2019年1月17日 (木)

第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)決定の夜に

 平成31年/2019年1月16日、横綱・稀勢の里が引退会見を行いました。ひとつの時代が終わったと見るか。引退する力士という存在はそれほど珍しくないのだから、恒例の日常風景と見るか。どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 平成31年/2019年1月16日、第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)も決まりました。これなど、まさしく恒例の日常風景、6か月に1回、定期的に開催されています。話題になっているのかいないのか。これもまたもちろん、どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 個人的な感覚で、今回の直木賞を思い返すと、とにかく熱い。重い。長い。という印象ばかりがひしひしと身体にのしかかってきます。どの候補作が受賞しても、そんな直木賞を象徴しているかのようで、直木賞ファンとしては何一つ問題なく楽しみましたが、せっかくだったら平成最後のサプライズ、候補5つ全部受賞! とかやってくれたら最高だったのに、と思います。受賞作ばかりがこの賞を形成しているわけじゃないんだな。そんな事実を再確認させてくれた回だったとも思います。

 何をさておいても、真っ先に取り上げたいのは、そりゃあ、あなたですよ深緑野分さん。『ベルリンは晴れているか』に、このままどの文学賞も賞を贈らない、ということにでもなったら、何だかこれからワタクシ自身、心に傷が残ってしまいそうで、何ちゅう判断をしてくれたんだ直木賞、と悲しくなりますが、終わった賞は終わったことです。直木賞の候補がきっかけで、こういう小説と出会うことができたのは、掛け値なし、大げさでなく幸せでした。きっと直木賞に悪気はありません。どうか深緑さんも直木賞のことを嫌いにならずにいてくださると、うれしいです。

 『熱帯』を読み終わって、不思議な感覚になりました。そして思いました。どうやらこの世には森見登美彦という人がいるそうで、サイン会もやっているし、インタビューも受けている。だけど、あれは誰かが、森見登美彦が実在しているという状況を創造したフィクションで、直木賞の受賞会見のときに、誰かからその仕組みが明かされるのではないか、と。けっきょく今回も明かされはしませんでしたが、読者の心のなかに森見登美彦はいます。謎は、いつまでも謎のままです。

 ところで、やっぱり直木賞選考会での、歴史小説に対するハードルの高さは尋常じゃないな、と思わされたのが、垣根涼介さんの『信長の原理』が受賞できなかったことです。これでも受賞圏じゃないのか。どんだけ歴史モノに厳しいんだ、と叫びたくなります。たぶん選考委員の方たちのなかには、一生解けそうもない「直木賞にふさわしい歴史小説」像があるのでしょう。そういう他人の感覚など気にせず、これからも垣根さんの歴史モノ、読みつづけていきたいと思います。

 『童の神』、正直なところ面白かったです。現代的なテーマを下敷きに、説話の世界からここまで肉付けして、突き抜けた物語をつくるという今村翔吾さんのタダ者じゃなさが、痛いほど伝わってきました。デビューまもない勢いのある新人作家を、なぜか取りこぼしてしまう直木賞。ああ、またか。とガッカリしましたが、とりあえず文学賞の当落はさておいて、今村さんの前途には明るさしか見えません。時代小説の新時代への扉、開けちゃってください。

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2019年1月13日 (日)

0と出るか2と出るか、いわゆるひとつの直木賞キリ番回。

 もうじき決まる第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞は、平成最後なんだそうです。

 だから何なんでしょうか。

 ……という感想しか沸いてこないのが、直木賞にしか興味のない人間の哀しいところですが、平成の直木賞というと、いきなり星川清司さんに嘘をつかれ、横山秀夫さんに嫌われ、伊坂幸太郎さんに見放され、本屋大賞にオイシイところを持っていかれ、受賞作ベストセラートップ1の座を芥川賞から奪うこともできなかった、さんざんな時代でした。新しい時代には、多くの読者から愛され、慕われ、感心されるような文学賞に生まれ変われるよう、心から期待しています。

           ○

 と、ふざけたことを言っていても始まりません。だいたい選考会直前の、うちのブログのエントリーは、ふざけたことしか書かないんですが、今回は久しぶりに、まじめに振り返ってみます。たまたま「直木賞のすべて」のイベントが今日1月13日に実施されるために、そんなに長く書いているひまがない、という事情もあります。

 それはともかく、平成のはじめ頃の直木賞は、快調に推移していました。よく売れる人から、売れゆきはいまいちな地道な実力者まで、次々とバランスよく選び、昭和の終盤の第93回から第111回(平成6年/1994年・上半期)、連続9年半にわたって賞を贈ります。生まれた受賞者は、しめて31名。

 半年に一度も、そんな大傑作が生まれるわけがないことくらい、誰だって知っています。それなのに、何でこのペースで日本文学振興会=文藝春秋がやり続けているかというと、少しでも多くの作家に光を当てて、もっともっとあふれるぐらいに人材を増やしたいからで、しかも一度に二つもの賞を継続してきました。もくろみは十分に達成されてきた、と認めないわけにはいきません。

 ところが、平成後半の直木賞は、そのペースが確実に鈍ります。

 第137回(平成19年/2007年・上半期)に松井今朝子さんの受賞から始まった「連続授賞記録」というものがあり、半年前の第159回(平成30年/2018年・上半期)まで23回、11年半ものあいだ、一回も途切れずに授賞をつづけてきました。もちろん直木賞はじまって以来、いちばんの長さです。

 しかし、その間、誕生した受賞者は28名。さきに紹介した「9年半で31名」のころに比べると明らかに減っています。少数精鋭、といえば聞こえがいいですが、別に意識しないでそうなってしまったんでしょう。「受賞させたい人や作品が2つもなくなった」傾向が顕著になったのが、平成後半の直木賞の特徴です。

 どうして第160回をまえに、こんなハナシをダラダラしてきたかと言いますと、10で割り切れるいわゆる「キリ番の回」というのは、2作授賞が起こやすい巡り合わせをはらんでいるからです。とくにこの賞が、宣伝・PRの性格を担わされた昭和20年代以後は、いっそう歴然としています。

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2019年1月 6日 (日)

平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。

米国からのコカイン密輸入事件で麻薬取締法違反などの罪に問われた元角川書店社長角川春樹被告(58)について、最高裁第2小法廷は1日までに被告側の上告を棄却する決定をした。懲役4年の実刑が確定する。近く収監される見通し。

(引用者中略)

