2017年4月30日 (日)

第61回直木賞『戦いすんで日が暮れて』の受賞作単行本部数

第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞

受賞作●佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』(講談社刊)
3万部弱(受賞後2か月で)→?

※ちなみに……

第61回(昭和44年/1969年・上半期)芥川賞

受賞作●庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中央公論社刊)
30万(受賞後半年で)45万(受賞後1年で)64万(受賞後2年で)90万

 直木賞の、文学賞としての面白さは、数えきれないほどにあります。「昔と比べてモノが言えること」なんかも、そのひとつでしょう。

 「昔はよかった、でも今では……」とか、「昔は話題にもならなかった、でも今では……」とか。昔のことを引き合いに出したくなる欲求が人間に備わっていることは、私も実体験としてよくわかります。なにしろ、こういう場面では、とくに正確さは求められません。それっぽければ、「何かいいこと言った」感に包まれ、満足できてしまいます。こんなに面白いことはないし、直木賞のまわりには、こういうものが大量に渦巻いています。ハッピー・スポットです。

 ……といって、いまから紹介するハナシが芥川賞のこと、というのがまた、直木賞の悲しいところなんですが、芥川賞も、昔と比べて言及されることの多い代表選手です。とくに部数に関しては、芥川賞のほうこそ、ポツリポツリと文献に残されてきました。

 江崎誠致さんは、もと小山書店に勤務していた経緯もあり、「小説芥川賞」(『別冊文藝春秋』50号[昭和34年/1959年12月])のなかで、火野葦平さんの『糞尿譚』の部数を記しています。

「今から考えれば嘘のような話であるが、その火野葦平の「糞尿譚」が初版はわずか三千部である。しかもはじめは返品さえあった。まもなく従軍中に書かれた名著「麦と兵隊」が改造社から出版され、空前の売行きを見せてから、「糞尿譚」も何度か版を重ねた。といっても、たしか四版までだったと記憶している。

(引用者中略)

「太陽の季節」は別としても、今日芥川賞になりさえすれば、どんな地味なものでも一万部は下らないという。芥川賞に対する一般の関心が高まったことが、こんなところにもはっきりあらわれている。」(『別冊文藝春秋』50号[昭和34年/1959年12月]「小説芥川賞」より ―下線・太字の強調は引用者によるもの)

 これが、昭和34年/1959年上半期……第41回ごろの、江崎さんの観測です。第41回の芥川賞は斯波四郎さんの「山塔」で、文藝春秋新社が単行本にしましたが、まさに「地味」そのものと言っていい受賞作で、おそらくこれも初版1万部ぐらいは刷られたんじゃないかと思います。

 それから約10年後。今度は、夏堀正元さんが芥川賞の歴史を書かされる羽目になりまして、たぶん江崎さんの文章も参考にしたことでしょう。こんなふうに記録しました。

「この型破りの評判作「糞尿譚」も、初版はわずかに三千部だったということだ。そのうち、従軍中に火野が書いた「麦と兵隊」が改造社から出版されて、空前のベストセラーになってから、それにひきずられるようにして「糞尿譚」も売れたが、四版をかさねたにすぎなかった。その点、芥川賞作品は二万部はかたいといわれる現在とは、比較にならない。」(『文藝春秋臨時増刊 明治・大正・昭和 日本の作家100人』[昭和46年/1971年12月]「ドキュメント芥川賞」より ―下線・太字の強調は引用者によるもの)

 江崎さんのころより増えて、2万部になっています。

 昭和45年/1970年下半期……ちょうど前週のエントリーで触れた古井由吉さん(第64回)や古山高麗雄・吉田知子(第63回)ごろのハナシです。そこから40年~50年たって、いまでは芥川賞受賞作の初版が5万部平均になったのは、増えたといえるのかどうなのか、よくわかりませんが、江崎さんや夏堀さんには、直木賞作品の部数状況も書き残しておいてほしかったなあ、と心から悔やまれます。

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2017年4月23日 (日)

第63回直木賞『軍旗はためく下に』の受賞作単行本部数

第63回(昭和45年/1970年・上半期)直木賞

受賞作●結城昌治『軍旗はためく下に』(中央公論社刊)
5万(受賞後2か月で)→?

※ちなみに……

第62回(昭和44年/1969年・下半期)芥川賞

受賞作●清岡卓行「アカシヤの大連」収録『アカシヤの大連』(講談社刊)
17万5,000

第64回(昭和45年/1970年・下半期)芥川賞

受賞作●古井由吉「杳子」収録『杳子・妻隠』(河出書房新社刊)
21万

第66回(昭和46年/1971年・下半期)芥川賞

受賞作●東峰夫「オキナワの少年」収録『オキナワの少年』(文藝春秋刊)
約7万

 なかなか部数にまつわるネタもなくなってきました。今日は、昭和40年代後半ごろ、1970年前後の受賞作を、サラッとさらってみたいと思います。

 いまからだいたい50年ぐらい前に当たりますが、このあたりはもう、荒涼・閑散としていると言いますか、部数の不明な受賞作ばかりです。

 ベストセラー作家として(も)知られるようになった渡辺淳一さんは、そのころ(第63回 昭和45年/1970年・上半期)の受賞者です。本が売れ出したのは直木賞をとってしばらくしてからなのかと思っていましたが、意外にすぐに売れっ子になったらしく、直木賞をとった昭和45年/1970年には、早くもベストセラーリストに名前が挙がっています。

 しかし、売れたのは受賞前から準備していたという書き下ろし『花埋み』(昭和45年/1970年8月・河出書房新社刊)。受賞作(を収録した)『光と影』(昭和45年/1970年10月・文藝春秋刊)も、さすがに売れなかったわけじゃないと思いますが、どの程度の好調ぶりだったのかはわかりません。

 『出版年鑑』に書かれた『花埋み』についての解説を見ますと、

直木賞受賞作品の出版である。9月期からベストメンバーとなり、下半期から'71年はじめにかけて好調な成績である。芥川賞とともに直木賞もまた受賞によって作品の価値を一挙に高め、その出版は売れるというところにも権威があるようだ。」(昭和46年/1971年5月・出版ニュース社刊『出版年鑑1971年版』より ―下線太字は引用者によるもの)

