行夫)と、橘さんが公に発表するつもりで書いたわけではない、和田謹吾さんに宛てた昭和29年/1954年の私信(『原始林』昭和37年/1962年8月号、9月号掲載、昭和40年/1965年・北書房刊『風土のなかの文学』所収)、この2つを軸に見てみることにします。

 まずは両親を怒らせ、匙を投げられるにいたった中学時代のことですが、退役軍人の父親、橘七三郎さんの地元、群馬県高崎市にあった高崎中学に入り、そこで教師と対立して退校。それから地元を離れ、東京の成城中学の寄宿舎に入れられて、同校に通いますが、やはり長続きしません。つづいて群馬に戻され、沼田中学で学ぶことになったものの、ここでも問題を起こした結果、放校。と、並木さんの「小説 橘外男」では3つの学校が紹介されています。橘さんが直木賞をとる前、『文藝春秋』昭和12年/1937年5月号に発表した「春の目覚め」では、「N町」の中学に通う自画像が描かれていますが、あるいはこれは沼田中がモデルかもしれません。

 ほとほと困った両親が、なかば追い出すかっこうで橘さんを預けた先が、札幌の鉄道院に勤めていたという叔父です。たいてい「叔父」と表現されていますが、これは「男色物語」(昭和27年/1952年10月号~12月号)にもあるように、母にとって唯ひとりの甥、つまり橘さんから見ると「従兄」というのが正しい続柄だそうです(和田謹吾宛の私信)。名前は山口金太郎(「小説 橘外男」)。

 この山口さんというのは、もちろん正真正銘、実在の人物で、元福井藩士の士族山口平三郎さんの長男として明治5年/1872年5月に生まれた、と言いますから、橘さんとは22歳離れており、そういう年齢差もあって「オジさん」と呼んでいたらしいです。東京帝大工科大学を卒業後、日本鉄道株式会社に入社したのち、明治40年/1907年に帝国鉄道庁へと移った人で、橘さんを引き取った当時は、北海道鉄道管理局の札幌工場長の職にあったのだとか。その後、九州の小倉工場に異動、あるいはニューヨークに派遣されたりしたあと、大正11年/1926年に民間の日本車輌製造へと転じ、名古屋商工会議所議員などを務めた、という記録を確認することができます。前述の「春の目覚め」では、「坂口」という姓で出てきます。

 オジさんの世話によって札幌工場の最下級の乙種雇人になりますが、なにしろ安月給で、しかもオジ家族からは冷淡に扱われる始末。ヤサぐれた気分がおさまらず、手を染めることになったのが、街をうろついて恐喝まがいに金を巻き上げる追いはぎの類でした。いよいよ不良青年ここに極まれり、というところにまで落ち込んだ矢先に、とある年上の女性に出会います。金を奪おうと近づいたところ、逆に叱責され、こんなことしていては駄目じゃないのと諭されたことが、橘さんの心に重く響いたらしく、後年その芸妓屋の年若い女将は、橘作品のいくつかに描かれることになります。

 といいますか、並木さんの「小説 橘外男」などは、そのエピソードが物語の中心です。「桃千代」と名乗る彼女に対して、不良青年・外男は、恋愛感情といったものは持ちようがなかったが、札幌を離れてもずっと、その面影は忘れがたく、自分を厭世の底から救ってくれた第一の恩人として、常に心のなかにあった……ということです。

 その後に橘さん自身が書く「若かりし時」(初出『旅』昭和28年/1953年8月号~昭和29年/1954年1月号「青春の尊かりし頃」+「わが青春の遍歴」、昭和29年/1954年1月・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 橘外男集』に収録)、あるいは『ある小説家の思い出』などの、一部の基本的なストーリーは、まさしくこれです。

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2018年8月26日 (日)

昭和58年/1983年・取材先で聞いた西東三鬼スパイ説をそのまま書いて敗訴した小堺昭三。

謝罪広告

著者小堺昭三、発行所株式会社ダイヤモンド社として刊行した小説「密告」九八頁中俳人故西東三鬼を「特高のスパイ」と断定し、それを前提として九九頁、一〇一頁、一〇二頁にこれを敷衍した文章は、事実に反し、故西東三鬼氏に対する世人の認識を誤らしめるものであり、そのために同氏の子息である貴殿の名誉を毀損致しました。