1審では、密輸入を実行したとされるカメラマンの「角川被告から指示された」との証言が有罪認定の決め手となり、千葉地裁は96年6月、懲役4年を言い渡した。2審でカメラマンは「密輸は自分の生活費を稼ぐためだった」と1審の証言を撤回したが、昨年3月の東京高裁判決は「信用できない」と新証言を退け、角川被告の控訴を棄却した。

――『日刊スポーツ』平成12年/2000年11月2日「角川春樹被告 コカイン密輸入事件 最高裁 被告側上告を棄却、実刑4年確定」より

 まもなく決定する第160回(平成30年/2018年・下半期)直木賞。史上はじめて、個人のフルネームの付いた出版社から候補作が選ばれた、ということで話題沸騰……しているのかどうなのか、そういう熱気はあまり伝わってきませんが、「犯罪でたどる直木賞史」にこれほど適した出版人が他にいるでしょうか。いや、いないに違いない。と、ひとりで勝手に納得したところで、今日はこの人。角川春樹さんのお話です。

 1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。

 派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。

 しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。

 とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。

 じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。

 そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。

 平成5年/1993年、逮捕の前日に取締役会が緊急の「社長辞任要求記者会見」を開き、9月2日に新社長が決まったことで、社長の座から追われることになった(公式には「辞任した」)角川さんは、平成6年/1994年12月に1億円の保証金を支払って保釈されるまで獄中生活を送ります。翌平成7年/1995年3月に、保有していた角川書店の株をすべて売却して、新たな出版社「角川春樹事務所」を設立。その間、麻薬取締法違反・業務上横領などの罪に問われた裁判はつづき、平成8年/1996年6月12日に、千葉地裁で懲役4年の実刑判決がくだりますが、無実を主張していた角川さんはすぐさま控訴します。

 平成11年/1999年3月1日、東京高裁の控訴審も一審を支持し、平成12年/2000年秋、最高裁が上告を棄却する決定したことで実刑が確定。平成13年/2001年11月15日から収監されて、平成16年/2004年4月8日に仮釈放されるまでの2年5か月、刑務所で服役しました。平成12年/2000年11月、上告棄却の段階で、角川さんは春樹事務所社長を辞任。お務めを終えて社会に復帰してしばらくは、同社の特別顧問として「映画プロデューサー」の肩書きで活動していましたが、平成21年/2009年11月ごろには、代表取締役会長兼社長として実務のトップに返り咲き、いまも同社の経営の舵をとっています。

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2018年12月30日 (日)

昭和46年/1971年・芸能界暴露記事への協力を強要された、と週刊誌を告訴したなかにし礼。

「取材に応じなければ、私生活をあばく」と作詞家なかにし礼さん(三二)(引用者中略)に“不本意な告白”をさせた疑い(強要罪容疑)で二十三日、週刊ポスト誌社外記者の新宿区百人町二丁目鈴木寿男(三二)中野区新井五丁目寺島義雄(三〇)の二人が警視庁に逮捕された。

調べによると、二人は七月九日号の同誌「衝撃の告白シリーズ・芸能界“相愛”図」について六月中―下旬、「以前お宅にいた内弟子のAさんから取材したあなたの私生活をのせる。いやなら“相愛図”の作成に協力しろ」という趣旨の強要をおこない、いかにもなかにしさんが自分から進んで告白したように発表した。なかにしさんは七月二十日「断ったのだが、石川県の出張先まで追いかけてこられて、無理やり話を聞かれたが、全体としてかなり違っている」と告訴していた。

――『朝日新聞』昭和46年/1971年8月24日「ウソの“告白”強要 週刊ポストの二記者を逮捕」より

 20世紀に作詞家としてさんざん活躍したなかにし礼さんは、50代になってから本格的に小説家を目指し、平成12年/2000年1月、第122回直木賞を受賞したときには、すでに完全な有名人でした。有名人だから犯罪や事件を起こしやすい、とは一概には言えませんけど、多少のことをしても話題になり、結果としてオオゴトに広がっていきやすい、ということは言えると思います。

 なかにしさんといえば、20代の若いころからヒットを飛ばし、なかなかの風貌も兼ね備えていたためか、各種メディアにも顔をさらしていましたが、そんななかにしさんが、うっかりなのか自業自得なのか、思わぬトラブルに巻き込まれたのは、32歳のころ、昭和46年/1971年のことです。

 騒ぎの発端となったのは、小学館が発行する『週刊ポスト』の記事でした。この雑誌にはシリーズ企画として続いていた〈衝撃の告白〉という連載枠があり、そこを担当していた社外記者の鈴木寿男さんと寺島義雄さんが、芸能界のホレたハレたの内幕を暴露してくれそうな人として目をつけたのが、なかにしさんです。取材の結果、昭和46年/1971年7月9日号に「凄い芸能界“相愛”図=なかにし礼 「異常な特殊集団――ぼくは傍観者なのだが、あえて証言する」」というタイトルで、扇情的な記事を掲載。「最近、演奏家と結婚した女性歌手M・J」とか「最近婚約した清純派歌手I・Y」とか、基本的にはイニシャルを使いながらも、だいたい個人名が類推できるような表現で、誰と誰がくっついているとか、誰と誰が寝たとか、そういう話をずらずらと紹介します。

 ところが、記事が出たことで慌てたのが、なかにしさんです。本人の証言によれば、そもそもは週刊誌の記者が、この秋に石田ゆりさんとの結婚式を控えていたなかにしさんの、かつての内弟子から聞いたという、じつは弟子の作詞を盗作しているとか、ホモの疑いもあるとかいったゴシップ記事を、もしも載せてほしくないならこの企画に協力しろ、と脅迫めいたことを言ってきたのだ、といいます。コメント・談話程度の扱いにする、ということでしぶしぶ取材に応じたのに、刷り上がってみれば、完全になかにしさんが自分の言葉で暴露したっぽく書かれている。何だこれは訂正してくれ、と編集部に掛け合ったけど折り合いがつかず、7月10日に告訴へと踏み切ります。

 警視庁ではこれは強要罪の疑いがあると見て、捜査四課が事情を調査、すると8月23日、社外記者二人が突如逮捕される、というなかなか強行な展開に。一気に犯罪沙汰へと盛り上がりを見せたところで、しかし両者の話を突き合わせてみると、強要と言えるかどうかは微妙だし、告訴通りとは受け取れない事実も浮かび上がってくる。まもなく民事上では和解が成立して、10月9日になかにしさんが告訴を取り下げたところで、10月11日、東京地検はこれを不起訴処分にすることを発表します。

