2017年8月20日 (日)

『文学街』…文学賞ごときで、反逆児の文学熱は動揺しない……ものなのかどうなのか。

『文学街』

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和42年/1967年(10年)、平成10年/1998年8月~

●直木賞との主な関わり

  • 古川洋三(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 直木賞はともかく、芥川賞の世界では、受賞作でしか知られていないような一発屋が多い、いや、べつに芥川賞イコール、レベルが高かったり何十万部も売れたりするわけじゃないのだから、じつは一発も当てていないうちに消えていっちゃった受賞者がゴロゴロいる……などと言われます。

 たしかにそうなんでしょう。わざわざ「じつは」などと、大げさに言うほどの事実じゃない気もしますが、一発も当てていないうちに消えた人といって、まず外せないのが、川村晃さんです。おそらく。

 芥川賞のハナシなんで、駆け足で振り返ります。

 美馬志朗さんを中心にして、昭和32年/1957年に創刊した同人誌『文学街』。あまりに文学への情熱が大きすぎて、月刊で出す! と決めたのがよかったのか悪かったのか、とにかくその、無益だ何だとまわりから冷たい目で見られる時期を過ごすこと5年。さすがに毎月ですから、載せる原稿も底をつきはじめ、同人だった川村さんも仕方なしに、10日ほどかけて新作を書き上げます。するとこれが、『文學界』の「同人雑誌評」で高評価を得て、同誌に転載、まもなく行われた第47回(昭和37年/1962年・上半期)芥川賞でも、文壇ズレしていない素人くさいところが逆にウケてしまい、さらっと受賞に決まります。

 いまから60年も前のことですけど、受賞と決まるとそこにワッと群がるマスコミの狂乱、というステレオタイプな受賞光景が、当時も相当ゲスな感じで展開されたらしく、わいわい持ち上げられる受賞者、それを祝いながらしかし嫉妬を隠せない同人誌仲間、みたいなかなり楽しい(楽しくはないか)状況が生み出されたそうです。

 自身、同人誌『藝文』を運営していた森下節さんは言います。

「「文学街」を主宰した美馬志朗は、下町の印刷所の社長で、自らも文学を目指し同人誌を出しつづけた。

しかし、同人の中から芥川賞作家が出て以来、妙に同人会のムードがぎくしゃくするようになり、川村晃との仲も次第に冷えたものとなった。」(昭和55年/1980年9月・皓星社発売 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第一章 同人雑誌作法」より)

 芥川賞がもたらすひとつの打撃は、受賞者本人だけにおさまるものじゃなく、とくに同人誌に所属している人が受賞することの自然だった時代には、同じ同人、もしくは同人誌の主宰者にも、かなりの衝撃を与えたとは、たしかによく聞くところです。

 ここで、周囲の彼らがどんな反応を示すか。公にどんな文章を残すか。芥川賞と関わった同人誌を見るときの、大きな注目どころでしょう。

 ちなみに美馬さんは、川村さんの受賞のすぐあとで、『文学街』に「川村晃の芥川賞受賞を祝す」という一文を書きました。マスコミが食い散らかす「芥川賞」報道の軽薄さと、それへの嫌悪感、というのは当然のようにコンコンと綴られているんですが、いっぽうでは、自分の心にある嫉妬かもしれない感情を素通りせずに、さすがそこにも分け入ろうと努力しています。

「一昨日ぼくのうちにやつてきた週間文春(原文ママ)の若い記者から、名刺を貰うなり、「同人の方が受賞されると本当にうれしいものですか」と聞かれたとき、ふと頬のこわばるのを意識したのがどうにも苦がくて忘れきれないでいる(引用者中略)「本当にうれしいものですか?」これ程他人の心をのぞきこもうとする無礼な言葉もないが、反面、これほど真実を問うという意味できびしい言葉もないようだ。「本当に」という言葉ほど、ぼく等の世界に生きる人間にとつて恐ろしく苦しい道はない。それをかきわけて生きねばならぬ文学青年のはしくれとして、ぼくはいまなお自分に問うているのである。「おまえは果たして川村さんの受賞を本当によろこんでいるのか」と。」(『文学街』昭和37年/1962年8月号 美馬志朗「川村晃の芥川賞受賞を祝す」より)

 みんなべつに賞が欲しくて文学を志しているわけじゃない、だから賞をとろうがどうだろうが、その作品の本質には何ひとつ関係がない。というのは、まず当たり前です。当たり前すぎて、言葉としても、ものの考え方としても、かなり薄いです。

 自分でも小説を書いているのに、他の同人が賞をとって、ほんとにうれしいものなのか。と聞かれて反射的にムッとした心根の底に何があるのか、そこを考え抜かなくては、どうにも目覚めが悪い。というところから書かれた美馬さんの文章は、やはり面白く、そう考えても美馬さんのような方も、明らかに芥川賞劇場の登場人物のひとりとして数えてもいいものと思います。

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2017年8月13日 (日)

『日本文学者』…戦時下だからこそ直木賞の候補作にも選ばれた、一種の盲点。

『日本文学者』

●刊行期間:昭和19年/1944年4月~昭和21年/1946年3月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 中井正文(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 8月なかば、夏まっさかりの日本です。となれば、やはり戦争にからんだハナシでもしないと、収まりがつきません。

 ……ということで、今週の同人誌は『日本文学者』です。

 仲がいいのか悪いのか、まるで違う志向性をもった数多くの文学青年(と、少しの文学女子)たちが、無理やりのように集められ、みんなで団結すれば絶対に勝てるんだ!と、ほんとに信じていた人もいるでしょうけど、懐疑的な人だっていたにちがいなく、それより何より、「へこへこと体制に追従しなきゃいけない、そんなことまでして文学やりたいのか?」と、きっと自問自答で苦しんだはずのところ、それでもいいから小説書いたり、批評したりしたいんだよお、と同人誌活動をやめることのできなかった人たちの、悲しみの詰まった非営利な雑誌。『日本文学者』です。

