2018年11月18日 (日)

昭和42年/1967年・名誉毀損だとしてデヴィ夫人に告訴された梶山季之。

インドネシアのスカルノ氏のデビ夫人(二七)=日本名、根本七保子=は弁護士、平井博也氏を通じて九日、小説『生贄(いけにえ)』を執筆した作家・梶山季之氏と出版元の徳間書店(徳間康快代表取締役)を名誉棄損で東京地検に告訴するとともに、二人を相手どって毎日、朝日、読売新聞に謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。

――『毎日新聞』昭和42年/1967年9月9日夕刊より

 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノさん――ここでは当然〈デヴィ夫人〉という表記で統一しますけど、彼女の個性そのものが、単なるお騒がせの域を超えて、事件性をはらんだ存在であり、文化をゆるがす現象でもあることは、一介の直木賞オタクでしかないワタクシにも、何となくわかります。

 昭和36年/1961年、一国の国家元首の夫人となる前後には、富と権力というものに象徴されるエスタブリッシュメントの住人と見なされ、そういう立場の人がおおむね背負わされる一般大衆からの反感ややっかみにさらされた時代もありました。しかしその頃からいまにいたるまで、お高く止まりきらない俗っ気のせいか、多くの人に面白がられてイジられるぐらいの、ユルい魅力も兼ねそなえながら、その履歴のなかに国際問題、社会経済、女性の生き方、芸能、出版、犯罪などなど、あらゆる要素が混ざり込んでいるという、ともかく稀有な人物です。

 と、デヴィ夫人の生涯を追うだけで、直木賞(に関連したあれこれ)との接触や接近の話題をいくつも挙げることができそうですけど、今日のエントリーでは、もう一方の主人公の座に梶山季之さんを据えたいと思います。いまから55年前、第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞に落ちたところから、終生直木賞のようなものを痛烈に批判する側にまわった大作家のひとりです。

 ところで、梶山さんの作家的な特徴とは何でしょう。そんな難しいことは、ワタクシもよくわかりませんが、ひとつには市井に生きる有象無象の人間たちの視点を常に意識し、そのなかで悪戦苦闘、新たな物語表現を模索したことが挙げられます。

 新しいことに挑戦しようとすれば、旧弊とのぶつかり合いが起こるのは自然の流れです。しかも梶山さんはその売れっ子ぶりも破格でしたから、余計に揉めごとやいざこざに巻き込まれやすくなる。とくに国家権力に目をつけられて、何度も問題視されたのが、「ポルノ小説で荒稼ぎした」と自称・自嘲する梶山さんの、小説における猥褻表現でした。

 梶山作品がはじめて猥褻文書販売・所持の嫌疑をうけて摘発されたのが、昭和41年/1966年『週刊新潮』に連載中の「女の警察」5月14日号分の描写です。そのころ梶山さんは政財界の暗部をえぐる類いの取材も精力的におこない、その成果を広く発表していたため、それに対する権力側の制裁と警告の意味合いもあったんじゃないか、などとまことしやかに囁かれた、といいます。もしそうだとしたら、権力としてあまりにやることがショボくてセコすぎるとは思うんですが、たしかにそう考えたほうが話は面白いでしょう。けっきょくこの件は、翌昭和42年/1967年8月22日付で罰金5万円の略式命令を受けて、落着します(平成10年/1998年8月・季節社刊『積乱雲 梶山季之――その軌跡と周辺』所収「仕事の年譜・年譜の行間」)。

 以来、昭和43年/1968年には『週刊現代』4月25日号の連載小説「かんぷらちんき」、『週刊新潮』5月4日号の読切小説「スリラーの街」とたてつづけに2度、昭和49年/1974年には『問題小説』7月号に掲載された「銀座ナミダ通り」シリーズの一作が、それぞれ同じように猥褻表現を含んでいると見られて、押収、回収の対象になっています。

 4度にわたって同じ罪状で摘発されるというのは、警察側が懲りなかったのか、梶山さんのほうが懲りなかったのか、もはやよくわからないイタチごっこですが、そのたびに新聞で報道されるところが人気の作家の証し、ということかもしれません。少なくとも、これで梶山さんが委縮したとか、御上の意向に従順になったとか、そんなことはまったくなく、男一匹、雑草ダマシイを失わずに、権威や権力に対峙するかたちで作家活動をつづけました。

 ということで、いつの間にかアンチ直木賞もさまになる、直木賞があげそこねた作家の代表的な存在となった梶山さんが、政財界のゴシップを大胆に取り入れて、たくましく生きる悪女の姿を描き出そうという気概で筆をとったのが、『週刊アサヒ芸能』に昭和41年/1966年5月29日号~昭和42年/1967年1月22日号まで連載された「生贄」です。

 中学の国語教師〈外岡秀哉〉が、新宿の喫茶店でウェイトレスをしていた昔の教え子〈笹倉佐保子〉と偶然再会するところから話が始まります。結婚相手の伯父である怪しげな実業者〈中内栃造〉の仕事を手伝うことになった〈外岡〉は、その関係からアルネシア連邦と日本との戦後賠償の交渉に関わることに。来日したアルメニアの大統領〈エルランガ〉は、無類の女好きで、ファッションモデルの〈伊東さき子〉を見初め、さっそく肉体関係をもち、自国に連れ帰りますが、そこがエルランガの弱点だと知った〈外岡〉は、何が何でも有名になりたい、お金持ちになりたいという〈佐保子〉に知恵を授け、エルランガのもとに送り込むことを計画。同じく第三夫人の座を狙う〈さき子〉を蹴落とし、自らの野望を実現しようとする〈佐保子〉の立身出世の夢は、果たして成功するのでしょうか……。

 昭和41年/1966年11月、妊娠中に日本に一時戻ってきていたデヴィ夫人に対して、批判を前提としたような中傷、興味本位にプライバシーをほじくり返す記事が氾濫するなか、やはり『生贄』もその一種として発表された、というのは誰も否定できません。梶山さんや徳間書店は、これは特定の人物を描いたものではない、とさんざん強弁したんですが、多くの読者にデヴィ夫人をモデルにした小説だと思われたのは当然のことでしょう。そして、打たれても泣き寝入りせず、可能なかぎり反撃するというのが、デヴィ夫人の流儀だったようです。

 『生贄』が単行本化されて、しばらくたった昭和42年/1967年9月9日、デヴィ夫人は外人記者クラブで会見を開き、梶山さんと徳間書店、および「がんばれ、デビ夫人」の記事を掲載した『F6セブン』発行元の恒文社に対し、東京地検に告訴したことを発表しました。

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2018年11月11日 (日)

平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。

グリコ・森永事件を題材にした「週刊現代」の連載で犯人扱いされたとして、小説家の黒川博行氏らが発行元の講談社側に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(木内道祥裁判長)は11日の決定で講談社側の上告を退けた。名誉毀損などを認めて同社側に計583万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

――『読売新聞』平成26年/2014年11月14日「週刊現代で犯人視 講談社の敗訴確定」より

 高校の美術教師だった黒川博行さんが、第1回サントリーミステリー大賞に「二度のお別れ」を応募、最終候補に残りながら落選したのは昭和58年/1983年春のことです。翌年もまた同じように最終選考会で「雨に殺せば」が落選、しかし前年の作品を単行本化するという話が進み、昭和59年/1984年の夏すぎに、堂々と作家デビューを果たします。

 そのデビュー作『二度のお別れ』は、ちょうど世間を騒がせていた、のちに「グリコ・森永事件」と呼ばれることになる一連の事件のなかの、犯行手口の一部と酷似した描写があったものですから、俄然一般的にも興味を引かれ、8刷まで部数が伸びたと言われます。しかし、あまりにも現実の事件と似すぎているということで、10月のある日、兵庫県警本部捜査一課の警部補と、西宮署刑事二課知能犯係の巡査部長が、黒川さんのもとへ来訪。そのときの2人の刑事というのが、まるで生意気で礼儀を知らず、出版前に誰が読んだのかとか、トリックは自分で考えたのかとか、質問するだけしておいて、「先生が犯人やったら、ことは簡単に収まるのにねえ」と捨て台詞を残して去っていったらしく、嫌な思い出しかない、と黒川さんは回想しています。