 無理やり取材に協力させられた、事前の話と違っていたので告訴した、でも仲直りしたので取り下げた、という話題だけなら、さほどの騒ぎとは言えないかもしれません。しかしこの一連の動きは、単なるタレント同士の男女関係を詮索する、しがない覗き見趣味を超えて、さまざまな方面に影を落とすことになります。

 なにしろ、あまりに早すぎたこの収束ぶり。何か裏があるんじゃないかと思われたからです。

 少なくとも、ここで芸能プロダクションを中心とした業界団体が色をなしたことは間違いありません。なかにしさんの記事は、渡辺晋さんが理事長を務める日本音楽事業者協会(以下「協会」)の逆鱗に触れ、この問題が片付くまではなかにしに新しい仕事はさせない、などと息巻く関係者も現れる有りさま。われわれの商品であるタレントの価値をおとしめるような奴は、きつく懲らしめてやる……というかたちでの実力行為が現実にあったのかどうか、よくわかりませんが、なかにしさんを干す動きに発展したのだ、という噂ばなしが、あちこちの記事に躍ります。

 協会の抗議の矛先は、なかにしさんだけではなく、当然週刊誌のほうにも向けられました。小学館に対して、謝罪の姿勢がないようであれば、今後、取材を拒否する、写真使用も禁止すると通告したのです。こうなってしまっては小学館としても妥協点を探すしかなく、けっきょく同社は協会側の要請を受け入れ、相賀徹夫社長の名で「日本音楽事業者協会、日本歌手協会ならびに関係各位に、多大のご迷惑をおかけ致しましたことを深くおわび」(『読売新聞』昭和46年/1971年10月1日「謹告」)という9月28日付の広告を全国紙に掲載。逮捕された記者二人はすぐに証拠不十分で不起訴、要するに冤罪に近い状態だったので、逆になかにしさんを誣告罪で告訴してやろうかと検討していたらしいですが、これ以上、協会との対立の溝を深めたくない小学館が、二人の記者をなだめ、会社から慰謝料を払って事を収めた、などとも伝えられています。

 じっさい、このあたりを契機として、大手芸能プロが、メディアに対する圧力団体の性質を持ち出したのだ、ととらえる向きもあるそうです。こうなるともはや日本の芸能史に一大痕跡を残す事件だった、と言ってもいいんでしょうが、業界を揺るがす騒動の当事者として、それでもつぶされずに顔を出しながら稼げる作詞家の道を、その後も続けたなかにしさんの強さが、よけいにまぶしく見えるところです。

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2018年12月23日 (日)

昭和50年/1975年・『落日燃ゆ』が死者の名誉を毀損していると訴えられた城山三郎。

広田弘毅元首相の生涯を描いた作家城山三郎氏(本名・杉浦英一)の小説「落日燃ゆ」の中の元駐支公使佐分利貞男氏(故人)をめぐる記述をめぐり、「死者の名誉棄損」が争われた訴訟について、原告側が十一日、上告を取り下げた。原告で佐分利氏のおいに当たる元三菱商事常務、佐分利健氏がことし五月に死亡し、遺族が承継を拒んだためで、これにより、すでに十年にわたる長期裁判となっていたこの訴訟は、注目の「死者の名誉」に対する最高裁判断が示されないまま、原告側敗訴という形で決着した。

――『朝日新聞』昭和60年/1985年11月12日「「落日燃ゆ」訴訟 原告、上告取り下げ 「死者の名誉」に判断なし」より

 「直木賞の黄金期」と呼ばれる昭和30年代、そのバラエティに富んだ受賞者のなかでも、一国一城の主にふさわしい独特な活躍をしたのが城山三郎さんです。いまとなって振り返れば、城山さんの作品を大衆文芸に分類してもあまり違和感はありませんが、選ぶテーマ、素材、仕事の範囲などを見てみると、いかにも枠にハメづらい作家だと見るのが適切だと思います。直木賞という文学賞が、とくに定見や信念をもたない、ゆらぎの多い賞だったことが、のちに功を奏した、という代表的な受賞例かもしれません。

 それはともかく、城山さんの書下ろし小説『落日燃ゆ』(昭和49年/1974年1月刊)です。自分の経験と絡ませて戦争小説を書いてみよう、と発想してからいろいろ転じ、文官として唯一A級戦犯で死刑となった広田弘毅さんの存在に行き当たって、構想三年、執筆二年。広田? そんなパッとしない人物を書いた小説なんか売れるわけない、とあきらめ切っていた新潮社内部の声を覆し、発売されるとたちまち大評判をとって、城山さんの代表作のひとつとなりました。実名小説、もしくは実在の人物を主人公にしたフィクションです。

 「自らのために計らわず」というのを生涯の信条とした広田さんは、自分のことは絶対にしゃべるなと遺族に言い残していたため、城山さんの取材も難航したそうですが、ゴルフ仲間だった大岡昇平さんが、広田の長男とは小学校以来の友人だからおれが何とかして口説いてやる、と一肌脱いでくれたおかげで、遺族への取材がかない、かつて知られていなかった広田さんやその周辺の動向を描けたのだそうです。もとより、実名小説とは言っても、誰かの醜聞を暴露してやろうとか、読者の刹那的なゴシップ趣味を煽って読ませようとか、そういう類いの小説ではありません。

 ところが、この作品を読んで傷ついた人がいます。

 『落日燃ゆ』では、広田さんと同じ外交官として活躍していた佐分利貞男さんのことに触れる段で、彼の女性関係について言及し、「相手は花柳界の女だけではない。部下の妻との関係もうんぬんされた。(潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に「風上にも置けぬ」と、眉をひそめていた)」と書きました。佐分利さんの甥にあたる健さんは、子供のころからずいぶん可愛がられた記憶があり、そんなオジに対する醜聞を、こんなところで描かれて大ショック。事実無根だ、亡くなった人間の名誉を傷つけた、おれも精神的な苦痛を負った、と主張して、謝罪広告の掲載と慰謝料100万円の支払いを求める訴訟を提起します。昭和50年/1975年のことです。

 小説のなかで、過去に実在した人物の、一般的には倫理に悖ると判断されるような言動が書かれることは、よくあります。名誉毀損といえば毀損でしょう。しかしそれを全部受け入れはじめたら、何世代前の先祖のことだったら精神的苦痛が認められるのかとか、小説を構成するうえで重要な設定や醜聞も、名誉毀損で裁かれるのかとか、けっきょくキリがありません。そこに一応のキリを付けるのが法的な判断、というやつです。