 と、かなりのウソッパチが書いてあって、ついズッコケてしまいますけど、このぐらいのゆるい見方が、直木賞には合っているのかもしれません。「直木賞をとったその小説じゃなきゃ、絶対買いたくない」という感覚のほうがズレている、と言われれば、そうかもなあと思ってしまいます。

 ところで「芥川賞ととも直木賞もまた」という表現が出てきました。このころは、売れる文学賞といえば筆頭は芥川賞、みたいなイメージがあったことは、どうやら言わずもがなで、この年も清岡卓行さんの『アカシヤの大連』がよく売れたそうです。おそらく年内だけでも10万部近くは記録したんじゃないかと推定され、最終的に17万5,000部まで行ったと伝えられています。

 じっさい、直木賞の渡辺さんは、『出版年鑑』と同じところが発行している『出版ニュース』のほうでも、芥川賞の清岡さんとセットでのくくり。

「相変らず芥川、直木受賞作品は売れる。『アカシヤの大連』『花埋み』がそれである。」(『出版ニュース』昭和46年/1971年1月中・下旬号「1970年度全国ベスト・セラーズ調査」より)

 ううむ、ここで(おそらく)誰もツッコまなかったところが、直木賞のもつフトコロの深さ、もしくはゆるい部分なのかもしれません。『光と影』の細かい数字は、残念ながら不明です。

 何だかんだで芥川賞作品はよく売れる。というのは、昭和43年/1968年の『三匹の蟹』、昭和44年/1969年『赤頭巾ちゃん気をつけて』、昭和45年/1970年『アカシヤの大連』ときての、昭和46年/1971年『杳子・妻隠』。……と、ここらあたりの良好なセールスが培った風評だと思われます。しかし、やはりすべてがそんなに売れたわけじゃありません。

 ベストセラーに対する「売れなかったほう受賞作」もいくつもあり、そのことをずっと持ちネタにしているのが、おそらく吉田知子さんです。

 「持ちネタ」というほど、たくさん披露されているわけじゃありませんでしたね、すみません。ほんとうに吉田さんの本は売れたことがないのだと思いますけど、第63回(昭和45年/1970年・上半期)の『無明長夜』(新潮社刊)は、史上二番目に売れなかった芥川賞受賞作だと編集者から聞かされた、とのことです。

 さすがに戦前には、何千(もしくは何百)といった単位の受賞作はあったはずですし、よほどの少部数でないかぎり史上二番目に食い込むのは難しいと思いますが、ひょっとしてすべての受賞作の部数を調べあげた編集者が、吉田さんのまわりに、いなかったともかぎりません。そういった調査結果が、内輪のおしゃべりに使われるだけでなく、少しでも公になることを、ただ願うばかりです。

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2017年4月16日 (日)

第130回直木賞『号泣する準備はできていた』『後巷説百物語』の受賞作単行本部数

第130回(平成15年/2003年・下半期)直木賞

受賞作●江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮社刊)
初版5万部→受賞後+10万部→32万
受賞作●京極夏彦『後巷説百物語』(角川書店刊)
初版7万~10万部→14万

※ちなみに……

第130回(平成15年/2003年・下半期)芥川賞

受賞作●金原ひとみ『蛇にピアス』(集英社刊)
初版7,000部→受賞後+5万部→53万1,500
受賞作●綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出書房新社刊)
受賞前10万部以上→35万(受賞後半月で)127万

第1回(平成16年/2004年度)本屋大賞

受賞作●小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社刊)
初版1万部→受賞前約10万部→35万(受賞後約8か月で)50万

 先日は、直木賞をしのぐ一年の一度のお祭りがありました。なので今年も、直木賞をしのぐ(……って何かくどい)本屋大賞のネタで、一週分、埋めたいと思います。

 本屋大賞がはじまったのは平成16年/2004年です。奇しくもこの年、直木賞は、けっこうな中堅どころが取りましたねよかったですね、っていういつもどおりの「お茶濁し」的な授賞だったので、世間一般にとくに波風は立たなかったんですが、芥川賞のほうが大変な賑わいとなり、受賞作の売り上げが大爆発した年に当たります。

 とくにブレイクしたのが、金原ひとみさんの『蛇のピアス』『蛇にピアス』でした。

 「すばる文学賞受賞作」という、売れそうなのかどうなのか、よくわからない話題性を加味しての初版7,000部。というスタートだったものが、芥川賞を受賞して注文が殺到。集英社の担当者も「あれっ、芥川賞作品ってどのくらい刷ればいいんだっけ」と相当戸惑ったと思うんですけど、すぐに5万部を増刷し、約1か月の2月中旬には計35万部、3月中旬に50万部突破。と急激な伸びをみせます。

 で、もうひとりの受賞者、綿矢りささんほうですが、すでに平成13年/2001年から翌年にかけて、デビュー作の文藝賞受賞作『インストール』(平成13年/2001年11月刊)がいきなり売れてしまい、直木賞の『あかね空』『肩ごしの恋人』と並んで、20万部を突破してしまった、という立派なベストセラー作家。2作目の『蹴りたい背中』もまた、発売直後から、新人の文芸書としては異例なほどに好調な売り上げをみせ、受賞するまでに10万部を軽く超えていた、とも言います。

 ここから芥川賞を経て増刷が加速し、1月中には35万部、2月中には倍増の78万8,000部、3月中旬に100万部を突破して、「『限りなく~』以来の快挙だ!」と、芥川賞売れ行きマニアたちを喜ばせ、5月中旬までに112万部弱、7月中旬までに126万部、そして最終的に現在伝えられている単行本での売り上げ127万部、というところまで行きました。明らかに「人は見た目がナントヤラ」っていう感じでしょうが、文学賞は売れるぞ伝説にまたひとつ新たな薪をくべた尊い現象だったと思います。

 いつまでも芥川賞のハナシをしていても仕方ないので、直木賞に移りたいんですけど、この年の4月、本を売るために始まった本屋大賞が、話題をかっさらっていきました。

「『数式』(引用者注:『博士の愛した数式』)は昨年中に読売文学賞を、今年になって「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本 本屋大賞」(通称、本屋大賞)を受賞し、直後に増刷を重ねるなど賞の影響も少なくない。とりわけ本屋大賞は、現場の書店員たちが選ぶ賞というだけあって、多くの書店には印刷物ではない手書きのPOP(書棚広告)が飾られ、「何を読んだらよいか分からない」層の心を温かく揺さぶった。『ブラフマン』(引用者注:『ブラフマンの埋葬』)もあやかるべく本来のオビ(腰巻き)に「祝!本屋大賞」のオビを重ね、異例の二枚オビにしたくらいだ。」(『産経新聞』平成16年/2004年6月28日「ベストセラーを斬る 『博士の愛した数式』『ブラフマンの埋葬』」より ―署名:稲垣真澄)