 それから時が流れて12年後。平成8年/1996年下半期対象の第116回、黒川さんは『カウント・プラン』で、はじめて直木賞の候補に挙がりました。

 と、そういうデビューにまつわるあれこれだけでも、黒川さんは「犯罪でたどる直木賞史」のテーマにふさわしい作家だ、と言いたくなるところなんですが、もちろん話の中心はそこではありません。以降、『疫病神』『文福茶釜』『国境』と候補歴を重ね、いい線まで評価されながら落とされていって、『悪果』が候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)。デビューから数えて23年、しかしこの5度目のチャンスのときも、選考会は黒川さんに賞を与えませんでした。

 もはや次の機会があるとは思えなかったこのベテラン作家が、まさかの6度目の候補入りを果たすことになるのが、さらに6年半もたった第151回(平成26年/2014年・上半期)なんですが、6年も7年も経てば、人や状況はさまざまに移り変わります。黒川さんも例外ではなく、候補5度目と6度目のあいだの平成23年/2011年、「じつはグリ森事件の真犯人だった」と、かなり本気で取り上げられると、かなり本気で激怒して、その取り上げた相手の岩瀬達哉さんと講談社を向こうにまわし、名誉毀損とプライバシー侵害の訴訟を起こす、という大騒動がありました。

 ノンフィクション作家の岩瀬さんが『週刊現代』で連載した「かい人21面相は生きている」には、黒川さんも取材対象のひとりとして協力し、平成22年/2010年末ごろから都合3度、インタビューを受けたそうです。そのとき、岩瀬さんは「今度の記事を読まれると、不快な思いをされるかも」とか、「黒川さんを真犯人として書くと、うまく辻褄が合うんです」とか、そんなことを言っていたらしく、たしかに連載の結末、「スクープ ついにたどり着いた この男が「21面相」ではないのか」(平成23年/2011年10月8日号)と最終回の「スクープ直撃! あなたが『21面相』だ」(10月15日号)という記事を読んで、黒川さんは驚愕します。グリコ・森永事件の犯人のひとりだという〈浜口啓之〉なる仮名の人物が、自分がインタビューで答えたようなことを、都合よく編集されて語っていただけでなく、黒川さんの妻の妹の勤め先や、実妹の息子のことなどにも触れられ、またそれが事実とは異なっていたからです。

 あくまで仮名です。黒川博行が犯人だ!とは一言も書かれていません。なので黒川さんの名誉を毀損したわけではない、という考え方もありますが、黒川さんのほうはそうは受け取らず、講談社に乗り込んでいって説明を求めます。しかしラチが明かずに、『週刊文春』(10月27日号と11月3日号)や『週刊朝日』(10月28日号)に、岩瀬さんと講談社の対応を非難する手記を発表して反撃。すると講談社側は、連載はいずれ単行本にするつもりです、手記は書かないでください、提訴も勘弁してください、などと穏便なかたちで逃げようとしたものですから、黒川さんも軟化することはなく、けっきょく法廷で争うことを選択します。さらには連載中に、講談社の編集者の判断で、不正に黒川さんの住民票を取得していたことも発覚。怒りの火に油がそそがれます。

 平成23年/2011年11月10日、講談社、『週刊現代』編集長、岩瀬さんに対し、計3300万円の損害賠償などを求めて東京地裁に提訴し、合わせて講談社には、プライバシー侵害の件で550万円の賠償を求めます。それから法廷で争うこと約2年、平成25年/2013年8月30日に、被告側に583万円の支払いを命ずる一審判決が出ますが、被告側はただちに控訴して、争いは継続することに。

 その年の12月25日、東京高裁も一審判決を支持して、控訴は棄却されるのですが、引くに引けなくなったか、被告側はさらに上告。そんな折りの平成26年/2014年7月、黒川さんは『破門』で第151回直木賞を受賞すると、受賞第一作の『後妻業』での著者インタビューでは、

(引用者注:作中で描いた)弁護士の戦術については、自分がグリコ・森永(引用者中略)で裁判をしましたから、参考になりました」(『産経新聞』平成26年/2014年9月29日)

 と語るなど、もはや法廷闘争は終わった感をにじませていたところで、やはり11月11日、上告をしりぞける最高裁の判断が決定。黒川さんの勝訴が確定することになります。

 名誉の毀損にもいろいろなかたちがあるのでしょうが、なかでも「犯罪事件の犯人だ」と類推できる記事を書かれることは、そのことで社会的な評価が低下した、と見られるそうです。直木賞の場合は、それとは逆で、たとえば公式に最終候補に残っていないのに「○○氏は直木賞の候補にあがったことがある」という、たとえば荒木一郎さんや早乙女勝元さん、曽我得二さんなどに関する記述を見かけることがありますが、やはりそういう文章の裏には、この作家や作品の社会的な評価をなるべく上げたい、という思いが垣間見えるのは否定できません。

 その意味だけで言うと、名誉毀損の裁判の途中に、直木賞を受賞した黒川さんは、「社会的評価」と呼ばれる実体のとらえづらい風聞のなかの、プラスとマイナス、両者ごった煮の状況を経験したという、稀有な人だ、と言えるのかもしれません。

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2018年11月 4日 (日)

昭和53年/1978年・子供たちの麻薬所持事件を、やがて戯曲に仕立てた川口松太郎。

作家川口松太郎、女優三益愛子さん夫妻の次男、元新派俳優川口恒(三三)、三男の芸能マネジャー厚(二六)ら川口兄弟の麻薬不法所持事件を調べている警視庁保安二課と赤坂署は二十九日夜、同家の長女で新派俳優の川口晶(二八)(引用者中略)に任意出頭を求め、麻薬取締法、大麻取締法違反の疑いで取り調べた。調べに対し晶は、容疑事実を全面的に認めたため、同署は近く東京地検へ書類を送る。これで川口家では兄妹四人中三人までが麻薬類に手を染めていたことが明らかになった。

――『朝日新聞』昭和53年/1978年6月30日夕刊「川口晶も麻薬汚染 容疑、全面的に認める」より

 昭和10年/1935年、第1回直木賞を受賞した35歳当時から、川口松太郎さんの快活でざっくばらんな性格は、一部の人たちから慕われるいっぽうで、一部では強烈に嫌われていた、と伝えられています。そこがまた直木賞の、栄光一辺倒ではない歴史を象徴しているようでもあり、まさしく直木賞そのもの、と言っていい作家のひとりです。

 かくいうワタクシは、川口さんがいかに現役時代、老害と言われるほどに屹立していたのか、生きた時代が違うのでよくわかりません。筒井康隆さんの『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)に醜悪なかたちで登場する〈直廾賞〉選考委員のひとり〈鰊口冗太郎〉のモデルとして、はじめて知った口なんですが、〈鰊口〉の娘は〈鰊口早厭〉といい、離婚歴があり、交通事故を何度も起こし、麻薬中毒者の、まるで手がつけられないお騒がせタレント、というふうに描かれています。ちなみに、この作品の初出は『別冊文藝春秋』昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月です。

 ということで、昭和53年/1978年といえば、年齢でいうと78歳、晩年を迎える川口さんの身に思わぬ犯罪事件がふりかかってきた年に当たります。息子二人による麻薬取締法・大麻取締法違反と、そこから派生した一連の出来事です。

 川口さんは、いったい何人の女性と関係をもち、何人の子供を設けたのでしょう。正確な数字はよくわかりませんが、女優だった妻、三益愛子さんとのあいだには4人の子供がいました。そのうち、昭和41年/1966年に芸能界デビューした次男の恒さんが、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕された、と報道されたのが昭和53年/1978年5月22日のこと。追って6月6日には三男で、昭和46年/1971年にデビュー、しかし昭和51年/1976年に俳優を引退したのち、三浦友和さんのマネージャーをしていたという厚さんも、兄と同じ法律に触れて警察に連行されます。