 ものの本によりますと、昭和15年/1940年12月、主に同人誌で書いていた人たちが〈日本青年文学者会〉という名前の組織に集められ、その流れから、昭和17年/1942年1月、東京周辺で刊行されていた同人誌のうち、55誌が統合したり、学内雑誌に吸収されたり、廃刊になったりして、結果8つの雑誌に減らされます。『文芸主潮』『辛巳』『正統』『文芸復興』『新文学』『新作家』『昭和文学』『青年作家』(のち『小説文化』)です。じっさいのところ、日本青年文学者会の自発的な措置、ということになっていますが、もちろんそんなことはなく、大政翼賛会文化部、情報局、警視庁という3つの組織からの圧で、仕方なしにまとめさせられたものです。

 そのうち『文芸復興』の切り盛り役を担った妻木新平さんは、戦後になって「日本青年文学者会――戦時下若い作家たちの生態――」を『碑』に連載しました。数々の資料、メモ、内部にいた人からの実感などで構成された、妻木さん最後の大仕事、ともいうべき回想録ですけど、たとえば『碑』13集掲載の第7回には、妻木メモによる、これら8誌の発行部数が記録されています。

 『文芸主潮』1500部、『辛巳』1000部、『正統』700部、『文芸復興』1400部、『新文学』2000部、『新作家』1000部、『昭和文学』1200部、『青年作家』1200部。

「創刊号からその配給会社(引用者注:配給元の日本出版配給株式会社)を通じて、一般書店の店頭にもわれわれの雑誌はならべられたのである。爾来、昭和十九年二月までの二ヶ年間、これら内容外観共同じ八つの文芸同人雑誌が、時を定め、毎月一つせいに発刊され店頭にすがたを見せつづけたのである。八誌とも三種郵便の認可をとり、有料広告原稿をとって……。売上げも相当の成績があがつた。はげしい戦時下によくも……と思う反面、戦時下なればこそ又それが可能であったのかもしれない、この逆説も成りたつかもしれない。一種の盲点だつたようにも思われる。」(『碑』13集 妻木新平「日本青年文学者会(七)――戦時下若い作家たちの生態――」より)

 へえ、けっこうよく売れたんですね。さすが「国家公認」の威力なのか、何でもいいから活字を読みたい人たちの、読書熱のなせるわざなのか、詳細はわかりませんけど、妻木さんが「一種の盲点だった」と感想を抱いているので、そういう面もあったんでしょう。

 上記の8誌体制は、芥川賞のほうでも第15回(昭和17年/1942年・上半期)以降の、候補作の並びに影を落とすことになって、倉光俊夫さんの「連絡員」という受賞作も誕生。同人誌といえば、たいがいは純な文芸を目指すものらしいので、まあ芥川賞に影響が出るのは自然だろうな、と対岸から見物するしかありません。直木賞のほうでは、かつて第12回(昭和15年/1940年・下半期)の候補になった『麦』の古澤元さんが『正統』の中心人物となったことが、めぼしい活躍といえるぐらいで、ほかに直木賞の付け入る隙は見られませんでした。

 ところが、このままで終わらないのが、平時じゃない時代の奇怪なところ。……といいますか、文学賞っていうのは、平時であろうが、およそ奇怪なイベントかもしれませんが、しかしその後の展開は、やはり「奇怪」というしかありません。

 奇怪さを演出することになったのが、8誌体制の崩壊です。昭和19年/1944年4月にいたって、『日本文学者』という、たった1誌に統合させられてしまいます。

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2017年8月 6日 (日)

『新誌』…仲間が受賞すれば狂喜もするけど、同人みんなマイペース。

『新誌』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和58年/1983年5月(20年)

●直木賞との主な関わり

  • 安西篤子(受賞 第52回:昭和39年/1964年下半期)

 神奈川県の鎌倉で、昭和28年/1953年から年2~3回程度刊行されていた同人誌『南北』が、とくに休刊のことばもなく第15号[昭和34年/1959年12月]でお休みに入り、心機一転、新しい仲間も加わって、昭和38年/1963年に再スタートを切ったのが、「新しい雑誌」と書いたこの『新誌』です。

 ……と言いながら、誌名の由来は全然知らないんですけど、これまでブログで取り上げた同人誌と変わらず、これもほとんど、いわゆる大衆文芸とは関係のないところで活動していた雑誌です。

 直木賞というのは、外部にいるワタクシのような人間から見ると、「えっ? どうしてこういう候補作を入れてくるんだ!」と、思わず叫びたくなることが結構あります。たとえば、佐藤正午『月の満ち欠け』なんか、こんなベテランの作品を候補に入れてくることがもう、相当オカしいです。まあ、こういうことを好んで仕掛けてくるのが、直木賞の候補選びの、昔からの伝統かもしれません。

 それで第52回(昭和39年/1964年・下半期)、『新誌』に載った安西篤子さんの作品が、いきなりナ・オ・キ・ショ・ウの候補に挙がったのを見て、「えっ? どうして……」と反応した人がいたのも、よくわかります。この雑誌に同人として参加していた石塚友二さんが書いています。

(引用者注:安西篤子が)若し候補者となり、受賞するとなれば、芥川賞の方こそ相応しい、さういふ作家と考へてゐたのであつた。その安西さんが「新誌」四号に発表した、歴史小説といふよりは、幾らかメルヘン風な作品で以て直木賞の受賞者となつたのだから、その意外さに驚かざるを得なかつたのである。

(引用者中略)

