2018年7月15日 (日)

第159回直木賞で話題となっている参考文献記載問題。

 平成30年/2018年夏、7月18日(水)に第159回直木賞が決まります。

 直木賞と、もうひとつ同時に開催される他の賞が、決まるまえのこの時期からいろいろと話題になるのは常道の光景ですが、とくに今回は、巻末に参考文献を載せるか載せないか、載せるとしたらどう載せるか、それが候補作の運命を左右する大きな注目点になる、と数々の識者が指摘しています。ご存じのとおりです。

 参考文献を笑う者は、参考文献に泣く。何ごとも細部にまで神経を尖らせるのは大切なことだと思います。

           ○

 ところで、参考文献の記載ぶりは、これまで直木賞にどんな結果をもたらしてきたのでしょうか。

 かつてこの賞は、雑誌掲載の作品ばかり受賞していましたが、それらの末尾に参考文献が付される例はほとんどなく、村上元三さん「上総風土記」ぐらいのものだったでしょう。ここでは単行本で受賞した例のみを対象にして、集計してみます。

●受賞作総数:128

●参考文献の記載アリ:22冊(17.2%

 これだけ割合が低いのは、直木賞が古くからやっている証しかもしれません。とにかく昔の本の多くは、参考文献の表示が省略されているからです。

 よく知られているものに、井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』があります。この作品には確実に親本があり、本人も受賞当時からそのように語っていて、要するに内容まるパクリなんですが、これが直木賞を受賞するとはどういうことだ、と猪瀬直樹さんあたりがいっとき猛烈に批判していました。

 直木賞の本に、はじめて参考文献が登場するまでには、かなりの時間を要します。

 時代はぐっと下って第87回(昭和57年/1982年・上半期)。3ページにわたって、ずらずらと参考元を列記した深田祐介さんの『炎熱商人』が、直木賞史上初の作品です。なにせ深田さんはその2年半まえ、3度目の候補になった『革命商人』でも同じように大量の参考文献を付し、しかしそのときは惜しくも受賞を逃したので、「執念の参考文献列挙者」として、いまも直木賞の語り草になっています。

 その後もまだしばらくは、直木賞に参考文献の時代は訪れません。ようやく潮目が変わりはじめたのが、元号が平成に変わる頃から。平成の受賞作(単行本で受賞したもの)だけで数えると、その数字の上昇ぶりは明らかです。

●受賞作総数:73

●参考文献の記載アリ:19冊(26.0%

 それでもまだ、全体の4分の1程度でしかありませんが、歴史モノは当然のこと、少し前の時代を描いた小説などにも、ぞくぞくと参考文献アリの拡大が見られる、という流れを経て、もはや現代小説の巻末で参考文献が紹介されることが、何も不思議ではない状況に突入しました。

 たとえば、2回まえの佐藤正午さん『月の満ち欠け』は、参考文献〈アリ〉派。前回、門井慶喜さん『銀河鉄道の父』は、いかにも〈アリ〉派に属していそうな構えの小説でしたが、じっさいは〈ナシ〉派。

 参考文献アリか、ナシか。……一進一退の攻防を繰り広げるそんな現状だからこそ、今回第159回の直木賞も、そのゆくえが注目されています。

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2018年7月 8日 (日)

昭和59年/1984年・「ロス疑惑」報道事件でゴシップメディアに重宝された小林久三。

ロス疑惑事件をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして、三浦和義被告(四九)が新聞社に損害賠償を求めた二件の訴訟の上告審判決が二十七日、最高裁第三小法廷であった。

(引用者中略)

夕刊フジの発行元の産経新聞社と作家の小林久三氏に計五百万円の慰謝料を求めた訴訟では、二審判決が「夕刊紙は、帰宅途上のサラリーマンを対象として主に興味本位の記事を掲載するもの。読者は大げさな憶測記事として一読したに過ぎない」としていた。

しかし、この日の判決で園部逸夫裁判長は「興味本位の編集方針をとっていても、報道媒体である以上は、読者も記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、記事にいくぶんかの真実も含まれているものと考えている」と述べて、二審判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻した。

――『朝日新聞』平成9年/1997年5月27日夕刊「「夕刊紙にも真実ある」 名誉棄損に新判断 ロス疑惑で最高裁判決」より

 犯罪事件が起こると、それに対して当事者や捜査機関ではない第三者の立場から意見や推論を述べる、あまり尊敬されない役割を担う人が登場します。〈コメンテーター〉と呼ばれたりします。

 さまざまな職種の人が、その役割を押しつけられ、また自ら望んで担ってきましたが、伝統的に重宝されてきた職種のひとつが、推理小説作家です。

 直木賞と縁のある作家のなかからも、やはり何人かが狩りだされ、犯罪史ならぬ日本の犯罪報道史を色どり豊かに彩ってきました。とくに昭和50年代から平成はじめごろにかけて、多くのメディアに登場、どこか胡散くささをまといながら、しかし大きな功績を残した人といって思い浮かぶのが、直木賞候補者、小林久三さんです。

 小林さんは、もとは松竹で映画の制作に携わり、助監督時代にはストーリーや脚本を書いたりしていた人ですが、昭和47年/1972年に冬木鋭介のペンネームでサンデー毎日新人賞(推理小説部門)を受賞、2年後、「暗黒告知」で江戸川乱歩賞を受賞し、それがそのまま直木賞の候補にも残って、小説家としての道が開けます。次第に活動分野はひろがって、週刊誌、スポーツ紙、夕刊紙といった、ちょっといかがわしいけど、楽しさ満点の、大衆向けメディアにも積極的に登板、多忙な作家生活を送ります。