 さらに、前年には酒と睡眠薬を飲んだ状態で、子供を乗せた車を運転し、ガードレールに突っ込んだ〈じゃじゃ馬娘〉こと、長女の晶さんもまた、麻薬なんか多くの芸能人がやっていることでしょ、でもだいたい興味本位の軽い遊び心よ、などとケロッとしながら、やはりLSDや大麻を所持。6月29日に東京地検に書類送致されることが決まり、川口一家にそそがれる世間の視線も、一気に熱がこもることになりました。

 芸能人の犯罪事件のなかには、いわゆる「二世もの」と呼ばれるカテゴリーがあります。著名な親のもとに生まれ、厳しく育てられたか甘やかされたか、どちらにしても飢えることなく成長するなかで、親と同じ芸能の世界で仕事をしはじめた子供の一部が、違法行為で逮捕されて、ゴシップジャーナリズム大騒ぎ。川口家の場合は、長男の俳優、浩さんまでもが、若いころはずいぶんひどい所業をやらかしていたのだ、両親の金品を黙って持ち出しては遊興費に変えていたし、無免許運転、スピード違反、酔っ払い運転、婦女暴行など、「ひととおりの悪業は経験した」(『週刊新潮』昭和58年/1983年8月31日号「愛人が「愛人の物」を持ち出したらどういう事になるか「川口恒」の場合」)などと書かれて、昔のことを掘り返されたりします。

 もちろん有名人である親のほうも、無傷では済まされません。芸能一家だとか調子こいて、一般社会の通念からかけ離れた生活を送るうち、善悪の判断ができなくなったんだろう、親の教育が悪い、親も同罪なのだから反省して償え……などなど、単純なバッシングが盛り上がっては、すぐに覚めていく、という伝統的な展開です。いまでもよく見かけます。

 その後まもなく、恒さんと厚さんについては東京地裁で公判がひらかれ、恒さん懲役一年・執行猶予三年、厚さん懲役十か月・執行猶予三年の判決がくだされます。もはや俳優を続けていく道の閉ざされた恒さんは、都内で喫茶店兼スナックを開店し、厚さんのほうは明治座の営業部に引き取られ、そこで更生を目指すことに。晶さんは、起訴猶予処分となって裁判はありませんでしたが、芸能界に未練はなかったらしく、ほぼ引退状態のまま、翌年には再婚。川口家薬物汚染の嵐のような騒ぎは、ほんの数か月で終わり、またたく間に過ぎ去っていきました。

 その間、川口さん自身はどうだったかというと、作家活動はやむことなく、昭和53年/1978年7月14日に行われた第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の選考会にも3期ぶりに出席しています。直接の面識があり、ある意味面倒をみていた若い劇作家のひとり、若城希伊子さんの候補作に対して「全員否決なのに驚いた。そんなに悪い作品とも思わない」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号)と、かなり甘い見方をしながら、谷恒生さんの大冒険小説に対しては「文学に昇華していないのが大欠点だ」(同)などと偉そうな評を書くという、いつもどおりの口さがない老作家を気取ったりしています。

 たしかに川口さんに関する文献を読んでいると、口は悪いかもしれないし、情実で選考しているかもしれない、それは間違いのないところでしょう。ただ、その反面、本人はいたって謙虚な人だという感を強くするのも事実です。「文学の流れが変って私なぞはもう過去の人間になっていた。」(『小説新潮』昭和54年/1979年12月号「すぎこしかた」)という言葉などは、ずいぶん正確な自己評価だと思います。主観的なものの見方を、いかにも客観視しているように表現できるところが、晩年まで保った川口さんの信条です。

 子供たちの麻薬に関する有罪判決についても、やはりそうです。嵐の渦中にいるときは、どうせ週刊誌や新聞が好き勝手に書くだけだから、とそのことに触れるのを避けていた川口さんでしたが、ゴシップ乞食がよそに移ったと見るや、これを題材にひとつの作品を仕立ててしまいます。『すばる』昭和55年/1980年3月号に載った戯曲「魔薬」。事件からわずか2年後のことです。

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2018年10月28日 (日)

昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。

田中清玄一派の再建共産黨資金局員曾木克彦に黨資金を提供したプロ作家同盟委員長藤森成吉、プロ文士林房雄こと後藤壽夫ら五名にかかる治安維持法違反事件はかねて東京地方裁判所潮裁判長、丸検事係で審理中であつたが八日午前十一時左の通り判決言渡しがあつた

▲懲役六年 曾木克彦(二九)

▲同三年 大村英之助(二九)

▲同二年 立野信之(三一)

▲同一年 後藤壽夫(三一)

▲同二年 藤森成吉(四二)

――『読売新聞』昭和8年/1933年7月9日夕刊「藤森成吉氏に懲役二年言渡し 林房雄氏は一年=シンパ事件」より

 早くに亡くなった作家が、もっと長生きしていたら直木賞を受賞していたのではないか。と、そんな妄想を楽しんだことが、直木賞のファンなら一度や二度はあると思います。いや、他の人のことはわかりませんが、ワタクシはあります。

 なかでも受賞の姿が濃厚に目に浮かぶのが、太宰治さんです。作品の内容、発表媒体の広がり方、作家的な履歴。昭和23年/1948年の段階ですでに、直木賞ど真ん中だった、と言っていいんですが、何よりも、受賞すれば確実に、純文学偏愛者たちから「何で太宰が直木賞なんだ!」と多くの異論が上がる。絶対に上がる。そこのところが何とも、直木賞ど真ん中です。だいたい檀一雄さんを候補に選び、受賞させるような賞が、太宰さんのことを無視できたとは思えません。

 小林多喜二さんはどうでしょうか。さすがにこれは無理筋でしょうか。しかし、案外、可能性がゼロだとあきらめるわけにはいかないのは、ひとえに第28回(昭和27年/1952年下半期)の受賞者に立野信之さんがいるからです。

 大正後半から昭和のはじめ、うなりを上げて文壇を席巻したプロレタリア文学の作家のうち、その多くは官警に捕らえられ、取り調べを受け、裁判を争ううちに、無産派文学からの離脱を表明、いわゆる「転向」することになりますが、いったいどうして、そこから直木賞の受賞者が生まれたりするのか。展開のなりゆきが難解すぎて、にわかには付いていけません。

 とりあえず立野さんの場合の、経歴的な事項から追うと、関東中学に在学中あるいは中退したあと、『文章世界』(博文館)や『秀才文壇』(文光堂)などに小説や詩を投稿、いくたびか入選したり、選外佳作で名前だけ載ったりしていましたが、その後、短歌の同人誌『曠野』をつくるとき、投書雑誌の通信欄に「同人募集」のお知らせを出したところ、申し込んできたのが山田清三郎さんです。この山田さんが、とにかく文芸編集、雑誌づくり、もしくは創作活動に積極的に突き進む人だったものですから、立野さんもつられて熱を上げることになります。

 すると、まもなく大正11年/1922年11月には、立野さんにとってはじめてとなる留置所入りを経験。自分も創刊に関わった、無産者文学に特化した商業文芸誌『新興文学』の主催で、ロシア革命五周年記念の文芸講演会「新興芸術講演会」を開くにあたり、牛込駅付近でビラ配りをしていたところ、いきなり神楽坂署に連行されたといいます。23歳のときでした。

 立野さんの『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年/1962年1月・河出書房新社刊)や、山田さんの残したプロレタリア文学勢に関する歴史と回想などを混ぜ合わせると、常にそこには警察に引っ張られる危険と隣り合わせ、それでいて、いったい何のきっかけで誰が検挙されるのかよくわからない混沌とした状況のなか、懸命に文学活動に励む立野さん、あるいはさまざまな作家たちの生きざまを目にすることができます。懸命だから何なんだ、それと文学とは何の関係もないじゃないか、と思わないでもないですが、自分の信じる方向性で小説を書き、評論をまとめ、雑誌をつくったりすると、違法判断に直結することがけっこうあった土壌のなかから、立野さんという作家が出てきたのはたしかなことです。