よって、ここに深く陳謝し、将来再びこのような行為をしないことを誓約致します。

小堺昭三

株式会社ダイヤモンド社

大阪府泉大津市(引用者中略)

斎藤直樹殿

――『毎日新聞』昭和58年/1983年4月30日「謝罪広告」より

 第44回(昭和35年/1960年下半期)の直木賞候補になった小堺昭三さんの「自分の中の他人」は、いかにも文学臭の強い、あまり面白みのない一篇ですが、その後の小堺さんといえば、まるでこの作品からは想像できない領域と言っていい、実在の人物を実名で描く、いわゆる実録物で活躍した作家です。

 そんな小堺さんが『文藝春秋』昭和53年/1978年12月号に「弾圧と密告者――『昭和俳句事件』の真相――」を発表するのと相前後して、同年末ごろに出版した『密告 昭和俳句弾圧事件』(昭和54年/1979年1月・ダイヤモンド社刊)という一冊があります。これもやはり、関係者への取材を重視した、小堺さんお得意の技を存分に感じさせる一作でしたが、発売されたとたん、俳壇界隈に騒ぎを巻き起こしてしまいます。昭和15年/1940年「京大俳句」に所属する何人もが、治安維持法違反で検挙されたという新興俳句弾圧事件。そのとき同じ仲間だったはずの西東三鬼さんが、特高警察のスパイとして動いていた、と断定して書かれていたからです。

 『密告』は、国家権力が難癖をつけながら市民の言論を封じ込めようとする時代背景のなか、実力ではなく権力側に取り入って俳壇でのし上がろうとした小野蕪子さんに照準を合わせ、こういう社会は再現してほしくないという小堺さんの危機感を込めた、ノンフィクションとも小説とも、あるいは読み物とも言える作品です。西東さんに触れた部分はあまり多くありません。

 しかし、じつは「京大俳句」検挙の裏には、俳壇の情報を特高に教えたり、彼らの句のなかに天皇制反対・政府転覆に通じる考えで詠まれたものがあるという解釈を、警察に対して講義した内通者ないしは密告者がいたらしい、という噂があったことに触れる流れのなかで、西東三鬼もそのひとりだった、と紹介。昭和15年/1940年2月と同年5月、「京大俳句」グループの主要メンバーが身に覚えのないまま捕えられ、取り調べを受けるという名目で留置所に入れられてなお、しばらく泳がされて8月まで捕まらなかった西東さんは、その間に特高から協力を求められて、仕方なしにそれに応じたのだ、と小堺さんは書きました。

 何の証拠もない話です。臆測です。西東さんは昭和37年/1962年に没し、すでにこの世におらず、過去の俳壇史を見渡しても、いっしょに検挙された俳人、あるいは編集者、研究者、だれひとりとしてこの噂話を確定した人はいません。それなのにスパイだったと断定するのは事実を捏造していると言う他なく、死者への冒涜にあたり、また俳句に誠実に向き合っていた仲間思いの三鬼の名誉を不当に傷つけるものだ、と三鬼の遺族、もしくは三鬼を敬慕する同輩、後輩たちが声を上げ、何度か小堺さんとダイヤモンド社に抗議文を送ったのに突っぱねられたものですから、ついには提訴するに至ります。昭和55年/1980年7月のことです。

 この裁判の経緯や争点などは、大阪地裁堺支部で判決が出た直後の『俳句研究』昭和58年/1983年8月号「特集・西東三鬼の名誉回復」のなかで、充実した資料とともに紹介されており、三鬼スパイ説の撤回に向けた大勢の人たちの情熱ぶりを、よく汲み取ることができます。三鬼の次男、斎藤直樹さんの心情はわかるとしても、鈴木六林男さんをはじめとする俳句関係者たちの、ここまでムキになれるものかというほどの献身と闘争心には、若干の怖さも覚えるところです。