 昭和52年/1977年7月19日、東京地裁の判決は、今回のケースでいえば訴えた原告側の敗訴。その理由は、死者の名誉を毀損したという場合、虚偽虚妄をもってその名誉毀損がなされた場合にかぎって不法行為となるが、本件では、佐分利貞男さんの女性関係が小説に書かれたどおりのものだったか、もはや50年近く前のことでこれが虚偽虚妄による記述と認められるほどの証明がないから、というものでした。

 それでも、いくら死者のことだからって、いい加減なこと書けば名誉毀損で罰せられるぞ、とも言っており、それはそれで妥当だと思います。城山さんもこの判決に対しては、そこまでユニークな判決とは思えない、とコメント。自分の場合は、そこに関しても取材・調査のうえで書いていて、虚偽虚妄じゃないのだから、勝訴は当然だという姿勢を示しました。

 当時、死者の名誉毀損が注目された訴訟には、昭和52年/1977年の臼井吉見さん『事故のてんまつ』訴訟があります。しかしこちらは、告訴から3か月で臼井さん側が全面的に謝罪して、原告・被告両者の和解が成立。前にこのブログで取り上げた小堺昭三さんの『密告』裁判では、一審の判決を被告側が受け入れて、謝罪広告の掲載および賠償金支払いに従いました。ところが、『落日燃ゆ』については、原告の佐分利健さんがよほど執念を燃やしたか、判決を不服として控訴したおかげで、裁判がつづき、昭和54年/1979年3月14日東京高裁の第二審では一審同様に、訴えはしりぞけられたあと、昭和60年/1985年5月31日、佐分利さん83歳で亡くなったところ、遺族が訴訟の承継を拒否、同年11月11日に上告が取り下げられるまで約10年にわたって続くことになります。

 自分のオジさんの女性関係が乱れ切っていたと書かれたことを、とにかく許すことができず、告訴するだけではなく控訴、上告と何年にもわたって闘いつづける甥御さんの、その燃えたぎる心に何があったのでしょうか。うかがい知れないものがありますが、ともかく城山さんの勝訴のままで幕を閉じたとはいえ、死者の名誉毀損に対する一定の法的解釈が出されたのですから、佐分利さんの(おそらく孤独な)闘いも、意味のあったものと思います。

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2018年12月16日 (日)

平成23年/2011年・自炊代行業者を相手に訴訟を起こした浅田次郎たち。

ベストセラー作家の東野圭吾さん(53)や「島耕作」シリーズで知られる漫画家弘兼憲史さん(64)ら7人が20日、本や漫画を私的に電子化する「自炊」の代行業は著作権を侵害しているとして、代行業者「愛宕」(川崎市)「スキャン×BANK」(東京都)に自炊行為の差し止めを求める訴訟を東京地裁に起こした。原告側によると、自炊行為をめぐる提訴は初めて。

(引用者中略)

著作権法では個人の私的使用による複製は認められているが、原告側は「大規模にユーザーの発注を募ってスキャンを行う事業は、著作権法上の複製権侵害に当たる」と主張。「海賊版がネットなどに大量に拡散する危険性があり、電子書籍の市場形成を大きく阻害しかねない」としている。

――『日刊スポーツ』平成23年/2011年12月21日「代行スキャン スカン!!」より

 えっ、もう半年経ったのか。すぐにまた次の直木賞候補が発表されるけど、一年に二回とか多すぎでしょ。……などと嘆いていても始まりません。こんなときは、昔の直木賞にまつわる話をゆっくり振り返ってみるのもいいと思います。なにより精神的に落ち着きます。材料はあさり切れないほどにありますし、一生困ることもありません。

 そうはいっても、あまりに昔の話題だと、調べるだけで疲れ果てます。今週はもう少し現実に、実感の持てる犯罪事件のことに触れることにしました。自炊代行という違法行為についてです。

 紙の媒体ならともかく、簡単に情報にアクセスできるネットのなかで、この話についてわざわざ説明するのは、ほとんど無意味のような気がしますが、だらだら言い訳せず、少し追ってみることにします。

 いまから8年前の平成22年/2010年5月、Appleのタブレット端末iPadの、日本での発売が開始されました。紙に印刷されて製本されたいわゆる「書籍」を、こういった端末で閲覧・読書するために、デジタル画像データとしてスキャンする「自炊」と呼ばれる行為は、それまでも一部のあいだでは行われ、また現在でも私的利用の範囲内であれば違法ではありませんが、iPadの普及によってニーズが一気に広がります。だけど、一般の家庭でやろうと思うと手間もかかるし時間もかかる。ということで、自炊代行サービスなるものを始める業者が数多く生まれます。顧客から紙の本を受け取り、それをバラして一ページずつスキャンして、デジタル画像データに変換して顧客に納品する、というサービスです。

 しかし、著作権者である作家のなかには、こういう状況を問題視、もしくは不快に思う人たちがいるそうです。122名の作家たちが連名で、自分の作品がスキャンされることは許諾しないむねを、主な業者に宛てて書面で通知したのが平成23年/2011年9月のこと。このとき、2つの会社が、今後顧客から依頼があればこれら許諾しない作家の作品もスキャンに応じる、という姿勢を示したため、この2社を相手取って、同年12月20日、浅田次郎、大沢在昌、永井豪、林真理子、東野圭吾、弘兼憲史、武論尊、以上7人の小説家・漫画家が、スキャン行為の差し止めを求めて東京地裁に提訴しました。

 この裁判はまもなく、被告の業者が解散または請求を認諾したために、原告側が訴えを取り下げていったん終わりますが、それでも他の代行サービスは衰えを見せず、しかも原告たちの作品を受注スキャンしていた例も発覚し、平成24年/2012年11月27日、改めて同じ7人が、別の業者7社に対して差し止めを求めて提訴。翌平成25年/2013年9月30日と10月30日、東京地裁は被告となった業者に対し、自炊代行は違法であるとして、損害賠償金の支払いと業務停止を命じます。

 この判決を不服とした被告のうちの1社が控訴したのですが、平成26年/2014年10月22日に、知的財産高裁も第一審を支持し、さらには最高裁が平成28年/2016年3月16日付で上告を受理しない判断を示したことで、書籍を裁断してスキャンするという商売は、著作権法が保護する複製権の侵害に当たるという二審判決が確定。作家たちが具体的な行動を起こしてから、だいたい4年半で、ひとつの決着を見ることになりました。