 昭和3年/1928年、山田さんに誘われるままに書いた「標的になった彼奴」が『前衛』に、「赤い空」と「軍隊病」が『戦旗』に採用され、小説家としての出発を切った立野さんは、隣人で友人だった橋本英吉さんの見るところ、呆気にとられるほどの外交的手腕の持ち主だった(『民主文学』昭和47年/1972年2月号「立野信之の憶い出」)……ということらしく、組織のなかに生きることでさらに頭角を表わしながら、いっぽうでは共産党の党員になって活動することには消極的な姿勢をとり、外郭的な文学組織に籍を置いたところから、作家生活をつづけることを模索します。

 しかし、共産党に対する時の政府権力の取り締まりは、スキがあればいくらでも解釈を拡大して共産運動の殲滅をめざすもので、人道的かどうかと言えば、非人道的なやり口には違いありません。昭和5年/1930年5月から6月にかけて、共産党に資金提供をしたという嫌疑で文化人や文学者がぞくぞくと検挙された「共産党シンパ事件」で、ついに立野さんの自宅にも特高警察がやってきます。立野さんやその仲間たちは、資金難にあった党の活動のために、蔵原惟人さん、永田一脩さんを通じて微額ながら援助しており、それがバレた。ということなんですが、たまたま立野さんの家に仮寓していた小林多喜二さんもいっしょに、杉並署に連行されてしまいます。以来2か月ほど各署の留置所を転々とさせられたのち、7月下旬に起訴。送られたのが、中野の豊多摩刑務所です。

 そこで立野さんは検事にすすめられて、天皇制を認め、これからは合法面で共産主義運動をやる、といった内容の調書に拇印を捺すことになり、翌昭和6年/1931年2月に保釈。昭和8年/1933年7月に懲役2年の判決を受けますが、控訴審でも共産運動からの転向を訴えた結果、同年12月26日、東京控訴院で、懲役2年ただし執行猶予4年、という判決がくだされます(執行猶予5年とする文献もあり)。その後の立野さんは、当局の弾圧とともに、プロレタリア文学運動全体が下火になっていくなかで、日本とは何なのか、そのなかで培ってきた日本人の特性とは何なのか、という方向に作家としての関心を向け、戦中、戦後とかなり地道な執筆活動に終始しました。

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2018年10月21日 (日)

平成18年/2006年・子猫を捨てていたことでフランス刑法下での告発が検討された坂東眞砂子。

直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。

――『毎日新聞』平成18年/2006年9月22日夕刊「子猫殺し 告白の坂東眞砂子さんを告発の動き――タヒチ管轄政府「虐待にあたる」」より

 新しいものが生まれては、すぐに廃れていく、その代表的な現象に、ネットの炎上案件があります。いや。マスメディア経由だろうが直接の伝播だろうが、「ニュース」と呼ばれるものは、たいてい似たようなものかもしれません。直木賞の受賞決定報道なども、半年前に誰が受賞したのか思い出せない、という感想をたびたび目にしますが、それは直木賞のせいでも、現代の出版界のせいでもなく、ニュースというものがもつ普遍的な特徴に由来しています。次々と出てきては次々と忘れ去られていく。ニュースとはそういうものなんでしょう。

 さて、直木賞と炎上、ということで思い出されるのは、いまから12年前の平成18年/2006年8月18日、直木賞を受賞して9年を経過した坂東眞砂子さんが、『日本経済新聞』夕刊の「プロムナード」という連載エッセイ枠に「子猫殺し」と題する原稿を発表した一件です。直後から、ほぼ批判的意見を中心とした大反響が沸き起こり、いまなおネット上にたくさんの痕跡が残っているほど、荒れに荒れました。

 そういうものを改めてたどっていると、激怒した猫好きというのは、時に凶暴化するものなのだな、という恐怖心ばかりが思い返されますが、大半の人が「あらゆる物事に対して慈愛をもつ」世界を望んでいそうなのに、その考え方にくみしない人間に対してだけは慈愛をもたなくていい、というふうに感じさせるところが、最も恐ろしいのかもしれません。

 話がズレそうなので炎上の恐怖はともかく忘れましょう。このとき、坂東さんの行動や、その行動を新聞に公表することで問題を提起しようとした姿勢に対して、さまざまな批判と反論が向けられたことはたしかですが、そのなかのひとつに「それって違法行為ではないか」というものがありました。おまえは犯罪者だ、ないしは、こいつは犯罪者だ、と糾弾する行為は意外に大勢の目を引きつけるのに役立ち、糾弾の火の手を焚きつけるのには効果的な手法のようです。

 エッセイによると、当時フランス領ポリネシアのタヒチに住んでいた坂東さんは、よくよく熟慮したうえで飼い猫に去勢手術を施さないことを決意。交尾した猫が子猫を生んだら、自分では責任をもって飼うことはできないからと、心を傷めながら家の裏に投げ捨てていたのだといいます。

 この内容と書きぶりに、ネットユーザーたちのボルテージ急沸騰。それを受けて、数日後には『日経』以外の各新聞がこの騒動を取り上げることになりますが、いくつかの記事は法律のことにも触れました。いわく、日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺すと1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる、タヒチに適用されるフランスの刑法でも、やはり違法と見なされる可能性がある、と。……おそらく、それを紹介することで、単なる感情論を超えた騒動であることを伝えようとしたわけです。

 さらにネットの盛り上がりのなかから、タヒチにある動物愛護団体「フェヌア・アニマリア」に、わざわざこの件を通告する人まで出現。すると、これを問題視した同団体では、地元の『ラ・デペッシェ』紙などに情報を提供、現地でもこれは違法ではないか、という動きに発展していきます。ついには、タヒチを統治するポリネシア政府が、坂東さんに対する告訴状を共和国検事に提出することを決めた、と発表されたのが9月13日。何に違反しているかといえば、フランス刑法第6巻第5題R655-1にある、家畜やペットをみだりに殺したり虐待したりすると罰金によって処罰される、という規定に触れるのだそうです。

 さあ大ゴトになってきた、政府まで動こうとしている、果たしてマサコ・バンドウはほんとうに法律に違反する行いをしているのか、と警察に呼び出されて、取り調べを受けて……といった顛末は、この年の『文藝春秋』12月号に坂東さん自身が寄稿した「「子猫殺し」でついに訴訟騒動に」で追うことができます。

 そこにも書かれていることですが、法的な見解の分かれ目は、日本にしろフランス圏にしろ、「みだりに」という言葉をどう解釈するか、ということになるでしょう。坂東さん本人は当然、理由もなく不必要に猫を捨てている、とは考えていません。しかし、親の猫に不妊手術を施すという「必要な」処置をせず、生まれてきた子猫を捨てるのは、あえて「不必要な」行動をとっているのだ、と言えなくはありません。

 日本でもタヒチでも、猫を捨てる人はたくさんいるのでしょうが、だれも自分がそういうことをしていると公言しないから違法と認定されないだけで、みずから発表してしまえば、取り締まりの対象になってもおかしくないでしょう。しかし、坂東さんが書くところでは、タヒチでは家で飼えない猫を捨ててしまったことで警察に逮捕される、というのはまず考えづらく、現に調書をつくったタラバオ警察署長のフィリップは、坂東さんの事情を聞いたうえで、エーテルを嗅がせてやるといいんだ、眠ったまま死ぬから、とアドバイスしてくれた、と言います。私だって捨てたくて捨てているんじゃない、という事情と心情は、「みだりに」殺しているわけではないものとして十分勘案される、ということです。

 結局のところ、政府の発表はその後うやむやのうちに消え失せます。坂東さんのもとにも告訴の件で連絡が入ることはなく、おそらく起訴も何もされませんでした。

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2018年10月14日 (日)