 平成13年/2001年8月に発売された、芥川賞受賞者・小川洋子さんの『博士の愛した数式』は初版1万部からスタートしたそうです。じわじわと部数を増やしていき、明けて1月に本屋大賞ノミネート10作に入ってから、本を売るために働いている書店員たちがまたせっせと売ってくれたおかげで、4月までに約10万部。

 そして、本屋大賞を受賞してから、一段二段とギアが入って、4月下旬までに14万2,000部、5月下旬までに17万9,000部、6月に24万部、7月に29万部、8月に32万部と増やし、年内には35万部まで達した、と言われています。

 この成績をみて本屋大賞の力を確信した書店員や出版社の人たちが、さらに本を売るために準備したうえで第2回にのぞむようになって、歴史を重ねていき……というその出発点に、『博士の愛した数式』というそこそこ売れていた本が選ばれたことが、結果として本屋大賞の繁栄につながったのですから、本屋さんたちの投票も馬鹿にはできません。

 ここで馬鹿にできないことがもうひとつあります。直木賞の存在です。

 今年の本屋大賞が決まって以来の、関連ニュースを見るにつけ、ほんとみんな直木賞のことを語るのが好きなんだなー、と同好の人間としてニヤニヤしちゃいますが、浜本茂さんの「打倒・直木賞!」の大ギャグはさておいても、とにかく平成14年/2002年に始まった段階から、直木賞以上だ、直木賞を超えている、とさんざん言われたのが、本屋大賞です。

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2017年4月 9日 (日)

第67回直木賞『斬(ざん)』の受賞作単行本(だいたいの)部数

第67回(昭和47年/1972年・上半期)直木賞

受賞作●綱淵謙錠『斬(ざん)』(河出書房新社刊)
13万部前後→?

 直木賞も芥川賞も、とりあえずは「なんちゃって新人賞」ですので、これをとった人が、のちに数々のベストセラーを生み出していくかどうかが、販売面ではメインの題目です。受賞作そのものが売れるかどうかは、長らく、さしたる注目点じゃありませんでした。

 この様相を一変させたのが、昭和51年/1976年の『限りなく透明に近いブルー』だった。ってわけですけど、注目点じゃなかったとはいえ、じゃあそれ以前は、どのくらいの販売力があったのかは、やはり興味があります

 昭和50年代前半より以前については、歴代の芥川賞受賞作が何部(何万部)売り上げてきたのか、系統的に調査された形跡はなく、実態がほとんどわかりません。言わずもがなですけど、直木賞の記録なんか、さらに乏しくて、どうにも悲しみが抑えきれません。

 で、その空隙を多少は埋めてくれるのが、東販・日販の年間(または上半期)ベストセラー一覧、かなあと思います。

 歴史の古い出版ニュース社のベストセラー一覧に比べて、なにしろ、取次のそれは、格段に部数の多寡が反映されている、と言われているらしく、たとえばフィクション部門のおよそトップ20を並べたリストのなかから、「Aは、Bよりも上だが、Cよりは下」という感じで、Aの部数が不明でも、BとCがわかれば、だいたいの水準はつかめる仕組みになっています(だいたい、しかわかりませんけど)。

 そこで昭和51年/1976年のベストセラー、佐木隆三『復讐するは我にあり』(上)(下)(第74回受賞)からさかのぼってみますと、まずこのリストに登場するのが、一年前の第72回受賞、半村良さんの『雨やどり 新宿馬鹿物語一』(「雨やどり」所収)となります。

 半村さんの場合、その前後から半村さん自身が「売れっ子作家」扱いされていました。

「いま森村誠一、半村良氏は増刷をふくめて二十万部は下らず、西村寿行氏も平均十五万部というシュアなバッティングを誇る。」(『サンデー毎日』昭和53年/1978年3月19日号「森村誠一・半村良・西村寿行 人呼んで文壇三村時代」より)

 なんちゅう記事も見えるくらいですので、10万部、20万部の作品もざらにあったことでしょう。そういうのに埋没して、じゃあ『雨やどり』がどのくらい売れたのかは、よくわかりません。

 いまのところ手もとにリストのあるのが日販調べのフィクション部門ベストセラー、なので、それをもとに眺めてみます。

 『雨やどり』は、昭和50年/1975年上半期の12位にランクインしました(年間ではトップ20圏外)。前後の作品を挙げると、7位・清水一行『動脈列島』、8位・フォーサイス『戦争の犬たち』、9位・小峰元『ソクラテス最期の弁明』、10位・渡辺淳一『野わけ』、11位・五木寛之『青春の門』(全6冊)、13位・曾野綾子『いま日は海に』、14位・アダムス『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』、15位・斎藤栄『徒然草殺人事件』、16位・吉野せい『洟をたらした神』、17位・古井由吉『櫛の火』……だそうです。

 このあたりの部数について、わかる方がいれば教えてほしいなあ、と思うんですが、7位の『動脈列島』(前年昭和49年/1974年12月刊)はカッパ軍団の一冊でもあり、また好調に売り上げたことから、新聞広告に部数表記が見えます。3月7日付で「11万部」、9月5日付で「16万部突破」とのことです(ともに『読売新聞』)。

 広告宣伝の水増し分や、まだ上半期だけの成績であること、15位に付けている同じカッパの『徒然草殺人事件』が、広告上では部数で煽ったりされていないこと、などなど勘案して、『雨やどり』はこのときで5万部~7万部、最終的に10万部まで行ったかどうかは、微妙な線だと思います。

 となれば、同時に受賞した井出孫六さん『アトラス伝説』とか、芥川賞のほうの2作、阪田寛夫さん『土の器』、日野啓三さん『あの夕陽』がどのくらいの部数に達したか、闇のなかに埋められて当然でしょう。ざっくりとした想像で、初版が3,000~5,000部、受賞したことで2万~3万部、という感じだったんじゃないか、……とこれは、その一回前の藤本義一さん『鬼の詩』(初版が5,000部、1か月で3万部も売れたという本人の証言)などを見ての、あくまで想像でしかなく、けっきょくは闇のなかです。