安西さんは直木賞の受賞前に出た「新誌」五号に『うそつき張』といふ題で、やはり中国と中国人を題材とする作品を発表してをり、この作品もなかなかの好短篇であるが、『張少子の話』同様、娯楽的読物の要素といふものはないので、直木賞の概念が、孰れかといへば、中間小説風な作品に対する授賞といふに近い点で、幾らか読者を戸惑はせるものがあらうかと思はれる。範疇を云ふならば純文学に属する性質のものだからである。」(昭和48年/1973年12月・学文社刊 石塚友二・著『日遣番匠』所収「直木賞安西篤子氏のことなど」より)

 つかみどころのない直木賞のふるまいに、驚かされた、ということです。

 だいたい、「この作家は(あるいはこの作品は)純文学だから、芥川賞で評価されるほうがふさわしい!」という発言を、まわりから誘発するのも、立派な「直木賞あるある」のひとつです。とくに珍しい反応じゃないかもしれません。

 このあたり完全に、直木賞の術中にハマっている感はありますが、選評を読んでも選考委員からして、安西さんや「張少子の話」を、大衆文芸の新人とその佳作、と見ることに、数多く疑問符が付けられています。なのに、これを受賞作のひとつに選んでしまったのは、安西さんの師匠・中山義秀さんが選考会にいたことが、他の委員に何らか精神的な影響を与えたんだろうか……と、そういう「場の雰囲気」ってものは、もはや論証の不可能な、単なる臆測でしか語れない事柄ですから、とうてい採用できる説じゃありませんけど、この回前後の選評を読むかぎり、『オール讀物』をはじめとする読み物誌に、すいすいと掲載されるような手アカのついた作風は、あまり直木賞では評価したくない、という考えが、何人かの委員たちに共有されていたことは、たしかなようです。

 でも、そういう直木賞側の事情で、本来、芥川賞が手を出す筋合いのものを直木賞にねじ曲げられた文芸同人誌って、けっこう迷惑だったんじゃないかなあ、と思うと、ちょっと背筋がゾワッとします。どうだったんでしょう。

 この辺、こと『新誌』に関しては、あまりそういうことに右往左往するような雑誌ではなかったみたいです。

 受賞後、安西さんは長く『新誌』に参加しつづけ、大衆読み物誌でバンバン活躍するという路線には進みませんでしたし、同誌の中心的な存在、清水基吉さんも、こう指摘しています。

(引用者注:『新誌』の同人たちは)流行に色目がなく、作風に色気のとぼしいことが長所であり欠点だが、同人は自己の個性に忠実に、マイペースでやっている。そこにおのずから「新誌」の大人(オトナ)的な性格があるといえよう。」(『読売新聞』昭和43年/1968年10月27日「われらのグループ 「新誌」」より ―署名:清水基吉)

 ううむ。こういう雑誌から、何の前触れもなくポロッと無名の人を候補に挙げて、最終的に受賞までさせちゃうのですから、ほんと直木賞というのは、つかみどころがありません。

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2017年7月30日 (日)

『文芸日本』…直木賞の候補にあげられて、たちまち勘違いした新人が、いたとかいなかったとか。

『文芸日本』(第二次)

●刊行期間:昭和28年/1953年1月~昭和35年/1960年8月(7年)

●直木賞との主な関わり

  • 藤井千鶴子(候補3回 第37回:昭和32年/1957年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第42回・第51は別で発表した作品
  • 福本和也(候補2回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第40回:昭和33年/1958年下半期)
  • 水島多樓(候補1回 第39回:昭和33年/1958年上半期)

 先週のエントリーで、ちょっとだけ名前が出てきた大森光章さんですが、『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)という本を書いています。

 これがまた、無類に面白い文壇回想録で、「ちょっと純文学で注目されかかったこともあったけど、まもなく売文稼業に身をやつしてしまった作家が、ひがんでいるという自覚を隠さずに綴った、折り折りに出会った作家・評論家・編集者たちの言動」という風合いがあり、武田泰淳、榊山潤、色川武大、菅原国隆、中河与一、駒田信二、松村肇、尾崎秀樹、西野辰吉、林富士馬、萩原葉子、と章の名前になった人々をはじめ、いまだから言える、というエピソードが満載。「これを楽しんで読んでしまう、あまりにゴシップ好きな自分」に気づいて、つい暗い気持ちになってしまうこと請け合いです。

 それはともかく、大森さんと関わりの深かった雑誌のひとつに『文芸日本』があります。同書にも登場します。

 定価をつけて販売し、昭和30年/1955年までは書店でも売っていたそうですから、いわゆる半商業誌的な性格があったはずですが、『文學界』同人雑誌評の対象になっている、という意味では同人誌の一種と見てもいいでしょう。

 昭和14年/1939年、それまであった『東陽』誌の後継のような位置づけで、尾崎士郎、富沢有為男、大鹿卓といった面々が同人に名を連ねて『文芸日本』創刊。その編集長の座にあったのが牧野吉晴さんで、終戦間近に休刊したのち、昭和28年/1953年にいたって同じタイトルの雑誌を再創刊することになるんですが、いったんは、モンココ化粧品の経営者の家族だった大鹿卓さんが、多少は裕福ということもあって編集発行人となり、金園社に勤める伊藤桂一さんがせっせと雑誌づくりに当たっていたものの、やがて榊山潤さんが編集責任者格で、実質上のトップにつきます。

 牧野さんは戦後、大衆雑誌、倶楽部雑誌でかなりの金を稼げる作家になっていたので、復刊した貧乏所帯の『文芸日本』には、相当な金銭的援助をつづけたそうです。しかし何より大きかったのは、当時まだ編集者だった尾崎秀樹さんを個人的な秘書役として抱え、毎月の給料を与えながら、『文芸日本』の編集を手伝うように、榊山さんのもとに行かせたこと、だったと思います。