 そんな小林さんが昭和57年/1982年に見舞われたのが、盗用・盗作事件です。

 明らかに小林久三の作品は盗作だ! と思いっきり全国紙の紙面で糾弾されることになったのは、『週刊大衆』に連載した「ノンフィクション・ノベル 帝銀事件」および、『小説現代』に発表した小説「マッカーサー謀殺事件」が、轍寅次郎こと和多田進さんの出版した『追跡・帝銀事件』の内容を大きくパクったもので、転用・借用、数限りなく、許容範囲を超えていて、参考資料にしたという言い訳は成り立たない、として和多田さんが抗議。裁判も辞さないとする和多田さん、それなら受けて立つと構える小林さん、双方の主張を報じたのが、『読売新聞』昭和57年/1982年7月3日夕刊の記事「売れっ子推理作家 小林久三氏 「帝銀事件」盗作トラブル」でした。

 この記事になるまでに、両者は代理人を通じて話し合いをもち、謝罪文の掲載、慰謝料の支払いなど、示談の要件を詰めようとしていたけれど、折り合いがつかず、ということで表沙汰になった感じですが、その後、両者の知人でもあった森村誠一さんがあいだに入り、和解金200万円の支払い、単行本化は見送る、ということを条件にして昭和57年/1982年10月29日に双方和解(昭和58年/1983年6月・幸洋出版刊 片野勧・著『マスコミ裁判―戦後編』)。立件されることもなく、また某かの文学賞の候補に挙げられていたわけでもなかったので、「○○賞は死んだ」などと、まわりから煽り立てる声も起こらずに、穏便なところに着地します。

 被害を訴える側は、これは明らかな盗作だと主張し、訴えられた本人も、たしかに参考にしたのは事実だと認めている。それでも、作家生命が断たれるほどのことはなく、先の道を歩んでいくのが一般的な展開です。小林さんも例に洩れません。「推理作家」の看板を降ろすことはなく、歴史に関する文献を読み込み、気になる犯罪事件があれば取材し、求められれば、事件に対する自分の感想や推理もお話しする。相変らず仕事に忙しい日々を送りました。

 というところで、昭和59年/1984年に小林さんが遭遇した、遭遇してしまうことになったひとつの事件があります。さかのぼること約2年前、昭和56年/1981年11月18日に、三浦一美さんがロサンゼルスで銃撃された事件の真相をさぐるという名目で、夫・三浦和義さんを追いまわす、度を超えた過熱報道が日本中を席巻した、という事件です。

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2018年7月 1日 (日)

昭和29年/1954年・「幹事長と女秘書」事件で佐藤栄作から訴えられた宮本幹也。

判決

(引用者中略)文筆業 宮本幹也こと 宮本正勝

大正二年三月二十日生

(引用者中略)会社員 丸尾文六

明治四十二年八月三日生

右両名に対する名誉毀損被告事件について、次のとおり判決する。

主文

被告人宮本正勝を罰金五万円に処する。(引用者中略)

被告人丸尾文六を罰金五万円に処する。

――『判例時報』昭和32年/1957年8月11日号「判例特報(1) モデル小説と名誉毀損罪の成立」より

 とりあえず直木賞は、文学の賞を名乗っています。文学にまつわる犯罪といって、やはりひとつの軸となるのは、発表された作品をめぐる抗議、告発、難癖などが引き起こす訴訟・判決でしょう。

 直木賞も80年以上やっていますから、受賞者や候補者の書いた小説が、道義的もしくは法的に非難され、告訴にまで至った例は、数多く見受けられます。せっかくいま、芥川賞のほうが盗作関係のハナシで盛り上がっているので、直木賞の、過去の盗作エピソードを振り返ってみるのも悪くないかな。とは思いましたが、準備もできておらず、それはまた後日、時機を見てからということにして、今日は盗用・盗作と並ぶ、「文学上の二大犯罪」のひとつ、モデル小説による権利侵害の話題でいきたいと思います。

 さかのぼってみますと、直木賞の受賞作や候補作で、特定の人物をモデルにしたと言われる小説は、古くからけっこうありますが、そのことが実在の相手や周辺人物たちに問題視され、異議を唱えられた一例が、有馬頼義さんの「終身未決囚」事件です。

 「終身未決囚」は、はじめは同人誌『文学生活』に発表されました。そのときは何の話題にもなりませんでしたが、これを表題作とした短篇集が、第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞を受賞。実際に目にする読者がにわかに増えたことで、早速、口を挟んでくるクレーマーが現われます。評論家の津久井龍雄さんです。

 本作で描かれた登場人物〈宮原基〉は、どう読んでも大川周明がモデルである。歴然と明確なモデルのある小説で、事実と異なるストーリーを都合よく並べたうえ、戦犯の容疑で法廷に立たされた彼が、精神病者と認定されて釈放されたのは、ウソの発狂を装ったからだ、などと大川氏を貶めるような内容を堂々と展開しているのは、大川氏本人や彼を尊敬する多くの人を冒涜するものだ。うんぬん。

 ……という、ヤフーコメントに載っていてもおかしくないような言いがかりを、『出版ニュース』昭和29年/1954年10月上旬号が掲載。同号で有馬さんは、モデルがあったことは事実だが何も大川周明のことを書いた小説ではない、と反論に打って出て、これが他の文学賞だったら議論の盛り上がり方も多少違ったかもしれません。しかし、他ならぬ直木賞をとった作品でもあり、それだけで文学的には数等落ちる、と本気で信じられていた時代です。とくに犯罪認定されることもなく、収束していきます。

 けっきょく直木賞が騒動にさらされることはありませんでしたが、昭和29年/1954年のこの年は、「小説のモデル」問題が、ついに文壇のせせこましい枠を超え、裁判で争われることになった重要な年です。その経緯は、直木賞とは直接の関係がなく、このブログで扱うには不適なんですけど、しかしそこには「純文芸の人たちによる大衆文芸差別」という、直木賞の置かれた当時の文芸状況が密接にからんでいて、その後の直木賞関係の、小説モデル事件を見るうえでも欠かせない歴史的な事件だった、と思います。俗に「幹事長と女秘書」事件と言われる一件です。