 さらに前の受賞作はと、日販ベストセラー(フィクション部門)をたどっていくと、芥川賞受賞作がポツリポツリと目につきます。

 昭和49年/1974年の年間13位・森敦『月山』(周辺の順位のものを3つずつ挙げると、10位・渡辺淳一『氷紋』、11位・松本清張『告訴せず』、12位・小峰元『ピタゴラス豆畑に死す』、14位・新田次郎『アラスカ物語』、15位・城山三郎『落日燃ゆ』、16位・森村誠一『悪夢の設計者』)。

 昭和48年/1973年の上半期で10位・郷静子『れくいえむ』、13位・山本道子『ベティさんの庭』(ともに年間では20位圏外。上半期の他のランクイン作品は、7位・『司馬遼太郎全集 国盗り物語』(上)(下)、8位・角川書店刊『日本の民話』(第一回配本)、9位・山崎豊子『華麗なる一族』(上)(中)(下)、11位・大藪春彦『獣たちの墓標』、12位・水上勉『風を見た人』(上)(中)(下)、14位・日本テレビ放送網刊『冬物語』、15位・三浦綾子『残像』、16位・古山高麗雄『小さな市街図』)。

 なあんだ、直木賞の受賞作は、もうこれ以前は出てこないのか、と失望していたところ、昭和47年/1972年のベストセラーに意外な(?)やつが出てきます。

 綱淵謙錠さんの『斬(ざん)』です。

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2017年4月 2日 (日)

第120回直木賞『理由』、第121回『柔らかな頬』『王妃の離婚』の受賞作単行本部数

第120回(平成10年/1998年・下半期)直木賞

受賞作●宮部みゆき『理由』(朝日新聞社刊)
22万5,000(受賞前まで)35万(受賞直後)45万(受賞約半年で)→?

第121回(平成11年/1999年・上半期)直木賞

受賞作●桐野夏生『柔らかな頬』(講談社刊)
18万(受賞半月で)39万
受賞作●佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社刊)
11万2,000(受賞半月で)18万2,000部部→?

※ちなみに……

第120回(平成10年/1998年・下半期)芥川賞

受賞作●平野啓一郎『日蝕』(新潮社刊)
35万(受賞約1か月で)43万部?

 昭和51年/1976年に起きた『限りなく透明に近いブルー』ショック。売れるといってもたかが知れていた芥川賞の受賞作が、一挙に売れまくった現象として多くの人の記憶に刻まれた出来事です。

 じっさい、売り上げ部数の記録の世界でも、『限りなく~』以前か・以後か、がひとつの分岐点になっています。

 言い換えると、これ以前は、歴代の芥川賞受賞作が何部(何万部)売り上げてきたのか、系統的に調査された形跡がなく、実態がほとんどわかりません。当然、言わずもがなですけど、直木賞の記録はさらに乏しいです。

 ともかく昭和51年/1976年と昭和52年/1977年は、直木賞と芥川賞の受賞作が、1年程度のあいだに軒並み20万部ラインを突破してしまう、というそれ以前にはなかった盛り上がりをみせた2年間だったんですが、その後を見ていっても、1作や2作売れない受賞作が含まれているのがふつうで、受賞作すべてが好調だった期間は、なかなか見当たりません。

 「直木賞・芥川賞といえども話題性がなければ売れない」っていう格言(?)は、何か特定の時代性に依存したものじゃなく、いつだってそうです。まあ、当たり前のことを確認して、年表をたどっていきますと、次に受賞作が全作いい売れ行きを見せた時代は、村上龍さん以来の現役学生の受賞……をきっかけとした、平成11年/1999年の、第120回(平成10年/1998年・下半期)第121回(平成11年/1999年・上半期)かもしれません。

(そんなはずはない! という意見もあるでしょう、ぜひデータをもとにした反論を待っています)

 第119回の大衆文学←→純文学の文芸ビックバンが、騒ぎだけは威勢がよくてそれが売り上げには結びつかなかった。と以前、触れました。しかし、その興奮が残っていたおかげか、いちおう次の第120回は、話題性抜群の芥川賞受賞者が出たおかげで、売り上げへと跳ね返った様子です。

 茶髪にピアスの現役京大生、平野啓一郎さんの『日蝕』が、とにかく煽りに煽られて、調子にのった新潮社が、受賞から半月足らずで約17万部を増刷。そこから続伸して2月の段階で早くも35万部を超えたと言われましたが、残念ながら伸びを欠き、上半期のうちに40万部(平成12年/2000年4月の『出版指標・年報2000年版』では35万部のまま)。3年後の『スポーツ報知』では、

「99年の受賞作で、当時、現役京大生だった平野啓一郎の「日蝕」は43万部のベストセラーに。他の受賞者も受賞前に比べ「本の売り上げが1けた伸びる」(同(引用者注:純文学)関係者)とされる。」(『スポーツ報知』平成15年/2003年8月10日「文学賞からみる本の選び方」より ―署名:勝田成紀)

 と、昭和51年/1976年に起きた伝説の『限りなく~』130万部超えには、遠く及びませんでした。ただ、30万だか40万だかというのは、芥川賞にとっては相当売れた部類に入り、これはこれで、インパクトがあったというしかありません。

 いっぽうこの回の直木賞のほうも、単行本では『日蝕』と同じくらいの部数を叩き出します。この辺が、20数年前との違いかもしれません。

 宮部みゆきさんの『理由』は、平成10年/1998年6月に発行され、翌年の1月に直木賞受賞。のちに朝日文庫に入り、また新潮文庫になって相当部数を増やしたようで、単行本としてどのくらいまで行っていたのか、確実なことはわかりませんが、平成11年/1999年7月の段階で、『朝日新聞』が45万部だと紹介しています(平成11年/1999年7月10日「一からわかる芥川賞・直木賞」)。

 ほぼ『日蝕』と同格のヒット、という感じですけど、これを直木賞の力と見るのは、ちょっと躊躇してしまいます。

 というのも『理由』は、直木賞をとる前にすでにベストセラーになっていて、平成11年/1999年4月刊行の『出版指標・年報1999年版』が、受賞前の数字として挙げたのが「累計22.5万部」。直木賞受賞作でもそうは叩き出せないレベルの部数です。

 こんな売れ筋商品を、2倍にしか伸ばせなかったのが、直木賞のもつインパクト力の限界か。……という感じですけど、20万部も売れている作品に賞を与えるなんて、70年代の直木賞では考えられないことですから、そこにもまた、時代の変化が現われているんだろうな、と思います。

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2017年3月26日 (日)

第76回直木賞『子育てごっこ』の受賞作単行本部数

第76回(昭和51年/1976年・下半期)直木賞

受賞作●三好京三『子育てごっこ』(文藝春秋刊)
初版5,000部→5万(受賞直後)25万5,000(受賞約1年半で)→?