昭和61年/1986年・現実の犯罪にしか興味がない、空想の小説を書くのはアホらしいと語る西村望。

【高知】警察庁から凶悪犯総合手配で全国に指名手配中の殺人容疑者、(引用者中略)元鉱夫、西村楠義(五一)=写真=は十九日夜同県幡多郡佐賀町川内国鉄土讃線工事飯場で同県警に逮捕された。第三次手配七人目である。

西村は昭和二十四年一月愛媛県新居浜市角野町の前住所で妻キヨさん(三八)と長女の文香ちゃん(四つ)を殺し床下に埋めた。その後、長男の明君(一〇)二男の博君(六つ)をつれて坑夫生活をしていたが、博君が足手まといになるので同年二月高知県佐川町中山の谷間で絞殺して捨てた。さらに二十五年には自宅近くの斎藤アサ子さんをダイナマイトで爆殺した。

――『毎日新聞』昭和35年/1960年9月20日「「西村」逮捕 総合手配 妻子殺し」より

 10数年ブログ記事を書いていると、何度も取り上げることになる作家がおのずと出てきます。直木賞候補3回、西村望さんもそのひとりです。しかし、「犯罪でたどる直木賞史」というテーマに絶対外せない作家なのはたしかなので、いつもどおり芸がないですが、今回もまた西村さんの話です。

 直木賞で、犯罪そのものを題材にした小説が候補に挙がることは珍しくありません。第2回(昭和10年/1935年下半期)獅子文六さんの『遊覧列車』に収録されたいくつかの短篇をはじめとして、「推理小説」のジャンルに入るものは、ことごとくそうですし、いまの直木賞で犯罪にまつわる小説が主流を占めているのは間違いないところでしょう。はっきり言って「犯罪を描いた直木賞候補者」を取り上げていくだけでもネタは尽きないはずですが、なかでも西村さんは別格だと思います。

 ライター・文筆業の肩書をもちながら、物書きだけでは食べていけず、借金ばかりが増えていった西村さんの人生を変えたのが、犯罪です。犯罪事件との出会いです。

 ちなみに西村さん自身は犯罪者ではありません。本人いわく、小心者なので犯罪を起こすほどの度胸がないから、だそうです。ただひとつ思い出せる犯罪らしきものは、香川県高松からほど近くに浮かぶ故郷、男木島に暮らしていた昭和20年代後半ごろ、飲み屋の女と協力して前借詐欺を働き逃げてきた知人とその女を、小型の漁船に乗せて四国から逃がしてやったこと(『虫の記』所収「ぼくの唯一の犯罪」)だと言います。

 しかし何ごともなく平穏に過ごそうと思っても、どうしても人は犯罪にぶち当たってしまいます。かつて西村さんも警察の取り締まりにひっかかったことがありました。

 というのも西村さんは昭和32年/1957年、当時松本清張さんの「点と線」が連載されていた『旅』誌にルポ記事を投稿してみたところ、編集長の戸塚文子さんに評価され、いきなり1年間の連載を依頼されます。それがきっかけで連載終了後も、同誌の執筆陣のひとりとして文筆に励みますが、昭和36年/1961年、戸塚さんが退社してフリーとなると、西村さんは後任の編集長と喧嘩を起こして出入り禁止。お決まりの貧乏ライター生活に陥りますが、そんな西村さんのお得意先のひとつとなったのが、『笑の泉』別冊号です。泣く子も黙るエロの殿堂。そこに少し性的なエピソードを盛った読み物から、ノンフィクションから、あるいは小説から、いろいろ載せたそうなんですが、雑誌そのものが何度も猥褻文書扱いで警察の摘発を受け、発禁処分に。西村さんの記事も3回、処分対象となり、警察に出頭を命じられ、調書をとられたことがあった、ということです。

 そのころエロ雑誌の社長から、君ならいずれ直木賞ぐらいとれる、うちのようなエロ雑誌にばかり書いてちゃ駄目だ、と諭されますが(「子を捨てる」)、そこですぐに文芸路線に走る、という軽薄さがないのが、西村さんのいいところです。とうてい物書きでは生活できないからと故郷に帰り、土建業、野鳥園の経営、その他いったいどうやって妻と子供を養っていたのか、どうにかなっていたんでしょうけど、地元瀬戸内海放送のテレビ番組「土曜プラザ」の事件レポーターをやってみないかと声をかけられたのが昭和46年/1971年のこと。視聴者受けなどまるで眼中におかず、ズケズケとものを言い、気に入らないことはしない徹底したスタンスが味となって、長いこと起用されつづけました。

 しかしその間、昭和21年/1946年に結婚して以来、苦楽をともにした妻と昭和47年/1972年に死別。がっくり落ち込んで、酒を飲んでは吉村昭さんの小説ばかり読む生活を送ります。そんな折り、作家としてデビューした弟の西村寿行さんが、あれよあれよという間に出版界でのし上がり、人気作家、流行作家と華ひらくのを傍で見て、あんな下手くそな小説が売れるんなら俺もやってやろうかと思い立つと、少なくとも昭和50年/1975年ごろには、四国の鬼熊事件と言われた連続殺人事件の犯人のことを調べ、構想を練っていたと思われます。というのも、この年、佐木隆三さんが『復讐するは我にあり』を発表、新しい犯罪ドキュメント小説だと持て囃されるのを見て、まったく自分が考えていたのと同じ方向性の作品だったものですから、先を越されたと悔しがった、と回想しているからです。

 二番煎じだ、佐木隆三の真似ゴトだ、と言われるぐらいなら、いっそまた別の題材、別の内容を試してみる道もあったとは思うんですが、鬼畜と言っていいほどの所業をおかした人間に対する興味は膨らむばかり。もはや他人にどう思われようと構わない、という境地にあったことが功を奏したものでしょう。原稿用紙に向かいつづけ、一気呵成に書き上げた500枚ほどの作品が完成します。

 いったんは、伝手を通じて大手出版社の編集者に読んでもらったものの、酷評とともに返されるという不遇の目に遭いますが、それでもあきらめがつかない西村さんは、弟に頼る気はなく、本棚にあった長部日出雄さんの『死刑台への逃走』(昭和44年/1969年)という犯罪小説に目をとめると、奥付にあった版元の立風書房に、いきなり原稿を送ってみます。すると1週間ほどで同社社長の下野博さんから速達で返信が届き、そこにあったのは絶賛の文章。「これは直木賞ものの大変な作品だ」との表現もあったそうです。再婚した若い妻と二人で、泣きました。

 西村望さん52歳。『鬼畜 阿弥陀仏よや、おいおい』(昭和53年/1978年5月・立風書房刊)が刊行され、救いも何もない犯罪と人間の行動を冷徹に見つめる、暗黒犯罪事件専門の小説家がいよいよ世に姿を現します。

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2018年10月 7日 (日)

昭和58年/1983年・自分の名前や作品のことが詐欺行為に使われた向田邦子。

作家の故向田邦子さんと同姓であることを悪用して「オイ」だと名乗り、国際線スチュワーデスら八人から約三千万円を巻き上げ、指名手配されていた鹿児島県生まれ、住所不定、無職向田新作(三四)=写真=が九日、東京・高輪署に詐欺容疑で逮捕された。

向田の直接の逮捕容疑は、一昨年二月、東京都港区の一流ホテル内にある洋品店の店長A子さん(三二)に「結婚しよう」などと持ちかけ、二回にわたり計五十五万円をだまし取った疑い。

――『読売新聞』昭和60年/1985年2月10日「自称“向田邦子さんのオイ” 手配に観念、自首」より

 稀代のシナリオライター、向田邦子さんの名前は、仮に直木賞の受賞がなかったとしても、自然に伝説化したとは思いますが、直木賞という文学賞も、意外と大勢に知れ渡っています。直木賞きっかけで向田さんを知った人もいたはずですし、もとからドラマを観ていた視聴者にも、直木賞をとるなんてスゴい人だったんだ、と改めて見直した人はいたでしょう。