 そのなかで、「三鬼がそんなことをするはずがない」という感情論ばかり唱えるのではなく、推論や伝聞に過ぎないことを断定口調で物語に組み込んだ小堺さんの書き手としての態度を、一貫して問題視しつづけた川名大さんの研究者ダマシイに心洗われる思いですが、基本的に原告、斎藤さん側の全面勝訴となって、被告側は控訴せず、『朝日新聞』『毎日新聞』の朝刊に1回ずつ謝罪広告を出すことと、小堺さんとダイヤモンド社各自30万円の慰謝料および、起訴されて以降の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを受け入れて決着しました。

 というところで、裁判周辺の話を読んでいると、三鬼がスパイだったなんてあり得ない、という原告側の主張のほうに分がある、と素人目にも思います。しかも裁判を起こされる前に、謝罪する機会は小堺さんの側にも十分与えられていました。いったい小堺さんはどこに勝算があると考えて裁判に臨んだのだろうか。疑問に思います。

 原告のほうも、やはりそれは謎だったらしく、人目をひく珍奇な説を採用することでことさら本の売り上げを狙った杜撰なルポライター、と小堺さんのことを評するに至っています。そう見るしか他に考えようがないくらい、小堺さんがほとんど納得のいく説明をすることができなかったからです。

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2018年8月19日 (日)

昭和62年/1987年・外為法違反で書類送検され起訴猶予になった、ココムへの密告者、熊谷独。

東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件で、東京地検は十九日、外為法違反で書類送検されていた同社工作機械事業部長(当時)ら幹部四人と、商談を持ちかけたソ連貿易商社「和光交易」(本社・東京)の取締役ソ連部長ら幹部三人の計七人を起訴猶予とした。同地検は理由について「東芝機械は逮捕した主犯の幹部二人をすでに起訴しており、和光交易は不正輸出に直接関与していなかった」としている。

――『毎日新聞』昭和62年/1987年6月20日「ココム違反の東芝機械幹部ら七人を起訴猶予」より

 国際情勢を背景にした小説というものがあります。一般的にも注目を浴びるジャンルですが、直木賞のなかでも、明らかに華のひとつです。

 「ナリン殿下への回想」「ローマ日本晴」「寛容」など戦前・戦中に発表されたものから、「香港」『ゴメスの名はゴメス』「蒼ざめた馬を見よ」『風塵地帯』、あるいは『喜望峰』『火神を盗め』『プラハからの道化たち』『元首の謀叛』『炎熱商人』『ぼくの小さな祖国』『カディスの赤い星』『脱出のパスポート』『海外特派員 消されたスクープ』『遠い海から来たCOO』『密約幻書』、近年でも『ジェノサイド』『ヨハネスブルグの天使たち』『アンタッチャブル』『暗幕のゲルニカ』などなど、もう枚挙にいとまがない、という手垢のついた常套句で逃げるしかないぐらい、たくさんの作品が候補に選ばれてきました。

 こう見ると、直木賞とは国際的な事象にも目を向けてきた賞だ。と表現したくなりますが、あまりに権威とか文壇ゴシップとか、そちらに光が当たりすぎて、ほとんどそういう評判は耳にしません。というか、山周賞も吉川新人賞も、その他エンタメ系文学賞の多くも、だいたい同じ程度に、世界的な政治状況を描いた小説を取り上げています。たしかに直木賞だけの特質ではありません。

 しかし、そのなかでも異質中の異質といえる、熊谷独さんのデビュー小説『最後の逃亡者』(平成5年/1993年11月・文藝春秋刊)を候補にしてしまう直木賞の、世間体を気にしない予選のありようは、さすがの大胆さでしょう。世の中、何が直木賞をとるのか気にする人は多くても、直木賞の候補に何が(だれが)選ばれるかに注視するのは、ごく少数です。文藝春秋がとってほしいと思う人を、どんどん候補にすればいいと思います。