※ちなみに……

第75回(昭和51年/1976年・上半期)芥川賞

受賞作●村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社刊)
初版2万(初回配本5万部)30万(受賞約3週間で)100万(受賞約4か月で)130万(受賞約半年で)131万6,000

第77回(昭和52年/1977年・上半期)芥川賞

受賞作●三田誠広『僕って何』(河出書房新社刊)
33万
受賞作●池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」収録『エーゲ海に捧ぐ』(角川書店刊)
初版7,000部→20万(受賞前まで)47万5,000

 けっきょく、売上部数のテーマでも、その転換点は昭和51年/1976年にたどりつくっぽいです。

 第74回(昭和50年/1975年・下半期)の『復讐するは我にあり』が、それまでの直木賞史上、話題性も売上でも、まず体験したことのないほどにスパークして、昭和51年/1976年に入って10万部を軽く突破、おそらく20万部にせまるほどに売れてしまった。

 ……というのが、直木賞のほうで起きた大ニュースだったんですが、世間一般の人びとがゆさぶられるのは、直木賞によってではなく、いつも芥川賞です。この場面でも、当然その格言は生きていて、昭和51年/1976年に「直木賞・芥川賞は売れるものだ!」のインパクトを、世に広めたのは、直木賞ではなく、あきらかに芥川賞のほうでした。

「近頃の芥川賞の狂騒ぶりは、「文藝春秋」としては一億円の宣伝にも該当する。その時の作品の内容によるが、受賞作品は十万部以上五、六十万部までは売れ、村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」の如きは、百数万部売りつくした。」(『季刊藝術』昭和54年/1979年冬号 丸山泰司「昭和の作家3 ―編集者からの素描として―」より)

 と、高城修三『榧の木祭り』やら高橋揆一郎『伸予』がほんとに10万部以上売れたのか? という疑問など蹴散らされてしまう、「芥川賞=売れる」という風聞が見事、誕生します。

 それまでの直木賞・芥川賞に、けっして売れないイメージがあったわけじゃないと思うんですが、なにしろ『限りなく~』の登場は、両賞の売上にたいする見方を大きく変えたのは、たしかです。

「特色として言えることは ここ2~3ヵ月のベストセラー等の動きの良いものは小説の分野に戻って来ていることです。それと各種の文学賞受賞作品が全部活況を呈していることです。今迄受賞作品は余り振わなかったと言われて来ましたが 最近の受賞作品は5万10万20万部と伸び 時には百万部を越えるように 受賞ものが強気になって来ています。」(『出版月報』昭和51年/1976年11月号付録「出版月報11月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)

(引用者注:今年の特徴として)従来販売力としては強くなかった文学賞受賞作品群の売れ行き増加が目立ちました。」(『出版月報』昭和51年/1976年12月号付録「出版月報12月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)

 まあ、ミリオンセラーですからね。人の意識を変えるこのくらいの影響力は、あって当然かもしれません。

 芥川賞は第75回の『限りなく~』以降、たしかにその注目度が本の売り上げに結びつく例がつづきました。第77回は『エーゲ海に捧ぐ』『僕って何』ともに、正真正銘のベストセラーに(『エーゲ海~』は受賞前からずいぶん売れていた、とも言われますけど)。第78回は『螢川』、第79回は『九月の空』と、いずれも20万部超を達成します。

 その後、「芥川賞だっていうのに、たいして売れなくなった」と発言する人たちの比較対象は、ほぼその数年の芥川賞好調期にある、と見てもあながち間違っていないと思います。あるいは、「芥川賞といえば軒並み売れていた時代があった」みたいな、みずからの脳内でつくりだした幻想をもとにしているかの、どちらかです。

 しかし、受賞作が飛ぶように売れる先鞭をつけたのは、昭和51年/1976年前半に、大衆文芸の砦・直木賞だっつうのに〈ノンフィクション〉ノベルが受賞したんだってさ、文芸の世界もいろいろ煮詰まってきちゃって大変だよね、という素晴らしい反応を生み出した『復讐するは我にあり』でした。……とか言うと、どうせ直木賞のほうが好きだからそっちの肩をもっているだけだろ、とスカされるので、やめときます。

 ともかく、まれにみる受賞作好調時代だったんですけど、直木賞のほうは、第75回該当なし、第77回と第78回も連続該当なし。煮詰まりのドン詰まりぶりは相当なもんでした。

 そのなかで、絞り出すがごとくに生まれた受賞作が、第76回(昭和51年/1976年・下半期)三好京三さんの『子育てごっこ』です。

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2017年3月19日 (日)

第78回芥川賞「螢川」「榧の木祭り」、第79回「九月の空」の受賞作単行本部数

第78回(昭和52年/1977年・下半期)芥川賞

受賞作●宮本輝「螢川」収録『螢川』(筑摩書房刊)
初版(受賞後)10万部→23万4,500
受賞作●高城修三「榧の木祭り」収録『榧の木祭り』(新潮社刊)
6万(受賞1か月で)8万

第79回(昭和53年/1978年・上半期)芥川賞

受賞作●高橋三千綱「九月の空」収録『九月の空』(河出書房新社刊)
24万

 昭和50年代と今とで、おそらく文芸出版もいろいろ変わりました。変わらないことがあるとしたら、文芸書に対する悲観論が、わんさか書かれている、ってことかもしれません。