 まもなく向田さんが飛行機事故に巻き込まれたとき、彼女は直木賞に殺されたんだ、と嘆いた人がいたそうです。もちろんそんなことはありません。百歩譲って直木賞の影響があったとしても、直木賞をとったことで、それを見た人たちが向田さんに大量の仕事を依頼、忙殺されるなかで、台湾への取材旅行が組まれ、事故に遭った……要するに「直木賞のことをやたら特別視して、祀り上げようと駆け寄った人間たち」に殺された、ということになります。いつも非道なことをするのは人間であって、直木賞に責任を押しつけるのはまったく筋違いです。

 さて、それに比べればショボい犯罪かもしれませんが、ここに向田さんと同じ姓をもつ、とくに血縁関係のない一人の男性がいました。生まれは鹿児島ですが、大阪で育ち、市内の工業高校を卒業。宝石店などで働くうち、一つ年上のスチュワーデスと出会って妊娠させると、昭和47年/1972年に籍を入れることになります。21、22歳ごろのときです。

 仕事は貿易商と言っていたらしいですが、じっさいはほとんどカネがなく、持ち前の巧みな会話術でさまざまな女性に手を出しては、偽名や嘘の職業を騙ってお金をせしめるようなことを繰り返していたといい、そのことを知った妻はさすがにブチ切れて、家を飛び出すと、秋田の実家で子供を出産しました。

 ひとりになった男でしたが、まるで懲りることなく10人を超える女性に対し詐欺行為を重ねたそうで、ついには寸借詐欺2件、結婚詐欺1件、という内容で警察に捕まり、昭和49年/1974年に懲役6年の実刑判決をくらいます。その一年後に、正式に離婚が成立。

 満期でお務めを果たしたとすると、男が出所したのは昭和55年/1980年です。この年7月、向田邦子さんが直木賞を受賞したニュースも、娑婆のどこかで目にしたかもしれません。20代後半のほとんどを刑務所のなかで暮らし、多少は反省したものとは思うんですが、そこら辺の心境はまったく不明なので飛ばしまして、昭和56年/1981年から福岡市にマンションを借ると、近くのスーパーのなかに小さなブティック店を開店。いったいその資金はどこで調達したのか。それも不明です。いつもブランド品に身を包んで、店にはほとんど行かず、別れた妻から見聞していたスチュワーデスの生態を参考に、日航、全日空、外国航空、そこら辺りのスチュワーデスに次から次へ近づくと、事実と異なる自分の属性を語って相手を信用させ、ン万円からン百万円のお金を拝借しつづけます。相変らずの詐欺師生活です。

 ここで向田邦子さんが昭和56年/1981年に飛行機の事故で命を落としたのは、もちろんまったくの偶然でしかないんですが、そのころから男の手口が少し変わります。初対面の相手には、私は向田邦子の甥なんです、中央大の法科出身で、兄は検事、父は警察署長をしているんです、と自己紹介するようになり、一部のスチュワーデスのあいだでも男の存在はよく知られていた……ということを含めて、上記に挙げた男の来歴はほぼ『週刊新潮』昭和60年/1985年2月7日号「非公開捜査「向田邦子の甥」に結婚詐欺された女たちの「高いレベル」」から引き写しました。誰が書いた記事かわかりませんが、ありがとうございます。

 作家の名前が世間にひとり歩きすると、それを騙って悪さを企む人間が出てくる、といえば、海音寺潮五郎さんや村上元三さんも、知らないあいだに自分の名前を使われたことがありました。しかしそれは昔の話、こと直木賞に関していうと、時代が現在に近くなればなるほど、「有名になる」イコール「顔がマスコミでさらされる」というのが基本になるので、さすがに自分は受賞者本人だと嘘をつくのは難しくなります。そこで「親戚を騙る詐欺手口」が発生するわけですが、この男の場合、「向田邦子」の活用のしかたが絶妙というか悪質というか、単に信用度を上げるためだけでなく、会話を盛り上げる手段にもしていた、というのですから、なかなか罪深いです。

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2018年9月30日 (日)

昭和20年/1945年・立川の米軍捕虜虐殺事件を、巡査として目撃したもりたなるお。

起訴理由概要 昭和20、8、9一俘虜軍曹を棒に縛りつけ一般民衆に依り竹竿を以て二時間に亘り打擲を加えしめ失神せしめ或は之を蘇生せしめ且軍刀を以て斬首せしめたる等の行為に依り戦争法規慣習違反せり

所属 立川憲兵分隊長

階級 憲少佐

氏名 ●島●郎

判決 年月日 22、6、24 刑 無罪(引用者注:「無期」の誤記)

(引用者中略)

起訴理由概要 立川憲兵分隊に勤務中立川市に於いて米軍俘虜を虐待酷遇死に至らしめ又完全なる看護保護を加へず部下の行為を取り締ることを怠れり(20、8、9)

所属 立川憲兵隊

階級 准尉

氏名 ●昇

判決 年月日 22、8、22 刑 20年

――昭和60年/1985年8月・不二出版刊 茶園義男・編・解説『BC級戦犯横浜裁判資料』「横浜裁判一覧表」より(原典は表組み)

 人は生まれながらにして罪人だ、という表現がありますが、そういう宗教的な考えは抜きにしても、人が常に犯罪に囲まれて生きていることは明らかです。本人が自覚的に罪を犯すケース、法律にのっとっていないと突然指摘されるケース、違法だか何だか誰にもわからないところで裁判に持ち込まれるケース、などなど当事者として関わる場面もあるでしょうが、それ以外にもさまざまな立場から、ほぼすべての人間が、なにがしかの犯罪に接しています。

 直木賞の候補者のうち、かつて警官だったもりたなるおさんは、単に警官だったという経歴的な事実を超えて、犯罪事象と縁の深い作家だった、と言っていいでしょう。警察官もまた、他の人と変わらずにそれぞれが一個の人間であり、小市民である、という思いのもと、何作も警察官の側に視点を据えた小説を書き、そのうち『無名の盾 警察官の二・二六事件』(第97回 昭和62年/1987年・上半期)、『大空襲 昭和二十年三月十日の洲崎警察署』(第100回 昭和63年/1988年・下半期)の二つが直木賞の候補になりました。二・二六事件で数名の警備警察官が犠牲になった、というところから、この事件のことを調べるうちにズブズブとはまり、〈二・二六作家〉としても名をなします。

 じっさいには、もりたさんが警官だったのは約3年ほどで、それほどの長期間ではありません。18歳のとき、警察官の多くが兵役にとられて人員不足となったために、その補助的な位置づけにあった少年警察官として雇われたのち、警視庁警察練習所に学んで、昭和19年/1944年に、巡査となって立川警察署に配属されます。しかしまもなく、昭和20年/1945年春には徴兵検査を受けて第一乙種となり、現役兵として浜名海兵団に入団したのが、終戦まぎわの8月10日。

 やがて日本の無条件降伏によって、もりたさんもすぐに復員し、立川警察に戻るのですが、戦時中、腰にサーベルを差し、さんざんイバり散らして偉そうだった警察が、戻ってみるとガラリと様相が変わっていて、民主警察に再生したという態で丸腰になり、やることといえば、通称〈MP〉と呼ばれるアメリカ軍人たちの護衛というか使いっ走り。日本の治安をわれわれが守るのだ、という燃え盛る気概が、もろくも消え失せるような大転換のこの時期に、若い警官として日々を過ごすなか、わずか3年の勤務、とはいえ、そうとう精神的に揺り動かされる経験をしたのでしょう。