 光文社の出していた大衆小説誌『面白倶楽部』に、宮本幹也さん作「幹事長と女秘書」が田代光さんの挿絵付きで載ったのが、昭和29年/1954年11月号のこと。主人公は、疑獄事件の渦中にあり、自民党幹事長の職を辞す決意をかためた代議士、後藤大作と、彼のもとに突如現われた20歳前後の若い女性、若月ミチコで、ミチコの自由奔放な言動にふりまわされる後藤と、彼の実兄で同じく代議士の岸井新介や、古田総理とのやりとりをはじめ、後藤がかつて愛した赤坂の芸者とのあいだには美しい娘がいる、といった逸話を、巧みに入れ込んで読ませる楽しい小説なんですが、なにしろ田代さんの描いた挿絵の人物が、実在の政治家と瓜二つ。だれが何を言わなくてもこれが、当時自由党幹事長を辞めたばかりの佐藤栄作さんをモデルにしていることは、明らかでした。

 本文末尾に「この小説にはモデルはありません」の断りが付けられていましたが、そんな言い訳に何の効果もなく、雑誌発売直後の9月末に、当の佐藤さんが名誉毀損だとして告訴。その直前、光文社の編集部に抗議に乗り込んできたのが、「佐藤氏から世話になっている者だ」という殉国青年隊顧問の男とその部下たち、いわゆるそのスジの、右翼ったコワい人たちだったこともあり、創作の自由をこういう威圧的な手法で封じようというのはおかしいじゃないか、と『面白倶楽部』編集長の丸尾文六さん、作者の宮本幹也さんともに、徹底抗戦の構えを見せます。

 それまで、モデル小説で告訴された平林たい子さん「栄誉夫人」、由起しげ子さん「警視総監の笑い」などは、当事者間の話し合いや、金銭の授受で示談になっていましたが、当案件は被告側が示談を拒否。ついに起訴されるに至り、法廷で争うことになります。

 しかし、このとき文学関係者が見せた反応は、かなり鈍いものでした。

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2018年6月24日 (日)

昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。

一昨年の朝鮮動乱二周年記念日に新宿スケートリンクで開かれた「国際平和の集い」に集った群衆の流れが新宿駅前東交番などを襲い火炎ビンを投げつけ集団暴動を働いた事件の判決公判は十日午前十時五十分から東京地裁二十一号法廷で加納裁判長係で開かれ、次の判決言渡しがあった。

▽懲役一年、小林勝(求刑懲役三年)公務執行妨害、銃砲刀剣所持違反

――昭和29年/1954年7月10日『毎日新聞』夕刊「小林に懲役一年 新宿火炎ビン事件に判決」より

 東京・新宿駅の東口および歌舞伎町の周辺は、常に何かが暴発しそうな、毒々しさに満ちた一帯ですが、昭和27年/1952年6月25日水曜日夜、その付近に集まった熱気あるデモ隊が、仕事熱心な警官隊と正面衝突。報道陣を含め負傷者20数名を出すという大騒動が起こりました。

 当日は午後5時半から、歌舞伎町にあった東京スケートリンクで、渡辺三知夫さんを委員長とする芸術家集団が、「国際平和記念大会」ないし「国際平和のつどい」と称する大会を企画、そこに2500人ほどが集結していたと言います。朝鮮動乱とも朝鮮戦争とも呼ばれる、コリア半島を舞台にした南北分かれての、例の争いが始まって、ちょうど丸2年となった6月25日、日本に住む朝鮮の人たちをはじめ、日本人の学生、労働者などがぞくぞくと集まり、半島の平和を願いながら、その争いに荷担しようとする日本国家のやり口に不平不満を高め合うこと数時間、盛り上がりのボルテージが上がったまま閉会を迎えたのが午後9時すぎのことです。

 どうやら今日の集まりは(も)過激な参加者が多く、箱詰めの火炎ビンや硫酸ビンが用意されているらしい、との噂を耳にした警視庁は、早くから警備体制を整え、淀橋署の警戒本部に約1000人という、なかなか大人数の警官たちを待機させて、状況を見守ります。

 すると大会終了後、興奮状態を持ち越すかたちで、掛け声を上げ、アジビラを撒きながら新宿駅までやってきた大群が、東口前のあたりに陣取って、インターナショナルを歌いながらビラをまく。これは不穏な雰囲気になってきたぞと判断した警察は、躊躇なく1000人の警官隊を送り込む。怒号やら悲鳴やらが新宿の街にこだまする展開となったところで、ここぞとばかりにデモ隊の一部が、警官隊に向かって火炎ビンや硫酸ビンを投げ込みはじめます。ハナシによれば、その数50本以上。

 押し合いへし合い、混乱は東口から西口にも拡大し、平日夜の新宿駅付近といえば、いまとは様相も違っていたでしょうが、デモとは関係のない帰宅途中の一般人や酔っ払いなども大勢いたと言われていて、デモ隊はそういった群衆にまぎれ込みながら、警官隊に抵抗。そんなことが30分ぐらい続くうちに、警察の制圧が効いて騒ぎは徐々に収束し、検挙者30名ほどを出しながら、26日午前0時すぎに警戒態勢は解除となりました。

 そのなかで、とくにハジけた行動をして目をつけられたのでしょうか、4人が起訴されるまでにいたります。会社員黒沢洋さん、無職金南燮さん、分離公判となった平田虎雄さん、そして雑誌編集業の小林勝さんです。