 直木賞(と芥川賞)と出版概況、みたいな文章ばかり見ていると、とにかくまず「最近の文芸は不振だ!」という認識(思い込み?)が前提になっています。うんざりします。

 ということで、不振だ不振だ言われていた昭和50年代ですけど、前週からのつづきで、時間を巻き戻していきます。第80回(昭和53年/1978年・下半期)、直木賞は2作の受賞作が出ましたが、芥川賞はなし、です。

 そのうち、宮尾登美子さん『一絃の琴』が最終的に32万部と、それまでの直木賞の水準から考えれば大ベストセラーとなったことは、以前に取り上げました。同時に受賞した有明夏夫さんの『大浪花諸人往来』のほうは、角川書店のイメージに似合わず(?)衝撃度のうすい小説だったので、売り上げ面では、ほぼ話題にならず。部数はよくわかりません。

 では、ほかの文芸書を含めて、この頃の一般的な部数水準はどのくらいと見られていたのか。ということだけでも確認しておこうと、『朝日新聞』学芸部のじゃじゃ馬こと、百目鬼恭三郎さんの見解を引いておきたいと思います。

「普通でしたら、本というのは三万部も出れば上出来だというのが以前までの常識です。十万以上となれば、みんなが読んでいるからとか、評判だからという要素がほとんどではないでしょうか。」(『日販通信』昭和53年/1978年1月号 昭和52年/1977年出版回顧の座談会より)

 それと、それよりちょっとあとの文献ですが、『週刊読書人』の植田康夫さんによる概説も、ついでに。

(引用者注:ノンフィクションの)刺激剤として大きな役割を果たしたのは、昭和四十五年に設定された大宅壮一ノンフィクション賞である。この賞は、芥川・直木賞が以前と比べて、本の売れ行きという点では力を弱めているのに対し、大きな力を持ってきている。」(昭和57年/1982年9月・東京書店刊 植田康夫・著『出版界コンフィデンシャルPARTI』「第II章 現代出版の諸相 [1]ベストセラー&ロングセラー」より)

 これが昭和55年/1980年(第82回~第83回ごろ)に書かれた文章です。「芥川・直木賞が以前と比べて、本の売れ行きという点では力を弱めている」という、もう現在のわれわれにとってはおなじみの、とにかく感覚値オンリーによる直木賞・芥川賞観が、すでに堂々と開陳されていて、つい微笑みを誘います。

 「以前」というのがいつの時代を指しているのかを明確にしない、……っつうところも、またおなじみのアレすぎてアレなんですけど、ほんとうに両賞(とくに直木賞)が、売れ行きの点で力を弱めていたとは、とうてい考えられません。

 全史を見渡したとき、昭和55年/1980年より「以前」に、これらの賞の受賞作の売り上げが、おしなべて好調だったピークは、どう見たって、昭和51年/1976年~昭和53年/1978年にありました。

 さすがに、それから1~2年しかたっていない段階で、「以前と比べて力を弱めている」と言うのは、大げさ以外の何モノでもありません。また、じっさい、その後に受賞作の部数が落ち込んだかというと、そんな気配もないんですよね。直&芥が大っキライで、これらを馬鹿にしたい人たちにとっては、残念な事実でしょうが。

 要するに、昭和40年代まで、微妙に上下しながら、徐々に部数が増えてきていたのが(もちろんこれは、両賞の受賞作に特有のことではなく、文芸出版全体の動きに乗ったもの)、昭和50年代に入って、いきなりドーンと力を増して以降、そのラインがいまのいままで、ずーっと続いてきている。と見るのが、もっとも適切なんだと思います。

 昭和56年/1981年には『人間万事塞翁が丙午』『思い出トランプ』(ともに直木賞)『小さな貴婦人』(芥川賞)が大当たり、昭和55年/1980年は一年飛ばして、昭和54年/1979年は『一絃の琴』(直木賞)のヒット。そして昭和53年/1978年は、第78回と第79回、計6つある受賞作のうち、2つが「よく売れる文学賞」の波を引き継ぎました。

 それらが直木賞でないのは、つらいところなんですけど、「売れ線」の牙城を守った2つ、芥川賞の『螢川』(第78回)と『九月の空』(第79回)です。

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2017年3月12日 (日)

第81回直木賞『ナポレオン狂』の受賞作単行本部数

第81回(昭和54年/1979年・上半期)直木賞

受賞作●阿刀田高『ナポレオン狂』(講談社刊)
10万9,000

※ちなみに……

第81回(昭和54年/1979年・上半期)芥川賞

受賞作●重兼芳子「やまあいの煙」収録『やまあいの煙』(文藝春秋刊)
約5万部→?
受賞作●青野聰「愚者の夜」収録『愚者の夜』(文藝春秋刊)
約5万部→?

 直木賞とか芥川賞に「売れ筋のベストセラー!」っていうイメージが染みついたのは、いったいいつからなんでしょう。少なくとも、これは最近のことではなく、昭和50年代にはすでに一般的な認識だった、と伝えられています。

 そして、直木賞・芥川賞といえば、「まわりの期待はいつも過剰。実態は、そうでもない」っていう、あるあるがあります。これも当時から健在だったようで、じっさいのところは、一般に思われているほどベストセラーが連発していたわけじゃありません。

 ここでいつもどおり、当時の人の発言に耳を傾けてみます。第81回(昭和54年/1979年・上半期)の直後に、芥川賞受賞作を二冊、抱えることになった文藝春秋の営業部長が、さらりと言いのけたコメントです。

「「(引用者注:受賞作の『やまあいの煙』『愚者の夜』の動きは)両方とも地味なもんですよ。第一、芥川賞受賞作だからといって爆発的な売れ方をすると思ったら大間違い。今は各点約五万部発行」と言うのは文芸春秋住営業部長。同氏は続けて、「(引用者中略)芥川賞といっても、もう文学的内容よりも話題性など商品的な力で売れるのだから、そこをシビアにみた売り方をしていかなければならない。その意味では、普通の文芸書の販売方法と大差ないのではないか」と冷静な受けとめ方。」(『新文化』昭和54年/1979年9月13日号「芥川受賞の二作品 店頭の“戦略商品”にも 理想と現実のギャップ」より)

 そりゃそうだろうな、と言うしかありません。

 記事のタイトルに「理想と現実のギャップ」とあります。「理想」って何なのか、だれにとって何を根拠にした「理想」のことを想定しているのか、よくわかりませんが、文意から解釈すれば、「芥川賞の販売力に関して、おおかたの人が持っているイメージ」と、現実とにギャップがある、っていうことです。