 闇米の取り締まりのために立川駅に派遣されたある日、買い出しにきて風呂敷包みを抱えていた女性を発見。逃げる彼女を、職務に忠実に追っていったところ、便所の中に逃げ込まれ、いくら説得しても出てこようとしない。しまいにはすすり泣く声で、うちには腹を空かせた子供たちが待っているんだ、と訴えられ、いよいよ森田巡査は自分のしていることがわからなくなってきます。取り締まろうとする自分も貧乏、取り締まられる人たちも貧乏。ああ、もうヤダヤダ、と辞職の覚悟を決め、宿直明けに制服姿のまま電車に乗り、以前から「大衆のための芸術」だと思って興味のあった漫画を描こうと、近藤日出造さんの家をいきなり訪ねていき、それからは師匠ゆずりに、画も描きながら文章も書く、新進の漫画家として、戦後の再出発をはかりました。

 その後も、昭和27年/1952年5月のメーデー事件の行進に参加したり、昭和31年/1956年には米軍の基地拡張に伴う農地接収などの問題が起きていた砂川闘争を取材したり、いくつか〈元・警官〉の立場で接した社会事件もありますが、ここで触れたいのは、もりたさんが現役巡査だった頃に発生した事件のことです。

 後年、もりたさん自身、小説の題材にもしています。立川市錦町の米軍捕虜虐殺事件です。戦後の横浜軍事裁判では、日本側文書で見ると事件番号134および158、米文書ではケースNo.217という番号が付けられています。

 もりたさんがこの事件にどう関わったのか……と、その前に事件の概要を紹介しておかないと話は進みません。

 昭和20年/1945年8月8日昼すぎ、立川上空に現われた米軍のB29編隊に対して、日野台にあった高射砲が火を噴いた結果、撃ち落とされた機体が一機。墜落死する搭乗員たちのなかで、落下傘での降下に成功した2人の米兵は、すぐに日本の警備隊に捕えられ、立川憲兵分隊に収容されますが、住民たちが分隊の施設に押し寄せ、殺気立った状況のつづく有り様を見て、このままでは収まらないと判断したらしい憲兵分隊では、翌9日、捕虜のうち1人を錦国民学校の校庭に連れ出すと、十字架のように組んだ棒に括りつけ、住民たちのなかで希望する者に、一人一回ずつ竹槍で打たせる、という対応をとります。

 希望者は長蛇の列をなし、約2時間たっても終わらなかったところ、警戒警報が発令されたために一般市民たちは即座に解散。憲兵隊は傷ついた捕虜を、正薬院のなかにあった市営墓地に担ぎ込み、どういう経緯だったかは不明ながら、一人の航空技術将校と思われる中尉が軍刀を一振りし、米兵を斬首します。ところが一転、まもなく無条件降伏が決まったものですから、米軍に事実が発覚するのを恐れた憲兵たちは、墓地を掘り返して腐乱した遺体を取り出すと、改めて火葬して埋め直すなどの隠蔽をはかった、ということです。

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2018年9月23日 (日)

昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。

目白の高田農商銀行ギヤング事件が神戸で逮捕されたアナ系の相澤尚夫(二八)の指導下に行はれ、しかも一味の間に重大な陰謀計畫が進められてゐることがわかつたので警視廳特高課では十一夜來俄然緊張、全課員及び各署特高係をそれぞれ待機せしめたうへ十二日拂曉を期しアナ系分子の大檢擧を開始(引用者中略)このアナ系大檢擧によつて大杉榮の死後漸次沒落の過程をたどりつゝあつた無政府主義者がフアツシヨ非常時下にもぐつて從來の理想的觀念論を揚棄して極左及び極右の組織的行動の長所を取入れ一切の權力を否定する建設的テロリズムによる暴力革命を決行するためにすでに昨年六月「日本無政府共産黨」を結成して暗躍してゐた怖るべき全貌が暴露された

――『読売新聞』昭和10年/1935年11月13日夕刊「暴力革命を企らむ “無政府共産黨”の全貌 五十三名打盡さる」より

 直木賞の特徴のひとつに「歴史の長さ」が挙げられます。そのため、しょうもない作品が受賞作に選ばれても、伝統ある賞、というイメージのおかげで、何かエラいもののように感じる人が後を絶たないという、得がたい効果が発生するわけですが、昭和10年/1935年から80余年も続いているので、候補に挙がった人数も優に500人以上。当然それぞれに違った人生があり、彼らの小説を読むという行為とはまた別に、さまざまな候補者の来歴を知ろうとする楽しみも、直木賞を見るときの面白さにつながっています。

 なにしろ直木賞が始まったのは、昭和の初期です。ということで、ある程度の時代まで、候補者のなかには政治思想を理由に警察に検挙されたことのある作家が、何人か見受けられます。いまとなっては、とうてい犯罪者の枠には入りませんけど、国家権力や社会の仕組みに反旗をひるがえすことで辛酸をなめた人が、候補者として重要な歴史を刻んでいるのも、長く続けられている直木賞の一側面でしょう。

 第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)、混乱とゴタゴタのなかで行われた戦後復活1回目の直木賞に、候補として名前の挙がったひとりが、菊岡久利さんです。候補作は「怖るべき子供たち」。これのどこが大衆文芸なのか、さっぱりわかりませんが、とりあえず直木賞を運営する日比谷出版社の『文藝讀物』に掲載された作品だから候補になったんだろうとしか思えない、この図式からして伝統的な直木賞の姿を垣間見せる、なかなか唐突で面白い候補選出だったと思います。

 たどってみると菊岡さんの履歴は、もし彼が女性だったらいまごろ桐野夏生さんあたりが小説化していてもおかしくないぐらいに波乱に富んでいる、と言ってもいいものですが、昭和20年/1945年に日本の政治情勢がガラリと変わるまでは、年がら年じゅう留置所に入れられていたそうです。

 平成21年/2009年に青森県近代文学館の館長として「生誕一〇〇年 菊岡久利の世界」展を企画した黒岩恭介さんの『綺想の風土あおもり』(平成27年/2015年5月・水声社刊)によると、菊岡さんは大正15年/1926年、17歳のときに秋田県で小坂鉱山煙害賠償労働争議に参加。このころからすでに、社会的に弱い立場にある人たちへの思い入れがすさまじく、社会問題への関心を深めるとともに、思索的のみならず行動的でもあった菊岡さんは、この年、『小樽毎日新聞』に古田大次郎さんの原稿を載せた科でしょっぴかれ、留置されてしまいます。

 翌年、上京すると、石川三四郎さんのもとに拠り、鷹樹寿之介と名乗ってアナキズム運動に本格的に邁進。歯止めの効かない危ない奴、というか、誰の前に出ても決してひるまずに自分をさらす無鉄砲さが、あるいは通じたものか、文壇の作家たちにもけっこう可愛がられました。なかでも横光利一さんとはかなり相性がよかったらしく、菊岡さんは長く横光さんを敬愛し、また横光さんのほうも、ゆくゆくは小説を書いていきたいという菊岡さんに、それならと「菊岡久利」のペンネームを与えます。これは、菊池寛、岡鬼太郎、久米正雄、横光利一の4人の名前から一字ずつ取ったものだそうです。

 ともかく10代の少年だった頃から40代に至るまで、本人によれば、留置所入りは30回、監獄入り3回を経験した(『新潮 別巻第一号 人生読本』昭和26年/1951年1月「文士ゆすり顛末記」)というのですから、ツワモノには違いありません。そのひとつひとつの詳細は、なかなか追いきれませんが、なかで最もマスコミを賑わせた事件というと、昭和10年/1935年秋、「黒色ギャング」と書き立てられた銀行襲撃からの、日本無政府共産党一斉検挙事件になるでしょう。

 さかのぼること2年前、昭和8年/1933年12月はじめごろに、アナキストによる革命団体をつくる目的で集結した植村諦聞、相沢尚夫、入江汎、二見敏雄、寺尾実の5人が〈日本無政府共産主義者連盟〉を結成、翌昭和9年/1934年1月に〈日本無政府共産党〉と改称したこの組織の、大きな問題の一つは資金をどうやって調達するかだった、ということが、のちに相沢さんが回想した『日本無政府共産党』(昭和49年/1974年6月・海燕書房刊)で詳細に触れられています。しばらくは知り合いからの寄付金で、どうにか賄っていたものの、すぐに底をつく有り様。もうこれは、どこか金融機関を襲って奪い取るより他はない、という結論に達し、馬橋郵便局にするか、いや駒場郵便局にするかと物色するうちに、最終的に標的となったのが、目白に住む二見さんに土地勘のあった高田農商銀行です。昭和10年/1935年11月6日朝、二見さんと小林一信さんの二人で同銀行に赴き、脅迫のうえ金を奪取しようとしますが、結果は大失敗。これをきっかけに同党および、無政府共産主義者たちの一大検挙へと拡大していきます。