 このとき、小林さんは24歳。どうしてその場にいたのか、とたどってみると、小林さんの両親は大正3年/1914年ごろ、日本の支配の及ぶ朝鮮に渡った、在朝の日本人で、おのれにとっての朝鮮とは、生誕の土地であり、故郷であり、この国というか民族というか土地との関係性は、小林さんの思想を形成してきた重要な礎です。朝鮮戦争の動向はヒトゴトではありませんし、しかも小林さんは、昭和23年/1948年に日本共産党に入党すると、早稲田大学の在学中にレッド・パージ反対闘争を指導して停学処分を受けるなど、いわゆるバリバリの、バリバリな歩みを見せた人で、昭和27年/1952年の事件のときは、『人民文学』に参加して編集に当たっていたという、正真正銘、バリバリの人でした。

 そのころはまだ、元気と威勢のいい一介の共産党員、ぐらいだったかもしれません。そこから昭和28年/1953年1月に保釈されて以降、小説を書く勉強をはじめ、昭和29年/1954年7月には、一審で有罪の判決を受けたものの、控訴。裁判を争うあいだに新日本文学会に入り、昭和31年/1956年に「フォード・一九二七年」を『新日本文学』に発表します。朝鮮・洛東江上流の山深い町を舞台に、ただ一台の自動車を所有するトルコ人、原住の朝鮮人、植民地化後に入植してきた日本人の関係性を、戦争を背景にして描いたもので、これが芥川賞の候補に選ばれることになったために、一躍、注目の新進作家として名を挙げます。

 このあたりで芥川賞でもとっていれば、のちの展開を含めて、間違いなく大きな話題となり、芥川賞も「ニュースの女神に愛された文学賞」と呼ばれるその特徴を、存分に発揮してくれたと思いますが、昭和34年/1959年、保釈手続きの不備によっていったん収監されるという余波を経て、7月7日、最高裁で判決が確定。懲役一年の実刑、ということで、戦後の作家としてはじめて実刑による刑務所生活を経験することになり、獄中で戯曲「檻」を執筆。翌昭和35年/1960年に出所するとたちまち、『文藝春秋』に「刑務所紳士録」を発表するは、「檻」が劇団民芸で上演されるは、これが第6回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)を受賞するは、「架橋」が3度目の芥川賞候補になるは、と話題性の風は確実に、小林さんのほうに吹きはじめました。

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2018年6月17日 (日)

昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。

警視庁保安課は十七日までに神奈川県鎌倉市二階堂二四七作家清水正二郎(四一)をワイセツ文書販売、同目的所持の疑いで取調べ、出版関係者五人とともに書類送検した。これと同時に十七日までに(中略)去る三月から清水が書いた六十二種の単行本のうち、四十五種計四万一千冊余を押収した。

――昭和40年/1965年12月18日『朝日新聞』夕刊「清水正二郎ら書類送検 ワイセツ文書販売など」より

 他人に対する憎悪と怨嗟で生きている、と言いながら、パフォーマンスや自己売り込みをやってのけ、直木賞史上もっともパンクな作家人生を歩んだ受賞者、と称されることになった胡桃沢耕史さんは、呼吸をするようにゴシップを生産してしまう、という特異な人柄からか、うちのブログでも何度となく取り上げてきました。「犯罪」の観点から見ても間違いなく、忘れることのできない人物です。

 数々ある胡桃沢さん関連の犯罪事件のうち、いちばん有名で、根が深く、また直木賞も関わっているのが、昭和24年/1949年「暁に祈る」事件でしょう。

 胡桃沢さんが清水正二郎の名ではじめて出版した、自費出版だったとも言われる『国境物語』(昭和24年/1949年)は、ぼくはカルチャーセンターに通う主婦みたいに自分の体験そのままの小説は書かない、と豪語するようになる胡桃沢さんの、原点と言ってもいい作品で、モンゴル・ウランバートルの俘虜収容所に抑留されたときの自身の体験を軸としながらも、伝聞、取材、脚色、妄想をふんだんに盛り込んで物語性を高め、いかにもホントのことっぽく仕立てた小説ですが、最大のセールスポイントは、昭和24年/1949年3月15日に『朝日新聞』に掲載され、じつはデッチあげだったと一説に言われる記事から始まった「暁に祈る」事件の実態を、元吉村隊員という触れこみの書き手が、その残虐で非人道的な私刑の様子を描いた、というところにあります。

 ここで胡桃沢さんは『週刊朝日』の座談会に声がかかって出席するなど、あたかもこの事件の暗部を知るスポークスマン役を買って出て乗りだしていくと、吉村久佳=本名・池田重善以外にも悪人はまだまだいる、そのひとりが永井正だと、同誌5月1日号に載った手記(のような小説)「パン」のなかで糾弾、当の永井さんから名誉毀損で告訴される流れになったらなったで、「パン」の内容は創作だったと自分で認めながら、それでも強硬に対決姿勢を崩さない、というハートの強さを見せつけます。

 何よりも、どんなことを言えば話題になるのか把握し、実際にそういう言動をとるだけじゃなく、あまりに仕掛けてやろうという鼻息が荒すぎて、周囲がドン引きしてしまう、この展開が、のちの胡桃沢さんの原点だ、と言える点でしょう。三食ナマ肉を食べる性豪とか、一日に三発やらないと鼻血が止まらないとか、四人も五人も愛人を抱えているとか、性の面で脚光を浴びたときにしきりに繰り返した自己アピールに、一脈通じるものがあります。

 自分の受けた苦しみは、生涯忘れないしつこさ、というのも胡桃沢さんが終生言い続けた特徴です。現に、創作の原点にもなった抑留体験を常に大事に温めて、清水正二郎の名を捨てて新しい筆名になっても、その記憶と手法は捨てず、もう一度改めて書き直した『黒パン俘虜記』が、念願の直木賞受賞作となるのですから、作家として筋が通っている、と言えば、そう言えるのかもしれません。