 裁判のなりゆき、争点などは、ともかくとしましょう。やはりここで注目したいのは、原告7人のうち小説家が4人いて、そのいずれもが直木賞の受賞者だったことです。

 最初の提訴の段階では、そのうち2人が直木賞の選考委員。さらに、平成23年/2011年9月の「受注スキャン拒否リスト」に名前を連ねた122名の著作権者を見てみれば、直木賞受賞者が26名、候補経験者8名に対し、芥川賞の受賞者はたった4名、候補経験者も2名。……ということで、いつも文学だ何だと偉そうにしている芥川賞方面の人たちはまるで脇役に追いやられ、ほぼ直木賞が独占して矢面に立った話題だったと言ってもよく、そこに思わず心うち震えた直木賞ファンは多かったと思います。ワタクシもそのひとりです。

 直木賞というのは、文芸の辛気くさい話題に収まらず、こういう商業出版、出版ビジネスの火ダネとも密接に結びついているところが、芥川賞に比べて段違いに面白い点なんですが、この平成22年/2010年という年は、電子書籍の時代がいよいよ来るぞ来るぞと盛り上がっていた時期に当たります。新刊で出る本とか、書店に出まわっている既刊書が電子化されていけば、はじめから電子版を買う割合が増え、自炊代行なんて利用する一般読者は減るに違いない、とも言われていました。要するに過渡期です。

 ちなみに直木賞で見てみると、8年前、平成22年/2010年下半期を対象にした第144回、候補作に挙げられたのは5作品です。当時、電子化されていた作品はひとつもありません。『砂の王国』とか『悪の教典』とか、あんな重ったるい物体、持ち歩くのに辟易した人もいたことでしょう。スタイリッシュに端末に入れるために、自炊代行サービスを利用して、直木賞候補読書ライフを楽しみたい。その気持ちはよくわかります。

 それが半年前の第159回(平成30年/2018年上半期)になると、〈紙派〉作家の代表的なひとり湊かなえさんの『未来』を除いて、他の5つの候補作はすべて電子版も有り、というところにまで来ています。それを考えると、本は紙で買ってほしい、デジタル化はイヤだ、自炊するのもやめてほしい、というのは、もはや遅れた発想かもしれません。犯罪の案件としては、デジタル化への移行期にパッと咲いてすぐにしぼんだ、そこまで普遍的なものではなかった、と言っていいと思います。

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2018年12月 9日 (日)

昭和42年/1967年・いさかいにも構わず、日本翻訳家協会の新会長を引き受けた木々高太郎。

出版ブームにともなって脚光を浴びだした翻訳家の集団「日本翻訳家協会」(引用者中略)に“お家騒動”が起こり、二人の会長が出現した。

(引用者中略)

同協会はさる二日、役員改選のための定期総会を渋谷区の青山学院大学で開いたがまとまらず、十八日継続総会を開き、会長に慶大名誉教授林髞(推理作家、木々高太郎)を選出、副会長には慶大教授平松幹夫氏が留任。(引用者中略)

ところが総会前まで平松氏とともに副会長だった児童文学者村岡花子女史、理事の上智大教授刈田元司氏らは、それまで十一年間会長をつづけてきた青山学院大教授(英語学)豊田実氏(八一)が、二日の総会でまた会長に留任したと主張、文部省や協会員に訴え出た。

――『読売新聞』昭和42年/1967年6月23日「翻訳家協会“お家騒動” 保守、革新二人の会長」より

 別に江戸に限りません。喧嘩というのは、たいていの地域、たいていの時代において、ひとつの華です。自分から仕掛けたり、望まないところで巻き込まれたり、その形態はさまざまあると思いますが、下手にこじれると犯罪事件に発展することもある、なかなか油断のできない、面白い華です。

 犯罪としての要件を満たしていない百花繚乱の喧嘩や事件。こういうものまで取り上げていくと、ブログのテーマからは外れる一方なんですが、何といっても木々高太郎さんにまつわるいざこざを知ってしまっては、とても心穏やかではいられません。ということで今週は、推理文壇の嫌われ隊長こと木々さんが参加していた日本翻訳家協会の内紛を取り上げることにします。犯罪一歩手前、のようなお話です。

 木々さんは昭和41年/1966年、以前も触れた小島政二郎さんと合わせて、「三田」の仲間同士、同じタイミングで直木賞の選考委員を退任、もしくはクビになりましたが、これが年齢でいうと68歳のとき。二度目の結婚生活も充実して、選考委員を辞めたあとも多忙な日々を送った、と伝えられています。じっさい、昭和42年/1967年には外国に出かけて日本を不在にしましたが、そんな留守中に勃発したのが日本翻訳家協会の騒ぎです。

 この協会は昭和29年/1954年、日本ペンクラブのなかにあった「日本翻訳委員会」と、鈴木信太郎さんが議長を務める「外国文学者協会」とが合体し、辰野隆さんを初代会長として創設されたもので、昭和39年/1964年には創立10周年を機に、翻訳者を顕彰する「日本翻訳文化賞」を、翌年からは出版社を顕彰する「日本翻訳出版文化賞」を設定。国際翻訳家連盟(FIT)に加盟する日本代表の団体と位置づけられ、基本的に文学専門というよりは、もっと幅広く学術全般の研究者や翻訳家を数多く擁して、地道に活動を続けていました。いわば由緒正しい団体です。

 ところが、会費の未払いや運営の遅滞などでグダグダになってきたこの組織を、何とかして改革しようと事務局長の座についた森川宗興さんが、どうやら盛んに入会を勧誘した結果、収入基盤を安定させたらしく、それはそれでよかったのですが、森川某ってやつはロクな翻訳の業績もないくせに、ひとりで勝手にやりすぎだ、と苦々しく思う会員を、一部で生んでしまったといいます。昭和42年/1967年6月、役員改選の総会がひらかれると森川さんの留任が拒否される風向きに。

 火ダネは他にもありました。長期政権だった高齢の豊田実さんを会長職から降ろし、新しい体制でやっていきたいと考える平松幹夫さんの仲間たちと、いやいや豊田会長のままでいいじゃないか、だいたい平松という人間が偉そうにのさばっているのが気に食わん、と敵愾心むきだしの勢力と、両者の折り合いがつかず、豊田体制の続行派とは別に、後日正規の手続きを踏んで新しい体制を決定したのだと主張する平松グループとが正面から対立。どちらも正統な「日本翻訳家協会」だと名乗ることになって、この状態は平松さんたちの協会が平成9年/1997年に解散するまで、30年にわたって続きました。