 榊山―尾崎ラインの、二人の編集上の役割は、もはや判然としませんが、しかし以来ぞくぞくと、同誌から直木賞(やらもうひとつの賞やら)の候補作が選ばれることになるからです。

「大鹿卓が編集発行人だった時代は、比較的ふるい作家、すでに文壇的地位をかためていた作家が多く登場したが、榊山時代に移ると積極的に新人を起用するようになった。伊藤桂一、大森倖二(光章)、葉山脩平(原文ママ)、福本和也、藤井千鶴子、林青梧、水島多樓(今日泊亜南(原文ママ))などである。後藤明生や吉村昭にも声をかけた。新人の作品の評価では私と意見が分れることも少くなかったが、榊山さんが後進にかける期待は絶大なものがあった。なかには芥川、直木賞にノミネートされ、最終まで残った作品もあった。」(平成12年/2000年10月・北溟社刊 尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「榊山潤」より)

 榊山さんが尾崎さんの手を借りて『文芸日本』を切り盛りするようになったのが、昭和30年/1955年秋ごろから。昭和28年/1953年にはすでに、新人・伊藤桂一さんの「黄土の牡丹」が載って、芥川賞の候補になっているので、彼らが同誌と直&芥との橋渡し役になった、とは言えないんですが、しかし昭和32年/1957年から昭和33年/1958年、突然のようにこの雑誌から直木賞候補が、バタバタッと出たのは、新人作家に門戸を開こうという編集方針が、うまく効いたものには違いありません。

 直木賞の候補になったそれぞれの作家が、どういった縁で、この雑誌に書くことになったのか、だいたいが不明ではあるんですけど、今日泊亜蘭さんについては、峯島正行さんがその評伝でこう記録しています。

「「文芸日本」に今日泊が執筆したのは、一に佐藤春夫の推輓による。

(引用者中略)

春夫は、今日泊の父、水島爾保布の友人であった。」(『大衆文学研究』111号[平成8年/1996年7月] 峯島正行「評伝・今日泊亜蘭(2) 処女作・桜田門」より)

 『東陽』のころから、そこにたむろっている人たちは、佐藤春夫門下だと見られていて、『文芸日本』もやはり、佐藤さん系列の雑誌、という性格があったようです。ということは藤井千鶴子さんも、夫が慶應出身の医師、それで戦後は『三田文学』の佐藤さんや木々高太郎さんに師事した、と言われていますので、その関係で『文芸日本』に作品を寄せ、掲載されたのかもしれません。

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2017年7月23日 (日)

『東海文学』…直木賞選考委員を敏感に反応させた、ちっぽけな(?)同人誌。

『東海文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年9月~昭和56年/1981年11月(22年)

●直木賞との主な関わり

  • 江夏美好(候補2回 第50回:昭和38年/1963年下半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
  • 井上武彦(候補2回 第53回:昭和40年/1965年上半期~第59回:昭和43年/1968年上半期)

 先週、新たに第157回(平成29年/2017年上半期)の直木賞が決まりました。こういうときはやはり、その受賞まわりに関連したエントリーが書けると美しいんですけど、まったく手持ちの話がありません。無理にあらがったりせず、今週も直木賞史に食い込んだ同人誌のことでいきたいと思います。

 名古屋で出されていた同人誌『東海文学』は、昭和56年/1981年、ちょうど80号で終刊しました。ここから選ばれた候補作は、芥川賞のほうは0、対して直木賞では4つ、という記録が残っています。

 もちろん(というか)べつに、この雑誌は「大衆文芸」を目指していたわけじゃありません。じゃあ、何で直木賞に? と思って調べてみると、この雑誌に連載されて本にまでなった江夏美好(当時の筆名は江夏美子)さんの『脱走記』が、直木賞の候補に挙げられる過程には、ひとりの直木賞選考委員の姿が、ちらちらと見え隠れしています。

 そもそも『東海文学』は、昭和32年/1957年に夫の仕事の都合で名古屋に移り住んだ江夏さんが始めた雑誌です。当時、すでに名古屋にあった『作家』の合評会に参加してみたけど、水が合わず、『文芸首都』に投稿をつづけたものの、遠隔の地ゆえなかなか満足いく批評も得られない、それじゃ自分たちでやろうか、という感じだったみたいです。

 すると創刊号から、『文學界』の「同人雑誌評」コーナーで取り上げられ、第3号に載った井上武彦さんの「被害者」が、『文學界』昭和35年/1960年11月号で同人雑誌ベスト5に選ばれるなど、早くから注目を浴びます。

 主宰の江夏さんの作品も、高評価をもって受け取られました。同コーナーでは、ほぼ常連のように批評の対象とされ、昭和36年/1961年4月号で「天狗の女」がベスト5、同年7月号には「幻想の刄」が優秀作として『文學界』に転載されたりします。当時の「同人雑誌評」の転載作・ベスト5は、ほとんど芥川賞候補のメッカと言ってよく、確実に江夏さんの作品も、芥川賞候補のそばまで行きました。ちなみに、「幻想の刄」が転載された号のベスト5は、江夏さんのほか、伊藤桂一「黄土の記憶」と大森光章「名門」。いずれも、のちに芥川賞の候補作になったものです。

 さあ、ここで登場するのが、芥川賞ならぬ直木賞。「大衆文壇の顔」と、どうしてもイメージされがちな川口松太郎さんです。

 「幻想の刄」を読んだ川口さんが、励ましのハガキを江夏さんのもとに送ったところから始まり、江夏さんの旧作に対する批評や、『東海文学』で連載のはじまった「脱走記」への、ほとんど叱咤の類いの手紙がバンバン送られることになって、江夏さんを震え上がらせ(?)、いや喜ばせ、完結した「脱走記」が光風社から本になるときに、よかったら帯の推薦文を書こうか、と川口さんみずからが声をかけた、ともいいます。