 その胡桃沢さんが、刑事事件の被告となったのが昭和40年/1965年に送検された、猥褻文書販売・販売目的所持による、いわゆる「シミショウセクシー文学」事件でした。

 アンダーグラウンド小説界の帝王、隠れた流行作家と呼ばれた胡桃沢さん、いや当時は清水正二郎の筆名でしたが、昭和40年/1965年3月に『世界秘密文学選書』(浪速書房)の26点が摘発、5月から7月にかけて13点が追加されると、12月にはさらに4点、計43点が当局から猥褻文書とされて、検察に送られます。

 かつて、他の翻訳家のことを勉強が足りないとケナし、合法のなかで訳しきる技量があるのは自分一人しかいない、と言っていた胡桃沢さんでしたが、いざ違法だと摘発されて裁判となると、猥褻のどこが悪いのか、猥褻とは何なのかを論争したかったが向こうは相手にしてくれない、と検察批判を繰り出し、おれは検察ににらまれているが一度も留置所に入れられたことがないんだ、と呵呵大笑する有り様で、この強がりというか、負け惜しみというか、腹の底が見えない感じは、まったく変わりません。

 その打たれ強いはずの胡桃沢さんが、一斉40数点を猥褻文書と認定されて送検された昭和40年/1965年から、10年以上も経った昭和51年/1976年に筆名を変えたのは、いかなる理由があったのか。これがまた、謎ちゅうの謎に包まれています。

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2018年6月10日 (日)

昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。

有閑不善のバチルス麻雀賭博は先に久米正雄、里見弴氏等一流文士の大檢擧により同好者を戰慄せしめ一時その病根を絶やしたかと思はれたが、(中略)十六日午前五時を期し浦川捜査課長、田多羅係長、渡邊警部補以下卅名の刑事隊を動員し文字通り疾風的に關係者の寢込みを襲ひ、更に同日午後も引續き檢擧洩れの關係者を追窮して徹底的大檢擧を行つた、

(中略)

更に驚くべきことにはこの麻雀の一群は、同好の士の訃に接するやその靈を慰めると稱しては千點十圓の大賭博を開帳してゐたことが判明した(中略)三月一日には芝區田村町の吾妻屋旅館の一室で故直木三十五氏の靈を弔ふと稱して福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛、淵川銀次諸氏で同樣千點十圓の麻雀を開いてゐたものである

――昭和9年/1934年3月17日『都新聞』「麻雀賭博檢擧 文士畫家重役」(昭和40年/1965年5月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成 昭和編年史九年』より)

 だれか親しい人の死に接したとき、生きた人間たちはさまざまな行動をとりますが、そのいくつかは時代の記録に刻まれることがあります。われらが直木賞もその末席を汚す、しがない追悼企画のひとつですけど、人気絶頂の大衆作家と目された直木三十五が、昭和9年/1934年2月24日、43歳で亡くなったことに端を発する現象は、文学賞の創設だけに限りません。

 ここで出てくるのが、とある犯罪事件です。昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて俗世を騒がせたと伝えられる、文士賭博事件というものがありました。

 なにしろ世を騒がせたぐらいなので、この事件には数多くの回想、解釈、言い分が関係各所にあふれ返っており、とうてい全貌は把握しきれませんが、概略をまとめてみるとこうなります。

 昭和8年/1933年11月、東京市下で富裕な婦人や娘に金を貢がせては、淫靡な関係を結んで遊び、帝都の風紀を乱しているとして、ダンスホールで教師をしていた木村政雄こと車均敞や、田村一男などが警察に引致、取り調べを受けたところ、田村に令嬢や有閑マダムを斡旋していた人物として浮かび上がったのが、吉井勇伯爵夫人の徳子です。同月16日、徳子は警視庁に連行され、翌日から取り調べが始まりますが、彼女の証言によって、文士や画家たちのあいだで常習的に花札や麻雀の賭博が横行していることが判明したため、17日午後6時ごろから、名前の挙がった人たちが次々と検挙される事態となります。

 このとき対象となったのは、里見弴とその妻山内まさ、および内妻遠藤喜久、佐佐木茂索とその妻ふさ、中戸川吉二とその妻富枝、久米正雄とその妻艶子、小穴隆一、あるいは美川きよ、川口松太郎、島源四郎、野村真一郎、文藝家協会書記の松本喜郎といった面々で、みな賭博の事実はおおむね認めるいっぽうで、「娯楽でやっていたので悪いこととは思わなかった」と口々に言い、菊池寛が身許引き受けの一札を警察に提出したことが効いたのか、18日早朝には、おのおの釈放。まもなく書類送検され、翌年1月には里見と喜久、佐佐木、久米、中戸川、小穴、野村、島、徳子の9名が起訴、略式での罰金刑、と報じられました。

 しかし、賭け事をやっているのは彼らだけじゃないぞ、という情報を入手した警視庁は、その後も内偵を進め、さらに大勢の被疑者に目をつけると、検挙劇の興奮いまだくすぶる昭和9年/1934年3月16日、麻雀クラブの支配人たちを中心に、常習で麻雀賭博に興じていた医師、実業家、文士、画家などを一斉検挙。広津和郎とその内妻松沢はま、東郷青児などにつづいて、明けて17日には、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三といった文士から、松竹の女優、飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子まで、いっそう名の知れた人たちも連行されることになり、俄然と芸能ゴシップ屋の目をランランとさせる展開を引き寄せます。

 そうはいっても、だいたいが微罪中の微罪だったらしく、有名どころはすぐに釈放され、結局、警察が著名人にまで手を出したのは、世間の耳目を引こうという魂胆だったのではないか、と言われることになったこちらが、俗にいう「第二次文士賭博事件」です。