 ここで、あわや告訴か裁判か、というところまで話がこじれたのは、ひとつには金銭問題が絡んでいたからだ、と言われます。豊田派の中心にいた佐藤亮一さんに言わせれば、森川某という人間が何よりのクセモノで、協会の出納簿を見せろといってもゴマかして公開しない、あんなやつ信用できるか、と猛烈に個人批判を展開。対する平松グループの旗頭、森川さんも黙ったままではありません。前任の事務局長だった佐藤氏のほうが経理的な仕事のできない無能な役員だったじゃないか。しかも事務局長の引き継ぎのときに印刷代と称して5万円を持っていったが、あとで印刷会社から協会に5万円の請求書が来た。こんなの立派な背任横領だ。などと暴露する有り様です。

 佐藤亮一は背任横領の罪がある、と森川さんが糾弾する。逆に佐藤さんは、帳簿を隠している森川こそ横領罪に問われるべきだと言い返す。……両者、あるいは両グループによる罵倒の投げつけ合いは、『週刊読売』昭和42年/1967年9月8日号「有名大学教授たちのオソマツ騒動記 金と肩書きで分裂した日本翻訳家協会」にみっちりと記録されていて、どちらも言いたい放題のヒートアップが止まりません。こういう派手な公開喧嘩を「華」と呼ばずして、いったい何を華というのでしょうか。

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2018年12月 2日 (日)

昭和48年/1973年・「四畳半襖の下張」掲載での告訴と裁判を受けて立った野坂昭如。

永井荷風作と伝えられる戯作春本「四畳半襖(ふすま)の下張」を雑誌「面白半分」に掲載して、わいせつ文書販売罪に問われた作家の野坂昭如(五〇)と、元面白半分社社長の佐藤嘉尚(三七)両被告に対する上告審で、最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)は二十八日午前、わいせつ文書の処罰は憲法違反に当たらないとした上で「この文書は主として読者の好色的興味に訴えるものと認められ、一、二審の判断は正当」として一、二審の有罪判決を支持し、被告・弁護側の上告を棄却する判決を言い渡した。

(引用者中略)

(引用者注:判決理由のなかで)わいせつ性を判断する際に「芸術性・思想性」も考慮に入れるべきだ、とした点は、これまでわいせつ性と芸術性・思想性などを「別」としてきた最高裁判例を実質的に手直ししたものといえる。

――『朝日新聞』昭和55年/1980年11月28日夕刊「「わいせつ」判断に新基準 最高裁「四畳半」などの上告は棄却」より

 文学というのは、それ自体がすでに犯罪だ。……と高らかに宣言したのは誰だったでしょうか。ほとんど詭弁か修辞の類いという感じもしますが、けっきょく文学は何モノにだって置き換えられる、その実体性のなさを表現したかったのかもしれません。

 実体性のなさ、というか、正解のなさ、と言ってもよさそうですけど、そういう文学の自由すぎる風合いが、無理やりにでも決まりや定義をつくりたがる法曹の体質と、派手にぶつかって大きな騒ぎをもたらすことがあります。たとえば、昭和48年/1973年~昭和55年/1980年の7年にわたる、野坂昭如さんを中心とした「四畳半襖の下張」裁判です。

 野坂さんたちが問われた罪状は、さほど複雑なものではありません。

 大正13年/1924年に永井荷風さんが書き上げたと伝えられる「四畳半襖の下張」という題名の戯作があります。昭和22年/1947年、一般流通に出まわらないかたちで松川健文(夏川文章)さんの手によって秘密出版され、たちまち警察当局に猥褻文書扱いされて、裁判に持ち込まれた結果、発行者に懲役三か月執行猶予二年の有罪判決がくだされた作品です。

 じっさい、これが秘密に出版されるまで、あるいは警察に目をつけられるまでの経緯そのものに、永井さんをはじめ、平井呈一さん、猪場毅さんなどなどの、幾人もの思惑、迷惑、私情、激憤といった感情がからみ合っていて、一つの叙事詩を形成するぐらいの物語が介在しているらしく、そこがもう最高にエキサイティングなんですが、それは脇におくとしましょう。この作品に高い文学的価値があると考えたひとりが、昭和43年/1968年1月に第58回直木賞を受賞、いっそう目立った活躍をしていた野坂昭如さんで、昭和47年/1972年、自分が編集長を務める『面白半分』7月号に、その全文を再録。すると、やっぱり取り締まり当局に摘発されて、昭和48年/1973年2月、野坂さんと『面白半分』発行人の佐藤嘉尚さん、両者合わせて東京地検に起訴されます。刑法175条、猥褻文書販売の罪ということだったんですが、罰則は大して重いものではありません。

 しかし、そこでよーし、裁判で争ってやろうじゃないかと、腕まくりするところが、野坂さんの面目躍如たるところでしょう。興行的なパフォーマンスを文学的な話題と結びつける野坂さんの稀有な才能がここでも開花、名前の知られた作家や評論家、メディアなどを味方につけて、ぞくぞくと裁判に動員し、大したことがなかったはずの単なるポルノ小説摘発事件を、一大文学ニュースに仕立て上げてしまいます。

 もちろん野坂さんは、裁判に勝つ気満々だったはずですが、と同時に、いまの時代における「猥褻な表現」とは、いったい何なのか。警察官や検察官、裁判官といった人たちが、猥褻かそうでないかを決定することの不条理性。そういった一種の問題提起を、とくに出版に携わる立場ではない、一般の人たちに関心を持てる話題として投げかけて、広げていくことも、野坂さんの目的のなかには確実にあったと思われます。

 ふだんは意識しないで生活している環境のなかに、マスコミをも活用することでニュース性をもたせ、社会の関心事のなかに文学(もしくは出版)を位置づける。……その考えかたは、ほどんど直木賞と同じです。直木賞、いやその他の多くの文学賞は、すでに名をなした客の呼べる作家を、選考委員に据えることで、注目されやすい姿を構成している一面がありますが、それと同様、「四畳半襖の下張」裁判の被告側も、弁護人や弁護側の証人として、次つぎに人気の作家、いっぱしの評論家を裁判所に連れ出し、そのことでニュースの重みと重要性を、世間に知らしめようとはかります。

 ということで、被告の野坂さんおよび『面白半分』側を援助するために立ち上がったのが、特別弁護人の丸谷才一さん、そして第一審で証人席に立った14名。五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、石川淳、有吉佐和子、金井美恵子、田村隆一、吉田精一、榊原美文、中村光夫、寺田博、奥平康弘、水沢和子といった人たちです。水沢さんは主婦なので別として、ほかは作家、詩人、研究家、評論家、編集者、学者といった面々を揃えました。