 先の『しんせかい』の部数も、とりあえずは5万部余。と考えれば、芥川賞作品のなかでも、地味に動く部類の発行ボリュームは、そんなに変わっていないんだなあ、と思うんですが、38年前だっていまだって、地味な文芸書が5万部も出たなら大したもんであることに違いはなく、そこにとくに文句はありません。

 文句があるとすれば、やはりこの『新文化』の記事が、芥川賞のことしか取材していないところです。

 直木賞はどうなのか、賞の名で売る「戦略商品」じゃなかったのか、まるでわからず、ほんとに困ってしまいます。都合のいいときだけ直木賞を、芥川賞の仲間に含めるくせに、こういうときにはガン無視しやがって、ブツブツ……。

 この年は、田中小実昌という、直木賞を受賞してわずか2か月足らずで今度は谷崎潤一郎賞を受賞してしまう、前代未聞、空前絶後の離れ業をやってのけた人物が登場。谷崎賞の『ポロポロ』はこの年の、文芸界の収穫に挙げるような人も続出し、文芸書としてはけっこう売れた、とも言われます。

 たとえば、中島梓さんなどは、昭和50年代前半の、十代・二十代作家たちによるベストセラーのリストを挙げた段で、小実昌さんのことにも触れながら、こう解説していたりします。

「ともかく、このリストの異常さは、そんなわけで、この人びとの「若さ」や「ベストセラー」の部数にある、というよりは、むしろ、たとえこれが××賞、××新人賞、というかたちであるていどプロデュースされたものであるにせよ、それを真正直につぎつぎミリオンセラーの軌道にのせたわれわれ読者の「意識」にあるのだ、と云えるであろう。この間にも、むろん、もっと年長の芥川賞受賞者、直木賞、賞とはかかわりのないミリオンセラー(たとえば「天中殺入門」や「かもめのジョナサン」や、「にんにく健康法」(!)といったような)が次々とたゆみなく生まれてはいるのだが、それは、じっさい、この「現象」とはあまりかかわりのないところで出版状況の一方に存在しているかにみえる。(引用者中略)五十代の受賞者田中小実昌の「ポロポロ」が三万部売ったという事実もある。」(昭和58年/1983年12月・講談社刊 中島梓・著『ベストセラーの構造』「第五章 下部構造の成立」より)

 どうですか。芥川賞だ直木賞だ、と賞の名前を挙げながら、その受賞者の田中小実昌さんの、売れた本が紹介されるときに、『香具師の旅』ではなく『ポロポロ』が選択されている、この不自然さ。よっぽど『香具師~』のほうは売れなかったのかもしれない、と想像させます。

 泰流社で『香具師~』を担当したのが高橋徹さんです。いわく、自身の編集経験については「たかだか二千から五千部ぐらいの初版部数の本がほとんどで、文芸出版も地味なものしか扱ったことがない」(『早稲田文学』昭和57年/1982年10月号「文芸出版というコンセプトの揚葉」)と表現していて、むろん、これだけじゃ小実昌さんの受賞作がどれほどの部数に行ったかはわかりません。

 ただ、『香具師~』は当時もほとんど、ベストセラーリストに顔を出しませんでした。初版数千から、多少の増刷があって、『ポロポロ』の3万部と同程度ないし5万部前後、ぐらいではなかったか、と推測できます。

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2017年3月 5日 (日)

第83回直木賞『思い出トランプ』『黄色い牙』の受賞作単行本部数

第83回(昭和55年/1980年・上半期)直木賞

受賞作●向田邦子「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」収録『思い出トランプ』(新潮社刊)
40万部弱(受賞約1年・発売8か月で)46万2,000
受賞作●志茂田景樹『黄色い牙』(講談社刊)
初版7,000部→受賞後+5万部→?

※ちなみに……

第82回(昭和54年/1979年・下半期)芥川賞

受賞作●森禮子「モッキングバードのいる町」収録『モッキングバードのいる町』(新潮社刊)
初版(受賞後)3万部→?

 第85回(昭和56年/1981年・上半期)の直木賞授賞式に足をはこんだ向田邦子さんは、「私の一周忌だから、見にいってみた」云々と言ったそうですが、第85回で青島幸男さんが登場するまえ、とにかく直木賞史上でも類のないほど売れたのが、一年前の第83回に受賞した、向田邦子さんの『思い出トランプ』です。

 混迷ふかまる世界情勢、そのまっただなかに生きる近未来の、世界各国の政治家、企業家、セレブたちが、21世紀のはじめにアメリカの大統領になった一人の男のことを回想する、というグローバルな視点のSF小説……とかじゃありません。市井の人々の営みのなかから、心の傷み、不穏、翳の部分を、なにげなくすくい取る、「これぞ短篇小説だ」みたいなものが、毎月『小説新潮』に発表されたところ、そのうちの3編が受賞。13編で、とりあえず区切りがついたところで刊行されたのが、『思い出トランプ』です。

 なにしろ直後に、青島さんのが売れすぎました。その点、売れ行きでは多少、霞んだかたちになりましたけど、しかし第83回と第85回、わずかな短期間で、ドン、ドーンとベストセラーが二発も出たことは、それまで爆発的に売れるような文学賞ではなかった直木賞の、販促面でのイメージを大きく変えた、というのは確実です。

 向田さんの没後すぐに、山口瞳さんが書いているところでは、こんな感じでした。

「向田邦子は、極めて短い期間に、頂上まで天辺まで登りつめてしまった。

濃のある短篇小説を発表し続けた。相当な手足れでも、いまの中間小説雑誌に読切短篇の連載を書ける作家は稀だろう。それが良い作品であるばかりではなく、大いに売れたのである。『思い出トランプ』は四十万部に迫ったと聞いているが、短篇小説集の発行部数としては空前絶後ではあるまいか。」(『週刊新潮』昭和56年/1981年8月29日号 山口瞳「男性自身 木槿の花(八)」より ―引用原文『山口瞳大全 第十巻』平成5年/1993年8月・新潮社刊)