 本ができあがったとき、どうして江夏の本の推薦文が川口松太郎なの? ……と、不思議がった人々のことを、江夏さんが書き留めています。

「外部のある人がこういった。「川口先生が……。へーえ、またどういう因縁があってでしょうかね」

と、それはまるで、川口先生と東海文学というこのちっぽけな同人雑誌とのあいだに、関連があってはならないものであるとも、あるいは逆に、なにか縁故関係の匂でもあるという風な口調なのである。私は、はじめ否定も肯定もしなかった。そのうちに、決然と眉をあげてこうこたえた。「先生とは個人的になんの関係もない。いえ、はじめはなかった。けれど先生が、こんなちっぽけな同人雑誌にまで、眼を通していて下さったことはたしかです」」(『東海文学』16号[昭和38年/10月] 江夏美子「記念会前後」より)

 「決然と眉をあげて」というあたりが、おそらく江夏さんの人となりの一端を、よく現わしているんでしょう(まあ、お会いしたことはないので、わかりませんけれど)。

 とにかく、同人誌の発行っていうのは、一冊一冊をつくり上げるのに、相当な苦労が必要です。そこまで苦労したって、江夏さんいわく、よほどの友人でないかぎり、感想や批評を返してくれる人など、まずいません。なのに、知り合いでもなければお金が発生するわけでもない相手の、同人誌に載っている作品に対して、こうしたほうがいい、これは駄目だ、とわざわざ手紙を送りつづけてくれる先輩作家の存在は、純粋に貴重なものだった、ということですね。

 「ろくに候補作も読んでこないくせに、テキトーな選考をして偉そうにしている大衆文壇の大家」という、まあ、直木賞選考委員というと、まじめな文学愛好者たちなら、つい抱いてしまいそうな印象がありますが、川口さんとのやりとりで、そういう思い込みはまったく覆された、といったようなことを江夏さんも書いています。「川口松太郎ってじつは謙虚だった」説を補強するエピソード、と言っていいかもしれません。はたからは、たとえば川口さんの選評を読んでもなかなかそうは思えない、というところが、また松太郎ブシのマジックといいますか、川口さんの魅力なんでしょう。

 それはともかく、『脱走記』が第50回の直木賞候補になったかげには、やはり川口松太郎さんの推薦の効果があったものと推測され、忙しいさなかでも同人誌の小説に目を通す、当時の選考委員の努力が、『東海文学』を直木賞の場にひっぱり込むきっかけになったことは、たしかです。

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2017年7月20日 (木)

第157回直木賞(平成29年/2017年上半期)決定の夜に

 今夜もいつもとかわらず、歓喜、失望、興奮の声が、全国各地で上がった……のでしょう、おそらく。

 ちょっともう、ワタクシは直木賞が好きすぎて、一般の状況がわからなくなっていますが、どんな盛り上がり具合でしょうか。手堅いといえばこれほど手堅い授賞はなく、非常に落ち着きのある直木賞となって、個人的には、今晩はおだやかな気分で眠れそうです。おだやかなのがいちばんです。

 と、完全に爺いモードに入るまえに、今回もまた、受賞しなかった4作が、目のまえにあります。決まったあとに、わざわざ受賞しなかったものなど目を向ける気がしない、という人も、いるかもしれませんけど、候補作の歴史こそが、直木賞の歴史。そのリストに名を刻んでくれた、この勇敢な(?)4作品を讃えて、ぜひ後世にまで語り継いでいきたい、という気持ちでいっぱうです。

 いったい宮内悠介さんの、今作のはじけ飛びぶりには、ハラハラドキドキさせられました。あるいは、直木賞のほうが一皮むける絶好のチャンスだったかもしれません。しかし、ああ、宮内さんどこまで飛翔してしまうんだあ……と、直木賞はぽかんと口をあけて、その背中を見送ることしかできず、いよいよ取り残されてしまいそうですけど、あと何度でもこの賞の相手をしてくれそうな、宮内さんの間口の広さに甘えさせてもらって、また次もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 この先が楽しみな作家ばかりだ、ということは言わずもがななんですが、佐藤巖太郎さんが、これからどう活躍の姿を見せてくれるのか。『会津執権の栄誉』を読んで、俄然、楽しみになりました。とりあえず最初の候補で、歴史モノに賞をあげることのできない直木賞のクセは、もはや治りそうもないほどの重症です。すみません。ってワタクシが謝っても仕方ないんですけど、こういう、直木賞のイヤなクセを帳消しにするぐらい、巖太郎さんが活躍してくださることを期待するしかありません。どうぞ、直木賞を助けてやってください。

 直木賞はいまキテる勢いのある作家にとってほしい……というのは、某選考委員の口グセですが、「いまキテる勢いのある作家」にあげそこねるのも、また直木賞の伝統です。そんなもの伝統にするなよ、ってツッコみたくなるのを抑えて、木下昌輝さんの候補作、今回は(も)とってもおかしくないんだけどなあ、と嘆きたくなるのも抑えつつ、さすがにそろそろ直木賞騒ぎもイヤになりはじめているかもしれませんが、やはり木下さんにとってもらいたい直木賞。ここは耐え忍んで、いつか木下さんが受賞する日を待ちたいと思います。

 柚木麻子さん。「直木賞っぽい路線」なんてクソくらえ的な、我が道を行くその剛腕ぶりに、もう感服しました。お見事です。降参です。確実に直木賞史に残る作品を書いていただき、これは少なくともワタクシ個人的には、賞の当落よりも重要なことなものですから、ありがとうございました、と御礼を述べる他ありません。直木賞っぽい路線、クソくらえ、です。

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2017年7月16日 (日)