 「法廷は“文学講演会”さながらの異色の証人調べが続けられて来た。」「さしずめ、「現代日本文学全集」(丸谷氏の話)」(『朝日新聞』昭和50年/1975年11月28日)といった表現も飛び出す有り様で、とりまく記者たちも巻き込んで、真剣に文学のことで楽しんでいた様子がよくわかります。

 「四畳半襖の下張」がいかに文学性のある作品か。表現の自由と猥褻との線引きはどこまで可能か。昭和48年/1973年9月10日の初公判以来、2年近くかけて文学関係者がそれぞれ熱い主張を繰り広げます。その結果、昭和51年/1976年4月27日に東京地裁で出された判決が、野坂さん罰金10万円、佐藤さん罰金15万円の有罪判決。昭和54年/1979年3月20日、東京高裁の控訴審判決も、一審を支持して有罪。昭和55年/1980年11月28日、最高裁上告審また同様。……何年もかけていろいろ騒いだわりには、何かチッポケな話だよな、と不満げにつぶやいた記者が、いたとかいなかったとか。

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2018年11月25日 (日)

昭和28年/1953年・松川事件に関心を寄せ、裁判の傍聴に出かけた池田みち子。

控訴審は昭和二六年一〇月二三日から仙台高裁鈴木禎次郎裁判長の法廷で始まった。弁護団は自由法曹団を中心に約一三〇人で編成、このころ作家の広津和郎、宇野浩二らも裁判の成行きに関心を示し、のち広津は「松川裁判」という著作を発表する。また、二人が世話人となり川端康成、武者小路実篤、吉川英治らの作家も「裁判の公正をのぞむ」むねの要請文を裁判所に出し、チェコや中国からも被告たちに激励のカンパが送られてきたりした。

――昭和55年/1980年10月・第一法規出版刊、田中二郎、佐藤功、野村二郎・編『戦後政治裁判史録(1)』「14 松川事件」より

 長く続いた昭和の時代、しぶとく作家として生き残った池田みち子さんが、70歳を過ぎて刊行した作品集に『カインとその仲間たち』(昭和58年/1983年11月・福武書店刊)があります。一読、うわあ池田さんってこんなに面白い作家だったんだと、正直驚いたんですが、何といってもその魅力の詰まっているのが、収録作のひとつ「市ヶ谷富久町」(初出『海』昭和50年/1975年4月号)です。

 語り手は〈西田千世子〉という名前の老年作家。自分がまだ若かったころ、上京したばかりの身で参加した赤色救援会の、かつて事務所があったと思われる市ヶ谷の街を歩くうちに、当時のことを回想する、というのが大枠の流れです。救援会というのは、左翼関係で収監された人たちを刑務所の外から支援する活動もしていた団体で、語り手の〈西田〉もまた、幾度となく検挙されては、留置所暮らしを経験。しかし収入や生活を考えたときに、どうしても続かなくなって活動から離れ、そのことをずっと負い目に感じながら、やがて物書きの道に入っていくという、その過程についても触れられています。モデルは当然、池田さん自身です。

 戦後には、食べていかなければならないという事情もあって、少しエロティックな方向から現代風俗に取材した小説を次々と書き飛ばし、世相とそこに生きる人間を切り取った、文芸色の強い中間小説の世界で活躍。第30回(昭和28年/1953年・下半期)に直木賞の候補になった「汚された思春期」なども、いま読むといったい何のことやら、と目が点になるくらいの、巷の男女の惚れた腫れたを描いた埋もれるべくして埋もれる一短篇なんですが、その後、池田さんが関心をもって書くようになるのが、売春婦や、ドヤ街山谷に暮らす人びと、ということで、常に社会構造的に弱い立場にある人たちに目を向けてきた作家であることは間違いありません。

 ちなみに「汚された思春期」は、『小説公園』昭和28年/1953年10月号に発表されたものですが、その次に同誌に書いたのが、昭和29年/1954年3月号掲載の「松川事件(私は何を信じればよいか)」になります。

 池田さんがいっとき熱心に現地に足を運び、被告やその家族などから話を聞いて、裁判の行方を見守った松川事件。そこでは、昭和28年/1953年12月、大原富枝さんとともに仙台で行われた控訴審の公判を傍聴しに訪れたときの見聞と、池田さんの考えるこの裁判の問題点などが綴られています。

 松川事件というのは、もうあまりに有名で、説明の必要はなさそうですけど、便宜上概略だけ記しておけば、昭和24年/1949年8月17日未明、東北本線の上野行き旅客列車が福島県金谷川駅と松川駅の間を走行中に脱線転覆、3人の乗務員が死亡します。現場検証の結果、レールの継ぎ目板や犬釘が何者かによって外されていた形跡があり、人為的に脱線を狙った者がいるとされて、国鉄労組と東芝松川工場労組の組合員が共同して犯行に及んだ、という線で捜査が進み、まもなく9月から10月にかけて汽車顛覆致死容疑で計20名が検挙。同年12月から公判がひらかれて以降、途中、何人かに死刑判決や無期懲役の判決がくだされたりもしましたが、昭和38年/1963年9月、二度目の上告審で最終的に全員の無罪が確定したという、その経緯から、警察・検察などの権力が無辜の労働者たちに罪をかぶせようとした、戦後の代表的な大規模冤罪事件として知られています。

 いっぽう文壇史の側面から言っても、広津和郎さんという当時60代に差しかかった著名な大物作家が、第一審の有罪判決に対してこの裁判はおかしいのではないかと批判を始め、他の文学者たちのあいだにも関心が広がっていき、批評、随筆、記録、小説、戯曲などなど、これに関する文章が数多く発表された犯罪事件として、歴史にその名を刻んでいます。

 昭和28年/1953年10月26日、控訴審の仙台高裁鈴木禎次郎裁判長に宛てて提出された、ぜひとも公正な裁判を望むという内容の要請書は、広津さんや宇野浩二さんが先頭になってつくられたものだそうですが、そこに志賀直哉、川端康成、武者小路実篤、河盛好蔵、尾崎士郎といったメンツの他に、井伏鱒二さんや吉川英治さんも名を連ねていた、ということからも、直木賞という文学賞と、いくぶんかの縁がなかったわけではありません。

 そういったなかで、まったく個人的な興味によって、この事件および裁判の記事を外から眺めていた池田さんが、ほんとうのところはどうなんだろう、と身軽に腰を上げて、実地検証に参加したり、裁判を傍聴するために出かけていき、それに関する文章をいくつか発表。マスコミなどでは、松田解子さんや佐多稲子さん、大原富枝さんなどとともに、女性作家によって結集した松川裁判弁護一派のひとり、みたいに扱われました。

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2018年11月18日 (日)