 『思い出トランプ』は、受賞したころにはまだ本になっておらず、受賞して半年弱も経った昭和55年/1980年12月に刊行。いわゆる「受賞さわぎ」の恩恵をあまり受けていない、珍しい受賞本なんですが、それから8か月ほどで30数万部まで行ったわけですから、さすがといいますか、まあ、直木賞の枠を超えています。

 昭和56年/1981年度の文芸書全体では、『人間万事塞翁が丙午』がトップをぶっちぎり、『思い出トランプ』はトップ10入り、ぐらいのところ。夏ごろまでに、30万部超えだったものが、またも「時のひと」となってしまったことから、部数を伸ばしたようで、約5年で46万2千部を記録しました(『新潮社一〇〇年』平成17年/2005年11月、昭和60年/1985年11月までの部数)。

 ただ、単行本よりも、あとに出た文庫のほうが大量に売れている。ということでいえば、「直木賞」の売れ行き面では、『思い出~』は『人間万事~』よりも明らかに、エポックメイキングな受賞作です。文庫は昭和58年/1983年5月の発刊から、平成23年/2011年7月の段階で、累計145万部(『朝日新聞』大阪版夕刊 平成23年/2013年7月11日「向田邦子の伝言3」)も出ているといいます。

 新潮社だけでなく、競って向田さんに小説・エッセイを書いてもらっていた文藝春秋も、出す本出す本が売れる、という好景気(?)。直木賞をおくっておかなければ、そこまで売れたとは思えず、直木賞大成功の例として、いまも語り継がれています。いや、だれかが語り継いでいってくれると思います。

 それと同時に受賞したのが、もう一作あって、そちらは成功だったのか失敗だったのか、もはやよくわからないんですけど、すくなくとも志茂田景樹さんの『黄色い牙』は、まず「よく売れた本」の話題に上がることはありません。

「直木賞の「黄色い牙」は今一つ動きが鈍いですね。」(『出版月報』昭和55年/1980年8月号付録「出版傾向Q&A」より)

 それで、部数がどうだったのかといえば、志茂田さんが小説現代新人賞をとり、はじめて書下ろしで祥伝社から出した『異端のファイル』(NON・NOVEL)は、初版が2万5000部だったというのですが、『黄色い牙』のほうは、じっさいよくわかりません。

 わかりませんけど、志茂田さんのことは作家デビューの前から知っていた、という恐ろしい人脈の持ち主、山本容朗さんが、とりあえず、こんなふうに明かしてくれています。

「『黄色い牙』は、初版七千部で、直木賞受賞が決まると、五万部増刷したそうである。」(昭和55年/1980年11月・潮出版社刊、山本容朗・著『新宿交遊学』所収「芥川賞・直木賞受賞作家点描」より ―初出『週刊小説』昭和55年/1980年9月5日号)

 その後、この単行本が刷数を増やしたとは、とうてい考えられず、およそ6~7万部の受賞作だった、と見るのが妥当でしょう。

 ベストセラーとなった受賞作の大山脈のかげに隠れて、そっと咲く花、って感じでしょうか。

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2017年2月26日 (日)

第84回直木賞『元首の謀叛』の受賞作単行本部数

第84回(昭和55年/1980年・下半期)直木賞

受賞作●中村正䡄『元首の謀叛』(文藝春秋刊)
受賞後9万部→15万部前後?

 第85回(昭和56年/1981年・上半期)、青島幸男さんの例が、芸能人・タレントによる文学賞受賞の象徴的事件だった、っていうのは疑いないと思います。

 当然、これは突然起きたことじゃなくて、前ふりというか、前史があるわけですけど、大きな流れをひとつ言うなら、「文学専門じゃない人たちが、文学の世界に入り込んできた!」みたいな、いかにもマスコミ人種の好みそうな解釈が、1970年代には、流行っていました。「芸能人による文学賞受賞」もその一種、と見ていいんでしょう。

 第84回(昭和55年/1980年・下半期)は、直木賞と芥川賞で受賞者がひとりずつ。ともに、作家専業でもなければ、ずっと文学をやってきた人でもありません。

 ……ってことで、「文学賞をとるのは、そこに人生を賭けて生きてきたような、怨念まみれの暗いブンガク青年」といった、その当時ですら「いったい何十年前のイメージだよ!」とわんさかツッコみが入っていたであろうステレオタイプな感覚が、まだ生きていて、

(引用者注:授賞パーティーでは)「作家いちずに刻苦勉励の時代はもう終わった」との声も会場には流れていた。」(『読売新聞』昭和56年/1981年2月16日夕刊「第八十四回芥川、直木賞 家族連れ、にぎやかな贈呈式」より)

 という微笑ましい(?)記事が、堂々と発表されていた、そんな時代です。

 直木賞のほうは、日本航空調達部長の中村正䡄さん。文学的経歴は大学時代の同人誌活動ぐらいまでしかなく、以降はそれとは無縁の社会生活を送り、ほんのひまつぶしに書いた長篇小説が、運よくコネをたどって文春から刊行されると、無名の新人の小説としては、かなり評判がよくて増刷をかさね、直木賞を受賞するまでに、すでに5刷か6刷か、そのあたりまで行っていたらしいです。

 具体的な部数については、言及している文献があんまりないんですが、『出版月報』昭和56年/1981年2月号に、こうありました。

「直木賞の「元首の謀叛」も受賞後9万部発行され この賞では最近にない良い売れ行きです。」(『出版月報』昭和56年/1981年2月号「出版傾向Q&A」より)

 「良い売れ行き」だったことで知られている宮尾登美子『一絃の琴』が第80回、ちょうど2年前です。第83回の向田邦子さんの『思い出トランプ』は、受賞時に単行本になってなかったので除くとして、この間の受賞作が、そこまで良い売れ行きでなかったことがわかります。

 それはそれとしても、『元首の謀叛』は、昭和56年/1981年年間ベストセラーのフィクション部門で、東販調べ15位、日販調べ17位。とけっこうな健闘をみせました。

 決してベストセラー作家、売れっ子作家にならず、それどころか職業作家にもなり切らなかった中村さんの、おそらく唯一のベストセラー、という大変正統派な直木賞受賞作となったわけですが、最終的に年間売れ行きランキングでは、吉行理恵『小さな貴婦人』の後塵を拝しているところから見て、部数は12、13万部~15万部ぐらいだっただろうと、推測します。

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