 その後、官憲の目をかいくぐって逃げ回っていた二見さんも、12月24日、クリスマスイブの夜に銀座の街頭で特高に捕えられ、昭和14年/1939年5月8日の一審では死刑判決が下され、昭和15年/1940年2月8日東京控訴院の二審で無期懲役の判決を受けます。ただし、まもなく2月11日に、紀元2600年の恩赦によって懲役20年となり、刑務所暮らし。5年ほど経って、日本が降伏した直後の昭和20年/1945年10月4日、マッカーサーの政治犯釈放命令によって出獄したのが39歳のときで、すぐに政治運動に戻りますが、日本自治同盟が数年で解散したあとは主だった活動はなかったらしく、昭和42年/1967年に没しました。

 その二見さんとかつて共同生活を営んでいたのが、友人の菊岡さんです。銀行襲撃の失敗で、警察の手から逃れようとする二見さんの、逃亡期間中の生活費の一部を、菊岡さんが出してあげていたとも言います。数百人に及んだと伝えられるこの一斉検挙の対象のひとりとして代々木署に留置され、一週間ぐらいで帰されたそうですが(『思想の科学』昭和40年/1965年11月号 秋山清「無政府共産党事件」)、しかし菊岡さんの履歴を見ると、処女詩集『貧時交』(第一書房刊)の出た昭和11年/1936年1月には、まだ勾留中の身だったとも言われていて、いつ入って、いつ出てきたのか、よくわかりません。

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2018年9月16日 (日)

昭和43年/1968年・公職選挙法違反に問われ、起訴猶予になった今東光。

【大阪】去年四月に行われた大阪市議選に同市此花区から自民党公認で立候補して落選した大谷保一(三五)派(引用者中略)の選挙違反を捜査していた大阪地検特捜部は、作家の今東光(六九)(引用者中略)と、今の秘書の千葉たみ子(三七)(引用者中略)が、大谷から現金をもらった事実をつかみ、公選法違反(被買収)の疑いで調べていたが、三日午後「犯罪は構成するが、反省の色が濃い」として、二人を起訴猶予処分にした。今は佐藤首相から要請され、ことしの参院選全国区に自民党公認候補として立候補する予定で、その処分が注目されていた。

――『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)の直木賞は、今東光さんと穂積驚さんの二人に贈られました。穂積さん44歳に対して、今さん58歳。……いまとなっては、とくに珍しくない受賞年齢ですが、それまで50代で受賞した人すらひとりもいなかったのに、いきなり最年長記録を60歳近くまで伸ばしたのですから、とくに今さんの受賞は、一部に大きな驚きを与えた、と伝えられています。

 いや、年齢など些末な話題にすぎません。今さんが直木賞史のなかに残した爪痕といえば、受賞した後の圧倒的なマスコミ露出。これに尽きるでしょう。

 芥川賞に石原慎太郎(第34回 昭和30年/1955年・下半期)あれば、直木賞に今東光(第36回)あり。……と表現したのは、誰だったでしょうか。スター性の面では、たしかに石原さんには勝てないでしょうけど、「かしこまって偉ぶるのではなく、少し崩した口調・文体で、場所柄わきまえず放言する」というスタイルが多くの人にウケたおかげで、小説の出来うんぬんはさておき、作家であり僧侶であり毒舌家、という方向で世間に知れ渡るようになります。直木賞では珍しいことです。

 そういうなかで実施されたのが昭和43年/1968年の参議院選挙です。著名人やタレントが続々と候補者に名乗りを挙げたことから、政治もここまで落ちぶれたかと言われ、いつもいつも、ついに落ちぶれたかと言われている文学賞の姿を、どことなく思い起こさせる様相がありましたが、石原さんと並んで自民党公認で出馬した今さんも、事前から「タレント候補者」の有力者だ、と見られていたといいます。そのことでもわかるとおり、直木賞・芥川賞の受賞者のなかではタレントに分類して違和感のないくらい、とくに顔も名前も売れていたひとりです。

 と、ここで今さんがぶち当たった法律があります。公職選挙法です。

 以前より今さんは、公選法に対して文句があったらしく、ずいぶん悪口を叩いていました。たとえば昭和42年/1967年には、現行の公選法は結局ダメな政治家しか選べないダメ法律だと、お得意の鋭い舌鋒を披露。なぜ戸別訪問やビラに禁止条項があるんだ、そんなどうでもいいことをいちいち条文に示しているから、おれはこの法律が嫌いなんだ、と言い張っています。

 そしてこう書きます。

「買収や供応が悪いことは言うまでもなく、それをする奴や、それに応ずる奴は下等至極な奴で、そんな者を罰するために吾々まで罰則の適応を受ける理由はないのだ。いかなる罰則を制定しても、罪人はこの世の中から無くなるものではないのだ。買収や供応をする候補者には投票しないことが即ち罰則なのだ。

何もそれを法律で規正する必要はあるまい。」(『週刊サンケイ』昭和42年/1967年5月22日号 今東光「東光毒舌説法(21) 選挙法という悪法」より)

 何でも罰則で縛ろうとする法の存在と、今さんの考え方もしくは生きざまは、しょせん相容れないもの同士、ということかもしれません。買収・供応をする奴、応ずる奴、どちらも下等だとかました今さん自身が、実際そのルールにひっかかり、選挙前から後まで、とにかく「今東光といえば選挙違反」という妙な展開へと転がっていってしまうのです。

 この年の春、大阪市議選に応援演説に狩り出された今さんは、候補者だった大谷保一さん派の運動員から10万円を受け取ります。日頃から講演を依頼されること数限りなく、しかも今さんは、たいてい相場より高い講演料を要求することで知られていたそうで、人前に立ってしゃべる、お金が発生する、これ当然、という世界で生きていたものですから、深い考えもなく謝礼を受け取ったところ、法的にはアウト。7月末から2回にわたって取り調べを受け、事実関係を全面的に認めたうえで、「自民党の公認を受けながら、自分が違反をおかしたことをはずかしく思う」(『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より)と反省の姿勢を見せたことが効いて、法律違反ではあるが起訴猶予、という結果に落ち着きました。

 何が選挙法違反だ。何の悪気もなくやったことなんだから、いいじゃないか。と、いつものように開き直ればよかったと思うんですけど、ここで反省してみせるところが、今さんの正直さかもしれません。あるいは、なんだかんだ言っても法の下にある社会集団の一員として、多少は折り合いをつけないと生きてはいけない俗世のつらさを垣間見せ、何だこのクソ坊主は、と批判する人たちを生んでなお、自身の参議院選挙に影響するところは、ほとんどなかったようです。

 天台宗務庁からは昭和43年/1968年4月、大僧正の呼称が贈られ、選挙戦が始まれば、若いころからの友人、川端康成さんが応援演説に立ったと言っては話題となり、自分でも行く先々で、何が佐藤内閣だ、これをぶっ壊せるのはおれだ、と自民党公認でありながら自民党を批判して喝采を浴びる、いまでもよく見かける戦法をとって有権者の心をつかみ、きっちりとこの戦いを乗り切って、100万票以上を獲得して全国区4位当選。直木賞受賞者にして国会議員、という前代未聞の道をきりひらきます。……いやいや、芥川賞のほうはその3倍近い票が石原慎太郎に入ったじゃないか、やっぱり芥と比べたら直っていつもパッとしないんだな、というボヤキは、このさい封印しておきましょう。

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