昭和42年/1967年・名誉毀損だとしてデヴィ夫人に告訴された梶山季之。

インドネシアのスカルノ氏のデビ夫人(二七)=日本名、根本七保子=は弁護士、平井博也氏を通じて九日、小説『生贄(いけにえ)』を執筆した作家・梶山季之氏と出版元の徳間書店(徳間康快代表取締役)を名誉棄損で東京地検に告訴するとともに、二人を相手どって毎日、朝日、読売新聞に謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。

――『毎日新聞』昭和42年/1967年9月9日夕刊より

 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノさん――ここでは当然〈デヴィ夫人〉という表記で統一しますけど、彼女の個性そのものが、単なるお騒がせの域を超えて、事件性をはらんだ存在であり、文化をゆるがす現象でもあることは、一介の直木賞オタクでしかないワタクシにも、何となくわかります。

 昭和36年/1961年、一国の国家元首の夫人となる前後には、富と権力というものに象徴されるエスタブリッシュメントの住人と見なされ、そういう立場の人がおおむね背負わされる一般大衆からの反感ややっかみにさらされた時代もありました。しかしその頃からいまにいたるまで、お高く止まりきらない俗っ気のせいか、多くの人に面白がられてイジられるぐらいの、ユルい魅力も兼ねそなえながら、その履歴のなかに国際問題、社会経済、女性の生き方、芸能、出版、犯罪などなど、あらゆる要素が混ざり込んでいるという、ともかく稀有な人物です。

 と、デヴィ夫人の生涯を追うだけで、直木賞(に関連したあれこれ)との接触や接近の話題をいくつも挙げることができそうですけど、今日のエントリーでは、もう一方の主人公の座に梶山季之さんを据えたいと思います。いまから55年前、第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞に落ちたところから、終生直木賞のようなものを痛烈に批判する側にまわった大作家のひとりです。

 ところで、梶山さんの作家的な特徴とは何でしょう。そんな難しいことは、ワタクシもよくわかりませんが、ひとつには市井に生きる有象無象の人間たちの視点を常に意識し、そのなかで悪戦苦闘、新たな物語表現を模索したことが挙げられます。

 新しいことに挑戦しようとすれば、旧弊とのぶつかり合いが起こるのは自然の流れです。しかも梶山さんはその売れっ子ぶりも破格でしたから、余計に揉めごとやいざこざに巻き込まれやすくなる。とくに国家権力に目をつけられて、何度も問題視されたのが、「ポルノ小説で荒稼ぎした」と自称・自嘲する梶山さんの、小説における猥褻表現でした。

 梶山作品がはじめて猥褻文書販売・所持の嫌疑をうけて摘発されたのが、昭和41年/1966年『週刊新潮』に連載中の「女の警察」5月14日号分の描写です。そのころ梶山さんは政財界の暗部をえぐる類いの取材も精力的におこない、その成果を広く発表していたため、それに対する権力側の制裁と警告の意味合いもあったんじゃないか、などとまことしやかに囁かれた、といいます。もしそうだとしたら、権力としてあまりにやることがショボくてセコすぎるとは思うんですが、たしかにそう考えたほうが話は面白いでしょう。けっきょくこの件は、翌昭和42年/1967年8月22日付で罰金5万円の略式命令を受けて、落着します(平成10年/1998年8月・季節社刊『積乱雲 梶山季之――その軌跡と周辺』所収「仕事の年譜・年譜の行間」)。

 以来、昭和43年/1968年には『週刊現代』4月25日号の連載小説「かんぷらちんき」、『週刊新潮』5月4日号の読切小説「スリラーの街」とたてつづけに2度、昭和49年/1974年には『問題小説』7月号に掲載された「銀座ナミダ通り」シリーズの一作が、それぞれ同じように猥褻表現を含んでいると見られて、押収、回収の対象になっています。

 4度にわたって同じ罪状で摘発されるというのは、警察側が懲りなかったのか、梶山さんのほうが懲りなかったのか、もはやよくわからないイタチごっこですが、そのたびに新聞で報道されるところが人気の作家の証し、ということかもしれません。少なくとも、これで梶山さんが委縮したとか、御上の意向に従順になったとか、そんなことはまったくなく、男一匹、雑草ダマシイを失わずに、権威や権力に対峙するかたちで作家活動をつづけました。

 ということで、いつの間にかアンチ直木賞もさまになる、直木賞があげそこねた作家の代表的な存在となった梶山さんが、政財界のゴシップを大胆に取り入れて、たくましく生きる悪女の姿を描き出そうという気概で筆をとったのが、『週刊アサヒ芸能』に昭和41年/1966年5月29日号~昭和42年/1967年1月22日号まで連載された「生贄」です。

 中学の国語教師〈外岡秀哉〉が、新宿の喫茶店でウェイトレスをしていた昔の教え子〈笹倉佐保子〉と偶然再会するところから話が始まります。結婚相手の伯父である怪しげな実業者〈中内栃造〉の仕事を手伝うことになった〈外岡〉は、その関係からアルネシア連邦と日本との戦後賠償の交渉に関わることに。来日したアルメニアの大統領〈エルランガ〉は、無類の女好きで、ファッションモデルの〈伊東さき子〉を見初め、さっそく肉体関係をもち、自国に連れ帰りますが、そこがエルランガの弱点だと知った〈外岡〉は、何が何でも有名になりたい、お金持ちになりたいという〈佐保子〉に知恵を授け、エルランガのもとに送り込むことを計画。同じく第三夫人の座を狙う〈さき子〉を蹴落とし、自らの野望を実現しようとする〈佐保子〉の立身出世の夢は、果たして成功するのでしょうか……。

 昭和41年/1966年11月、妊娠中に日本に一時戻ってきていたデヴィ夫人に対して、批判を前提としたような中傷、興味本位にプライバシーをほじくり返す記事が氾濫するなか、やはり『生贄』もその一種として発表された、というのは誰も否定できません。梶山さんや徳間書店は、これは特定の人物を描いたものではない、とさんざん強弁したんですが、多くの読者にデヴィ夫人をモデルにした小説だと思われたのは当然のことでしょう。そして、打たれても泣き寝入りせず、可能なかぎり反撃するというのが、デヴィ夫人の流儀だったようです。

 『生贄』が単行本化されて、しばらくたった昭和42年/1967年9月9日、デヴィ夫人は外人記者クラブで会見を開き、梶山さんと徳間書店、および「がんばれ、デビ夫人」の記事を掲載した『F6セブン』発行元の恒文社に対し、東京地検に告訴したことを発表しました。

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