第157回直木賞、受賞が話題になる可能性を予想する。

 毎年7月のこの季節、直木賞に関するハナシのなかで、大量に使われる単語があります。「話題」ってやつです。

 話題の受賞作、話題の作家。話題づくりのためにやっている賞、昔に比べて話題にならない。ほら話題だ、また話題だ、話題、話題。……おそらくこの季節は全国各地で、話題ノイローゼになってしまう直木賞ファンが数多く発生し、堪えきれずに目をおおったり、耳をふさぎたくなったりする症状に悩まされる人は多い、とはよく聞くところです。

 今回の第157回(平成29年/2017年・上半期)は7月19日に選考会がひらかれます。いまのところは、一般的な盛り上がりに欠けていて、このままほとんど話題になりそうもない、などと言われていますが、たしかにパッと見、この候補者・候補作のラインナップですと、受賞の(落選の)結果で盛り上がれるのは、よほどの変わり者(あるいは少数派のグループ)ぐらいで、あまり広がりは期待できそうにない気がします。

 まあ、よほどの変わり者のひとりとして言わせてもらうなら、それならそういう直木賞でいいわけですけど、しかしやはり、直木賞に「話題」は付きものだ、というのは間違いありません。

 せっかくなので、今回どの作品が受賞すれば話題が期待できそうか(逆に、期待できなそうか)予想してみたいと思います。

 

予想:100

■柚木麻子『BUTTER』(平成29年/2017年4月・新潮社刊)

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 文芸分野とは離れたところでの、いわゆる一般的な話題性で突出している候補作は、『BUTTER』をおいて他にない。というのは、衆目の一致するところだと思います。

 モデル小説というだけでもかなりの高得点が稼げるうえに、じっさいのモデルから公然とケチをつけられ、「不法行為本」だと非難されている最中でもあります。その木嶋佳苗さんは、19日の選考結果を待つ、とブログに書いているくらいですから、これが受賞したら増刷もされるし、いまとは比較にならないくらい、この小説に興味をもつ人が増えるはずで、さすがに「おめでとう」と温かく祝福するとは思えず、より踏み込んだ手を打ってくるのかどうなのか、少なくとも読み物小説誌や新聞に紹介されるぐらいで騒ぎが収束するとは、とうてい考えられません。

 そんなことをしてまで本を売りたいか直木賞……、と眉をひそめる人たちが沸いて出てくる一方で、それでも本を買う人たちの購買行為を止めることはできませんから、直木賞史上でもまれに見る大騒動に発展する可能性を秘めている。ということで、100点満点の話題性予想です。

 あ、もうひとつ100点にした理由を挙げるとすると、受賞記者会見の、柚木さんの衣裳や振る舞いがまた、注目どころだからです。これが4度目の候補、欲しいはずの直木賞がなかなかめぐってこなかったなかで、ようやく受賞したときに、どんなふうに弾け飛ぶのか。田中慎弥さんぐらいのインパクトある発言、言動は、少なくとも期待できると思います。

 

予想:50

■宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』(平成29年/2017年4月・KADOKAWA刊)

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 なにせ今回は、話題性への期待が一作だけ突出しています。他は横並び、かもしれませんが、とりあえず「受賞したあとの解説記事の多彩さ」が期待できる、という面で『あとは野となれ~』を二番目においてみました。

 まずは何といっても、SFと直木賞のあいだに、これまで交わされてきた血なまぐさい(?)歴史があります。宮内さんが受賞したら、やっぱりこの交差・交戦のあれこれについて、解説記事が書かれるでしょうし、ワタクシも読みたいです(昔の現場の証言などと合わせて書いてくれそうな人材も、きっと豊富です)。

 あるいは、直木賞と芥川賞の、両賞の差や違い。なんていうのも、かなり歴史の深いテーマですが、おそらくここら辺の切り口から触れてくれるライターや文芸記者はたくさんいるでしょう。

 それと似たテーマですが、吉川新人賞→三島賞→直木賞、とこの三賞をたった数か月でわたり歩いて受賞したことをもとに、現代のエンタメと純文芸、みたいな視点にスポットが当たることも、容易に想像できます。これはこれで、語りたい人も多いでしょうし、面白い記事になるだろうと、期待感でソワソワしてしまいます。

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2017年7月 9日 (日)

『北方文芸』…同人誌とも商業誌ともちがう茨の道を歩んだ志、あるいは執心。

『北方文芸』

●刊行期間:昭和43年/1968年1月~平成9年/1997年3月(29年)

●直木賞との主な関わり

  • 澤田誠一(候補1回 第60回:昭和43年/1968年下半期)
  • 木野工(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第66回:昭和46年/1971年下半期)
    ※ただし第47回は別の雑誌に発表した作品

 いったい「同人誌」って、どういう雑誌のことを指すんでしょうか。人によって定義は違うみたいです。

 「大衆文芸」にしろ「純文芸」にしろ、いや「ミステリー」「ホラー」「SF」をはじめ、その他多くの、直木賞まわりの用語は、けっきょく、どこに境目があるのかはっきり示せない類いの概念ばかりで、そういうなかで80何年もやっていれば、そりゃ、どこかムチャクチャな賞になるよなあ、と納得できないこともありません。

 いまや、主催者・日本文学振興会のサイト上での直木賞の説明が、「大衆文芸」ではなく「エンターテインメント作品」となり、また「単行本(長編小説もしくは短編集)のなかから」選ばれる、と変更されたことを見ても、まあ、定義のしづらい文学賞です。

 それで、同人誌のことですが、うちのブログは「同人誌のことを取り上げる」というより、「直木賞のなかでの同人誌を取り上げる」ことしかできません。直木賞が一時期まで担っていた、東京の文芸出版にとって新しい作家を見出して紹介する、という役割を考えたとき、ここでいう同人誌の性質も、おのずといくつかの条件に絞られていきます。