 うち、直木さんの死に関係しているのは、第二次のほうで、生前大いに可愛がられた福田蘭童さん(尺八奏者)などが2月24日の訃報に接してその死を悲しみ、3月1日、直木さんを追善するための麻雀会を、芝区田村町にあった東屋(吾妻屋)旅館で開催。多賀谷信乃(画家)、川崎備寛(文士)、淵川銀次(貴金属商)といったメンツの参集を見て、千符10円くらいの賭博を行っていたことが明らかになり、最終的に同年5月、この4人は起訴されることが決定して、略式命令による罰金刑が言い渡されました。

 死んでからこんなところに名前が出てきて、直木さんからすれば、トんだトバッちりだ、という感じかもしれませんけど、ともかくもこの事件は、直木賞が創設された時代背景をよく伝えてくれるものだと思います。

 当時の文芸界をとりまいていた国家権力と、遊興と、マスコミ、という三つの要素が勢揃いするなかで、文藝春秋社という、品行方正とは程遠いところにあった雑誌社が、そのいずれにも深く関与していた、ということです。そこには、直木賞がつくられる下地として、三つの要素が奇妙にからみ合う様子をうかがうことができるでしょう。

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第12期のテーマは「犯罪」。法をめぐる雑多なエピソードから直木賞の歴史をたどってみます。

 直木賞とは何でしょう。文学賞の一種です。当たり前ですね。すみません。  ところで、文学賞とは何なのでしょう。言うまでもなく「賞」のひとつなんですが、これまで人類が何千年、何万年と歩みながら、おのずと築いてきた社会組織という枠組みのなかで、時代や環境に応じてさまざまにルールをつくり、または破壊したりと、紆余曲折、試行錯誤するところに「賞」という様式が発生、そこから分かれ分かれて発展した枝葉のうちの...

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2018年6月 3日 (日)

『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)

『全逓文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年11月~平成21年/2009年5月(50年)

●直木賞との主な関わり

  • 各務秀雄(候補1回 第46回:昭和36年/1961年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『全逓文学』掲載作一覧

 直木賞のありようは、さすがにどんな角度から見ても面白いんですが、いっぽう同人誌文化というものも、一度本気で足を踏み入れたら二度と帰ってこられなくなりそうな、魅力や魔力に満ちています。だけど、それぞれの雑誌の成り立ちを知る基本的な調査だけでも、いろんな文献に当たらなければならず、時間がいくらあっても足りません。このまま深淵な泥沼に足をすくわれるまえに、「同人誌と直木賞」のテーマは、今週でひとまず締めたいと思います。

 この一年で取り上げていない、直木賞候補に選ばれたことのある同人誌、直木賞に関係した同人誌は、まだまだ存在しています。有名ドコロの『三田文学』をはじめ、古澤元さんの『麦』、木々高太郎&海野十三&小栗虫太郎の『シュピオ』、海音寺潮五郎さんの『文学建設』、米村晃多郎さんのいた『白描』、井上武彦さんの『文芸中部』、津木林洋さんの『せる』、平成以降では、もりたなるおさんがひとりでつくっていた『回転寿司考』、桜木紫乃さんの属した『北海文学』などなど、とめどなく、たくさん挙げられるでしょう。まったく深淵な泥沼です。

 なかでも、個人的に気になっている一誌に『全逓文学』があります。

 約10年ほどまえの平成21年/2009年に70号で終刊してしまいましたが、昭和の一時期、かなり盛り上がったと言われる労働者文学の世界で、当時数々の問題を抱えていた三つの巨大組織、すなわち電電公社、国鉄、郵便局のそれぞれの労働現場からも、全電通文芸連盟、国鉄動力車文学会、全逓文学会などといった数多くの文学組織が結成され、いまで言うところの「お仕事小説」の、さらに深刻で苛酷なバージョンが、無数の同人誌に掲載された、と洩れ聞いています。

 いわゆる文学系を専門とする人たちには、そういった背景や実作、文学全般にもたらした影響などは常識なのかもしれませんけど、大衆文芸だの中間小説だの、そちらの歴史と労働者文学とは、どのように関連を結んでいたのでしょう。まともに取り上げるのも馬鹿バカしいからなのか、いやワタクシが不勉強すぎるせいで、言及したものをほとんど見かけたことがなく、伊藤桂一さんが「螢の河」で受賞した第46回(昭和36年/1961年・下半期)の直木賞で、全逓文学会の同人誌『全逓文学』から各務秀雄さんの「そこからの出発」が、なぜかポツリと候補に挙げられていることを、どう位置づけたらいいのか、よくわかりません。

 何といっても、この一作、いまどこに行けば読むことができるんでしょうか。

 本気でだれかに教えてほしい、と願うこと十数年、いまだに読むことがかなわずにいて、じっさいの作品を読まずに偉そうに語る恥ずかしさは、十分承知しているつもりですから、『全逓文学』と直木賞とのことは、突っ込んで触れるのを避けようと思いますが、この雑誌が創刊された昭和30年代、全逓文学会は、関東と関西の、二つのグループが同居していたといいます。しかし、どうやら昭和40年/1965年前後に両者分裂。関東グループのひとりだった神田貞三さんが、のちに語るところによると、

「その鋭敏な感受性と旺盛な筆力によって会内のもっとも有力な作家でありつづけた各務秀雄が、その資質の赴くところ当然に会内外の頽廃した空気を感じとって、〈頽廃的な日日〉のなかで「生活に狎れ、文学に狎れ」(会報六〇号)てしまっている会員たちを鋭く告発し、名差されたわたし、神田との会の活動にとって生産的な何ものもつけ加えない討論のあとで、ついに会にとどまる如何なる意味も発見できないとし、「ながき辛抱を」(会報六六号)という辛辣な告別の言葉をわたしたちに残して会を去ってしまった・・・」(『全逓文学』21号[昭和48年/1973年8月] 神田貞三「文学への荷担 会活動の十三年・その断片」より)