 さて、熊谷さんですが、どこが異質なのか。いまから30年ほどまえ、国をあげて大騒ぎになった東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件というものがあり、この事件が明るみになるきっかけをつくった告発者として取り調べを受け、結果は起訴猶予とはなりましたが、犯罪行為スレスレどころか、その渦中に身を置いた対ソ貿易にくわしいビジネスマンです。デビューまで文学的履歴は皆無、エンタメ小説界にとっても、その存在そのものが爆弾のような、一種の不気味さ、凄みをもった候補者でした。

 熊谷さんは昭和60年/1985年、22年間務めた和光交易に自ら辞表を提出、退社します。妻ひとり息子ひとりの3人家族、49歳のときです。『モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景』(昭和63年/1988年1月・文藝春秋刊)によれば、直接の引き金になったのは、この年の人事異動で自分の名前が昇進者リストになかったこと、と言いますが、モスクワ事務所で対ソ貿易に従事するあいだ、KGB(国家保安委員会)とのやりとりで発生する、理不尽な交渉、心理的に追いつめられる間接の脅迫、腹芸などにほとほと辟易して疲れ果て、これ以上、この仕事は続けられない、ということで退社を決意したそうです。

 この段階で、取引相手のKGBにも信頼され、まじめに社益を考えながら、しかし一方では、不正な取引を裏づける多くのデータや資料をしっかりと記録していた、というのが熊谷さんの恐ろしいところで、それまでソ連相手の商売をしてきた人なら当然知りながら誰も大っぴらにしなかったその実態を、熊谷が公開しようとしているらしい、と噂が流れ、退社してから元の会社から懐柔の声がかかったり、またソ連側からも引き合いの話が持ち込まれますが、熊谷さんはこれを拒否。次第に、これはやはり明るみにしたほうがいい、するべきだ、という考えを固めていき、通産省に話を持っていこうとしますが、相手にされず、思い切ってパリにあるココム本部宛てに、告発状を送ったのが昭和60年/1985年12月のことです。

 ここからの日本政府、官僚たちの対応が、対米関係を含めて混乱と騒動をもたらした最大の要因、とも言われる空白の1年数か月が始まります。

 昭和62年/1987年3月に表沙汰になるまで、告発状を受け取ったココム本部からの問い合わせに、通産省は「そんな事実はない」とシラを切り、ちゃんと調べて答えているのか、とアメリカから執拗に追及されても、「不正な取引はどこにもない」とスットボける。通産省でも当然、告発者である熊谷独、本名・熊谷一男の名前は把握していたのに、直接話を聞こうとはせず、熊谷さんの経歴や素行を調べたうえで、会社を馘首になった腹いせに騒ぎ立てているだけで、他にも悪い評判ばかりがつきまとう、信頼性に欠ける人間だ、と完全無視を決め込みます。

 最初から通産省も非を認め、自浄で事をおさめる気があればよかったんですが、そんなこと、どだい無理な話かもしれません。アメリカ側は不満を募らせ、熊谷さんも想定していなかったような騒ぎへと転がっていき、日米経済摩擦に油をそそぎ、東芝製品不買運動を巻き起こし、日本の商社は武器商人へとなり下がったと叩かれ、そんななか発端となった熊谷さんも無傷では済まされず、業界の掟をやぶった裏切り者だの、私怨で他のサラリーマンまで巻き添えにした自己中人間だの、さんざんに中傷されます。

 そんな熊谷さんに反撃の場をつくったのが『文藝春秋』でした。昭和62年/1987年8月号と9月号、2か月にわたり「東芝機械事件・主役の告白 これがソ連密貿易の手口だ」「東芝事件・主役の告発手記第二弾 西側がつくるソ連空母」を掲載。編集部の担当者は木俣正剛さんだったそうですが、事件は収束に向かっていましたので、普通であればこのまま世間の関心も離れ、これで終わり、となりそうなところ、昭和63年/1988年には加筆修正、より熊谷さんの心境とソ連での商売の深部にまでせまった単行本が文藝春秋から出たのみならず、文春の息が存分にかかったサントリーミステリー大賞に、小説を書いて参加し、そのディテールを細かく積み上げる筆致が選考委員に褒められて受賞。すると文春の息が存分にかかった直木賞で、予選を通過する、というまさかの作家デビューを果たすのですから、才能はどこに眠っているかわかりません。

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