 取次を介した全国的な流通に載っていない。ということに加えて、日本文学振興会(あるいは『文學界』同人雑誌評コーナー)に定期的に寄贈を続けている。そういう雑誌です。

 前置きが長くなりました。今週の『北方文芸』は、札幌を中心とした書店で売られ、また原稿が載ればギャラもいくばくか支払われたと言い、同人以外の寄稿はお断りということもなく、要するに「地方(文芸)誌」のひとつなんですが、しかし商業誌とも言い切れないところが、大きな特徴のひとつだったようです。

「いわゆる同人雑誌とは一味違い、投稿や原稿依頼、地元同人雑誌からの再録など“開かれた同人雑誌”的性格を持っている。毎月の発行に必要な六十万円の経費は広告と販売収入、維持会員の会費などでまかない、「商業雑誌並みにはいかないが、安い原稿料と事務局のお嬢さんたちの犠牲で何とかやっている」という。」(『朝日新聞』昭和51年/1976年5月31日「百号を迎えた「北方文芸」」より)

 カネはない。しかし志はある。……というところで、約50年まえの昭和43年/1968年、小笠原克さんやその仲間たちが集まって、雑誌づくりの機運が盛り上がり、「たまには損する商売もやってみよう!!」(『北方文芸』昭和44年/1969年4月号「“汗顔”の辞」)とその刊行を引き受けたなにわ書房店主の浪花剛さんの英断で創刊されたそうですが、1年4か月、月刊で16冊出すまでのあいだに、赤字ばかりがどんどん膨れ上がり、志はあってもカネがない、という状況に陥って休刊を発表。

 すると、終わるとなったら、惜しむ声が沸き出してきて急に注目されはじめる、例の展開が待ち受けていたのは、『北方文芸』創設グループメンバーの、日頃からの人徳のたまものでしょう、即座に再建に向けていろいろと声もあがり、ほぼ1か月分のブランクを経て、巻号を継続して〈第二次〉『北方文芸』は再出発を切ることになります。

 その後は着々と、脈々と刊行をつづけ、カネがない、赤字つづきだ、とえんえんと言い続けながら30年弱。この夏には、北海道立文学館で特別展「「北方文芸」と道内文学同人誌の光芒」(会期:平成29年/2017年7月1日~8月27日)が開かれるほどに、地域でも(あるいは全国的にも)温かく愛される存在となりまして、平成9年/1997年に幕を閉じるまで、月刊の体制を維持しました。

 その紆余曲折のなかでも、この雑誌に載った作品を、早い段階で候補に選んだ文学賞が、直木賞です。芥川賞ではありません。

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2017年7月 2日 (日)

『航路』…創刊17年目でまさかの直木賞候補を送り出した大阪同人誌の雄。

『航路』

●刊行期間:昭和35年/1960年8月~平成5年/1993年12月?(33年)~

●直木賞との主な関わり

  • 松代達生(候補1回 第77回:昭和52年/1977年上半期)

 『文芸首都』という、聞いただけで震え上がりそうな、同人誌史に燦然と輝くメジャーな雑誌があります。

 まあだいたい、通俗的なものは傲然と拒絶される(かのような)融通のきかない雑誌でもあったらしく、直木賞なんて中途半端な存在は、あまりにその剣幕が怖くて近寄れもしなかった、……という感じの歴史なんですけど、なにしろ『文芸首都』は大所帯でもあり、ここで生まれる同人たちの交流も多種多彩なものがあって、そのなかから、さまざまな別の同人誌の誕生が促されます。

 『文芸首都』大阪支部で、世話人のような立場にあった兼重一さんや、大阪近辺に住む同人たちによって、毎月例会が開かれ、そのなかで創刊されることになったのが『航路』です。

 『航路』といえば、それはもう、創刊3年でひとりの芥川賞受賞者、田辺聖子さんを生み出して大賑わい、しかしそれでも解散することなく、橋本哲二さんや里見裕子さん、上田美穂さん、石上喜一さんなどの有力な書き手を擁し、30年以上刊行されつづけました。相当立派な同人誌です。

 田辺さんによれば、仲間内での批評のし合いは面白く、刺激的だったと言いますが、原稿書け書けという編集担当者からの声は、かなり厳しいものがあったそうです。

「私は(引用者注:『文芸首都』の)ほかに二つの同人雑誌に入っている。「大阪文学」と「航路」である。そのどちらも期日と編集者が峻厳だったおかげで、ほとんど私は恐喝されながらしぶるペンをみずから叱咤してやっと掲載し得たのだった。」(『文芸首都』昭和39年/1964年4月号 田辺聖子「芥川賞前後」より)

 それで第7号にようやく掲載されることになった「感傷旅行」は、同人のあいだでの評判はそれほどよくなく、けっこう自信のあった田辺さんとしては、ちょっと残念に思っていたところ、突然のようにアレがやってきて、しかも候補入りで終わりかと思っていたら、受賞までしちゃったものですから、本人もまわりもびっくりの大混乱。

 ほーら言ったじゃないの、あんたたち文学オンチの節穴には、私の作品の素晴らしさなんて、わかるわけないのよ、オーッホホホ、もういっしょになんてやってられないわ、と田辺さんが、そういうイヤな性格の持ち主ではなかったことから、『航路』の歴史はそこで途切れず、田辺さんも長く同人に名を連ねたまま、号数を積み重ねていきます。

 全国で何百と出て、新陳代謝の激しい同人誌界のなかで、直木賞や芥川賞の候補に挙がるのは、ひんぱんに起こることでもありません。このまま『航路』も、営々とそれぞれ同人の試みをつづけていって、最終的に「田辺聖子を生み出した雑誌」としてのみ記憶されることになるのか、という雰囲気が漂うなか、いや、そんな雰囲気は漂ってはいなかったでしょうけど、驚きの展開が待っていました。