 ということだそうで、雑誌そのものは関東のメンバーがひきつづいて続刊、神田さんや清水克二さん、徳留徳さんといった人たちの活躍を、その後も通じてうかがうことができますが、関西グループの実作者のなかで最も期待され、外部からの評価も高かった各務さんは、まったく忽然と消えた作家となってしまいます。

 直木賞はとくにそうですが、消えた消えたと言われていても、案外あとのことまで判明している受賞者・候補者がほとんどです。そんなに簡単に人は消えたりしないもの、ということかもしれませんけど、各務さんみたいに、ここまでパッタリと文学的な歩みを断つ候補者は珍しく、しかも当の候補作ですら、どこで読めばいいのか皆目わからない。直木賞候補になったのはたしかなのに、それを手にとることができない損失感。あまりに堪えがたく、とりあえず、こんなかたちで触れてみました。マジでだれか読ませてください、「そこからの出発」。

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2018年5月27日 (日)

『近代説話』…司馬遼太郎や寺内大吉、直木賞と結びつけられることを、ことさら嫌がる。

『近代説話』

●刊行期間:昭和32年/1957年5月~昭和38年/1963年5月(6年)

●直木賞との主な関わり

  • 寺内大吉(受賞 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 伊藤桂一(候補1回→受賞 第33回:昭和30年/1955年上半期~第46回:昭和36年/1961年下半期)
    ※ただし第33回は別名義で別の媒体に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『近代説話』掲載作一覧

 直木賞に関係した同人誌というテーマがあったとき、百人中百人が触れないわけにはいかず、いや、この一誌だけ紹介すれば事足りるんじゃないか、と考えてもおかしくはないほどに、昭和30年代に見られた直木賞の、同人誌文化に対する愛情を、やたらと多く浴びてしまった『近代説話』。同人だった尾崎秀樹さんは、奇妙な雑誌だった、とのちに回想していますが、ここから生まれた直木賞受賞者6人、候補になったけど結局とれなかった人1人。……どうしてここまで直木賞と相性のいい雑誌になったのか、たしかに奇妙といえば奇妙です。

 そんなの単なる偶然だ、という説はあり得ると思います。

 とくに、はじめのほうに受賞した司馬遼太郎さんや黒岩重吾さんは、『近代説話』とはほとんど関係ない方面で小説を書き、それが注目されて受賞に至っていますし、第44回(昭和35年/1960年・下半期)に寺内大吉さんと黒岩さん、同じ雑誌に属する作家が二人同時に受賞したのは、ほんのちょっと話題になったそうですが、はっきり言ってしまうと、たまたまです。

 しかし、「たまたま」で済ませてはいけない、というのは、直木賞(と、もうひとつの文学賞)の界隈では常識と言ってもよく、「やっぱり岩手には、優れた文学を生み出す風土があるのだ!」とか、「根本昌夫さんの小説指導力は恐るべきものがあるのだ!」とか煽りながら、たまたまで済ませられるところを、あえてそうは言わず、現象のつながりのなかで話題を盛り上げていくのが、この二つの賞の、正当な取り扱い方のようです。ときどき何かにスポットライトを当てて人の目を向けさせる、というのが、直木賞たちに備わった基本的な性質ですから、「たまたま」などという、つまらない考え方で白けさせるのは、御法度かもしれません。

 それでハナシを戻して『近代説話』のことですけど、直木賞と相性がよかった理由は、いくつか挙げられると思います。

 ひとつに、小説を書く勉強のために同人誌をやるのではない、という創刊同人の司馬さんの考えにより、ある程度、小説家として力の認められている人、つまり何かの新人賞をとった人だけを同人にしたおかげで、商業誌と遜色のない掲載作が並んだこと。

 ひとつに、何のツテもない世界でぽつんと始めたわけじゃなく、関西文壇の大職業作家・藤沢桓夫さん、直木賞をとったばかりの今東光さん、直木賞の選考委員になったばかりで選考に対する熱心さが満ちていた源氏鶏太さんや海音寺潮五郎さんなど、そういう人たちの支援を受けて、期待のなかでスタートを切ったこと。

 ひとつに、伊藤桂一さんや胡桃沢耕史(清水正二郎)さん、斎藤芳樹さんといった、雑誌づくりに欠かせない事務能力に長けた人が何人もいて、しかも胡桃沢さんは自分も直木賞をとりたいと強く希望していたことから、その希望をつなげるかたちで刊行がつづき、6年間、出しつづけたこと。

 そういったいくつかの要素が、明らかに直木賞(の運営母体)から好感を寄せられる流れを生んでいった……とは推測できるんですけど、この雑誌が10年後、20年後に創刊していたら、ここまで伝説化していなかっただろう、というのは当然のことで、となると、昭和32年/1957年から昭和38年/1963年というこの活動期間の時代性は、何より見過ごすことができません。

 もともと直木賞は昭和9年/1934年にできたころから、既成の商業誌、商業出版の潮流とは少し違うところから、新しい作家を見つけたい、という思いの強かった文学賞で、その風土が色濃く残っていた昭和30年代。文藝春秋新社の握っていた、作家を見つけるシステムに、同人雑誌を全国から送ってもらい目を通すルートと、雑誌で懸賞小説(新人賞)を企画するルートの二つがあり、昭和30年代というのは、その二つが、経済成長と社会基盤の整備に後押しされて、着々と進化していった時代に当たります。

 同人誌と懸賞入選、その両方のイイトコ取り、といいますか、美しい融合でもって産声を上げた『近代説話』が、直木賞にハマッたのは、やはりこの時代ならではの出来事と言うしかないでしょう。これを日本語では「たまたま」と言うのかもしれません。だけど、必然と見たっておかしくないと思います。

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2018年5月20日 (日)