 創刊から同人のひとりとして参加してきた松代達生さんが、もうほとんど同人誌の作品を候補に残すこともなくなっていた第77回(昭和52年/1977年・上半期)直木賞で、候補に選ばれてしまいます。

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2017年6月25日 (日)

『文学草紙』…気合をこめて書かれた長ーい作品を、放っておけなかった直木賞。

『文学草紙』

●刊行期間:昭和14年/1939年7月~平成20年/2008年9月?(69年)~

●直木賞との主な関わり

  • 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※ただし第33回は別の同人誌に発表した作品

 『文学草紙』といえば鎌原正巳、鎌原正巳といえば『文学草紙』……というのが、やはり最初に頭に浮かびます。戦前からコツコツとモノを書きつづけて戦後には芥川賞候補にも二度挙がりながら、その候補作のひとつ「土左日記」が、『芥川賞・直木賞150回全記録』(平成26年/2014年3月・文藝春秋刊)でもいまだに「土佐日記」と誤植って紹介されてしまっているという、哀しき鎌原さんのホームグラウンドが、『文学草紙』です。

(まあ、うちのサイトもずっと「土佐日記」と間違っていた表記していたので、ヒト様のことは言えません)

 同人誌のひとつの理想形、と言いましょうか、好ましい誌歴と言いましょうか。とにかく長い年月この看板を掲げつづけ、途中、自然と休刊に入り、他の同人誌と合体して出したりしたものの、まもなくソリが合わずに離反したりして、「伝統の同人誌」の地位を守りながら、同人たちの高齢化で徐々に「追悼号」ばかりを出す羽目になり、そして誰にも知られずひっそりと静かにその命を終える、まさしく同人誌の鑑のような雑誌です。

 当然、そういう空気のなかで起こるいざこざや仲たがい、なんてものはたくさんあったでしょう。現に有力同人でありながら途中で脱退した(そしてのちに復帰した)谷田達彌さんも、「純粋一途を目ざす同人雑誌の仲間のつきあいもなかなか理想的にはいかないようである。」(『新潮』昭和40年/1965年10月号「生きる」より)と書いていますが、その谷田さんによると、『文学草紙』の様子は、こんな感じだったそうです。

「いわば老舗の風格みたいなものがあって、(引用者中略)小説勉強の道場的空気は一寸見ると薄いように思われる。なにがなしトボケているような、また悠揚迫らぬといった雰囲気が漂っているのである。月例の同人会に出て顔を合せるだけでなんとなく小説を書いているような気がしてしまうから妙である。こういう同人誌に入っていると、ガツガツ毎月作品を書いて同人会で朗読するのがなんだか気がひけるような気さえするから妙である。そのかわり五年も六年も一篇も作品を提出しなくても、安心して同人仲間のつきあいができるという温かい友情的雰囲気がたっぷり漂ってもいるというわけだ。」(『新潮』昭和39年/1964年2月号 谷田達彌「忌憚ない批評の結末」より)

 ガツガツ派の谷田さんには、何か物足りない環境だったのかもしれません。

 古くからいる同人も、やはりその辺の意識は似通っていたらしく、50号記念の座談会で古谷綱武さんと富永次郎さんがこの雑誌の性格について語り合っています。

富永 それはやはり白刃の上を渡るような精神が欠けているんだよ、文学草紙には。

古谷 昔からあるね、それは。

富永 なんというか文壇に一つの旗風をなびかすということになり得ない弱点があるンだね。と同時に続くという点がある。

古谷 昔からそういう性格をもった同人雑誌だったということはあるね。

富永 とにかくいい悪いは別として、そういう性格でも無理しないでもいいんだ。」(『文学草紙』50号[昭和30年/1955年10月]「文学草紙の歩いて来た道―座談会―」より)

 出版界にすでに縁のある出版人、編集者、評論家、そして戦前に作家と認められていた人も含めて、「同人誌で勉強する・勉強し直す」というのは、敬服する姿勢ですけど、その分ガツガツ感が弱まってしまう、ということはたしかに想像できる展開でもあります。

 じゃあ何でそんなことを、飽きもせずダラダラ続けるのか。……という自分への問いは、おそらく同人誌をやる人にとっての基本的な「あるある」なんでしょう。外から見れば大半は無益に近いその営みを、しかし自分のなかで消化して、いや消化しきれないままで、えんえんとやりつづけることに、つい親近感が沸いてきてしまうゆえんです。

 さて、「これで文壇に出てやろう!」と意気込んでいたか、「文壇なんて関係ないさ」と達観していたか、そんなことは外から見ていても何もわかりゃしませんが、芥川賞ならともかくも、こういうところから直木賞が、なかば積極的に候補作を採ろうとしている姿が、やはり面白くて(……って毎週のように言っていますが、ほんとに面白いので、毎週のように言います)、芥川賞であれば心も浮き立つんでしょうが、ナ、ナ、直木賞ですからね、候補に選ばれた同人誌作家の方も、微妙に困惑したものと思います。

 当然、ほとんど直木賞とは縁もない『文学草紙』から、史上ただ一作、候補に選出されたのが、第57回(昭和42年/1967年・上半期)の鬼頭恭而さんによる「回向文」(ルビ:えこうぶみ)です。

 同じ回に並んだ候補は、たとえば、生島治郎さんの『追いつめる』、野坂昭如さんの「受胎旅行」、三好徹さんの『閃光の遺産』などなど……。いくら何でも、発表された背景も知名度も流通量も、何もかも違うこの場所に、アノ重厚といおうか、文学の外壁を文学で塗ったかのような小説が、どうして選び出されたのか。困惑の度合いは、「微妙」じゃなくて「かなり」のものがあります。

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