『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。

『断絶』

●刊行期間:昭和29年/1954年1月~(64年)

●直木賞との主な関わり

  • 松本孝(候補1回 第45回:昭和36年/1961年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『断絶』掲載作一覧

 文学賞に限らず、何だってそうかと思いますが、ひとつのものには根っこが無数にあり、そこから追いきれないほどの枝葉が伸びています。『断絶』という同人誌もまた例外ではなく、調べれば調べるほど、まるで知らなかったことが次々に出てくるものですから、正直、困惑しているところです。

 昭和36年/1961年上半期、松本孝さんの「夜の顔ぶれ」という、一作の直木賞候補作を生んだ同人誌『断絶』は、昭和29年/1954年1月に、早稲田大学の学生だった春嶽哮、浅井良、藤井博吉、山本浩、水田陽太郎、この5人が始めたものだと言われます。当時、その界隈にはやたらと同人誌が群生し、掛け持ち、移籍、喧嘩別れ、幽霊同人、いろんな現象が華ざかり。すぐにつぶれては新しいグループが発生し、そしてまた闇のなかへ消えていくなど、あまり長続きするような雑誌は見られませんでした。

 『断絶』もやはり、3号を出したあたりのところで、いざこざが起こり、抜ける人、居残る人の二つに分かれます。残ったのが浅井さんと、彼に誘われて同人となっていた武山博さんでしたが、そこに、同じ早稲田でつくられた『波紋』(のち『破紋』)『斜線』『浪漫文学』などに属した馬場一郎さんが移ってきて、心機一転、立て直しをはかろうと画策。ところが、それに不満をもつ人がすぐに抜けてしまい……と、揺れは全然おさまらず、そのまま泡沫同人誌の足取りをたどるか、と思われました。

 しかし、ここからしぶとく誌歴を重ね、ついには100号を迎えて、創刊60年を超えてしまったのですから、敬服の二文字以外にどんな言葉が見つかるのでしょう。ここで多くの人が口々に語るには、第74号(平成5年/1993年3月)まで30年以上、多忙を極める会社勤めをまっとうしながら、同人費の徴収、原稿の催促、とりまとめ、印刷所との交渉などなどの実務を一手に引き受けた同人、馬場一郎さんの存在が大きかった、ということです。

 それだけでも馬場さんは、同人誌界の偉人と呼んで差し支えないと思いますが、あまりそちらでの逸話を見かけないのは、手間と時間を費やして雑誌を出し続けるぐらい、同人誌の人にとっては当たり前、ということなのかもしれません。

 じっさい馬場さんといえば、商業出版での活躍のほうが有名です。

 早稲田大学仏文科を卒業後、昭和28年/1953年に入った平凡社に長く勤め、一時は営業に回されて、つらい日々を送りながら、不屈の仕事ぶりで編集のフィールドに返り咲き、文芸誌『文体』の復刊なども手がけるうちに、『太陽』編集長として、多くの後輩や外部の書き手たちをたばねて、一大文化を築いたことは、いまも語り継がれる伝説となっていますし、昭和56年/1981年には社内のゴタゴタに巻き込まれるかたちで社を飛び出すと、仲間たちとともに青人社を起こして社長に就任、嵐山光三郎さんや筒井ガンコ堂さん、その他、クセしかないような面々に慕われながら、出版事業を展開していた矢先、平成5年/1993年4月に63歳で亡くなった有名編集者、ないしは有名出版人です。嵐山さんの『昭和出版残侠伝』(平成18年/2006年9月・筑摩書房刊)には重要な役どころの〈ババボス〉として登場します。

 そういう人の、もうひとつの顔が同人誌作家だった、というのですから、おのずと心が震わされます。もとより馬場さんは、学生時代から文学に強い情熱を抱き、サラリーマンとして不遇の身に甘んじたり出世したり、あるいはベンチャー的に新しい会社を立ち上げて、その経営に悪戦苦闘するあいだもずっと、『断絶』を刊行しつづけました。ときに、平凡社で知り合った人たちを同人活動に誘うこともあり、アルバイトをしていた吉田善穂さんとか、後輩社員だった高橋健さんや海野弘さんなども、馬場さんに声をかけられて『断絶』に参加しています。

 そういったなかで、没後には充実した編集の〈追悼・馬場一郎〉特集(第75号 平成5年/1993年10月)が編まれますが、そこに寄せられた武山博さんの、こんな一文を読むと、感傷的にうるっと来てしまうのは、ワタクシだけなのかどうなのか、さっぱりわかりませんけど、しかしどうにもせつなくて仕方ありません。

「葬儀の時、耳にした弔辞は、それぞれ心に迫るものがあった。事実、君(引用者注:馬場のこと)は編集者として大成され、多くの逸材を世に送り出した。だが、出棺にあたり、われわれの雑誌を胸に抱いている君に供華して別れを告げた時、死ぬに死にきれぬ君の無念さを思い、思わずぼくの胸はつまった。

どれほど、君は文学者として評価され、葬られることを望んだことだろう。」(『断絶』75号 武山博「原風景と私」より)

 平凡社から伸びる枝だけじゃありません。『断絶』には、先に書いたように早稲田の人たちとか、あるいは神田の「東京堂」、新宿の「紀伊國屋書店」などの店頭でも売っていたので、それを見て入会してきた一般の読者が同人の大半を形成し、詩人の廣田國臣さんから、久根淑江さん、小松文木さん、興津喜四郎さんなど、興味深い書き手が続々とうごめいています。これはこれで探索していきたい欲がムクムク沸いてくるところです。

 ただ、ここまでの概略を知るまでに、ずいぶん時間を使ってしまって、疲労困憊。あとはまたいずれ……としたかったんですが、やはり松本孝さんのことには、少し触れておきたいと思います。直木賞専門のブログですから、そこは避けて通れません。

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